霧の中の建国秘話

 

この研究書は、但馬故事記や、先代旧事本紀を基として、古事記や、日本書 

紀の隠蔽手法のテクニックを解き明かし、本書の中で、古代天皇の実像や、 

古代貴族の実像を明らかにしている。これが、本当の古代天皇や古代貴族で 

ある。また、全国の大型古墳の真実の被葬者を推測して見る。又、古代朝鮮 

半島との繋がりを推測し、大和民族である天孫族(猿田族だ。)のルーツを、古朝鮮国の扶餘族と見る。最後に、「記紀」とは、学問の神様、天満宮の菅原道真の先祖(阿倍満月丸・楊侯史真身だ。)らの隠蔽工作と見る最終完成版である。 

 

 表紙 奈良(なら)神社(じんじゃ)(埼玉県熊谷市(くまがやし)) 

 

「古事記・日本書紀の謎を解く」 

古代天皇の実像 上 

 

目 次 

 

第1章 霧の中の建国秘話  

 

●「古(こ)事(じ)記(き)」や「日(に)本(ほん)書(しょ)紀(き)」や、「但(たじ)馬(ま)故(こ)事(じ)記(き)」の原形は、まぼろしの「神(かみ)代(よの)古(こ)記(き)」である。 

●天(てん)孫(そん)族(ぞく)(猿(さる)田(た)族(ぞく)だ。)の先祖とは、「失われた流浪のユダヤの10部族」である。又、古代中国の衛(えい)国(こく)の商人や、楚族(そぞく)(宗族(そうぞく)・熊族(ゆうぞく)だ。)や、「衛(えい)氏(し)朝(ちょう)鮮(せん)」の建国者らである。そして、新(しら)羅(ぎ)の発祥の斯(さ)蘆(ろ)国(こく)の1・2代国王(朴(ぱく)赫(ひょっ)居(こ)世(せ)・南(み)解(め)次(ちゃ)次(ちゃ)雄(うん)・高(こう)句(く)麗(り)の朱(ちゅ)蒙(もん)の盟友の1人、陜(ひょっ)父(ぽ)だ。)である。 

第2章 73代ウガヤ王の神武(じんむ)天皇(てんのう)と欠史8代の古代天皇の謎を解く 389 

●ウガヤフキアエズ王朝(おうちょう)とは、秦(はた)氏(し)一族(いちぞく)(天孫族(てんそんぞく)・猿(さる)田(た)族(ぞく)・海(あま)部(べ)族(ぞく)・宗(むな)像(かた)海(かい)人(じん)族(ぞく)・海(わた)神(つみの)大(おお)神(かみ)・物(もの)部族(のべぞく)だ。)の王朝である。 

●スサノオ尊は、ウガヤフキアエズ王朝(おうちょう)(天孫族(てんそんぞく)・猿(さる)田(た)族(ぞく)・宗(むな)像(かた)海(かい)人(じん)族(ぞく)・物(もの)部族(のべぞく)だ。)の、68代目の皇子(みこ)である。 

●天(あま)照(てらすの)大神(おおみかみ)は、邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の女王、2代目卑弥呼(ひみこ)である。また、ウガヤ王朝(おうちょう)の67代目の女性(じょせい) 

天皇(すめらみこと)である。 

●越(こし)の沼(ぬ)名川(なかわ)姫(ひめ)は、宗像(むなかたの)3女(さんじょ)神(しん)や、2代目卑弥呼(ひみこ)の娘で、後継者の宗女(そうじょ)の台(と)与(よ)姫(ひめ)である。 

●纏(まき)向(むく)の箸(はし)墓(はか)古墳(こふん)は、宗女(そうじょ)の台(と)与(よ)姫(ひめ)の墳墓である。 

●大国主(おおくにぬし)命(のみこと)は、ニニギ尊の実像である。 

●長(なが)脛(すね)彦(ひこ)命(のみこと)は、天(あまの)香山(かごやま)命(のみこと)である。また、彦五(ひこいっ)瀬(せ)尊(のみこと)や、天(あまの)児(こ)屋(や)根(ね)命(のみこと)である。 

●三種(さんしゅ)神器(のじんぎ)とは、3(さん)大部族(だいぶぞく)(海(あま)部族(べぞく)・オロチ族(ぞく)・出雲(いずも)神族(しんぞく)だ。)の統合の証(あかし)である。 

●初代神武(じんむ)天皇(てんのう)とは、物部(もののべ)氏(し)の祖(そ)、宇(う)摩(ま)志(し)痲(ま)治(じ)尊(のみこと)や、忌(いん)部(べ)氏(し)の祖、天(あまの)太(ふと)玉(だま)命(のみこと)である。 

●天(あまの)村雲(むらくも)命(のみこと)が、2代綏(すい)靖(ぜい)天皇(てんのう)である。 

●天(あまの)忍(おし)人命(ひとのみこと)が、天(あめの)富(とみ)命(のみこと)や、佐(さ)努(ぬ)雷(いかづち)命(のみこと)の3代安(あん)寧(ねい)天(てん)皇(のう)である。 

●天(あまの)日(ひ)鉾(ぼこ)命(のみこと)とは、欠史(けつし)3代(4代懿(い)徳(とく)・5代孝(こう)昭(しょう)・6代孝安(こうあん)天皇だ。)の古代(こだい)天皇(てんのう)である。 

●天(あま)の羽衣(はごろも)伝説(でんせつ)とは、奥(おく)津(つ)世(よ)襲(その)命(みこと)の2人の娘と伊賀(いが)刀(と)美(みの)命(みこと)の7代孝(こう)霊(れい)天皇(てんのう)の結婚である。 

●10代崇(す)神(じん)天皇(てんのう)は、彦(ひこ)坐(います)王(のみこ)や、物部(もののべの)伊(い)香(か)色(しこ)男(おの)命(みこと)である。 

●11代垂(すい)仁(にん)天皇(てんのう)とは、神(かみ)大根(おおね)王(のみこ)や、八(や)坂(さか)入(いり)彦(ひこ)命(のみこと)や、当痲蹴速(たいまのけはや)である。 

 

引用文献 750 

掲載写真 

●①奈良(なら)神社(じんじゃ)(埼玉県熊谷市)●②天(てん)神(じん)山(やま)古(こ)墳(ふん)(群馬県太田市)●③多賀(たが)大社(たいしゃ)(滋賀県彦根市)●④吉野(よしの)ガ里(がり)遺跡(いせき)(佐賀県佐賀市)●⑤内裏(ないり)塚(つか)古墳(こふん)(千葉県君津市)●⑥女体山(にょたいさん)古墳(こふん)(群馬県太田市)●⑦宗像(むなかた)大社(たいしゃ)(福岡県宗像市)●⑧椿(つば)井(い)大塚山(おおつかやま)古墳(こふん)(京都府木津川市)●⑨桜(さくら)井(い)茶(ちゃ)臼(うす)山(やま)古(こ)墳(ふん)(奈良県桜井市)●⑩西殿塚(にしどのつか)古墳(こふん)(奈良県天理市)●⑪メスリ山(やま)古墳(こふん)(奈良県桜井市)●⑫西(にし)山(やま)古(こ)墳(ふん)(奈良県天理市) 

 

第1章霧の中の建国秘話 


百数十年の歳月を要して故意に隠蔽が行われている古代天皇家の歴史について、詳細に解きほぐすべく努力を重ねてきたのだ。また、『天(あまの)磐(いわ)戸隠(とかく)れの伝説』の中の登場人物の実像や、古代天皇の人物像や、古代貴族の成り立ちについては、複数の別名称の人物としてしまうという、『記(き)紀(き)』のトリックを敢えて同一人物であると断定することを目指したのだ。また、誰もが今だに完全に復元し得ない我が国の古代天皇と、中央貴族の実像の解明に挑み、歴代の古代天皇や、中央貴族の謎を完全に復元すべく試みたのだ。これこそが本書の特色とユニーク性で、また、『記紀(きき)』の隠蔽手段がよく理解されれば、自ずと納得されるはずなのだ。そのために、20年以上の歳月をかけて、やっと数世紀にも及ぶ、古代天皇と中央貴族の実像を見つけだしたのだ。また、文中(〇〇だ。)として複数の別人物を同一人物とも断定しているが、こうすることによってこそ『記(き)紀(き)』の文面も理解され、推測でしかない古代天皇の実像に迫ることが出来るのだ。また、封印される古代天皇の実像を探求される方々の道しるべともなることを、大いに期待するところである。そこで、21世紀の世ともなったのに、依然として、闇の彼方から、一歩も前進しない歴史こそ我が国の3・4世紀の空白の歴史なのだ。また、この故意に封印されている古墳時代の悠(ゆう)久(きゅう)の歴史に対し、本書において一応の決着を試みたつもりだ。ところで、津田左右吉氏以来の実証主義的・合理的解釈に基ずく、古代天皇論について、更に具体的に解明すべく、『記(き)紀(き)』以外の文献を凌駕(りょうが)して、歴代の古代天皇を、各古代氏族の系譜によって構造的・系統的に比較する手法を試みたのだが、従来の断片的な解釈では、同一人物が幾人もの別人として扱われるために、古代天皇の実像とは、なかなか浮かび上がってこないのだ。つまり各古代氏族の系譜とは、その娘むこや嫁たちがその子として含まれているからなのだ。また、その養子ともなっているからだ。また、厄介なのは同一人物がその兄や、弟になったり複数の実兄弟が異母兄弟へ変身しているからなのだ。つまりこの手法によって、故意に隠蔽を図っているからなのだが、また、各古代氏族の系譜とは、その子孫が次から次えと繋がらない人物もいるが、しかしながら、その子孫へ次から次へと繋がる人物こそが、実際は実在の人物なのだ。つまりその兄弟たちのうちで子孫へ繋がる人物のみが、実在の人物なのだ。それ以外の兄弟は、すべての人物が分身の別名称にすぎないのだ。また、確かに有力な人物は、多くの子をもうけているのだが、その多くの子たちは、大人になる途中で没しているからなのだ。また、子孫のない人物たちの名称などは、すでに『記(き)紀(き)』から消えているからなのだ。しかしながら、古代氏族の系譜としては、これらの人物たちが、さも実在したかのようにみせかけているのだ。また、そのための隠蔽工作が随所に画策されているのだ。そこで、真実を見破る手段としては、たった一つのヒントが残される。それは『先(せん)代(だい)旧(く)事(じ)本(ほん)紀(き)』の巻第5の『天(あまつ)孫(みまきの)本(もとつふ)紀(み)』に記す物(もの)部(のべ)氏(し)の氏(うじの)上(かみ)とも見られる人物たちが、物(もの)部(のべ)氏(し)以外の各古代氏族の系譜にも、必ず別人物として存在する、という事実なのだ。これらの人物を重ね合わせ(〇〇だ。)て見てみれば、古代天皇家の実際の人物像が、やっと浮かび上がってくる、ということなのだ。そこで、結論としては、各古代氏族である『秦(はた)氏(し)』や『海(あま)部(べ)氏(し)』や、『物部(もののべ)氏(し)』や、『中(なか)臣(とみ)氏(し)(ト(と)部(べ)氏(し)だ。)』や、『忌(いん)部(べ)氏(し)』や、『大(おお)三(み)輪(わ)氏(し)』や、『津(つ)守(もり)氏(し)』や、『斎部(さいべ)氏(し)』たち、すべての古代氏族は、実際は、皇室の先祖とも同一氏族なのだ。そしてまた、すべての古代氏族とは『物(もの)部(のべ)氏(し)』から出ているのだ。また、『古(こ)事(じ)記(き)』や、『日(に)本(ほん)書(しょ)紀(き)』や、『続(しょく)日(に)本(ほん)紀(ぎ)』や、『但(たじ)馬(ま)故(こ)事(じ)記(き)』や、『新(しん)撰(せん)姓(しょう)氏(じ)録(ろく)』や、『日(に)本(ほん)後(こう)紀(き)』や、『続(ぞく)日(に)本(ほん)後(こう)紀(き)』などの作者たちが封印する内容こそが、本書の中見である、ということなのだ。 

さてそれでは、東国の開拓者という豊(とよ)城(き)入(いり)彦(ひこの)命(みこと)とは、12代景(けい)行(こう)天皇(てんのう)の実像なのだが、また、『毛(け)野(のの)君(きみ)の始祖(しそ)』という豊(とよ)城(き)入(いり)彦(ひこの)命(みこと)とは、10代崇(す)神(じん)天(てん)皇(のう)の皇子なのだが、当然ながら、『記(き)紀(き)』によって故意に隠蔽される古代天皇の謎を解かない限りは、毛(け)野(のの)君(きみ)の先祖の実像などは解明されるものではないのだ。そこで10代崇(す)神(じん)天皇(てんのう)の皇子(みこ)という豊(とよ)城(き)入(いり)彦(ひこの)命(みこと)こそが12代景(けい)行(こう)天皇(てんのう)であることが明らかになれば、自ずと東国の古代史、しいては、大和王権の全貌までもが自然と解明され、古代天皇の謎が浮かび上がってくるものとも予測したのだ。また、本書でいう古代天皇の実像とは、我が国の古代の各氏族の部族長の同一系譜なのだ。また『先(せん)代(だい)旧(く)事(じ)本(ほん)紀(き)』の巻第5の『天(あまつ)孫(みまきの)本(もとつふ)紀(み)』でいう『物(もの)部(のべ)氏(し)の系譜』の中の、『氏(うじの)上(かみ)(部族長)』にも該当する人物こそが、古代天皇なのだ。つまり各古代氏族の部族長を、いくつもの系譜(けいふ)にくふうして別人物に変身させて記録しているだけなのだ。そこで、この隠蔽手法とは、『記(き)紀(き)』の作者による巧妙なテクニックなのだ。つまり『一字違いの別人としての目くらまし』や、『自分自身の分身を抹殺する』という、物凄いテクニックを巧みに使い分けて『真実の古代天皇の系譜』の隠蔽を図っている、ということなのだ。また、東国(とうごく)開拓(かいたく)の始祖(しそ)である豊(とよ)城(き)入(いり)彦(ひこの)命(みこと)こそが東(とう)奔(ほん)西(せい)走(そう)して大活躍された12代景(けい)行(こう)天皇(てんのう)なのだ。また、この人物とは、『物(もの)部(のべ)氏(し)の系譜』で見れば、氏(うじの)上(かみ)の1人である。なぜならば、『先(せん)代(だい)旧(く)事(じ)本(ほん)紀(き)』の巻第5の『天(あまつ)孫(みまきの)本(もとつふ)紀(み)』で見れば、『物(もの)部(のべの)大(おお)新(にい)河(かわの)命(みこと)公(ぎみ) 纏(まき)向(むく)珠(たま)城(きの)宮(みや)に御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみかど)(11代垂(すい)仁(にん)天(てん)皇(のう)だ。)の御世(みよ)に元(はじめ)て大臣(おおまえつぎみ)と為(な)る。次(つぎ)に物部連(もののべのむらじの)公(きみ)の姓(かばね)を賜(たまわ)る。則(すなわち)、改(あらた)めて大連(おおむらじ)と為(なり)て神宮(かみつみや)に齋(いつき)奉(まつ)る。』とも伝えるからだ。また、この人物の実父だが、『物(もの)部(のべの)伊(い)香(か)色(しき)雄(おの)命(みこと)公(ぎみ) 春日(かすがの)宮(みや)に、御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみかど)の御世(みよ)以(もっ)て大(おお)臣(まえつぎみ)と為(な)る。磯(し)城(き)瑞(みず)籬(がきの)宮(みや)に御(あめのした)宇(しらす)天(すめら)皇(みかど)(10代崇(す)神(じん)天皇(てんのう)だ。)の御世(みよ)に、大臣(おおまえつぎみ)に詔(みことのり)して、神物(かみにぎて)を班(あかた)為(し)め、天(あまつ)社(やしろ)國(くにつ)社(やしろ)を定(さだ)め物部(もののべの)八十手(やそで)の作所(つくれる)神(かみ)祭(まつり)の物(もの)を以(もっ)て八(や)十(そ)萬(よろずの)群(もろ)神(がみ)を祭(まつ)る。時(とき)に、布(ふ)都(つの)大(おお)神(がみの)社(やしろ)を大(や)倭(まとの)國(くに)山(やま)邊(べの)郡(こおり)石上邑(いそのかみむら)に遷(うつし)建(たて)る。則(すなわ)ち天祖饒速(あまつみおやにぎはや)日(ひの)尊(みこと)に授(さず)けたまい、天(あめ)より受來(うけこ)し天璽(あまのしるし)瑞(みつの)寶(たから)(三(さん)種(しゅの)神(じん)器(ぎ)だ。)も同(おなじ)く共(とも)に藏齋(おさめいわい)て石上(いそのかみの)大神(おおかみ)と曰(もう)す。以(もっ)て國(あめの)家(した)の為(ため)に、亦(また)氏神(うじがみ)と為(な)し、崇(あがめ)祠(まつり)て、鎭(しずめ)祭(まつり)と為(な)す。則(すなわ)ち皇后(きさき)の弟(いろと)大神(おおみわの)臣(まえつきみ)神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。』とも伝えるから、この物部(もののべの)伊香(いか)色男(しきお)命(のみこと)こそが10代崇(す)神(じん)天皇(てんのう)の実像なのだ。また、物(もの)部(のべの)伊(い)香(か)色(しき)男(お)命(のみこと)とは、その神(かみつ)宮(みや)(磯(し)城(きの)瑞(みず)籬(がきの)宮(みや)の10代崇(す)神(じん)天皇(てんのう)の宮だ。)に、物(もの)部(のべ)の石(いその)上(かみの)大(おお)神(かみ)の臣(おみ)(大(おお)連(むらじ)だ。)として、齋(いわい)奉(まつ)られた人物なのだ。つまり大王(おおきみ)として、10代崇(す)神(じん)天皇(てんのう)の分身ともなられた人物である、ということなのだ。 

さてそれでは、『物部(もののべの)十市(といち)根(ねの)命(みこと)公(ぎみ) 纏(まき)向(むくの)珠(たま)城(きの)宮(みや)(11代垂(すい)仁(にん)天皇(てんのう)だ。)に、御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみかど)の御世(みよ)に、物(ものの)部(べの)連(むらじの)公(きみ)の姓(かばね)を賜(たま)ふ。元(はじめ)て五(いつとりの)大夫(まえつぎみ)の一(ひとり)と為(な)る。次(つぎ)は大連(おおむらじ)と為(なり)て神宮(かみつみや)に齋(いつき)奉(まつ)る。(途(と)中(ちゅう)略(りゃく))』という。また『然(しか)るに遂(つい)に、大中(おおなかつ)姫(ひめの)命(みこと)、物部(もののべの)十市(といち)根(ねの)大連(おおむらじ)に授(さづ)けて石(いその)上(かみの)神(かみつ)寳(たから)を治(おさめ)令(し)む。』とも伝えているから、これも物(もの)部(のべの)十(と)市(いち)根(ねの)大(おお)連(むらじ)こそが、11代垂(すい)仁(にん)天皇(てんのう)である、ということなのだ。そしてまた、『物部(もののべの)武(たけ)諸隅(もろずみの)命(みこと)公(ぎみ) 磯(し)城(きの)水(みず)籬(がきの)宮(みや)(10代崇(す)神(じん)天皇(てんのう)だ。)に、御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみかど)即位60年、群臣(まえつぎみ)に詔(みことのり)て曰(のたま)はく、「武(たけ)日照(ひなどりの)命(みこと)天(あめ)より従(したが)いて將來(もちきた)る神寳(かみたから)は出雲(いずもの)大神宮(おおかみのみや)に藏(おさ)む。是(これ)を見欲(みまほっ)し」とのたまふ。則(すなわ)ち矢(や)田(た)部(べの)造(みやつこ)の遠祖(とおそ)武(たけ)諸隅(もろずみの)命(みこと)を遣(つかわ)して分(あか)明(らかに)儉(かんがえん)定(さだめ)使(し)め獻(かえりみ)奏(こと)復命(たてまつ)る。時(とき)に乃(すなわ)ち大連(おおむらじ)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。』とも伝えているから、この物部(もののべの)武(たけ)諸隅(もろずみの)命(みこと)こそが、10代崇(す)神(じん)天皇(てんのう)である物部(もののべの)伊香(いか)色男(しきお)命(のみこと)である、ということなのだ。 

さてそれでは、『物(ものの)部伊咋宿禰(べのいくひのすくね)公(ぎみ)(13代成(せい)務(む)天(てん)皇(のう)だ。) 十市(といち)根(ねの)大連(おおむらじ)(11代垂(すい)仁(にん)天皇(てんのう)だ。)の子(こ)なり。此(この)宿(すく)禰(ね)は志賀(しが)高穴(たかあな)穂宮(ほのみや)(13代成(せい)務(む)天皇(てんのう)だ。)に、御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみかど)の御世(みよ)に、元(はじめ)て大(おお)臣(まえつぎみ)と為(な)り神宮(かみのみや)に齋(いわい)奉(まつ)る。』とも伝えているから、この物(ものの)部伊咋宿禰(べのいくひのすくね)こそが13代成(せい)務(む)天皇(てんのう)の実像なのだ。また、11代垂(すい)仁(にん)天皇(てんのう)の実子なのだ。それでは、この物(ものの)部伊咋宿禰(べのいくひのすくね)(13代成(せい)務(む)天(てん)皇(のう)だ。)の次に、氏(うじの)上(かみ)(物(もの)部(のべ)氏(し)の部族長)ともなった人物としては、『物(ものの)部多遅(べのたじ)麻連(まのむらじ)公(ぎみ) 武(たけ)諸隅(もろずみの)大連(おおむらじ)(10代崇(す)神(じん)天皇(てんのう)だ。)の子(こ)なり。此連(このむらじの)公(きみ)は、纏(まき)向(むくの)日(ひ)代(しろの)宮(みや)(12代景(けい)行(こう)天皇(てんのう)だ。)の御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみこと)の御世(みよ)に、拜(めし)て大連(おおむらじ)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。』と伝えているから、また、『改めて』の意味としては、12代景(けい)行(こう)天(てん)皇(のう)として、後日(ごじつ)、即位(そくい)(重(ちょう)租(そ)だ。)された、ことを意味するから、この物(もの)部(のべの)多(た)遅(じ)麻(まの)連(むらじ)公(ぎみ)こそが物(もの)部(のべの)大(おお)新(にい)河(かわの)命(みこと)とも同一人物なのだ。また、『宇(う)佐(さ)家(け)の伝承』を見れば、12代景(けい)行(こう)天(てん)皇(のう)の次の天皇としては、16代応(おう)神(じん)天皇(てんのう)がいた、とも伝えるから、また、『改めて即位された。』という意味からしても、つまり古代天皇家の系譜としては、12代景(けい)行(こう)天皇(てんのう)~13代成(せい)務(む)天皇(てんのう)~12代景(けい)行(こう)天皇(てんのう)~16代応(おう)神(じん)天皇(てんのう)とも即位された、とも推測される、ということなのだ。 

そしてまた、10代崇(す)神(じん)天皇(てんのう)の長子という豊(とよ)城(き)入(いり)彦(ひこの)命(みこと)こそが古代天皇家の基盤を築かれた12代景(けい)行(こう)天皇(てんのう)なのだ。また、次子という八(や)坂(さか)入(いり)彦(ひこの)命(みこと)こそが11代垂(すい)仁(にん)天皇(てんのう)なのだ。ところで、天ヒボコ命の末裔という但(たじ)馬(ま)日(ひ)高(たかの)命(みこと)だが、この人物も、実際は12代景(けい)行(こう)天皇(てんのう)なのだ。また、10代崇(す)神(じん)天皇(てんのう)こそが天(あまの)清(きよ)彦(ひこの)命(みこと)や、彦(ひこ)坐(いますの)王(みこ)の物(もの)部(のべの)伊(い)香(か)色(し)男(お)命(のみこと)なのだ。そしてまた、『天ヒボコの系譜』や『彦(ひこ)坐(いますの)王(みこ)の系譜』や、『吉(き)備(び)津(つ)彦(ひこの)神(かみ)の系譜』などを重ね合わせて見れば、やっぱり彦(ひこ)坐(いますの)王(みこ)の子という大(おお)筒(つつ)木(きの)真(ま)若(わかの)王(みこ)や、但(たじ)馬(ま)日(ひ)高(たかの)命(みこと)や、出(いず)雲(も)の野(の)見(みの)宿(すく)禰(ね)や、初代武(たけ)内(のうちの)宿(すく)禰(ね)(初代船(ふな)穂(ほの)宿(すく)禰(ね)だ。)や、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)の始祖の大(おお)伊(い)乃(の)伎(ぎ)命(のみこと)たちこそが、実際は12代景(けい)行(こう)天皇(てんのう)なのだ。また、彦(ひこ)坐(いますの)王(みこ)の子という神(かむ)大根(おおねの)王(みこ)こそが11代垂(すい)仁(にん)天皇(てんのう)なのだ。また、丹(たん)波(ば)道(みち)主(ぬしの)命(みこと)(彦(ひこ)坐(いますの)王(みこ)の子だ。)なのだが、実際は、彼ら2人の異母兄なのだ。また、但(たじ)馬(ま)日(ひ)高(たかの)命(みこと)(12代景(けい)行(こう)天(てん)皇(のう)だ。)の妃の由(ゆ)良(ら)度(ど)美(み)の実像とは、『天ヒボコの系譜』で見れば、天(あまの)清(きよ)彦(ひこの)命(みこと)の娘とも伝えるが、これは但(たじ)馬(ま)日(ひ)高(たかの)命(みこと)(12代景(けい)行(こう)天皇(てんのう)だ。)の出自を隠すためなのだ。実際は嫁(よめ)の八(や)坂(さか)入(いり)姫(ひめ)(11代垂(すい)仁(にん)天(てん)皇(のう)の娘だ。)がその実像なのだ。また、但(たじ)馬(ま)日(ひ)高(たかの)命(みこと)は、大(おお)筒(つつ)木(きの)真(ま)若(わかの)王(みこ)や、豊(とよ)城(き)入(いり)彦(ひこの)命(みこと)や、出雲(いずも)の野(の)見(みの)宿(すく)禰(ね)や、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)の始祖の大(おお)伊(い)乃(の)伎(ぎ)命(のみこと)や、12代景(けい)行(こう)天皇(てんのう)なのだ。そこで、但(たじ)馬(ま)日(ひ)高(たかの)命(みこと)の子という息(おき)長(なが)宿(すく)禰(ねの)王(みこ)とは、実際はその娘むこなのだ。つまり『但(たじ)馬(ま)物(もの)部(のべ)氏(し)の系譜』で見れば、11代垂(すい)仁(にん)天皇(てんのう)の実子なのだ。また、その実像としては、物(ものの)部(べの)伊(い)咋(くいの)宿(すく)禰(ね)や、吉(き)備(び)兄(あに)彦(ひこ)命(のみこと)や、大(おお)中(なか)津(つ)彦(ひこ)命(のみこと)や、水(みず)先(さき)主(ぬし)命(のみこと)である13代成(せい)務(む)天皇(てんのう)である、ということなのだ。 

さてそれでは、大(おお)筒(つつ)木(きの)真(ま)若(わかの)王(みこ)や、豊(とよ)城(き)入(いり)彦(ひこの)命(みこと)の12代景(けい)行(こう)天皇(てんのう)の実娘としては、八(や)坂(さか)入(いり)姫(ひめ)の生んだ弟(おと)姫(ひめ)(弟(おと)橘(たちばな)姫(ひめ)・玉(たま)姫(ひめ)・葛(かつら)城(ぎの)高(たか)額(ぬが)姫(ひめ)・葛(かつら)城(ぎの)高(たか)材(ざい)姫(ひめ)だ。)がいたのだ。また、その実像は、後に、その異母兄の倭(やまと)武(たけるの)尊(みこと)の後(ご)妃(ひ)ともなった弟(おと)橘(たちばな)姫(ひめ)なのだ。また、『毛(け)野(のの)君(きみ)の系譜』で見れば、彦(ひこ)狭(さ)嶋(しの)命(みこと)こそが、物(もの)部(のべの)伊(い)咋(くいの)宿(すく)禰(ね)(13代成(せい)務(む)天皇(てんのう)だ。)なのだ。また、『彦(ひこ)坐(いますの)王(みこ)・息(おき)長(なが)氏(し)の系譜』で見れば、大(おお)筒(つつ)木(きの)真(ま)若(わかの)王(みこ)の子としては、加(か)爾(に)米(め)雷(いかづちの)王(みこ)がいたのだ。この人物こそが倭(やまと)武(たけるの)尊(みこと)なのだ。また『毛(け)野(のの)君(きみ)の系譜』で見れば、この加(か)爾(に)米(め)雷(いかづちの)王(みこ)(倭(やまと)武(たけるの)尊(みこと)だ。)こそが彦(ひこ)八(や)綱(つな)田(だの)王(みこ)なのだ。また、その実子とは、御(み)諸(もろ)別(わけの)王(みこ)(14代仲(ちゅう)哀(あい)天(てん)皇(のう)・中(なか)臣(とみの)雷(いかづちの)大(おお)臣(まえつぎみ)だ。)や、その異母弟の若(わか)建(たけの)王(みこ)(16代応(おう)神(じん)天皇(てんのう)・鴨(かも)別(わけ)命(のみこと)だ。)たち2人の人物がいたのだ。また、加(か)爾(に)米(め)雷(いかづちの)王(みこ)(実際は、倭(やまと)武(たける)尊(のみこと)・彦(ひこ)八(や)綱(つな)田(だの)王(みこ)だ。)の娘むことは、物(ものの)部(べの)伊(い)咋(くいの)宿(すく)禰(ね)である13代成(せい)務(む)天皇(てんのう)(実際は、息(おき)長(なが)宿(すく)禰(ねの)王(みこ)・浦(うら)凝(こり)別(わけ)命(のみこと)だ。)がいたのだ。また、『息(おき)長(なが)氏(し)の系譜』や、『尾(お)張(わり)氏(し)の系譜』などを重ね合わせて見れば、息(おき)長(なが)真(ま)若(わか)姫(ひめ)こそがその正妃(せいひ)なのだ。また、この息(おき)長(なが)真(ま)若(わか)姫(ひめ)とは、若(わか)建(たけの)王(みこ)(実際は、物(もの)部(のべの)印(いな)葉(ばの)大(おお)連(むらじ)・16代応(おう)神(じん)天皇(てんのう)だ。)の同母妹なのだ。また、倭(やまと)武(たけるの)尊(みこと)(彦(ひこ)八(や)綱(つな)田(だの)王(みこ)だ。)の実娘なのだ。 

さてそれでは、この物(ものの)部伊咋宿禰(べのいくひのすくね)の13代成(せい)務(む)天(てん)皇(のう)(息(おき)長(なが)宿(すく)禰(ねの)王(みこ)・浦(うら)凝(こり)別(わけ)命(のみこと)だ。)の実子としては、『尾(お)張(わり)氏(し)の系譜』や、『毛(け)野(のの)君(きみ)の系譜』や、『吉(き)備(び)首(しゅ)長(ちょう)の始祖伝承の系譜』などを重ね合わせて見れば、息(おき)長(なが)弟(おと)彦(ひこの)王(みこ)(実際は、荒(あら)田(た)別(わけの)王(みこ)・物(もの)部(のべの)大(おお)別(わけの)大(おお)連(むらじ)・御(み)友(とも)別(わけ)命(のみこと)・17代仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)だ。)や、金(かね)田(だ)屋(や)野(の)姫(ひめ)(実際は、息(おき)長(なが)帯(たらし)姫(ひめ)・15代神(じん)功(ぐう)皇(こう)后(ごう)だ。)たち2人の人物がいたのだ。また、この金(かね)田(だ)屋(や)野(の)姫(ひめ)(息(おき)長(なが)帯(たらし)姫(ひめ)・15代神(じん)功(ぐう)皇(こう)后(ごう)だ。)とは、御(み)諸(もろ)別(わけの)王(みこ)(実際は、14代仲(ちゅう)哀(あい)天(てん)皇(のう)・中(なか)臣(とみの)雷(いかづちの)大(おおまえつ)臣(きみ)・御(ご)諸(しょの)皇(み)子(こ)だ。)との2人の間に、そのもうけた子としては、①長女の高(たか)木(ぎの)入(いり)姫(ひめ)や、そのむこの②稲(いな)速(はや)別(わけ)命(のみこと)(実際は、若(わか)建(たけの)王(みこ)・物(もの)部(のべの)印(いな)葉(ばの)大(おお)連(むらじ)・16代応(おう)神(じん)天皇(てんのう)・鴨(かも)別(わけ)命(のみこと)と同一人物だ。)や、また、次女の③息(おき)長(なが)真(ま)若(わか)仲(なか)津(つ)姫(ひめ)や、そのむこの④仲(なか)彦(ひこ)命(のみこと)(若(わか)建(たけの)王(みこ)・物(もの)部(のべの)印(いな)葉(ばの)大(おお)連(むらじ)・16代応(おう)神(じん)天皇(てんのう)・鴨(かも)別(わけ)命(のみこと)と同一人物だ。)や、また、3女の⑤息(おき)長(なが)真(ま)若(わか)弟(おと)姫(ひめ)(宇(う)田(だ)姫(ひめ)・磐(いわ)之(の)姫(ひめ)だ。)や、そのむこの⑥息(おき)長(なが)弟(おと)彦(ひこ)命(のみこと)(荒(あら)田(た)別(わけの)王(みこ)・物(もの)部(のべの)大(おお)別(わけの)大(おお)連(むらじ)・17代仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)・大(おお)伴(ともの)武(たけ)日(ひ)命(のみこと)だ。)たちの、実際は5人の人物(娘むこ含む。)がいた、ということなのだ。 

つまり毛(け)野(のの)君(きみ)の伝承上の人物という豊(とよ)城(き)入(いり)彦(ひこの)命(みこと)の実像を見破ることこそが、古代天皇の謎や、その全容解明のための根幹に関わることなのだ。またその根拠としては、『先代(せんだい)旧事本(くじほん)紀(き)』の巻第5の、『天(あまつ)孫(みまきの)本(もとつふ)紀(み)」に記す『物(もの)部(のべ)氏(し)の氏(うじの)上(かみ)』とも推測される人物たちが、歴代の古代天皇であるのだ。つまり『各古代氏族の系譜』の徹底的な重ね合わせによってこそ、はじめて、古代天皇たちの実像を解くことが可能となる、ということなのだ。 

さてそれでは、『先代(せんだい)旧事本(くじほん)紀(き)』の冒頭の部分を見てみれば、聖徳太子(しょうとくたいし)が、小野(おのの)妹子(いもこ)を平岡宮(ひらおかのみや)へ、又、秦(はたの)河(かわ)勝(かつ)を泡(あわ)輪宮(わのみや)へ派遣して、ト(と)部(べ)(中臣(なかとみ)氏(し)だ。)や、忌部(いんべ)両家(りょうけ)(忌部(いんべ)氏も中臣(なかとみ)氏(し)だ。)の先祖(せんぞ)伝来(でんらい)の『神代(かみよの)古記(こき)』を取り出させ、編纂(全10巻本だ。)をしたという書物こそが『先代(せんだい)旧事本(くじほん)紀(き)』である、とも伝えるのだが、そこで、この小野(おのの)妹子(いもこ)の実像こそが久米(くめの)皇子(みこ)(神(こう)津(づ)主(ぬし)命(のみこと)だ。)なのだ。また、秦(はたの)河(かわ)勝(かつ)の実像こそが、蘇(そ)我(がの)馬(うま)子大臣(このおおおみ)なのだ。また、秦(はたの)河(かわ)勝(かつ)(蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)・百済(くだら)王(おう)の28代恵(へ)王(おう)・31代義(うぃ)慈(じゃ)王(おう)だ。)の長子としては、山(やま)背(しろの)大(おお)兄(えの)皇(み)子(こ)の実像である百(く)済(だら)王(おう)子(じ)の余(よ)豊(ほう)璋(しょう)がいたのだ。また、その実像とは、中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)(山(やま)基(き)主(ぬし)命(のみこと)だ。)なのだ。また大(おお)宅(やけ)臣(のおみ)鎌(かま)束(つかの)連(むらじ)や、蜂子(はちのこの)皇子(みこ)や、僧慧聡(えそう)や、蘇(そ)我(がの)赤(あか)兄(えの)大(おお)臣(おみ)たちも同一人物なのだ。また、聖徳太子(しょうとくたいし)の命によって、秦(はたの)川(かわ)勝(かつ)(久米皇子だ。)や小野(おのの)妹子(いもこ)(久米皇子・多(た)目(めの)皇(み)子(こ)・蘇(そ)我(がの)蝦(えみ)夷(しの)大(おお)臣(おみ)・阿(あ)倍(べの)倉(くら)梯(はし)麻(ま)呂(ろ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)徳(とこ)陀(だ)だ。)らを派遣して、ト(と)部(べ)(中臣(なかとみ)氏だ。)・忌(いん)部(べ)(忌部(いんべ)氏も中臣(なかとみ)氏(し)だ。)両家(りょうけ)の先祖(せんぞ)伝来(でんらい)の『神(かみ)代(よの)古(こ)記(き)』を取り出させて、それを基にして編纂したという『先(せん)代(だい)旧(く)事(じ)本(ほん)紀(き)』こそが、実際は『古(こ)事(じ)記(き)』や『日(に)本(ほん)書(しょ)紀(き)』や『但(たじ)馬(ま)故(こ)事(じ)記(き)』や、その延長線上の『続(しょく)日(に)本(ほん)紀(ぎ)』や『新(しん)撰(せん)姓(しょう)氏(じ)録(ろく)』や、『日(に)本(ほん)後(こう)紀(き)』や『続(ぞく)日(に)本(ほん)後(こう)紀(き)』などの編集の基ともなったものなのだ。そしてまた、①秦(はたの)河(かわ)勝(かつ)(蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)だ。)~②秦(はたの)川(かわ)勝(かつ)(実際は久米皇子・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)徳(とこ)陀(だ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)大(おお)海(み)だ。)~③秦(はたの)国(くに)勝(かつ)(実際は阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)・高(たか)梯(はしの)王(みこ)・小(お)野(のの)毛(えみ)人(し)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)利(とし)金(かね)・大(おお)中(なか)臣(とみの)金(こがねの)連(むらじ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)紫(し)壇(だん)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)黒(くろ)麻呂(まろ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)比(ひ)等(と)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)牟(む)ロ(ろ)・蘇(そ)我(がの)連(むらじ)子(この)大(おお)臣(おみ)だ。)~④多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)(実際は大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)・大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)白(はく)鳥(ちょう)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)邑(お)治(じ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)子(こ)邑(お)治(じ)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)務(む)壹(いち)石(せき)年(ねん)・蘇(そ)我(がの)日(ひゅ)向(うがの)臣(おみ)だ。)~④石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)高(たけ)市(ち)麿(まろ)・三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麻(ま)呂(ろ)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)博(はか)床(とこ)・蘇(そ)我(がの)石(いし)川(かわの)宮(みや)麻(ま)呂(ろ)だ。)や、また、⑤中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は大納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)池(いけ)守(もり)・大納言大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)毛(け)野(の)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)安(やす)麿(まろ)・紀(きの)直(あたい)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)名(な)代(しろ)・中納言巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)牛(うま)養(かい)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)多(た)益(ま)須(す)・中納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)三(み)宅(やけ)麻(ま)呂(ろ)・蘇(そ)我(がの)石(いし)川(かわの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)だ。)や、また、次に、⑥中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)(実際は大納言阿(あ)倍(べの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)・平(へ)群(ぐりの)子(こ)首(びと)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)狛(こま)麿(まろ)・大(おお)伴(ともの)道(みち)足(たり)・大(おお)伴(ともの)祖(お)父(じ)麻(ま)呂(ろ)・大納言巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)奈(な)弖(て)麻(ま)呂(ろ)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)縣(あがた)守(もり)・大(おお)野(のの)朝(あそ)臣(み)東(あずま)人(びと)だ。)という人物たちや、その子孫に続くという、太いパイプの流れがあってこそ、この隠蔽された謎の古代史が創作された、ということなのだ。また、藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)の子孫という藤(ふじ)原(わら)氏(し)や、42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)の皇(み)子(こ)や、孫たち以外の大(やま)和(と)王(おう)権(けん)の中央貴族のすべての人物たちは、この太いパイプの流れの中の人物なのだ。そしてまた、同一人物が、多数の別名称の人物ともなっている、ということなのだ。 

さてそれでは、その証拠としては、『新(しん)撰(せん)姓(しょう)氏(じ)録(ろく)』を見てみれば、『槻(つき)本(もとの)公(きみ)の系譜』だが、天(てん)武(む)朝(ちょう)のとき、『法(ほう)名(みょう)信(しん)正(じょう)入(にゅう)道(どう)(実際は久米皇子・田(た)目(めの)皇(み)子(こ)・秦(はたの)川(かわ)勝(かつ)・小(お)野(のの)妹(いも)子(こ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)徳(とこ)陀(だ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)大(おお)海(み)だ。)という人物が隠居した。』というが、また、『その子という石村(いわむら)(実際は阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)・高(たか)梯(はしの)王(みこ)・中(なか)臣(とみの)連(むらじ)国(くに)足(たり)・秦(はたの)国(くに)勝(かつ)・小(お)野(のの)毛(えみ)人(し)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)利(とし)金(かね)・大(おお)中(なか)臣(とみの)金(こがねの)連(むらじ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)紫(し)壇(だん)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)黒(くろ)麻呂(まろ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)比(ひ)等(と)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)牟(む)ロ(ろ)だ。)がいて事情があって、母方の槻(つき)本(もとの)公(きみ)を名乗って槻(つき)本(もとの)公(きみ)石村(いわむら)(高(たか)梯(はしの)王(みこ)・阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)だ。)ともなった。』ともいう。また、この『実母(実際は蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)の娘の比(ひ)里(り)古(この)郎(いら)女(つめ)だ。久米皇子の妃(きさき)だ。)とは、この槻(つき)本(もとの)公(きみ)転(くる)戸(べ)(実際は蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)・南(みなみ)淵(ふちの)長(ちょう)安(あん)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)胡孫(さる)だ。)の娘である。』というのだ。また『槻(つき)本(もとの)公(きみ)石村(いわむら)(実際は高(たか)梯(はしの)王(みこ)・阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)だ。)の実子としては、槻(つき)本(もとの)公(きみ)老(おゆ)がいた。』ともいうのだ。さてそれでは、実際は、この槻(つき)本(もとの)公(きみ)老(おゆ)や、息(おき)長(ながの)真(ま)人(ひと)老(おゆ)の実像は、中納言中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、大納言大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)毛(け)野(の)・紀(きの)直(あたい)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)名(な)代(しろ)・中納言巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)牛(うま)養(かい)・大(おお)伴(ともの)宿(すく)禰(ね)牛(うま)養(かい)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)多(た)益(ま)須(す)・蘇(そ)我(がの)石(いし)川(かわの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)だ。)なのだ。また、その実子としては、『初代槻(つき)本(もとの)公(きみ)奈弖(なて)麻呂(まろ)がいた。』というが、この人物の実像とは、その実子の右大臣中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(実際は、坂(さかの)上(うえの)忌(いみ)寸(き)大(おお)国(くに)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)美(み)岐(き)麿(まろ)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)馬(うま)養(かい)・中納言大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)興(おこ)志(し)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)国(くに)麿(まろ)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)島(しま)麿(まろ)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)真(ま)常(つね)だ。)である、ということなのだ。 

さてそれでは、その子(娘むこ含む。)としては、長女の大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)女(め)のむこの2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)である和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)(実際は、阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)船(ふな)守(もり)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)石(いわ)根(ね)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)田(た)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)伊(い)可(か)保(ほ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)秋(あき)主(ぬし)だ。)がいたのだ。また、この2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)である和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)とは、大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)忍(おし)人(ひと)や、大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)調(つき)足(たり)たちの実像である石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)(百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)だ。)の長女の大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)杜(もり)女(め)を、その先(せん)妻(さい)として娶っていた人物なのだ。つまり大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)杜(もり)女(め)だが、実際は姉ではなく大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)田麿(たまろ)である2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)(実際は、和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)だ。)の先(せん)妻(さい)なのだ。そしてまた、その後(ご)妻(さい)としては、大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)美(み)岐(き)麿(まろ)である右大臣中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(実際は、中納言大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・坂(さかの)上(うえの)忌(いみ)寸(き)大(おお)国(くに)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)興(おこ)志(し)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)馬(うま)養(かい)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)国(くに)麿(まろ)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)島(しま)麿(まろ)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)真(ま)常(つね)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)宅(やか)麿(まろ)だ。)の娘である大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)女(め)(賀(か)陽(やの)臣(おみ)小(こ)玉(だま)女(め)だ。)を娶っていた、ということなのだ。 

さてそれでは、この右大臣中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(実際は坂(さかの)上(うえの)忌(いみ)寸(き)大(おお)国(くに)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)馬(うま)養(かい)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)国(くに)麿(まろ)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)島(しま)麿(まろ)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)真(ま)常(つね)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)猿(さ)取(ぬし)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)男(お)足(たり)・佐(さ)伯(えきの)宿(すく)禰(ね)常(つね)人(ひと)・中納言大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・阿(あ)刀(との)造(みやつこ)大(おお)足(たり)だ。)である大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)美(み)岐(き)麿(まろ)が、その先(せん)妻(さい)の左大臣石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、紀(きの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)だ。)の娘との2人の間に、そのもうけた実子は、長男の坂(さかの)上(うえの)忌(いみ)寸(き)犬(いぬ)養(かい)(大(やま)和(との)宿(すく)禰(ね)長(なが)岡(おか)だ。)や、長女の大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)女(め)(実際は、賀(か)陽(やの)臣(おみ)小(こ)玉(だま)女(め)だ。)たち2人の人物がいた、ということなのだ。また、この妹の大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)女(め)(賀(か)陽(やの)臣(おみ)小(こ)玉(だま)女(め)だ。)こそが、2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)や、大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)田麿(たまろ)である和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)(実際は阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)だ。)の後(ご)妻(さい)ともなった、ということなのだ。 

さてそれでは、右大臣中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(中納言大(おお)伴(とも)家(やか)持(もち)だ。)である大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)美(み)岐(き)麿(まろ)(実際は坂(さかの)上(うえの)忌(いみ)寸(き)大(おお)国(くに)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)馬(うま)養(かい)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)国(くに)麿(まろ)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)島(しま)麿(まろ)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)真(ま)常(つね)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)男(お)足(たり)・阿(あ)刀(との)大(おお)足(たり)・佐(さ)伯(えきの)宿(すく)禰(ね)常(つね)人(ひと)・巨(こ)勢(せの)苗(なえ)麻(ま)呂(ろ)だ。)としては、その後(ご)妻(さい)としては、多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)(大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)・巨(こ)勢(せの)堺(さかい)麻(ま)呂(ろ)だ。)の娘である大(おお)伴(ともの)坂(さかの)上(うえの)大(おお)嬢(いらつめ)(多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)小(こ)姉(あね)だ。)がいてこの2人の間に、そのもうけた1人娘(仮称、若(わか)小(こ)玉(だま)女(め)だ。)こそが、この2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)や、大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)田麿(たまろ)である和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)(実際は、阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)船(ふな)守(もり)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)石(いわ)根(ね)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)伊(い)可(か)保(ほ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)秋(あき)主(ぬし)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)だ。)と、その先(せん)妻(さい)の大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)調(つき)足(たり)(実際は、百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)・石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)忍(おし)人(ひと)だ。)の長女である大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)杜(もり)女(め)(賀(か)陽(やの)臣(おみ)小(こ)玉(だま)女(め)だ。)との2人の間に、そのもうけた長男の①大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)(実際は菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)・大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)魚(うお)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)穎(ひで)人(ひと)・巨(こ)勢(せの)野(の)足(たり)だ。)の妻(つま)ともなった、ということなのだ。そしてまた、この人物の(義)弟(むこだ。)には、②中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)庭(にわ)(実際は、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)の継(つぎ)麻(ま)呂(ろ)・楊(や)候(この)史(ふひと)令(れい)珪(けい)・秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)の祖(そ)、秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)安(やす)人(ひと)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)達(たつ)男(お)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)竜(たつ)男(お)・坂(さかの)上(うえの)大(おお)宿(すく)禰(ね)苅(かり)田(た)麻(ま)呂(ろ)だ。)がいた、ということなのだ。 

さてそれでは、大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)調(つき)足(たり)である百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)(実際は、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)忍(おし)人(ひと)だ。)としては、その長女の①大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)杜(もり)女(め)や、そのむこの②百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)(実際は、大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)田麿(たまろ)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)・阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)船(ふな)守(もり)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)石(いわ)根(ね)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)伊(い)可(か)保(ほ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)秋(あき)主(ぬし)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)だ。)や、このほかには、長男の③百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)武(ぶ)鏡(きょう)や、その義弟の④百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)の利(り)善(ぜん)(実際は、次女のむこの大(おお)伴(ともの)弟(おと)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)弟(おと)麻(ま)呂(ろ)だ。)や、⑤百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)玄(げん)鏡(きょう)(実際は、3女のむこの文(ふん)屋(やの)大(おお)市(いち)・僧(そう)行(ぎょう)信(しん)・弓(ゆ)削(げの)道(どう)鏡(きょう)だ。)や、末娘の⑥百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)難(なに)波(わ)姫(ひめ)(実際は、49代光(こう)仁(にん)天(てん)皇(のう)の後(ご)妃(ひ)の高(たか)野(のの)新(にい)笠(かさ)だ。)たちの実子や娘むこたちがいた、ということなのだ。また、百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)の石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)とは、初代国(こく)学(がくの)頭(かしら)という文(あや)部(べの)息(おく)道(みち)の実像である、ということなのだ。 

さてそれでは、『続日本(しょくにほん)紀(ぎ)』の天平勝宝元年(749年)11月の条を見れば、『八幡(はちまんの)大神(おおかみ)禰宜(ねぎ)外従5位下大(おお)神(みわの)杜(もり)女(め)。主(ぬし)神(かみの)司(つかさ)従8位大(おお)神(みわの)田(た)麻(ま)呂(ろ)2人賜大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)之姓』とも伝えるが、また『大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)の姓を賜わる。』ともいうが、この系譜で見れば、大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)田(た)麻(ま)呂(ろ)こそが、大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)杜(もり)女(め)の弟なのだ。しかしながら、これは得意の隠蔽手段なのだ。実際としては夫である、ということなのだ。 

さてそれでは、天平勝宝6年(754年)11月の条を見れば、『薬(やく)師(し)寺(じ)僧(そう)行(ぎょう)信(しん)。与八(はち)幡(まん)神(じん)宮(ぐう)主(ぬし)神(かみのつかさ)大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)多(た)麻(ま)呂(ろ)等。同意厩魅。下所司推勘。罪合(つみあつて)遠流(えんりゅう)。此是。遣(つかわす)中納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)足(たり)。就薬師寺宣詔。以行(ぎょう)信(しんを)配(はいする)下(しも)野(つけの)薬(やく)師(し)寺(じに)。』とも伝えるが、また『従4位下大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)杜(もり)女(め)。外従5位下大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)多(た)麻(ま)呂(ろ)並除名従本姓。杜(もり)女(め)配於日向(ひゅぅが)国(こく)。多(た)麻(ま)呂(ろ)於多褹(たね)嶋(しま)(種子島(たねがしま)だ。)』とも伝えるのだ。 

さて、これらは、天平勝宝6年(754年)の頃から、大(やま)和(と)王(おう)権(けん)の内部においては、45代聖(しょう)武(む)天(てん)皇(のう)の娘の46代孝(こう)謙(けん)天(てん)皇(のう)の『次の天(てん)皇(のう)位(い)』を巡って、中央貴族同士で権力争いがあったのだ。つまり阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)の子や、孫らを中心とした石(いその)上(うかみの)朝(あそ)臣(み)腹(ばら)系(けい)や、大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)腹(ばら)系(けい)の従来の中央貴族たちに対し、新興勢力である藤(ふじ)原(わら)一(いち)族(ぞく)(実際は、中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)の娘で養女の五(い)百(お)重(えの)娘(いらつめ)・43代元(げん)明(めい)天(てん)皇(のう)を娶った草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)(実際は、高(たけ)市(ちの)皇(み)子(こ)・穂(ほ)積(ずみの)皇(み)子(こ)・藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)だ。)の子孫たちとの権力闘争なのだ。そしてまた、草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)(実際は、高(たけ)市(ちの)皇(み)子(こ)・穂(ほ)積(ずみの)皇(み)子(こ)・藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)だ。)の先(せん)妃(ぴ)で阿(あ)部(べの)御(み)主(う)人(し)(実際は、蘇(そ)我(がの)連(むらじ)子(この)大(おお)臣(おみ)・田(た)辺(なべの)史(ふひと)小(お)隅(すみ)だ。)の娘である娼(しょう)子(この)娘(いらつめ)が、そのもうけた実子の長男の藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)武(む)智(ち)麻(ま)呂(ろ)や、次男の藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)房(ふさ)前(さき)や、3男の藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)宇(うま)合(かい)ら子孫の台頭こそが、すでに、はじまっていた、ということなのだ。また、この両派による主導権争いが激しくなって、大炊(おおたきの)王(みこ)(47代淳(じゅん)仁(にん)天(てん)皇(のう)だ。)を押す藤(ふじ)原(わら)一(いち)族(ぞく)の中の、藤(ふじ)原(わらの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)(恵(え)美(みの)押(おし)勝(かつ)だ。)たちの主流派が、この頃は、一時的に優勢ともなっていたのだ。そのために、天平宝字元年(757年)には、橘(たちばなの)奈(な)良(ら)麻(ま)呂(ろ)や、2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)たちの2人が殺され、右大臣藤(ふじ)原(わらの)豊(とよ)成(なり)は、太宰(だざい)員外師(いんがいし)に左遷された、とも伝えられているが、しかしながら、天平宝字6年(762年)には、46代孝(こう)謙(けん)上皇(じょうこう)は、恵(え)美(みの)押(おし)勝(かつ)(藤(ふじ)原(わらの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)だ。)の擁立する47代淳(じゅん)仁(にん)天(てん)皇(のう)を非難して、『国家の大事を自らする決する』という詔(みことのり)を下(くだ)した、というのだ。また、天平宝字7年(763年)には、僧(そう)道(どう)鏡(きょう)が小僧都(しょうそうと)ともなると、翌年の天平宝字8年(764年)には、恵(え)美(みの)押(おし)勝(かつ)(藤(ふじ)原(わらの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)だ。)が殺され、僧(そう)道(どう)鏡(きょう)は、大臣(だいじん)禅師(ぜんじ)ともなる、というのだ。また、46代孝(こう)謙(けん)上(じょう)皇(こう)が重祚(ちょうそ)して、48代称(しょう)徳(とく)天皇(てんのう)となったのだが、その2年後の天平神護元年(765年)には、僧(そう)道(どう)鏡(きょう)とは、太(だ)政(じょう)大(だい)臣(じん)禅(ぜん)師(じ)ともなるのだ。また、その翌年の天平神護2年(766年)には、僧(そう)道(どう)鏡(きょう)(実際は文(ふん)屋(やの)大(おお)市(いち)だ。)は、法(ほう)王(おう)ともなっている、ということなのだ。 

さてそれでは、『続(しょく)日(に)本(ほん)紀(ぎ)』の同年の10月の条を見れば、『授无位大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)田(た)麻(ま)呂(ろ)外従5位下。為(ぶ)豊(ぐん)後(ごの)外(げ)掾(じょう)。田(た)麻呂(まろ)者本是八(はち)幡(まん)大(だい)神(じん)宮(ぐう)禰(ね)宜(ぎ)大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)毛(も)理(り)売(め)時。授以5位。任神(じん)宮(ぐう)司(じ)。及毛(も)理(り)売(め)詐覚。倶遷日(ひゅうが)向。至是複本位』とも伝えているが、つまり大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)田(た)麿(まろ)の実像の百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)(2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)だ。)の和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)としては、このとき復位したのだ。また『東(とう)大(だい)寺(じ)要(よう)録(ろく)』巻第4の諸院章第4の諸(しょ)神(じん)社(じゃ)条(じょう)所(しょ)引(いん)の中の記録を見れば、弘仁12年(821年)の8月15日付の太(た)政(せい)官(かん)符(ふ)では、『諸(もろ)男(お)之子田(た)麿(まろ)相承為祝(はふり)』とあり、また『宝亀2年(771年)和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)任豊(ぶ)前(ぜんの)守(かみ)。此時大(おお)神(がみ)詫宣。以田(た)麿(ま)宛吾宮(ぐう)司(じ)。仍申官。即田(た)麿(まろ)任大宮司(だいぐうじ)』とも伝えているのだ。つまり『大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)田(た)麿(まろ)時(とき)始(はじめる)顕(あらわす)神(じん)徳(とく)。置祝(はふり)神(かん)主(ぬし)補(ほ)大(だい)小(しょうの)宮(ぐう)司(じ)。是田(た)麿(まろ)之(の)族(ぞく)為祝(はふり)神主大宮司也(かんぬしだいぐうじなり)』とも伝えているから、阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)(実際は高(たか)梯(はしの)王(みこ)・槻(つき)本(もとの)公(きみ)石村(いわむら)・中(なか)臣(とみの)連(むらじ)国(くに)足(たり)・秦(はたの)国(くに)勝(かつ)・小(お)野(のの)毛(えみ)人(し)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)利(とし)金(かね)・大(おお)中(なか)臣(とみの)金(こがねの)連(むらじ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)紫(し)壇(だん)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)黒(くろ)麻呂(まろ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)比(ひ)等(と)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)牟(む)ロ(ろ)だ。)の直系の子孫である大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)田(た)麿(まろ)、つまり和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)(小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)石(いわ)根(ね)・阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)だ。)の一族としては、すでに、大和(やまと)王権(おうけん)の内部の従来の中央貴族が、藤(ふじ)原(わら)氏(しの)一(いち)門(もん)によって支配されつつある危機感から、また、その先祖の古代天皇家の神(じん)徳(とく)を顕(けん)彰(しょう)するためと称し、全国各地の大小の神社へその子孫らが宮(ぐう)司(じ)となって散らばっていった、ということなのだ。また一族として結束した、ということなのだ。 

さてそれでは、弘仁12年(821年)の8月15日付の太政官(たせいかん)符(ふ)を見れば、大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)田(た)麿(まろ)の孫という大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)種(たね)麿(まろ)こそ『依太政官去延暦4年6月16日符。大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)種(しゅ)々(しゅ)麿(まろ)任(にんず)大(たい)宮(ぐう)司(じ)。大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)雄(お)黒(くろ)麿(まろ)任(にんず)其祝(はふり)』とも伝えているのだ。また、東(とう)大(だい)寺(じ)の『是田(た)麿(まろ)之(の)族(ぞく)為祝(はふり)神(かん)主(ぬし)大(だい)宮(ぐう)司(じ)也(なり)』とあるように、この大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)種(しゅ)々(しゅ)麿(まろ)の実像としては、和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)(実際は、2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)益(ます)麿(まろ)・紀(きの)臣(おみ)国(くに)栖(ます)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)秋(あき)主(ぬし)だ。)の実像である大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)田(た)麿(まろ)(実際は、中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)泰(やす)麿(まろ)の実子の中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)成(なり)だ。)の次男(実際は長女のむこだ。)である中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)庭(にわ)(実際は、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)の継(つぎ)麻(ま)呂(ろ)・秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)の祖(そ)、秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)安(やす)人(ひと)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)達(たつ)男(お)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)竜(たつ)男(お)・坂(さかの)上(うえの)大(おお)宿(すく)禰(ね)苅(かり)田(た)麻(ま)呂(ろ)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)真(ま)次(つぐ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)令(れい)珪(けい)だ。)がいた、ということなのだ。また、その実子こそが、坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ)(実際は、菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)道(みち)長(なが)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)興(おく)道(みち)・土(は)師(じの)宿(すく)禰(ね)道(みち)長(なが)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)勝(かつ)長(なが)・伴(ともの)朝(あそ)臣(み)山(やま)道(みち)だ。)で、この大(だい)宮(ぐう)司(じ)の大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)種(しゅ)々(しゅ)麿(まろ)の実像である、ということなのだ。 

さてそれでは、この大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)田(た)麿(まろ)(実際は、中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)泰(やす)麿(まろ)の実子という大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)成(なり)だ。)である和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)(2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)益(ます)麿(まろ)・紀(きの)臣(おみ)国(くに)栖(ます)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)秋(あき)主(ぬし)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)だ。)の長男の大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)(中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)長(なが)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)俊(しゅん)哲(てつ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)穎(ひで)人(ひと)だ。)の、更に長男(実際は、娘むこだ。)としては、菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)道(みち)長(なが)(紀(きの)朝(あそ)臣(み)興(おく)道(みち)・土(は)師(じの)宿(すく)禰(ね)道(みち)長(なが)・伴(ともの)朝(あそ)臣(み)山(やま)道(みち)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)聰(そう)哲(てつ)だ。)なのだが、その実像としては、大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)種(しゅ)々(しゅ)麿(まろ)である坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ)なのだ。また、その実父の坂(さかの)上(うえの)大(おお)宿(すく)禰(ね)苅(かり)田(た)麻(ま)呂(ろ)こそが『続日本(しょくにほん)紀(ぎ)』を奏上したという秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)安(やす)人(ひと)である中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)庭(にわ)(和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)達(たつ)男(お)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)真(まさ)次(つぐ)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)勝(かつ)長(なが)・楊(や)侯(この)史(ふひと)令(れい)珪(けい)だ。)の実像である、ということなのだ。 

さてそれでは、その義弟(3男だ。)としては、祝(はふり)神(かん)主(ぬし)という大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)雄(お)黒(くろ)麿(まろ)の中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)御(み)笠(かさ)麿(まろ)(実際は、大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)岑(みね)守(もり)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)氏(うじ)成(なり)・楊(や)侯(この)史(ふひと)令(れい)璆(きゅう)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)教(きょう)俊(しゅん)だ。)がいたのだ。また、その実像としては、長男の大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)(実際は、中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)長(なが)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)俊(しゅん)哲(てつ)・巨(こ)勢(せの)野(の)足(たり)だ。)の次男(実際は、娘むこだ。)である伴(ともの)朝(あそ)臣(み)国(くに)道(みち)(実際は、大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)岑(みね)守(もり)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)教(きょう)俊(しゅん)だ。なお、兄の百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)教(きょう)徳(とく)としては、聰(そう)哲(てつ)である道(みち)長(なが)とも同一人物だ。)である、ということなのだ。 

つまり大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)雄(お)黒(くろ)麿(まろ)や、中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)御(み)笠(かさ)麿(まろ)である異母弟の大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)(実際は、小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)岑(みね)守(もり)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)氏(うじ)成(なり)・楊(や)侯(この)史(ふひと)令(れい)璆(きゅう)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)教(きょう)俊(しゅん)だ。)こそが、大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)である中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)長(なが)(実際は菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)俊(しゅん)哲(てつ)・巨(こ)勢(せの)野(の)足(たり)だ。)の娘(次女だ。)むこである伴(ともの)朝(あそ)臣(み)国(くに)道(みち)(実際は、菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)だ。)の実像である、ということなのだ。 

さてそれでは、中納言大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)や、右大臣中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(実際は、坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)大(おお)国(くに)・阿(あ)刀(との)造(みやつこ)大(おお)足(たり)だ。)の長男としては、東(とう)大(だい)寺(じ)長(ちょう)官(かん)という坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)犬(いぬ)養(かい)(実際は、大(やま)和(との)宿(すく)禰(ね)長(なが)岡(おか)・路(みちの)真(ま)人(ひと)豊(とよ)永(なが)・剣の達(たつ)人(じん)だ。)なのだ。また、その実子で長男こそが、坂(さかの)上(うえの)大(おお)宿(すく)禰(ね)苅(かり)田(た)麻(ま)呂(ろ)である秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)の祖(そ)という秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)安(やす)人(ひと)(実際は、中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)庭(にわ)・和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)達(たつ)男(お)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)真(まさ)次(つぐ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)令(れい)珪(けい)だ。)なのだ。また、その実子としては、長男の坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)石(いわ)津(つ)麿(まろ)がいたのだが、この人物は、坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ)である菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)道(みち)長(なが)(実際は、土(は)師(じの)宿(すく)禰(ね)道(みち)長(なが)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)種(しゅ)々(しゅ)麿(まろ)・伴(ともの)朝(あそ)臣(み)山(やま)道(みち)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)聰(そう)哲(てつ)だ。)ということなのだ。つまり菅(すが)原(はらの)朝(あそ)臣(み)道(みち)長(なが)(実際は、土(は)師(じの)宿(すく)禰(ね)道(みち)長(なが)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)種(しゅ)々(しゅ)麿(まろ)・伴(ともの)朝(あそ)臣(み)山(やま)道(みち)だ。)である坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ)こそが大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)(実際は、菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)・大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)魚(うお)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)俊(しゅん)哲(てつ)だ。)の長女のむこである、ということなのだ。 

さてそれでは、この坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)石(いわ)津(つ)麿(まろ)(実際は、坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ)だ。)の菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)道(みち)長(なが)(土(は)師(じの)宿(すく)禰(ね)道(みち)長(なが)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)種(しゅ)々(しゅ)麿(まろ)・伴(ともの)朝(あそ)臣(み)山(やま)道(みち)だ。)の娘むことしては、佐(さ)伯(えきの)宿(すく)祢(ね)真(ま)魚(うお)の弘(こう)法(ぼう)大(だい)師(し)の僧(そう)空(くう)海(かい)がいた、ということなのだ。また、佐(さ)伯(えきの)宿(すく)禰(ね)真(ま)魚(うお)の弘(こう)法(ぼう)大(だい)師(し)の僧(そう)空(くう)海(かい)の実像としては、菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)(実際は、大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)長(なが)・佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)・大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)魚(うお)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)永(なが)見(み)・楊(や)侯(この)史(ふひと)令(れい)珍(ちん)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)俊(しゅん)哲(てつ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)穎(ひで)人(ひと)・巨(こ)勢(せの)野(の)足(たり)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)名(な)だ。)の実子の1人で第3子(実際は長男だ。)の菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)岡(おか)である、ということなのだ。 

つまり坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)石(いわ)津(つ)麿(まろ)や、坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ)である菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)道(みち)長(なが)(実際は、土(は)師(じの)宿(すく)禰(ね)道(みち)長(なが)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)種(しゅ)々(しゅ)麿(まろ)・伴(ともの)朝(あそ)臣(み)山(やま)道(みち)だ。)の娘むこなのだ。また坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ)の子(娘むこだ。)の1人の従4位下典(てん)薬(やくの)頭(かしら)清(きよ)水(みず)別(のべっ)当(とう)という坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)正(まさ)野(の)の実像こそが、この佐(さえ)伯(きの)直(あたい)真(ま)魚(うお)の弘(こう)法(ぼう)大(だい)師(し)の僧(そう)空(くう)海(かい)である、ということなのだ。 

さてそれでは、佐(さえ)伯(きの)直(あたい)真(ま)魚(うお)の弘(こう)法(ぼう)大(だい)師(し)の僧空(くう)海(かい)の実父という佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)の実像としては、大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)(大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)魚(うお)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)だ。)なのだ。また、阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)(実際は紀(きの)朝(あそ)臣(み)船(ふな)守(もり)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)石(いわ)根(ね)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)田(た)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)伊(い)可(か)保(ほ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)秋(あき)主(ぬし)・2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)だ。)の実子の長男である、ということなのだ。また、次男の秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)安(やす)人(ひと)(実際は中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)庭(にわ)・和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)達(たつ)男(お)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)真(まさ)次(つぐ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)令(れい)珪(けい)だ。)とは、その実像は阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)(実際は紀(きの)朝(あそ)臣(み)船(ふな)守(もり)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)石(いわ)根(ね)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)田(た)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)伊(い)可(か)保(ほ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)秋(あき)主(ぬし)・2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)だ。)の長女(第2子だ。)のむこの坂(さかの)上(うえの)大(おお)宿(すく)禰(ね)苅(かり)田(た)麻(ま)呂(ろ)(実際は中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)庭(にわ)・和(わ)気(かの)朝(あそ)臣(み)達(たつ)男(お)だ。)である、ということなのだ。 

さてそれでは、百済(くだら)王氏(こにきし)理(り)伯(はく)(実際は阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)成(なり)・楊(や)候(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)射(み)・2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・中(なか)臣(とみの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)直(あたい)国(くに)栖(ます)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・大納言紀(きの)朝(あそ)臣(み)船(ふな)守(もり)だ。)である津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)秋(あき)主(ぬし)(紀(きの)直(あたい)豊嶋(とよしま)・紀(きの)直(あたい)国(くに)栖(ます)だ。)の子(娘むこ含む。)としては、長男の①大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)(実際は菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)長(なが)・佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)穎(ひで)人(ひと)・楊(や)候(この)史(ふひと)令(れい)珍(ちん)・百済(くだら)王氏(こにきし)俊(しゅん)哲(てつ)・紀(きの)直(あたい)吉(よし)継(つぐ)・紀(きの)直(あたい)広(ひろ)国(くに)・初代秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)吉(よし)継(つぐ)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)鯛(たい)主(ぬし)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)名(な)だ。)や、また、次男で②娘むこの秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)安(やす)人(ひと)(実際は秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)成(なり)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)庭(にわ)・坂(さかの)上(うえの)大(おお)宿(すく)禰(ね)苅(かり)田(た)麻(ま)呂(ろ)・楊(や)候(この)史(ふひと)令(れい)珪(けい)だ。)や、また、次に、その異母弟で実子で3男の③秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)高(たか)継(つぐ)(実際は大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)高(たか)継(つぐ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)雄(お)黒(くろ)麿(まろ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)御(み)笠(かさ)麿(まろ)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)岑(みね)守(もり)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)氏(うじ)成(なり)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)・伴(ともの)朝(あそ)臣(み)国(くに)道(みち)・楊(や)侯(この)史(ふひと)令(れい)璆(きゅう)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)教(きょう)俊(しゅん)・初代秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)貞(さだ)継(つぐ)だ。)や、また、次に、4男の④秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)弘(ひろ)淵(ふち)(娘むこの藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)継(つぐ)縄(なお)・人(ひと)麻(ま)呂(ろ)だ。)らの4人の人物がいた、ということなのだ。 

さてそれでは、3男の③秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)高(たか)継(つぐ)(実際は、大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)高(たか)継(つぐ)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)岑(みね)守(もり)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)氏(うじ)成(なり)・伴(ともの)朝(あそ)臣(み)国(くに)道(みち)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)雄(お)黒(くろ)麿(まろ)・楊(や)候(この)史(ふひと)令(れい)璆(きゅう)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)教(きょう)俊(しゅん)・初代秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)貞(さだ)継(つぐ)だ。)とは、大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)(菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)だ。)の次女のむこの菅(すが)原(はらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)こそがその実像なのだ。また、この大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)(実際は秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)高(たか)継(つぐ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)雄(お)黒(くろ)麿(まろ)・楊(や)候(この)史(ふひと)令(れい)璆(きゅう)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)教(きょう)俊(しゅん)・初代秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)貞(さだ)継(つぐ)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)だ。)の子(娘むこ含む。)としては、長男(実際は娘むこだ。)である小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)篁(たかむら)(実際は和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)仲(なか)世(よ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)田(た)仲(なか)麿(まろ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)慶(けい)仲(ちゅう)・2代目秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)吉(よし)継(つぐ)だ。)や、次男(実際は娘むこの菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)公(きみ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)慶(けい)世(せい)だ。)である秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)全(たま)継(つぐ)(2代目秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)貞(さだ)継(つぐ)だ。)や、3男(実際は実子の長男だ。)である秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)貞(さだ)助(すけ)(大納言伴(ともの)朝(あそ)臣(み)善(よし)男(お)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)豊(ほう)俊(しゅん)だ。)や、4男(実際は実子で次男だ。)である秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)津(つ)食(しょく)丸(まる)たち4人の人物がいた、ということなのだ。 

そしてまた、この大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)や、津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)高(たか)継(つぐ)である百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)教(きょう)俊(しゅん)(実際は小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)岑(みね)守(もり)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)氏(うじ)成(なり)・伴(ともの)朝(あそ)臣(み)国(くに)道(みち)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)雄(お)黒(くろ)麿(まろ)・楊(や)候(この)史(ふひと)令(れい)璆(きゅう)だ。)としては、このほかに、百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)慶(けい)命(めい)女(め)(52代嵯(さ)峨(が)天(てん)皇(のう)女(にょう)御(ご)だ。)や、その妹の百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)永(えい)慶(けい)女(め)(54代仁(にん)明(めい)天(てん)皇(のう)宮(みや)人(びと)だ。)たち2人をもうけたのだ。また、この百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)慶(けい)命(めい)女(め)こそが、『嵯(さ)峨(が)源(げん)氏(じ)の始祖』なのだ。そしてまた、その実子としては、①源(みなもと)朝(のあそ)臣(み)定(さだむ)や、②源(みなもと)鎭(のしず)や、③源(みなもと)善(のやし)凞(き)や、④源(みなもと)若(のわか)凞(き)たち4人をもうけた、ということなのだ。 

そしてまた、百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)永(えい)慶(けい)女(め)(54代仁(にん)明(めい)天(てん)皇(のう)宮(みや)人(びと)だ。)の子としては、高(たか)子(こ)内(ない)親(しん)王(のう)をもうけたのだ。また、百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)豊(ほう)俊(しゅん)である秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)貞(さだ)助(すけ)(実際は大納言伴(ともの)朝(あそ)臣(み)善(よし)雄(お)だ。)の娘としては、仁(にん)明(めい)朝(ちょう)宮人の仁(にん)明(めい)天(てん)皇(のう)女御(にょうご)ともなって、その実子の①源(みなもと)多(のた)や、②源(みなもと)光(のひかる)(光(ひかる)源(げん)氏(じ)のモデルだ。)たち2人の人物をもうけた、ということなのだ。 

さてそれでは、3男の津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)高(たか)継(つぐ)(実際は、大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)雄(お)黒(くろ)麿(まろ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)御(み)笠(かさ)麿(まろ)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)氏(うじ)成(なり)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)・伴(ともの)朝(あそ)臣(み)国(くに)道(みち)・楊(や)候(この)史(ふひと)令(れい)璆(きゅう)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)教(きょう)俊(しゅん)・初代秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)貞(さだ)継(つぐ)だ。)の2男(実際は娘むこだ。)としては、伴(ともの)深(しん)海(かい)である秋(あき)篠(しの)朝(あそ)臣(み)全(たま)継(つぐ)(実際は娘むこの菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)公(きみ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)慶(けい)世(せい)・2代目秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)貞(さだ)継(つぐ)だ。)がいたのだ。そしてまた、この2男(娘むこだ。)である伴(ともの)深(しん)海(かい)(秋(あき)篠(しの)朝(あそ)臣(み)全(たま)継(つぐ)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)公(きみ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)慶(けい)世(せい)・2代目秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)貞(さだ)継(つぐ)だ。)の娘むことしては、大納言伴(ともの)朝(あそ)臣(み)善(よし)雄(お)(秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)貞(さだ)助(すけ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)豊(ほう)俊(しゅん)だ。)がいた、ということなのだ。 

つまり秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)高(たか)継(つぐ)である大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)(実際は、大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)雄(お)黒(くろ)麿(まろ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)御(み)笠(かさ)麿(まろ)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)岑(みね)守(もり)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)氏(うじ)成(なり)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)・伴(ともの)朝(あそ)臣(み)国(くに)道(みち)・楊(や)侯(この)史(ふひと)令(れい)璆(きゅう)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)雄(お)継(つぐ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)教(きょう)俊(しゅん)・初代秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)貞(さだ)継(つぐ)だ。)の子(娘むこ含む。)としては、長男(娘むこだ。)の小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)篁(たかむら)(和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)仲(なか)世(よ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)田(た)仲(なか)麿(まろ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)慶(けい)仲(ちゅう)・2代目秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)吉(よし)継(つぐ)だ。)や、次男(娘むこだ、)の秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)全(たま)継(つぐ)(菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)公(きみ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)慶(けい)世(せい)だ。)や、3男の実子である秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)貞(さだ)男(お)(助(すけ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)豊(ほう)俊(しゅん)・伴(ともの)大(だい)納(な)言(ごん)善(よし)男(お)だ。)や、4男の実子でる秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)津(つ)食(しょく)丸(まる)たち4人の人物がいたのだ。また、3男の秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)貞(さだ)男(お)とは、伴(ともの)大(だい)納(な)言(ごん)善(よし)男(お)なのだ。そしてまた、紀(きの)直(あたい)深(しん)海(かい)(実際は娘むこの2男の紀(きの)朝(あそ)臣(み)全(たま)継(つぐ)だ。)の子(これも娘むこだ。)の次男という侍(じ)従(じゅう)5位下の貞(さだ)雄(お)や、槻(つき)雄(お)なのだ。そしてまた、佐(さえ)伯(きの)直(あたい)真(ま)魚(うお)である弘(こう)法(ぼう)大(だい)師(し)の僧(そう)空(くう)海(かい)は、その実像は、大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)(菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)穎(ひで)人(ひと)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)名(な)・巨(こ)勢(せの)野(の)足(たり)だ。)の3男で、実際は実子の長男である菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)岡(おか)である、ということなのだ。 

そしてまた、大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)である菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)(2男・伴(ともの)朝(あそ)臣(み)国(くに)道(みち)だ。)の娘むこの秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)全(たま)継(つぐ)(第2子だ。)の実像としては、大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)(菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)穎(ひで)人(ひと)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)名(な)・巨(こ)勢(せの)野(の)足(たり)だ。)の5男という菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)公(きみ)ということなのだ。つまり紀(きの)直(あたい)深(しん)海(かい)(紀(きの)朝(あそ)臣(み)全(たま)継(つぐ)だ。)である菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)公(きみ)(実際は、百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)慶(けい)世(せい)・2代目秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)貞(さだ)継(つぐ)だ。)としては、佐(さえ)伯(きの)直(あたい)真(ま)魚(うお)の弘(こう)法(ぼう)大(だい)師(し)の僧(そう)空(くう)海(かい)の実弟なのだ。 

さてそれでは、大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)や、佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)の実像こそが、菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)(実際は、大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)魚(うお)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)俊(しゅん)哲(てつ)・初代秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)吉(よし)継(つぐ)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)鯛(たい)主(ぬし)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)穎(ひで)人(ひと)だ。)なのだが、また、その妻(つま)(実際は、中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)の大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・巨(こ)勢(せの)苗(なえ)麻(ま)呂(ろ)・阿(あ)刀(との)造(みやつこ)大(おお)足(たり)の娘の仮称、若(わか)小(こ)玉(だま)女(め)だ。)との2人の間に、そのもうけた子(娘むこ含む。)としては、実際は、①長女のむこの菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)道(みち)長(なが)(実際は坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ)・伴(ともの)朝(あそ)臣(み)山(やま)道(みち)・百済(くだら)王氏(こにきし)聰(そう)哲(てつ)だ。)や、②次女のむこの菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)(実際は津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)高(たか)継(つぐ)・大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)岑(みね)守(もり)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)氏(うじ)成(なり)・伴(ともの)朝(あそ)臣(み)国(くに)道(みち)・楊(や)侯(この)史(ふひと)令(れい)璆(きゅう)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)教(きょう)俊(しゅん)だ。)や、実子で長男の③菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)岡(おか)(実際は、弘(こう)法(ぼう)大(だい)師(し)の僧空(くう)海(かい)・坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)正(まさ)野(の)・佐(さえ)伯(きの)直(あたい)真(ま)魚(うお)だ。)や、実子で次男の④菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)枝(えだ)や、実子で3男の⑤菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)公(きみ)(実際は秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)全(たま)継(つぐ)・紀(きの)直(あたい)深(しん)海(かい)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)慶(けい)世(せい)だ。)や、実子で4男の⑥菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)人(ひと)たちの兄弟(娘むこ含む。)の6人がいた、ということなのだ。また、⑤菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)公(きみ)の孫としては、『北(きた)野(の)天(てん)神(じん)』である右大臣菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)道(みち)真(ざね)(菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)是(これ)善(よし)の3男だ。)なのだ。 

さてそれでは、大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)(3男だ。)である小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)岑(みね)守(もり)の同母兄弟としては、4男で娘むこのの藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)継(つぐ)縄(なお)室(しつ)の百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)明(めい)信(しん)女(め)(百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)東(とう)信(しん)女(め)と同一人物だ。)や、その弟で実子の5男という和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)真(ま)綱(つな)や、また、実子の6男という和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)仲(なか)世(よ)(実際は、小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)篁(たかむら)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)真(ま)主(ぬし)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)田(た)仲(なか)麿(まろ)だ。)や、藤(ふじ)原(わらの)葛(かず)野(の)麻(ま)呂(ろ)室(しつ)(百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)明(めい)本(ほん)女(め)だ。)たちがいた、ということなのだ。そしてまた、6男という和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)仲(なか)世(よ)の実像としては、小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)篁(たかむら)(実際は伊(い)岐(きの)連(むらじ)真(ま)主(ぬし)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)田(た)仲(なか)麿(まろ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)慶(けい)仲(ちゅう)だ。)なのだ。また、百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)明(めい)信(しん)女(め)(百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)東(とう)信(しん)女(め)だ。)とは、藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)継(つぐ)縄(なお)の死後は、桓(かん)武(む)朝(ちょう)に女御(にょうご)として入(はい)宮(ぐう)した人物なのだ。また、その実像は、多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)長(なが)野(の)(実際は和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)だ。)の娘の多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)真(ま)宗(むね)(貞子(さだこ)だ。)なのだ。また、その実子としては、『桓(かん)武(む)平(へい)氏(し)の始祖』という葛原(くずはら)親王(しんのう)がいた、ということなのだ。 

さてそれでは、天平神護景雲3年(769年)に、この和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)(伊(い)岐(きの)連(むらじ)益(ます)麿(まろ)だ。)が『宇佐(うさ)八幡(はちまん)の神託(しんたく)を奏して、大隅(おおすみ)に流された。』とも伝えるのだが、また、宝亀元年(770年)の1月には、阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)(紀(きの)直(あたい)広(ひろ)嶋(しま)・初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)泰(やす)麿(まろ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)だ。)が、『唐(とう)で客死(きゃくし)(73歳で没す。)した。』というのだが、この人物は、和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)(実際は阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)益(ます)麿(まろ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)成(なり)・楊(や)侯(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)だ。)の実父ということなのだ。 

そしてまた、同年(770年)8月21日には、僧(そう)道(どう)鏡(きょう)が、下野(しもつけの)国(くに)薬(やく)師(し)寺(じ)の別(べっ)当(とう)として配(はい)流(りゅう)される、という事件が起こった、とも伝えるのだが、同年(770年)9月6日には、『和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)(伊(い)岐(きの)連(むらじ)益(ます)麿(まろ)だ。)を召(しょう)還(かん)する。』とも伝えるのだ。また、同年(770年)10月1日には、『白(しら)壁(かべの)王(みこ)(49代光(こう)仁(にん)天(てん)皇(のう)だ。)が即位した。』とも伝えている、ということなのだ。 

さてそこで、法王(ほうおう)ともなった僧(そう)道(どう)鏡(きょう)(文(ふん)屋(やの)大(おお)市(いち)だ。)の失脚(しっきゃく)を画策した人物こそが『和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)(伊(い)岐(きの)連(むらじ)益(ます)麿(まろ)だ。)を召還(しょうかん)させた。』という人物なのだ。つまり阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)(実際は、紀(きの)直(あたい)広(ひろ)嶋(しま)・阿(あ)倍(べの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)泰(やす)麿(まろ)だ。)の義兄の右大臣中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(実際は、坂(さかの)上(うえの)忌(いみ)寸(き)大(おお)国(くに)・紀(きの)直(あたい)建(たけ)嶋(しま)・大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)美(み)岐(き)麿(まろ)・坂(さか)本(もとの)朝(あそ)臣(み)大(おお)足(たり)・石(いわ)津(つの)首(おびと)大(おお)足(たり)・阿(あ)刀(との)造(みやつこ)大(おお)足(たり)だ。)なのだ。また、その長女こそが、和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)(伊(い)岐(きの)連(むらじ)益(ます)麿(まろ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)成(なり)だ。)の後妻(ごさい)に入った大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)女(め)(賀(か)陽(やの)臣(おみ)小(こ)玉(だま)女(め)だ。)なのだ。そしてまた、長男の坂(さかの)上(うえの)忌(いみ)寸(き)犬養(いぬかい)とは、剣の達人で僧(そう)道(どう)鏡(きょう)の師匠という、路(みちの)真(ま)人(ひと)豊(とよ)永(なが)こそが、その実像なのだ。 

さてそれでは、この坂(さかの)上(うえの)忌(いみ)寸(き)犬養(いぬかい)(路(みちの)真(ま)人(ひと)豊(とよ)永(なが)だ。)の長男としては、坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)苅(かり)田(た)麻(ま)呂(ろ)である。つまり右大臣中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(実際は、坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)大(おお)国(くに)・紀(きの)直(あたい)建(たけ)嶋(しま)・中納言大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)美(み)岐(き)麿(まろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)興(おこ)志(し)・阿(あ)刀(との)造(みやつこ)大(おお)足(たり)だ。)の下で、その子や、娘むこたちが、法王(ほうおう)の僧(そう)道(どう)鏡(きょう)(実際は、文(ふん)屋(やの)大(おお)市(いち)だ。)の失脚(しっきゃく)を画策した人物たちなのだ。そしてまた、彼らや、その子孫たちこそが、『古(こ)事(じ)記(き)』や、『日(に)本(ほん)書(しょ)紀(き)』や、『続日本(しょくにほん)紀(ぎ)』や、『日本(にほん)後紀(こうき)』など、『記紀(きき)』の隠蔽工作(フィクション部分だ。)の立役者である、ということなのだ。 

そこで、その証拠だが、藤(ふじ)原(わらの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)(恵(え)美(みの)押(おし)勝(かつ)だ。)の乱のとき殺されたという、2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)の実像としては、その後に複位(ふくい)した大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)田(た)麿(まろ)(実際は和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)益(ます)麿(まろ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)成(なり)・楊(や)侯史(このふひと)真(まさ)身(み)だ。)なのだ。また、この大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)とは2代目なのだ。つまり紀(きの)朝(あそ)臣(み)古(こ)麻呂(まろ)(実際は下(しも)毛(けの)野(の)君(きみ)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・中納言中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)だ。)や、阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)(実際は阿(あ)倍(べの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)だ。)である初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)たち、別人の『古(こ)麻(ま)呂(ろ)』がいた、ということなのだ。また、2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)とは、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)腹(ばら)系(けい)では、石(いその)上(かみの)宅(やか)嗣(つぐ)や、大納言紀(きの)朝(あそ)臣(み)船(ふね)守(もり)たちが同一人物なのだ。また、2代目国(こく)学(がくの)頭(かしら)博士(はかせ)、文(あや)部(べの)良(よし)道(みち)(菅(すが)野(のの)真(ま)道(みち)だ。)こそが、その実像なのだ。また、大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)腹(ばら)系(けい)では、和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)や、伊(い)岐(きの)連(むらじ)益(ます)麿(まろ)や、大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)成(なり)や、紀(きの)直(あたい)國(くに)栖(ます)や、小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)石(いわ)根(ね)たちが同一人物なのだ。それでは、阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)の子や、孫らの直系(ちょっけい)の子孫としては、楊(や)侯(こうの)史(ふひと)真(まさ)身(み)こそが、同一人物なのだ。また、その舅(しゅうと)の1人、右大臣中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)とは、中納言大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)や、大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)美(み)岐(き)麿(まろ)や、大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)興(おこ)志(し)や、坂(さかの)上(うえの)大忌(おおいみ)寸(き)大(おお)国(くに)や、紀(きの)直(あたい)建(たけ)嶋(しま)や、小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)馬(うま)養(かい)や、佐(さえ)伯(きの)宿(すく)禰(ね)常(つね)人(ひと)や、阿(あ)刀(との)造(みやつこ)大(おお)足(たり)たちが同一人物なのだ。また、その証拠だが、『小野(おの)氏(し)の系譜』や、『紀(きの)直(あたい)氏(し)の系譜』や、『鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)の系譜』や、『調(つきの)忌(いみ)寸(き)の系譜』や、『坂(さかの)上(うえの)忌(いみ)寸(き)の系譜』や、『坂(さか)本(もとの)朝(あそ)臣(み)の系譜』などから見れば、小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)毛(け)野(の)の実像としては、中納言中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、大納言大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)・大納言多(た)治(じ)比(ひの)池(いけ)守(もり)・多(おおの)臣(おみ)安(やす)万(ま)侶(ろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)安(やす)麿(まろ)・下(しもつ)道(みちの)朝(あそ)臣(み)國(くに)道(みち)・下(しも)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)古(こ)麻(ま)呂(ろ)だ。)である紀(きの)朝(あそ)臣(み)古(こ)麻(ま)呂(ろ)(紀(きの)直(あたい)古(こ)麿(まろ)だ。)なのだ。また、その実子で長男としては、右大臣大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)馬(うま)養(かい)・中納言大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)美(み)岐(き)麿(まろ)・坂(さかの)上(うえの)大忌(おおいみ)寸(き)大(おお)国(くに)・坂(さか)本(もとの)朝(あそ)臣(み)大(おお)国(くに)・坂(さか)本(もとの)朝(あそ)臣(み)大(おお)足(たり)・石(いわ)津(つの)首(おびと)大(おお)足(たり)・阿(あ)刀(との)造(みやつこ)大(おお)足(たり)・紀(きの)直(あたい)建(たて)嶋(しま)だ。)である、ということなのだ。また、その娘の大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)女(め)(実際は賀(か)陽(やの)臣(おみ)小(こ)玉(だま)女(め)だ。)のむことしては、和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)(小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)石(いわ)根(ね)だ。)なのだ。また、阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)や、紀(きの)朝(あそ)臣(み)船(ふな)守(もり)や、百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)や、大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)伊(い)可(か)保(ほ)や、楊(や)侯(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)や、伊(い)岐(きの)連(むらじ)益(ます)麿(まろ)や、紀(きの)朝(あそ)臣(み)國(くに)栖(ます)や、2代目国(こく)学(がくの)頭(かしら)博士(はかせ)の文(あや)部(べの)良(よし)道(みち)や、国(こく)学(がくの)助(すけ)の菅(すが)野(のの)真(ま)道(みち)たちが、その実像なのだ。そしてまた、『小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)』や、『坂(さか)本(もとの)朝(あそ)臣(み)』や、『調(つきの)忌(いみ)寸(き)』や、『坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)』たち一族のうちで、大(やま)和(との)宿(すく)禰(ね)長(なが)岡(おか)(坂(さかの)上(うえの)忌(いみ)寸(き)犬(いぬ)養(かい)だ。)の長男こそが、坂(さかの)上(うえの)大(おお)宿(すく)禰(ね)苅(かり)田(た)麻(ま)呂(まろ)なのだ。また、この坂(さかの)上(うえの)大(おお)宿(すく)禰(ね)苅(かり)田(た)麻(ま)呂(ろ)の長男は石(いわ)津(つ)麿(まろ)だが、実際は、その実像こそが鎮(ちん)守(じゅ)府(ふ)将(しょう)軍(ぐん)の坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ)なのだ。また、この坂(さかの)上(うえの)大(おお)宿(すく)禰(ね)苅(かり)田(た)麻(ま)呂(ろ)のほかの子(娘むこ含む。)としては、実際は、2男の坂(さかの)上(うえの)鷹(たか)主(ぬし)や、6男の坂(さかの)上(うえの)鷹(たか)養(かい)(弘仁8年4月没。)たちの多数の子がいた、ということなのだ。 

さてそれでは、菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)(実際は佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)長(なが)・大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)世(よ)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)永(なが)見(み)だ。)の長男(実際は娘むこだ。)という土(は)師(じの)宿(すく)禰(ね)道(みち)長(なが)(実際は菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)道(みち)長(なが)・伴(ともの)朝(あそ)臣(み)山(やま)道(みち)だ。)こそが、鎮(ちん)守(じゅ)府(ふ)将(しょう)軍(ぐん)の坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ)の実像なのだ。また、伝教(でんぎょう)大師(だいし)の僧(そう)最(さい)澄(ちょう)の実像としては、三(み)津(つの)首(おびと)広(ひろ)野(の)なのだ。そしてまた、この鎮(ちん)守(じゅ)府(ふ)将(しょう)軍(ぐん)の坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ)(土(は)師(じの)宿(すく)禰(ね)道(みち)長(なが)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)道(みち)長(なが)だ。)の実子である坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)広(ひろ)野(の)こそが、その実像なのだ。つまり坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)広(ひろ)野(の)である伝教(でんぎょう)大師(だいし)の僧(そう)最(さい)澄(ちょう)(実際は、三(み)津(つの)首(おびと)広(ひろ)野(の)だ。)には、その弟(義弟だ。)の坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)正(まさ)野(の)がいたのだが、従4位下典(てん)薬(やくの)頭(かしら)清(きよ)水(みず)別(のべっ)当(とう)ともいう、この坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)正(まさ)野(の)の子としては、左衛門尉の実(じつ)雄(お)や、侍(じ)従(じゅう)5位下の貞(さだ)雄(お)らがいた、というが、この坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)正(まさ)野(の)(実際は、菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)岡(おか)だ。)こそが、弘法大師の僧(そう)空(くう)海(かい)(佐(さ)伯(えきの)宿(すく)祢(ね)真(ま)魚(うお)だ。)の実像なのだ。また、伝教(でんぎょう)大師(だいし)の僧(そう)最(さい)澄(ちょう)(実際は三(み)津(つの)首(おびと)広(ひろ)野(の)だ。)の義弟である、ということなのだ。 

さてそれでは、紀(きの)直(あたい)広(ひろ)嶋(しま)(実際は、阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)・阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)広(ひろ)目(め)だ。)の子という紀(きの)直(あたい)国(くに)栖(ます)(実際は、紀(きの)直(あたい)豊(とよ)嶋(しま)と同一人物だ。)なのだが、和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)(実際は、小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)石(いわ)根(ね)・阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)成(なり)・2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)船(ふな)守(もり)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)伊(い)可(か)保(ほ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)益(ます)麿(まろ)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)秋(あき)主(ぬし)・2代目国(こく)学(がくの)頭(かしら)博士(はかせ)の文(あや)部(べの)良(よし)道(みち)・国(こく)学(がくの)助(すけ)の菅(すが)野(のの)真(ま)道(みち)だ。)こそが、その実像なのだ。また、次男(実際は娘むこだ。)としては、紀(きの)直(あたい)豊(とよ)成(なり)(実際は、中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)庭(にわ)・娘むこの秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)安(やす)人(ひと)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)真(まさ)次(つぐ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)令(れい)珪(けい)だ。)がいたのだ。 

そしてまた、その(義)兄で、長男(実際は、初代紀(きの)直(あたい)秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)吉(よし)継(つぐ)・広(ひろ)国(くに)と同一人物だ。)である中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)長(なが)(実際は、菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)永(なが)見(み)・楊(や)侯(この)史(ふひと)令(れい)珍(ちん)だ。)こそが、佐(さえ)伯(きの)直(あたい)真(ま)魚(うお)である弘(こう)法(ぼう)大(だい)師(し)の僧(そう)空(くう)海(かい)の実父の佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)で、大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)魚(うお)(百済(くだら)王氏(こにきし)俊(しゅん)哲(てつ)だ。)なのだ。つまり弘(こう)法(ぼう)大(だい)師(し)の僧(そう)空(くう)海(かい)とは、大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)(実際は、菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)魚(うお)・巨(こ)勢(せの)野(の)足(たり)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)名(な)だ。)の3男(実際は実子の長男だ。)の菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)岡(おか)なのだ。 

さてそれでは、『紀(きの)国(こく)造(ぞう)家(け)系(けい)図(ず)』(紀(きの)朝(あそ)臣(み)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・中(なか)臣(とみの)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)の子孫だ。)で見てみれば、 

①紀(きの)朝(あそ)臣(み)古(こ)麻(ま)呂(ろ)(中納言中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)だ。)~②紀(きの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)嶋(しま)(娘むこの阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)泰(やす)麿(まろ)だ。)~③紀(きの)朝(あそ)臣(み)国(くに)栖(ます)(阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)成(なり)・2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)船(ふな)守(もり)だ。)~④紀(きの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)成(なり)(次男で娘むこの秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)安(やす)人(ひと)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)真(まさ)次(つぐ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)令(れい)珪(けい)だ。)や、また、次に、④紀(きの)朝(あそ)臣(み)高(たか)継(つぐ)(3男の中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)御(み)笠(かさ)麿(まろ)・大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)雄(お)黒(くろ)麿(まろ)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)岑(みね)守(もり)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)氏(うじ)成(なり)・楊(や)侯(この)史(ふひと)令(れい)璆(きゅう)・伴(ともの)朝(あそ)臣(み)国(くに)道(みち)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)だ。)~深(しん)海(かい)(娘むこの伴(ともの)朝(あそ)臣(み)全(たま)継(づぐ)・菅(すが)原(はらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)公(きみ)だ。)~槻(つき)雄(お)(娘むこの大納言伴(ともの)朝(あそ)臣(み)善(よし)男(お)だ。)や、また、次に、④紀(きの)臣(おみ)弘(ひろ)淵(ふち)(津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)浄(きよ)水(みず)・娘むこの藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)継(つぐ)縄(なお)・人(ひと)麻(ま)呂(ろ)だ。)たち4人の人物がいた、という系譜なのだ。 

さてそれでは、津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)高(たか)継(つぐ)(3男の中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)御(み)笠(かさ)麿(まろ)・大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)岑(みね)守(もり)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)氏(うじ)成(なり)・楊(や)侯(この)史(ふひと)令(れい)璆(きゅう)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)雄(お)黒(くろ)麿(まろ)・伴(ともの)朝(あそ)臣(み)国(くに)道(みち)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)だ。)の次男(娘むこだ。)という秋(あき)篠(しの)朝(あそ)臣(み)全(たま)継(つぐ)(伴(ともの)深(しん)海(かい)・菅(すが)原(はらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)公(きみ)だ。)の娘むことしては、伴(ともの)大納言善(よし)雄(お)なのだ。つまり紀(きの)直(あたい)深(しん)海(かい)(実際は菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)公(きみ)だ。)の娘むこで次男の槻(つき)雄(お)こそが、その実像なのだ。また、3男の津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)高(たか)継(つぐ)(実際は、中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)御(み)笠(かさ)麿(まろ)・大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)岑(みね)守(もり)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)氏(うじ)成(なり)・楊(や)侯(この)史(ふひと)令(れい)璆(きゅう)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)雄(お)黒(くろ)麿(まろ)・伴(ともの)朝(あそ)臣(み)国(くに)道(みち)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)だ。)の3男(実子の長男だ。)の秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)貞(さだ)男(お)(助(すけ))なのだ。 

さてそれでは、初代槻(つき)本(もとの)公(きみ)奈弖(なて)麻呂(まろ)の実像なのだが、右大臣大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(実際は、紀(きの)直(あたい)建(たけ)嶋(しま)だ。)なのだ。また、その実子は坂(さかの)上(うえの)小(こ)老(おゆ)(実際は、坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)犬(いぬ)養(かい)・初代石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)成(なり)だ。)なのだ。そしてまた、その実子は①坂(さかの)上(うえの)大(おお)宿(すく)禰(ね)苅(かり)田(た)麻(ま)呂(ろ)(実際は、2代目秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)成(なり)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)成(なり)・2代目槻(つき)本(もとの)公(きみ)奈弖(なて)麻呂(まろ)・秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)安(やす)人(ひと)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)庭(にわ)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)真(まさ)次(つぐ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)令(れい)珪(けい)・土(は)師(じの)宿(すく)禰(ね)道(みち)長(なが)だ。)なのだ。また、その実弟としては、②槻(つき)本(もとの)公(きみ)豊(とよ)人(ひと)(坂(さかの)上(うえの)山(やま)野(の)だ。)や、③3代目槻(つき)本(もとの)公(きみ)豊(とよ)成(なり)(坂(さかの)上(うえの)越(こし)足(たり)だ。)たち3人の兄弟がいた、ということなのだ。 

さてそれでは、2代目槻(つき)本(もとの)公(きみ)奈弖(なて)麻呂(まろ)(実際は、坂(さかの)上(うえの)大(おお)宿(すく)禰(ね)苅(かり)田(た)麻呂(まろ)・秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)安(やす)人(ひと)だ。)の実子としては、2男という槻(つき)本(もとの)公(きみ)弘(ひろ)貞(さだ)や、3男という槻(つき)本(もとの)公(きみ)氷河(ながかわ)たちがいたのだ。また、この2男という槻(つき)本(もとの)公(きみ)弘(ひろ)貞(さだ)こそが、坂(さかの)上(うえの)鷹(たか)主(ぬし)なのだ。また、3男という槻(つき)本(もとの)公(きみ)氷河(ながかわ)こそが、6男の坂(さかの)上(うえの)鷹(たか)養(かい)(弘仁8年4月没。)なのだ。そしてまた、長男の石(いわ)津(つ)麿(まろ)こそが、鎮(ちん)守(じゅ)府(ふ)将(しょう)軍(ぐん)の坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ)(実際は、3代目百済(くだら)安宿(あすかべ)公(こう)奈弖(なて)麻呂(まろ)・土(は)師(じの)宿(すく)禰(ね)道(みち)長(なが)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)道(みち)長(なが)だ。)である大納言南(みなみ)淵(ぶちの)朝(あそ)臣(み)年(とし)名(な)(実際は、坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ)だ。)なのだ。また、この一族は、息(おき)長(ながの)真(ま)人(ひと)氏(し)の一族なのだ。また、『小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)』や、『調(つきの)忌(いみ)寸(き)』や、『多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)』や、『伊(い)岐(きの)連(むらじ)』や、『石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)』たちが同一氏族なのだ。そしてまた、古代氏族のうちで、草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)(実際は、高(たけ)市(ちの)皇(み)子(こ)・穂(ほ)積(ずみの)皇(み)子(こ)・藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)だ。)の子孫である『藤(ふじ)原(わら)氏(し)』や、42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)の皇(み)子(こ)や、孫たち』以外の、中央貴族では、すべてこの一族の人物なのだ。つまり同一人物が、別名称の複数の別人物ともなって『各古代豪族の系譜』そのものが創作されている、ということなのだ。 

さてそれでは、その証拠なのだが、①石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)成(なり)(実際は、坂(さかの)上(うえの)忌(いみ)寸(き)犬(いぬ)養(かい)だ。)や、石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)人(ひと)(実際は、石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)人(ひと)成(なり)・娘むこの菅(すが)原(はらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)・大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)魚(うお)だ。)たちの2人の実像だが、大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(実際は、坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)大(おお)国(くに)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)美(み)岐(き)麿(まろ)・大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)石(いわ)足(たり)だ。)の長男(石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)成(なり)だ。)や、実際は、異母妹の次女の娘むこである石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)人(ひと)(菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)・大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)魚(うお)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)長(なが)・上(かみ)毛(け)野(の)朝(あそ)臣(み)穎(ひで)人(ひと)・巨(こ)勢(せの)野(の)足(たり)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)名(な)・石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)人(ひと)成(なり)だ。なお、長女のむことは、その実父の阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)だ。)なのだ。 

さてそれでは、『蘇(そ)我(がの)石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)の系譜』で見てみれば、蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)の子(実際は、娘むこだ。)としては、蘇(そ)我(がの)倉(くら)麻(ま)呂(ろ)(実際は、蘇(そ)我(がの)蝦(えみ)夷(しの)大(おお)臣(おみ)・阿(あ)倍(べの)倉(くら)梯(はし)麻(ま)呂(ろ)・久米皇子・田(た)目(めの)皇(み)子(こ)・秦(はたの)川(かわ)勝(かつ)・小(お)野(のの)妹(いも)子(こ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)徳(とこ)陀(だ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)大海(ひろみ)だ。)がいたのだ。また、その子(娘むこ含む。)としては、①蘇(そ)我(がの)倉(くら)山(やま)田(だの)石(いし)川(かわ)麻(ま)呂(ろ)(実際は、娘むこの聖(しょう)徳(とく)太(たい)子(し)・35代舒(じょ)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。)や、②蘇(そ)我(がの)赤(あか)兄(えの)大(おお)臣(おみ)(実際は、娘むこの中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)・山(やま)背(しろの)大(おお)兄(えの)皇(み)子(こ)・賀(か)茂(もの)小(お)黒(ぐろ)麻(ま)呂(ろ)・百済(くだら)王子(おうじ)の余(よ)豊(ほう)璋(しょう)だ。)や、③蘇(そ)我(がの)連(むらじ)子(この)大(おお)臣(おみ)(実際は、実子で長男の阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)・高(たか)梯(はしの)王(みこ)・中(なか)臣(とみの)連(むらじ)国(くに)足(たり)・大(おお)中(なか)臣(とみの)金(こがねの)連(むらじ)・三(み)輪(わの)君(きみ)利(とし)金(かね)・秦(はたの)国(くに)勝(かつ)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)夜(や)平(へい)・小(お)野(のの)毛(えみ)人(し)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)久(く)治(じ)良(らの)臣(おみ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)紫(し)壇(だん)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)黒(くろ)麻(ま)呂(ろ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)比(ひ)等(と)だ。)や、④蘇(そ)我(がの)日(ひゅう)向(がの)臣(おみ)(実際は、実子で次男の多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)白(はく)鳥(ちょう)・大(おお)中(なか)臣(とみの)許(こ)海(め)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)伊(い)呂(ろ)具(ぐ)・韓(から)国(くにの)連(むらじ)久(く)々(く)比(ひの)命(みこと)・大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)・男(おのこの)王(みこ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)邑(お)治(じ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)小(こ)邑(お)治(じ)だ。)たち4人の人物がいた、ということなのだ。 

さてそれでは、この蘇(そ)我(がの)連(むらじ)子(この)大(おお)臣(おみ)(実際は、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)久(く)治(じ)良(らの)臣(おみ)・阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)・高(たか)梯(はしの)王(みこ)・中(なか)臣(とみの)連(むらじ)国(くに)足(たり)・大(おお)中(なか)臣(とみの)金(こがねの)連(むらじ)・三(み)輪(わの)君(きみ)利(とし)金(かね)・秦(はたの)国(くに)勝(かつ)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)夜(や)平(へい)・小(お)野(のの)毛(えみ)人(し)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)紫(し)壇(だん)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)黒(くろ)麻(ま)呂(ろ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)比(ひ)等(と)だ。)の子(娘むこ含む。)としては、 

①鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)黒(くろ)彦(ひこ)命(のみこと)(実際は、長女のむこの石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)・蘇(そ)我(がの)石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)宮(みや)麻(ま)呂(ろ)・有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)・三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麻(ま)呂(ろ)・猿(さる)丸(まる)大(だ)夫(ゆう)だ。)や、②鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)伊(い)呂(ろ)具(ぐ)(実際は、異母弟で次女の巨(こ)勢(せの)郎(いら)女(つめ)のむこの多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)白(はく)鳥(ちょう)・韓(から)国(くにの)連(むらじ)久(く)々(く)比(ひの)命(みこと)・大(おお)中(なか)臣(とみの)許(こ)海(め)・大納言大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)・男(おのこの)王(みこ)・蘇(そ)我(がの)日(ひゅう)向(がの)臣(おみ)・大納言蘇(そ)我(がの)果(はた)安(やす)・大納言蘇(そ)我(がの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)邑(お)治(じ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)小(こ)邑(お)治(じ)だ。)や、長男の③鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)板(いた)持(もち)(実際は、中納言中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)秦(はたの)都(つ)理(り)・蘇(そ)我(がの)石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)安(やす)麿(まろ)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)毛(け)野(の)・下(しも)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・息(おき)長(ながの)真(ま)人(ひと)老(おゆ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)名(な)代(しろ)・紀(きの)直(あたい)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・中(なか)臣(とみの)連(むらじ)安(あん)達(だつ)・大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)池(いけ)守(もり)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)牛(うま)養(かい)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)多(た)益(ま)須(す)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)三(み)宅(やけ)麻(ま)呂(ろ)・羊(ひつじ)大夫(だゆう)だ。)や、次男の④鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)五(い)百(お)足(たり)(実際は、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)・阿(あ)倍(べの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)・平(へ)群(ぐりの)子(こ)首(びと)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)狛(こま)麿(まろ)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)縣(あがた)守(もり)・粟(あわ)田(たの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)野(のの)朝(あそ)臣(み)東(あずま)人(びと)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)奈(な)弖(て)麻(ま)呂(ろ)だ。)たち4人の人物がいた、ということなのだ。 

さてそれでは、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)伊(い)呂(ろ)具(ぐ)(実際は、多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)白(はく)鳥(ちょう)・韓(から)国(くにの)連(むらじ)久(く)々(く)比(ひの)命(みこと)・大(おお)中(なか)臣(とみの)許(こ)海(め)・大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)・男(おのこの)王(みこ)・蘇(そ)我(がの)日(ひゅう)向(がの)臣(おみ)・蘇(そ)我(がの)果(はた)安(やす)だ。)の子(娘むこ含む。)としては、 

①長女のむこの鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)黒(くろ)彦(ひこ)命(のみこと)(実際は、蘇(そ)我(がの)石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)宮(みや)麻(ま)呂(ろ)・石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)・有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)・三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麻(ま)呂(ろ)・猿(さる)丸(まる)大(だ)夫(ゆう)だ。)や、②次女の多(た)治(じ)比(ひの)郎(いら)女(つめ)(阿(あ)岐(き)良(ら)姫(ひめ)だ。)のむこである鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)秦(はたの)都(つ)理(り)(実際は、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)板(いた)持(もち)・中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)・息(おき)長(ながの)真(ま)人(ひと)老(おゆ)・紀(きの)直(あたい)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)人(ひと)足(たり)・大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)池(いけ)守(もり)・蘇(そ)我(がの)石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)安(やす)麿(まろ)だ。)や、③3女のむこである鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)五(い)百(お)足(たり)(実際は、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)・阿(あ)倍(べの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)・平(へ)群(ぐりの)子(こ)首(びと)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)狛(こま)麿(まろ)だ。)や、④4女の坂(さかの)上(うえの)郎(いら)女(つめ)(実際は、穂(ほず)積(み)親(しん)王(のう)の妃(きさき)で、のちに異母弟の大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)に嫁ぐ。)や、⑤長男の中納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)(実際は、大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)池(いけ)吉(よし)・巨(こ)勢(せの)堺(さかい)麻(ま)呂(ろ)だ。)や、⑥次男の中納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)足(たり)(実際は、津(つ)守(もりの)連(むらじ)池(いけ)雄(お)・大(おお)伴(ともの)稲(いなの)公(きみ)だ。)たち6人の人物がいた、ということなのだ。 

さてそれでは、阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)の長男である中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、蘇(そ)我(がの)石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)安(やす)麿(まろ)・大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)・息(おき)長(ながの)真(ま)人(ひと)老(おゆ)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)秦(はたの)都(つ)理(り)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)板(いた)持(もち)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)毛(け)野(の)・下(しも)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)名(な)代(しろ)・中(なか)臣(とみの)連(むらじ)安(あん)達(だつ)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)池(いけ)守(もり)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)牛(うま)養(かい)・巨(きょ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)多(た)益(ま)須(す)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)三(み)宅(やけ)麻(ま)呂(ろ)・羊(ひつじ)大夫(だゆう)だ。)である紀(きの)直(あたい)古(こ)麻(ま)呂(ろ)の実子としては、 

紀(きの)直(あたい)建(たて)嶋(しま)(実際は、石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)石(いし)足(たり)・大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)・大(おお)伴(ともの)宿(すく)禰(ね)家(やか)持(もち)・初代槻(つき)本(もとの)公(きみ)奈弖(なて)麻呂(まろ)だ。)がいたのだ。そしてまた、その子としては、、宝亀3年(772年)9月8日に没した、という①石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)成(なり)がいた、とも伝えるのだが、この石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)成(なり)の実像とは、天平宝字8年(764年)12月12日に、行年82才で没したという大和守・正4位上の東大寺長官、坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)犬(いぬ)養(かい)(大(やま)和(との)宿(すく)禰(ね)長(なが)岡(おか)だ。)なのだ。そしてまた、その兄弟(義)としては、②石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)年(とし)足(たり)(娘むこの和(わ)気(けの)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)・坂(さかの)上(うえの)郡(あがた)守(もり)・阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)だ。)や、③石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)人(ひと)成(なり)(実際は、異母妹の次女のむこの菅(すが)原(はらの)古(ふる)人(ひと)・大(おお)中(なか)臣(とみの)諸(もろ)魚(うお)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)穎(ひで)人(ひと)だ。 )たち3人がいた、ということなのだ。 

さてそれでは、大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)狛(こま)麿(まろ)(実際は、大(おお)野(のの)朝(あそ)臣(み)東(あずま)人(びと)・秦(はたの)忌(いみ)寸(き)五(い)百(お)足(たり)・阿(あ)倍(べの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)だ。)である中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)の長男の阿(あ)倍(べの)引(きけ)田(たの)島(しま)足(たり)こそが、その実像としては、吉(き)備(びの)真(まき)備(び)なのだ。つまり中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、息(おき)長(ながの)真(ま)人(ひと)老(おゆ)・紀(きの)直(あたい)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)人(ひと)足(たり)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)秦(はたの)都(つ)理(り)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)板(いた)持(もち)・大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)池(いけ)守(もり)だ。)の次女のむこで養子ともなった人物なのだ。そしてまた、初代槻(つき)本(もとの)公(きみ)奈弖(なて)麻呂(まろ)である長男の右大臣中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)石(いし)足(たり)・中納言大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・紀(きの)直(あたい)建(たて)嶋(しま)・巨(こ)勢(せの)苗(なえ)麻(ま)呂(ろ)だ。)の年齢から見れば、8歳ぐらいの年上なのだ。しかしながら、右大臣中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)の実妹を娶っている、ということなのだ。さてそれでは、この頃の大(やま)和(と)王(おう)権(けん)内部の権力状況を見れば、藤(ふじ)原(わら)一(いち)族(ぞく)との権力争いが凄まじかったために、大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)腹(ばら)系(けい)、つまり中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)の娘むこの2人(久米皇子の実子の2人だ。)たち従来からの中央貴族は、その筆頭の中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)の長男の息(おき)長(ながの)真(ま)人(ひと)老(おゆ)・紀(きの)直(あたい)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)人(ひと)足(たり)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)秦(はたの)都(つ)理(り)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)板(いた)持(もち)・大納言大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)・大納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)池(いけ)守(もり)・中納言巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)牛(うま)養(かい)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)多(た)益(ま)須(す)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)・中納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)三(み)宅(やけ)麻(ま)呂(ろ)・羊(ひつじ)大夫(だゆう)・石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)安(やす)麿(まろ)だ。)としては、その次女のむこに、実弟の中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)(実際は、大納言阿(あ)倍(べの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)・平(へ)群(ぐりの)子(こ)首(びと)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)狛(こま)麿(まろ)・大(おお)野(のの)朝(あそ)臣(み)東(あずま)人(びと)だ。)の長男である阿(あ)倍(べの)引(きけ)田(たの)島(しま)足(たり)(実際は、右大臣吉(き)備(びの)真(ま)備(きび)・紀(きの)直(あたい)千(ち)嶋(しま)・大(おお)伴(ともの)書(ふみ)持(もち)・大(おお)伴(とも)古(こ)慈(ひ)悲(じ)だ。)を、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)家(け)(息(おき)長(ながの)真(ま)人(ひと)老(おゆ)・紀(きの)直(あたい)古(こ)麻(ま)呂(ろ)家(け)だ。)に婿入りさせたのだ。そのために、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)(実際は、大納言阿(あ)倍(べの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)・平(へ)群(ぐりの)子(こ)首(びと)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)狛(こま)麿(まろ)・大(おお)伴(ともの)道(みち)足(たり)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)縣(あがた)守(もり)・大(おお)野(のの)朝(あそ)臣(み)東(あずま)人(びと)・大納言巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)奈(な)弖(て)麻(ま)呂(ろ)・阿(あ)倍(べの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)庭(にわ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)難(なに)波(わ)麻(ま)呂(ろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)人(ひと)・上(かみ)毛(け)野(のの)君(きみ)三(み)千(ちち)だ。)家(け)の『跡取り息子』としては、残された次男である阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)(実際は、阿(あ)倍(べの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)・初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)・大(おお)伴(ともの)高(たか)多(た)麻(ま)呂(ろ)だ。)こそが、『阿倍(あべ)氏(し)の相続人』ともなった、ということなのだ。また、この人物は、中納言中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)の3女である中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)の異母妹を娶っているのだ。つまり紀(きの)直(あたい)広(ひろ)嶋(しま)こそがその実像なのだ。また、中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(中納言大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)だ。)よりは、4歳ほどは年上の人物なのだ。 

さてそれでは、中納言大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)である右大臣中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)の弟の大(おお)伴(ともの)書(ふみ)持(もち)だが、その実像としては、右大臣吉(き)備(びの)真(ま)備(きび)や、大(おお)伴(ともの)古(こ)慈(し)斐(び)である紀(きの)直(あたい)千(ち)嶋(しま)なのだ。つまり後(ご)妻(さい)として、中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(中納言大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)だ。)の異母妹の次女を娶ってむこ入りした人物なのだ。そしてまた、先(せん)妻(さい)としては、藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)の娘を娶っていた、ということなのだ。また、その実弟である阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)(実際は、阿(あ)倍(べの)引(きけ)田(たの)広(ひろ)目(め)・阿(あ)倍(べの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)・初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)三(み)原(はら)麿(まろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)瀬(せ)だ。)である紀(きの)直(あたい)広(ひろ)嶋(しま)としては、大(おお)伴(ともの)高(たか)多(た)麻(ま)呂(ろ)こそが、その実像なのだ。また、実子としては、和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)虫(むし)や、その実弟である和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)(阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・楊(や)侯(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)躬(み)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・大納言紀(きの)朝(あそ)臣(み)船(ふな)守(もり)・2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)だ。)たち1男1女がいた、ということなのだ。 

さてそれでは、『大(おお)伴(とも)氏(し)の系譜』で見れば、高(たけ)市(ちの)大(たい)卿(きょう)という大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)や、その弟の大納言大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)とは実際は同一人物なのだ。つまり『記紀(きき)』では同一人物が複数の人物へ変身しているが、『1人の人物を複数の兄弟にしてしまう』隠蔽テクニックによって分身としたのだ。つまり大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)や、その弟の大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)たち2人の実像は、左大臣多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)(実際は、蘇(そ)我(がの)日(ひゅう)向(がの)臣(おみ)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)白(はく)鳥(ちょう)・蘇(そ)我(がの)臣(おみ)果(はた)安(やす)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)伊(い)呂(ろ)具(ぐ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)邑(お)治(じ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)小(こ)邑(お)治(じ)だ。)がその実像なのだ。そしてまた、その子(娘むこ含む。)としては、①長女の娘むこの左大臣石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、津(つ)守(もりの)連(むらじ)生(いく)羽(は)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)小(お)建(だての)黒(くろ)彦(ひこ)命(のみこと)・紀(きの)臣(おみ)麻(ま)呂(ろ)だ。)や、②次女の多(た)治(じ)比(ひの)郎(いら)女(つめ)のむこの大納言大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)(中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)臣(おみ)古(こ)麻(ま)呂(ろ)だ。)や、③3女の娘むこの大(おお)伴(ともの)田(た)主(ぬし)(大(おお)伴(ともの)道(みち)足(たり)だ。)である中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)(実際は、紀(きの)臣(おみ)麻(ま)路(じ)・大(おお)伴(ともの)祖(お)父(じ)麻(ま)呂(ろ)だ。)たち3人がいた、ということなのだ。また、実子としては、④4女の坂(さかの)上(うえの)郎(いら)女(つめ)(穂(ほ)積(ずみ)親(しん)王(のう)の妃(きさき)で、後に異母弟の大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麿(まろ)の後(ご)妻(さい)だ。)や、その異母弟である⑤長男の大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麿(まろ)(実際は、大(おお)伴(ともの)宿(すく)禰(ね)山(やま)守(もり)・中納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)池(いけ)吉(よし)・海(あま)部(べの)直(あたい)枳(き)都(つ)だ。)や、その実弟である⑥次男の大(おお)伴(ともの)稲(いなの)公(きみ)(中納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)足(たり)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)池(いけ)雄(お)だ。)たち6人の人物がいた、ということなのだ。 

さてそれでは、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)(実際は、阿(あ)倍(べの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)・平(へ)群(ぐりの)子(こ)首(びと)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)狛(こま)麿(まろ)・大(おお)野(のの)朝(あそ)臣(み)東(あずま)人(びと)だ。)の長女の松(ま)都(つ)比(ひ)女(め)(妹(いも)子(こ)だ。)のむことしては、大(おお)伴(ともの)宿(すく)禰(ね)山(やま)守(もり)の実像である多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)(実際は、津(つ)守(もりの)連(むらじ)池(いけ)吉(よし)・海(あま)部(べの)直(あたい)枳(き)都(つ)・大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麿(まろ)・巨(こ)勢(せの)堺(さかい)麻(ま)呂(ろ)だ。)がいた、ということなのだ。 

そしてまた、その実弟の多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)足(たり)(実際は、大(おお)伴(ともの)宿(すく)禰(ね)稲(いなの)公(きみ)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)池(いけ)雄(お)だ。)とは、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)高(たけ)市(ち)麿(まろ)・三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麻(ま)呂(ろ)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)博(はか)床(とこ)だ。)である紀(きの)臣(おみ)麻(ま)呂(ろ)の第3子(長女だ。)のむこである紀(きの)朝(あそ)臣(み)宇(う)美(み)(第1子だ。)こそがその実像なのだ。そしてまた、中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(実際は、坂(さかの)上(うえの)忌(いみ)寸(き)大(おお)国(くに)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)興(おこ)志(し)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)美(み)岐(き)麿(まろ)・大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)家(いえ)主(ぬし)・調(つきの)忌(いみ)寸(き)家(いえ)主(ぬし)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)男(お)足(たり)だ。)としては、この石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)高(たけ)市(ち)麿(まろ)・三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麻(ま)呂(ろ)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)博(はか)床(とこ)だ。)である紀(きの)臣(おみ)麻(ま)呂(ろ)の娘の3女(第5子だ。)を、その先(せん)妻(さい)としている紀(きの)朝(あそ)臣(み)猿(さ)取(ぬし)(第4子だ。)こそがその実像なのだ。また、この2人間に、そのもうけた子としては、長男の大(やま)和(との)宿(すく)禰(ね)長(なが)岡(おか)(坂(さかの)上(うえの)忌(いみ)寸(き)犬(いぬ)養(かい)・剣の達人で僧(そう)道(どう)鏡(きょう)の師匠の路(みちの)真(ま)人(ひと)豊(とよ)永(なが)だ。)や、その実姉の大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)女(め)(実際は賀(か)陽(やの)臣(おみ)小(こ)玉(だま)女(め)だ。また、和気(わけの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻呂(まろ)の後(ご)妻(さい)だ。)の2人がいた、ということなのだ。そしてまた、右大臣中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(坂(さかの)上(うえの)忌(いみ)寸(き)大(おお)国(くに)だ。)の後(ご)妻(さい)としては、中納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)(巨(こ)勢(せの)堺(さかい)麻(ま)呂(ろ)だ。)である大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)の娘の大(おお)伴(ともの)坂(さかの)上(うえの)大(おお)嬢(いらつめ)(多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)小(こ)姉(あね)だ。)を娶っていたのだ。また、中納言大(おお)伴(ともの)宿(すく)禰(ね)家(やか)持(もち)こそが、右大臣中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(巨(こ)勢(せの)苗(なえ)麻(ま)呂(ろ)だ。)の実像である、ということなのだ。また、大(おお)伴(ともの)坂(さかの)上(うえの)大(おお)嬢(いらつめ)(多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)小(こ)姉(あね)だ。)としては、1人娘で大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)魚(うお)(大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)・佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)・菅(すが)原(はらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)穎(ひで)人(ひと)・巨(こ)勢(せの)野(の)足(たり)だ。)の正(せい)妻(さい)である仮称、若(わか)小(こ)玉(だま)女(め)をもうけていた、ということなのだ。 

さてそれでは、左大臣石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)の長男(第1子だ。)の石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)勝(かつ)男(お)なのだが、実際は大(だい)僧(そう)正(じょう)の僧(そう)行(ぎょう)基(き)上(しょう)人(にん)なのだ。また、紀(きの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)だ。)の第2子という紀(きの)朝(あそ)臣(み)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)こそがその実像なのだ。そしてまた、その子としては、紀(きの)朝(あそ)臣(み)古(こ)佐(さ)美(み)がいた、ということなのだ。それでは、紀(きの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)の第3子という紀(きの)朝(あそ)臣(み)男(お)人(ひと)の実像としては、実子で次男の石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)(大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)忍(おし)人(ひと)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)調(つき)足(たり)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)だ。)なのだ。そこで、兵庫県の有(あり)馬(ま)温(おん)泉(せん)だが、今から1400年前に噴出した名湯とも伝わるのだ。また、その由(ゆ)来(らい)としては、37代孝(こう)徳(とく)天(てん)皇(のう)の行(ぎょう)幸(こう)や、大(だい)僧(そう)正(じょう)の僧(そう)行(ぎょう)基(き)上(しょう)人(にん)の伝説などが残っているのだ。なお、この有(あり)馬(ま)の地とは、37代孝(こう)徳(とく)天(てん)皇(のう)(蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(だい)臣(じん)だ。)が、阿(あ)部(べ)氏(し)の小足(おたらし)姫(ひめ)との2人の間に、そのもうけた有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)からでているのだ。なぜならば、有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)とは、39代天智(てんじ)天皇(てんのう)が皇太子のとき、謀反(むほん)の動きがあるとして、『蘇(そ)我(がの)日(ひゅう)向(がの)臣(おみ)に、密告(みっこく)されて殺された。』というのだが、実際は『臣下(しんか)に降った。』ということなのだ。また、37代孝(こう)徳(とく)天(てん)皇(のう)や、33代崇(す)峻(しゅん)天(てん)皇(のう)の実像としては、蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)なのだ。つまりその実子の有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)の実像としては、当時、播磨(はりまの)国(くに)や、美作国(みまさかのくに)などの2か国の国(くにの)司(つかさ)であった三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麻(ま)呂(ろ)こそが、その実像なのだ。また、後の左大臣石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)黒(くろ)彦(ひこ)命(のみこと)だ。)である、ということなのだ。また、藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)の兄の定慧(じょうえ)や、猿(さる)丸(まる)大(だ)夫(ゆう)なのだ。それでは、蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)の実像である37代孝(こう)徳(とく)天(てん)皇(のう)(33代崇(す)峻(しゅん)天(てん)皇(のう)だ。)なのだが、阿(あ)倍(べ)氏(し)(阿(あ)倍(べの)倉(くら)梯(はし)麻(ま)呂(ろ)・久米皇子だ。)の娘という小足(おたらし)姫(ひめ)を、その寵(ちょう)妃(ひ)として娶って孕(はら)んで、その後、この37代孝(こう)徳(とく)天(てん)皇(のう)(33代崇(す)峻(しゅん)天(てん)皇(のう)だ。)の長男の蜂(はち)子(この)皇(み)子(こ)である藤(ふじ)原(わらの)鎌(かま)足(たり)(蘇(そ)我(がの)赤(あか)兄(えの)大(おお)臣(おみ)・鴨(かもの)小(お)黒(ぐろ)麻(ま)呂(ろ)だ。)に降(こう)嫁(か)となって、そのもうけた子こそが養(よう)子(し)の有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)である、ということなのだ。つまり藤(ふじ)原(わらの)鎌(かま)足(たり)(蘇(そ)我(がの)赤(あか)兄(えの)大(おお)臣(おみ)・鴨(かもの)小(お)黒(ぐろ)麻(ま)呂(ろ)だ。)の元で養(よう)育(いく)された、ということなのだ。 

さてそれでは、大(だい)僧(そう)正(じょう)の僧(そう)行(ぎょう)基(き)上(しょう)人(にん)の実像としては、三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麻(ま)呂(ろ)である石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)黒(くろ)彦(ひこ)命(のみこと)・有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)だ。)の長男である石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)勝(かつ)男(お)なのだ。つまり①37代孝(こう)徳(とく)天(てん)皇(のう)~②有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)~③大(だい)僧(そう)正(じょう)の僧(そう)行(ぎょう)基(き)上(しょう)人(にん)という『直系の男子の系譜』ともなるのだ。また『皇族が臣(しん)下(か)に降る。』ということだが、これは、草(くさ)壁(かべ)皇(のみ)子(こ)や、高(たけ)市(ちの)皇(み)子(こ)が没してから、藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)へ変身して臣(しん)下(か)に降ったことや、33代崇(す)峻(しゅん)天(てん)皇(のう)の皇子の蜂(はち)子(この)皇(み)子(こ)(聖(しょう)徳(とく)太(たい)子(し)の娘むこの山(やま)背(しろの)大(おお)兄(えの)皇(み)子(こ)だ。)が殺されてから、実際は、中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)や、左大臣蘇(そ)我(がの)赤(あか)兄(えの)大(おお)臣(おみ)に変身したのだが、これは『臣(しん)下(か)に降る。』という隠蔽テクニックなのだ。また、聖(しょう)徳(とく)太(たい)子(し)や、その弟の35代舒(じょ)明(めい)天(てん)皇(のう)たちが同一人物なのだ。この『1人の人物が複数の兄弟に変身して登場する。』という分身の隠蔽手法こそが、『記紀(きき)』の内容を複雑にし、かつ難解にしている、ということなのだ。 

さてそれでは、大(やま)和(と)王(おう)権(けん)の実質的な中心人物である阿(あ)倍(の)御(み)主(う)人(し)(実際は、大(おお)伴(ともの)長(なが)徳(とこ)・蘇(そ)我(がの)連(むらじ)子(この)大(おお)臣(おみ)・高(たか)梯(はしの)王(みこ)・中(なか)臣(とみの)連(むらじ)国(くに)足(たり)・右大臣大(おお)中(なか)臣(とみの)金(こがねの)連(むらじ)・三(み)輪(わの)君(きみ)利(とし)金(かね)・秦(はたの)国(くに)勝(かつ)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)夜(や)平(へい)・小(お)野(のの)毛(えみ)人(し)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)久(く)治(じ)良(らの)臣(おみ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)紫(し)壇(だん)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)黒(くろ)麻(ま)呂(ろ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)比(ひ)等(と)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)牟(む)ロ(ろ)・紀(きの)大(お)口(くちの)臣(おみ)だ。)の子孫としては、その実子で長男の多(おおの)臣(おみ)安(やす)万(ま)侶(ろ)(実際は、中納言中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)・大納言大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)安(やす)麿(まろ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)多(た)益(ま)須(す)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)・中納言巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)牛(うま)養(かい)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)広(ひろ)麿(まろ)・中納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)三(み)宅(やけ)麻(ま)呂(ろ)・大納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)池(いけ)守(もり)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)毛(け)野(の)・下(しも)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)古(こ)麻(ま)呂(ろ)だ。)や、その実弟である多(おおの)臣(おみ)道(みち)万(ま)侶(ろ)の中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)(実際は、大納言阿(あ)倍(べの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)・平(へ)群(ぐりの)子(こ)首(びと)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)狛(こま)麿(まろ)・大(おお)伴(ともの)道(みち)足(たり)・大(おお)伴(ともの)田(た)主(ぬし)・大(おお)伴(ともの)祖(お)父(じ)麿(まろ)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)縣(あがた)守(もり)・大(おお)野(のの)朝(あそ)臣(み)東(あずま)人(びと)・大納言巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)奈(な)弖(て)麻(ま)呂(ろ)だ。)や、また、その子たちで万葉歌人の中納言大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)の実像である右大臣大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)や、唐(とう)に渡ったという阿(あ)部(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)や、その実兄の右大臣吉備真備(きびのまきび)や、また、阿(あ)部(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)の長男の2代目国(こく)学(がくの)頭(かしら)博(はか)士(せ)文(あや)部(べの)良(よし)道(みち)の和(わ)氣(けの)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)(実際は、大納言紀(きの)朝(あそ)臣(み)船(ふな)守(もり)・阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)だ。)や、坂(さかの)上(うえの)大(おお)宿(すく)禰(ね)苅(かり)田(た)麻(ま)呂(ろ)である秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)安(やす)人(ひと)や、また、その実子の坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ)(菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)道(みち)長(なが)だ。)や、その実子の伝(でん)教(ぎょう)大(だい)師(し)の僧(そう)最(さい)澄(ちょう)(坂(さかの)上(うえの)大(おお)宿(すく)禰(ね)苅(かり)田(た)麻(ま)呂(ろ)の実子だ。)や、その義弟の弘(こう)法(ぼう)大(だい)師(し)の僧(そう)空(くう)海(かい)(菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・大(おお)伴(ともの)継(つぎ)人(ひと)・佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)の実子だ。)や、更に、子孫である学問の神様という『北(きた)野(の)天(てん)神(じん)』の右大臣菅(すが)原(わらの)道(みち)真(ざね)たちなど、これらの人物を輩出た一族である、ということなのだ。また、彼らの子孫には、小(お)野(のの)小(こ)町(まち)や、紀(きの)貫(つら)之(ゆき)たちもいた、ということなのだ。 

さてところで、話は一気に戻るのだが、じつは、平岡宮(ひらおかのみや)も、泡(あわ)輪宮(わのみや)も同じ場所とも推測されるのだ。また、『先代(せんだい)旧事本(くじほん)紀(き)(先代(せんだい)旧事本(くじほん)紀(き)大成(たいせい)経(きょう)だ。)』の内容だが、その巻第1の、『神(かみ)代(よの)本(ふ)紀(み)』(『神(かみ) 代(よの)系(つぎ)紀(ふみ)』・『陰(め)陽(をの)本(ふ)紀(み)』からなる。)とは、『古(こ)事(じ)記(き)』に記述される『天(てん)地(ち)開(かい)闢(びゃく)』の部分なのだ。また、次の巻第2の、『神(あまつかみ)祇(くにつかみの)本(ふ)紀(み)』とは、『天(あま)照(てらすの)大(おおみ)神(かみ)とスサノオ尊の誓(う)約(けい)』や、『宗(むな)像(かた)三(さん)女(じょ)神(しん)」や、『男(だん)神(しん)の誕生』や、天(あま)照(てらす)大神(のおおみかみ)の『天(あまの)磐(いわ)戸隠(とかく)れの神(しん)話(わ)』や、『スサノオ尊の根國(ねのくに)への追放』などの部分なのだ。また、『天(あまつ)神(かみの)本(ふ)紀(み)』の巻第3の、『陰(め)陽(をの)本(ふ)紀(み)』としては、ニギハヤヒ尊である天火(あまのほ)明(あかり)命(のみこと)を、天(あま)照(てらす)大(おおみ)神(かみ)の子の天押(あまのおし)穂(ほ)耳(みみ)尊(のみこと)(ウガ御魂(のみたま)命(のみこと)だ。)の児として、神(じん)武(む)東(とう)征(せい)以(い)前(ぜん)、すでに、ニギハヤヒ尊(猿(さる)田(た)彦(ひこ)命(のみこと)だ。)こそが、瑞(みづの)寶(たから)十(と)種(ぐさ)や、32人の武(ぶ)将(しょう)や、25の物(もの)部(のべの)軍(ぐん)団(だん)(実際は宗(そう)族(ぞく)の勝(まさる)部(べ)の子孫・猿(さる)田(た)族(ぞく)だ。)を率いて大(やま)和(との)國(くに)に来られ、富(とみの)長(なが)髄(すね)彦(ひこ)命(のみこと)の妹を、その妃(きさき)として統治された、という伝承なのだ。そしてまた、『地(くにつ)祇(かみの)本(ふ)紀(み)』の巻第4とは、『宗(むな)像(かたの)三(さん)女(じょ)神(しん)の神話』や、スサノオ尊の『八(や)岐(またの)大(お)蛇(ろち)退治(たいじ)の神話』や、『大(おお)国(くに)主(ぬし)命(のみこと)の國(くに)造(づくり)神話』なのだ。また、 『天(あまつ)孫(みまきの)本(ふ)紀(み)』の巻第5は、ニギハヤヒ尊の子という天(あまの)香山(かごやま)命(のみこと)や、宇(う)摩(ま)志(し)痲(ま)治(じ)尊(のみこと)の系譜について記述しているのだが、ここにこそ、歴代の天皇が『物(もの)部(のべ)氏(し)の氏(うじの)上(かみ)』(部族長)の名称で記される、ということなのだ。つまりこの中に『物(もの)部(のべ)氏(し)の氏(うじの)上(かみ)』たちが記述されるのだが、また、これらの人物は、古代天皇の実像とも推測されるのだ。また、その最後は『氏上(うじのかみ)』ではないが、物(もの)部(のべの)石(いその)上(かみの)朝(あ)臣(そみ)麻(ま)呂(ろ)(猿(さる)丸(まる)大(だ)夫(ゆう)だ。)という人物で締め括られているのだ。これこそが北九州の豪族の猿(さる)田(た)族(ぞく)が天(てん)孫(そん)族(ぞく)である、という証(しょう)拠(こ)なのだ。さてそれでは、『皇(すめ)孫(みまきの)本(ふ)紀(み)』の巻第6とは、『ニニギ尊の天(あま)降(くだ)り神話』や、『コノハナサクヤ姫の神話』や、『海サチヒコ(天(あまの)香(かご)山(やまの)命(みこと)だ。)と山サチヒコ(天(あまの)火(ほ)明(あかりの)命(みこと)だ。)の神話』や、『イワレヒコ尊の東(とう)征(せい)説(せつ)話(わ)』なのだ。また、『天(あまつ)皇(きみの)本(ふ)紀(み)』の巻第7とは、初代神武(じんむ)天皇(てんのう)から、15代神功(じんぐう)皇后(こうごう)までの歴代天皇の系譜(けいふ)を記述したものなのだ。また、『神(かむ)皇(きみの)本(ふ)紀(み)』の巻第8とは、16代応(おう)神(じん)天皇(てんのう)から、26代武烈(ぶれつ)天皇(てんのう)までの歴代天皇の系譜や、その経緯を記述したものだ。また、『帝(みか)皇(どの)本(ふ)紀(み)』の巻第9とは、27代継体(けいたい)天皇(てんのう)から、34代推(すい)古(こ)天(てん)皇(のう)までの系譜(けいふ)と説話(せつわ)なのだ。そしてまた、皇太子の聖(しょう)徳(とく)太(たい)子(し)が、官位(かんい)十二階(じゅうにかい)の制度を成立させたことや、小(お)野(のの)妹(いも)子(こ)(田(た)目(めの)皇(み)子(こ)・久米皇子だ。)が、大(おお)唐(から)國(こく)(随(ずい)だ。)から帰国されたことなどだ。また、最後の『國(くにの)造(みやつこの)本(ふ)紀(み)』の巻第10とは、『初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)や、その後の天皇によって任命された135ヶ国の國(くにの)造(みやつこ)について』記したものなのだ。つまり以上から成立している、ということなのだ。

さてそれでは、34代推古(すいこ)天皇(てんのう)28年(620年)春2月の条を見てみれば、聖(しょう)徳(とく)太(たい)子(し)や、蘇(そ)我(がの)馬(うま)子大臣(このおおおみ)が、推古(すいこ)天皇(てんのう)の勅(ちょく)命(めい)によって、この『先(せん)代(だい)旧(く)事(じ)本(ほん)紀(き)』や、『天(てん)皇(のう)記(き)』や、『國記(くにつふみ)』や、『臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(とものみやつこ)・國造(くにのみやつこ)』や、『八(や)十(そ)部(べの)公(こう)民(みん)等(とう)の本紀(ほんき)』(新(しん)撰(せん)姓(しょ)氏(うじ)録(ろく)の原形だ。)などを撰(せん)録(ろく)された、と記すのだ。そこで、このうち、『先(せん)代(だい)旧(く)事(じ)本(ほん)紀(き)』巻第5の『天(あまつ)孫(みま)本(きのもとつ)紀(ふみ)』にこそ、実際上の古代天皇や、その一族の真実の姿を解き明かす、その秘密があるのだ。なぜならば、すべての古代氏族とは、同一氏族であるからなのだ。つまり『物(もの)部(のべ)氏(し)の氏(うじの)上(かみ)(部族長)』とも見られる人物たちの、系譜上の前後の繋がりから見て、この事実は、十分証明されるからなのだ。

さてそれでは、最後に言えば、大(やま)和(と)民(みん)族(ぞく)の主流の天(てん)孫(そん)族(ぞく)こそが北九州地方の猿田族(さるたぞく)(宗(むな)像(かた)海(かい)人(じん)族(ぞく)だ。)なのだ。また、韓(かん)半島をも巻き込んいるのだ。つまり北イスラエル系のゼブルン部族(ぶぞく)系(けい)の海洋系騎馬民族なのだ。また、このウガヤフキアエズ王朝(おうちょう)の末裔(まつえい)である秦(はた)氏(し)一(いち)族(ぞく)(天(てん)孫(そん)族(ぞく)・海(あま)部(べ)族(ぞく)・物(もの)部(のべ)族(ぞく)・宗(むな)像(かた)海(かい)人(じん)族(ぞく)だ。)だが、じつは、古代(こだい)文書(もんじょ)という『竹(たけ)内(うち)文(もん)書(じょ)』(神(しん)代(だい)文(も)字(じ)で書かれた資料だ。又、『神(かみ)代(よの)古(こ)記(き)』が原形か?)によれば、『22代雄(ゆう)略(りゃく)天(てん)皇(のう)(実際は、太(うず)秦(まさの)公(きみ)・真(ま)若(わかの)君(きみ)・中(なか)臣(とみの)真(ま)人(ひとの)大(おお)連(むらじ)だ。)の勅(ちょく)命(めい)によって、平(へ)群(ぐりの)真(ま)鳥(どりの)大(おおまえつ)臣(きみ)(実際は、武内(たけのうちの)真(ま)鳥(どり)命(のみこと)・第8代武(たけの)内(うちの)宿(すく)禰(ね)だ。)や、大(おお)伴(ともの)室(もろ)屋(やの)連(むらじ)や、物(もの)部(のべの)目(めの)大連(おおむらじ)たち3人の連名(れんめい)で仮(か)名(な)と漢字(かんじ)を混ぜ用いて記されたもの。』とも伝えるのだ。また、『西暦471年3月15日に奏上された。』とも記す書物だが、この『竹(たけ)内(うち)文(もん)書(じょ)』によれば、『26代武(ぶ)烈(れつ)天(てん)皇(のう)の勅命によって、平(へ)群(ぐりの)真(ま)鳥(どりの)大(おお)臣(まえつきみ)が、富山県(越(えつ)中(ちゅう))婦(ね)負(い)郡(ぐん)神通川流域である御(み)皇(こ)城(しろ)山(やま)近辺の天(あまの)神(しん)人(じん)祖(そ)一(いち)神(じん)宮(ぐう)(皇祖(こうそ)皇(こう)太(たい)神宮(じんぐう)だ。)に、隠遁(いんとん)して、そのとき、『神(かみ)代(よの)古(こ)記(き)』を持ち出した。』という書物なのだ。この『竹(たけ)内(うち)文(もん)書(じょ)』から推測すれば、ここに登場した平(へ)群(ぐりの)真(ま)鳥(どりの)大(おお)臣(まえつきみ)や、大(おお)伴(ともの)室(もろ)屋(やの)大(おお)連(むらじ)や、初代物(もの)部(のべの)目(めの)大(おお)連(むらじ)たち3人の実像としては、実際は同一人物とも推測されるのだ。また、その実像は、群馬県太(おお)田(た)市(し)に所在する東国一の規模を誇る天(てん)神(じん)山(やま)古(こ)墳(ふん)や、埼玉県行(ぎょう)田(だ)市(し)に所在する『さきたま古墳群』の中の、稲(い)荷(なり)山(やま)古(こ)墳(ふん)の被葬者なのだ。つまり下(しも)毛(け)野(のの)君(きみ)の祖という奈(な)良(ら)別(わけ)命(のみこと)で、中(なか)臣(とみの)藍(あいの)大(おお)連(むらじ)や、中(なか)臣(とみの)斉(さい)穂(ほの)命(みこと)阿(あ)孫(び)古(この)連(むらじ)や、彦(ひこ)主人(うしの)王(みこ)や、阿(あ)居(けの)王(みこ)(吾笥(あけの)王(みこ)だ。)や、市(いち)辺(のべの)押(おし)歯(は)別(わけの)皇(み)子(こ)らの実像なのだ。また、23代清(せい)寧(ねい)天皇(てんのう)こそが、その実像なのだ。また、埼玉県行(ぎょう)田(だ)市(し)の稲(いな)荷(り)山(やま)古(こ)墳(ふん)から出土した鉄剣の銘文(めいぶん)だが、この銘文(めいぶん)に記される人物たちの実像としては、『記(き)紀(き)』の中の名称で見れば、意外と簡単に解明できるのだ。なぜならば、この地域とは、毛(け)野(のの)君(きみ)の上祖の開拓した土地だからだ。また、東国開拓の先兵(せんぺい)として大いに活躍したという毛(け)野(のの)君(きみ)の上祖こそが、大和(やまと)王権(おうけん)の頂点に立つ有力豪族なのだ。また、畿内はおろか東国から、九州地方や、北陸地方や、韓(かん)半島まで往復した古代の有力氏族なのだ。また、その伝説上の指導者としては、全国各地へ遠征しているため、その足跡は全国各地の地名にも残っているのだ。また、古代の大(おお)王(きみ)ということなのだが、それでは、この銘文(めいぶん)の内容としては、『辛(しん)亥(がい)の年(471年)の7月中に次のことを紀しておく。乎(お)獲(わ)居(けの)臣(おみ)(実際は、奈(な)良(ら)別(わけ)命(のみこと)・23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)だ。)の上祖の名は意(お)富(お)比(ひ)跪(ひ)(実際は、大(おお)彦(びこ)命(のみこと)だ。)といった。その子の名は多加(たか)利(りの)足(すく)尼(ね)(実際は、物(もの)部(のべの)伊(い)香(か)色(しこ)男(お)命(のみこと)・10代崇(す)神(じん)天皇(てんのう)だ。)その子の名は弖(て)巳(よ)加利(かり)獲(わ)居(け)(実際は、豊(とよ)城(き)入(り)彦(ひこの)命(みこと)・12代景(けい)行(こう)天(てん)皇(のう)だ。)、その子の名は多(た)加(か)披(ひ)次(じ)獲(わ)居(け)(実際は、彦(ひこ)狭(さ)島(しま)命(のみこと)・13代成(せい)務(む)天(てん)皇(のう)だ。)、その子の名は半(は)弖(て)比(ひ)(実際は、荒(あら)田(た)別(わけ)命(のみこと)・17代仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)だ。)、その子の名は加(か)差(さ)披(ひ)余(よ)(実際は、初代田(た)道(みちの)君(きみ)・18・19代履(り)中(ちゅう)・反正(はんぜい)天皇(てんのう)だ。)、その子の名は乎(お)獲(わ)居(けの)臣(おみ)(実際は、奈(な)良(ら)別(わけ)命(のみこと)・23代清(せい)寧(ねい)天皇(てんのう)だ。)である。わが家は、代々杖(じょう)刀(とう)人(びと)(大(おお)王(きみ)の身辺を警固する兵士だ。)のかしらとして、これまで大(おお)王(きみ)に仕えてきた。そして獲(わ)加(か)多(た)支(け)鹵(るの)大(おお)王(きみ)(実際は、真(ま)若(わかの)君(きみ)・22代雄(ゆう)略(りゃく)天(てん)皇(のう)だ。)の寺(やくしょ)が斯(し)鬼(きの)宮(みや)にあったときに、私は天下をたすけ(?)治めた。そこで、この何度も練った鋭利な刀をつくらせて、私が奉(ほう)公(こう)する根源を記すのである。』とも伝えているのだ。

さてそれでは、これらの人物としては、①意(お)富(お)比(ひ)跪(ひ)~②多加(たか)利(りの)足(すく)尼(ね)~③~弖(て)巳(よ)加利(かり)獲(わ)居(け)~④多(た)加(か)披(ひ)次(じ)獲(わ)居(け)~⑤半(は)弖(て)比(ひ)~⑥加(か)差(さ)披(ひ)余(よ)~⑦乎(お)獲(わ)居(けの)臣(おみ)ともこの系譜は続いているのだ。また雄(ゆう)略(りゃく)朝(ちょう)に活躍したという杖(じょう)刀(とう)人(びと)の頭(かしら)としては、当時東国において最も権力を有した豪族の指導者なのだ。そこで『新(しん)撰(せん)姓(しょう)氏(じ)録(ろく)』を見てみれば、『雄(ゆう)略(りゃく)天(てん)皇(のう)(乎(お)非(びの)王(みこ)だ。)の朝(みかど)、東国の暴徒(ぼうと)らを一朝(いっちょう)にして鎮圧した。』という意乎(おおの)己連(このむらじ)で通称『暴代(あらて)の連(むらじ)』の別名称である、ということなのだ。そしてまた、この人物の別名称としては、彦(ひこ)主(う)人(しの)王(みこ)や、田(た)辺(なべの)史(ふひと)の祖の百孫王(ひゃくそんおう)や、初代物(もの)部(のべの)目(めの)大(おお)連(むらじ)や、2代目太(おお)多別(たわけ)の田(た)道(みちの)君(きみ)や、中(なか)臣(とみの)藍(あいの)大(おお)連(むらじ)や、阿(あ)居(けの)王(みこ)や、大(おお)伴(ともの)室(むろ)屋(やの)大(おお)連(むらじ)や、平(へ)群(ぐりの)真(ま)鳥(どりの)大(おお)臣(まえつきみ)や、東(やまと)漢(あやの)直(あたい)菊(きく)や、市(いちの)辺(べの)押(おし)歯(はの)皇(み)子(こ)や、奈(な)良(ら)別(わけの)命(みこと)などの名称を持つ23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)の実像ということなのだ。また、東国一の領地を有する大(やま)和(と)王(おう)権(けん)の最高実力者なのだ。ところで、『辛亥(しんがい)の年(471年)の7月中に、次のことを記しておく。』という乎(お)獲(わ)居(けの)臣(おみ)なのだが、476年に、高句(こうく)麗(り)国(こく)の長(ちゃん)寿(す)王(おう)との激戦の末、捕えられて殺された、という百(く)済(だら)王(おう)の21代蓋鹵(けろ)王(おう)(実際はウソだ。我が国へ帰還されているのだ。)なのだ。つまりこの『激戦の後に、南に向かった。』、という木(も)羅(くら)満智(まんち)(蘇我萬致(そがのまんち)だ。)こそが、乎(お)獲(わ)居(けの)臣(おみ)なのだ。また、『天(あまつ)孫(みまごの)本(もとつ)紀(ふみ)』を見れば、初代物(もの)部(のべの)目(めの)大(おお)連(むらじ)(実際は、乎(お)獲(わ)居(けの)臣(おみ)・奈(な)良(ら)別(わけの)命(みこと)だ。)とは、『清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)の御世(みよ)に、大(おお)連(むらじ)と為て神(かみつ)宮(みや)を齋(いつき)奉(ま)った。』とも伝えるから、当然ながら、23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)こそが、この初代物(もの)部(のべの)目(めの)大(おお)連(むらじ)(阿(あ)居(け)乃(の)連(むらじ)だ。)である乎(お)獲(わ)居(けの)臣(おみ)の実像である、ということなのだ。

さてそれでは、『中(なか)臣(とみ)氏(し)の系譜』で見てみれば、中(なか)臣(とみの)斎(さい)穂(ほ)命(のみこと)阿(あ)孫(び)古(この)連(むらじ)や、中(なか)臣(とみの)藍(あいの)大(おお)連(むらじ)(中(なか)臣(とみの)阿(あ)居(け)乃(の)連(むらじ)だ。)なのだ。そしてまた、その父という⑥加(か)差(さ)披(ひ)余(よ)なのだが、『播磨(はりま)風土記(ふどき)』を見てみれば、『的部(まとべ)の里(さと)(実際は、石坐(いわざ)の神山(かみやま)・高野(たかの)の杜(もり)だ。)右、的部(まとべ)(実際は、初代田(た)道(みちの)君(きみ)・坐(かむなぎ)別(わけの)命(みこと)・18・19代履(り)中(ちゅう)・反正(はんぜい)天皇(てんのう)だ。)らがこの村にすんだ。だから的部(まとべ)(実際は、的(まと)戸(と)田(だの)宿(すく)禰(ね)だ。また、戸(との)神社(じんじゃ)の祭神の初代田(た)道(みちの)君(きみ)・中(なか)臣(とみの)磐(いわ)麿(まろ)卿(きょう)・豊(とよ)忍(おし)別(わけの)命(みこと)・笠(かさ)彦(ひこ)命(のみこと)・赤(あか)麻呂(まろ)卿(きょう)だ。)という石坐山(いわざやま)というのは、この山は石を(頂に)載せている。いま豊(とよ)穂(おしの)命(みこと)(実際は、多(た)治(じ)比(ひの)押(おし)歯(はの)皇(み)子(こ)・初代田(た)道(みちの)君(きみ)・坐(かむなぎ)別(わけの)命(みこと)だ。)が鎮座しておいでになる。だから石坐(いわざ)の神山(かみやま)という。高野(たかの)の杜(もり)というのはこの野がよその野より高い。また玉依比売(たまよりひめ)命(のみこと)(実際は、天(あまの)火(ほ)明(あかりの)命(みこと)の妃の豊(とよ)玉(たま)姫(ひめ)・御炊屋(みかしきや)姫(ひめ)だ。)がおいでになる。だから高野(たかの)の杜(もり)という。また安相(あそ)の里(さと)、右、安(あ)相(そ)の里(さと)と称するのは、品(ほむ)太(だの)天皇(すめらみかど)(16代応(おう)神(じん)天(てん)皇(のう)だ。)が但馬(たじま)から巡っておいでになった時、道中のあいだ、ずっと御冠(おんかんむり)をおかぶりにならなかった。だから陰山前(かげやままえ)と呼ぶ。それによって国造(くにのみやつこ)の豊(とよ)忍(おし)別命(わけのみこと)(実際は、初代田(た)道(みちの)君(きみ)だ。)は名を剥がれた。その時、但馬(たじまの)国造(くにのみやつこ)の阿(あ)胡(こ)尼(ねの)命(みこと)(実際は、荒(あら)田(た)別(わけ)命(のみこと)だ。)が申訳をしたので、これによって罪をゆるした。』とも伝えているからなのだ。


●掲載写真②天(てん)神(じん)山(やま)古(こ)墳(ふん)(群馬県太田市(おおたし)だ。)

 

 つまり播磨(はりまの)国造(くにのみやつこ)の豊(とよ)忍(おし)別(わけ)命(のみこと)こそが、⑥加(か)差(さ)披(ひ)余(よ)なのだ。また、但馬(たじまの)国造(くにのみやつこ)という阿(あ)胡(こ)尼(ねの)命(みこと)の実像なのだが、佐伯(さえきの)直(あたい)の祖の阿(あ)良(ら)都(と)別(わけ)命(のみこと)(実際は、荒(あら)田(た)別(わけ)命(のみこと)だ。)なのだ。つまり⑤半(は)弖(て)比(ひ)である。また、この阿(あ)良(ら)都(と)別命(わけのみこと)(荒(あら)田(た)別(わけ)命(のみこと)だ。)の娘むことは、阿(あ)刀(との)宿(すく)禰(ね)や、西(せ)戸(との)宿(すく)禰(ね)である初代田(た)道(みちの)君(きみ)、つまり播磨(はりまの)国造(くにのみやつこ)である豊(とよ)忍(おし)別命(わけのみこと)がいた、ということなのだ。

さてそれでは、群馬県太田市(おおたし)とは、阿(あ)良(ら)都(と)別命(わけのみこと)(荒(あら)田(た)別(わけ)命(のみこと)だ。)の故地(こち)とも伝わるのだが、今の高(たか)林(はやし)地区には、朝子(あさこ)塚(つか)古墳(こふん)(墳丘131㍍だ。)という5世紀の初頭の頃の古墳が存在するのだ。また、この古墳の被(ひ)葬(そう)者(しゃ)を但馬(たじまの)国造(くにのみやつこ)の阿(あ)胡(こ)尼(ねの)命(みこと)と見れば、荒田(あらた)別命(わけのみこと)の墳墓なのだ。また、宝(ほう)泉(せん)地区には、5世紀の前半頃に築造された宝(ほう)泉(せん)茶(ちゃ)臼山(うすやま)古墳(こふん)(墳丘144㍍だ。)が所在するのだが、この古墳の被(ひ)葬(そう)者(しゃ)は、播磨(はりまの)国造(くにのみやつこ)の豊(とよ)忍(おし)別命(わけのみこと)である初代田(た)道(みちの)君(きみ)(実際は、坐(かむなぎ)別(わけの)命(みこと)・18・19代履(り)中(ちゅう)・反(はん)正(ぜい)天(てん)皇(のう)だ。)とも見られるのだ。また、その実子としては、内(うち)ヶ(が)島(しま)(字(あざ)名(めい)目(めい)塚(づか)だ。)地区に所在する東国一を誇る天(てん)神(じん)山(やま)古(こ)墳(ふん)(墳丘210㍍だ。)の被(ひ)葬(そう)者(しゃ)である奈(な)良(ら)別(わけの)命(みこと)、つまり23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)の御(ご)陵(りょう)なのだ。さてそれでは、新田(にった)地区には『矢(や)太(だい)神(しん)』と名称が付けられた湧き水の出る公園があるのだが、まさに、『的を得ている』と思う。なぜならば、荒田(あらた)別命(わけのみこと)(実際は、半(は)弖(て)比(ひ)・17代仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)だ。)としては、大(おお)矢(や)田(たの)宿(すく)禰(ね)や、大(おお)矢(や)田(たの)大(おお)臣(まえつきみ)こそが、その実像だからだ。また、『中(なか)臣(とみ)氏(し)の系譜』の中では、中(なか)臣(とみの)大(おお)小(しょう)橋(はしの)命(みこと)なのだ。また、その子(実際は、娘むこだ。)こそが、⑥加(か)差(さ)披(ひ)余(よ)なのだ。つまり初代田(た)道(みちの)君(きみ)や、中(なか)臣(とみの)磐(いわ)麿(まろ)卿(きょう)や、豊(とよ)忍(おし)別(わけの)命(みこと)や、笠(かさ)彦(ひこ)命(のみこと)や、赤(あか)麻呂(まろ)卿(きょう)や、大(おお)山(やま)守(もり)命(のみこと)や、初代大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)や、菟(う)道(じの)稚(わき)郎(いら)子(つこの)皇(み)子(こ)などの名称を持つ人物なのだ。また、18・19代履(り)中(ちゅう)・反(はん)正(ぜい)天(てん)皇(のう)こそがその実像なのだ。また、紀伊(きい)地方の高野山(こうやさん)の『笠(かさ)石(いし)の伝説』とも関わる笠(かさ)彦(ひこ)命(のみこと)である、ということなのだ。

さてそれでは、『全(ぜん)国(こく)古(こ)墳(ふん)編(へん)年(ねん)集(しゅう)成(せい)』の編者である石野博信氏によれば、その著書の中で、古墳編年の基準としては、埼玉県行(ぎょう)田(だ)市(し)に所在する稲(い)荷(なり)山(やま)古(こ)墳(ふん)がら出土した鉄剣の銘文の中の471年や、大阪府の今(いま)城(しろ)塚(づか)古(こ)墳(ふん)を27代継体(けいたい)天皇(てんのう)陵(みささぎ)とも見て531年とすることや、奈良県の見(み)瀬(せ)丸山(まるやま)古墳(こふん)を30代欽(きん)明陵(めいみささぎ)とも見て571年とすることや、同じ奈良県の天(てん)武(む)・持(じ)統(とう)天(てん)皇(のう)の合(ごう)同(どうの)陵(みささぎ)の築造の時期を686年と見ることなどでその基準としている、というのだ。そこで、このうちで、埼玉県行(ぎょう)田(だ)市(し)に所在する稲荷山古墳(いなりやまこふん)の被(ひ)葬(そう)者(しゃ)としては、奈(な)良(ら)別(わけの)命(みこと)(実際は、23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)だ。)である乎(お)獲(わ)居(けの)臣(おみ)とも推測されるのだ。そこで、私見によれば、この23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)の在位期とは、476~481年なのだ。また、その後の、次の天(てん)皇(のう)位(い)としては、その正(せい)妃(ひ)の角(つの)姫(ひめ)である飯(いい)豊(とよの)皇(ひめ)女(みこ)(その御(ご)陵(りょう)は、女(にょ)体(たい)山(さん)古(こ)墳(ふん)・帆(ほ)立(たて)貝(がい)式(しき)102㍍・群馬県太(おお)田(た)市(し)だ。)こそが481~482年までの2年間在位したとも推測されるから、実際は、この頃の少し後とも推測されるのだが、そこで、この23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)の実像である奈(な)良(ら)別(わけの)命(みこと)(実際は、平(へ)群(ぐりの)真(ま)鳥(どりの)大(おお)臣(まえつぎみ)・東(やまと)漢(あやの)直(あたい)掬(きく)だ。)とは長(ちょう)命(めい)の人物と言われていて、その孫の26代武(ぶ)烈(れつ)天(てん)皇(のう)(503~505年だ。)の即位後までは、長生きしたと推測されるのだ。そこで、実際の稲(い)荷(なり)山(やま)古(こ)墳(ふん)(墳丘110㍍だ。)や、天(てん)神(じん)山(やま)古(こ)墳(ふん)(墳丘210㍍だ。)の被(ひ)葬(そう)者(しゃ)とも推測する奈(な)良(ら)別(わけの)命(みこと)(実際は、23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)だ。)の墳墓としては、その娘むこの24代顕(けん)宗(そう)天(てん)皇(のう)の在位期の頃とも推測されるのだ。つまりその御(ご)陵(りょう)の実際の築造の時期とは、471年よりも遅い、481~490年の頃なのか?そこで、奈(な)良(ら)別(わけの)命(みこと)(23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)だ。)の実子の25代仁(にん)賢(けん)天皇(てんのう)としては、492~502年頃まで在位したとも推測されるのだ。また、その後としては、その実子の26代武烈(ぶれつ)天皇(てんのう)が、503~505年までは在位したと推測されるのだ。また、その後としては、24代顕(けん)宗(そう)天(てん)皇(のう)の実子である27代継(けい)体(たい)天(てん)皇(のう)や、その実弟である28代安(あん)閑(かん)天(てん)皇(のう)へ大和(やまと)王権(おうけん)の『次の天(てん)皇(のう)位(い)』が移行した、ということなのだ。

さてそれでは、埼玉県行(ぎょう)田(だ)市(し)の稲荷山古墳(いなりやまこふん)や、群馬県太(おお)田(た)市(し)の天(てん)神(じん)山(やま)古(こ)墳(ふん)の被(ひ)葬(そう)者(しゃ)としては、この奈(な)良(ら)別(わけの)命(みこと)なのだが、この人物とは長命(ちょうめい)の人物の東(やまと)漢(あやの)直(あたい)掬(きく)である。また、23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)としての譲(じょう)位(い)後(ご)は、平(へ)群(ぐりの)真(ま)鳥(どりの)大(おお)臣(まえつきみ)や、大伴(おおともの)室屋(むろやの)大連(おおむらじ)として、大和(やまと)王権(おうけん)の中(ちゅう)枢(すう)に長くいた人物であるということなのだ。また、その直(ちょく)孫(そん)の26代武(ぶ)烈(れつ)天(てん)皇(のう)の時代には『大きな政変が起きて富山県の方に引退した。』とも『但(たじ)馬(ま)故(こ)事(じ)記(き)』では伝えるのだ。つまりこの人物の古墳の築造の時期としては、その娘むこの24代顕(けん)宗(そう)天皇(てんのう)の即位の頃が最もふさわしいのだ。そこで471年ではなく、10年後の482年以後の頃に築造された古墳である、ということなのだ。また、荒(あら)田(た)別(わけの)命(みこと)の墳墓とも推測される群馬県太(おお)田(た)市(し)の朝子(あさこ)塚(つか)古墳(こふん)(墳丘131㍍だ。)なのだが、地元では、5世紀の初頭の頃の築造というのだ。そこで、『全(ぜん)国(こく)古(こ)墳(ふん)編(へん)年(ねん)集(しゅう)成(せい)』で見てみれば、4世紀末頃としているが、しかしながら、荒(あら)田(た)別(わけの)命(みこと)の実像としては、17代仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)であるから、その在位期としては、405~420年までの期間とも推測されるのだ。つまり朝子(あさこ)塚(つか)古墳(こふん)(墳丘131㍍だ。)の実際の築造の時期とは、420年の頃に築造された古墳なのだ。そしてまた、太(おお)田(た)市(し)の5世紀の前半頃の築造されたという宝(ほう)泉(せん)地区に所在する太田(おおた)茶(ちゃ)臼山(うすやま)古墳(こふん)(墳丘144㍍だ。)だが、地元では、5世紀前半の頃の古墳というのだ。そこで、『全(ぜん)国(こく)古(こ)墳(ふん)編(へん)年(ねん)集(しゅう)成(せい)』で見れば、5世紀の初頭の頃の古墳の位置づけともなっているのだ。また、この古墳の被(ひ)葬(そう)者(しゃ)としては、初代田(た)道(みちの)君(きみ)や、18・19代履中(りちゅう)・反(はん)正(ぜい)天(てん)皇(のう)の古墳とも推測されるから、その実際の築造の時期としては、443年の頃の19代反正(はんぜい)天皇(てんのう)の崩御の頃の古墳とも推測されるのだ。また、次の古代天皇である20代允(いん)恭(ぎょう)天(てん)皇(のう)の実像としては、荒(あら)田(た)別(わけの)命(みこと)(実際は、阿(あ)知使(ちのお)主(み)・百(く)済(だら)の16代辰(ちん)斯(さ)王(おう)・17代仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)だ。)の実子である竹(たけ)葉(は)瀬(せの)君(きみ)(実際は、百(く)済(だら)の辰(ちん)孫(そん)王(おう)・19代久(く)尓(い)辛(しん)王(おう)・ 王仁博士(わにはかせ)だ。)とも推測されるから、その在位としては、444~454年の頃とも推測されるのだ。また、この人物の関(かん)東(とう)地方の墳墓としては、群馬県高(たか)崎(さき)市(し)に所在する浅(せん)間(げん)山(やま)古(こ)墳(ふん)(墳丘174㍍だ。)なのだ。また、『全(ぜん)国(こく)古(こ)墳(ふん)編(へん)年(ねん)集(しゅう)成(せい)』で見れば、これも5世紀初頭~前期の頃の位置づけとなっているのだ。しかしながら、竹(たけ)葉(は)瀬(せの)君(きみ)(百(く)済(だら)の辰(ちん)孫(そん)王(おう)・19代久(く)尓(い)辛(しん)王(おう)・王仁博士(わにはかせ)だ。)である20代允(いん)恭(ぎょう)天(てん)皇(のう)とは、444~454年の頃までの在位と見られるから、454年頃の5世紀中葉に築造された古墳である、ということなのだ。

さてそれでは、千(ち)熊(くま)長(なが)彦(ひこ)命(のみこと)という人物だが、埼玉県の人とも伝わるが、埼玉県の『大(おお)里(さと)郡(ぐん)神(じん)社(じゃ)誌(し)』を見てみれば『吉見(よしみ)神社(じんじゃ)』の社伝として次の文章が記載されるのだ。

和銅6年(713年)5月の『國造奉撰上(こくぞうほうせんじょう)社傳(しゃでん)』によれば、『人皇第12代の景(けい)行(こう)天皇(てんのう)の56年、御(み)諸(もろ)別(わけの)王(みこ)、父王の職を継ぎて東国都督(とうごくととく)の為め此地(このち)に、巡視(じゅんし)せられ茫々たる赤土(あかつち)不毛(ふもう)にして田野未だ開発せざるを慨かせ給ひ、特に奏聞し、倭國(やまとこく)、山(やま)代(しろ)國(こく)、河(かわ)内(ち)国(こく)、伊(い)賀(が)國(こく)、伊(い)勢(せ)國(こく)、5ケ國の多里人を牟刺國(むさしのくに)入間郡(いるまぐん)に遷し、多里郡(おおさとぐん)を置き後ち開墾豊饒の地となれる報賽の為め、太古建(たけ)夷(ひな)鳥(どり)命(のみこと)(実際は、天(あまの)火(ほ)明(あかりの)命(みこと)だ。)の高天原(たかまがはら)より持降り給へる御筬(みおさ)を、神體(しんれい)となし、天祖、天(あま)照(てらすの)皇(すべらぎ)大(おお)御(み)神(かみ)を、鎮祭し永く東國(とうごく)鎮護(ちんご)の神として尊崇(そんすう)にしめ、王(みこ)の子孫をして、累世(るいせい)奉仕(ほうし)せしめられたものなりと傳ふ』とも伝えているのだ。

そしてまた、この12代景(けい)行(こう)天皇(てんのう)の孫という御諸別王(みもろわけのみこ)(実際は、14代仲(ちゅう)哀(あい)天(てん)皇(のう)だ。)こそが倭(やまと)国(こく)(大(やま)和(と)国(こく)だ。)や、山代(やましろ)国(こく)や、河(かわ)内国(ちこく)や、伊賀(いが)国(こく)や、伊勢(いせ)国(こく)など5か国の住民を、牟(むさ)刺(しの)國(くにの)入(いる)間(ま)郡(ぐん)や多(おお)里(さと)郡(ぐん)(大(おお)里(さと)郡(ぐん)だ。)に居住させて北関東一帯を開墾させたと伝える。ということなのだ。また、埼玉県大(おお)里(さと)郡(ぐん)(熊(くま)谷(がや)市(し))に所在する『大(おお)里(さと)郡(ぐん)神(じん)社(じゃ)誌(し)』の中の、『奈良(なら)神社(じんじゃ)』の社伝を見てみれば、『御(ご)祭(さい)神(じん)は、實に、人皇第10代崇(す)神(じん)天皇(てんのう)第1の皇子、豊城入彦(とよきいりひこ)命(のみこと)の4世の孫に當らせられ、難波(なにわの)高津宮(たかつのみや)(17代仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)だ。)の朝(みかど)に首めて下(しも)野(つけ)の國(くにの)造(みやつこ)に任じられ、尊貴の御身を以って遠く武(む)蔵(さし)野(の)の尾花(おばな)の原(はら)に分入り給ひて(これ奈良村(ならむら)起源なるか。)草莾を開き荊棘を掃ひ農工を勧め、倫常を明かにして、以て、郷(ごう)閭(ろ)の繁榮を企圖し給ひたり、土(ど)民(みん)等(など)恩(おん)に感じ徳を慕ひ其肇基の宗祖、創業英主の霊を祭祀せるもの是即ち、奈(な)良(ら)神(じん)社(じゃ)なり。爾後祭神の御偉業は、年と共に発展し往昔雑草離々たりし武蔵野(むさしの)の原頭も、今や美田沃野數十里に亘り、道路平に、人心温雅に、産業並びに隆り祭政の宜しきを得て益々郷黨の殷賑を來せるは、これ皆御祭神の恩賴に據る事深く感謝して益々報本反始の誠意を捧げつヽあり』とも伝えているのだ。

さてそれでは、この埼玉県の開拓の始祖という御諸(みもろ)別命(わけのみこと)(実際の鷲(わしの)宮(みや)神(じん)社(じゃ)の祭神だ。)なのだが、この人物としては、14代仲(ちゆう)哀(あい)天(てん)皇(のう)(実際は、中(なか)臣(とみの)雷(いかづちの)大(おお)臣(まえつきみ)・村(むら)君(きみの)大夫(おおまえつきみ)だ。)こそがその実像なのだ。また、当然ながら、この人物は、倭(やまと)武(たける)尊(のみこと)(実際は、彦(ひこ)八(や)綱(つな)田(だ)命(のみこと)だ。)である百済(くだら)王(おう)の13代速(そっ)古(こ)大王(だいおう)の実子である。つまり百済(くだら)王(おう)の14代貴須(きす)王(おう)なのだ。また、稲依(いなより)別命(わけのみこと)や、融通(ゆうずう)王(おう)や、千(ち)熊(くま)長彦(ながひこ)命(のみこと)や、葛(かつら)城(ぎの)長(なが)江(えの)襲(そ)津(つ)彦(ひこ)命(のみこと)や、為(い)我(が)別(わけの)命(みこと)や、初代吉(き)備(び)津(つ)彦(ひこ)命(のみこと)や、中(なか)臣(とみの)雷(いかづちの)大(おお)臣(まえつきみ)命(のみこと)や、找(くい)俣(また)長(なが)日(ひ)子(こ)王(のみこ)や、川(かわ)俣(またの)仲(なか)彦(ひこ)命(のみこと)や、須(す)賀(が)芳(よし)男(お)命(のみこと)や、豪勇という荒(あら)木(き)帯(たて)刀(わき)部(べ)命(のみこと)や、大(おお)宮(みや)巌(いわ)鼓(びつの)王(みこ)や、御諸(ごしょの)皇子(みこ)や、大(おお)刀(たちの)宮(みや)彦(ひこ)命(のみこと)などがその別名称である、ということなのだ。また、東国(とうごく)における本拠地としては、現在の埼玉県熊谷(くまがや)市(し)や、加須市(かぞし)や、久(く)喜(き)市(し)などの地域なのだ。もちろん、さいたま市の大宮(おおみや)地区もそうなのだ。

さてそれでは、『大(おお)里(さと)郡(ぐん)神(じん)社(じゃ)誌(し)』の中の、『吉(よし)見(み)神(じん)社(じゃ)』の社伝(埼玉県吉見町(よしみまち)だ。)を見てみれば、『御諸(みもろ)別(わけの)王(みこ)の末(まつ)胤中(いんなか)臣(とみの)磐(いわ)麿(まろ)卿(きょう)を勅使として當地に参向せしめ(以下略)』という文章があったのだ。つまり中(なか)臣(とみの)磐(いわ)麿(まろ)卿(きょう)の実像こそが、御(み)諸(もろ)別(わけ)王(のみこ)の孫という戸(との)神(じん)社(じゃ)の祭神の初代田(た)道(みちの)君(きみ)(実際は、西(せ)刀(との)宿(すく)禰(ね)・多(おお)他(た)別(わけ)命(のみこと)・18・19代履(り)中(ちゅう)・反(はん)正(ぜい)天(てん)皇(のう)・蟻(あり)臣(のおみ)・鹿島彦(かしまひこ)命(のみこと)・大(おお)山(やま)守(もり)命(のみこと)・物(もの)部(のべの)伊(い)呂(ろ)弗(ふつの)大(おお)連(むらじ)・莬道稚郎子(うじのわきいらつこ)命(のみこと)・多(た)遅(じ)比(ひの)宿(すく)禰(ね)・多遅比押(たじひのおし)歯(は)別(わけの)皇子(みこ)・平(へ)群(ぐりの)都(つ)久(くの)宿(すく)禰(ね)だ。)なのだ。また、その実子の1人は、奈良(なら)別王(わけのみこ)の23代清(せい)寧(ねい)天皇(てんのう)(実際は、太(おお)多(た)毘(ひ)古(こ)命(のみこと)・意乎(おおの)己連(このむらじ)だ。)なのだ。また、現在の埼玉県熊谷市(くまがやし)の奈(な)良(ら)地区や、行田市(ぎょうだし)や、上野(こうずけの)国(くに)(群馬県)の太田市(おおたし)や、隣の下(しも)野(つけの)国(くに)(栃木県)の足(あし)利(かが)市(し)や、佐(さ)野(の)市(し)などの地域は、下(しも)毛(けの)野(の)君(きみ)の祖という奈良(なら)別命(わけのみこと)の太(おお)多(た)毘(ひ)古(こ)命(のみこと)である2代目多他(おおた)別(わけ)の田(た)道(みちの)君(きみ)、つまり23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)の東国地方の本拠地なのだ。さてそれでは、熊谷(くまがや)市(し)の遠新田(とうしんでん)や、柿沼(かきぬま)地区の付近には、天神山(てんじんやま)という地名さえ今も残るが、繁華街には高(たか)城(ぎ)神(じん)社(じゃ)も所在するのだ。また、高(たか)城(ぎ)神(じん)社(じゃ)の祭神の高城(たかぎ)尊(のみこと)とは、第7代別(わけの)高皇産(たかみむ)霊(すびの)命(みこと)や、高気(たかき)根(ね)命(のみこと)であるスサノオ尊なのだ。つまり高木(たかぎの)神(かみ)とは、天(あま)照(たらすの)大神(おおみかみ)の夫神であるスサノオ尊なのだ。また、埼玉県熊(くま)谷(がや)市(し)や、行田市(ぎょうだし)や、群馬県太田市(おおたし)や、伊(い)勢(せ)崎(さき)市(し)や、栃木県足(あし)利(かが)市(し)や、佐野市(さのし)などの地域は、当時、大古墳が築造された地域なのだ。つまり東国(とうごく)地方における毛(け)野(のの)国(くに)の中心拠点である、ということなのだ。

さてそれでは、奈良(なら)別王(わけのみこ)である23代清(せい)寧(ねい)天皇(てんのう)(初代物(もの)部(のべの)目(めの)大(おお)連(むらじ)・大伴(おおともの)室屋(むろやの)大連(おおむらじ)・初代都賀(つがの)直(あたい)・東(やまと)漢(あやの)直(あたい)掬(つか)・平(へ)群(ぐりの)真(ま)鳥(どりの)大(おお)臣(まえつきみ)だ。)の先妃(せんぴ)としては、角(つの)姫(ひめ)である飯(いい)豊(とよの)皇(ひめ)女(みこ)(実際は、大(おお)山(やま)姫(ひめ)・綾(あや)姫(ひめ)・振(ふり)姫(ひめ)・22代雄(ゆう)略(りゃく)天(てん)皇(のう)の実妹だ。)がいたのだ。また、この飯(いい)豊(とよの)皇(ひめ)女(みこ)(角(つの)姫(ひめ)だ)こそがそのもうけた娘としては、豊(とよ)姫(ひめ)(毛(け)野(の)姫(ひめ)だ。)である飯(いい)豊(とよ)青(あおの)皇(ひめ)女(みこ)がいたのだ。つまり娘の方の飯(いい)豊(とよ)青(あおの)皇(ひめ)女(みこ)(毛(け)野(の)姫(ひめ)・豊(とよ)姫(ひめ)だ。)の夫としては、意(お)美(みの)秦(はた)公(のきみ)(中(なか)臣(とみの)鎌(かまの)大(まえつ)夫(ぎみ)だ。)である24代顕(けん)宗(そう)天(てん)皇(のう)(竹(たけ)葉(は)瀬(せ)君(のきみ)の20代允(いん)恭(ぎょう)天皇(てんのう)の実子だ。)なのだ。また、この2人の間に、そのもうけた実子の2人としては、27代継(けい)体(たい)天(てん)皇(のう)(近(おう)江(みの)毛(け)野(のの)臣(おみ)だ。)や、その実弟の28代安(あん)閑(かん)天(てん)皇(のう)がいた、ということなのだ。

さてそれでは、27代継(けい)体(たい)天(てん)皇(のう)の実子としては、30代欽(きん)明(めい)天(てん)皇(のう)がいた、というが、その異母兄弟には、28代安(あん)閑(かん)天(てん)皇(のう)の正妃(せいひ)(青(おう)海(みの)夫(と)人(じ)勾(まがり)子(こ)だ。 )や、その弟の29代宣(せん)化(か)天(てん)皇(のう)たち2人なのだ。また、28代安(あん)閑(かん)天(てん)皇(のう)の即位のときの出来事である『武(むさ)蔵(し)の大乱(たいらん)』なのだが、つまり28代安(あん)閑(かん)天(てん)皇(のう)に敵対した上(かみ)毛(け)野(のの)君(きみ)小(お)熊(ぐま)の実像としては、実際は、29代宣(せん)化(か)天(てん)皇(のう)の蘇(そ)我(がの)稲(いな)目(めの)大(おお)臣(おみ)なのだ。またこの人物は、27代継(けい)体(たい)天(てん)皇(のう)の時代の『筑(ちく)紫(しの)君(きみ)磐(いわ)井(い)の反乱(はんらん)』のときの筑(ちく)紫(しの)君(きみ)磐(いわ)井(い)なのだ。また、伊勢(いせ)の大(おお)鹿(がの)連(むらじ)小(お)熊(ぐま)こそが、その実像なのだ。つまり実際としては、27代継(けい)体(たい)天(てん)皇(のう)の『次の天(てん)皇(のう)位(い)』を争う争奪戦だった、ということなのだ。

さてところで、余談だが、私が古代史の闇(やみ)にのめりこんだ理由としては、群馬県太田市(おおたし)に所在する天(てん)神(じん)山(やま)古(こ)墳(ふん)の被(ひ)葬(そう)者(しゃ)を特定することからである。この大古墳とは、後(こう)円部(えんぶ)の一部や、周(しゅう)壕(ごう)の一部は、現在は国道122号線で貫かれてしまっているのだが、私は若い頃から、毎日通勤のために長年にわたって、この古墳の中の国道を通って通勤していたのだ。また、地元の資料によれば、この古墳の主は大蔵(おおくら)親王(みこ)という人物なのだ。また、『毛(け)野(のの)国(くに)の宗(しゅ)王権(おうけん)を保持し得た首(しゅ)長(ちょう)である。』という抽象的な人物でしかなかったのだ。しかしながら、私は東国一を誇る太田(おおた)天(てん)神(じん)山(やま)古(こ)墳(ふん)の被(ひ)葬(そう)者(しゃ)こそが、日本の古代史に、その名を残す中央貴族である、とも推測していたのだ。そしてまた、ある日、偶然にも、毛(け)野(のの)君(きみ)の祖という御(み)諸(もろ)別(わけ)命(のみこと)の末(まつ)胤(いん)の名こそが、中(なか)臣(とみの)磐(いわ)麿(まろ)卿(きょう)であるとも知ったとき、俄(が)然(ぜん)として、中(なか)臣(とみ)氏(し)こそが、毛(け)野(のの)君(きみ)の実像である、とも気がついた、ということなのだ。また、とうとう東国の開拓の始祖である伝説上の人物の豊(とよ)城(き)入(いり)彦(ひこ)命(のみこと)こそが実際は、12代景(けい)行(こう)天(てん)皇(のう)の実像である、という確証を得ることが出来たのだ。

さてそれでは、大変興味ぶかい伝承があるのだが、それは、宇佐公康さんの著書『古伝が語る古代史』の八幡(はちまん)神(しん)出現(しゅつげん)の由(ゆ)来(らい)なのだ。つまり『八(はち)幡(まん)大(だい)菩(ぼ)薩(さつ)縁(えん)起(ぎ)』を見てみれば、宇(う)佐(さ)氏(し)の先祖の1人、大神比(おおがのひ)義(ぎ)という人物がいるのだが、欽(きん)明天皇(めいてんのう)32年(571年)に『われはこれ、護国(ごこく)霊験(れいけん)威力(いりょく)神通(じんずう)大自在(だいじざい)王(おう)菩薩(ぼさつ)、わが名は誉田(ほんだの)天皇(すめらみかど)広(ひろ)幡(はたの)八幡(やはた)麻呂(まろ)(16代応(おう)神(じん)天皇(てんのう)だ。)なり。』と託(たく)宣(せん)されて『竹の葉の上に立つ3歳の童児(わらべじ)の姿となって現れた。』とも伝えるのだ。そこでこの一文にこそ、古代天皇家の歴史ミステリーの大事な伝承が隠されているのだ。なぜならば、すでに、『大三輪(おおみわ)氏(し)の系譜』を見れば、この大神比(おおがのひ)義(ぎ)という人物こそが、蘇我馬子(そがのうまこの)大臣(おおおみ)(実際は、物(もの)部(のべの)石(いその)上(かみの)贄(にえ)古(この)大(おお)連(むらじ)だ。)の分身である、という結論に到達したからだ。また、この大神比(おおがのひ)義(ぎ)(木(き)曽(そ)の奈(な)良(ら)井(い)宿(じゅく)の近くに最近まで日義村(ひぎむら)が存在した。)の年齢としては、この伝承のとおり、30代欽(きん)明天皇(めいてんのう)の崩御(571年)のときに、満2歳(実際は、569年生まれだ。)であれば、私が同一人物とも推測している百済(くだら)王(おう)の31代義(うぃ)慈(じゃ)王(おう)(実際は、百済(くだら)王(おう)の28代恵(へ)王(おう)だ。)とは、『660年の7月18日に熊(うん)津(じん)城(じょう)(公州城だ。)から出て唐(とう)と新羅(しらぎ)の連合軍に降伏して、唐(とう)に連れてゆかれ、間もなく病死した。』と伝えるから、その年に没されていたはずなのだ。つまり恵慈(えじ)法師(ほうし)こそが、この31代義(うぃ)慈(じゃ)王(おう)なのだ。また、お墓が中国にあるのか?とも思うのだが、最後は、捕虜なので実際は兵庫県赤穂市坂(あこうしさか)越(こし)の宝(ほう)珠(じゅ)山(さん)々(さん)麓(ろく)に鎮座する大避(おおさけ)神社(じんじゃ)(祭神は秦(はたの)河(かわ)勝(かつ)だ。)の沖きに浮かぶ生島(いくしま)(小島(こじま)だ。)に残る伝説、『うつぼ舟』(虚舟・異(い)国(こく)から来た流(る)人(にん)の亡骸・魂をのせた舟だ。)に関わる秦(はたの)河(かわ)勝(かつ)である、ということなのだ。そしてまた、37代孝(こう)徳(とく)天(てん)皇(のう)在(ざい)位(い)の晩年に『唐(とう)で没した。』という国の博(はか)士(せ)の高向(たかむこの)臣(おみ)玄(げん)理(り)こそが、その実像なのだ。つまり大(おお)神(がの)比(ひ)義(ぎ)である蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)(33・37代崇(す)峻(しゅん)・孝(こう)徳(とく)天皇(てんのう)・東国(とうごく)の総(そう)領(りょう)の高(たか)向(むこの)王(みこ)だ。)の生存期間としては、569~660年の間である、とも推測されるのだ。また、その実際に没した年としては、いかにも、大神比(おおがのひ)義(ぎ)(木(き)曽(そ)の奈良井(ならい)宿(じゅく)の近くに最近まで日義村(ひぎむら)が存在した。)であれば、満92歳である、ということなのだ。そのために、蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)(33・37代崇(す)峻(しゅん)・孝(こう)徳(とく)天皇(てんのう)・百済(くだら)王(おう)の28代恵(へ)王(おう)・31代義(うぃ)慈(じゃ)王(おう)だ。)こそが満92歳で没した、のではないか?という証(しょう)拠(こ)の1つである、ということなのだ。

さてそれでは、蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)(実際は、33・37代崇(す)峻(しゅん)・孝(こう)徳(とく)天(てん)皇(のう)だ。)の墓とも伝わる奈良県の石(いし)舞台(ぶたい)古墳(こふん)なのだが、その築造年代から見れば、33崇(す)峻(しゅん)天皇(てんのう)(実際は、物(もの)部(のべの)贄(にえ)古(この)大(おお)連(むらじ)・蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)だ。)の正(せい)妃(ひ)で、つまり34代推(すい)古(こ)天(てん)皇(のう)の実妹である石(いその)上(かみの)夫(おお)人(とじ)(大(おお)伴(とも)夫(ふ)人(じん)だ。)こそがその被(ひ)葬(そう)者(しゃ)なのだ。ところで、木曽(きそ)の馬込(まごめ)宿(じゅく)や、奈良井(ならい)宿(じゅく)の地域とは、現在も、贄(にえ)川(かわ)の名称があるのだが、『昔のなごり』なのか。また、石(いその)上(かみ)贄(にえ)古(この)大(おお)連(むらじ)である蘇我馬子(そがのうまこの)大臣(おおおみ)とも関わる地域である、ということなのだ。ところで、波乱万丈(はらんばんじょう)の生涯であったのだ。そしてまた、木曽の奈(な)良(ら)井(い)宿(じゅく)には、『宝(たから)』の名の付く名称の寺があるのだが、この寺の境内の一隅には、地(じ)蔵(ぞう)堂(どう)があって、古くて色あせた奇妙(きみょう)な絵馬(えま)が掲げられているのだ。また、この妙な絵馬(えま)とは、高尚感(こうしょうかん)の漂う奇妙(きみょう)な絵馬(えま)なのだ。そのために、今でもハッキリと脳裏に焼き付いているのだ。つまり絵馬(えま)には、中央に宝物(たからもの)のような巻物(まきもの)が1つ描かれ、その右上の方には、殆ど顔(かお)と首(くび)だけの鼻の長い天狗(てんぐ)か、鬼(おに)のような異様なギョロ眼の老人の顔が描かれているのだ。また、巻物(まきもの)の左横側には、巨大な魚(さかな)か亀(かめ)のような海の生き物に乗っている弁天(べんてん)様(さま)のような髪型(かみがた)の古代女性が、鎧(よろい)や太刀(たち)を身に付け、右手にはヤツデの葉っぱのような扇子(せんす)を持っている姿なのだ。まさに、『女帝(じょてい)と言える高貴(こうき)な熟(じゅく)年女性(ねんじょせい)の座(ざ)す姿』が描かれていたのだ。そこで、この女帝(じょてい)こそが36・38代皇(こう)極(ぎょく)・斉(さい)明天皇(めいてんのう)ともイメージとして、ピッタリな感じがするのだ。また、鼻の長いギョロ眼の老人とは、晩年の蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)なのか。また、中央に描かれた巻物(まきもの)とは、『日いずる処(ところ)の天子、書を没する処(ところ)の天子に致(いた)す、恙(つつが)なきや、云々(うんぬん)。』とも伝える多(た)利(り)思(し)比(ひ)弧(こ)、つまり多(た)利(り)思(し)比(ひ)弧(こ)の実像である33代崇(す)峻(しゅん)天皇(てんのう)(実際は、蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)・石(いその)上(かみ)贄(にえ)古(のこ)大(おお)連(むらじ)・秦(はたの)河(かわ)勝(かつ)だ。)から、小(お)野(のの)妹子(いもこ)(田(た)目(めの)皇(み)子(こ)・久米皇子だ。)が預かったという巻物(まきもの)なのか?もしそうならば、現在でも、こんな絵(え)馬(ま)が残っている、ということこそが、まさに、ゾクゾクさせる、ということなのだ。