霧の中の建国秘話
一人物たちの系譜である、ということなのだ。
さてそれでは、次に、●大伴(おおとも)氏(し)の系譜のもう1つ、『古(ふる)屋(や)家(け)の家(か)譜(ふ)』を見てみれば、①高(たか)皇(み)産(むす)霊(び)尊(のみこと)(スサノオ尊・高(たか)木(ぎの)神(かみ)だ。)~②安(やす)牟(む)須(す)比(ひ)命(のみこと)(長男のウガ御(のみ)魂(たま)命(のみこと)だ。)~③香(か)都(つ)知(ち)命(のみこと)(娘むこの大(おお)国(くに)主(ぬし)命(のみこと)だ。)~④天(あまの)雷(いかづち)命(のみこと)(娘むこの天(あまの)火(ほ)明(あかり)命(のみこと)だ。)~⑤天(あまの)石(いわ)門(と)安(やす)国(くに)玉(だま)主(ぬし)命(のみこと)(長男の初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)・天(あまの)太(ふと)玉(だま)命(のみこと)・ウマシマジ命だ。)~⑥天(あまの)押(おし)日(ひ)命(のみこと)(娘むこの天(あまの)村(むら)雲(くも)命(のみこと)・2代綏(すい)靖(ぜい)天(てん)皇(のう)だ。)~⑦天(あまの)日(ひ)咋(くい)命(のみこと)(長男の天(あまの)忍(おし)人(ひと)命(のみこと)・3代安(あん)寧(ねい)天(てん)皇(のう)だ。)~⑧刺(さし)田(た)日(ひ)古(こ)命(のみこと)(娘むこの天(あまの)照(てる)日(ひ)命(のみこと)・天ヒボコ命・4・5・6代懿(い)徳(とく)・孝(こう)昭(しょう)・孝安(こうあん)天皇(てんのう)だ。)~⑨道(みちの)臣(おみ)命(のみこと)(長男の7代孝(こう)霊(れい)天(てん)皇(のう)だ。)~⑩味(うまし)日(ひ)命(のみこと)(長男の8代孝(こう)元(げん)天(てん)皇(のう)だ。)~⑪雅(まさ)日(ひ)命(のみこと)(娘むこの大(おお)彦(びこ)命(のみこと)だ。)~⑫大(おお)日(ひ)命(のみこと)(長男の物(もの)部(のべの)伊(い)香(か)色(し)男(お)命(のみこと)・彦(ひこ)坐(います)命(のみこと)・10代崇(す)神(じん)天(てん)皇(のう)だ。)~⑬角(つの)日(ひ)命(のみこと)(次男の豊(とよ)城(き)入(いり)彦(ひこ)命(のみこと)・12代景(けい)行(こう)天(てん)皇(のう)だ。なお、石川県輪島市(わじまし)名舟町(なふねまち)の『御陣乗(ごじんじょう)太鼓(たいこ)』とも関わるのだ。また、奥(おく)津(つ)姫(ひめ)・豊(とよ)玉(たま)姫(ひめ)・御(み)炊(かしき)屋(や)姫(ひめ)の御神徳を祀るのだ。)~⑭豊(とよ)日(ひ)命(のみこと)(娘むこの彦(ひこ)狭(さ)嶋(しま)命(のみこと)・13代成(せい)務(む)天(てん)皇(のう)だ。)~⑮武(たけ)日(ひ)命(のみこと)(長男の荒(あら)田(た)別(わけ)命(のみこと)・17代仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)だ。)や、また、⑮乎(お)多(た)氏(て)命(のみこと)(娘むこの御(み)諸(もろ)別(わけ)命(のみこと)・14代仲(ちゅう)哀(あい)天(てん)皇(のう)だ。)たちがいた、というのだ。
そしてまた、この大(おお)伴(ともの)武(たけ)日(ひ)命(のみこと)(荒(あら)田(た)別(わけ)命(のみこと)・17代仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)だ。)の子孫としては、建(たけ)持(もちの)連(むらじ)(娘むこの初代田(た)道(みちの)君(きみ)・18・19代履(り)中(ちゅう)・反(はん)正(ぜい)天(てん)皇(のう)だ。)や、また、蚊(かや)手(ての)連(むらじ)や、また、阿(あ)古(この)連(むらじ)たちがいた、というのだ。そしてまた、この建(たけ)持(もちの)連(むらじ)(初代田(た)道(みちの)君(きみ)・18・19代履(り)中(ちゅう)・反(はん)正(ぜい)天(てん)皇(のう)だ。)の子孫としては、大(おお)伴(ともの)室(むろ)屋(やの)大(おお)連(むらじ)(長男の奈(な)良(ら)別(わけ)命(のみこと)・平(へ)群(ぐりの)真(ま)鳥(どりの)大(おおまえつ)臣(きみ)・23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)だ。)や、また、大(おお)伴(ともの)談(かたるの)連(むらじ)(太(た)姫(ひめ)・中(なか)蒂(し)姫(ひめ)の最初のむこの中(なか)臣(とみの)鎌(かまの)大(おお)夫(まえつきみ)・紀(きの)韓(から)子(この)宿(すく)禰(ね)・21・24代安(あん)康(こう)・顕(けん)宗(そう)天(てん)皇(のう)だ。)や、①大(おお)伴(ともの)長(なが)目(めの)連(むらじ)(長男の奈(な)良(ら)別(わけ)命(のみこと)・平(へ)群(ぐりの)真(ま)鳥(どりの)大(おおまえつ)臣(きみ)・23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)だ。)たち3人がいた、というのだ。
そしてまた、大(おお)伴(ともの)室(むろ)屋(やの)大(おお)連(むらじ)(奈(な)良(ら)別(わけ)命(のみこと)・平(へ)群(ぐりの)真(ま)鳥(どりの)大(おおまえつ)臣(きみ)・23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)だ。)なのだが、『群(ぐん)馬(ま)』の名称については、平(へ)群(ぐりの)真(ま)鳥(どりの)大(おお)臣(まえつきみ)や、御(み)馬(まの)皇(み)子(こ)である奈(な)良(ら)別(わけ)命(のみこと)を、もじったものか?そしてまた、その子孫としては、大(おお)伴(ともの)金(かな)村(むらの)大(おお)連(むらじ)(娘むこの中(なか)臣(とみの)黒(くろ)田(だの)大(おお)連(むらじ)・27代継(けい)体(たい)天(てん)皇(のう)だ。)や、また、大(おお)伴(ともの)御(お)物(ものの)宿(すく)禰(ねの)連(むらじ)(長男の25代仁(にん)賢(けん)天(てん)皇(のう)だ。)や、また、大(おお)伴(ともの)若(わか)古(この)連(むらじ)(娘むこの中(なか)臣(とみの)黒(くろ)田(だの)大(おお)連(むらじ)・27代継(けい)体(たい)天(てん)皇(のう)だ。)たち3人がいた、というのだ。
そしてまた、この大(おお)伴(ともの)金(かな)村(むらの)大(おお)連(むらじ)(中(なか)臣(とみの)黒(くろ)田(だの)大(おお)連(むらじ)・27代継(けい)体(たい)天(てん)皇(のう)だ。)の子孫としては、①大(おお)伴(ともの)磐(いわの)連(むらじ)(次男の蘇(そ)我(がの)稲(いな)目(めの)大(おお)臣(おみ)・29代宣(せん)化(か)天(てん)皇(のう)だ。)や、また、①大(おお)伴(ともの)狭(さ)手(て)彦(ひこの)連(むらじ)(長男の物(もの)部(のべの)尾(お)輿(こしの)連(むらじ)・30代欽(きん)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。)や、また、①大(おお)伴(ともの)糠(あら)手(て)古(この)連(むらじ)(長男の初代糠(あら)手(て)古(この)連(むらじ)・物(もの)部(のべの)尾(お)輿(こしの)連(むらじ)・30代欽(きん)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。)や、また、①大(おお)伴(ともの)阿(あ)被(ひ)布(ふ)子(この)連(むらじ)(長男の物(もの)部(のべの)尾(お)輿(こしの)連(むらじ)・30代欽(きん)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。)や、また、①大(おお)伴(ともの)宇(う)遅(じ)古(この)連(むらじ)(長男の物(もの)部(のべの)尾(お)輿(こしの)連(むらじ)・30代欽(きん)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。)たち5人がいた、というのだ。
そしてまた、大(おお)伴(ともの)糠(あら)手(て)彦(ひこの)連(むらじ)(初代糠(あら)手(て)古(この)連(むらじ)・物(もの)部(のべの)尾(お)輿(こしの)連(むらじ)・30代欽(きん)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。)の子孫としては、①小(こ)手(て)比(ひ)羊(めの)連(むらじ)(次女の石(いその)上(かみの)夫(おお)人(とじ)だ。)や、また、①大(おお)伴(ともの)頬(ほお)垂(たるの)連(むらじ)(次男の物(もの)部(のべの)守(もり)屋(やの)大(おお)連(むらじ)・32代用(よう)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。)や、また、①大(おお)伴(ともの)加(か)爾(に)古(この)連(むらじ)(次女のむこの蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)・33・37代崇(す)峻(しゅん)・孝(こう)徳(とく)天(てん)皇(のう)だ。)たち3人がいた、というのだ。
そしてまた、大(おお)伴(ともの)阿(あ)被(ひ)布(ふ)子(この)連(むらじ)(物(もの)部(のべの)尾(お)輿(こしの)連(むらじ)・30代欽(きん)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。)の子孫としては、①大(おお)伴(ともの)咋(くい)子(この)連(むらじ)(娘むこの蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)・33・37代崇(す)峻(しゅん)・孝(こう)徳(とく)天(てん)皇(のう)だ。)や、また、①大(おお)伴(ともの)奈(な)羅(ら)古(この)連(むらじ)(娘むこの蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)・33・37代崇(す)峻(しゅん)・孝(こう)徳(とく)天(てん)皇(のう)だ。)たち2人がいた、というのだ。
そしてまた、大(おお)伴(ともの)磐(いわの)連(むらじ)(蘇(そ)我(がの)稲(いな)目(めの)大(おお)臣(おみ)・29代宣(せん)化(か)天(てん)皇(のう)だ。)の子孫としては、①大(おお)伴(ともの)長(おさ)峡(きょうの)連(むらじ)(長男の蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)・33・37代崇(す)峻(しゅん)・孝(こう)徳(とく)天(てん)皇(のう)だ。)~②大(おお)伴(ともの)江(え)人(びとの)連(むらじ)(長男の中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)だ。)や、また、②大(おお)伴(ともの)稲(いな)人(ひと)(長男の中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)だ。なお、大(おお)伴(ともの)山(やま)前(まえの)連(むらじ)姓。淡海志賀大宮辛未年8月卒。)や、また、②大(おお)伴(ともの)秋(あき)人(ひと)(長男の中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)だ。)や、そしてまた、①大(おお)伴(ともの)弟(おと)古(この)連(むらじ)(娘むこの物(もの)部(のべの)尾(お)輿(こしの)連(むらじ)・30代欽(きん)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。)たちがいた、というのだ。
そしてまた、①大(おお)伴(ともの)弟(おと)古(この)連(むらじ)(物(もの)部(のべの)尾(お)輿(こしの)連(むらじ)・30代欽(きん)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。)の子孫としては、~②大(おお)伴(ともの)穂(ほ)足(たり)(娘むこの蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)・33・37代崇(す)峻(しゅん)・孝(こう)徳(とく)天(てん)皇(のう)だ。)や、また、②大(おお)伴(ともの)渕(ふち)守(もり)(娘むこの蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)・33・37代崇(す)峻(しゅん)・孝(こう)徳(とく)天(てん)皇(のう)・南(みなみ)淵(ぶちの)長(ちょう)安(あん)・国(くにの)博士(はかせ)高向玄理(たかむこのげんり)だ。なお、朝倉大宮朝入唐国於彼国病歿。)~③大(おお)伴(ともの)真(ま)楫(かじ)(長男の中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)だ。大(おお)伴(ともの)山(さん)前(まえの)連(むらじ)姓を賜ふ。)~④大(おお)伴(ともの)広(ひろ)川(かわ)(3男の石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)だ。)たちがいた、というのだ。
そしてまた、大(おお)伴(ともの)穂(ほ)足(たり)(蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)・33・37代崇(す)峻(しゅん)・孝(こう)徳(とく)天(てん)皇(のう)だ。)の子孫としては、~①大(おお)伴(ともの)方(かた)麻(ま)呂(ろ)(3男の石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)麻呂(まろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)高(たけ)市(ち)麿(まろ)・有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)・三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麿(まろ)だ。なお、母、阪(さか)合(い)部(べの)連(むらじ)老(お)目(め)安(じょ)(実際は小足(おたらし)姫(ひめ)だ。)、大(おお)伴(ともの)山(やま)前(まえの)連(むらじ)姓。浄御原天皇朝甲申年3月、賜姓直(あたい)称大(おお)伴(ともの)直(あたい)」。)や、また、①大(おお)伴(ともの)清(きよ)滝(たき)(3男の石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)麻呂(まろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)高(たけ)市(ち)麿(まろ)だ。)~高(たか)樹(き)(次男の石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)男(お)人(ひと)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)忍(おし)人(ひと)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)吉(き)備(び)麻(ま)呂(ろ)・石(いその)上(かみの)乙(おと)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)高(たけ)市(ち)麿(まろ)だ。)たちがいた、というのだ。
そしてまた、①大(おお)伴(ともの)方(かた)麻(ま)呂(ろ)(石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)麻呂(まろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)高(たけ)市(ち)麿(まろ)・有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)・三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麿(まろ)だ。)の子孫としては、~②大(おお)伴(ともの)苧(お)満(ま)呂(ろ)(娘むこの中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)猿(さ)取(ぬし)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)興(おこ)志(し)だ。)や、また、②大(おお)伴(ともの)是(これ)公(ぎみ)(次男の石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)男(お)人(ひと)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)忍(おし)人(ひと)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)吉(き)備(び)麻(ま)呂(ろ)・石(いその)上(かみの)乙(おと)麻(ま)呂(ろ)だ。)たちがいた、というのだ。
そしてまた、この大(おお)伴(ともの)苧(お)満(ま)呂(ろ)(娘むこの中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)猿(さ)取(ぬし)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)興(おこ)志(し)・阿(あ)刀(との)造(みやつこ)大(おお)足(たり)・巨(こ)勢(せの)苗(なえ)麻(ま)呂(ろ)だ。なお、母(姑(しゅうとめ)だ。)は、秦野(はたのの)足女(たりめ)(家(いえ)原(はら)の音(おと)名(な)だ。)の娘の子孫としては、①大(おお)伴(ともの)桑(くわ)主(ぬし)(娘むこの大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)伊(い)可(か)保(ほ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)田(た)麻呂(まろ)・阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)秋(あき)主(ぬし)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)だ。)~②宮(みや)麻呂(まろ)(娘むこの坂(さかの)上(うえの)大(おお)宿(すく)禰(ね)苅(かり)田(た)麻(ま)呂(ろ)・秋(あき)篠(しのの)安(やす)人(ひと)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)庭(にわ)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)達(たつ)男(お)だ。)や、また、②大(おお)伴(ともの)魚(うお)彦(ひこ)(娘むこの大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)魚(うお)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)長(なが)・巨(こ)勢(せの)野(の)足(たり)だ。)たちがいた、というのだ。
そしてまた、この大(おお)伴(ともの)魚(うお)彦(ひこ)(大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)俊(しゅん)哲(てつ)・大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)魚(うお)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)長(なが)・巨(こ)勢(せの)野(の)足(たり)だ。)の子孫としては、①大(おお)伴(ともの)福(ふく)依(より)(娘むこの坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)道(みち)長(なが)・石(いし)津(づ)麿(まろ)だ。)や、②大(おお)伴(ともの)福(ふく)生(お)(娘むこの坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ)だ。また、その妻(つま)は上(かず)総(さの)介(すけ)伴(ともの)竜(たつ)男(お)の娘というが、実際は嫁だ。上(かず)総(さの)介(すけ)伴(ともの)竜(たつ)男(お)や、坂(さかの)上(うえの)大(おお)宿(すく)禰(ね)苅(かり)田(た)麻(ま)呂(ろ)や、和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)達(たつ)男(お)の実子(長男だ。)である菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)道(みち)長(なが)(実際は坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ)だ。)の妻(つま)なのだ。つまり嫁と息子が逆なのだ。つまり実際は、大(おお)伴(ともの)魚(うお)彦(ひこ)である菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)の娘むこが、坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ)だ。)や、③大(おお)伴(ともの)近(ちか)世(よ)(娘むこの菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)・大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)だ。)や、④女子(藤(ふじ)原(わら)継(つぐ)縄(なお)室(しつ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)明(めい)信(しん)女(め)・東(とう)信(しん)女(め)だ。)たち4人がいた、ということなのだ。
そしてまた、この大(おお)伴(ともの)福(ふく)生(お)(坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)道(みち)長(なが)・石(いし)津(づ)麿(まろ)だ。)の子孫としては、大(おお)伴(ともの)稔(みの)男(お)(大(おお)野(の)だ。)や、また、大(おお)伴(ともの)年(とし)足(たり)(鷹(たか)主(ぬし)だ。)~真(まさ)弓(み)や、また、真(ま)足(たり)(真(ま)弓(ゆみ)と同一人物だ。)~押(おし)足(たり)たちがいた、というのだ。
そしてまた、大(おお)伴(ともの)年(とし)足(たり)(鷹(たか)主(ぬし)だ。)の子(娘むこだ。)という大(おお)伴(ともの)真(まさ)弓(み)(実際は真(ま)足(たり)だ。)の子孫としては、大(おお)伴(ともの)真(まさ)宗(むね)や、また、女子や、また、大(おお)伴(ともの)真(まさ)貞(さだ)や、また、大(おお)伴(ともの)真(まさ)牛(うま)~大(おお)伴(ともの)真(まさ)年(とし)たちがいた、というのだ。
そしてまた、大(おお)伴(ともの)真(まさ)貞(さだ)の子孫としては、大(おお)伴(ともの)助(すけ)恒(つね)や、また、大(おお)伴(ともの)躬(み)行(ゆき)や、また、女子や、また、大(おお)伴(ともの)恒(つね)房(ふさ)たち4人がいた、というのだ。そしてまた、大(おお)伴(ともの)助(すけ)恒(つね)の子としては、大(おお)伴(ともの)長(なが)正(まさ)や、また、大(おお)伴(ともの)長(なが)栄(さか)たち2人がいた、というのだ。そしてまた、大(おお)伴(ともの)躬(み)行(ゆき)の子としては、大(おお)伴(ともの)善(よし)根(ね)や、また、大(おお)伴(ともの)善(よし)臣(おみ)たち2人がいた、というのだ。そしてまた、大(おお)伴(ともの)恒(つね)房(ふさ)の子としては、大(おお)伴(ともの)年(とし)高(たか)や、また、大(おお)伴(ともの)滝(たき)男(お)や、また、大(おお)伴(ともの)峯(みね)男(お)たち3人がいた、ということなのだ。
さてそれでは、この大(おお)伴(ともの)滝(たき)男(お)の子孫としては、甲斐(かいの)国(くにの)一の宮(いちのみや)の浅(せん)間(げん)神(じん)社(じゃ)の宮司家(ぐうじけ)の古(ふる)屋(や)氏(し)なのだ。そしてまた、甲斐(かい)国(こく)の伴(ともの)直(あたい)一族としては、②大(おお)伴(ともの)魚(うお)彦(ひこ)(大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)魚(うお)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)長(なが)・巨(こ)勢(せの)野(の)足(たり)だ。)の子孫である、ということなのだ。
そしてまた、甲斐(かいの)国(くに)八代(やつしろ)郡司(ぐんつかさ)で少領正6位下の大(おお)伴(ともの)恒(つね)房(ふさ)の子孫としては、山梨郡司(やまなしぐんつかさ)擬大領の大(おお)伴(ともの)年(とし)高(たか)~山梨郡司(やまなしぐんつかさ)擬少領の大(おお)伴(ともの)峯(みね)高(だか)や、また、甲斐(かい)国(こく)八代(やつしろ)郡司(ぐんつかさ)少領の従7位下の大(おお)伴(ともの)滝(たき)男(お)~甲斐国八代(やつしろ)郡司(ぐんつかさ)大領の正6位下の大(おお)伴(ともの)弥(や)成(なり)や、また、伴五(とものご)甲斐目(かいもく)の大(おお)伴(ともの)峯(みね)男(お)~伴(ともの)太(た)甲斐目(かいもく)の大(おお)伴(ともの)直道(なおみち)たちがいた、という系譜である、というのだ。
つまり甲斐(かい)国(こく)の伴(ともの)直(あたい)一(いち)族(ぞく)の祖としては、大(おお)伴(ともの)魚(うお)彦(ひこ)(大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)魚(うお)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)長(なが)・巨(こ)勢(せの)野(の)足(たり)だ。)の子孫ということなのだ。そしてまた、阿倍(あべの)満月(まんげつ)丸(まる)(伊(い)岐(きの)連(むらじ)益(ます)麿(まろ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)成(なり)・2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・百済(くだら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)秋(あき)主(ぬし)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・大(おお)伴(とも)桑(くわ)主(ぬし)だ。)としては、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)(石上(いそのかみの)乙(おと)麻呂(まろ)・荒(あら)嶋(しまの)乙(おと)主(ぬし)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)男(お)人(ひと)・百済(くだら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)興(おこ)志(し)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)調(つき)足(たり)・大(おお)伴(ともの)是(これ)公(きみ)・大(おお)伴(ともの)高(たか)樹(き)だ。)の娘である大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)杜女(もりめ)との2人の間に、そのもうけた実子としては、長男である大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)(菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)穎(ひで)人(ひと)・佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)・大(おお)中(なか)臣(とみの)諸(もろ)魚(うお)・大(おお)伴(ともの)魚彦(うおひこ)・百済(くだら)王(こに)氏(きし)俊(しゅん)哲(てつ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)野(の)足(たり)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)名(な)・巨(こ)勢(せの)野(の)足(たり)だ。)がいた、ということなのだ。
そしてまた、この大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)(菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)穎(ひで)人(ひと)・佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)・大(おお)中(なか)臣(とみの)諸(もろ)魚(うお)・大(おお)伴(ともの)魚彦(うおひこ)・百済(くだら)王(こに)氏(きし)俊(しゅん)哲(てつ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)野(の)足(たり)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)名(な)・巨(こ)勢(せの)野(の)足(たり)だ。)の子孫としては、大(おお)伴(ともの)福(ふく)依(より)(娘むこの坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)道(みち)長(なが)・石(いし)津(づ)麿(まろ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)聡(そう)哲(てつ)だ。)や、また、大(おお)伴(ともの)福(ふく)生(お)(娘むこの坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)道(みち)長(なが)・石(いし)津(づ)麿(まろ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)聡(そう)哲(てつ)の実像である伴(ともの)朝(あそ)臣(み)山(やま)道(みち)だ。)や、また、大(おお)伴(ともの)近(ちか)世(よ)(娘むこの菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)・大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)教(きょう)俊(しゅん)である伴(ともの)朝(あそ)臣(み)国(くに)道(みち)だ。)~伴(ともの)善(よし)男(お)(長男の伴大納言(とものだいなごん)の善(よし)男(お)だ)や、また、女子(藤(ふじ)原(わら)継(つぐ)縄(なお)室(しつ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)明(めい)信(しん)女(め)・東(とう)信(しん)女(め)だ。)たちがいた、ということなのだ。
さてそれでは、阿倍(あべの)満月(まんげつ)丸(まる)(伊(い)岐(きの)連(むらじ)益(ます)麿(まろ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)成(なり)・2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・百済(くだら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)秋(あき)主(ぬし)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)躬(み)だ。)の3男(長男だ。)としては、津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)高(たか)継(つぐ)(大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)だ。なお、大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)の娘むこの伴(ともの)朝(あそ)臣(み)国(くに)道(みち)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)だ。)なのだ。そしてまた、この津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)高(たか)継(つぐ)(大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)教(きょう)俊(しゅん)・伴(ともの)朝(あそ)臣(み)国(くに)道(みち)だ。)の子孫としては、外従5位下の伴(ともの)深(しん)海(かい)(娘むこの伴(ともの)朝(あそ)臣(み)全(たま)継(つぐ)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)公(きみ)だ。)~②槻(つき)雄(お)(娘むこの伴(ともの)善(よし)男(お)だ。)がいた、ということなのだ。つまり大納言伴(ともの)善(よし)男(お)とは、大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)(菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)穎(ひで)人(ひと)・巨(こ)勢(せの)野(の)足(たり)だ。)の子のうちで、菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)(娘むこの大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)・伴(ともの)朝(あそ)臣(み)国(くに)道(みち)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)教(きょう)俊(しゅん)だ。)の長男である、ということなのだ。
そしてまた、この大納言伴(ともの)善(よし)男(お)(槻(つき)雄(お)だ。)の子孫としては、①伴(ともの)中(ちゅう)庸(よう)や、①伴(ともの)善(よし)岑(みね)や、①伴(ともの)善(よし)平(ひら)や、①伴(ともの)員(かず)助(すけ)たち4人の子がいたのだ。また、末子の伴(ともの)員(かず)助(すけ)の母としては、『日本(にほん)文(もん)徳(とく)天皇(てんのう)実録(じつろく)』で見れば、三河(みかわ)国(のくに)幡豆(はず)郡(ぐん)司(つかさ)という大(おお)伴(ともの)常(つね)盛(もり)の娘の清(きよ)犬子(いぬこ)とも伝えているが、しかしながら、実際は、三(み)河(かわ)国(のくに)額(ぬか)田(た)郡(ぐん)司(つかさ)の大(おお)伴(ともの)信任(しんとう)や、三河国幡豆(はず)郡(ぐん)司(つかさ)の大(おお)伴(ともの)常(つね)盛(もり)たち2人の実像としては、菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)公(きみ)である、ということなのだ。また、その娘の康(やす)子(こ)を娶ったのだ。つまり伴(ともの)深海(しんかい)(伴(ともの)朝(あそ)臣(み)全(たま)継(つぐ)だ。)である菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)公(きみ)(大(おお)伴(ともの)常(つね)盛(もり)だ。)の娘である康(やす)子(こ)=清(きよ)犬子(いぬこ)なのだ。また、そのもうけた実子としては、中(ちゅう)庸(よう)や、善(よし)峯(みね)や、善(よし)平(ひら)や、員(かず)助(すけ)たち4人の同母兄弟がいた、ということなのだ。
そしてまた、三河(みかわ)国(のくに)の『大(おお)伴(とも)氏(し)』」の祖としては、阿倍(あべの)満月(まんげつ)丸(まる)(伊(い)岐(きの)連(むらじ)益(ます)麿(まろ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)成(なり)・百済(くだら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)秋(あき)主(ぬし)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)だ。)の2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)の子孫である、ということなのだ。それでは、『鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)の系譜』」や、『紀(きの)直(あたい)氏(し)の系譜』や、『伊(い)岐(きの)連(むらじ)氏(し)の系譜』や、『津(つ)守(もり)氏(し)の系譜』や、『大(おお)三(み)輪(わ)氏(し)の系譜』などから見れば、やっぱり『大(おお)伴(とも)氏(し)の系譜』には、大きな隠蔽工作が仕組まれているのだ。また、この隠蔽工作の中心人物とは、中納言大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)の実像である右大臣中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)美(み)岐(き)麿(まろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)通(みち)守(もり)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)興(おこ)志(し)・大(おお)伴(ともの)苧(お)満(ま)呂(ろ)だ。)や、また、その娘の大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)宅女(やかめ)(賀(か)陽(やの)臣(おみ)小(こ)玉(だま)女(め)だ。)のむこである2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)(阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)躬(み)・楊(や)侯(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)・石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)嗣(つぐ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)成(なり)・小(お)野(のの)朝(あさ)臣(み)石(いわ)根(ね)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・2代目国(こく)学(がくの)頭(かしら)博(はかせ)士の文(あや)部(べの)良(よし)道(みち)・大(だい)学(がくの)頭(かみ)の菅(すが)野(のの)真(ま)道(みち)だ。)の和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)や、また、その先妻(せんさい)の大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)杜(もり)女(め)の実父である百済(くだら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)(石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)・初代国(こく)学(がくの)頭(かしら)博(はか)士(せ)の文部(あやべの)息(おき)道(みち)だ。)などの人物たちが深く関わっていた、ということなのだ。
さてそれでは、『大(おお)伴(とも)氏(し)の系譜』の中の、大(おお)伴(ともの)御行(みゆき)の子である古(こ)麻呂(まろ)の実像なのだが、実際は、次女である多(た)治(じ)比(ひの)郎(いら)女(つめ)(阿(あ)岐(き)良(ら)姫(ひめ)だ。)のむこの中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)(大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)池(いけ)守(もり)・下(しもつ)毛(け)野(のの)君(きみ)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)直(あたい)古(こ)麻呂(まろ)だ。)なのだ。また、その長男の右大臣中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)美(み)岐(き)麿(まろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)奥(おく)守(もり)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)馬(うま)養(かい)だ。)の娘むことしては、2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)(中(なか)臣(とみの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・阿(あ)倍(べ)満(まん)月(げつ)丸(まる)・中(なか)臣(とみの)宅(やか)成(なり)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)・大納言紀(きの)朝(あそ)臣(み)船(ふな)守(もり)・紀(きの)直(あたい)国(くに)栖(ます)だ。)がいた、ということなのだ。また、その実父とは、初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)(実際は阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)・阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)広(ひろ)目(め)・楊(や)候(この)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)泰(やす)麿(まろ)・・紀(きの)直(あたい)広(ひろ)嶋(しま)・大(おお)伴(ともの)高(たか)多(た)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)奥(おく)守(もり)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)瀬(せ)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)三(み)原(はら)麿(まろ)だ。)なのだ。つまりその長男こそが、阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)(小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)石(いわ)根(ね)・石(いその)上(かみの)宅(やか)嗣(つぐ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)・中(なか)臣(とみの)宅(やか)成(なり)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・2代目国(こく)学(がくの)頭(かしら)博(はかせ)士の文(あや)部(べの)良(よし)道(みち)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)躬(み)・楊(や)候(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)だ。)である、ということなのだ。
さてそれでは、この2代目国学頭(こくがくのかしら)博士(はかせ)の文(あや)部(べの)良(よし)道(みち)(菅(すが)野(のの)真(ま)道(みち)・阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)石(いわ)根(ね)・石(いその)上(かみの)宅(やか)嗣(つぐ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)躬(み)・中(なか)臣(とみの)宅(やか)成(なり)・和気朝臣清麿(わけのあそみきよまろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)秋(あき)主(ぬし)・大(おお)伴(ともの)桑(くわ)主(ぬし)だ。)の子(娘むこ含む。)たちのうちでは、実子の長男の菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)(中(なか)臣(とみの)豊(とよ)長(なが)・楊(や)侯(この)史(ふひと)令(れい)珍(ちん)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)頴(ひで)人(ひと)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)名(な)・大(おお)中(なか)臣(とみの)諸(もろ)魚(うお)・大(おお)伴(ともの)魚(うお)彦(ひこ)・巨(こ)勢(せの)野(の)足(たり)・菅(すが)原(わらの)道(みち)真(ざね)の曽祖父だ。)や、次男で娘むこの秋(あき)篠(しのの)安(やす)人(ひと)(中(なか)臣(とみの)豊(とよ)庭(にわ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)令(れい)珪(けい)・坂(さかの)上(うえの)大(おお)宿(すく)禰(ね)苅(かり)田(た)麻(ま)呂(ろ)・秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)安(やす)人(ひと)だ。)たちは、この2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)(阿(あ)倍(べ)満(まん)月(げつ)丸(まる)・中(なか)臣(とみの)宅(やか)成(なり)・楊(や)侯(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)秋(あき)主(ぬし)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)益(ます)麿(まろ)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)躬(み)・大(おお)伴(ともの)桑(くわ)主(ぬし)だ。)こそが、その先(せん)妻(さい)の大(おお)神(みわの)杜(もり)女(め)との2人の間に、そのもうけた実子や、娘むこの2人なのだ。
そしてまた、長男の菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)とは、大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)(上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)頴(ひで)人(ひと)・大(おお)中(なか)臣(とみの)諸(もろ)魚(うお)・大(おお)伴(ともの)魚(うお)彦(ひこ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)野(の)足(たり)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)名(な)だ。)である佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)の実像なのだ。また、この2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)である菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)(実際は、阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・中(なか)臣(とみの)宅(やか)成(なり)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)躬(み)・大(おお)伴(ともの)桑(くわ)主(ぬし)だ。)とは、菅(すが)原(わら)氏(し)の祖、土(は)師(じの)宇(う)庭(にわ)の実像なのだ。そこで、この2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)を、『続(しょく)日(に)本(ほん)紀(ぎ)』で見てみれば、『橘(たちばなの)奈(な)良(ら)麻(ま)呂(ろ)の乱』で『殺された。』とも伝えるのだ。しかしながら、実際としては、石(いその)上(かみの)宅(やか)嗣(つぐ)に変身して生き残っていた、ということなのだ。そしてまた、その実子である大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)とは、藤(ふじ)原(わらの)種(たね)継(つぐ)の暗殺で『その首謀者として、785年に処刑された。』とも伝えるのだ。また、『その死後の延暦25年(806年)には、その罪を赦されて、正5位上に複した。』とも伝えるのだが、しかしながら、実際としては、菅(すが)原(はらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)として、延暦21年(802年)には、『遣唐使(けんとうし)に随って唐に渡り』ということなのだ。そしてまた『、延暦24年(805年)に帰国した。』という人物なのだ。つまり実際としては、785年以後~延暦24年(805年)までは、中国に滞在した可能性が高いのだ。また、菅(すが)原(わらの)道(みち)真(ざね)の編(へん)纂(さん)という『類(るい)聚(じゅう)国(こく)史(し)』卷66の弘仁12年(821年)8月辛巳条で見てみれば、東学学士・従5位上の上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)頴(ひで)人(ひと)が年56才で没した、というのだ。また、同一人物と推測される大(おお)中(なか)臣(とみの)諸(もろ)魚(うお)としては、天平15年(743年)の生まれなのだ。つまり天平15年の生まれであれば、その実父の上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)である阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)(実際は、和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)だ。732年生まれだ。)の11才のときの実子なのだ。しかしながら、これはおかしいのだ。また、この上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)頴(ひで)人(ひと)(大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)だ。)こそが、年56才で本当に没したのであれば、阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)である実父の上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)(2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)だ。)が、33才のときの子なのだ。これも長男のため、おかしいのだ。つまりこれらは、すべてが隠蔽工作ということなのだ。そこで、実際としては『巨(こ)勢(せ)氏(し)の系譜』で見てみれば、巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)品(ほむ)治(ち)(実際は多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)・大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)・大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)だ。)の子(実際は長男だ。)としては、巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)堺(さかい)麻(ま)呂(ろ)(淳仁5年・761年没・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)・大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)だ。)がいたのだが、また、この巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)堺(さかい)麻(ま)呂(ろ)である大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)(実際は多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)だ。)の娘の大(おお)伴(ともの)大(おお)嬢(いらつめ)(多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)小(こ)姉(あね)だ。)のむここそが、巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)苗(なえ)麻呂(まろ)(延暦6年・787年没。)である大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)(実際は中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)だ。)なのだ。つまりその長男(実際は、娘の仮称、若(わか)小(こ)玉(だま)女(め)のむこだ。)としては、巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)野(の)足(たり)(天平感宝元年・749年~弘仁8年・817年没。)である菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)(実際は、大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)・佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)・大(おお)中(なか)臣(とみの)諸(もろ)魚(うお)・大(おお)伴(ともの)魚(うお)彦(ひこ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)頴(ひで)人(ひと)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)名(な)だ。)がいた、ということなのだ。つまり実際としては、その実父である阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)(上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)躬(み)・大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)だ。実際は732年生まれだ。)の17歳(749年)のときに、そのもけた長男こそが、この巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)野(の)足(たり)の実像である菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)(大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)・佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)・大(おお)中(なか)臣(とみの)諸(もろ)魚(うお)・大(おお)伴(ともの)魚(うお)彦(ひこ)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)名(な)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)頴(ひで)人(ひと)だ。)である、ということなのだ。つまり実際としては、その歳68才で、最後は巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)野(の)足(たり)として弘仁8年(816年12月14日だ。)に没した、ということなのだ。そしてまた、この巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)野(の)足(たり)の子としては、巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)野(の)や、巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)光(みつ)舟(ふね)がいた、ということなのである。
さてそれでは、この菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)(実際は大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)・佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)・大(おお)中(なか)臣(とみの)諸(もろ)魚(うお)・大(おお)伴(ともの)魚(うお)彦(ひこ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)頴(ひで)人(ひと)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)名(な)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)野(の)足(たり)だ。)の子(娘むこ含む。)としては、その娘むこで長男の伴(ともの)宿(すく)禰(ね)山(やま)道(みち)(菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)道(みち)長(なが)・坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ)だ。)や、また、同じく娘むこで異母弟の次男の伴(ともの)宿(すく)禰(ね)国(くに)道(みち)(菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)・大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)だ。)たち2人の人物がいたのだが、つまり菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)(実際は中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)長(なが)・楊(や)侯(この)史(ふひと)令(れい)珍(ちん)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)頴(ひで)人(ひと)・大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)・佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)・大(おお)中(なか)臣(とみの)諸(もろ)魚(うお)・大(おお)伴(ともの)魚(うお)彦(ひこ)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)名(な)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)野(の)足(たり)だ。)の子としては、①女子(実際は、娘むこの長男の道(みち)長(なが)・伴(ともの)宿(すく)禰(ね)山(やま)道(みち)の妻(つま)だ。)や、②女子(実際は、娘むこで次男の菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)・大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)・伴(ともの)宿(すく)禰(ね)国(くに)道(みち)の妻(つま)だ。)や、③実子の菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清岡(きよおか)(長男の弘(こう)法(ぼう)大(だい)師(し)の僧空(くう)海(かい)だ。)や、④実子の菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)枝(えだ)(実子だ。)や、⑤実子の菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)公(きみ)(実子の延(えん)暦(りゃく)寺(じ)の別(べつ)当(とう)の深(しん)海(かい)・三(み)河(かわ)国(のくに)額(ぬが)田(た)郡(ぐん)司(つかさ)の大(おお)伴(ともの)信任(しんとう)や、三河(みかわ)国(のくに)幡豆(はず)郡(ぐん)司(つかさ)の大(おお)伴(ともの)常(つね)盛(もり)だ。)や、⑥実子の菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)人(ひと)(実子だ。)たち6人の兄弟(娘むこ含む。)がいた、ということなのである。
そしてまた、このうちで、④菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)公(きみ)には、その子としては、6人いた、というのだ。つまり①興(おこ)善(よし)や、②忠(ただ)臣(おみ)や、③善(よし)主(ぬし)や、④是(これ)善(よし)や、⑤善(よし)算(さん)や、⑥康子(やすこ)(女)などだが、このうちで、4男の菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)是(これ)善(よし)の子としては3人で、つまり①道(みち)善(よし)や、②道(みち)仲(なか)や、③道(みち)真(ざね)たちのうちで、3男という道(みち)真(ざね)こそが、『学問の神様』という右大臣菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)道(みち)真(ざね)である、ということなのだ。また、この菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)公(きみ)の6子の康(やす)子(こ)(女)の夫こそが、伴(ともの)大納言善(よし)男(お)ということなのだ。そしてまた、5男の菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)善(よし)算(さん)とも同一人物なのだ。また、伴(ともの)大納言善(よし)男(お)とは、伴(とも)氏(し)の養子ともなつた、という説もあるのだ。その性格としては、『生まれつき爽俊で、狡猾で、わるがしこい男で、又、弁舌が達者で、明察果断、政務に通じていたが、寛裕高雅さがなく、性忍酷であった。』」とも伝わっているのだ。そこで、娘むこの5男の菅(すが)原(わらの)善(よし)算(さん)である、ということなのだ。また、この伴(ともの)大納言善(よし)男(お)とは、伴(ともの)宿(すく)禰(ね)国(くに)道(みち)(菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)・大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)だ。)の実子の長男である、ということなのだ。
さてそれでは、『紀(きの)直(あたい)氏(し)(紀(き)国造家(こくぞうけ)だ。)の系譜』で見てみれば、紀(きの)直(あたい)古(こ)麻(ま)呂(ろ)(実際は、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)だ。)の3男(娘むこだ。)としては、紀(きの)直(あたい)広(ひろ)嶋(しま)(実際は、阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)広(ひろ)目(め)・楊(や)候(この)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)泰(やす)麿(まろ)・大(おお)伴(ともの)高多(たかた)麻呂(まろ)・阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)・阿(あ)倍(べの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)瀬(せ)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)三(み)原(はら)麿(まろ)・初代の大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)だ。)がいたのだ。そしてまた、その子としては、紀(きの)直(あたい)国(くに)栖(ます)ともなっているのだ。また、この紀(きの)直(あたい)国(くに)栖(ます)の実像としては、大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)美(み)岐(き)麿(まろ)(実際は中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)だ。)の娘の大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)宅女(やかめ)(賀(か)陽(やの)臣(おみ)小(こ)玉(だま)女(め)だ。)の夫である2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)(実際は中(なか)臣(とみの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)田(た)麿(まろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)だ。)である、ということなのだ。
そしてまた、この紀(きの)直(あたい)国(くに)栖(ます)(実際は2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・中(なか)臣(とみの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・和氣(わけの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)・大納言紀(きの)朝(あそ)臣(み)家(やか)守(もり)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)秋(あき)主(ぬし)・大(おお)伴(ともの)桑(くわ)主(ぬし)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)躬(み)だ。)の長男としては、①菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)(実際は中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)長(なが)・楊(や)候(この)史(ふひと)令(れい)珍(ちん)・大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)・大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)魚(うお)・佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)頴(ひで)人(ひと)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)名(な)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)野(の)足(たり)だ。)がいた、ということなのだ。そしてまた、次男としては娘むこの②秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)安(やす)人(ひと)(実際は中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)庭(にわ)・坂(さかの)上(うえの)大(おお)宿(すく)禰(ね)苅(かり)田(た)麻(ま)呂(ろ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)令(れい)珪(けい)だ。)がいたのだ。つまり紀(きの)直(あたい)国(くに)栖(ます)(実際は紀(きの)直(あたい)豊(とよ)嶋(しま)・阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)秋(あき)主(ぬし)だ。)の2男(娘むこだ。)である秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)安(やす)人(ひと)こそが、中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)庭(にわ)の楊(や)侯(この)史(ふひと)令(れい)珪(けい)の実像なのだ。そしてまた、その異母弟の3男としては、③秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)高(たか)継(つぐ)(実際は津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)高(たか)継(つぐ)・紀(きの)直(あたい)高(たか)継(つぐ)だ。)である大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)(実際は中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)御(み)笠(かさ)麿(まろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)雄(お)黒(くろ)麿(まろ)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)岑(みね)守(もり)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)氏(うじ)成(なり)・楊(や)侯(この)史(ふひと)令(れい)璆(きゅう)・伴(ともの)朝(あそ)臣(み)国(くに)道(みち)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)だ。)がいたのだ。そしてまた、その子(娘むこだ。)としては、~深(しん)海(かい)(実際は娘むこの伴(ともの)朝(あそ)臣(み)全(たま)継(つぐ)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)公(きみ)だ。)がいた、ということなのだ。そしてまた、4男(娘むこだ。)としては、④紀(きの)直(あたい)弘(ひろ)淵(ふち)(実際は藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)継(つぐ)縄(なお)・人(ひと)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)直(あたい)弘(ひろ)国(くに)だ。)たちがいた、ということなのである。
さてそれでは、この3男である秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)高(たか)継(つぐ)(実際は大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)御(み)笠(かさ)麿(まろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)雄(お)黒(くろ)麿(まろ)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)岑(みね)守(もり)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)氏(うじ)成(なり)・楊(や)侯(この)史(ふひと)令(れい)璆(きゅう)・伴(ともの)朝(あそ)臣(み)国(くに)道(みち)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)・初代秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)貞(さだ)継(つぐ)だ。)の子(娘むこ含む。)としては、①長男の2代目秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)吉(よし)継(つぐ)(実際は長女のむこの小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)篁(たかむら)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)仲(なか)世(よ)だ。また、初代秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)吉(よし)継(つぐ)とは、大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)の菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)だ。)や、また、②次男の秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)維(これ)方(かた)(鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)の禰(ね)宜(ぎ)ではなく、氏(うじ)人(びと)とも記す。次女のむこである秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)全(たま)継(つぐ)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)公(きみ)・2代目秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)貞(さだ)継(つぐ)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)全(たま)継(つぐ)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)千(ち)株(かぶ)・深(しん)海(かい)だ。)や、また、③3男の貞(さだ)助(すけ)(実子で長男の伴(ともの)大納言善(よし)雄(お)だ。)や、また、④4男の津(つ)食(け)丸(まる)(実子で次男だ。)たち4人がいた、ということなのだ。そしてまた、次男の秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)維(これ)方(かた)(実際は鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)の禰(ね)宜(ぎ)ではなく氏(うじ)人(びと)とも記す。2代目秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)貞(さだ)継(つぐ)だ。)については、『承和(じょうわ)年中(ねんちゅう)、大神(おおみわ)(37代目)神(かん)主(ぬし)、嘉(か)祥(しょう)2年、少(しょう)領(りょう)職(しょく)。』ともいうのだ。また、高(たか)継(つぐ)の次男というから、『三河国額田(ぬかた)郡司(ぐんつかさ)の大伴(おおともの)信任(しんとう)』や、『三河国幡豆(はず)郡(ぐん)司(つかさ)の大(おお)伴(ともの)常(つね)盛(もり)』の2人の人物の実像である菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)公(きみ)(康(やす)子(こ)・犬(いぬ)清(きよ)子(こ)の実父だ。)である、ということなのだ。そしてまた、延(えん)暦(りゃく)寺(じ)の別(べつ)当(とう)の深(しん)海(かい)である伴(ともの)朝(あそ)臣(み)全(たま)継(づぐ)である、ということなのである。
さてそれでは、『鴨(かもの)縣(あがた)主(ぬし)の系譜』で見てみれば、『38代神(かん)主(ぬし)、従6位の善(よし)雄(お)』は、『貞(じょう)観(かん)年中(ねんちゅう)、大(おお)神(みわ)(38代目だ。)神(かん)主(ぬし)、雄(お)継(つぐ)(津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)高(たか)継(つぐ)だ。)の男。』とも伝えるのだ。そしてまた、津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)高(たか)継(つぐ)(実際は神(かん)主(ぬし)雄(お)継(つぐ)・秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)高(たか)継(つぐ)・紀(きの)直(あたい)高(たか)継(つぐ)・大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)御(み)笠(かさ)麿(まろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)雄(お)黒(くろ)麿(まろ)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)岑(みね)守(もり)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)氏(うじ)成(なり)・楊(や)侯(この)史(ふひと)令(れい)璆(きゅう)・伴(ともの)朝(あそ)臣(み)国(くに)道(みち)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)・百(く)済(だら)王(こき)氏(きし)教(きょう)俊(しゅん)だ。)の3男としては、津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)全(たま)継(つぐ)(伴(ともの)国(くに)道(みち)・伴(ともの)深(しん)海(かい)だ。)なのだ。そしてまた、伴(ともの)大納言の善(よし)雄(お)とは、長男(実際娘むこだ。)の槻(つぎ)雄(お)なのだ。また、その舅(しゅうと)としては、三河国額田(ぬかた)郡司(ぐんつかさ)という大(おお)伴(ともの)信(しん)任(とう)や、三河国幡豆(はず)郡(ぐん)司(つかさ)という大(おお)伴(ともの)常(つね)盛(もり)なのだ。つまり菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)公(きみ)である、ということなのだ。
さてそれでは、次に、『紀(きの)直(あたい)氏(し)の系譜』で見てみれば、①津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)高(たか)継(つぐ)(実際は伴(ともの)朝(あそ)臣(み)国(くに)道(みち)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)・百(く)済(だら)王(こき)氏(きし)教(きょう)俊(しゅん)だ。)~②外従5位下の深(しん)海(かい)(津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)全(たま)継(つぐ)だ。)~③槻(つき)雄(お)(大納言伴(ともの)善(よし)男(お)だ。)。「深海(しんかい)者高(たけ)継(つぐ)男也。巳(み)上(じょう)不(ふ)兼(けん)大(たい)領(りょう)。』とも伝えるが、『紀(きの)直(あたい)氏(し)の系譜』で見れば、①津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)真(まさ)常(つね)(実際は大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・中(なか)臣(とみの)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)・阿(あ)刀(との)造(みやつこ)大(おお)足(たり)・坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)大(おお)国(くに)・佐(さえ)伯(きの)宿(すく)禰(ね)常(つね)人(ひと)だ。)~②津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)秋(あき)主(ぬし)(実際は娘むこの阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)直(あたい)国(くに)栖(ます)・大(おお)伴(ともの)桑(くわ)主(ぬし)だ。)~③津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)雄(お)継(つぐ)(実際は3男の神(かん)主(ぬし)雄(お)継(つぐ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)雄(お)黒(ぐろ)麿(まろ)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)高(たか)継(つぐ)・紀(きの)直(あたい)高(たか)継(つぐ)・秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)高(たか)継(つぐ)・伴(ともの)朝(あそ)臣(み)国(くに)道(みち)・大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)だ。)~④津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)善(よし)雄(お)(実際は伴(ともの)大納言善(よし)男(お)だ。)と系譜は続くのだ。そしてまた、この伴(ともの)国(くに)道(みち)(実際は菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)・大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)・百(く)済(だら)王(こき)氏(きし)教(きょう)俊(しゅん)だ。)としては、延暦寺(えんりゃくじ)の別当(べっとう)なのだ。そしてまた、その実子は津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)善(よし)雄(お)である伴(ともの)大納言善(よし)男(お)(実父の時代からの延(えん)暦(りゃく)寺(じ)の別当(べっとう)だ。)である、ということなのだ。
さてそれでは、次に、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)・三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麻(ま)呂(ろ)だ。)や、大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)(実際は、紀(きの)直(あたい)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)だ。)や、その実子で長男の大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)(実際は中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)だ。)たちの実際の没年月日を推測して見たいと思うのだ。そこで、この中納言大(おお)伴(ともの)宿(すく)禰(ね)家(やか)持(もち)(右大臣中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)・紀(きの)直(あたい)建(たけ)嶋(しま)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)猿(さ)取(ぬし)だ。)なのだが、『大(おお)伴(とも)氏(し)の系譜』で見てみれば、延暦4年8月(785年)に、『68歳で没した。』というのだ。そしてまた、歌人としては、『万(まん)葉(よう)集(しゅう)』の最後は、『天平宝字3年(759年)』なのだが、当時は、42歳というから、『養老元年(717年)』の出生なのだ。そしてまた、その実父である大納言大(おお)伴(ともの)宿(すく)禰(ね)旅(たび)人(と)(実際は中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)池(いけ)守(もり)・中納言多(た)治(じ)比(ひの)真人(まひと)三(み)宅(やけ)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)直(あたい)古(こ)麻呂(まろ)だ。)なのだが、天平3年7月(731年)に、『67歳で没した。』というのだ。つまり実際の出生の年は、39代天(てん)智(じ)天(てん)皇(のう)3年(664年)なのだ。そしてまた、その実子の大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)が誕生した年は、その実父の大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)が、53歳のとき、ということになるが、しかしながら、この長男の大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)(中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)だ。実母は多(た)治(じ)比(ひの)郎(いら)女(つめ)・阿(あ)岐(き)良(ら)姫(ひめ)だ。)の同妹の留(る)女(め)之(の)女(いら)郎(つめ)(藤原(ふじわらの)継(つぐ)縄(なお)室(しつ)だ。)や、3人の異母妹たちがいた、ことから推測すれば、実際としては、この大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)(中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)・紀(きの)直(あたい)建(たけ)嶋(しま)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)家(やか)主(ぬし)だ。)は、その実父の大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)(中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)だ。)こそが、20~30代の頃に出生したとも推測されるのだ。そこで、大納言大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)としては、同じ、『天平3年(731年)に没した。』という大納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)池(いけ)守(もり)や、最後としては、中納言大(おお)伴(ともの)宿(すく)禰(ね)牛(うま)養(かい)(天平勝宝元年・749年没。)の実像である、ということなのだ。そこで、その長男の大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)の実像としては、右大臣中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(紀(きの)直(あたい)建(たけ)嶋(しま)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)猿(さ)取(ぬし)だ。)なのだ。また、この中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)とは、延暦7年7月(788年)に『87才で没した。』とも伝えるから(なお、同一人物である巨勢(こせの)朝(あそ)臣(み)苗(なえ)麻呂(まろ)とは、延暦6年・787年没だ。)、その実際の出生の年としては、大宝元年(701年)なのだ。つまり延暦4年8月(785年)に、68歳で没した。』のではなく、また、実父の大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)(実際は中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)直(あたい)古(こ)麻呂(まろ)だ。)は、最後は大(おお)伴(ともの)宿(すく)禰(ね)牛(うま)養(かい)として、天平勝宝元年5月29日(749年)に没しているから、天平3年(731年)に67才であれば、天平勝宝元年(749年)には、実際は、85才で没した。ということなのだ。そしてまた、その長男(第4子だ。)である大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)(中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)だ。)とは、実際は、大宝元年(701年)の出生である、ということなのだ。そしてまた、その実父の大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)こそが、37歳のときの出生なのだ。また、同母妹(4女で第5子だ。)の留(る)女(め)之(の)女(いら)郎(つめ)(藤原(ふじわらの)継(つぐ)縄(なお)室(しつ)だ。)や、また、その異母姉である次女の第1子の林(はやし)直(のあたい)解(かい)任(とう)(石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)だ。)の妻(つま)や、また、次女の第2子の大(おお)伴(ともの)書(ふみ)持(もち)(紀(きの)直(あたい)千(ち)嶋(しま)・阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)島(しま)足(たり)・丹(たん)波(ばの)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)・右大臣吉(き)備(びの)真(ま)備(きび)・692~775年まで・83歳で没す。)の妻(つま)や、また、3女の第3子の大(おお)伴(ともの)高(たか)多(た)麻(ま)呂(ろ)(紀(きの)直(あたい)広嶋(ひろしま)・阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)・阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)広(ひろ)目(め)・中(なか)臣(とみの)泰(やす)麻(ま)呂(ろ)・楊(や)候(この)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)三(み)原(はら)麿(まろ)・阿(あ)倍(べの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)瀬(せ)・697~770年まで、73歳で没す。)の妻(つま)たち4人兄弟がいた、ということなのだ。
さてそれでは、次に、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)だ。)なのだが、養老元年(717年)3月に『78歳で没した。』というのだ。しかしながら、大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)高(たけ)市(ち)麿(まろ)(実際は紀(きの)朝(あそ)臣(み)麻呂(まろ)・慶雲3年・706年2月に没す。)や、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)庭(にわ)(養老2年・718年5月に没す。)たちが同一人物のとも推測されるのだ。そしてまた、最後としては、百済(くだら)王(こに)氏(きし)良(りょう)虞(ぐ)として、天平9年(737年)に『98歳で没した。』ということなのだ。なぜならば、長男の石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)勝(かつ)男(お)である大僧正の行基(ぎょうき)上人(しょうにん)は、天平感宝元年(749年)2月に『80歳で没した』とも伝えているから、その実父の石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は紀(きの)朝(あそ)臣(み)麻呂(まろ)・三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麻(ま)呂(ろ)・有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)・猿(さる)丸(まる)大(だ)夫(ゆう)だ。)こそが、30歳の頃、つまり白(はく)村(すき)江(のえ)の敗北後の天智(てんじ)8年(669年)に、大(だい)僧(そう)正(じょう)の行基(ぎょうき)上人である長男の石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)勝(かつ)男(お)が出生した、ということなのだ。そしてまた、その実弟の石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)(実際は鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)吉(き)備(び)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)忍(おし)人(ひと)・荒(あら)嶋(しまの)磯(いそ)継(つぐ)・荒(あら)嶋(しまの)乙(おと)主(ぬし)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)調(つき)足(たり)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)男(お)人(ひと)・初代国(こく)学(がくの)頭(かしら)の文(あや)部(べの)息(おく)道(みち)だ。)である石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)乙(おと)麻(ま)呂(ろ)とは、『天平勝宝2年(750年)9月に没した。』とも伝えるが、その最後の実像としては、百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)や、初代国(こく)学(がくの)頭(かしら)の文(あや)部(べの)息(おく)道(みち)なのだ。そしてまた、この百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)は『続(しょく)日(に)本(ほん)紀(ぎ)』天平神護2年(766年)6月28日の条で見れば、この日『刑部卿、従3位の百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)が薨じた。』ともいうのだ。また、その1か月後の同年(766年)の8月には『但馬故事記(たじまこじき)』で見れば、『秋8月、国学頭(こくがくのかしら)博士(はかせ)文(あ)人(や)部(べの)息(おく)道(みち)卒す。年95才、門人これを杉森に葬り、かつ祠を建て、これを祀る。』や、『神護景雲元年(767年)春正月、『文(あ)人(や)部(べの)息(おく)道(みち)の子の文(あ)人(や)部(べの)良(よし)道(みち)(大学頭(だいがくのかみ)の菅野(すがのの)真(ま)道(みち)だ。)を以て、国(こく)学(がくの)頭(かしら)兼(けん)博(はか)士(せ)と為す。』とも伝えるから、同一人物の石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)(実際は鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)の吉(き)備(び)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)忍(おし)人(ひと)・荒(あら)嶋(しまの)磯(いそ)継(つぐ)・荒(あら)嶋(しまの)乙(おと)主(ぬし)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)調(つき)足(たり)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)男(お)人(ひと)・石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)乙(おと)麻(ま)呂(ろ)だ。)としては、最後は、初代国(こく)学(がくの)頭(かしら)の文(あや)部(べの)息(おく)道(みち)や、従3位百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)として、天平神護2年(766年)に「95歳で没した。』ということなのだ。そしてまた、実際としては、天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)5年(671年)の出生なのだ。つまりその実兄である大僧正の行基(ぎょうき)上人(しょうにん)の実像の石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)勝(かつ)男(お)とは、天智(てんじ)天(てん)皇(のう)8年(669年)の出生であるから、この次男の石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)とは、実際は、その2年後の出生なのだ。そしてまた、大(だい)僧(そう)正(じょう)の僧行基(ぎょうき)上(しょう)人(にん)とは『15歳で、40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)の崩御の2年前(684年)に出家した。』ということなのだ。また、このとき、僧信(しん)正入道(じょうにゅうどう)である久米皇子(蘇(そ)我(がの)蝦(えみ)夷(しの)大(おお)臣(おみ)・阿(あ)倍(べの)倉(くら)梯(はし)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)阿(あ)閉(べ)麻(ま)呂(ろ)・小(お)野(のの)妹(いも)子(こ)・巨(こ)勢(せの)徳(とこ)太(た)古(こ)だ。)も共に出家した、ということなのだ。
そしてまた、その実弟の石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)(実際は百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)調(つき)足(たり)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)忍(おし)人(ひと)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)宿(すく)奈(な)麿(まろ)だ。)の娘である大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)杜女(もりめ)のむことしては、2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)の阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)(実際は楊(や)候(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)益(ます)麿(まろ)・中(なか)臣(とみの)宅(やか)成(なり)・石(いその)上(かみの)宅(やか)嗣(つぐ)・百済(くだら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)だ。)なのだ。また、その実像としては、大三輪臣田麿(おおみわのおみたまろ)(実際は和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・大納言紀(きの)朝(あそ)臣(み)船(ふな)守(もり)・大(おお)伴(ともの)桑(くわ)主(ぬし)・津(つ)守(もりの)宿(うく)禰(ね)秋(あき)主(ぬし)だ。)である、ということなのだ。
さてそれでは、初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)こそが、その実父である阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)(実際は阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)広(ひろ)目(め)・中(なか)臣(とみの)泰(やす)麻(ま)呂(ろ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)直(あたい)広嶋(ひろしま)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)三(み)原(はら)麿(まろ)・阿(あ)倍(べの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)瀬(せ)だ。)なのだ。また、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)である大納言阿(あ)倍(べの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)(実際は上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)難(なに)波(わ)麻(ま)呂(ろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)人(ひと)だ。)の次男で阿(あ)倍(べ)氏(し)の「跡取り息子」である、ということなのだ。
さてところで、大(おお)三(み)輪(わの)朝(あそ)臣(み)調(つき)足(たり)(実際は石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)男(お)人(ひと)だ。)の(義)弟である大(おお)三(み)輪(わの)朝臣(あそみ)美(み)岐(き)麿(まろ)(実際は大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)興(おこ)志(し)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)・大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・坂(さかの)上大(うえのおお)忌(いみ)寸(き)大(おお)国(くに)だ。)の娘としては、大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)宅女(やかめ)(賀(か)陽(やの)臣(おみ)小(こ)玉(だま)女(め)だ。)がいたのだが、この2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)である阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)(実際は菅(すが)野(のの)朝(あそ)臣(み)真(ま)道(みち)・楊(や)侯(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)益(ます)麿(まろ)・中(なか)臣(とみの)宅(やか)成(なり)・石(いその)上(かみの)宅(やか)嗣(つぐ)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)田(た)麿(まろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)秋(あき)主(ぬし)だ。)の後妻(ごさい)ともなったのだ。そしてまた、『但(たじ)馬(ま)故(こ)事(じ)記(き)』の編集作業にも深く関わったという楊(や)侯(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)や、2代目国(こく)学(がくの)頭(かしらの)博(はか)士(せ)の文(あや)部(べの)良(よし)道(みち)や、菅(すが)野(のの)朝(あそ)臣(み)真(ま)道(みち)である2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)(実際は阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)益(ます)麿(まろ)・中(なか)臣(とみの)宅(やか)成(なり)・石(いその)上(かみの)宅(やか)嗣(つぐ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)・大三輪臣田麿(おおみわのおみたまろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・和気朝臣清麿(わけのあそみきよまろ)だ。)としては、その先妻(せんさい)の大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)杜女(もりめ)との2人の間に、そのもうけた長女(第2子だ。)のむこ(次男だ。)としては、秋(あき)篠(しの)朝(あそ)臣(み)安(やす)人(ひと)(中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)庭(にわ)・楊(や)候(この)史(ふひと)令(れい)珪(けい)だ。)がいたのだ。つまり『続日本(しょくにほん)紀(ぎ)』を完成させた、という秋(あき)篠(しの)朝(あそ)臣(み)安(やす)人(ひと)(中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)庭(にわ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)令(れい)珪(けい)・紀(きの)直(あたい)豊(とよ)成(なり)だ。)の実像としては、坂(さかの)上(うえの)大(おお)宿(すく)祢(ね)苅(かり)田(た)麻(ま)呂(ろ)である、ということなのだ。
そしてまた、2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)の阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)(実際は楊(や)侯(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)益(ます)麿(まろ)・中(なか)臣(とみの)宅(やか)成(なり)・石(いその)上(かみの)宅(やか)嗣(つぐ)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)・大三輪臣田麿(おおみわのおみたまろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)秋(あき)主(ぬし)・大(おお)伴(ともの)桑(くわ)主(しゅ)だ。)と、その後(ご)妻(さい)の大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)宅女(やかめ)(賀(か)陽(やの)臣(おみ)小(こ)玉(だま)女(め)だ。)との2人の間に、そのもうけた子(娘むこ含む。)としては、3男の大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)(実際は中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)御(み)笠(かさ)麿(まろ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)令(れい)璆(きゅう)・紀(きの)直(あたい)高(たか)継(つぐ)だ。)や、その実妹で藤(ふじ)原(わらの)継(つぐ)縄(なお)室(しつ)である百済(くだら)王(こき)氏(きし)明信女(めいしんめ)(第4子だ。2人目で後妻(ごさい)だ。)たちがいたのだが、実際は、第4子という蓑(みの)麿(まろ)(楊(や)候(この)史(ふひと)人(ひと)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)直(あたい)弘(ひろ)淵(ふち)だ。)こそが、娘むこの藤(ふじ)原(わらの)継(つぐ)縄(なお)(紀(きの)宿(すく)禰(ね)縄(なお)継(つぐ)だ。)である、ということなのだ。
さてそれでは、49代光(こう)仁(にん)天皇(てんのう)(実際は弓削(ゆげの)文(もん)鏡(きょう)・大納言文(ふん)屋(やの)浄(じょう)三(ぞう)だ。)の後(ご)妃(ひ)である高(たか)野(のの)新(にい)笠(かさ)の実父としては、和(やまとの)宿(すく)禰(ね)乙(おと)継(つぐ)という人物なのだ。そしてまた、その実像としては、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)(実際は、大(おお)三(み)輪(わの)朝(あそ)臣(み)調(つき)足(たり)・百(くだ)済(だ)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)・石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)乙(おと)麻(ま)呂(ろ)・荒(あら)嶋(しまの)乙(おと)主(ぬし)・初代国学頭(こくがくのかしら)の文部(あやべの)息(おき)道(みち)・林(はやしの)直(あたい)解(かい)任(とう)だ。)である、ということなのだ。そしてまた、その正(せい)妻(さい)の大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)妹(いも)なのだが、中納言中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)である紀(きの)直(あたい)古(こ)麻(ま)呂(ろ)(実際は紀(きの)臣(おみ)古(こ)麻(ま)呂(ろ)だ。)こそが、その先(せん)妻(さい)として、中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)(蜂(はち)子(この)皇(み)子(こ)・百(く)済(だら)王(おう)余(よ)豊(ほう)璋(しょう)だ。)の娘である斗(と)売(ねの)娘(いらつめ)を娶って、そのもうけた娘なのだ。そしてまた、太政大臣藤原(ふじわらの)仲麻呂(なかまろ)(恵(え)美(みの)押(おし)勝(かつ)だ。)を除こうとして失敗して殺された、という、2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)(実際は2代目国(こく)学(がくの)頭(かしら)博士(はかせ)の文(あや)部(べの)良(よし)道(みち)・阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)・大(おお)伴(ともの)桑(くわ)主(ぬし)だ。)や、その子(第1子だ。)である大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)(実際は菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)魚(うお)・佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)・巨(こ)勢(せの)野(の)足(たり)・大(おお)伴(ともの)魚(うお)彦(ひこ)だ。)たち2人の人物としては、実際は、流罪になった程度なのだ。つまりこの2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)とは、石(いその)上(かみの)宅(やか)嗣(つぐ)(桓武天応元年の781年に53歳で没す。)へ変身しているからなのだ。そしてまた、その後は、(贈右大臣)大納言紀(きの)朝(あそ)臣(み)船(ふな)守(もり)(延暦11年・792年4月2日に没す。)にも変身して、また、和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)(延暦18年・799年67才没す。)2月21日(732年生れだ。)としても、変身しているのだ。そしてまた、『但馬故事記(たじまこじき)』を見れば、弘仁5年(814年)春3月21日、国(こく)学(がくの)頭(かしら)兼博(はか)士(せ)、文(あや)部(べの)良(よし)道(みち)卒す。年78才、杉森に葬り、祠を建て、これを祀る。』とも伝えるのだが、そしてまた、『日(に)本(ほん)後(こう)紀(き)』の弘仁5年(814年)6月29日の条を見れば、『常(ひた)陸(ちの)守(かみ)、従3位菅野(すがのの)真(ま)道(みち)(74才)が没した。』ともいうのだが、つまりこの日に、最後としては、大(だい)学(がくの)頭(かみ)、菅(すが)野(のの)朝(あそ)臣(み)真(ま)道(みち)や、国(こく)学(がくの)頭(かしら)兼博(はか)士(せ)、文(あや)部(べの)良(よし)道(みち)として、その『年78才で没した。』なのだ。しかしながら、実際の出生の年としては、『日本後紀(にほんこうき)」の桓(かん)武(む)天(てん)皇(のう)の延暦11年(792年。)4月2日の条を見れば、このとき、『天皇は、船(ふな)守(もり)の死を非常に哀悼し、3日間政務をみるのをとり止め、詔(みことの)りして正2位右大臣を贈った。」という。また、その15年後の弘仁5年(814年)6月29日に、『82才で没した。(732年生まれだ。)』というのだ。また、延暦18年(799年)2月21日の条で見れば、『贈正3位(大納言格)行民部卿兼造営大夫、美(みま)作(さか)備(び)前(ぜんの)国(くにの)造(みやつこ)、和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)が没した。』、『正3位を贈られ、行年67才(732年生れだ。)』というのだ。そしてまた、和気(わけの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻呂(まろ)の業績や、その経緯について何頁にもわたって、長々と記録しているのだ。つまり実際の出生の年とは、天平4年(732年だ。)である、ということなのだ。そしてまた、最後としては、大(だい)学(がくの)頭(かみ)、菅(すが)野(のの)朝(あそ)臣(み)真(ま)道(みち)や、国(こく)学(がくの)頭(かしら)兼博(はか)士(せ)、文(あや)部(べの)良(よし)道(みち)として、弘仁5年(814年)6月29日に、実際は、82歳で没した、ということなのだ。
そしてまた、実際の出生の年の天平4年(732年)の2年後の天平6年(734年)には、遣(けん)唐(とう)船(せん)が、多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)を大使(たいし)として、中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)名(な)代(しろ)(中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)だ。)を副使(ふくし)として、派遣されているのだ。このとき、実父の初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)である但馬(たじま)国司(こくし)の阿(あ)倍(べの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)(阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)・阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)広(ひろ)目(め)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)瀬(せ)だ。)としては、その実子で長男の阿倍(あべ)氏(し)の『跡取り息子』である阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)(実際は2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・和気(わけの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻呂(まろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)だ。)の出生(天平4年の732年だ。)から2年を経過したことから、遣(けん)唐(とう)留(りゅう)学(がく)生(せい)として、初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)(実際は阿(あ)倍(べの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)・阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)広(ひろ)目(め)・大(おお)伴(ともの)駿(する)河(が)麻(ま)呂(ろ)だ。)として『遣(けん)唐(とう)船(せん)に、乗船していた。』ということなのだ。そしてまた、その実兄である留学生の吉備真備(きびのまきび)(実際は阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)島(しま)足(たり)・大(おお)伴(ともの)古(こ)慈(ひ)斐(じ)だ。)の帰国とも入れ替わった、ということなのだ。
さてそれでは、2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)(実際は阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・和気(わけの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻呂(まろ)だ。)の長男の大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)とは、天平宝字元年(757年)に『太政大臣の藤原(ふじわらの)仲麻呂(なかまろ)(恵(え)美(みの)押(おし)勝(かつ)だ。)を除こうとして、失敗して殺された。』というのだが、以後は、菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)に変身していたのだ。そしてまた、『続(ぞく)日(に)本(ほん)後(こう)紀(き)』の嘉祥2年(849年)閏12月の条で見れば、『紀(き)伊(いの)守(かみ)、従5位下の伴(ともの)宿(すく)禰(ね)龍(たつ)男(お)(この場合、伴(ともの)大納言善(よし)男(お)だ。)が国(こく)造(ぞう)紀(きの)宿(すく)禰(ね)高(たか)継(つぐ)(大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)だ。)と不仲となり、ついに怒りを抑えられず、思慮することなく兵士を動員して高継(たかつぐ)とその仲間を捕えた。(途中略。)「 国(こく)造(ぞう)は国司(こくし)が解任できる織ではないのに、たやすく解任した。事の次第を検討すると、多少とも不臣の行為である。龍男(たつお)の執務を停止させ、法により取り調べて奏聞せよ。」との勅が出された。』とも伝えるのだ。つまり国(こく)造(ぞう)である紀(きの)宿(すく)禰(ね)高(たか)継(つぐ)としては、津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)雄(お)継(つぐ)である伴(ともの)朝(あそ)臣(み)国(くに)道(みち)(菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)・大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)だ。)なのだ。また、その実子としては、槻(つき)雄(お)がいたのだが、『深海(しんかい)者高(たけ)継(つぐ)男也。巳(み)上(じょう)不(ふ)兼(けん)大(たい)領(りょう)。」とも伝えているから、この槻(つき)雄(お)こそが、津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)善(よし)雄(お)である大納言伴(ともの)善(よし)男(お)なのだ。そこで、実の親子の内輪(うちわ)もめでもあった、ということなのだ。
さてそれでは、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)の吉(き)備(び)麻(ま)呂(ろ)(石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)・大(おお)伴(ともの)是(これ)公(きみ)だ。)の子(娘むこ含む。)としては、娘むこである①鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)の豊国(とよくに)(実際は娘むこの大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)伊(い)可(か)保(ほ)・阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)だ。)や、また、②鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)の主(しゅ)国(くに)(実際は娘むこの中納言大(おお)伴(ともの)弟(おと)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)弟(おと)麻(ま)呂(ろ)だ。)たち2人の人物がいたのだが、この鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)豊国(とよくに)(実際は大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)伊(い)可(か)保(ほ)・阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)・中(なか)臣(とみの)宅(やか)成(なり)・大(おお)伴(ともの)桑(くわ)主(ぬし)だ。)の子(娘むこ含む。)としては、①鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)鯛(たい)主(ぬし)(実際は長男の中(なか)臣(とみの)豊(とよ)長(なが)・大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・大(おお)中(なか)臣(とみの)諸(もろ)魚(うお)・大(おお)伴(ともの)魚(うお)彦(ひこ)・巨(こ)勢(せの)野(の)足(たり)だ。)や、そしてまた、その弟(実際は娘むこだ。)である②鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)継(つぐ)麻呂(まろ)(次男の中(なか)臣(とみの)豊(とよ)庭(にわ)・秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)安(やす)人(ひと)・坂(さかの)上(うえの)大(おお)宿(すく)禰(ね)苅(かり)田(た)麻(ま)呂(ろ)だ。)たちがいた、ということなのだ。
さてそれでは、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)・三輪(みわの)君(きみ)根(ね)麻呂(まろ)・荒(あら)嶋(しまの)宿(すく)禰(ね)・乙(おと)春(はるの)朝(あそ)臣(み)・乙(おと)麿(まろ)・智(とも)麿(まろ)・八(はつ)千(せん)羽(ば)・書(ふみの)臣(おみ)智(ち)徳(とこ)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)博(はか)徳(とこ)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)生(いく)羽(は)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)高(たけ)市(ち)麿(まろ)・猿(さる)丸(まる)大(だ)夫(ゆう)・大(おお)伴(ともの)広(ひろ)川(かわ)・大(おお)伴(ともの)方(かた)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)伴(ともの)清(きよ)滝(たき)だ。)としては、阿(あ)倍(べの)倉(くら)梯(はし)麻(ま)呂(ろ)である久(く)米(めの)皇(み)子(こ)の娘の小(お)足(たらし)姫(ひめ)と、37代孝(こう)徳(とく)天(てん)皇(のう)である蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)(実際は物(もの)部(のべの)馬(うま)古(この)大(おお)連(むらじ)・大(おお)伴(ともの)淵(ふち)守(もり)・大(おお)伴(ともの)穂(ほ)足(たり)・大(おお)伴(ともの)久(く)比(ひ)子(この)大(おお)連(むらじ)・南(みなみ)淵(ぶちの)長(ちょう)安(あん)・紀(きの)小(お)足(たりの)臣(おみ)だ。)との2人の間に、そのもうけた子で、中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)の養子となった有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)こそがその実像なのだ。そしてまた、日(くさ)下(か)部(べの)宿(すく)禰(ね)や、三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麻(ま)呂(ろ)や、鴨(かもの)縣(あがた)主(ぬし)小(お)建(たての)黒(くろ)彦(ひこ)命(のみこと)や、紀(きの)朝(あ)臣(そみ)麻(ま)呂(ろ)や、猿(さる)丸(まる)大(た)夫(ゆう)たちも同一人物なのだ。そしてまた、この紀(きの)朝(あ)臣(そみ)麻(ま)呂(ろ)の石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)・三輪(みわの)君(きみ)根(ね)麻呂(まろ)・荒(あら)嶋(しまの)宿(すく)禰(ね)・椋(くら)椅(はし)部(べの)連(むらじ)小(お)柄(がら)だ。)としては、先(せん)妻(さい)の紀(きの)大(おお)口(くちの)臣(おみ)である阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)との娘との2人間に、そのもうけた子(娘むこ含む。)としては、①長女のむこの紀(きの)朝(あそ)臣(み)宇(う)美(み)(実際は娘むこの多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)足(たり)だ。)や、また、②長男の紀(きの)朝(あそ)臣(み)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)(実際は石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)勝(かつ)男(お)・大(だい)僧(そう)正(じょう)の行(ぎょう)基(き)上(しょう)人(にん)だ。)や、また、③次男の紀(きの)朝(あそ)臣(み)男(お)人(ひと)(実際は石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)・石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)乙(おと)麻(ま)呂(ろ)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)吉(き)備(び)麻(ま)呂(ろ)・百済(くだら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)人(ひと)・荒(あら)嶋(しまの)磯(いそ)継(つぐ)・荒(あら)嶋(しまの)禰(ね)乙(おと)主(ぬし)・初代国学頭(こくがくのかみ)の文部(あやべの)息(おき)道(みち)・矢(や)田(た)部(べの)連(むらじ)守(かみ)柄(がら)だ。)たち3人がいた、ということなのだ。
そしてまた、この紀(きの)朝(あ)臣(そみ)麻(ま)呂(ろ)(石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)・有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)・三輪(みわの)君(きみ)根(ね)麻呂(まろ)・荒(あら)嶋(しま)宿禰(のすくね)・猿(さる)丸(まる)大(た)夫(ゆう)だ。)こそが、その後(ご)妻(さい)の大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)(左大臣多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)だ。)の娘(長女だ。)との2人の間に、そのもうけた子としては、紀(きの)朝(あそ)臣(み)の娘という刀(とう)子(この)娘(いらつめ)(42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)の妃(ひ)だ。)や、3女のむこの第4子という④紀(きの)朝(あそ)臣(み)猿(さ)取(ぬし)(実際は娘むこの中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)・大(おお)三(み)輪(わの)朝臣(あそみ)美(み)岐(き)麿(まろ)・大(おお)神(みわの)朝(そさ)臣(み)興(おこ)志(し)・大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)大(おお)国(くに)・阿(あ)刀(との)造(みやつこ)大(おお)足(たり)・佐(さえ)伯(きの)宿(すく)禰(ね)常(つね)人(ひと)・・巨(こ)勢(せの)苗(なえ)麻(ま)呂(ろ)だ。)たちがいた、ということなのだ。
さてそれでは、近江(おうみ)朝(ちょう)の右大臣中(なか)臣(とみの)金(こがねの)連(むらじ)の実像としては、阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)(実際は鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)久(く)治(じ)良(らの)臣(おみ)・三(みや)宅(けの)宿(すく)禰(ね)神(かみ)床(とこ)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)夜(や)平(へい)・蘇(そ)我(がの)連(むらじ)子(この)大(おお)臣(おみ)・大神臣利金(おおみわのおみとしかね)・田(た)辺(なべの)史(ふひと)小(お)隅(すみ)・高(たか)梯(はしの)王(みこ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)紫(し)壇(だん)だ。)なのだ。そしてまた、この阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)である鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)久(く)治(じ)良(らの)臣(おみ)(巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)紫(し)壇(だん)だ。)としては、中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)である鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)山基(やまき)主命(ぬしのみこと)の娘(長女だ。)の浄(きよ)刀(と)自(じ)女(め)(実際は小宮(こみや)刀(と)自(じ)だ。)との2人の間に、①長女で石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)・三輪(みわの)君(きみ)根(ね)麻呂(まろ)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)小(こ)建(だての)黒(くろ)彦(ひこ)だ。)の先(せん)妻(さい)や、また、②次女の巨(こ)勢(せの)郎(いら)女(つめ)で中(なか)臣(とみの)許海(こめの)連(むらじ)(実際は多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)・韓(から)国(くにの)連(むらじ)久(く)々(く)比(ひ)命(のみこと)・大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)・大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)白(はく)鳥(ちょう)・男(おのこの)王(みこ)・蘇(そ)我(がの)日(ひ)向(ゆうが)臣(おみ)だ。)の後(ご)妻(さい)や、また、③長男の中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)や、また、④次男の中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)や、また、⑤3女の大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)豊(と)島(しま)売(め)(実際は蘇(そ)我(がの)連(むらじ)子(この)大(おお)臣(おみ)の娘の娼子(しょうこ)だ。なお、藤原(ふじわかの)不比(ふひ)等(と)の『1人目の妃(きさき)』だ。 )たち2男3女の実子たちがいた、ということなのだ。
そしてまた、この異母弟の天(てん)武(む)朝(ちょう)の左大臣多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)(実際は韓(から)国(くにの)連(むらじ)久(く)々(く)比(ひ)命(のみこと)・大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)・大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)白(はく)鳥(ちょう)・男(おのこの)王(みこ)・蘇(そ)我(がの)日(ひ)向(ゆうぅが)臣(おみ)だ。)としては、先(せん)妻(さい)の中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)の娘(次女だ。)の家原(いえはら)の音名(おんな)との2人の間に、長女で①津(つ)守(もりの)連(むらじ)生(まと)羽(は)(実際は石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)小(こ)建(だての)黒(くろ)彦(ひこ)・伊(い)吉(きの)連(むらじ)博(はか)徳(とこ)・大(おお)神朝臣(みわのあそみ)高(たけ)市(ち)麿(まろ)・石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)宮(みや)麻(ま)呂(ろ)だ。)の後(ご)妻(さい)や、また、②次女の多(た)治(じ)比(ひの)郎(いら)女(つめ)(阿(あ)岐(き)良(ら)姫(ひめ)だ。)で②津(つ)守(もりの)連(むらじ)広(ひろ)麿(まろ)(実際は石(いそ)辺(べ)公(こう)広(ひろ)麿(まろ)・大(おお)神朝臣(みわのあそみ)安(やす)麿(まろ)・多治比(たじひの)真人(まひと)池守(いけもり)・石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)三(み)宅(やけ)麻(ま)呂(ろ)・中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)だ。)の後(ご)妻(さい)や、また、③3女で津(つ)守(もりの)連(むらじ)大(ひろ)海(み)(実際は三(みや)宅(けの)宿(すく)禰(ね)博(はか)床(とこ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)狛(こま)麿(まろ)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)縣(あがた)守(ぬし)・中(なか)臣連(とみのむらじ)大(おお)嶋(しま)だ。)の正(せい)妻(さい)や、また、④4女の坂(さかの)上(うえの)郎(いら)女(つめ)(実際は穂(ほ)積(ずみ)親(しん)王(のう)の妃(きさき)だ。のちに異母弟の大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麿(まろ)(実際は多治比(たじひの)真人(まひと)広(ひろ)成(なり)の後(ご)妻(さい)だ。)たち4人(4女だ。)がいた、ということなのだ。
そしてまた、阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)(大(おお)中(なか)臣(とみの)金(こがねの)連(むらじ)だ。)の次女である巨(こ)勢(せの)郎(いら)女(つめ)と、中(なか)臣(とみの)許海(こめの)連(むらじ)である大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)(大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)白(はく)鳥(ちょう)・蘇(そ)我(がの)日(ひ)向(ゆうぅが)臣(おみ)だ。)との2人の間に、そのもうけた実子としては、長男の津(つ)守(もりの)連(むらじ)池(いけ)吉(きち)(実際は多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)・大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麿(まろ)・巨(こ)勢(せの)堺(さかい)麻(ま)呂(ろ)だ。)や、また、次男の津(つ)守(もりの)連(むらじ)池(いけ)雄(お)(実際は多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)足(たり)だ。)たち2人がいたのだ。そしてまた、この久米皇子(実際は上(かみ)毛(け)野(のの)君(きみ)形(かた)名(な)・蘇(そ)我(がの)蝦(えみ)夷(しの)大(おお)臣(おみ)だ。)の長男の阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)(実際は大(おお)中(なか)臣(とみの)金(こがねの)連(むらじ)・上(かみ)毛(け)野(のの)君(きみ)稚(わく)子(こ)だ。)の一族こそが、大(やま)和(と)王(おう)権(けん)の中(ちゅう)枢(すう)の一流貴族である、ということなのだ。
さてそれでは、この章の最後として、古代天皇の謎の解明のカギともなる藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)の実像なのだが、草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)や、高(たけ)市(ちの)皇(み)子(こ)や、穂(ほ)積(ずみ)親(しん)王(のう)や、柿(かきの)本(もとの)人(ひと)麻(ま)呂(ろ)や、山(やま)辺(べの)赤(あか)人(ひと)などが、同一人物なのだ。そしてまた、42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)の実像としては、川(かわ)嶋(しまの)皇(み)子(こ)や、忍(おさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)(刑(おさ)部(かべの)皇(み)子(こ)だ。)や、三(み)野(のの)王(みこ)(美(み)努(のの)王(みこ))や、新(にい)田(た)部(べ)親(しん)王(のう)や、舎(と)人(ねり)親(しん)王(のう)や、長(なが)屋(やの)王(みこ)(親王(しんのう))や、長(ながの)皇(み)子(こ)や、弓(ゆ)削(げの)皇(み)子(こ)や、施(せ)基(きの)皇(み)子(こ)などの9人の皇子たちが、同一人物である、ということなのだ。
さてそれでは、藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)の父(実際は舅(しゅうと)だ。)という中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)の実像なのだが、中(なか)臣(とみ)氏(し)の3兄弟である①中(なか)臣(とみの)御(み)食(け)子(こ)卿(きょう)や、②中臣(なかとみの)国子(くにこの)大連(おおむらじ)や、③中臣(なかとみの)糠手子(あらてこの)大連(おおむらじ)たち3兄弟の実像としては、阿(あ)倍(べの)倉(くら)梯(はし)麻(ま)呂(ろ)の久米皇子である、ということなのだ。そしてまた、中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)としては、この阿(あ)倍(べの)倉(くら)梯(はし)麻(ま)呂(ろ)(久米皇子だ。)の娘である小(お)足(たらし)姫(ひめ)のむこの1人なのだ。つまり父という中(なか)臣(とみの)御(み)食(け)子(こ)卿(きょう)の実像としては、その舅(しゅうと)の久米皇子である、ということなのだ。そしてまた、中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)の実父としては、『先(せん)代(だい)旧(く)事(じ)本(ほん)紀(き)』の巻第5の『天(あまつ)孫(みまごの)本(もとつふ)紀(み)』を見てみれば、物部贄(もののべのにえ)古(この)大連(おおむらじ)(実際は物(ものの)部(べの)石(いその)上(かみ)贄(にえ)古(この)大(おお)連(むらじ)だ。)である33代崇(す)峻(しゅん)天皇(てんのう)なのだ。そしてまた、その実像としては、蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)(実際は大伴(おおとも)久比子(のくひこの)大連(おおむらじ)・大(おお)伴(ともの)咋(くい)子(この)大(おお)連(むらじ)だ。)なのだ。そしてまた、この物(もの)部(のべの)贄(にえ)古(この)大(おお)連(むらじ)(物(ものの)部(べの)石(いその)上(かみ)贄(にえ)古(この)大(おお)連(むらじ)・33代崇(す)峻(しゅん)天(てん)皇(のう)・蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)・大伴(おおとも)久比子(のくひこの)大連(おおむらじ)・大(おお)伴(ともの)咋(くい)子(この)大(おお)連(むらじ)だ。)の正(せい)妃(ひ)としては、石(いその)上(かみの)夫(おお)人(とじ)(実際は物(ものの)部(べの)連(むらじ)布(ふ)都(つ)姫(ひめの)夫(おお)人(とじ)・御井(みいの)夫人(おおとじ)・大伴(おおとも)夫人(のおおとじ)だ。)がいた、ということなのだ。そしてまた、2人の間に、そのもうけた子(娘むこ含む。)としては、長男の①物(もの)部(のべの)鎌(かま)束(つかの)連(むらじ)(実際は大宅(おおやけの)臣(おみ)鎌束(かまつか)・蜂子(はちのこの)皇子(みこ)・中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)だ。)や、また、長女の②物(ものの)部(べの)宮(みや)古(この)郎(いら)女(つめ)(31代敏(び)達(たつ)天(てん)皇(のう)の後(ご)妃(ひ)だ。)や、また、その弟で実際は次女の法(ほ)提(ていの)郎(いら)女(つめ)(実際は刀(と)自(じ)古(この)郎(いら)女(つめ)・膳(かしわべの)三(み)穂(ほの)娘(いらつめ)・膳(かしわべの)大(おお)娘(いらつめ)・膳(かしわべの)菩(ほ)岐(き)岐(き)美(みの)郎(いら)女(つめ)だ。)のむこである③物(もの)部(のべの)長(なが)兄(えの)若(わか)子(この)連(むらじ)(実際は娘むこの聖(しょう)徳(とく)太(たい)子(し)・35代舒(じょ)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。)や、また、その弟で3女の須(す)賀(が)比(ひ)呂(ろ)古(この)郎(いら)女(つめ)(実際は川(かわ)上(かみの)娘(いらつめ)・比(ひ)理(り)古(この)娘(いらつめ)・智(ち)仙(せんの)娘(いらつめ)だ。)のむこである④物部(もののべの)大(おお)吉(きち)若子連(わかこのむらじ)(実際は娘むこの久米皇子・田(た)目(めの)皇(み)子(こ)だ。)や、また、3女である⑤物(もの)部(のべの)鎌(かま)姫(ひめの)大(おお)刀(と)自(じ)(実際は久米皇子・田(た)目(めの)皇(み)子(こ)の先(せん)妻(さい)である須(す)賀(が)比(ひ)呂(ろ)古(この)郎(いら)女(つめ)・川(かわ)上(かみの)娘(いらつめ)・比(ひ)理(り)古(この)娘(いらつめ)・智(ち)仙(せんの)娘(いらつめ)だ。)など3男2女の5人(実際は1男3女だ。)の子たちがいた、とも伝えるのだ。
つまり石(いその)上(かみの)夫(おお)人(とじ)(実際は物(ものの)部(べの)連(むらじ)布(ふ)都(つ)姫(ひめの)夫(おお)人(とじ)・御井(みいの)夫人(おおとじ)・大伴(おおとも)夫人(のおおとじ)だ。)と、33代崇(す)峻(しゅん)天(てん)皇(のう)(実際は蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)・大伴(おおとも)久比子(のくひこの)大連(おおむらじ)・大(おお)伴(ともの)咋(くい)子(この)大(おお)連(むらじ)だ。)との2人の間に、そのもうけた長男の物(もの)部(のべの)鎌(かま)束(つかの)連(むらじ)(実際は大宅(おおやけの)臣(おみ)鎌束(かまつか)だ。)の実像こそが、中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)(実際は余豊璋(よほうしょう)・大(おお)伴(ともの)真(ま)楫(かじ)・難(なに)波(わの)皇(み)子(こ)・紀(きの)塩(しお)手(ての)臣(おみ)・蜂(はちの)子(この)皇(み)子(こ)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)麿(まろ)子(こ)・・蜂(はち)田(だの)首(おびと)虎(とら)身(み)・刀(か)羅(ら)古(この)首(おびと)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)船(ふな)弓(ゆみ)・蘇(そ)我(がの)赤(あか)兄(えの)大(おお)臣(おみ)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)山(やま)基(き)主(ぬしの)命(みこと)だ。)なのだ。また、その末妹という物(もの)部(のべの)鎌(かま)姫(ひめの)大(おお)刀(と)自(じ)とは『小(お)治(はり)田(だの)豊(とよ)浦(うらの)宮(みや)(34代推古(すいこ)天皇(てんのう)だ。)の世に、参(まつりごと)政(あずかり)と為って神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。』とも伝えるから、34代推(すい)古(こ)天(てん)皇(のう)の後継者である大伴(おおともの)夫人(おおとじ)(実際は石上(いそのかみの)夫人(おおとじ)・物(もの)部(のべの)連(むらじ)布(ふ)都(つ)姫(ひめの)夫(おお)人(とじ)・34代推古(すいこ)天皇(てんのう)の実妹だ。)の後を受けて、続けて『政(まつりごと)預(あずか)り』ともなった姫(ひめ)ということなのだ。また、その実像としては、須(す)賀(が)比(ひ)呂(ろ)古(この)郎(いら)女(つめ)(実際は川(かわ)上(かみの)娘(いらつめ)・比(ひ)理(り)古(この)娘(いらつめ)・久米皇子の田(た)目(めの)皇(み)子(こ)の先(せん)妻(さい)だ。)である、ということなのだ。また、その父の物部贄(もののべのにえ)古(この)大連(おおむらじ)(実際は33・37代崇(す)峻(しゅん)・孝(こう)徳(とく)天(てん)皇(のう)だ。)の実像こそが、蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)(実際は大(おお)伴(ともの)久(く)比(ひ)子(この)大(おお)連(むらじ)・中(なか)臣(とみの)方(かた)之(の)子(この)大(おお)連(むらじ)だ。)である、ということなのだ。
そしてまた、中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)としては、蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)(大伴(おおとも)久比子(のくひこの)大連(おおむらじ)・大伴咋子(おおとものくいこの)大連(おおむらじ)だ。)の長男なのだ。また、最初の妃(きさき)としては、蘇(そ)我(がの)入(いる)鹿(かの)大(おお)臣(おみ)の実像である聖(しょう)徳(とく)太(たい)子(し)、つまり車(くるま)持(もちの)君(きみ)国(くに)子(こ)(鏡(かがみ)王(のみこ)・35代舒(じょ)明(めい)天(てん)皇(のう)・蘇(そ)我(がの)倉(くら)山(やま)田(だの)石(いし)川(かわ)麻(ま)呂(ろ)だ。)の娘である春(つき)米(しねの)女王(ひめみこ)(与(よ)志(し)古(この)娘(いらつめ)だ。)を娶ったのだ。つまり山(やま)背(しろの)大(おお)兄(えの)皇(み)子(こ)なのだ。そしてまた、蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)(実際は大伴(おおとも)久比子(のくひこの)大連(おおむらじ)・大(おお)伴(ともの)咋(くい)子(この)大(おお)連(むらじ)だ。)の長男で、蘇(そ)我(がの)入(いる)鹿(かの)大(おお)臣(おみ)(聖(しょう)徳(とく)太(たい)子(し)・35代舒(じょ)明(めい)天(てん)皇(のう)・蘇(そ)我(がの)倉(くら)山(やま)田(だの)石(いし)川(かわ)麻(ま)呂(ろ)・車(くるま)持(もちの)君(きみ)国(くに)子(こ)・鏡(かがみの)王(みこ)だ。)の娘むこである、ということなのだ。また、『次の天(てん)皇(のう)位(い)』にも、最も近い人物なのだ。しかしながら、34代推古(すいこ)朝(ちょう)のとき、皇太子の聖(しょう)徳(とく)太(たい)子(し)こそが、35代舒(じょ)明(めい)天(てん)皇(のう)ともなって即位したために、その時期を逸してしまったのだ。その後は、35代舒(じょ)明(めい)天(てん)皇(のう)(聖(しょう)徳(とく)太(たい)子(し)だ。)の妃(きさき)である36・38代皇(こう)極(ぎょく)・斉(さい)明(めい)天(てん)皇(のう)や、また、高(たか)向(むこの)王(みこ)である37代孝(こう)徳(とく)天(てん)皇(のう)(実際は33代崇(す)峻(しゅん)天(てん)皇(のう)だ。)である実父の蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)たちの、目上の人物たちが、次々と即位したために、ますます『次の天(てん)皇(のう)位(い)』から遠くなってしまったのだ。最後は、36・38代皇(こう)極(ぎょく)・斉(さい)明(めい)天(てん)皇(のう)と、元夫の37代孝(こう)徳(とく)天(てん)皇(のう)(実際は高(たか)向(むこの)王(みこ)・蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)・33代崇(す)峻(しゅん)天(てん)皇(のう)だ。)との2人の間に、そのもうけた実子の39代天(てん)智(じ)天(てん)皇(のう)(実際は葛(かつら)城(ぎの)皇(み)子(こ)だ。)に即位されたために、『次の天(てん)皇(のう)位(い)』を逸してしまった人物なのだ。しかしながら、百済(くだら)王(おう)としては、百済(くだら)国(こく)の31代義(うぃ)慈(じゃ)王(おう)(実際は蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)だ。)の後を受けて、余(よ)豊(ほう)璋(しょう)王(おう)(実際は中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)・大宅(おおやけの)臣(おみ)鎌束(かまつか)・蘇(そ)我(がの)赤(あか)兄(えの)大(おお)臣(おみ)・古(ふる)人(ひとの)大(おお)兄(えの)皇(み)子(こ)・蜂子(はちこの)皇子(みこ)だ。)として、百済(くだら)国(こく)滅亡の責任者ともなったのだ。その後は仕方なく臣(しん)下(か)に降って、近江(おうみ)朝(ちょう)の左大臣蘇(そ)我(がの)赤(あか)兄(えの)大(おお)臣(おみ)として、その異母弟の39代天(てん)智(じ)天(てん)皇(のう)(葛(かつら)城(ぎの)皇(み)子(こ)だ。)の補佐役(左大臣だ。)にもなった、ということなのだ。しかしながら、37代孝(こう)徳(とく)天(てん)皇(のう)(実際は蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)・33代崇(す)峻(しゅん)天(てん)皇(のう)だ。)と、阿(あ)倍(べの)倉(くら)梯(はし)麻(ま)呂(ろ)(久米皇子・蘇(そ)我(がの)蝦(えみ)夷(しの)大(おお)臣(おみ)・上(かみ)毛(け)野(のの)君(きみ)形(かた)名(な)・小(お)野(の)妹(いも)子(こ)・阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)比(ひ)羅(ら)夫(ふ)だ。)の娘の小(お)足(たらし)姫(ひめ)との2人の間に、その孕(はら)んだ子の有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)(実際は石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)・猿(さる)丸(まる)大(だ)夫(ゆう)・僧定恵(じょうえ)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)だ。)を、その養(よう)子(し)として育てたり、また、その異母弟の39代天(てん)智(じ)天(てん)皇(のう)(葛(かつら)城(ぎの)皇(み)子(こ)だ。)と、間(はし)人(ひとの)皇(ひめ)女(みこ)(実際は采女(うねめ)の安(やす)見(み)児(じ)・姪(めいの)娘(いらつめ)だ。)との2人の間に、その孕(はら)んだ子の阿(あ)倍(べの)皇(ひめ)女(みこ)(実際は43代元(げん)明(めい)天(てん)皇(のう)・五(い)百(お)重(えの)娘(いらつめ)・氷(ひ)上(かみの)娘(いらつめ)だ。)たち2人を、その養(よう)子(し)として育てたほどの実力者なのだ。
さてそれでは、、草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)や、高(たけ)市(ちの)皇(み)子(こ)や、穂(ほ)積(ずみ)親(しん)王(のう)や、柿(かきの)本(もとの)人(ひと)麻(ま)呂(ろ)や、山(やま)辺(べの)赤(あか)人(ひと)たちの実像としては、藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)なのだ。また、最初の妃(きさき)(藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)の『1人目の妃(きさき)』だ。)としては、田(た)辺(なべの)史(ふひと)小(お)隅(すみ)である蘇(そ)我(がの)連(むらじ)子(この)大(おお)臣(おみ)(実際は阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)利(とし)金(かね)・中(なか)臣(とみの)金(のこがねの)連(むらじ)・津(つ)守(りの)連(むらじ)夜(や)平(へい)・上(かみ)毛(け)野(のの)君(きみ)稚(わく)子(こ)だ。)の娘の娼子(しょうこ)(実際は大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)豊(とし)島(ま)売(め)だ。)を娶ったのだ。また、この娼子(しょうこ)(実際は大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)豊(とし)島(ま)売(め)だ。)と、藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)(実際は草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)・高(たけ)市(ちの)皇(み)子(こ)・穂(ほ)積(ずみ)親(しん)王(のう)・柿(かきの)本(もとの)人(ひと)麻(ま)呂(ろ)・山(やま)辺(べの)赤(あか)人(ひと)だ。)との2人の間に、そのもうけた実子としては、長男の①藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)武(む)智(ち)麻(ま)呂(ろ)や、次男の②藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)房(ふさ)前(さき)や、3男の③藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)宇(うま)合(かい)たち3人がいたのだ。また、草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)である藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)とは、次の妃(きさき)(藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)の『2人目の妃(きさき)』だ。)としては、賀茂(かも)の小(お)黒(ぐろ)麻(ま)呂(ろ)(実際は蘇(そ)我(がの)赤(あか)兄(えの)大(おお)臣(おみ)・中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)だ。)の娘の賀(か)茂(も)姫(ひめ)を娶った、というのだが、実際は、中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)の養(よう)女(じょ)の五(い)百(お)重(えの)娘(いらつめ)(氷(ひか)上(かみの)娘(いらつめ)・43代元(げん)明(めい)天(てん)皇(のう)・阿(あ)陪(べの)皇(ひめ)女(みこ)だ。)を娶った、ということなのだ。また、この賀(か)茂(も)姫(ひめ)(『2人目の妃(きさき)』・実際は、43代元(げん)明(めい)天(てん)皇(のう)・阿(あ)陪(べの)皇(ひめ)女(みこ)・五(い)百(お)重(えの)娘(いらつめ)・氷上娘(ひかみのいらつめ)だ。)こそが、そのもうけた実子としては、①藤(ふじ)原(わら)宮(みや)子(こ)(実際は44代元(げん)正(しょう)天(てん)皇(のう)だ。また、42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)・長(なが)屋(や)親(しん)王(のう)の妃(きさき)だ。)や、また、その実弟の②藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)たち2人がいた、ということなのだ。
さてそれでは、正徳5年(1715年)刊の『前々(まえまえ)大平記(たいへいき)』によれば、柿(かきの)本(もとの)人(ひと)麻(ま)呂(ろ)(実際は藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)・草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)・高(たけ)市(ちの)皇(み)子(こ)・穂(ほ)積(ずみ)親(しん)王(のう)・山(やま)辺(べの)赤(あか)人(ひと)だ。)が、『天武(てんむ)帝(てい)の朝(みかど)に、仔細(しさい)あって上総(かずさの)国(くに)山辺郡(やまべぐん)に配流せらる(『2人目の妃(きさき)』との密(みっ)通(つう)だ。)」とも記されるのだ。また、鎌倉(かまくら)末期(まっき)成立(せいりつ)と言われる天理(てんり)図書館本(としょかんぼん)『古今集序(こきんしゅうじょ)問答(もんどう)』によれば、『人(ひと)麻(ま)呂(ろ)(実際は柿(かきの)本(もとの)人(ひと)麻(ま)呂(ろ)・藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)・高(たけ)市(ちの)皇(み)子(こ)・草壁(くさかの)皇子(みこ)・穂(ほ)積(ずみの)皇(み)子(こ)だ。)は、聖(しょう)武(む)天皇(てんのう)の后(きさき)(実際は40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)の皇后の阿(あ)陪(べの)皇(ひめ)女(みこ)・43代元(げん)明(めい)天(てん)皇(のう)・五(い)百(お)重(えの)娘(いらつめ)・氷上娘(ひかみのいらつめ)・藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)の2人目の妃(きさき)だ。)と密通(みっつう)したため明石(あかし)に流され、3年後に召(しょう)還(かん)されたとき、名を「赤人(あかひと)」に変えたとある。』とも伝える、ということなのだ。
さてそれでは、この柿(かきの)本(もとの)人(ひと)麻(ま)呂(ろ)の実像である藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)(実際は草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)・高(たけ)市(ちの)皇(み)子(こ)・穂(ほ)積(ずみ)親(しん)王(のう)・山(やま)辺(べの)赤(あか)人(ひと)だ。)の『3人目の妃(きさき)』としては、県(あがた)犬(いぬ)養(かいの)宿(すく)禰(ね)橘(たちばなの)三(み)千(ち)代(よ)(実際は但(たじ)馬(まの)皇(ひめ)女(みこ)だ。)がいたのだ。また、そのもうけた実子としては、①藤(ふじ)原(わらの)光(こう)明(みょう)子(し)(45代聖(しょう)武(む)天(てん)皇(のう)の妃(きさき)だ。)や、また、②藤(ふじ)原(わらの)多(た)比(ひ)能(の)(橘(たちばなの)諸(もろ)兄(え)の妃(きさき)だ。)や、また、その実妹の③女子(大(おお)伴(ともの)古(こ)慈(し)斐(び)の妻・吉(き)備(びの)真(ま)備(きび)の先(せん)妻(ぴ)だ。)たち3人の娘をもうけた、ということなのだ。
さてそれでは、鎌倉(かまくら)末期(まっき)の成立といわれる毘沙門(びしゃもん)堂本(どうぼん)『古今集註(こきんしゅうちゅう)(巻13・恋歌3だ。)』によれば、『人(ひと)麻(ま)呂(ろ)(実際は藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)・高市(たけちの)皇子(みこ)・草壁(くさかの)皇子(みこ)・穂(ほ)積(ずみの)皇(み)子(こ)だ。)は、文武(もんむ)天皇(てんのう)の后(きさき)(実際は美(み)努(のの)王(みこ)である42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)の皇后の但(たじ)馬(まの)皇(ひめ)女(みこ)・3人目の妃(きさき)の県(あがた)犬(いぬ)養(かいの)宿(すく)禰(ね)橘(たちばなの)三(み)千(ち)代(よ)・新田(にいた)高市(たけちの)女王(ひめみこ)だ。)で、紀(き)の大臣(おおおみ)(実際は栗(くり)隈(くまの)君(きみ)東(あずま)人(びと)・県(あがた)犬(いぬ)養(かいの)宿(すく)禰(ね)東(あずま)人(びと)・40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)だ。)の娘と密会したために、罪に依て人(ひと)丸(まる)(実際は柿(かきの)本(もとの)人(ひと)麻(ま)呂(ろ)・藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)・高市(たけちの)皇子(みこ)・草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)・穂(ほ)積(ずみの)皇(み)子(こ)だ。)、上総(かずさの)国(くに)に被流ける。』とも伝えるのだ。
さてそれでは、藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)の妃(きさき)としては、『1人目の妃(きさき)』である蘇(そ)我(がの)連(むらじ)子(この)大(おお)臣(おみ)(実際は阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)・田(た)辺(なべの)首(おびと)小(お)隅(すみ)・中(なか)臣(とみの)金(のこがねの)連(むらじ)・津(つ)守(りの)連(むらじ)夜(や)平(へい)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)利(とし)金(かね)・上(かみ)毛(け)野(のの)君(きみ)稚(わく)子(こ)だ。)の娘の娼子(しょうこ)(実際は大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)豊(とし)島(ま)売(め)だ。)や、また、『2人目の妃(きさき)』である五(い)百(お)重(えの)娘(いらつめ)(実際は中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)の養(よう)女(じょ)の五(い)百(お)重(えの)娘(いらつめ)・氷(ひ)上(かみの)娘(いらつめ)・43代元(げん)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。)や、また、『3人目の妃(きさき)』である県(あがた)犬(いぬ)養(かいの)宿(すく)禰(ね)橘(たちばなの)三(み)千(ち)代(よ)(実際は美(み)努(のの)王(みこ)である42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)の先(せん)妃(ぴ)で、但(たじ)馬(まの)皇(ひめ)女(みこ)だ。なお、紀(き)の大臣(おおおみ)・勝(すぐりの)八尾(やおの)大臣(おおおみ)・栗(くり)隈(くまの)君(きみ)東(あずま)人(びと)・県(あがた)犬(いぬ)養(かいの)宿(すく)禰(ね)東(あずま)人(びと)・40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)の娘だ。)や、また、穂(ほ)積(ずみ)親(しん)王(のう)としては、『4人目の妃(きさき)』である大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)(実際は多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)・大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)だ。)の娘の坂(さかの)上(うえの)郎(いら)女(つめ)(実際は穂(ほ)積(ずみ)親(しん)王(のう)の妃(きさき)だが、のちに異母弟の大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)の後(ご)妃(ひ)だ。)たち4人の妻(つま)がいた、ということなのだ。
さてそれでは、そのいずれかの妃(きさき)との離別後、上総(かずさの)国(くに)山辺郡(やまべぐん)(実際は栃木県足(あし)利(かが)市(し)の下(しも)毛(け)野(のの)君(きみ)の本拠地だ。)に流され、その後は、明(あか)石(し)に流されて、3年後に召(しょう)還(かん)されたが、そのとき、名を『赤人(あかひと)』に変えた、というのだ。そこで、このときの不倫相手としては、藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)の『2人目の妃(きさき)』である五(い)百(お)重(えの)娘(いらつめ)(実際は中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)の養女の五(い)百(お)重(えの)娘(いらつめ)・氷上娘(ひかみのいらつめ)・43代元(げん)明(めい)天(てん)皇(のう)・阿(あ)陪(べの)皇(ひめ)女(みこ)だ。)なのだ。また、その実像としては、草壁(くさかの)皇子(みこ)(実際は藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)・高市(たけちの)皇子(みこ)・穂(ほ)積(ずみの)皇(み)子(こ)だ。)の正妃(せいひ)である43代元(げん)明(めい)天(てん)皇(のう)(阿(あ)倍(べの)皇(ひめ)女(みこ)だ。)である、ということなのだ。
さてそれでは、藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)(草壁(くさかの)皇子(みこ)だ。)である柿(かきの)本(もとの)人(ひと)麻(ま)呂(ろ)の、『3人目の妃(きさき)』ともなった密(みっ)会(かい)相(あい)手(て)こそが、42代文武(もんむ)天皇(てんのう)の后(きさき)(実際は美(み)努(のの)王(みこ)の后(きさき)だ。)である県(あがた)犬(いぬ)養(かいの)宿(すく)禰(ね)橘(たちばなの)三(み)千(ち)代(よ)なのだが、その実像としては、氷(ひ)上(かみの)娘(いらつめ)や、五(い)百(お)重(えの)娘(いらつめ)である43代元(げん)明(めい)天(てん)皇(のう)と、紀(き)の大臣(おおおみ)(栗(くり)隈(くまの)君(きみ)東(あずま)人(びと)・県(あがた)犬(いぬ)養(かいの)宿(すく)禰(ね)東(あずま)人(びと)・勝(すぐりの)八尾(やおの)大臣(おおおみ)だ。)である40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)との間に、そのもうけた娘の但(たじ)馬(まの)皇(ひめ)女(みこ)(実際は新田(にいた)高市(たけちの)女王(ひめみこ)だ。)である、ということなのだ。また、ふたたび、上総(かずさの)国(くに)山辺郡(やまべぐん)(栃木県足(あし)利(かが)市(し)の下(しも)毛(け)野(のの)君(きみ)の本拠地だ。)に流された、ということなのだ。つまり藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)(草壁(くさかの)皇子(みこ)・柿(かきの)本(もとの)人(ひと)麻(ま)呂(ろ)だ。)は、母娘を密(みっ)会(かい)で娶った、ということなのだ。
さてそれでは、同書の末尾に付けられた『人(ひと)麻(ま)呂(ろ)伝(でん)』によれば、『人(ひと)丸(まる)(実際は藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)・高(たけ)市(ちの)皇(み)子(こ)・草壁(くさかの)皇子(みこ)・穂(ほ)積(ずみの)皇(み)子(こ)だ。)、新田(にいた)高市(たけちの)女王(ひめみこ)(実際は美(み)努(のの)王(みこ)・42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)の后(きさき)の但(たじ)馬(まの)皇(ひめ)女(みこ)、県(あがた)犬(いぬ)養(かいの)宿(すく)禰(ね)橘(たちばなの)三(み)千(ち)代(よ)で『3人目の妃(きさき)』だ。)を犯て、上総(かずさの)国(くに)山辺(やまべ)の村(むら)(栃木県足(あし)利(かが)市(し)の下(しも)毛(け)野(のの)君(きみ)の本拠地だ。)にながさる。万葉(まんよう)を撰する時、諸兄公人丸(ひとまろ)なくてわと申すに、重罪の者帰ことなしという管仲か例を引て、名を改て赤人(あかひと)と号して被返云々という異伝が載る。』というのだ。つまり最初の流罪の原因としては、藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)の『2人目の妃(きさき)』である母の方の五(い)百(お)重(えの)娘(いらつめ)(実際は氷(ひ)上(かみの)娘(いらつめ)・43代元(げん)明(めい)天(てん)皇(のう)・阿(あ)陪(べの)皇(ひめ)女(みこ)だ。)との密(みっ)会(かい)によって、上総(かずさの)国(くに)山辺郡(やまべぐん)(栃木県足(あし)利(かが)市(し)の下(しも)毛(け)野(のの)君(きみ)の本拠地だ。)に流されたが、その後、明石に流され、名を改て赤人(あかひと)と号しているのだ。そしてまた、2度目の流罪の原因としては、藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)の『3人目の妃(きさき)』である新田(にいた)高市(たけちの)女王(ひめみこ)(実際は美(み)努(のの)王(みこ)・42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)の后(きさき)である但(たじ)馬(まの)皇(ひめ)女(みこ)、県(あがた)犬(いぬ)養(かいの)宿(すく)禰(ね)橘(たちばなの)三(み)千(ち)代(よ)だ。)との密(みっ)会(かい)によって、ふたたび、上総(かずさの)国(くに)山辺(やまべ)村(むら)(栃木県足(あし)利(かが)市(し)の下(しも)毛(け)野(のの)君(きみ)の本拠地だ。)に流され、万葉(まんよう)を撰するために、ふたたび、山(やま)辺(べの)赤(あか)人(ひと)として復帰した、ということなのだ。
さてそれでは、寛文10年(1670年)、もしくは、延宝(えんぽう)3年(1675年)に刊行された、という『人(ひと)丸(まる)秘(ひ)密(みつ)抄(しょう)』によれば、『文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)皇(こう)后(ごう)(実際は美(み)努(のの)王(みこ)・42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)の皇后の但(たじ)馬(まの)皇(ひめ)女(みこ)・県(あがた)犬(いぬ)養(かいの)宿(すく)禰(ね)橘(たちばなの)三(み)千(ち)代(よ)・新田(にいた)高市(たけちの)女王(ひめみこ)・藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)の『3人目の妃(きさき)』だ。)、勝(すぐりの)八尾(やおの)大臣(おおおみ)(紀(き)の大(おお)臣(おみ)・県(あがた)犬(いぬ)養(かいの)宿(すく)禰(ね)東(あずま)人(びと)・栗(くり)隈(くまの)君(きみ)東(あずま)人(びと)・40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)だ。)の娘の新田(にいた)高市(たけちの)女王(ひめみこ)を犯し、上総(かずさの)国(くに)山辺郡(やまべぐん)に流罪せらる。』とも伝えているのだ。つまり結論としては、美(み)努(のの)王(みこ)・42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)と、県(あがた)犬(いぬ)養(かいの)宿(すく)禰(ね)橘(たちばなの)三(み)千(ち)代(よ)(但(たじ)馬(まの)皇(ひめ)女(みこ)・新田(にいた)高市(たけちの)女王(ひめみこ)だ。)との2人の間に、そのもうけた実子としては、①橘(たちばなの)諸(もろ)兄(え)や、②佐(さ)為(いの)王(みこ)や、③ムロ女王(のひめみこ)たち2男1女がいたのだ。また、この県(あがた)犬(いぬ)養(かいの)宿(すく)禰(ね)橘(たちばなの)三(み)千(ち)代(よ)(実際は但(たじ)馬(まの)皇(ひめ)女(みこ)だ。)と、草壁(くさかの)皇子(みこ)(実際は柿(かきの)本(もとの)人(ひと)麻(ま)呂(ろ)・高市(たけちの)皇子(みこ)・穂(ほ)積(ずみの)皇(み)子(こ)だ。)である藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)との2人の間に、そのもうけた実子としては、①藤(ふじ)原(わらの)光(こう)明(みょう)子(し)(45代聖(しょう)武(む)天(てん)皇(のう)の正(せい)妃(ひ)だ。)や、②藤(ふじ)原(わらの)多(た)比(ひ)能(の)(橘(たちばなの)諸(もろ)兄(え)の妃(きさき)だ。)や、その妹の③女子(実際は大(おお)伴(ともの)古(こ)慈(し)斐(び)の妻・吉(き)備(びの)真(ま)備(きび)の先(せん)妻(さい)だ。)たち3人の娘がいたのだ。また、橘(たちばなの)諸(もろ)兄(え)の妃(きさき)とは、この異父妹の藤(ふじ)原(わらの)多(た)比(ひ)能(の)を娶ったのだ。また、その実妹のム(む)ロ(ろの)女(ひめ)王(みこ)とは、その異父兄の藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)房(ふさ)前(さき)の正(せい)妻(さい)ともなった、ということなのだ。
さてそれでは、このような不祥事を『2度も起こした。』という柿(かきの)本(もとの)人(ひと)麻(ま)呂(ろ)の実像こそが、実際は、草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)(高(たけ)市(ちの)皇(み)子(こ)・穂(ほ)積(ずみ)親(しん)王(のう)・山(やま)辺(べの)赤(あか)人(ひと)だ。)なのだ。また、藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)として、その後は、臣(しん)下(か)に降ったのだ。また『次の天皇』ともなる機会を逸して、臣(しん)下(か)に降った中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)の養(よう)女(じょ)である氷(ひ)上(かみの)娘(いらつめ)(五(い)百(お)重(えの)娘(いらつめ)・43代元(げん)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。)のむこでもあったのだ。また、この『2人目の妃(きさき)』である43代元(げん)明(めい)天(てん)皇(のう)(阿(あ)倍(べの)皇(ひめ)女(みこ)・五(い)百(お)重(えの)娘(いらつめ)・氷(ひ)上(かみの)娘(いらつめ)だ。)を正式に娶って、2人の間には、その娘である藤(ふじ)原(わら)宮(みや)子(こ)(実際は、44代元(げん)正(しょう)天(てん)皇(のう)だ。)をもうけていた、ということなのだ。また、その孫としては、45代聖(しょう)武(む)天(てん)皇(のう)の妃(きさき)である藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)光(こう)明(みょう)子(し)がいた、ということなのだ。また、物(もの)部(のべ)氏(し)の最後の隠された氏(うじ)の上(かみ)(部族長)でもあった、ということなのだ。つまり次の妃(きさき)(『3人目の妃(きさき)』だ。)である県(あがた)犬(いぬ)養(かいの)宿(すく)禰(ね)橘(たちばなの)三(み)千(ち)代(よ)(実際は但(たじ)馬(まの)皇(ひめ)女(みこ)・新田(にいた)高市(たけちの)女王(ひめみこ)だ。)との2人の間に、そのもうけた実子としては、藤(ふじ)原(わら)光(こう)明(みょう)子(し)なのだ。また、この姫(ひめ)こそが、45代聖(しょう)武(む)天(てん)皇(のう)の正(せい)妃(ひ)ともなった、ということなのだ。
さてそれでは、美(み)努(のの)王(みこ)である42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)の実像なのだが、実際としては、忍(おさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)や、磯(し)城(きの)皇(み)子(こ)(施(せ)基(きの)皇(み)子(こ)だ。)や、新(にい)田(た)部(べ)親(しん)王(のう)や、舎(と)人(ねり)親(しん)王(のう)や、長(なが)屋(やの)王(みこ)(長(なが)屋(や)親(しん)王(のう)だ。)や、長(ながの)皇(み)子(こ)や、弓(ゆ)削(げの)皇(み)子(こ)たちがその実像なのだ。また、39代天(てん)智(じ)天(てん)皇(のう)の実子である施(せ)基(きの)皇(み)子(こ)や、川(かわ)嶋(しまの)皇(み)子(こ)こそが、その実像なのだ。つまり40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)の娘むこなのだ。そしてまた、その証拠としては、40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)が、五(い)百(お)重(えの)娘(いらつめ)(実際は氷(ひ)上(かみの)娘(いらつめ)・阿(あ)陪(べの)皇(ひめ)女(みこ)・43代元(げん)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。)との2人の間に、そのもうけた子としては、『新(にい)田(た)部(べ)親(しん)王(のう)』がいた、というが、しかしながら、この『新(にい)田(た)部(べ)親(しん)王(のう)』(実際は42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)だ。)の妃(きさき)としては、正体不明の『1人目の妃(きさき)』がいた、ということなのだ。
つまり『新(にい)田(た)部(べ)親(しん)王(のう)』とは、その実像としては、美(み)努(のの)王(みこ)の42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)なのだ。つまり施(せ)基(きの)皇(み)子(こ)や、川(かわ)嶋(しまの)皇(み)子(こ)である、ということなのだ。そしてまた、正体不明の『1人目の妃(きさき)』の実像としては、40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)の娘の但(たじ)馬(まの)皇(ひめ)女(みこ)である県(あがた)犬(いぬ)養(かいの)宿(すく)禰(ね)橘(たちばなの)三(み)千(ち)代(よ)(実際は新(にい)田(た)高(たけ)市(ちの)女(ひめ)王(みこ)だ。)なのだ。つまり新(にい)田(た)部(べ)親(しん)王(のう)(美(み)努(のの)王(みこ)・42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)だ。)が娶った正体不明の『1人目の妃(きさき)』との間に、そのもうけた子としては、塩(しお)焼(やきの)王(みこ)や、道(ふな)祖(どの)王(みこ)がいた、というのだが、兄の塩(しお)焼(やきの)王(みこ)=橘(たちばなの)諸(もろ)兄(え)なのだ。また、弟の道(ふな)祖(どの)王(みこ)=橘(たちばなの)佐(さ)為(いの)王(みこ)なのだ。そしてまた、その実妹のムロ女王(のひめみこ)(その異父兄の藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)房(ふさ)前(さき)の正(せい)妻(さい)だ。)たち2男1女の実子がいた、ということなのだ。それでは、その証拠なのだが、塩(しお)焼(やきの)王(みこ)の実子としては、氷(ひ)上(かみの)志(し)計(け)志(し)麿(まろ)や、氷(ひ)上(かみの)川(かわ)継(つぐ)たち2人がいた、というのだ。また、橘(たちばなの)諸(もろ)兄(え)の実子としては、橘(たちばなの)奈(な)良(ら)麻(ま)呂(ろ)がいた、というのだ。そしてまた、この橘(たちばなの)奈(な)良(ら)麻(ま)呂(ろ)こそが、『氷(ひ)上(かみ)氏(し)』の継承者というから、実際としては、氷(ひ)上(かみの)志(し)計(け)志(し)麿(まろ)の実像である、ということなのだ。
さてそれでは、川(かわ)嶋(しまの)皇(み)子(こ)(実際は忍(おさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)だ。)なのだが、この人物は、39代天(てん)智(じ)天(てん)皇(のう)が、忍(おし)海(みの)造(みやつこ)小(お)龍(たつ)(実際は久米皇子だ。)の娘である色(しこ)夫(ぶ)古(この)娘(いらつめ)を娶って、そのもうけた子としては、大(おお)江(えの)皇(ひめ)女(みこ)(40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)の妃(きさき)だ。)や、その弟の②川(かわ)嶋(しまの)皇(み)子(こ)(実際は忍(おさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)・美(み)努(のの)王(みこ)・42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)だ。)や、③泉(いずみの)皇(ひめ)女(みこ)たち3人(1男2女だ。)の実子がいた、というのだ。しかしながら、これは、39代天(てん)智(じ)天(てん)皇(のう)が、阿(あ)倍(べの)倉(くら)梯(はし)麻(ま)呂(ろ)(実際は久米皇子だ。)の娘の橘(たちばな)媛(ひめの)娘(いらつめ)(実際は色(しこ)夫(ぶ)古(この)娘(いらつめ)だ。)を娶って、①飛(あす)鳥(かの)皇(ひめ)女(みこ)や、②新(にい)田(た)部(べの)皇(ひめ)女(みこ)(40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)の妃だ。)たち2人の娘をもうけたのとも同じ内容なのだ。つまり色(しこ)夫(ぶ)古(この)娘(いらつめ)のもうけた娘の①大(おお)江(えの)皇(ひめ)女(みこ)(40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)の妃だ。)とは、橘(たちばな)媛(ひめの)娘(いらつめ)(実際は色(しこ)夫(ぶ)古(この)娘(いらつめ)・ヒズメ刀(と)自(じ)だ。)のもうけた②新(にい)田(た)部(べの)皇(ひめ)女(みこ)とも同一人物なのだ。また、③泉(いずみの)皇(ひめ)女(みこ)や、①飛(あす)鳥(かの)皇(ひめ)女(みこ)(采女(うねめ)だ。)も、すべて同一人物なのだ。つまり大(おお)江(えの)皇(ひめ)女(みこ)=新(にい)田(た)部(べの)皇(ひめ)女(みこ)=泉(いずみの)皇(ひめ)女(みこ)=飛(あす)鳥(かの)皇(ひめ)女(みこ)なのだ。
そしてまた、42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)である川(かわ)嶋(しまの)皇(み)子(こ)(39代天(てん)智(じ)天(てん)皇(のう)の実子だ。)とは、39代天(てん)智(じ)天(てん)皇(のう)が、越(こし)の道(みちの)君(きみ)(実際は久米皇子だ。)伊(い)羅(ら)都(つ)売(め)(采女(うねめ)か)を娶って、施(せ)基(きの)皇(み)子(こ)(光(こう)仁(にん)天(てん)皇(のう)の実(じつ)父(ぷ)で、桓(かん)武(む)天(てん)皇(のう)祖(そ)父(ふ)だ。)を生んだ、というのだが、その実像である、ということなのだ。
そしてまた、『日本(にほん)書紀(しょき)』の天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)の条を見てみれば、『(40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)が、)宍(しし)人(ひとの)臣(おみ)大(おお)麻(ま)呂(ろ)(実際は39代天(てん)智(じ)天(てん)皇(のう)だ。)の娘、カジ媛(ひめの)娘(いらつめ)(実際は大(おお)江(えの)皇(ひめ)女(みこ)=新(にい)田(た)部(べの)皇(ひめ)女(みこ)=泉(いずみの)皇(ひめ)女(みこ)=飛(あす)鳥(かの)皇(ひめ)女(みこ)だ。)は、2男2女を生んだ。その1は忍(おさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)という。その2は磯(し)城(きの)皇(み)子(こ)という。その3は泊(はっ)瀬(せ)部(べの)皇(ひめ)女(みこ)という。その4は託(た)基(きの)皇(ひめ)女(みこ)という。』ともいうのだが、しかしながら、忍(おさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)=磯(し)城(きの)皇(み)子(こ)なのだ。また、泊(はっ)瀬(せ)部(べの)皇(ひめ)女(みこ)=託(た)基(きの)皇(ひめ)女(みこ)なのだ。また、忍(おさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)=磯(し)城(きの)皇(み)子(こ)=施(せ)基(きの)皇(み)子(こ)=川(かわ)嶋(しまの)皇(み)子(こ)(39代天(てん)智(じ)天(てん)皇(のう)の実子の42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)・美(み)努(のの)王(みこ)だ。)なのだ。また、泊(はっ)瀬(せ)部(べの)皇(ひめ)女(みこ)=託(た)基(きの)皇(ひめ)女(みこ)(40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)と大(おお)江(えの)皇(ひめ)女(みこ)=新(にい)田(た)部(べの)皇(ひめ)女(みこ)=泉(いずみの)皇(ひめ)女(みこ)=飛(あす)鳥(かの)皇(ひめ)女(みこ)だ。)との間に、そのもうけた1人娘の泊(はっ)瀬(せ)部(べの)皇(ひめ)女(みこ)(託(た)基(きの)皇(ひめ)女(みこ)だ。)である、ということなのだ。つまり美(み)努(のの)王(みこ)である42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)(実際は忍(おさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)=磯(し)城(きの)皇(み)子(こ)=施(せ)基(きの)皇(み)子(こ)=川(かわ)嶋(しまの)皇(み)子(こ)だ。)こそが、県(あがた)犬(いぬ)養(かいの)宿(すく)禰(ね)橘(たちばなの)三(み)千(ち)代(よ)(但(たじ)馬(まの)皇(ひめ)女(みこ)だ。)の次に娶った『2人目の妃(きさき)』である、ということなのだ。
そしてまた、『日本(にほん)書紀(しょき)』の天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)の条を見てみれば、『(40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)が、帝位に即(つ)いた。正(せい)妃(ひ)を立てて皇(こう)后(ごう)とした。后(きさき)は草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(この)尊(みこと)を生んだ。先に皇后(こうごう)の姉の大田(おおたの)皇女(ひめみこ)を納(い)れて妃(きさき)とした。(妃(きさき)は)大(おお)来(くの)皇(ひめ)女(みこ)(大伯(おおきの)皇女(ひめみこ)だ。)と大(おお)津(つの)皇(み)子(こ)とを生んだ。つぎの妃大(おお)江(えの)皇(ひめ)女(みこ)は、長(ながの)皇(み)子(こ)と弓(ゆ)削(げの)皇(み)子(こ)とを生んだ。つぎの妃新(にい)田(た)部(べの)皇(ひめ)女(みこ)は、舎(と)人(ねりの)皇(み)子(こ)を生んだ。』というのだが、つまり大(おお)江(えの)皇(ひめ)女(みこ)(実際は新(にい)田(た)部(べの)皇(ひめ)女(みこ)だ。)がもうけたた子としては、長(ながの)皇(み)子(こ)や、弓(ゆ)削(げの)皇(み)子(こ)たち2人の人物がいたというのだ。しかしながら、この長(ながの)皇(み)子(こ)や、弓(ゆ)削(げの)皇(み)子(こ)たちの妃(きさき)としては、これも正体不明の『2人目の妃(きさき)(実際は40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)の娘だ。)』がいた、ということなのだ。また、大(おお)江(えの)皇(ひめ)女(みこ)と同一人物である新(にい)田(た)部(べの)皇(ひめ)女(みこ)(泉(いずみの)皇(ひめ)女(みこ)・飛(あす)鳥(かの)皇(ひめ)女(みこ)だ。)と40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)との間に、そのもうけた子としては、舎(とね)人(り)親(しん)王(のう)がいた、というのだが、しかしながら、これも、42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)である川(かわ)嶋(しまの)皇(み)子(こ)(39代天(てん)智(じ)天(てん)皇(のう)の実子だ。)こそが、その実像なのだ。つまり舎(とね)人(り)親(しん)王(のう)の妃(きさき)という、大(おお)夫(と)人(じ)当(たい)麻(まの)山(やま)背(しろ)の実像こそが、実際は、長(ながの)皇(み)子(こ)や、弓(ゆ)削(げの)皇(み)子(こ)の妃(きさき)である正体不明の『2人目の妃(きさき)』(実際は40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)の娘だ。)の実像である、ということなのだ。また、この大(おお)夫(と)人(じ)当(たい)麻(まの)山(やま)背(しろ)の実像としては、美(み)努(のの)王(みこ)である42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)(実際は川(かわ)嶋(しまの)皇(み)子(こ)=長(ながの)皇(み)子(こ)=弓(ゆ)削(げの)皇(み)子(こ)=舎(とね)人(り)親(しん)王(のう)=施(せ)基(きの)皇(み)子(こ)=忍(おさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)=長(なが)屋(や)親(しん)王(のう)だ。)が、最初に娶った県(あがた)犬(いぬ)養(かいの)宿(すく)禰(ね)橘(たちばなの)三(み)千(ち)代(よ)(実際は但(たじ)馬(まの)皇(ひめ)女(みこ)・新田(にいた)高市(たけちの)女王(ひめみこ)だ。)の次に娶った『2人目の妃(きさき)』で、40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)の皇(ひめ)女(みこ)なのだ。また、その実像としては、大(おお)江(えの)皇(ひめ)女(みこ)=新(にい)田(た)部(べの)皇(ひめ)女(みこ)のもうけた1人娘の泊(はっ)瀬(せ)部(べの)皇(ひめ)女(みこ)である、ということなのだ。つまり泊(はっ)瀬(せ)部(べの)皇(ひめ)女(みこ)こそが、実際は、大(おお)江(えの)皇(ひめ)女(みこ)=新(にい)田(た)部(べの)皇(ひめ)女(みこ)(泉(いずみの)皇(ひめ)女(みこ)・飛(あす)鳥(かの)皇(ひめ)女(みこ)・39代天(てん)智(じ)天(てん)皇(のう)の娘だ。)と40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)との2人の間に、そのもうけた1人娘の大(おお)夫(と)人(じ)当(たい)麻(まの)山(やま)背(しろ)(実際は泊(はっ)瀬(せ)部(べの)皇(ひめ)女(みこ)・託(た)基(きの)皇(ひめ)女(みこ)だ。)の実像である、ということなのだ。
さてそれでは、施(せ)基(きの)皇(み)子(こ)=川(かわ)嶋(しまの)皇(み)子(こ)=長(ながの)皇(み)子(こ)=弓(ゆ)削(げの)皇(み)子(こ)=舎(とね)人(り)親(しん)王(のう)=忍(おさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)=長(なが)屋(や)親(しん)王(のう)の実像である42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)としては、このほかにも、別(べつ)妃(ひ)としては、紀(きの)朝臣(あそみ)(実際は紀(きの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)・石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)だ。)の娘の『3人 目の妃(きさき)』である石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)刀(とう)子(この)娘(いらつめ)を娶っていたのだ。また、長(なが)屋(や)親(しん)王(のう)としては、『4人 目の妃(きさき)』である藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)(実際は草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)・高市(たけちの)皇子(みこ)・穂(ほ)積(ずみの)皇(み)子(こ)・柿(かきの)本(もとの)人(ひと)麻(ま)呂(ろ)だ。)の娘の長(な)我(が)子(この)娘(いらつめ)(実際は藤(ふじ)原(わら)宮(みや)子(こ)・44代元(げん)正(しょう)天(てん)皇(のう)・長(なが)屋(や)親(しん)王(のう)の妃(きさき)だ。)を娶っていた、ということなのだ。
さてそれでは、泊(はっ)瀬(せ)部(べの)皇(ひめ)女(みこ)(実際は大(おお)夫(と)人(じ)当(たい)麻(まの)山(やま)背(しろ)だ。)だが、40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)が宍(しし)人(ひとの)臣(おみ)大(おお)麻(ま)呂(ろ)(実際は39代天(てん)智(じ)天(てん)皇(のう)だ。)の娘のカジ媛(ひめの)娘(いらつめ)を娶って、そのもうけた子としては、①忍(おし)壁(かべの)皇(み)子(こ)や、②磯(し)城(きの)皇(み)子(こ)(施(せ)基(きの)皇(み)子(こ)だ。)や、③泊(はっ)瀬(せ)部(べの)皇(ひめ)女(みこ)や、④託(た)基(きの)皇(ひめ)女(みこ)たち4人がいた、とも伝えているが、このうちで、忍(おさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)や、磯(し)城(きの)皇(み)子(こ)たち2人とは、実際は娘むこの施(せ)基(きの)皇(み)子(こ)(川(かわ)嶋(しまの)皇(み)子(こ)・42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)・長(ながの)皇(み)子(こ)・弓(ゆ)削(げの)皇(み)子(こ)・舎(と)人(ねり)親(しん)王(のう)だ。)なのだ。また、泊(はっ)瀬(せ)部(べの)皇(ひめ)女(みこ)や、④託(た)基(きの)皇(ひめ)女(みこ)たち2人とは、これも同一人物なのだ。つまり泊(はっ)瀬(せ)部(べの)皇(ひめ)女(みこ)(大(おお)夫(と)人(じ)当(たい)麻(まの)山(やま)背(しろ)だ。)の1人こそが、40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)の皇(ひめ)女(みこ)(1人娘だ。)である、ということなのだ。そしてまた、川(かわ)嶋(しまの)皇(み)子(こ)としては、その子孫は明らかにしていないのだ。しかしながら、施(せ)基(きの)皇(み)子(こ)(忍(おし)壁(かべの)皇(み)子(こ)・磯(し)城(きの)皇(み)子(こ)だ。)としては、紀(き)の大臣(だいじん)の娘である橡(とち)姫(ひめ)(実際は泊(はっ)瀬(せ)部(べの)皇(ひめ)女(みこ)・大(おお)夫(と)人(じ)当(たい)麻(まの)山(やま)背(しろ)だ。)との2人の間に、そのもうけた子としては、①春(かす)日(がの)王(みこ)や、②大納言湯(ゆ)原(ばらの)王(みこ)や、③榎(えの)井(い)親(しん)王(のう)や、④49代光(こう)仁(にん)天(てん)皇(のう)(白(しら)壁(かべの)王(みこ)・弓(ゆ)削(げの)文(もん)鏡(きょう)だ。)たち4人をもうけた、とも伝えてるのだ。それでは、この橡(とち)姫(ひめ)(実際は大(おお)夫(と)人(じ)当(たい)麻(まの)山(やま)背(しろ)・泊(はっ)瀬(せ)部(べの)皇(ひめ)女(みこ)だ。)の父という紀(き)の大(おお)臣(おみ)や、また、新(にい)田(た)高(たけ)市(ちの)女(ひめ)王(みこ)(実際は但(たじ)馬(まの)皇(ひめ)女(みこ)・県(あがた)犬(いぬ)養(かいの)宿(すく)禰(ね)橘(たちばなの)三(み)千(ち)代(よ)だ。)の父という勝(すぐりの)八(や)尾(おの)大(おお)臣(おみ)たち2人の人物の実像こそが、実際は40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)なのだ。また、紀(きの)朝臣(あそみ)とは、別人の石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)である、ということなのだ。
さてそれでは、結論から言えば、長(ながの)皇(み)子(こ)(弓(ゆ)削(げの)皇(み)子(こ)だ。)の子としては、①栗(くり)栖(すの)王(みこ)や、②長(なが)田(たの)王(みこ)や、③文(ふん)屋(やの)智(ち)努(ぬの)王(みこ)(49代光(こう)仁(にん)天皇(てんのう)・弓(ゆ)削(げの)文(もん)鏡(きょう)だ。)や、④文(ふん)屋(やの)大(おお)市(いち)(邑(おう)珍(ちん)・弓(ゆ)削(げの)道(どう)鏡(きょう)だ。)や、⑤広(ひろ)瀬(せの)王(ひめみこ)(女・弓(ゆ)削(げの)武(ぶ)鏡(きょう)の妻だ。)たち5人の人物がいたというのだ。また、舎(と)人(ねり)親(しん)王(のう)の子としては、①三(み)原(はらの)王(みこ)や、②三(み)嶋(しまの)王(みこ)や、③船(ふなの)王(みこ)や、④池(いけ)田(だの)王(みこ)や、⑤三(み)使(しの)王(みこ)や、⑥守(もり)部(べの)王(みこ)や、⑦大(おお)炊(いの)王(みこ)(47代淳(じゅん)仁(にん)天(てん)皇(のう)・淡(あわ)路(じ)廃(はい)帝(てい)だ。)たち7人の子がいたというのだ。また、施(せ)基(きの)皇(み)子(こ)の子としては、①春(かす)日(がの)王(みこ)や、②大納言湯(ゆ)原(ばらの)王(みこ)や、③榎(えの)井(い)親(しん)王(のう)や、④49代光(こう)仁(にん)天(てん)皇(のう)(白(しら)壁(かべの)王(みこ)・弓(ゆ)削(げの)文(もん)鏡(きょう)だ。)たち4人の人物がいたというのだ。しかしながら、これらの人物としては、いずれも同一人物たちなのだ。
そしてまた、大(おお)夫(と)人(じ)当(たい)麻(まの)山(やま)背(しろ)(実際は泊(はっ)瀬(せ)部(べの)皇(ひめ)女(みこ)・橡(とち)姫(ひめ)だ。)である『2人目の妃(きさき)』のほか、別の妃(きさき)としては、『1人目の妃(きさき)』である新田(にいた)高市(たけちの)女王(ひめみこ)(実際は但(たじ)馬(まの)皇(ひめ)女(みこ)・県(あがた)犬(いぬ)養(かいの)宿(すく)禰(ね)橘(たちばなの)三(み)千(ち)代(よ)だ。)や、また『3人目の妃(きさき)』である紀(きの)朝臣(あそみ)(実際は紀(きの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)・石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)だ。)の娘の石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)刀(とう)子(この)娘(いらつめ)や、また『4人目の妃(きさき)』である草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)(実際は高(たけ)市(ちの)皇(み)子(こ)・藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)だ。)の娘の藤(ふじ)原(わらの)宮(みや)子(こ)(実際は長(な)我子娘(がこのいらつめ)・44代元(げん)正(しょう)天(てん)皇(のう)だ。)たち4人の妃(きさき)たちが42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)には、いた、ということなのだ。また、長(な)我子娘(がこのいらつめ)である藤(ふじ)原(わらの)宮(みや)子(こ)(44代元(げん)正(しょう)天(てん)皇(のう)だ。)を、最後に娶った42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)こそが、長(なが)屋(や)親(しん)王(のう)とも同一人物なのだ。そしてまた、これらの人物を別人として仕組むテクニックを見破ることこそが、隠蔽された『古(こ)事(じ)記(き)』や、『日(に)本(ほん)書(しょ)紀(き)』の謎を解明する鍵である、ということなのだ。
さてそれでは、39代天(てん)智(じ)天(てん)皇(のう)としては、聖(しょう)徳(とく)太(たい)子(し)である蘇(そ)我(がの)倉(くら)山(やま)田(だの)石(いし)川(かわ)麻(ま)呂(ろ)(35代舒(じょ)明(めい)天(てん)皇(のう)・蘇(そ)我(がの)入(いる)鹿(かの)大(おお)臣(おみ)・鏡(かがみの)王(みこ)だ。)の娘である①遠(お)智(ちの)娘(いらつめ)(美(み)濃(のっ)子(この)娘(いらつめ)・茅(ち)淳娘(ぬのいらつめ)だ。)や、次女の②姪(めいの)娘(いらつめ)である間(はし)人(ひとの)皇(ひめ)女(みこ)(実際は采(うね)女(め)の安見児(やすみじ)・鏡(かがみの)王(おう)女(きみ)だ。)や、③額(ぬが)田(たの)姫(おお)王(きみ)たち3人のうち、2人の姫(ひめ)を娶っているのだ。このうちで、長女の遠(お)智(ちの)娘(いらつめ)(実際は美(み)濃(のつ)子(この)娘(いらつめ)・茅(ち)淳娘(ぬのいらつめ)だ。)と39代天(てん)智(じ)天(てん)皇(のう)との2人の間に、そのもうけた子としては、長女の①大(おお)田(たの)皇(ひめ)女(みこ)(40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)の妃(きさき)だ。)や、次女の②鵜(う)のさららの皇女(ひめみこ)(41代持(じ)統(とう)天(てん)皇(のう)だ。)や、長男の③建(たけの)皇子(みこ)(実際は娘むこの40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)だ。)たち3人がいた、というのだ。また、次女の②鵜(う)のさららの皇女(ひめみこ)(41代持(じ)統(とう)天(てん)皇(のう)だ。)こそが、草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)をもうけたのだ。また、胸(むな)形(がた)君(のきみ)徳(とく)善(ぜん)(39代天(てん)智(じ)天(てん)皇(のう)だ。)の娘である尼(あま)子(この)娘(いらつめ)のもうけた子という高(たけ)市(ちの)皇(み)子(こ)(穂積(ほずみ)親王(しんのう)だ。)としては、実際は、次女の②鵜(う)のさららの皇女(ひめみこ)(41代持(じ)統(とう)天(てん)皇(のう)だ。)のもうけた草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)の実像である、ということなのだ。
そしてまた、『日本(にほん)書紀(しょき)』の天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)の条を見てみれば、『(40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)が、)また夫人で藤(ふじ)原(わらの)大(おお)臣(おみ)(鎌(かま)足(たり))の娘の、氷(ひ)上(かみの)娘(いらつめ)は、但(たじ)馬(まの)皇(ひめ)女(みこ)(実際は県(あがた)犬(いぬ)養(かいの)宿(すく)禰(ね)橘(たちばなの)三(み)千(ち)代(よ)だ。)を生んだ。つぎの夫人で氷(ひ)上(かみの)娘(いらつめ)の妹の五(い)百(お)重(えの)娘(いらつめ)(実際は氷(ひ)上(かみの)娘(いらつめ)・43代元(げん)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。)は、新(にっ)田(た)部(べの)皇(ひめ)子(みこ)(実際は但(たじ)馬(まの)皇(ひめ)女(みこ)・県(あがた)犬(いぬ)養(かいの)宿(すく)禰(ね)橘(たちばなの)三(み)千(ち)代(よ)のむこの42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)・美(み)努(のの)王(みこ)だ。)を生んだ。つぎの夫人で蘇(そ)我(がの)赤(あか)兄(えの)大(おお)臣(おみ)(実際は中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)だ。)の娘(養女だ。)の、太(おお)蕤(ぬの)娘(いらつめ)(実際は氷(ひ)上(かみの)娘(いらつめ)・五(い)百(お)重(えの)娘(いらつめ)・43代元(げん)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。)は、1男2女を生んだ。その1は穂(ほ)積(ずみの)皇(み)子(こ)(実際は草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)・藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)だ。)という。その2は紀(きの)皇(ひめ)女(みこ)(実際は但(たじ)馬(まの)皇(ひめ)女(みこ)・県(あがた)犬(いぬ)養(かいの)宿(すく)禰(ね)橘(たちばなの)三(み)千(ち)代(よ)だ。)という。その3は田(た)形(がたの)皇(ひめ)女(みこ)(実際は但(たじ)馬(まの)皇(ひめ)女(みこ)・県(あがた)犬(いぬ)養(かいの)宿(すく)禰(ね)橘(たちばなの)三(み)千(ち)代(よ)だ。)という。天皇ははじめ、鏡(かがみの)王(みこ)(35代舒(じょ)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。)の娘、額(ぬがく)田(たの)姫(ひめ)王(みこ)(3女だ。)を娶って、十(と)市(いちの)皇(ひめ)女(みこ)を生んだ。つぎに胸(むな)形(かたの)君(きみ)徳(とく)善(ぜん)(実際は39代天(てん)智(じ)天(てん)皇(のう)だ。)の娘、尼(あま)子(この)娘(いらつめ)(実際は41代持(じ)統(とう)天(てん)皇(のう)だ。)を納れて、高(たけ)市(ちの)皇(み)子(こ)(草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)・藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)だ。)を生んだ。』ともいうのだ。
そしてまた、近江(おうみ)朝(ちょう)の左大臣蘇(そ)我(がの)赤(あか)兄(えの)大(おお)臣(おみ)(実際は中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)・古(ふる)人(ひとの)大(おお)兄(えの)皇(み)子(こ)だ。)の娘である常(ひ)陸(たちの)娘(いらつめ)(実際は倭(やまと)姫(ひめの)王(ひめみこ)だ。)を、この39代天(てん)智(じ)天(てん)皇(のう)が娶って、そのもうけた子としては、山(やま)辺(べの)皇(ひめ)女(みこ)がいたというのだ。また、大(おお)津(つの)皇(み)子(こ)の妃(きさき)となったという山(やま)辺(べの)皇(ひめ)女(みこ)との2人の間に、その子はいなかったというのだ。また、39代天(てん)智(じ)天(てん)皇(のう)が、伊賀(いが)の宅女(やかめ)(実際は近江(おうみ)朝(ちょう)の左大臣蘇(そ)我(がの)赤(あか)兄(えの)大臣(おおおみ)の娘の常(ひ)陸(たちの)娘(いらつめ)・中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)の娘だ。)を娶って、そのもうけた子としては、大(おお)友(ともの)皇(み)子(こ)(実際は山(やま)辺(べの)皇(ひめ)女(みこ)の実兄だ。)がいたというのだ。つまり山(やま)辺(べの)皇(ひめ)女(みこ)と、大(おお)友(ともの)皇(み)子(こ)とは、実際は実兄妹である、ということなのだ。
そしてまた、39代天(てん)智(じ)天(てん)皇(のう)が、越(こし)の道(みちの)君(きみ)(実際は久米皇子だ。)の娘である伊(い)羅(ら)都(つ)売(め)(実際はヒズメ刀(と)自(じ)・色(しこ)夫(ぶ)古(この)娘(いらつめ)・橘(たちばな)媛(ひめの)娘(いらつめ)だ。)を娶って、そのもうけたの子としては、施(せ)基(きの)皇(み)子(こ)がいた、というのだ。そこで、施(せ)基(きの)皇(み)子(こ)こそが川(かわ)嶋(しまの)皇(み)子(こ)である42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)の実像なのだ。つまり施(せ)基(きの)皇(み)子(こ)の妃(きさき)こそが、紀(き)の大臣(だいじん)の娘である橡(とち)姫(ひめ)(実際は40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)の娘の泊(はっ)瀬(せ)部(べの)皇(ひめ)女(みこ)・大(おお)夫(と)人(じ)当(たい)麻(まの)山(やま)背(しろ)だ。)である、ということなのだ。また、栗(くり)隈(くまの)首(おくび)徳(とこ)萬(まん)(実際は久米皇子だ。)の娘である黒(くろ)媛(ひめの)娘(いらつめ)(実際は、若ヒズメ刀(と)自(じ)だ。)を娶って、そのもうけた子としては、水(みず)主(とりの)皇(ひめ)女(みこ)(采女(うねめ)だ。)がいた、というのだ。
さてそれでは、40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)としては、近江(おうみ)朝(ちょう)の左大臣蘇(そ)我(がの)赤(あか)兄(えの)大(おお)臣(おみ)(実際は中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)だ。)の娘である大(おお)蕤(ぬの)娘(いらつめ)(実際は養女の氷(ひ)上(かみの)娘(いらつめ)・五(い)百(お)重(えの)娘(いらつめ)・阿(あ)陪(べの)皇(ひめ)女(みこ)・43代元(げん)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。)を娶って、そのもうけた子としては、①穂(ほ)積(ずみ)親(しん)王(のう)や、②紀(きの)皇女(ひめみこ)や、③田(た)形(がたの)皇(ひめ)女(みこ)たち3人がいたというのだ。また、この紀(きの)皇女(ひめみこ)や、田(た)形(がたの)皇(ひめ)女(みこ)たちの実像としては、但馬(たじまの)皇女(ひめみこ)(実際は新田(にいた)高市(たけちの)女王(ひめみこ)・縣(あがた)犬(いぬ)養(かいの)宿(すく)禰(ね)橘(たちばなの)三(み)千(ち)代(よ)だ。)なのだ。また、その夫の穂(ほ)積(ずみ)親(しん)王(のう)こそが、草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)や、藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)の実像なのだ。つまり『3人目の妃(きさき)』として、この但馬(たじまの)皇女(ひめみこ)(実際は紀(きの)皇女(ひめみこ)・田(た)形(がたの)皇(ひめ)女(みこ)・新田(にいた)高市(たけちの)女王(ひめみこ)だ。)である県(あがた)犬(いぬ)養(かいの)宿(すく)禰(ね)橘(たちばなの)三(み)千(ち)代(よ)を娶って、そのもうけた子としては、①藤(ふじ)原(わら)光(こう)明(みょう)子(し)(実際は45代聖(しょう)武(む)天(てん)皇(のう)の妃(きさき)だ。)や、また、②藤(ふじ)原(わらの)多(た)比(ひ)能(の)(橘(たちばなの)諸(もろ)兄(え)の妃だ。)や、また、その実妹の③女子(大(おお)伴(ともの)古(こ)慈(し)斐(び)の妻・吉(き)備(びの)真(ま)備(きび)の妻(つま)だ。)たち3人の娘がいた、ということなのだ。そしてまた、『1人目の妃(きさき)』である蘇(そ)我(がの)連(むらじ)子(この)大(おお)臣(おみ)(実際は阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)・田(た)辺(なべの)史(ふひと)小(お)隅(すみ)だ。)の娘の娼(しょう)子(この)娘(いらつめ)(大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)豊(とし)島(ま)売(め)だ。)との2人の間に、そのもうけた子としては、長男の①藤(ふじ)原(わらの)武(む)智(ち)麻(ま)呂(ろ)や、次男の②藤(ふじ)原(わらの)房(ふさ)前(さき)や、3男の③藤(ふじ)原(わらの)宇(うま)合(かい)たち3人の男子がいた、ということなのだ。
それでは、40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)が、鏡(かがみの)王(みこ)(実際は蘇(そ)我(がの)倉(くら)山(やま)田(だの)石(いし)川(かわ)麻(ま)呂(ろ)・聖(しょう)徳(とく)太(たい)子(し)・蘇(そ)我(がの)入(いる)鹿(かの)大(おお)臣(おみ)・35代舒(じょ)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。)の娘の3女の額(ぬが)田(たの)王(おう)女(きみ)を娶って、十(と)市(いちの)皇(ひめ)女(みこ)(大(おお)友(ともの)皇(み)子(こ)の妃(きさき)だ。)をもうけたというが、この十(と)市(いちの)皇(ひめ)女(みこ)と大(おお)友(ともの)皇(み)子(こ)との間に、そのもうけた子としては、葛野(かずのの)王(みこ)がいた、というのだ。また、孫としては、池(いけ)辺(べの)王(みこ)がいて、また、ひ孫としては、淡(おお)海(みの)三(み)船(ふね)がいた、というのだが、この人物こそが、古代の『大(おお)王(きみ)』に、『古代天皇の称号』を名付けた人物である、ということなのだ。
さてそれでは、いよいよ、この章の最後なのだが、草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)の実像としては、高(たけ)市(ちの)皇(み)子(こ)や、藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)なのだ。また、阿(あ)倍(べの)皇(ひめ)女(みこ)(43代元(げん)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。)の実像としては、五(い)百(お)重(えの)娘(いらつめ)(実際は氷(ひ)上(かみの)娘(いらつめ)だ。)なのだ。また、草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)の子という42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)としては、藤(ふじ)原(わらの)宮(みや)子(こ)(実際は44代元(げん)正(しょう)天(てん)皇(のう)だ。)のむこなのだ。また、この長(なが)屋(やの)王(みこ)(長屋(ながや)親王(しんのう)・42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)だ。)の嫁としては、藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)の娘の長(な)我(が)子(こ)娘(のいらつめ)がいた、というのだ。また、この長(な)我(が)子(こ)娘(のいらつめ)こそが、実際としては、藤(ふじ)原(わらの)宮(みや)子(こ)や、44代元(げん)正(しょう)天(てん)皇(のう)の実像である、ということなのだ。つまり2人の間に、そのもけた子としては、①膳(かしわ)夫(ぶの)王(みこ)や、②桑(くわ)田(たの)王(みこ)や、③葛(かつら)木(きの)王(みこ)や、④鉤(かぎ)取(とりの)王(みこ)や、⑤安宿(あすかべの)王(みこ)や、⑥黄(き)文(もんの)王(みこ)や、⑦山(やま)背(しろの)王(みこ)や、⑧教(のり)勝(かつ)(女だ。)たち8人の子がいたというのだ。この中に、45代聖(しょう)武(む)天皇(てんのう)がいた、のだが、しかしながら、教(のり)勝(かつ)(女だ。)以外の子としては、すべての人物が、45代聖(しょう)武(む)天皇(てんのう)とも同一人物とも推測されるのだ。つまり『長屋(ながや)王(おう)の変』の創作によって、これら別人として、その実像を隠蔽して抹消された、ということなのだ。また、これは、目くらましの隠蔽手法である、ということなのだ。
そこで、結論としては、42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)の実像としては、川(かわ)嶋(しまの)皇(み)子(こ)や、施(せ)基(きの)皇(み)子(こ)や、長(ながの)皇(み)子(こ)や、舎(と)人(ねり)親(しん)王(のう)や、長(なが)屋(やの)王(みこ)(長屋(ながや)親王(しんのう)だ。)である、ということなのだ。また、40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)の元(もと)妃(ひ)や、藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)(実際は草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)・高(たけ)市(ちの)皇(み)子(こ)・穂(ほ)積(ずみ)親(しん)王(のう)・柿(かき)本(もとの)人(ひと)麻(ま)呂(ろ)だ。)の『2人目の妃(きさき)』である阿(あ)倍(べの)皇(ひめ)女(みこ)(43代元(げん)明(めい)天(てん)皇(のう)・五(い)百(お)重(えの)娘(いらつめ)・氷(ひ)上(かみの)娘(いらつめ)だ。)こそが、藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)(草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)だ。)との間に、そのもうけた娘の藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)宮(みや)子(こ)こそが、実際は、44代元(げん)正(しょう)天(てん)皇(のう)の実像なのだ。また、その後の古代天皇としては、42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)の実子や孫たちが、代々の古代天皇ともなった、ということなのだ。それでは、いよいよ、第2章へ入っていきたいと思うのだ。そこで、第2章からは、年代順に整理し直して、更に詳しく詳細に検証して見たいと思うのだ。