霧の中の建国秘話
夫(ゆう)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)良(りょう)虞(ぐ)だ。)の次男の石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)(実際は、紀(きの)直(あたい)氏(し)の林(はやしの)直(あたい)解(かい)任(とう)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)だ。)がいたのだ。また、次女のむことしては、阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)島(しま)足(たり)(実際は、紀(きの)直(あたい)千(ち)嶋(しま)・右大臣吉(き)備(びの)真(まき)備(び)・大(おお)伴(ともの)古(こ)慈悲(しび)・大(おお)伴(ともの)書(ふみ)持(もち)・丹(たん)波(ばの)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)直(あたい)千(ち)嶋(しま)だ。)がいたのだ。また、3女のむことしては、阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)広(ひろ)目(め)(実際は、阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)・阿(あ)倍(べの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)瀬(せ)・大(おお)伴(ともの)駿(する)河(が)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)直(あたい)広(ひろ)嶋(しま)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)三(み)原(はら)麿(まろ)だ。)がいたのだ。また、長男(異母兄だ。)の右大臣大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(実際は、中納言大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)宅(やか)麿(まろ)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)家(やか)主(ぬし)・紀(きの)直(あたい)建(たけ)嶋(しま)・巨(こ)勢(せの)苗(なえ)麻(ま)呂(ろ)だ。)たち4人がいた、ということなのだ。
さてそれでは、この右大臣大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(紀(きの)直(あたい)建(たけ)嶋(しま)・大(おお)三(み)輪(わの)朝(あそ)臣(み)美(み)岐(き)麿(まろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)興(おこ)志(し)・中納言大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・巨(こ)勢(せの)苗(なえ)麻(ま)呂(ろ)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)男(お)足(たり)だ。)の子や、娘むことしては、長女の大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)女(め)(賀(か)陽(やの)臣(おみ)小(こ)玉(だま)女(め)だ。)がいて、そのむことしては、2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)(阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・和(わ)気(けの)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)成(なり)・石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)年(とし)足(たり)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)長(なが)野(の)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)・だ。)がいたのだ。また、2人の間に、そのもうけた実子としては、3男の大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)(実際は、紀(きの)朝(あそ)臣(み)高(たか)継(つぐ)・和(わ)気(けの)磐(いわ)梨(なしの)為(ため)綱(つな)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)教(きょう)俊(しゅん)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)氏(うじ)成(なり)だ。)や、女子(実際は、4男の藤(ふじ)原(わらの)継(つぐ)縄(なお)室(しつ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)明(めい)信(しん)女(め)・東(とう)信(しん)女(め)だ。)や、5男の和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)真(ま)綱(つな)や、6男の和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)仲(なか)世(よ)(実際は、小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)篁(たかむら)・滋(しげ)野(のの)朝(あそ)臣(み)貞(さだ)主(ぬし)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)河(かわ)成(なり)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)慶(けい)仲(ちゅう)だ。)や、女子(百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)明(めい)本(ほん)女(め)・藤(ふじ)原(わらの)葛(くず)野(の)麿(まろ)室(しつ)・後に桓(かん)武(む)朝(ちょう)入(にゅう)宮(ぐう)で女(にょう)御(ご)だ。)たちの兄弟たちがいた、ということなのだ。
さてそれでは、この和(わ)気(けの)坂(さか)本(もとの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)(実際は、2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)成(なり)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)躬(み)・楊(や)侯(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)だ。)の実姉としては、和気(わけの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)虫(むし)だが、実弟の和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)(2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)だ。)の先(せん)妻(さい)としては、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)(実際は、忌(いんい)部(べの)首(おびと)黒(くろ)麿(まろ)・荒(あら)嶋(しまの)宿(すく)禰(ね)磯(いそ)継(つぐ)・百済(くだら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)だ。)である大三輪(おおみわの)臣調(おみつき)足(たり)(大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)忍(おし)人(ひと)だ。)の娘の大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)杜(もり)女(め)がいたのだ。また、2人の間に、そのもうけた子(娘むこ含む。)としては、長男の和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)世(よ)(実際は、菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)長(なが)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)俊(しゅん)哲(てつ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)穎(ひで)人(ひと)・佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)名(な)・巨(こ)勢(せの)野(の)足(たり)だ。)や、次男(娘むこだ。)の和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)達(たつ)男(お)(実際は、秋(あき)篠(しの)朝(あそ)臣(み)安(やす)人(ひと)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)庭(にわ)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)成(なり)・坂(さかの)上(うえの)大(おお)宿(すく)禰(ね)苅(かり)田(た)麻(ま)呂(ろ)だ。)たち2人がいた、ということなのだ。
さてそれでは、その異母弟の3男の和(わ)気(けの)磐(いわ)梨(なしの)為(ため)綱(つな)(実際は、大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)高(たか)継(つぐ)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)雄(お)継(つぐ)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)氏(うじ)成(なり)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)教(きょう)俊(しゅん)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)雄(お)黒(くろ)麿(まろ)だ。)や、女子(4男の紀(きの)朝(あそ)臣(み)弘(ひろ)淵(ふち)の妻、百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)明(めい)信(しん)女(め)・東(とう)信(しん)女(め)・藤(ふじ)原(わらの)継(つぐ)縄(なお)室(しつ)だ。)や、5男の和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)真(ま)綱(つな)(百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)福(ふく)成(なり)だ。)や、6男の和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)仲(なか)世(よ)(実際は、小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)篁(たかむら)・滋(しげ)野(のの)朝(あそ)臣(み)貞(さだ)主(ぬし)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)河(かわ)成(なり)だ。)や、女子(第7子の百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)明(めい)本(ほん)女(め)で藤(ふじ)原(わらの)葛(かど)野(の)麻(ま)呂(ろ)室(しつ)・後に桓(かん)武(む)朝(ちょう)入(にゅう)宮(ぐう)の女(にょう)御(ご)だ。)たちがいた、ということなのだ。
つまり大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)美(み)岐(き)麿(まろ)である右大臣大(おお)中(なか)臣(とみの)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)卿(きょう)(実際は、中納言大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・紀(きの)直(あたい)建(たけ)嶋(しま)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)宅(やか)麿(まろ)だ。)の娘で後(ご)妻(さい)の大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)宅女(やかめ)(賀(か)陽(やの)臣(おみ)小(こ)玉(だま)女(め)だ。)や、また、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)(林(はやしの)直(あたい)解(かい)任(とう)・忌(いん)部(べの)首(おびと)黒(くろ)麿(まろ)・鴨(かもの)縣(あがた)主(ぬし)吉(き)備(び)麻(ま)呂(ろ)・荒(あら)嶋(しまの)宿(すく)禰(ね)磯(いそ)継(つぐ)・中納言百済(くだら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)だ。)である大三輪(おおみわの)臣調(おみつき)足(たり)(大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)忍(おし)人(ひと)だ。)の娘で先(せん)妻(さい)の大神(おおみわの)朝(あそ)臣(み)杜女(もりめ)たち2人のむこともなった人物こそが、阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)(実際は、2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)田(た)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)躬(み)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)石(いわ)根(ね)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)成(なり)・中(なか)臣(とみの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・楊(や)候(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)・石(いその)上(かみの)宅(やか)嗣(つぐ)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)益(ます)麿(まろ)・紀(きの)直(あたい)国(くに)栖(ます)・石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)年(とし)足(たり)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・大納言紀(きの)朝(あそ)臣(み)船(ふな)守(もり)だ。)である和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)なのだ。そしてまた、その子や、娘むこや、孫たちこそが、『古(こ)事(じ)記(き)』の撰録者の太(おおの)臣(おみ)安(やす)万(ま)侶(ろ)である中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)や、その実弟で『日(に)本(ほん)書(しょ)紀(き)」の主(しゅ)筆(ぴつ)者(しゃ)である平(へ)群(ぐりの)子(こ)首(びと)(中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)・太(おおの)臣(おみ)道(みち)万(ま)侶(ろ)だ。)たちの直系の子孫として、『但(たじ)馬(ま)故(こ)事(じ)記(き)」や、『続(しょく)日(に)本(ほん)紀(ぎ)』や、『日(に)本(ほん)後(こう)紀(き)』や、『続(ぞく)日(に)本(ほん)後(こう)紀(き)』や、『文(もん)徳(とく)天皇(てんのう)三代(さんだい)実録(じつろく)』などの編纂作業にも深く関わっていたのだ。さてそれでは、これらの『国(こく)史(し)』の内容から見れば、順としては、『神代(かみよの)古記(こき)』から『但(たじ)馬(ま)故(こ)事(じ)記(き)」や、『先(せん)代(だい)旧(く)事(じ)本(ほん)紀(き)(全10巻本)』ができたのだ。そしてまた、この『先(せん)代(だい)旧(く)事(じ)本(ほん)紀(き)』を基として『古(こ)事(じ)記(き)』や、『日本(にほん)書紀(しょき)』が奏上されたのだ。なぜならば、『先代(せんだい)旧事本(きじほん)紀(き)(全10巻本)』の内容としては、幻の『神(かみ)代(よの)古(こ)記(き)』とも推測される内容があるからだ。しかしながら、『神(かみ)代(よの)古(こ)記(き)』を基としているのは、ほかの『竹(たけ)内(うち)文(もん)書(しょ)』や、『但(たじ)馬(ま)故(こ)事(じ)記(き)』なのだ。というのは、『但(たじ)馬(ま)故(こ)事(じ)記(き)』の内容は、『先代(せんだい)旧事本(きじほん)紀(き)(全10巻本)』よりも古い内容もあるからだ。つまり原本は早いが、世に出たのは、修正編纂されてからなのだ。また、これを実行したのは、『古(こ)事(じ)記(き)』や、『日(に)本(ほん)書(しょ)紀(き)」の主(しゅ)筆(ぴつ)者(しゃ)の平(へ)群(ぐりの)子(こ)首(びと)(中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)・太(おおの)臣(おみ)道(みち)万(ま)侶(ろ)だ。)たちの直系の子孫たちなのだ。つまりネタ本(原本の写しだ。)が隠されていた、ということなのだ。
さてそれでは、歴代の武(たけの)内(うちの)宿(すく)禰(ね)のうちで、最後の8代目武(たけの)内(うちの)宿(すく)禰(ね)とは、実際は、幻の『神(かみ)代(よの)古(こ)記(き)』(『竹(たけ)内(うち)文(もん)書(しょ)』の原形だ。)を撰録された人物なのだ。つまり平(へ)群(ぐりの)真(ま)鳥(どりの)大(おおまえつ)臣(きみ)や、物(もの)部(のべの)目(めの)大(おお)連(むらじ)や、大(おお)伴(ともの)室(むろ)屋(やの)大(おお)連(むらじ)たち3人の実像である奈(な)良(ら)別(わけ)命(のみこと)(実際は、23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)だ。)なのだ。また、『古(こ)事(じ)記(き)』を奏上した多(おおの)臣(おみ)安(やす)万(ま)侶(ろ)(実際は、下(しも)毛(けの)野(の)朝(あそ)臣(み)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・石(いそ)辺(べ)公(こう)広(ひろ)麿(まろ)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)広(ひろ)麿(まろ)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)三(み)宅(やけ)麻(ま)呂(ろ)・坂(さかの)上(うえの)息(おき)長(ながの)真(ま)人(ひと)老(おゆ)だ。)とは、中納言中(なか)臣連(とみのむらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)なのだ。また、大納言大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)や、大納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)池(いけ)守(もり)や、紀(きの)直(あたい)古(こ)麻(ま)呂(ろ)や、大三輪(おおみわの)臣(おみ)諸上(もろがみ)たちの実像なのだ。また、その実弟としては、多(おおの)臣(おみ)道(みち)万(ま)侶(ろ)である中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)(三(み)輪(わの)君(きみ)子(こ)首(びと)・坂(さかの)上(うえの)首(おびと)名(なの)直(あたい)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)難(なに)波(わ)麻(ま)呂(ろ)だ。)なのだ。つまり『古(こ)事(じ)記(き)』や、『日(に)本(ほん)書(しょ)紀(き)』を主筆した人物なのだ。また、中(なか)臣連(とみのむらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)である紀(きの)直(あたい)古(こ)麻(ま)呂(ろ)(中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)人(ひと)足(たり)・大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)・紀(きの)臣(おみ)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)池(いけ)守(もり)・下毛(しもけの)野(の)君(きみ)古(こ)麻呂(まろ)・大(おお)伴(ともの)牛(うま)養(かい)だ。)の子(娘むこ含む。)としては、1男3女がいたのだが、実子で長男こそが、第4子という紀(きの)直(あたい)建(たて)嶋(しま)である。また、この右大臣中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(大三輪(おおみわの)臣(おみ)美(み)岐(き)麿(まろ)・大(おお)倭(やまとの)忌(いみ)寸(き)大(おお)国(くに)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)東(あずま)人(びと)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)家(やか)主(ぬし)だ。)は、中納言大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)の実像なのだ。また、その長男としては、坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)犬(いぬ)養(かい)(大(おお)倭(やまとの)忌(いみ)寸(き)長(なが)岡(おか)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)小(こ)東(あずま)人(びと)だ。)なのだが、この坂(さかの)上(うえの)忌(いみ)寸(き)犬(いぬ)養(かい)(大(おお)倭(やまとの)忌(いみ)寸(き)長(なが)岡(おか)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)小(こ)東(あずま)人(びと)だ。)の実姉としては、大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)女(め)(賀(か)陽(やの)臣(おみ)小(こ)玉(だま)女(め)だ。)なのだ。つまり阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)(2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・石(いその)上(かみの)宅(やか)嗣(つぐ)・坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)郡(あがた)守(もり)だ。)の後(ご)妻(さい)である、ということなのだ。
さてそれでは、左大臣石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麻(ま)呂(ろ)・有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)高(たけ)市(ち)麿(まろ)だ。)の次男である石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)(実際は、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)吉(き)備(び)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)忍(おし)人(ひと)だ。)の長男(娘むこだ。)としては、大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)伊(い)可(か)保(ほ)(阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)・2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)だ。)がいたのだ。また、次男としては、同じ娘むこの中納言大(おお)伴(ともの)弟(おと)麻(ま)呂(ろ)(大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)弟(おと)麻(ま)呂(ろ)だ。)がいたのだ。さてそこで、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)(実際は、石(いその)上(かみの)乙(おと)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)忍(おし)人(ひと)・忌(いんい)部(べの)首(おびと)黒(くろ)麿(まろ)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)調(つき)足(たり)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)・林(はやしの)直(あたい)解(かい)任(とう)だ。)だが、紀(きの)直(あたい)古(こ)麻呂(まろ)である中(なか)臣連(とみのむらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)人(ひと)足(たり)・大納言大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)・大納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)池(いけ)守(もり)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)諸(もろ)上(かみ)・下毛(しもけの)野(の)君(きみ)古(こ)麻呂(まろ)・中納言大(おお)伴(ともの)牛(うま)養(かい)だ。)の長女(第1子だ。)のむこの林(はやしの)直(あたい)解任(かいとう)なのだ。また、この石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)(実際は、大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)調(つき)足(たり)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)忍(おし)人(ひと)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)だ。)の子(娘むこ含む。)としては、長女の大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)杜女(もりめ)(後年は、豊(ぶ)前(ぜんの)国(くに)宇(う)佐(さ)八(はち)幡(まん)宮(ぐう)の禰宜(ねぎ)、外従5位下の大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)杜(もり)女(め)として神職(しんしょく)となる。)や、そのむこの阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)(百(くだ)済(ら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)・2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)だ。)や、実子の長男(第2子だ。)である弓(ゆ)削(げの)武(ぶ)鏡(きょう)(海上(うわがみの)女王(ひめみこ)の夫だ。)や、次女のむこである百済(くだら)王(こに)氏(きし)利(り)善(ぜん)(実際は、中納言大(おお)伴(ともの)弟(おと)麻呂(まろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)弟(おと)麻(ま)呂(ろ)だ。)や、3女のむこである(第4子だ。)百済(くだら)王(こに)氏(きし)玄(げん)鏡(きょう)(実際は、弓(ゆ)削(げの)道(どう)鏡(きょう)・文(ふん)屋(やの)大(おお)市(いち)だ。)や、4女(第5子だ。)である百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)難(なに)波(わの)女(ひめ)王(みこ)(実際は、高(たか)野(のの)新(にい)笠(がさ)・49代光(こう)仁(にん)天(てん)皇(のう)室(しつ)だ。)たちの人物がいた、ということなのだ。
さてそれでは、紀(きの)直(あたい)古(こ)麻呂(まろ)である中(なか)臣連(とみのむらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)人(ひと)足(たり)・大納言大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)・大納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)池(いけ)守(もり)・下毛(しもけの)野(の)君(きみ)古(こ)麻呂(まろ)・中納言大(おお)伴(ともの)牛(うま)養(かい)だ。)の次女のむこは、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)(大納言巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)奈弖(なて)麻呂(まろ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)祖(おお)父(じ)・大納言阿(あ)倍(べの)朝(あそ)臣(み)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)・秦忌(はたのいみ)寸(き)五(い)百(お)足(たり)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)難(なに)波(わ)麻(ま)呂(ろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)君(きみ)三(み)千(ちち)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)人(ひと)・大(おお)野(のの)朝(あそ)臣(み)東(あずま)人(びと)だ。)の長男の阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)島(しま)足(たり)(右大臣吉(き)備(びの)真(ま)備(きび)・大(おお)伴(ともの)古(こ)慈悲(しび)・丹(たん)波(ばの)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)伴(ともの)書(ふみ)持(もち)だ。)の紀(きの)直(あたい)千(ち)嶋(しま)がいたのだ。また、この阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)島(しま)足(たり)である大(おお)伴(ともの)古(こ)慈悲(しび)(右大臣吉(き)備(びの)真(ま)備(きび)だ。)としては、先(せん)妻(さい)の藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)の娘との2人の間に、そのもうけた実子としては、中納言大(おお)伴(ともの)弟(おと)麻(ま)呂(ろ)(大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)弟(おと)麻(ま)呂(ろ)だ。)がいた、ということなのだ。そしてまた、この吉(き)備(びの)真(ま)備(きび)こそが、その後(ご)妻(さい)の紀(きの)直(あたい)古(こ)麻呂(まろ)(中(なか)臣連(とみのむらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)だ。)の次(じ)女(じょ)との2人の間に、そのもうけた子としては、大(おお)伴(ともの)宿(すく)祢(ね)益(ま)立(たて)(大(おお)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)立(たて)だ。)がいた、ということなのだ。つまり右大臣吉(き)備(びの)真(ま)備(きび)(阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)島(しま)足(たり)・大(おお)伴(ともの)古(こ)慈悲(しび)だ。)の子としては、このほか、①吉備(きびの)泉(いずみ)(814年没。)や、また、②吉備(きびの)与(よ)智(ち)麻呂(まろ)や、また、③吉(き)備(びの)書(ふみ)足(たり)や、また、④吉備(きびの)真(ま)勝(かつ)たちがいた、ということなのだ。
さてそれでは、紀(きの)直(あたい)古(こ)麻呂(まろ)である中納言中(なか)臣連(とみのむらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)の3女のむことしては、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)(実際は、大納言巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)奈弖(なて)麻呂(まろ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)祖(おお)父(じ)・大納言阿(あ)倍(べの)朝(あそ)臣(み)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)・秦(はたの)忌(いみ)寸(き)五(い)百(お)足(たり)だ。)の次男である阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)広(ひろ)目(め)(阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)・阿(あ)倍(べの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)泰(やす)麿(まろ)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)三(み)原(はら)麿(まろ)・大(おお)伴(ともの)高(たか)多(た)麻(ま)呂(ろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)瀬(せ)・大(おお)伴(ともの)駿(する)河(が)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)直(あたい)広(ひろ)嶋(しま)だ。)がいたのだが、その実子としては、長男の和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)(実際は、阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)射(み)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)石(いわ)根(ね)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)成(なり)・中(なか)臣(とみの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・陽(や)候(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)・石(いその)上(かみの)宅(やか)嗣(つぐ)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)益(ます)麿(まろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・紀(きの)直(あたい)国(くに)栖(ます)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)長(なが)野(の)だ。)や、その実姉である和気(わけの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)虫(むし)たち1男1女がいた、ということなのだ。
さてそれでは、『紀(き)伊(いの)国(こく)造(ぞう)家(け)』である『紀(きの)直(あたい)氏(し)の系譜』や、『紀(きの)朝(あそ)臣(み)氏(し)の系譜』や、『鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)の系譜』や、『津(つ)守(もりの)連(むらじ)氏(し)の系譜』などを見てみれば、『紀(きの)直(あたい)氏(し)の系譜』の中の、牟(む)婁(ろ)(実際は、大(おお)伴(ともの)長(なが)徳(とこ)・阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)・田(た)辺(なべの)首(おびと)小(お)隅(すみ)・上(かみ)毛(け)野(のの)君(きみ)稚(わく)子(こ)だ。)の長男としては、紀(きの)直(あたい)古(こ)麻呂(まろ)(実際は、中納言中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)・下(しも)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・下(しも)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)石(いわ)代(しろ)だ。)がいたのだ。また、この紀(きの)直(あたい)古(こ)麻呂(まろ)(中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)だ。)の子としては、長女のむこの林(はやしの)直(あたい)解(かい)任(とう)(実際は、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)だ。)や、次女のむこの紀(きの)直(あたい)千(ち)嶋(しま)(実際は、阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)島(しま)足(たり)・吉(き)備(びの)真(ま)備(きび)・大(おお)伴(ともの)宿(すく)禰(ね)古(こ)慈悲(しび)・大(おお)伴(ともの)書(ふみ)持(もち)だ。)や、3女のむこの紀(きの)直(あたい)広(ひろ)嶋(しま)(阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)広(ひろ)目(め)・阿(あ)倍(べの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)瀬(せ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)泰(やす)麿(まろ)・大(おお)伴(ともの)高(たか)多(た)麻(ま)呂(ろ)だ。)や、実子で異母弟の長男の紀(きの)直(あたい)建(たて)嶋(しま)(実際は、大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)美(み)岐(き)麿(まろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)興(おこ)志(し)・大(おお)倭(やまとの)忌(いみ)寸(き)大(おお)国(くに)・中納言大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・右大臣中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)東(あずま)人(びと)・阿(あ)刀(との)造(みやつこ)大(おお)足(たり)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)家(やか)主(ぬし)・中(なか)臣(とみの)習(つ)冝(げの)連(むらじ)阿(あ)曽(そ)麻(ま)呂(ろ)だ。)たち4人がいた、ということなのだ。
さてそれでは、『紀(きの)朝(あそ)臣(み)氏(し)の系譜』で見てみれば、紀(きの)大(う)人(しの)臣(おみ)(実際は、大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)・大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)だ。)の子(娘むこだ。)としては、①紀(きの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)だ。)や、②紀(きの)朝(あそ)臣(み)古(こ)麻呂(まろ)(実際は、中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)・その後(ご)妻(さい)としては、多(た)治(じ)比(ひの)郎(いら)女(つめ)だ。)や、③紀(きの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)路(じ)(実際は、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)だ。)たち3人がいたのだ。また、紀(きの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)の実像としては、長女のむこ(後(ご)妻(さい)だ。)の石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)・三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麻(ま)呂(ろ)・猿(さる)丸(まる)大(だ)夫(ゆう)だ。)なのだ。また、この紀(きの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)・有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)・三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麻(ま)呂(ろ)・猿(さる)丸(まる)大(だ)夫(ゆう)だ。)の子としては、①紀(きの)朝(あそ)臣(み)宇(う)美(み)(実際は、娘むこの多(た)治(じ)比(ひの)広(ひろ)足(たり)だ。)や、②紀(きの)朝(あそ)臣(み)宿(すく)奈(な)麿(まろ)(実際は、長男の石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)勝(かつ)男(お)・大(だい)僧(そう)正(じょう)の行(ぎょう)基(き)上(しょう)人(にん)だ。)や、③紀(きの)朝(あそ)臣(み)男(お)人(ひと)(実際は、次男の石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)だ。)や、④紀(きの)朝(あそ)臣(み)猿(さ)取(ぬし)(実際は、娘むこの中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)・大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)東(あずま)人(びと)・阿(あ)刀(との)造(みやつこ)大(おお)足(たり)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)家(やか)主(ぬし)・中(なか)臣(とみの)習(つ)冝(げの)連(むらじ)阿(あ)曽(そ)麻(ま)呂(ろ)だ。)たち4人がいた、ということなのだ。
さてそれでは、この中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・大(おお)三輪(みわの)朝(あそ)臣(み)美(み)岐(き)麿(まろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)興(おこ)志(し)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)東(あずま)人(びと)だ。)の子としては、長男である坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)犬(いぬ)養(かい)(実際は、大(おお)倭(やまとの)忌(いみ)寸(き)長(なが)岡(おか)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)小(こ)東(あずま)人(びと)だ。)や、また、その実姉である大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)女(め)(賀(か)陽(やの)臣(おみ)小(こ)玉(だま)女(め)だ。)や、そのむこである大納言紀(きの)朝(あそ)臣(み)船(ふな)守(もり)(坂(さかの)上(うえの)忌(いみ)寸(き)郡(あがた)守(もり)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)・2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)田(た)麻(ま)呂(ろ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)長(なが)野(の)だ。)や、別(べつ)腹(はら)(大(おお)伴(ともの)坂(さかの)上(うえの)大(おお)嬢(いらつめ)だ。)の娘の仮称若(わか)小(こ)玉(だま)女(め)や、そのむこの大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)(菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)長(なが)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)世(よ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)俊(しゅん)哲(てつ)・上(かみ)毛(けの)野(の)朝(あそ)臣(み)穎(ひで)人(ひと)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)名(な)・巨(こ)勢(せの)野(の)足(たり))たちがいた、ということなのだ。
さてそれでは、この中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)である大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)(大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)美(み)岐(き)麿(まろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)興(おこ)志(し)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)東(あずま)人(びと)・巨(こ)勢(せの)苗(なえ)麻(ま)呂(ろ)だ。)なのだが、その後(ご)妻(さい)(先(せん)妻(さい)は、紀(きの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)である石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)の娘だ。)として娶った姫(ひめ)は、大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)の実像である多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)(実際は、多(おおの)臣(おみ)宅(やか)成(なり)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)池(いけ)吉(きち)・海(うみ)部(べの)直(あたい)枳(き)都(つ)だ。)の娘である大(おお)伴(ともの)坂(さかの)上(うえの)大(おお)嬢(いらつめ)(実際は、多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)小(こ)姉(あね)だ。)がいた、ということなのだ。そしてまた、この津(つ)守(もりの)連(むらじ)池(いけ)吉(きち)(実際は、多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)・巨(こ)勢(せの)堺(さかい)麻(ま)呂(ろ)だ。)の次男である津(つ)守(もりの)連(むらじ)男(お)足(たり)の実像こそが、この中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)である、ということなのだ。そしてまた、この津(つ)守(もりの)連(むらじ)池(いけ)吉(きち)(多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)・巨(こ)勢(せの)堺(さかい)麻(ま)呂(ろ)だ。)こそが、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)(鴨(かもの)縣(あがた)主(ぬし)五(い)百(お)依(より)だ。)の長女の麻(ま)都(つ)比(ひ)女(め)を、その先(せん)妻(さい)として娶って、そのもうけた実子としては、長男である津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)比(ひ)奈(な)都(と)丸(まる)である、ということなのだ。
そしてまた、中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(実際は、阿(あ)刀(との)造(みやつこ)大(おお)足(たり)・佐(さえ)伯(きの)宿(すく)禰(ね)常(つね)人(ひと)・坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)大(おお)国(くに)・大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)家(やか)主(ぬし)・巨(こ)勢(せの)苗(なえ)麻(ま)呂(ろ)だ。)こそが、大(おお)伴(ともの)坂(さかの)上(うえの)大(おお)嬢(いらつめ)(実際は、多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)小(こ)姉(あね)だ。)を後(ご)妻(さい)として、そのもうけた子(実際は、娘の若(わか)小(こ)玉(だま)女(め)のむこだ。)としては、従4位下の近衛大将兼神(しん)祇(ぎ)伯(はく)式(しき)部(ぶの)大(たい)輔(ふ)・近江(おうみの)守(かみ)の大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)魚(うお)(実際は、大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)・佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・土(は)師(じしの)宿(すく)禰(ね)古(ふる)人(ひと)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)頴(ひで)人(ひと)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)俊(しゅん)哲(てつ)・巨(こ)勢(せの)野(の)足(たり)だ。)がいた、ということなのだ。
さてそれでは、『津(つ)守(もり)氏(し)の系譜』で見てみれば、①津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)男(お)足(たり)(実際は、娘むこの大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)・佐(さえ)伯(きの)宿(すく)禰(ね)常(つね)人(ひと)・大(おお)伴(ともの)宿(すく)禰(ね)家(やか)持(もち)だ。)~②佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)(実際は、娘むこの大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)魚(うお)・大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・土(は)師(じしの)宿(すく)禰(ね)古(ふる)人(ひと)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)頴(ひで)人(ひと)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)俊(しゅん)哲(てつ)だ。)~③菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)道(みち)長(なが)(坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ)だ。)~④弘(こう)法(ぼう)大(だい)師(し)の僧空(くう)海(かい)(娘むこの佐(さえ)伯(きの)直(あたい)真(ま)魚(うお)だ。)という系譜なのだ。つまり菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)の実子である菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)岡(おか)こそが、僧空(くう)海(かい)の実像なのだ。
さてそれでは、『大(おお)伴(とも)氏(し)の系譜』で見てみれば、①大(おお)伴(ともの)安(やす)麿(まろ)(左大臣多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)・大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)だ。)~②大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)(実際は、娘むこの中納言中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)だ。)~③大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)(長男の右大臣大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)だ。)~④大(おお)伴(ともの)古(こ)麿(まろ)(実際は、娘むこの2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麿(まろ)・阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)秋(あき)主(ぬし)だ。)や、次に、④大(おお)伴(ともの)永(なが)主(ぬし)(実際は、娘むこの2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麿(まろ)・阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)秋(あき)主(ぬし)だ。)~⑤大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)(長男の佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)・大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)魚(うお)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)だ。)~⑥伴(ともの)国(くに)道(みち)(実際は、娘むこの菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)・大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)雄(お)黒(くろ)麿(まろ)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)高(たか)継(つぐ)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)雄(お)継(つぐ)だ。)~⑦大納言伴(ともの)朝(あそ)臣(み)善(よし)男(お)(実子)という系譜である、ということなのだ。
そしてまた、『紀(きの)国(こく)造(ぞう)家(け)の系譜』で見てみれば、紀(きの)直(たい)忍(おし)穂(ほ)(実際は、久米皇子・紀(きの)阿(あ)閉(べ)麻(ま)呂(ろ)だ。)~①紀(きの)直(あたい)牟(む)婁(ろ)(長男の阿(あ)倍(の)御(み)主(う)人(し)・紀(きの)大口(おおくちの)臣(おみ)だ。)~②紀(きの)直(あたい)古(こ)麻(ま)呂(ろ)(長男の中納言中(なか)臣(とみの)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)直(あたい)古(こ)麻(ま)呂(ろ)だ。)~③紀(きの)直(あたい)広(ひろ)島(しま)(実際は、娘むこの初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)・阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)広(ひろ)目(め)・阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)・阿(あ)倍(べの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)だ。)~③紀(きの)直(あたい)国(くに)栖(ます)(長男の2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麿(まろ)・阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)秋(あき)主(ぬし)だ。)~④紀(きの)直(あたい)高(たか)継(つぐ)(実際は、3男の大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)だ。また、長男の大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)である菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)の娘むこの伴(ともの)朝(あそ)臣(み)国(くに)道(みち)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)雄(お)黒(くろ)麿(まろ)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)雄(お)継(つぐ)だ。)~⑤紀(きの)直(あたい)深(しん)海(かい)(実際は、娘むこの伴(ともの)朝(あそ)臣(み)全(たま)継(つぐ)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)公(きみ)だ。また、大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)である菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)の5男だ。)~⑥紀(きの)直(あたい)槻(つき)雄(お)(実際は、娘むこの大納言伴(ともの)善(よし)男(お)だ。また、紀(きの)直(あたい)高(たか)継(つぐ)である大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)の長男だ。)という系譜である、ということなのだ。
さてそれでは、紀(きの)大(う)人(しの)臣(おみ)(実際は、大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)・大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)だ。)の第3子としては、紀(きの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)路(じ)がいた、というが、この人物の実像としては、娘むこの1人である中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)(多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)縣(あがた)守(もり)・大(おお)伴(ともの)道(みち)足(たり)だ。)なのだ。つまり『各古代氏族の系譜』が、なかなか繋がらない理由としては、『大(おお)伴(とも)氏(し)の系譜(「伴(とも)氏(し)の系譜」・「古(ふる)屋(や)家(け)の系譜」だ。)』の隠蔽工作があるからなのだ。
つまり大(おお)伴(ともの)狭(さ)手(て)彦(ひこの)大(おお)連(むらじ)の実像なのだが、実際は30代欽(きん)明(めい)天(てん)皇(のう)なのだ。そしてまた、その子の大(おお)伴(ともの)久(く)比(ひ)子(この)大(おお)連(むらじ)の実像は、娘むこの蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大臣(おおおみ)なのだ。そしてまた、その子としては、『大(おお)伴(とも)氏(し)の系譜』で見れば、大(おお)伴(ともの)連(むらじ)長(なが)徳(とこ)や、大(おお)伴(ともの)連(むらじ)東(とう)安(あん)や、大(おお)伴(ともの)連(むらじ)馬(ま)来(き)田(た)や、大(おお)伴(ともの)連(むらじ)兄(え)麻(ま)呂(ろ)や、大(おお)伴(ともの)連(むらじ)男(お)吹(ふ)負(けい)たちの5人の兄弟がいた、というのだが、しかしながら、その実像としては、孫の阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)(実際は高(たけ)梯(はしの)王(みこ)だ。)ただ1人なのだ。つまり『鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)の系譜』で見てみれば、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)の大(だい)山(さん)下(げ)の久(く)治(じ)良(らの)臣(おみ)なのだ。そしてまた、この大(おお)伴(ともの)連(むらじ)長(なが)徳(とこ)である阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)(実際は、高(たけ)梯(はしの)王(みこ)・中(なか)臣(とみの)国(くに)足(たりの)連(むらじ)だ。)の実子としては、大(おお)中(なか)臣連(とみのむらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)安(あん)達(だち)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)板(いた)持(もち)・下(しも)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・太(おおの)臣(おみ)安(やす)万(ま)侶(ろ)だ。)や、その実弟の中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)(実際は、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)五(い)百(お)依(より)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)三(み)千(ちち)・太(おおの)臣(おみ)道(みち)万(ま)呂(ろ)だ。)たち2人がいたのだ。つまり大(おお)伴(ともの)長(なが)徳(とこ)である阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)(実際は、高(たけ)梯(はしの)王(みこ)・中(なか)臣(とみの)国(くに)子(この)連(むらじ)・上(かみ)毛(け)野(のの)君(きみ)稚(わく)子(こ)だ。)の娘(次女の巨(こ)勢(せの)郎(いら)女(つめ)だ。)のむことしては、異母弟である大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)(実際は、多(おおの)臣(おみ)品(ほむ)治(ち)・男(おのこの)王(みこ)だ・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)白(はく)鳥(ちょう)・韓(から)国(くにの)連(むらじ)久(く)々(く)比(ひ)命(のみこと)だ。)である鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)伊(い)呂(ろ)具(ぐ)なのだ。そしてまた、その長女のむことしては、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)・三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麻(ま)呂(ろ)・猿(さる)丸(まる)大(だ)夫(ゆう)だ。)である鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)小(お)建(たての)黒(くろ)彦(ひこ)命(のみこと)がいた、ということなのだ。
さてそれでは、この大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)や、多(おおの)臣(おみ)品(ほむ)治(ち)や、多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)である津(つ)守(もりの)連(むらじ)白(はく)鳥(ちょう)(実際は、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)伊(い)呂(ろ)具(ぐ)だ。)の子としては、長女のむこは、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)・三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麻(ま)呂(ろ)・猿(さる)丸(まる)大(だ)夫(ゆう)だ。)の鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)小(お)建(たての)黒(くろ)彦(ひこ)命(のみこと)だが、次女のむことしては、大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)である紀(きの)朝(あそ)臣(み)古(こ)麻(ま)呂(ろ)(大(おお)中(なか)臣連(とみのむらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)人(ひと)足(たり)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)池(いけ)守(もり)・下毛(しもけの)野(の)君(きみ)古(こ)麻呂(まろ)・大(おお)伴(ともの)宿(すく)禰(ね)牛(うま)養(かい)・多(おおの)臣(おみ)安(やす)万(ま)侶(ろ)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)板(いた)持(もち)だ。)がいたのだ。また、3女のむことしては、大(おお)伴(ともの)田(た)主(ぬし)である中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)(大(おお)伴(ともの)道(みち)足(たり)・多(おおの)臣(おみ)道(みち)万(ま)侶(ろ)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)五(い)百(お)依(より)だ。)がいたのだ。また、大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)である多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)(津(つ)守(もりの)連(むらじ)白(はく)鳥(ちょう)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)伊(い)呂(ろ)具(ぐ)・多(おおの)臣(おみ)品(ほむ)治(ち)だ。)の実子としては、長男の大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)(多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)・多(おおの)臣(おみ)宅(やか)成(なり)・巨(こ)勢(せの)堺(さかい)麻(ま)呂(ろ)だ。)や、その実弟で次男の大(おお)伴(ともの)稲(いなの)公(きみ)(多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)足(たり)・多(おおの)臣(おみ)遠(とう)健(けん)治(じ)だ。)がいた、ということなのだ。
さて、それでは、実際としては、大(おお)伴(ともの)久(く)比(ひ)子(この)大(おお)連(むらじ)である蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大臣(おおおみ)~大(おお)伴(ともの)連(むらじ)長(なが)徳(とこ)(阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)・高(たけ)梯(はしの)王(みこ)だ。)たち5人の兄弟(実際は、阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)の1人だ。)との間には、蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大臣(おおおみ)の娘むこの1人である阿(あ)倍(べの)倉(くら)梯(はし)麻(ま)呂(ろ)(実際は、久米皇子・多(た)治(じ)比(ひの)王(みこ)・穂積咋(ほずみくい)・大(おお)伴(ともの)国(くに)麿(まろ)だ。)が、この系譜に入るべきなのだ。つまり『大(おお)伴(とも)氏(し)の系譜』では消されている、ということなのだ。これは、『大(おお)伴(とも)氏(し)の系譜(「伴(とも)氏(し)の系譜」・「古(ふる)屋(や)家(け)の系譜」を含む。)』の隠蔽工作なのだ。そしてまた、『大(おお)伴(とも)氏(し)の系譜』の中で、『伴(とも)氏(し)の系譜』を見てみれば、大(おお)伴(ともの)金(かな)村(むらの)連(むらじ)(27代継(けい)体(たい)天(てん)皇(のう)だ。)の弟としては、大(おお)伴(ともの)歌(うたの)大(おお)連(むらじ)がいるのだが、この人物の実像としては、28代安(あん)閑(かん)天(てん)皇(のう)なのだ。また、この系譜では、①大(おお)伴(ともの)歌(うたの)連(むらじ)(実際は、28代安(あん)閑(かん)天(てん)皇(のう)だ。)~②大(おお)伴(ともの)平(ひら)彦(ひこの)連(むらじ)(実際は、蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)だ。)~大(おお)伴(ともの)大(う)人(しの)直(あたい)(実際は、多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)だ。)~③大(おお)伴(ともの)枳(き)都(つ)(長男の多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)だ。)~④大(おお)伴(ともの)男(お)足(たり)(娘むこの大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)・大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)だ。)~⑤大(おお)伴(ともの)田(たの)公(きみ)(娘むこの大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)魚(うお)・大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・土(は)師(じしの)宿(すく)禰(ね)古(ひる)人(ひと)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)頴(ひで)人(ひと)だ。)~⑥大(おお)伴(ともの)道(みち)長(なが)(娘むこの菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)道(みち)長(なが)・坂(さか)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)田(た)村(むら)麿(まろ)だ。)~空(くう)海(かい)(娘むこの弘(こう)法(ぼう)大(だい)師(し)だ。)ともなっているのだ。
そしてまた、別の『大(おお)伴(とも)氏(し)の系譜(系図纂要)』で見てみれば、①大(おお)伴(ともの)歌(うたの)連(むらじ)(実際は、28代安(あん)閑(かん)天(てん)皇(のう)だ。)~②大(おお)伴(ともの)平(ひら)古(こ)曽(そ)(実際は、29代宣(せん)化(か)天(てん)皇(のう)・蘇(そ)我(がの)稲(いな)目(めの)大(おお)臣(おみ)だ。)~③大(おお)伴(ともの)平(ひら)彦(ひこ)(長男の蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)だ。)~③大(おお)伴(ともの)伊能(いのの)直(あたい)(娘むこの久米皇子だ。)とも伝えているのだ。それでは、正しい『大(おお)伴(とも)氏(し)の系譜』を推測すれば、①大(おお)伴(ともの)歌(うたの)連(むらじ)(実際は、28代安(あん)閑(かん)天(てん)皇(のう)だ。)~②平(ひら)古(こ)曽(そ)(実際は、甘(あま)美(み)姫(ひめ)のむこの29代宣(せん)化(か)天(てん)皇(のう)・蘇(そ)我(がの)稲(いな)目(めの)大(おお)臣(おみ)だ。)~③大(おお)伴(ともの)平(ひら)彦(ひこ)(長男の蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)だ。)~④大(おお)伴(ともの)伊能(いのの)直(あたい)(娘むこの久米皇子だ。)~⑤大(おお)伴(ともの)大(う)人(しの)直(あたい)(次男の多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)だ。)~⑥大(おお)伴(ともの)枳(き)都(つ)(長男の多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)・巨(こ)勢(せの)堺(さかい)麻(ま)呂(ろ)だ。)~⑦大(おお)伴(ともの)男(お)足(たり)(坂(さかの)上(うえの)大(おお)嬢(いらつめ)のむこの大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)・大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・巨(こ)勢(せの)苗(なえ)麻(ま)呂(ろ)だ。)~⑧大(おお)伴(ともの)田(たの)公(きみ)(若(わか)小(こ)玉(だま)女(め)のむこの大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)魚(うお)・大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・土(は)師(じしの)宿(すく)禰(ね)古(ひる)人(ひと)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)頴(ひで)人(ひと)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)野(の)足(たり)だ。)~⑨大(おお)伴(ともの)道(みち)長(なが)(娘むこの坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)道(みち)長(なが)・伴(ともの)朝(あそ)臣(み)山(やま)道(みち)だ。)~⑩空(くう)海(かい)(娘むこの弘(こう)法(ぼう)大(だい)師(し)・坂(さかの)上(うえの)朝(あそ)臣(み)正(まさ)野(の)だ。)という系譜である、ということなのだ。
さてそれでは、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麻(ま)呂(ろ)・有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)高(たけ)市(ち)麿(まろ)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)小(お)建(たての)黒(くろ)彦(ひこ)・百(く)済(だら)王(こにき)氏(し)良(りょう)虞(ぐ)だ。)の次男である石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)乙(おと)麻(ま)呂(ろ)(石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)だ。)なのだが、『続日本(しょくにほん)紀(ぎ)』で見てみれば、藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)宇(うま)合(かい)の妻の久米若売(くめわかめ)との姦通(かんつう)の罪で、土佐(とさ)国(こく)に流された。』というのだ。そしてまた、この若売(わかめ)は、『下総(しもうさ)国(こく)に配流になった。』ともいうのだ。しかしながら、『冤罪(えんざい)とも言われ、まもなく復権して、天平感宝元年(749年)には、従3位の中納言の中務卿ともなって、天平勝宝2年(750年)に没した。』とも伝わるのだ。つまりこの人物の実像こそが、実際は、百(くだ)濟(ら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)(従3位の中納言刑務卿・天平神護2年・766年没。)なのだ。そしてまた、その実父としては、百(く)済(だら)王(こにき)氏(し)良(りょう)虞(ぐ)(従4位下・天平9年・737年没。)がいた、というが、その実像としては、左大臣石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麻(ま)呂(ろ)・有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)高(たけ)市(ち)麿(まろ)だ。)なのだ。
そしてまた、これは『百(く)濟(だら)王(こに)氏(きし)』の出自を隠すための隠蔽工作なのだ。なぜならば、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麻(ま)呂(ろ)・有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)高(たけ)市(ち)麿(まろ)・百(く)済(だら)王(こにき)氏(し)良(りょう)虞(ぐ)・従4位下・天平9年・737年没だ。)の実子で次男という石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)乙(おと)麻(ま)呂(ろ)(実際は、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)・忌(いん)部(べの)首(おびと)黒(くろ)麿(まろ)・大三輪(おおみわの)臣調(おみつき)足(たり)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)忍(おし)人(ひと)・荒(あら)嶋(しまの)磯(いそ)継(つぐ)・荒(あら)嶋(しまの)乙(おと)主(ぬし)・百済(くだら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)・初代国(こく)学(がくの)頭(かしら)の文(あや)部(べの)息(おく)道(みち)だ。)については、『天平勝宝2年(750年)に没した。』とも伝えるのだが、しかしながら、同一人物である従3位中納言刑務卿の百(くだ)濟(ら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)としては、『天平神護2年(766年)に没した。』とも伝えるからなのだ。また、この中納言百(くだ)濟(ら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)である石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)(実際は、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)乙(おと)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)調(つき)足(たり)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)忍(おし)人(ひと)・忌(いん)部(べの)首(おびと)黒(くろ)麿(まろ)・荒(あら)嶋(しまの)宿(すく)禰(ね)磯(いそ)継(つぐ)・荒(あら)嶋(しまの)宿(すく)禰(ね)乙(おと)主(ぬし)だ。)としては、実際は、『天平神護2年(766年。)に没した。』とも、『但(たじ)馬(ま)故(こ)事(じ)記(き)』の中で伝える初代国学(こくがく)の頭(かしら)の博士(はかせ)、文(あや)部(べの)息(おく)道(みち)とも同一人物なのだ。そこで、『気(け)多郡(たぐん)故事記(こじき)・下』の人皇49代高野(たかの)天皇(てんのう)(48代称(しょう)徳(とく)天皇(てんのう)だ。)の条で見てみれば、同年の秋8月に『国学(こくがく)の頭(かしら)博士(はかせ)文(あや)部(べ)息(おき)道(みち)卒す。年95、門人これを杉ノ森に葬る。且つ祠を立て、これを祀り、文部(あやべ)神社と云う。』とも伝えるから、実際は、『95歳で没した。』ということなのだ。つまり実際の出生の年としては、天(てん)智(じ)天(てん)皇(のう)10年(671年)なのだ。ところで、その実兄の石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)勝(かつ)男(お)なのだが、その実像としては、大(だい)僧(そう)正(じょう)の行(ぎょう)基(き)上人(しょうにん)なのだ。つまり石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)勝(かつ)男(お)は、大(だい)僧(そう)正(じょう)の行(ぎょう)基(き)上人(しょうにん)として、『天平感宝元年(749年)に、その年80歳で没した。』というのだ。また、39代天(てん)智(じ)天(てん)皇(のう)8年(669年)の出生なのだ。そしてまた、その実弟で次男である石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)としては、その2年後の40代天(てん)智(じ)天(てん)皇(のう)10年(671年)に出生した、ということなのだ。また、最後としては、初代国学(こくがく)の頭(かしら)の博士(はかせ)、文(あや)部(べの)息(おく)道(みち)や、百(くだ)濟(ら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)(従3位の中納言刑務卿だ。)として、『天平神護2年(766年)に、95歳で没した。』とも、『但(たじ)馬(ま)故(こ)事(じ)記(き)』で伝えている、ということなのだ。
さてそれでは、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)(石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)乙(おと)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)調(つき)足(たり)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)忍(おし)人(ひと)・忌(いん)部(べの)首(おびと)黒(くろ)麿(まろ)・荒(あら)嶋(しまの)宿(すく)禰(ね)磯(いそ)継(つぐ)・荒(あら)嶋(しまの)宿(すく)禰(ね)乙(おと)主(ぬし)だ。)とは、実際は、天平神護2年(766年)に、95才で没していたのだ。そしてまた、2人の実父である左大臣石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麻(ま)呂(ろ)・有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)高(たけ)市(ち)麿(まろ)だ。)としては、『養老元年(717年)3月に、78歳で没した。』とも伝えるのだが、これも、実際は、『天平9年(737年)に、従4位下の百(く)済(だら)王(こにき)氏(し)良(りょう)虞(ぐ)として、98歳で没した。』ということなのである。
さてそれでは、更に詳しく検証して見てみれば、次男である石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)こそが、中納言百(くだ)濟(ら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)や、大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)調(つき)足(たり)や、大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)忍(おし)人(ひと)や、忌(いん)部(べの)宿(すく)禰(ね)麻(ま)呂(ろ)や、忌(いん)部(べの)首(おびと)黒(くろ)麿(まろ)や、林(はやしの)直(あたい)解(かい)任(とう)や、石(いその)上(かみの)乙(おと)麻(ま)呂(ろ)や、荒(あら)嶋(しまの)磯(いそ)継(つぐ)や、荒(あら)嶋(しまの)乙(おと)主(ぬし)や、大(やま)和(との)宿(すく)禰(ね)乙(おと)継(つぐ)たちの実像である。また、その長女の大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)杜女(もりめ)(先(せん)妻(さい)だ。)のむことしては、阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)広(ひろ)目(め)(阿(あ)倍(べの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)三(み)原(はら)麻(ま)呂(ろ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)泰(やす)麿(まろ)・紀(きの)直(あたい)広(ひろ)嶋(しま)・阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)・阿(あ)倍(べの)伊豆(いず)丸(まる)・大(おお)伴(ともの)駿(する)河(が)麻(ま)呂(ろ)だ。)の長男である阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)(和(わ)気(けの)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)・2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)躬(み)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)石(いわ)根(ね)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)成(なり)・陽(や)候(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)豊(とよ)国(くに)・中(なか)臣(とみの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)直(あたい)国(くに)栖(ます)・石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)年(とし)足(たり)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)秋(あき)主(ぬし)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)だ。)がいた、ということなのだ。しかしながら、この百済(くだら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)である石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)乙(おと)麻(ま)呂(ろ)の子(娘むこだ。)の石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)嗣(つぐ)についても、この百済(くだら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)である阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)こそがその実像なのだ。そしてまた、この先(せん)妻(さい)の大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)杜(もり)女(め)(大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)調(つき)足(たり)・石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)・紀(きの)臣(おみ)調(つき)足(たり)の娘だ。)との2人の間に、そのもうけた実子としては、長男の①中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)長(なが)(実際は、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)鯛(たい)主(ぬし)・楊(や)侯(この)史(ふひと)令(れい)珍(ちん)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)の祖、土(はじ)師(しの)宿(すく)禰(ね)古(ふる)人(ひと)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)世(よ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)穎(ひで)人(ひと)・大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)俊(しゅん)哲(てつ)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)名(な)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)野(の)足(たり)だ。)がいたのだ。そしてまた、その義弟(娘むこだ。)で次男としては、②中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)庭(にわ)(実際は、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)継(つぎ)麻(ま)呂(ろ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)令(れい)珪(けい)・秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)の祖(そ)、秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)安(やす)人(ひと)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)達(たつ)男(お)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)竜(たつ)男(お)・坂(さかの)上(うえの)大(おお)宿(すく)禰(ね)苅(かり)田(た)麻(ま)呂(ろ)だ。)がいた、ということなのだ。
さてそれでは、この百済(くだら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)である阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)(2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・和(わ)気(けの)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)直(あたい)国(くに)栖(ます)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)躬(み)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)石(いわ)根(ね)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)成(なり)・陽(や)侯(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)・中(なか)臣(とみの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)秋(あき)主(ぬし)・石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)年(とし)足(たり)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)長(なが)野(の)だ。)の後(ご)妻(さい)としては、先(せん)妻(さい)の大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)杜(もり)女(め)の従妹(いとこ)とも伝える大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)卿(きょう)(紀(きの)臣(おみ)建(たけ)嶋(しま)・大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)宅(やか)麿(まろ)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)家(やか)主(ぬし)だ。)である大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)美(み)岐(き)麿(まろ)の娘である大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)宅女(やかめ)(賀(か)陽(やの)臣(おみ)小(こ)玉(だま)女(め)だ。)がいた、ということなのだ。
そしてまた、『紀(きの)国(こく)造(ぞう)家(け)の系譜』で見てみれば、紀(きの)直(あたい)古(こ)麻呂(まろ)である中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)(大納言大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)・大納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)池(いけ)守(もり)・多(おおの)臣(おみ)安(やす)万(ま)侶(ろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)安(やす)麿(まろ)だ。)の第4子という紀(きの)直(あたい)建(たけ)嶋(しま)こそが、右大臣大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(中納言大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)大(おお)国(くに)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)奥(おく)守(もり)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)馬(うま)養(かい)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)美(み)岐(き)麿(まろ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)東(あずま)人(びと)だ。)である百済(くだら)王(こに)氏(きし)永(えい)継(けい)(紀(きの)朝(あそ)臣(み)猿(さ)取(ぬし)だ。)である、ということなのだ。そしてまた、長女(第1子だ。)こそが、大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)宅女(やかめ)(百済(くだら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)の後(ご)妻(さい)・賀(か)陽(やの)臣(おみ)小(こ)玉(だま)女(め)だ。)なのだ。また、この宅女(やかめ)が、そのもうけた実子としては、第3子(実際は長男だ。)という①中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)御(み)笠(かさ)麿(まろ)(実際は、百済(くだら)王(こに)氏(きし)教(きょう)俊(しゅん)・楊(や)候(この)史(ふひと)令(れい)璆(きゅう)・大枝朝臣(おおえのあそみ)真(ま)仲(なか)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)雄(お)黒(くろ)麿(まろ)だ。)や、そしてまた、その実妹の②百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)明(めい)信(しん)女(め)(実際は、藤(ふじ)原(わらの)継(つぐ)縄(なお)の2人目の室(しつ)・4男という人(ひと)麻(ま)呂(ろ)の室(しつ)・蓑(みの)麻(ま)呂(ろ)の室(しつ)だ。)や、このほかに、③百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)東信女(とうしんめ)(桓(かん)武(む)朝(ちょう)宮入(みやびと)の女御(にょうご)だ。また、百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)明信(めいしん)女(め)と同一人物だ。)たちもいたのだ。また、この藤(ふじ)原(わらの)継(つぐ)縄(なお)とは、第4子(百済(くだら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)である中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)成(なり)の第4子だ。)という中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)蓑(みの)麻(ま)呂(ろ)(楊(や)候(この)史(ふひと)人(ひと)麻(ま)呂(ろ)だ。)の実像なのだ。そしてまた、このほかにも、5男の和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)真(ま)綱(つな)(実際は、百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)福(ふく)成(なり)だ。)や、6男の和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)仲(なか)世(よ)(実際は、小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)篁(たかむら)・滋(しげ)野(のの)朝(あそ)臣(み)貞(さだ)主(ぬし)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)河(かわ)成(なり)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)慶(けい)仲(ちゅう)だ。)や、また、女子(第7子という。)としては、藤(ふじ)原(わらの)葛(かど)野(の)麻(ま)呂(ろ)室(しつ)(百済(くだら)王(こに)氏(きし)明(めい)本(ほん)女(め)・後に桓(かん)武(む)朝(ちょう)入(にゅう)宮(ぐう)の女御(にょうご)だ。)たちもいた、ということなのだ。さてそれでは、この百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)明(めい)信(しん)女(め)(藤(ふじ)原(わらの)継(つぐ)縄(なお)死後、桓(かん)武(む)朝(ちょう)入(にゅう)宮(ぐう)の女御(にょうご)だ。)や、東信女(とうしんめ)(桓(かん)武(む)朝(ちょう)宮入(みやびと)だ。)たち2人とは、同一人物の可能性が高いのだが、また、50代桓(かん)武(む)天(てん)皇(のう)との間に、そのもうけた実子こそが、実際は、丹(たん)治(じ)比(ひの)真(ま)宗(むね)(貞子(さだこ)だ。また、明(めい)信(しん)女(め)・東信女(とうしんめ)だ。)の子という葛原(かずらわら)親王(しんのう)(『桓(かん)武(む)平家(へいけ)の始祖』だ。)である、ということなのだ。
つまり丹(たん)治(じ)比(ひの)真(ま)宗(むね)の父という丹(たん)治(じ)比(ひの)長野(ながの)の実像としては、百済(くだら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)の阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)(実際は、和気(わけの)清(きよ)麻呂(まろ)・大納言紀(きの)船(ふな)守(もり)だ。)なのだ。そしてまた、その父(舅(しゅうと)だ。)という丹(たん)治(じ)比(ひの)家(やか)主(ぬし)としては、中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(大納言大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)猿(さ)取(ぬし)だ。)なのだ。また、その実父の大納言丹(たん)治(じ)比(ひの)池(いけ)守(もり)こそが、その実像は、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)である、ということなのだ。
さてそれでは、この『百済(くだら)王(こにき)氏(し)の系譜』としては、謎の古代史の解明のための系譜とも言えるのだが、その始祖としては、最後の百済(くだら)王(おう)という31代義(うぃ)慈(じゃ)王(おう)なのだ。そしてまた、その実像としては、蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)(33代崇(す)峻(しゅん)天(てん)皇(のう)・38代孝(こう)徳(とく)天(てん)皇(のう)だ。)なのだ。また、その子の1人という豊(ほう)璋(しょう)王(おう)の実像としては、長子の蜂(はち)子(この)皇(み)子(こ)の中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)なのだ。また、その弟の善(ぜん)光(こう)王(おう)(禅(ぜん)広(こう)王(おう)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)を賜ふ。)の実像としては、娘むこの聖(しょう)徳(とく)太(たい)子(し)の百済(くだら)王(おう)の30代武(む)王(おう)なのだ。そしてまた、その子という百済(くだら)王(こにき)氏(し)昌(しょう)成(じょう)の実像としては、娘の春(つき)米(しねの)女(ひめ)王(みこ)のむこである山(やま)背(しろの)大(おお)兄(えの)皇(み)子(こ)の中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)(蜂(はちの)子(この)皇(み)子(こ)だ。)なのだ。つまり余(よ)豊(ほう)璋(しょう)王(おう)である蘇(そ)我(がの)赤(あか)兄(えの)大臣(おおおみ)なのだ。そしてまた、この山(やま)背(しろの)大(おお)兄(えの)皇(み)子(こ)の自殺については、自作自演の隠蔽工作なのだ。また、その弟の禅(ぜん)広(こう)王(おう)とは、実際は、41代持(じ)統(とう)天皇(てんのう)の時代に登場してくるのだが、これは、中(なか)臣(とみの)雷(いかづちの)大(おお)臣(まえつきみ)(御(み)諸(もろ)別(わけ)命(のみこと)・14代仲(ちゅう)哀(あい)天(てん)皇(のう)だ。)が、20代允(いん)恭(ぎょう)天皇(てんのう)の時代に登場してくるのとも同じく目くらましの隠蔽手法なのだ。つまり実際としては、長野県長(なが)野(の)市(し)の仏教の総本山、善光寺(ぜんこうじ)の開祖の本間(ほんま)善(ぜん)幸(こう)という人物なのだ。また、この人物の実像は、聖(しょう)徳(とく)太(たい)子(し)(35代舒(じょ)明(めい)天(てん)皇(のう)・百済(くだら)王(おう)の武(む)王(おう)・蘇(そ)我(がの)入(いる)鹿(かの)大(おお)臣(おみ)だ。)なのだ。また、その妃(きさき)の1人は、蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)の娘の刀(と)自(じ)古(この)郎(いら)女(つめ)(実際は、法(ほ)提(ていの)郎(いら)女(つめ)・膳(かしわべの)大(おお)娘(いらつめ)・膳(かしわべの)菩(ほ)岐(き)岐(き)美(みの)郎(いら)女(つめ)・膳(かしわべの)三(み)穂(ほの)娘(いらつめ)だ。)なのだ。なお、この姫(ひめ)は、中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)である豊(ほう)璋(しょう)王(おう)(蘇(そ)我(がの)赤(あか)兄(えの)大臣(おおおみ)・山(やま)背(しろの)大(おお)兄(えの)皇(み)子(こ)だ。)の実妹である、ということなのだ。また、中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)の豊(ほう)璋(しょう)王(おう)(実際は、蘇(そ)我(がの)赤(あか)兄(えの)大臣(おおおみ)・山(やま)背(しろの)大(おお)兄(えの)皇(み)子(こ)・蜂(はちの)子(この)皇(み)子(こ)だ。)とは、本間(ほんま)善(ぜん)幸(こう)(実際は、聖(しょう)徳(とく)太(たい)子(し)・35代舒(じょ)明(めい)天(てん)皇(のう)・百済(くだら)王(おう)の武(む)王(おう)・蘇(そ)我(がの)入(いる)鹿(かの)大(おお)臣(おみ)だ。)の娘むこなのだ。つまりこの刀(と)自(じ)古(この)郎(いら)女(つめ)(実際は、法(ほ)提(ていの)郎(いら)女(つめ)・膳(かしわべの)大(おお)娘(いらつめ)・膳(かしわべの)菩(ほ)岐(き)岐(き)美(みの)郎(いら)女(つめ)・膳(かしわべの)三(み)穂(ほの)娘(いらつめ)だ。)と、聖(しょう)徳(とく)太(たい)子(し)(35代舒(じょ)明(めい)天(てん)皇(のう)・百済(くだら)王(おう)の武(む)王(おう)・蘇(そ)我(がの)入(いる)鹿(かの)大(おお)臣(おみ)だ。)との2人の間に、そのもうけた1人娘の春(つき)米(しねの)女王(ひめみこ)のむここそが、山(やま)背(しろの)大兄(おおえの)皇子(みこ)である、ということなのだ。
さてそれでは、『百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)を賜ふ』」という禅(ぜん)広(こう)王(おう)(実際は、聖(しょう)徳(とく)太(たい)子(し)・35代舒(じょ)明(めい)天(てん)皇(のう)・百済(くだら)王(おう)の30代武(む)王(おう)・蘇(そ)我(がの)入(いる)鹿(かの)大(おお)臣(おみ)だ。)の子とも伝える百済(くだら)王(こにき)氏(し)昌(しょう)成(じょう)の実像として、この娘むこの豊(ほう)璋(しょう)王(おう)の中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)(蜂(はち)子(この)皇(み)子(こ)・蘇(そ)我(がの)赤(あか)兄(えの)大臣(おおおみ)だ。)なのだが、この百済(くだら)王(こに)氏(きし)昌(しょう)成(じょう)(実際は、中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)・蜂(はち)子(この)皇(み)子(こ)・蘇(そ)我(がの)赤(あか)兄(えの)大(おお)臣(おみ)・余(よ)豊(ほう)璋(しょう)王(おう)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)の山(やま)基(き)主(ぬし)命(のみこと)だ。)の第1子としては、百済(くだら)王(こにき)氏(し)遠(えん)寳(ぽう)という人物がいるのだが、その実像としては、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)山(やま)基(き)主(ぬし)命(のみこと)(中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)だ。)の長女である浄(きよ)刀(と)自女(じめ)のむこの阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)なのだ。そしてまた、第2子としては、百済(くだら)王(こにき)氏(し)良(りょう)虞(ぐ)がいるが、その実像としては、養(よう)子(し)となった石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)・三輪(みわの)君(きみ)根(ね)麻呂(まろ)・猿丸(さるまる)大夫(だゆう)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)だ。)なのだ。そしてまた、藤(ふじ)原(わら)不(ふ)比(ひ)等(と)の兄の僧定恵(じょうえ)こそがその実像なのだ。それでは、第3子としては、百(く)済(だら)王(こにき)氏(し)南(なん)典(てん)という人物がいるが、その実像としては、次女の家(いえ)原(はら)の音名(おとな)のむこの左大臣多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)(大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)・大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)だ。)なのだ。つまり右大臣阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)(高(たか)梯(はしの)王(みこ)だ。)や、左大臣石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)だ。)や、左大臣多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)(大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)・大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)だ。)たちの一流貴族こそが、『かぐや姫の逸話』の中で、『かぐや姫に求婚した』という5人(実際は、3人だ。)の中央貴族なのだ。つまりこの5人とは、①阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)や、②大(おお)伴宿禰(とものすくね)御(み)行(ゆき)(多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)だ。)や、③石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)高(たけ)市(ち)麿(まろ)・有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)だ。)や、④石(いし)作(づくりの)皇(み)子(こ)や、⑤車持(くるまもちの)皇子(みこ)たち5人なのだが、このうちで、④石(いし)作(づくりの)皇(み)子(こ)や、⑤車(くるま)持(もちの)皇(み)子(こ)の実像としては、有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)である石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、僧定恵(じょうえ)・猿(さる)丸(まる)大(だ)夫(ゆう)だ。)とも同一人物である、ということなのだ。
さてそれでは、毛(け)野(のの)君(きみ)の一族の車持朝臣(くるまもちのあそみ)の始祖としては、車持(くるまもちの)君(きみ)の20代允(いん)恭(ぎょう)天(てん)皇(のう)(上(こう)野(ずけの)公(きみ)の竹(たけ)葉(は)瀬(せの)君(きみ)だ。)なのだが、埼玉県や、群馬県や、栃木県などの関東地方の地域を、東国の基盤の中心地域としていた大豪族としては、この阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)や、その娘むこの石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)の一族である、ということなのだ。そしてまた、この阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)の実子である中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)や、中(なか)臣連(とみのむらじ)大(おお)嶋(しま)たち2人の実兄弟である、ということなのだ。
さてそれでは、これらの人物を、『大(おお)伴(とも)氏(し)の系譜』で見てみれば、その実像としては、大(おお)伴(ともの)連(むらじ)男(お)吹(ふ)負(けい)(阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)・上(かみ)毛(け)野(のの)君(きみ)稚(わく)子(こ)・田(た)辺(なべの)首(おびと)小(お)隅(すみ)だ。)の子という2人なのだ。つまり最後は、『天平勝宝元年5月29日(749年)に没した。』という中納言大(おお)伴(ともの)宿(すく)禰(ね)牛(うま)養(かい)こそが、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)(下(しもつ)道(みちの)圀(くに)勝(かつ)だ。)なのだ。そしてまた、その実弟の大(おお)伴(ともの)祖(お)父(じ)麻(ま)呂(ろ)の実像としては、その実弟の中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)(下(しもつ)道(みちの)圀(くに)依(より)・上(かみ)毛(け)野(のの)君(きみ)三(み)千(ちち)だ。)なのだ。また、『巨(こ)勢(せ)氏(し)の系譜』で見てみれば、『天平勝宝5年3月30日(753年)に没した。』という大納言巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)奈弖(なて)麻呂(まろ)こそが、この中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)(実際は、下(しもつ)道(みちの)圀(くに)依(より)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)難(なに)波(わ)麻(ま)呂(ろ)・田(た)辺(なべの)首(おびと)難(なに)波(わ)麻(ま)呂(ろ)だ。)の最後の実像である、ということなのだ。
さてそれでは、天平勝宝5年(753年)に、平群(へごりの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)成(なり)(実際は、中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻呂(まろ)卿(きょう)だ。)や、紀(きの)朝(あそ)臣(み)宇美(うみ)(実際は、多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)足(たり)だ。)たちが没しているが、しかしながら、彼らは、大納言巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)奈(な)弖(て)麻(ま)呂(ろ)(実際は、中(なか)臣連(とみのむらじ)大(おお)嶋(しま)・下(しもつ)道(みちの)圀(くに)依(より)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)難(なに)波(わ)麻(ま)呂(ろ)・田(た)辺(なべの)首(おびと)難(なに)波(わ)麻(ま)呂(ろ)だ。)と一緒に消された人物なのだ。つまり平群(へごりの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)成(なり)の実像としては、『天平4年7月(732年)に、遣(けん)唐(とう)大使(たいし)に任じられた。』という多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)の遣(けん)唐(とう)使(し)のとき、次の副使(ふくし)に任じられた、という中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)名(な)代(しろ)の実像である中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、下(しもつ)道(みちの)圀(くに)勝(かつ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)牛(うま)養(かい)・大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)・下(しも)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・下(しも)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)石(いわ)代(しろ)だ。)の長男の中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)卿(きょう)(大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・佐(さ)伯(えきの)宿(すく)禰(ね)常(つね)人(ひと)だ。)こそが、その実像である、ということなのだ。
それでは、『続日本紀(しょくにほんぎ)』の奏(そう)上(じょう)者(しゃ)とは、中(なか)臣連(とみのむらじ)大(おお)嶋(しま)のひ孫の秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)安(やす)人(ひと)なのだが、この人物とは、『記紀(きき)』の隠蔽工作の最後の締め括りをされた人物なのだ。また、その実像としては、坂(さかの)上(うの)大(おお)宿(すく)禰(ね)苅(かり)田(た)麻(ま)呂(ろ)なのだ。
さてそれでは、百(く)済(だら)王(こにき)氏(し)良(りょう)虞(ぐ)の実像である紀(きの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)だ。なお、阿(あ)倍(べの)御(み)主(ぬ)人(し)の長女との子だ。)の第1子としては、百(く)済(だら)王(こにき)氏(し)孝(こう)忠(ちゅう)という人物がいるが、その実像としては、長女のむこの紀(きの)朝(あそ)臣(み)宇美(うみ)である中納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)足(たり)(実際は、大(おお)伴(ともの)稲(いなの)公(きみ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)堺(さかい)麻(ま)呂(ろ)・佐(さ)伯(えきの)稲(いな)麻(ま)呂(ろ)だ。)なのだ。また、この百(く)済(だら)王(こにき)氏(し)良(りょう)虞(ぐ)(実際は、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)小(こ)建(たての)黒(くろ)彦(ひこ)だ。)の第2子としては、百(く)済(だら)王(こにき)氏(し)全福(ぜんふく)がいるが、その実像としては、長男の紀(きの)朝(あそ)臣(み)宿(すく)奈(な)麿(まろ)である石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)勝(かつ)男(お)(仏界(ぶつかい)では、大(だい)僧(そう)正(じょう)の僧行(ぎょう)基(き)上(しょう)人(にん)だ。)なのだ。また、第3子としては、東北地方から黄金を探し出したという百済(くだら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)がいるが、その実像としては、次男の紀(きの)朝(あそ)臣男人(みおひと)である石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)(実際は、石(いその)上(かみの)乙(おと)麻(ま)呂(ろ)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)吉(き)備(び)麻(ま)呂(ろ)だ。)なのだ。また、この百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)としては、「大(おお)三(み)輪(わ)氏(し)」で言えば、大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)忍(おし)人(ひと)や、大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)調(つき)足(たり)なのだ。また「忌(いん)部(べ)氏(し)」で言えば、忌(いん)部(べの)宿(すく)禰(ね)麻(ま)呂(ろ)や、忌(いん)部(べの)首(おびと)黒(くろ)麿(まろ)なのだ。また「荒(あら)嶋(しま)氏(し)」で言えば、荒(あら)嶋(しまの)宿(すく)禰(ね)磯(いそ)継(つぐ)や、荒(あら)嶋(しまの)宿(すく)禰(ね)乙(おと)主(ぬし)なのだ。また「紀(きの)直(あたい)氏(し)」で言えば、林(はやしの)直(あたい)解任(かいとう)である、ということなのだ。
さてそれでは、この百(く)済(だら)王(こにき)氏(し)良(りょう)虞(ぐ)(実際は、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)小(こ)建(たての)黒(くろ)彦(ひこ)だ。また、多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)の長女との子だ。)の第4子としては、次女の紀(きの)朝(あそ)臣(み)刀(とう)子(この)娘(いらつめ)(42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)の妃だ。)や、第5子としては、3女のむこの百(く)済(だら)王(こにき)氏(し)永(えい)継(けい)(紀(きの)朝(あそ)臣(み)猿(さ)取(ぬし)だ。)である中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)卿(きょう)(「紀(きの)直(あたい)氏(し)」で言えば、紀(きの)直(あたい)建(たけ)嶋(しま)だ。また「大三輪(おおみわ)氏(し)」で言えば、大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)美(み)岐(き)麿(まろ)や、大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)興(おこ)志(し)だ。また「大(おお)伴(とも)氏(し)」で言えば、大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)だ。また「平群(へぐり)氏(し)」で言えば、平群(へぐりの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)成(なり)だ。また「伊(い)岐(きの)連(むらじ)氏(し)」で言えば、伊(い)岐(きの)連(むらじ)宅(やか)麿(まろ)だ。)がいた、ということなのだ。そしてまた、50代桓(かん)武(む)天(てん)皇(のう)の室(しつ)という百(く)済(だら)永(えい)継(けい)は、別人(実際は、坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ)の娘だ。)である、ということなのだ。
さてそれでは、この中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(の)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)卿(きょう)(紀(きの)朝(あそ)臣(み)猿(さ)取(ぬし)・大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)美(み)岐(き)麿(まろ)だ。)としては、その先(せん)妻(さい)の石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)の娘(第5子で3女だ。)との2人の間に、そのもうけた子としては、坂(さかの)上(うえの)忌(いみ)寸(き)犬(いぬ)養(かい)や、その実姉であろ大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)宅女(やかめ)(多(た)治(じ)比(ひの)家(いえ)主(ぬし)の娘・賀(か)陽(やの)臣(おみ)小(こ)玉(だま)女(め)だ。)や、その夫の阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)(実際は、坂(さかの)上(うえの)郡(あがた)守(もり)・石(いその)上(かみの)宅(やか)嗣(つぐ)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)船(ふな)守(もり)・2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)年(とし)足(たり)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・多(た)治(じ)比(ひの)長野(ながの)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)だ。)たちがいたのだ。そしてまた、この阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)(和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)だ。)と、その後(ご)妻(さい)の大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)宅女(やかめ)(賀(か)陽(やの)臣(おみ)小(こ)玉(だま)女(め)だ。)との2人の間に、そのもうけた子としては、第3子(実際は長男だ。)という中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)御(み)笠(かさ)麿(まろ)(百済(くだら)王(こに)氏(きし)教(きょう)俊(しゅん)・楊(や)候(この)史(ふひと)令(れい)璆(きゅう)・大枝朝臣(おおえのあそみ)真(ま)仲(なか)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)雄(お)黒(くろ)麿(まろ)だ。)や、第4子という娘むこの中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)蓑(みの)麻(ま)呂(ろ)(人(ひと)麻(ま)呂(ろ)・実際は、妹の百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)明(めい)信(しん)女(め)・藤(ふじ)原(わらの)継(つぐ)縄(なお)室(しつ)だ。)や、このほかに、百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)東信女(とうしんめ)(桓(かん)武(む)朝(ちょう)宮入(みやびと)・明信(めいしん)女(め)と同一人物だ。)や、第5子という和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)真(ま)綱(つな)(百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)福(ふく)成(なり)だ。)や、第6子という和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)仲(なか)世(よ)(実際は、小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)篁(たかむら)・滋(しげ)野(のの)朝(あそ)臣(み)貞(さだ)主(ぬし)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)河(かわ)成(なり)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)慶(けい)仲(ちゅう)だ。)や、第7子という藤(ふじ)原(わらの)葛(かど)野(の)麻(ま)呂(ろ)室(しつ)(百済(くだら)王(こに)氏(きし)明(めい)本(ほん)女(め)・のちに桓(かん)武(む)朝(ちょう)入(にゅう)宮(ぐう)の女御(にょうご)だ。)たち7人の人物がいた、ということなのだ。
そしてまた、阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)(和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)だ。)と、その先(せん)妻(さい)の大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)杜(もり)女(め)(実際は、大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)調(つき)足(たり)・石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)・紀(きの)臣(おみ)調(つき)足(たり)の娘だ。)との2人の間に、そのもうけた子としては、長男の中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)長(なが)(実際は、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)鯛(たい)主(ぬし)・楊(や)候(この)史(ふひと)令(れい)珍(ちん)・菅(すが)原(はらの)朝(あそ)臣(み)の祖、土(はじ)師(しの)宿(すく)禰(ね)古(ふる)人(ひと)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)世(よ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)穎(ひで)人(ひと)・大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)俊(しゅん)哲(てつ)・大(おお)伴(ともの)桑(くわ)主(ぬし)だ。)や、その義弟(娘むこの次男だ。)の中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)庭(にわ)(実際は、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)継(つぎ)麻(ま)呂(ろ)・楊(や)候(この)史(ふひと)令(れい)珪(けい)・秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)の祖(そ)、秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)安(やす)人(ひと)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)達(たつ)男(お)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)竜(たつ)男(お)・坂(さかの)上(うえの)大(おお)宿(すく)禰(ね)苅(かり)田(た)麻(ま)呂(ろ)だ。)がいた、ということなのだ。
さてそれでは、中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(の)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)卿(きょう)(実際は、紀(きの)直(あたい)建(たけ)嶋(しま)・大三輪(おおみわの)臣(おみ)美(み)岐(き)麿(まろ)・大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)大(おお)国(くに)・平群(へぐりの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)成(なり)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)奥(おく)守(もり)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)永(えい)継(けい)・巨(こ)勢(せの)苗(なえ)麻(ま)呂(ろ)だ。)である阿(あ)刀(との)造(みやつこ)大(おお)足(たり)とは、その後(ご)妻(さい)としては、大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)(多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)だ。後(ご)妻(さい)で異母姉で4女の坂(さかの)上(うえの)郎(いら)女(つめ)との子だ。)の娘である正4位下の多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)小(こ)姉(あね)(実際は、大(おお)伴(ともの)坂(さかの)上(うえの)大(おお)嬢(いらつめ)だ。)も娶っていたのだが、この2人の間に、そのもうけた1人娘である仮称、若(わか)小(こ)玉(だま)女(め)のむことしては、阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)(実際は、和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)石(いしの)宿(すく)正(まさ)躬(み)だ。)の長男である従4位下の大中(おおなか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)諸魚(もろうお)(実際は、大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)・佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)長(なが)・土(はじ)師(しの)宿(すく)禰(ね)古(ふる)人(ひと)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)世(よ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)穎(ひで)人(ひと)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)俊(しゅん)哲(てつ)・大(おお)伴(ともの)魚(うお)彦(ひこ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)野(の)足(たり)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)名(な)だ。)がいたのだ。
さてそれでは、阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)である2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)(「和気(わけの)坂(さか)本(もと)氏(し)」で言えば、和気(わけの)坂本(さかもとの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻呂(まろ)だ。また「坂(さかの)上(うえの)氏」で言えば、坂(さかの)上(うえの)郡(あがた)守(もり)だ。)としては、紀(きの)朝(あそ)臣(み)猿(さ)取(ぬし)(実際は、中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)卿(きょう)だ。)の子である大納言の紀(きの)朝(あそ)臣(み)船(ふな)守(もり)こそが、その実像なのだ。
そしてまた、『橘(たちばなの)奈良(なら)麻呂(まろ)の変(へん)』(757年)によつて、『その官位を解任された。』とも伝えている多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)足(たり)(760年没。津(つ)守(もりの)連(むらじ)池(いけ)雄(お)・大(おお)伴(ともの)稲(いなの)公(きみ)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)宇美(うみ)だ。)なのだが、『続日本(しょくにほん)紀(ぎ)』の天平宝字4年(760年)の正月2日の条を見れば、『天平勝宝9年(天平宝字元年・757年)に、子や甥たちが、徒党を組み、反逆を企てたこと(奈(な)良(ら)麻(ま)呂(ろ)の変(へん))に連坐し、官職(中納言の職)を免じられて邸にひきこもり、(以後は)散位のままで終わった。』というのだ。しかしながら、この『橘(たちばなの)奈良(なら)麻呂(まろ)の変(へん)』で罰せられたという一味の中では、従4位下の遠江守の多(た)治(じ)比(ひの)国(くに)人(ひと)(伊豆(いず)国(こく)へ流罪(るざい)だ。)や、従5位上の多(た)治(じ)比(ひの)犢(とく)養(かい)(獄死(ごくし)だ。)や、また、多(た)治(じ)比(ひの)礼(れい)麻(ま)呂(ろ)(獄死(ごくし)だ。)や、また、多(た)治(じ)比(ひの)鷹(たか)主(ぬし)(獄死(ごくし)だ。)たちとしては、この中納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)足(たり)の実子ということなのだ。また、従5位上の陸(む)奥(つの)守(かみ)という佐(さえ)伯(きの)全(たま)成(なり)(自殺だ。)や、従5位下の信(しな)濃(のの)守(かみ)という佐伯(さえきの)大成(おおなり)(信濃(しなの)国(こく)へ流(る)罪(ざい)だ。)たち2人としては、実際は甥なのだ。そこで、実兄の中納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)(津(つ)守(もりの)連(むらじ)池(いけ)吉(よし)だ。)の子という2人なのだが、つまり従5位上陸(む)奥(つの)守(かみ)という佐(さ)伯(えきの)全(たま)成(なり)(自殺だ。)の実像としては、多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)(大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)堺(さかい)麻(ま)呂(ろ)・佐(さ)伯(えきの)稲(いな)麻(ま)呂(ろ)だ。)である津(つ)守(もりの)連(むらじ)池(いけ)吉(よし)の長男の津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)比(ひ)奈(な)都(と)丸(まろ)(佐(さ)味(みの)朝(あそ)臣(み)比(ひ)奈(な)麻(ま)呂(ろ)だ。)なのだ。また、その弟という津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)男(お)足(たり)としては、実際は、津(つ)守(もりの)連(むらじ)池(いけ)吉(よし)である多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)(大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)・巨(こ)勢(せの)堺(さかい)麻(ま)呂(ろ)だ。)の娘を、その後(ご)妻(さい)として娶った人物なのだ。つまりその実像としては、中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・阿(あ)刀(との)造(みやつこ)大(おお)足(たり)・巨(こ)勢(せの)苗(なえ)麻(ま)呂(ろ)だ。)なのだ。そしてまた、従5位下の信(しな)濃(のの)守(かみ)という佐伯(さえきの)大成(おおなり)(信濃(しなの)国(こく)へ流(る)罪(ざい)だ。)の実像である、ということなのだ。そしてまた、津(つ)守(もりの)比(ひ)奈(な)都(と)丸(まろ)(佐(さ)味(みの)臣(おみ)比(ひ)奈(な)麻(ま)呂(ろ)だ。)の別(べつ)腹(はら)の義弟なのだ。そこで、この従5位下の信(しな)濃(のの)守(かみ)の佐伯(さえきの)大成(おおなり)(信濃(しなの)国(こく)へ流罪(るざい)だ。)としては、初号佐伯(さえきの)直(あたい)とされる津(つ)守(もりの)男(お)足(たり)なのだ。また、中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・巨(こ)勢(せの)苗(なえ)麻(ま)呂(ろ)だ。)である佐(さえ)伯(きの)宿(すく)禰(ね)常(つね)人(ひと)である、ということなのだ。
さてそれでは、『続日本(しょくにほん)紀(ぎ)』の780年3月の条を見てみれば、『陸奥(むつ)で伊(い)治(じの)連(むらじ)呰(あざ)麻(ま)呂(ろ)が反乱を起こして、紀(きの)朝(あそ)臣(み)宇美(うみ)(多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)足(たり)だ。)の子の紀(きの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)純(すみ)が殺された。』とも伝えるが、しかしながら、殺した方の伊(い)治(じの)連(むらじ)呰(あざ)麻(ま)呂(ろ)の実像としては、『鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)の系譜』を見れば、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)五(い)百(お)依(より)(実際は、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)だ。)の子(娘むこだ。)としては、多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)がいたのだが、その子としては、麻(ま)呂(ろ)(実際は、津(つ)守(もりの)連(むらじ)比(ひ)奈(な)都(と)丸(まろ)・陸奥(むつの)守(かみ)の佐伯全成(さえきのたまなり)だ。)や、その弟という呰(あざ)麻(ま)呂(ろ)(実際は、津(つ)守(もりの)連(むらじ)男(お)足(たり)だ。)たちがいた、というから、この紀(きの)朝(あそ)臣(み)宇美(うみ)(実際は、多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)足(たり)だ。)の子という紀(きの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)純(すみ)の実像としては、津(つ)守(もりの)比(ひ)奈(な)都(と)丸(まろ)(佐(さ)味(みの)臣(おみ)比(ひ)奈(な)麻(ま)呂(ろ)だ。)の義弟で娘むこの津(つ)守(もりの)連(むらじ)男(お)足(たり)(実際は、信(しな)濃(のの)守(かみ)の佐(さえ)伯(きの)大(おお)成(なり)・大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・佐(さえ)伯(きの)宿(すく)禰(ね)常(つね)人(ひと)・大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)だ。)である呰(あざ)麻(ま)呂(ろ)に殺された、ということなのだ。そしてまた、この紀(きの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)純(すみ)の実像こそが、遠江守(とうとうみのかみ)の多(た)治(じ)比(ひの)国(くに)人(ひと)(伊豆(いず)国(こく)へ流罪(るざい)だ。)や、多(た)治(じ)比(ひの)犢(とく)養(かい)(獄死(ごくし)だ。)や、多(た)治(じ)比(ひの)礼(れい)麻(ま)呂(ろ)(獄死(ごくし)だ。)や、多(た)治(じ)比(ひの)鷹(たか)主(ぬし)(獄死(ごくし)だ。)たちのうちで、長男の多(た)治(じ)比(ひの)国(くに)人(ひと)(伊豆(いず)国(こく)へ流罪(るざい)だ。)である、ということなのだ。つまりこの逸話は、些細ないざこざはあったが、「殺された。」は、お得意のフィクションなのだ。つまりその出自を隠蔽するための手段である、ということなのだ。
さてそれでは、津(つ)守(もりの)連(むらじ)男(お)足(たり)や、伊(い)治(じの)連(むらじ)呰(あざ)麻(ま)呂(ろ)や、伊(い)岐(きの)連(むらじ)宅(やか)麿(まろ)や、信(しな)濃(のの)守(かみ)の佐伯(さえきの)大成(おおなり)や、佐(さえ)伯(きの)宿(すく)禰(ね)常(つね)人(ひと)や、大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)の中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(阿(あ)刀(との)造(みやつこ)大(おお)足(たり)だ。)の孫としては、実際は、僧空海(くうかい)の弘(こう)法(ぼう)大(だい)師(し)なのだ。また、『紀(きの)直(あたい)氏(し)の系譜』や、『紀(きの)朝(あそ)臣(み)氏(し)の系譜』で見れば、紀(きの)直(あたい)古(こ)麻呂(まろ)(実際は、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)だ。)の父としては、小(しょう)乙(おつ)下(げ)紀(きの)朝(あそ)臣(み)牟(む)婁(ろ)なのだが、この人物とは、紀(きの)大(おお)口(くちの)臣(おみ)である阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)(鴨(かもの)縣(あがた)主(ぬし)の久(く)治(じ)良(らの)臣(おみ)だ。)なのだ。そしてまた、『紀(きの)直(あたい)氏(し)の系譜』で見れば、この牟(む)婁(ろ)(阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)だ。)の弟という紀(きの)朝(あそ)臣(み)務(む)壹(いち)石(せき)年(ねん)も、実際は、阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)と同一人物なのだ。そこで、『紀(きの)朝(あそ)臣(み)氏(し)の系譜』で言えば、その子(実際は娘むこだ。)とは、紀(きの)大(う)人(しの)臣(おみ)がいた、というが、この人物とは、『大(おお)伴(とも)氏(し)の系譜』で言えば、娘むこの大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)(弟の大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・鴨(かもの)縣(あがた)主(ぬし)伊(い)呂(ろ)具(ぐ)も同一人物だ。)なのだ。そしてまた『多(た)治(じ)比(ひ)氏(し)の系譜」で言えば、左大臣多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)なのだ。そしてまた、この多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)とは、『津(つ)守(もりの)連(むらじ)氏(し)の系譜』で言えば、津(つ)守(もりの)連(むらじ)白(はく)鳥(ちょう)なのだ。また『巨(こ)勢(せ)氏(し)の系譜』で言えば、巨勢(こせの)朝(あそ)臣(み)紫(し)壇(だん)(実際は、巨勢(こせの)朝(あそ)臣(み)黒(くろ)麻呂(まろ)・阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)・巨勢(こせの)朝(あそ)臣(み)比(ひ)等(と)・蘇(そ)我(がの)連(むらじ)子(この)大(おお)臣(おみ)だ。)の弟という巨勢(こせの)朝(あそ)臣(み)品(ほむ)治(ち)(弟の小(こ)品(ほむ)治(ち)も同一人物だ。)である、ということなのだ。
さてそれでは、この大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)(実際は、大納言大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・左大臣多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)白(はく)鳥(ちょう)・韓(から)国(くにの)連(むらじ)久(く)々(く)比(ひ)命(のみこと)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)邑(お)治(じ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)小(こ)邑(お)治(じ)・多(おおの)臣(おみ)品(ほむ)治(ち)・小(こ)品(ほむ)治(ち)だ。)である蘇(そ)我(がの)日(ひゅ)向(うがの)臣(おみ)の子(娘むこ含む。)としては、第1子の長女(実際は、先(せん)妻(さい)の中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)の次女の家(いえ)原(はらの)音(おと)名(な)との娘だ。)のむことしては、紀(きの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)だ。)がいたのだ。そしてまた、第2子の次女の多(た)治(じ)比(ひの)郎(いら)女(つめ)(阿(あ)岐(き)良(ら)姫(ひめ)だ。)のむことしては、紀(きの)朝(あそ)臣(み)古(こ)麿(まろ)(中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)直(あたい)古(こ)麻呂(まろ)・大(おお)伴(ともの)牛(うま)養(かい)・大(おお)伴(ともの)旅人(たびと)だ。)がいたのだ。また、第3子の3女のむことしては、紀(きの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)路(じ)(中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)・大納言阿(あ)倍(べの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)だ。)がいたのだ。そしてまた、第4子で4女の坂(さかの)上(うえの)郎(いら)女(つめ)のむことしては、穂(ほ)積(ずみ)親(しん)王(のう)(実際は、藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)だ。)や、その後夫で異母弟の大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麿(まろ)(実際は、多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)だ。)たちがいた、ということなのだ。
さてそれでは、この大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)(大納言大(おお)伴(ともの)安(やす)麿(まろ)だ。)と、その後(ご)妻(さい)の巨(こ)勢(せの)郎女(いらつめ)(阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)の娘だ。)との2人の間に、そのもうけた実子としては、長男の多(た)治(じ)比(ひ)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)(津(つ)守(もりの)連(むらじ)池(いけ)吉(よし)だ。)や、次男の多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)足(たり)(大(おお)伴(ともの)稲(いな)公(きみ)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)宇(う)美(み)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)池(いけ)雄(お)だ。)がいた、ということなのだ。
さてそれでは、『津(つ)守(もり)氏(し)の系譜』で見れば、この津(つ)守(もりの)連(むらじ)白(はく)鳥(ちょう)(実際は、大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)・大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)・韓(から)国(くにの)連(むらじ)久(く)々(く)比(ひ)命(のみこと)・海(あま)部(べの)直(あたい)伍(い)佰(お)道(みち)だ。また、先(せん)妻(さい)の家(いえ)原(はらの)音(おと)名(な)との子だ。)の娘むこは5人いて、第1子の長女のむことしては、津(つ)守(もりの)連(むらじ)生(いく)羽(は)(実際は、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)だ。)なのだ。また、第2子の多(た)治(じ)比(ひの)郎(いら)女(つめ)(阿(あ)岐(き)良(ら)姫(ひめ)だ。)のむことしては、津(つ)守(もりの)連(むらじ)広(ひろ)麿(まろ)(実際は、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)だ。)なのだ。また、第3子の3女のむことしては、津(つ)守(もりの)連(むらじ)大(ひろ)海(み)(実際は、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)だ。)なのだ。このほかに、第4子の4女の坂(さかの)上(うえの)郎(いら)女(つめ)(穂(ほ)積(ずみ)親(しん)王(のう)室(しつ)・のちの大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麿(まろ)の後(ご)妻(さい)だ。)がいた、ということなのだ。
そしてまた、津(つ)守(もりの)連(むらじ)白(はく)鳥(ちょう)(実際は、大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)・大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)だ。)と、その後(ご)妻(さい)の巨(こ)勢(せの)郎女(いらつめ)(阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)の娘だ。)との2人の間に、そのもうけた第4子で長男の津(つ)守(もりの)連(むらじ)池(いけ)吉(よし)(実際は、多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)・巨(こ)勢(せの)堺(さかい)麻(ま)呂(ろ)だ。)や、第5子で次男の津(つ)守(もりの)連(むらじ)池(いけ)雄(お)(実際は、多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)足(たり)だ。)たち5人がいた、ということなのだ。
さてそれでは、『多(た)治(じ)比(ひ)氏(し)の系譜』で見てみれば、この津(つ)守(もりの)連(むらじ)白(はく)鳥(ちょう)である多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)(実際は、大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)・大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・韓(から)国(くにの)連(むらじ)久(く)々(く)比(ひ)命(のみこと)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)邑(お)治(じ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)小(こ)邑(お)治(じ)だ。)の子としては、第2子の娘むこの多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)池(いけ)守(もり)(中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)三(み)宅(やけ)麻(ま)呂(ろ)だ。)がいたのだが、また、第3子の娘むこは、多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)縣(あがた)守(もり)(中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)だ。)がいたのだ。そしてまた、第4子の実子で長男の多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)(津(つ)守(もりの)連(むらじ)池(いけ)吉(よし)だ。)や、第5子の実子で次男の多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)足(たり)(津(つ)守(もりの)連(むらじ)池(いけ)雄(お)だ。)たち5人がいた、ということなのだ。
さてそれでは、『ほかの豪族の系譜』で見てみれば、この大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)(大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)だ。)とは、「中(なか)臣(とみ)氏(し)の系譜」で言えば、、大中(おおなか)臣(とみの)許海連(こめのむらじ)なのだ。また「大(おお)三(み)輪(わの)氏(し)の系譜」で言えば、大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)大(う)人(し)なのだ。また「紀(き)朝(のあそ)臣(み)氏(し)の系譜」で言えば、紀(きの)大人臣(うしのおみ)なのだ。また「海(あま)部(べの)直(あたい)氏(し)の系譜」で言えば、海(あま)部(べの)直(あたい)伍(い)佰(お)道(みち)なのだ。また「巨(こ)勢(せ)氏(し)の系譜」で言えば、巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)邑(お)治(じ)や、巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)小(こ)邑(お)治(じ)なのだ。
さてそれでは、『大伴(おおとも)氏(し)の系譜』で見てみれば、この大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)(大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)だ。)の子としては、次女(多(た)治(じ)比(ひの)郎(いら)女(つめ)だ。第2子だ。)のむことしては、大納言大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)(実際は、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)だ。)がいたのだ。また、3女(第3子だ。)のむことしては、大(おお)伴(ともの)田(た)主(ぬし)(実際は、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)・大(おお)伴(ともの)道(みち)足(たり)だ。)がいたのだ。また、4女(第4子だ。)としては、坂(さかの)上(うえの)郎(いら)女(つめ)(実際は、穂積(ほずみ)親(しん)王室(のうしつ)・のちに大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麿(まろ)の後(ご)妻(さい)だ。)がいた、ということなのだ。
そしてまた、後(ご)妻(さい)の巨(こ)勢(せの)郎女(いらつめ)(阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)の娘だ。)の実子としては、長男(第5子だ。)の大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)(多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)堺(さかい)麻(ま)呂(ろ)だ。)がいたのだ。しかしながら、実際は、このほかに、長女(第1子だ。また、中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)の次女の家(いえ)原(はらの)音(おと)名(な)との子だ。)のむこである津(つ)守(もりの)連(むらじ)生(いく)羽(は)(石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)だ。)や、実子で次男(第6子だ。)の大(おお)伴(ともの)稲(いなの)公(きみ)(実際は、多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)足(たり)・百済(くだら)王(こに)氏(きし)孝(こう)忠(ちゅう)・佐(さ)味(みの)朝(あそ)臣(み)虫(むし)麻(ま)呂(ろ)だ。また、阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)の娘との子だ。)たち2人がいた、ということなのだ。
さてそれでは、百(く)済(だら)王(こにき)氏(し)良(りょう)虞(ぐ)(実際は、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)小(お)建(たての)黒(くろ)彦(ひこ)だ。また、阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)の娘との子だ。)の第1子としては、百(く)済(だら)王(こにき)氏(し)孝(こう)忠(ちゅう)がいたのだが、その実像は、長女のむこの多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)足(たり)(実際は、紀(きの)朝(あそ)臣(み)宇(う)美(み)・大(おお)伴(ともの)稲(いなの)公(きみ)だ。)なのだ。また、第2子としては、実子で長男の百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)全福(ぜんふく)(実際は、紀(きの)朝(あそ)臣(み)宿(すく)奈(な)麿(まろ)・石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)勝(かつ)男(お)・大(だい)僧(そう)正(じょう)の僧行(ぎょう)基(き)上(しょう)人(にん)だ。)なのだ。また、第3子は、実子で次男の百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)の紀(きの)朝(あそ)臣男人(みおひと)(実際は、荒(あら)嶋(しまの)宿(すく)禰(ね)磯(いそ)継(つぐ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)忍(おし)人(ひと)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)吉(き)備(び)麻(ま)呂(ろ)・石(いその)上(かみの)乙(おと)麻(ま)呂(ろ)・石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)・忌(いん)部(べの)宿(すく)禰(ね)麻(ま)呂(ろ)・忌(いん)部(べの)首(おびと)黒(くろ)麿(まろ)・林(はやしの)直(あたい)解任(かいとう)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)調(つき)足(たり)・贈正1位の和(やまとの)乙(おと)継(つぐ)・初代の国(こく)学(がくの)頭(かしら)の文(あや)部(べの)息(おく)道(みち)だ。)なのだ。また、このほかに、後(ご)妻(さい)の(多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)の娘との子だ。)としては、第4子としては、紀(きの)朝(あそ)臣(み)刀(とう)子(この)娘(いらつめ)(42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)の妃だ。)や、第5子としては、3女のむこの百(く)済(だら)王(こにき)氏(し)永(えい)継(けい)である中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)卿(きょう)(実際は、紀(きの)直(あたい)建(たけ)嶋(しま)・大三輪(おおみわの)臣(おみ)美(み)岐(き)麿(まろ)・大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)猿(さ)取(ぬし)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)宅(やか)麿(まろ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)永(えい)継(けい)だ。)たちがいた、ということなのだ。つまりこれらの人物こそが、百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)良(りょう)虞(ぐ)(実際は、紀(きの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)・三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麻(ま)呂(ろ)だ。)である左大臣石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)の子や、娘むこたちなのだ。
さてこのうちで、百(く)済(だら)王(こにき)氏(し)敬(きょう)福(ふく)の次男の石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)(実際は、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)乙(おと)麻(ま)呂(ろ)・贈正1位の和(やまとの)乙(おと)継(つぐ)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)調(つき)足(たり)だ。)なのだが、その子としては、長女の大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)杜女(もりめ)や、そのむこの百(く)済(だら)王(こにき)氏(し)理(り)伯(はく)(実際は、阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)躬(み)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)石(いわ)根(ね)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)成(なり)・楊(や)侯(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)秋(あき)主(ぬし)・紀(きの)臣(おみ)国(くに)栖(ます)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)田(た)麻(ま)呂(ろ)・2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)だ。)や、長男の百(く)済(だら)王(こにき)氏(し)武(ぶ)鏡(きょう)や、次女のむこの百(く)済(だら)王(こにき)氏(し)利(り)善(ぜん)(実際は、大(おお)伴(ともの)弟(おと)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)弟(おと)麻(ま)呂(ろ)だ。)や、3女のむこの百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)玄(げん)鏡(きょう)(実際は、弓(ゆ)削(げの)道(どう)鏡(きょう)・文(ふん)屋(やの)真(ま)人(ひと)大(おお)市(いち)・邑(おう)珍(ちんの)王(みこ)・榎(えの)井(いの)王(みこ)だ。)や、4女の百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)難波(なにわ)姫(ひめ)(実際は、49代光(こう)仁(にん)天(てん)皇(のう)の後(ご)妃(ひ)の高野(たかの)新笠(にいかさ)だ。)たちがいた、ということなのだ。
さてそれでは、百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)難波(なにわ)姫(ひめ)の高野(たかのの)新笠(にいかさ)の実母だが、贈正1位の大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)妹(いも)というが、これは、その夫で贈正1位の和(やまとの)乙(おと)継(つぐ)の実像である石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)(林(はやしの)直(あたい)解任(かいとう)だ。)こそが、中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)(紀(きの)直(あたい)古(こ)麻呂(まろ)・下(しも)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)古(こ)麻(ま)呂(ろ)だ。)と、その後(ご)妻(さい)で中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)の娘の斗(と)売(ねの)娘(いらつめ)との2人の間に、そのもうけた長女の贈正1位の大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)妹(いも)を娶った、ということなのだ。そしてまた、次女としては、紀(きの)直(あたい)千(ち)嶋(しま)(実際は、阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)島(しま)足(たり)・吉(き)備(びの)真(ま)備(きび)・大(おお)伴(ともの)古(こ)慈悲(しび)・大(おお)伴(ともの)書(ふみ)持(もち)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)通(みち)守(もり)・丹(たん)波(ばの)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)だ。)の後妻(ごさい)ともなったのだ。また、3女としては、紀(きの)直(あたい)広(ひろ)嶋(しま)(阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)広(ひろ)目(め)・阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)・阿(あ)倍(べの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)・・大(おお)伴(ともの)高多(たかた)麻呂(まろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)瀬(せ)・大(おお)伴(ともの)駿(する)河(が)麻(ま)呂(ろ)だ。)の正(せい)妻(さい)ともなった、ということなのだ。
そしてまた、中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)である紀(きの)直(あたい)古(こ)麻呂(まろ)(実際は、下毛野君古麻呂(しもけののきみこまろ)・大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)池(いけ)守(もり)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)安(やす)麿(まろ)・多(おおの)臣(おみ)安(やす)万(ま)侶(ろ)だ。)の後(ご)妻(さい)としては、多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)(鴨(かもの)縣(あがた)主(ぬし)伊(い)呂(ろ)具(ぐ)だ。)の娘の次女の多(た)治(じ)比(ひの)郎(いら)女(つめ)(阿(あ)岐(き)良(ら)姫(ひめ)だ。)を娶っていて、この2人の間に、そのもうけた長男としては、④紀(きの)直(あたい)建(たけ)嶋(しま)(実際は、中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)・坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)大(おお)国(くに)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)馬(うま)養(かい)・中納言大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・大(おお)三輪臣(みわのおみ)美(み)岐(き)麿(まろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)奥(おく)守(もり)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)興(おこ)志(し)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)東(あずま)人(びと)だ。)や、その妹の留(る)女(め)之(の)郎(いら)女(つめ)(藤(ふじ)原(わらの)継(つぐ)縄(なお)の1人目の室(しつ)だ。)たち1男1女がいた、ということなのだ。
さてそれでは、この④紀(きの)直(あたい)建(たけ)嶋(しま)である中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(実際は、百(く)済(だら)王(こにき)氏(し)永(えい)継(けい)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)奥(おく)守(もり)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)興(おこ)志(し)だ。)としては、36歌仙の1人、中納言大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)なのだ。また、その弟の大(おお)伴(ともの)書(ふみ)持(もち)なのだが、実際は、その義弟の阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)島(しま)足(たり)(実際は、吉(き)備(びの)真(ま)備(きび)・大(おお)伴(ともの)古(こ)慈悲(しび)・丹(たん)波(ばの)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)直(あたい)千(ち)嶋(しま)だ。)なのだ。つまり大(おお)伴(ともの)書(ふみ)持(もち)の死を悼み、一篇の挽歌(長逝れる弟を悲傷む歌一首、また短歌。)を謳ったという大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)なのだが、29歳で越(えっ)中(ちゅう)国(こく)の国(こく)司(し)として、赴任の時の歌、とも言われるのだ。しかしながら、『万(まん)葉(よう)集(しゅう)』の最後の歌は、天平宝字3年(759年)正月の歌(巻20・4567番だ。)から見ても、この長逝れる弟を悲傷む歌一首(3957番)や、短歌(3958番・3959番だ。)の番号では、最後の頃に近い歌とも思われるのだ。
そこで、『続(しょく)日(に)本(ほん)紀(ぎ)』の霊亀2年(716年)の8月の条を見れば、『この日、従4位下の多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)縣(あがた)守(もり)を遣唐押(けんとうおう)使(し)に任じ、従5位上の阿(あ)倍(べの)朝(あそ)臣(み)安(やす)麻(ま)呂(ろ)を大使(たいし)に任じ、正6位下の藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)宇(うま)合(かい)を副使(ふくし)に任じた。大判官(だいはんがん)は1人、少(しょう)判(はん)官(がん)は2人、大(だい)録(さ)事(かん)は2人、少録事(しょうさかん)は2人の編成である。』とも伝えているが、この阿(あ)倍(べの)安(やす)麻呂(まろ)の実像は、阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)なのだ。また、この阿(あ)倍(べの)安(やす)麻呂(まろ)は、遣唐使(けんとうし)の大(たい)使(し)としては、『中国へ行けなくなった。』とも伝えるのだが、しかしながら、実際は若すぎたために『短期間の留学生として渡唐(ととう)した。』のが真相なのだ。また、『従5位下の大(おお)伴(ともの)宿(すく)禰(ね)山(やま)守(もり)に代えて遣(けん)唐(とう)大使(たいし)に任じた。』とも伝えるが、この大(おお)伴(ともの)宿(すく)禰(ね)山(やま)守(もり)の実像としては、このときの遣唐押(けんとうおう)使(し)であった多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)縣(あがた)守(もり)(大納言阿(あ)倍(べの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)・中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)・阿(あ)倍(べの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)庭(にわ)だ。)の長女の松(ま)都(つ)比(ひ)女(め)を娶った中納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)なのだ。そしてまた、次の天平5年(733年)のとき、遣(けん)唐(とう)大使(たいし)ともなった人物なのだ。また、このとき、副使(ふくし)に任じたという藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)宇(うま)合(かい)の次男の藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)良(よし)継(つぐ)の室(しつ)という阿(あ)倍(べの)古美奈(こみな)(阿倍(あべの)粳(ぬか)蟲(むし)の娘だ。)こそが、この大(おお)伴(ともの)書(ふみ)持(もち)である阿倍(あべの)引田(ひけたの)嶋(しま)足(たり)の娘(吉(き)備(びの)真(ま)備(きび)の娘だ。)なのだ。つまり阿倍(あべの)粳(ぬか)蟲(むし)の実像としては、阿倍(あべの)引田(ひけたの)嶋(しま)足(たり)(阿(あ)倍(べの)虫(むし)麻(ま)呂(ろ)・佐(さ)味(みの)朝(あそ)臣(み)虫(むし)麻(ま)呂(ろ)だ。)の吉(き)備(びの)真(ま)備(きび)なのだ。また、その娘の阿(あ)倍(べの)古美奈(こみな)と、藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)良(よし)継(つぐ)との2人の間に、そのもうけた娘こそが、50代桓(かん)武(む)天(てん)皇(のう)室(しつ)である藤(ふじ)原(わらの)乙(おと)牟(む)漏(ろ)なのだ。つまり『嵯峨(さが)源氏(げんじ)の始祖』の52代嵯(さ)峨(が)天(てん)皇(のう)の実母である、ということなのだ。
さてそれでは、この大(おお)伴(ともの)書(ふみ)持(もち)の弟である大(おお)伴(ともの)高(たか)多(た)麻(ま)呂(ろ)とは、阿(あ)倍(べの)安(やす)麻呂(まろ)(実際は阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)・初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)だ。)なのだが、『但(たじ)馬(ま)故(こ)事(じ)記(き)』を見れば、霊亀元年(715年)~天平感宝元年(749年)まで、但馬(たじまの)国守(こくしゅ)とも伝えるのだ。しかしながら、『続日本(しょくにほん)紀(ぎ)』の天平13年(741年)8月の条を見れば、『外従5位下の楊(や)侯(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)を但(たじ)馬(まの)守(かみ)に任じた。』とも伝えるから、この天平13年(741年)8月以後、但馬(たじの)国司(こくし)ともなった人物としては、陽(や)候(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)(阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)だ。)ということなのだ。つまりその実父である楊(や)侯(この)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)(実際は阿(あ)倍(べの)安(やす)麻呂(まろ)・阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)・初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)瀬(せ)・大(おお)伴(ともの)駿(する)河(が)麻(ま)呂(ろ)だ。)としては、『続日本(しょくにほん)紀(ぎ)』の養老4年(720年)3月の条を見れば、『隼人が反乱を起こし、大(おお)隅(すみ)国(こく)守(しゅ)の楊(や)侯(この)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)を殺害しました。』とも伝えるのだが、このとき、実際は、死んではいないのだ。つまり多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)の義弟であることや、また『阿(あ)倍(べ)氏(し)の跡取り息子』であることからして、阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)(実際は、阿倍(あべの)引田(ひけたの)広目(ひろめ)・阿倍(あべの)伊豆(いず)丸(まる)・大(おお)伴(ともの)駿(する)河(が)麿(まろ)・初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)だ。)とは、霊亀2年(716年)のとき、実父の遣(けん)唐(とう)押(おう)使(し)(最高司令官)の多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)縣(あがた)守(もり)(中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)だ。)の短期間の遣(けん)唐(とう)留学生(りゅうがくせい)として、実際はその実兄で遣(けん)唐(とう)留学生(りゅうがくせい)の吉備真備(きびのまきび)(阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)島(しま)足(たり)・紀(きの)直(あたい)千(ち)嶋(しま)・大(おお)伴(ともの)古(こ)慈悲(しび)・大(おお)伴(ともの)書(ふみ)持(もち)・丹(たん)波(ばの)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)直(あたい)千(ち)嶋(しま)だ。)と共に、その年20歳で『中国へ渡った。』とも推測されるのだ。しかしながら、その実父の遣唐押(けんとうおう)使(し)の多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)縣(あがた)守(もり)(大納言阿(あ)倍(べの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)・中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)だ。)と共に、『阿(あ)倍(べ)氏(し)の跡取り息子』のために我が国に帰国したのだ。そしてまた、その後は、長女の和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)虫(むし)(730年生れだ。)や、更に、『阿(あ)倍(べ)氏(し)の跡取り息子』の長男の阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)(実際は、和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)・2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・732年生れだ。)たち2人の実子の出生後に、つまり天平5年(733年だ。)の遣(けん)唐(とう)使(し)の派遣のとき、このときに、遣(けん)唐(とう)大使(たいし)で義兄の多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)と共に、実際は、その実兄である遣(けん)唐(とう)留(りゅう)学(がく)生(せい)の吉(き)備(びの)真(ま)備(きび)(阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)島(しま)足(たり)だ。)の帰国とも交代するために、このとき、ふただび、遣(けん)唐(とう)留(りゅう)学(がく)生(せい)として、つまり初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)(実際は、阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)・阿倍(あべの)引田(ひけたの)広目(ひろめ)・阿倍(あべの)伊豆(いず)丸(まる)・大(おお)伴(ともの)駿(する)河(が)麻(ま)呂(ろ)・但馬(たじま)国司(こくし)の阿(あ)倍(べの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)瀬(せ)だ。)として、中国へ渡ったのではないか、とも推測されるのだ。そしてまた、このとき、遣(けん)唐(とう)副(ふく)使(し)となった人物は、中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)名(な)代(しろ)(実際は、上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)石(いわ)代(しろ)だ。)なのだが、その実像は、当時失脚のために、『1階級の格下げ』ともなった叔父で舅(しゅうと)の中納言中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)である、ということなのだ。さてそれでは、このとき、唐(とう)に残った阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)(実際は、阿倍(あべの)引田(ひけたの)広目(ひろめ)・阿倍(あべの)伊豆(いず)丸(まる)・大(おお)伴(ともの)駿(する)河(が)麻(ま)呂(ろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)瀬(せ)だ。)の実子としては、阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)がいたのだが、この人物の実像としては、和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻呂(まろ)や、2代目大伴(おおともの)古(こ)麻呂(まろ)や、上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)なのだ。つまり最後は、大(だい)学(がくの)頭(かしら)の菅(すが)野(のの)真(ま)道(みち)として没したのだが、実際の出生の年としては、天平4年(732年)なのだ。なぜならば、和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻呂(まろ)や、2代目大伴(おおともの)古(こ)麻呂(まろ)や、上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)である大納言紀(きの)朝(あそ)臣(み)船(ふな)守(もり)とは、『日(に)本(ほん)後(こう)紀(き)』を見れば、『延暦11年(792年)4月2日に、61歳で没した。』という。また、『日(に)本(ほん)後(こう)紀(き)』では、和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻呂(まろ)は「延暦18年(799年)2月21日に、67歳で没した。』とも伝えているのだ。しかしながら、この阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)(実際は、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)嗣(つぐ)・紀(きの)直(あたい)国(くに)栖(ます)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)成(なり)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)益(ます)麿(まろ)・百(く)済(だら)王(こにき)氏(し)理(り)伯(はく)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)躬(み)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)石(いわ)根(ね)・楊(や)侯(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)秋(あき)主(ぬし)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)田(た)麻(ま)呂(ろ)・2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)だ。)の最後の実像としては、初代国学(こくがく)の頭(かしら)の博士(はかせ)、文(あや)部(べの)良(よし)道(みち)(文(あや)部(べの)息(おく)道(みち)の子だ。)なのだ。つまり初代国学(こくがく)の頭(かしら)博士(はかせ)、文(あや)部(べの)息(おく)道(みち)である百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)(実際は、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)・紀(きの)朝(あそ)臣男人(みおひと)・荒(あら)嶋(しまの)宿(すく)禰(ね)磯(いそ)継(つぐ)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)吉(き)備(び)麻(ま)呂(ろ)・石(いその)上(かみの)乙(おと)麻(ま)呂(ろ)・忌(いん)部(べの)宿(すく)禰(ね)麻(ま)呂(ろ)・忌(いん)部(べの)首(おびと)黒(くろ)麿(まろ)・林(はやしの)直(あたい)解任(かいとう)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)調(つき)足(たり)・贈正1位の和(やまとの)乙(おと)継(つぐ)だ。)の娘むこである、ということなのだ。
さてそれでは、『但(たじ)馬(ま)故(こ)事(じ)記(き)』を見れば、『神護景雲元年(767年)春正月 文(あや)部(べの)息(おく)道(みち)の子(娘むこだ。)良(よし)道(みち)を以て、国学(こくがく)博士(はかせ)と為す。』というのだ。また、『弘仁5年(814年)夏3月21日 国(こく)学(がく)の頭(かしら)、博士(はかせ)文(あや)部(べの)良(よし)道(みち)卒す。年78(歳)、杉の森に葬り、文(あや)部(べ)神(じん)社(じゃ)に合せ祀る。』とも伝えているのだ。また、同じ、弘仁5年(814年)に、大(だい)学(がくの)頭(かしら)の文(あや)部(べの)良(よし)道(みち)の菅(すが)野(のの)真(ま)道(みち)が、『74歳で没した。』とも伝えているのだ。しかしながら、この人物の実像としては、2代目国(こく)学(がく)の頭(かしら)の博士(はかせ)、文(あや)部(べの)良(よし)道(みち)なのだ。そしてまた、その実際の出生の年は、天平4年(732年だ。)の出生とも推測されるから、つまり実際は、弘仁5年(814年)に、その最後としては、国(こく)学(がく)の博士(はかせ)、大(だい)学(がくの)頭(かしら)の菅(すが)野(のの)真(ま)道(みち)(文(あや)部(べの)良(よし)道(みち)だ。)として、82歳で没した、ということなのだ。なぜならば、『延暦11年(792年)4月2日に、61歳(731年生まれだ。)で没した。』という、大納言紀(きの)朝(あそ)臣(み)船(ふな)守(もり)や、また『延暦18年(799年)2月21日に、67歳(732年生まれだ。)で没した。』という和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻呂(まろ)(実際は、阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)嗣(つぐ)・紀(きの)直(あたい)国(くに)栖(ます)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)成(なり)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)益(ます)麿(まろ)・百(く)済(だら)王(こにき)氏(し)理(り)伯(はく)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)躬(み)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)石(いわ)根(ね)・楊(や)侯(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)秋(あき)主(ぬし)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)田(た)麻(ま)呂(ろ)・2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)だ。)こそが、その実像であるからなのだ。つまり『731年生まれか、732年生まれで、弘仁5年の814年に没した。』ということなのだ。
さてそれでは、その実父の阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)(実際は、阿倍(あべの)引田(ひけたの)広目(ひろめ)・阿倍(あべの)伊豆(いず)丸(まる)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)瀬(せ)・大(おお)伴(ともの)駿(する)河(が)麻(ま)呂(ろ)だ。)なのだが、『続(しょく)日(に)本(ほん)紀(ぎ)』で見れば、霊亀2年(716年)の多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)縣(あがた)守(もり)(実際は中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)だ。)の遣唐押(けんとうおう)使(し)のとき、20歳で実際は大使ではなく『短期遣唐留学生として渡(と)唐(とう)した。』ということなのだ。しかしながら、その実父の遣唐押(けんとうおう)使(し)の多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)縣(あがた)守(もり)(実際は、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)難(なに)波(わ)麻(ま)呂(ろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)人(ひと)・上(かみ)毛(け)野(のの)君(きみ)三(み)千(ちち)だ。)と共に、我が国に帰国していたのだ。その後の天平5年(733年)の遣(けん)唐(とう)大(たい)使(し)の多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)のときに、初代大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)として『ふたたび遣(けん)唐(とう)留(りゅう)学(がく)生(せい)として渡(と)唐(とう)をした。』とも推測されるのだ。また、その実兄である遣(けん)唐(とう)留(りゅう)学(がく)生(せい)であった吉(き)備(びの)真(ま)備(きび)(実際は、阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)島(しま)足(たり)・紀(きの)直(あたい)千(ち)嶋(しま)・大(おお)伴(ともの)古(こ)慈悲(しび)・大(おお)伴(ともの)書(ふみ)持(もち)・丹(たん)波(ばの)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)だ。)の帰国とも入れ替わった、ということなのだ。そしてまた、その後は、19年後の天平勝宝4年(752年)の遣唐大(けんとうたい)使(し)、藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)川(かわ)のときに、遣唐副(けんとうふく)使(し)として、初代大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)(実際は、阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)・阿倍(あべの)引田(ひけたの)広目(ひろめ)・阿倍(あべの)伊豆(いず)丸(まる)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)瀬(せ)・但(たじ)馬(まの)国(くにの)司(つかさ)の阿(あ)倍(べの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)だ。)の実子である2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)(実際は、和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻呂(まろ)・阿倍(あべの)満月(まんげつ)丸(まる)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)だ。)が、『中国へ派遣された。』ということなのだ。
それでは、このときの遣唐副(けんとうふく)使(し)として追(つい)任(にん)された人物なのだが、九州に左遷されていた吉(き)備(びの)真(ま)備(きび)(実際は、阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)島(しま)足(たり)・紀(きの)直(あたい)千(ち)嶋(しま)・大(おお)伴(ともの)古(こ)慈悲(しび)・大(おお)伴(ともの)書(ふみ)持(もち)・丹(たん)波(ばの)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)だ。)なのだ。つまり右大臣吉(き)備(びの)真(ま)備(きび)(阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)島(しま)足(たり)・大(おお)伴(ともの)古(こ)慈(し)斐(び)だ。)とは、宝亀6年10月2日(775年)に、その年83歳で没した。』というからして、この天平勝宝4年(752年)のとき、追(つい)任(にん)の遣唐副(けんとうふく)使(し)としては、すでに、60歳で、ふたたび、中国に渡ったのだ。そしてまた、その理由としては、自分と入れ替わった実弟である阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)(実際は、阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)広(ひろ)目(め)・阿(あ)倍(べの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)・紀(きの)直(あたい)広(ひろ)嶋(しま)・大(おお)伴(ともの)高多(たかた)麻呂(まろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)瀬(せ)だ。)の帰国を促すためなのだ。そしてまた、その実弟の阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)(実際は、阿倍(あべの)引田(ひけたの)広目(ひろめ)・阿倍(あべの)伊豆(いず)丸(まる)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)瀬(せ)・大(おお)伴(ともの)駿(する)河(が)麻(ま)呂(ろ)だ。)とは、5歳年下だから、この天平勝宝4年(752年)の頃には、すでに、56歳であった、ということなのだ。さてそれでは、阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)(実際は、阿倍(あべの)引田(ひけたの)広目(ひろめ)・阿(あ)倍(べの)伊(い)豆(ず)丸(まる)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)瀬(せ)だ。)としては、その実子である和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)虫(むし)(姉だ。)や、その実弟である和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻呂(まろ)(実際は、阿倍(あべの)満月(まんげつ)丸(まる)・2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)だ。)たち2人をもうけた後、実際は、37歳で、天平5年(733年)に、ふたたび、渡(と)唐(とう)して、その後帰国に、失敗した後、770年に、その年73歳で『唐で没した。』ということなのだ。
さてそれでは、その証(しょう)拠(こ)なのだが、天平5年(733年)の遣(けん)唐(とう)使(し)(大使は、多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)だ。)の派遣のときに、遣(けん)唐(とう)留(りゅう)学(がく)生(せい)として渡唐(ととう)したと伝えている大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)(実際は、初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)だ。)こそが、その実像である、ということなのだ。なぜならば、その後の天平勝宝4年(752年)の遣(けん)唐(とう)使(し)(大(たい)使(し)は、藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)河(かわ)だ。)の派遣のときに、副使ともなった大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)(実際は、2代目阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)だ。)としては、天平5年(733年)の遣(けん)唐(とう)使(し)の派遣のとき、遣(けん)唐(とう)留(りゅう)学(がく)生(せい)として渡唐(ととう)したと伝える大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)とが同一人物であれば、大きな矛盾があるからなのだ。なぜならば、天平5年(733年)の遣(けん)唐(とう)大使(たいし)の多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)のときから、次の遣(けん)唐(とう)大(たい)使(し)の藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)河(かわ)の派遣ときの、天平勝宝4年(752年)までの19年間に、つまり天平6年(734年)以後に大和(やまと)朝廷(ちょうてい)で活躍した、という大(おお)伴(とも)古(こ)麻(ま)呂(ろ)の実像としては、2代目なのだ。つまり初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)(実際は、但馬(たじま)国司(こくし)の楊(や)侯(この)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)だ。)の実子で長男である阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)(実際は、但馬(たじま)国司(こくし)の楊(や)侯(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)だ。)である、ということなのだ。そしてまた、遣(けん)唐(とう)留(りゅう)学(がく)生(せい)として、天平5年(733年)の遣(けん)唐(とう)使(し)のときに渡唐(ととう)したと伝える大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)(実際は、楊(や)侯(この)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)・阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)・阿倍(あべの)引田(ひけたの)広目(ひろめ)・阿(あ)倍(べの)伊(い)豆(ず)丸(まる)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)瀬(せ)・大(おお)伴(ともの)駿(する)河(が)麻(ま)呂(ろ)だ。)としては、この19年間とは、当然ながら、中国の唐(とう)に滞在していたのだ。そしてまた、この19年間に、大和(やまと)朝廷(ちょうてい)で活躍していた大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)としては、天平勝宝4年(752年)の遣(けん)唐(とう)使(し)(大使は、藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)河(かわ)だ。)の派遣のとき、副(ふく)使(し)ともなった2代目の大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)なのだ。当然ながら、長男である阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)(実際は、但馬(たじま)国司(こくし)、楊(や)侯(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・大納言和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻呂(まろ)・大納言紀(きの)朝(あそ)臣(み)船(ふな)守(もり)だ。)である、ということなのだ。そしてまた、天平5年(733年)の遣(けん)唐(とう)使(し)(大使は、多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)だ。)の派遣のときに、遣(けん)唐(とう)留(りゅう)学(がく)生(せい)として渡唐(ととう)したという大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)(初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)だ。)としては、733年~752年までの19年間は、中国に滞在していた阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)(実際は、阿倍(あべの)引田(ひけたの)広目(ひろめ)・阿(あ)倍(べの)伊(い)豆(ず)丸(まる)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)瀬(せ)・但馬(たじま)国司(こくし)の楊(や)侯(この)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)だ。)なのだ。また、帰国に何度も失敗した後に、『唐で没した。』という770年までの37年間は『唐に滞在した。』ということなのだ。また、『その年73歳で唐で没した。』ということなのである。
さてそれでは、話は戻るのだが、中納言大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)(右大臣中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)卿(きょう)だ。)の弟(義兄弟だ。)である大(おお)伴(ともの)書(ふみ)持(もち)の実像としては、右大臣吉(き)備(びの)真(ま)備(きび)(実際は、阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)島(しま)足(たり)・大(おお)伴(ともの)古(こ)慈(し)斐(び)だ。)なのだ。そしてまた、この中納言大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)(右大臣大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)卿(きょう)だ。)が悲傷む歌一首、また短歌を謳った、というが、このときは、29歳で越中(えっちゅう)国(こく)の国(こく)守(しゅ)として赴任したときの歌ではないか、と言われているが、しかしながら、『万(まん)葉(よう)集(しゅう)』の最後の歌は、天平宝字3年(759年)の正月の歌で、『巻20』の4567番で終わっているのだ。そこで、『長逝れる弟を悲傷む歌一首』とは、3957番で、また、『短歌』は、3958番・3959番の番号なのだ。つまり最後の頃の歌とも推測されるからしても、そこで、『続(しょく)日(に)本(ほん)紀(ぎ)』でいう天平勝宝4年(752年)のときに、遣唐大(けんとうたい)使(し)、藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)川(かわ)のときの遣(けん)唐(とう)副(ふく)使(し)として、この大(おお)伴(ともの)書(ふみ)持(もち)の実像である吉(き)備(びの)真(ま)備(きび)(阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)島(しま)足(たり)・大(おお)伴(ともの)古(こ)慈(し)斐(び)だ。)や、同じ、遣(けん)唐(とう)副(ふく)使(し)で、2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)(実際は、和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻呂(まろ)・阿倍(あべの)満月(まんげつ)丸(まる)だ。)たち2人の人物たちが、中国に派遣されたときの歌ではないか、いうことなのだ。なぜならば、このとき、すでに、60歳になって九州に左遷されていた、という吉(き)備(びの)真(ま)備(きび)(実際は、大(おお)伴(ともの)書(ふみ)持(もち)だ。)としては、『遣唐副(けんとうふく)使(し)として追任(ついにん)された。』というのだが、その実弟である阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)(実際は、阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)広(ひろ)目(め)・阿倍(あべの)伊豆(いず)丸(まる)・阿(あ)倍(べの)朝(あそ)臣(み)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)瀬(せ)・大(おお)伴(ともの)駿(する)河(が)麻(ま)呂(ろ)だ。)は、唐において、その実子の長男の阿倍(あべの)満月(まんげつ)丸(まる)(実際は、2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻呂(まろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)だ。)や、その実兄の吉(き)備(びの)真(ま)備(きび)(実際は、阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)島(しま)足(たり)・大(おお)伴(ともの)古(こ)慈(し)斐(び)だ。)たち2人の人物とも、劇的な再会を遂げたのだ。
さてそれでは、このときについては、『吉備の古代史』の著者門脇禎二氏によれば、『19年ぶりに、故国からの一行を迎えた。阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)は、このとき秘書監(ひしょかん)(秘書省所属)になっていた。』という。すでに、60歳になっていて九州に左遷されていた吉(き)備(びの)真(ま)備(きび)の年齢からしても、この渡(と)唐(とう)のときに、その義兄である中納言大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)(実際は、右大臣大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)卿(きょう)だ。)から見れば、もしかしたら『最後の別れ、となるかもしれない。』とも思う気持ちから、実際は詠まれた歌ではないか、ということなのだ。さてそれでは、715年~749年までは、阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)の実像である阿(あ)倍(べの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)(実際は、阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)広(ひろ)目(め)・阿(あ)倍(べの)伊(い)豆(ず)丸(まる)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)瀬(せ)・大(おお)伴(ともの)駿(する)河(が)麻(ま)呂(ろ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)だ。)としては、但馬(たじま)国(こく)の国(こく)守(しゅ)だが、実際は、天平4年(734年)の頃から、渡(と)唐(とう)していて我が国にはいないからして、その長男である阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)(実際は、和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)・2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)だ。)の舅(しゅうと)の1人、百済(くだら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)(実際は、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)・石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)乙(おと)麻(ま)呂(ろ)・贈正1位の和(やまとの)乙(おと)継(つぐ)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)調(つき)足(たり)・荒(あら)嶋(しまの)宿(すく)禰(ね)磯(いそ)継(つぐ)・荒(あら)嶋(しまの)宿(すく)禰(ね)乙(おと)主(ぬし)・初代国学(こくがく)の頭(かしら)、博士(はかせ)の文(あや)部(べの)息(おく)道(みち)だ。)こそが、実際としては、但馬(たじま)国(こく)の大領(たいりょう)(国守(こくしゅ)だ。)として、つまり『但(た)馬(じま)故(こ)事(じ)記(き)』を見れば、当時の大(たい)領(りょう)(国守(こくしゅ))である矢田部連(やたべのむらじ)守柄(かみがら)として、その後見人ともなっていた、ということなのだ。
そしてまた、大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)という名称としては、親子2代の世襲名称であった、ということなのだ。また、その証(しょう)拠(こ)としては、紀(きの)臣(おみ)古(こ)麻呂(まろ)(中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)だ。)もいたのだが、溝口睦子さんの著書の『古代氏族の系譜』を見てみれば、万葉集の巻4567番の左注に、『以前に天平2年(730年)庚午夏6月、師(し)大伴(おおとも)卿(きょう)(実際は、大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)だ。)、忽に瘡を脚に生(な)して、枕席に疾み苦しみき。これによりて駅(はゆま)を馳せて上奏し、望(ねが)はくは、庶弟稲(いな)公(きみ)姪胡(こ)麿(まろ)(実際は、初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)だ。)に、遺言を語らむといへれば、右兵庫助大(おお)伴(ともの)宿(すく)禰(ね)稲(いな)公(きみ)(実際は、多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)足(たり)だ。)、治部少丞大(おお)伴(ともの)宿(すく)禰(ね)胡(こ)麿(まろ)(実際は、初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)だ。)の両人に勅して、駅を給いて発遺し、卿の病を省(み)しむ。』とも記されるからなのだ。つまり高(たけ)市(ちの)大(たい)卿(きょう)とは、大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)なのだ。また、その弟という佐保(さほ)大納言(だいなごん)卿(きょう)とは、大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)なのだ。また、この2人の人物の実像としては、左大臣多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)なのだ。そしてまた、その弟稲(いな)公(きみ)姪(めい)という治部少丞大(おお)伴(ともの)宿(すく)禰(ね)胡(こ)麿(まろ)(実際は、初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)だ。)だが、『大(おお)伴(とも)氏(し)の系譜』で見てみれば、この大納言大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)や、その兄の大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)たちの子という①大納言大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)とは、その娘むこの中納言中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)(大納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)池(いけ)守(もり)・中納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)三(み)宅(やけ)麻(ま)呂(ろ)・中納言大(おお)伴宿禰(とものすくね)牛(うま)養(かい)だ。)こそがその実像なのだ。また、その弟の②大(おお)伴(ともの)田(た)主(ぬし)とは、やっぱり娘むこで実弟の中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)(大納言阿(あ)倍(べの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)・大納言巨(こ)勢(せの)奈(な)弖(て)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)伴(ともの)道(みち)足(たり)だ。)こそが、その実像なのだ。また、その弟の③大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)とは、実子で長男の中納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)(巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)堺(さかい)麻(ま)呂(ろ)だ。)なのだ。また、その弟の④大(おお)伴(ともの)稲(いな)公(きみ)とは、実子で次男の中納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)足(たり)なのだ。つまりこの弟稲(いな)公(きみの)姪(めい)(実際は甥(おい)だ。)という治部少丞大(おお)伴(ともの)宿(すく)禰(ね)胡(こ)麿(まろ)(実際は、初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)だ。)の実像こそが、但馬(たじま)国(こく)の国(こく)守(しゅ)という阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)である阿(あ)倍(べの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)(実際は、阿倍(あべの)引田(ひけたの)広目(ひろめ)・阿(あ)倍(べの)伊(い)豆(ず)丸(まる)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)瀬(せ)・大(おお)伴(ともの)駿(する)河(が)麻(ま)呂(ろ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)だ。)である、ということなのだ。
そしてまた、⑤坂(さかの)上(うえの)郎(いら)女(つめ)(穂(ほ)積(ずみの)皇(み)子(こ)室(しつ)・のちに大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)の後(ご)妻(さい)だ。)としては、この③大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)である中納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)や、④大(おお)伴(ともの)稲(いな)公(きみ)である中納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)足(たり)たち2人の人物の異母姉なのだ。そしてまた、最初は、穂(ほ)積(ずみの)皇(み)子(こ)(藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)だ。)の妃(きさき)ともなった娘なのだが、その後は、その異母弟である大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)(実際は、多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)堺(さかい)麻(ま)呂(ろ)だ。)の後(ご)妻(さい)ともなったとも伝えているのだ。そこで、この大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)(実際は、多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)だ。)との2人の間に、そのもうけた1人娘こそが、多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)小(こ)姉(あね)(実際は、大(おお)伴(ともの)坂(さかの)上(うえの)大(おお)嬢(いらつめ)だ。)なのだ。つまり中納言大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)(右大臣中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)卿(きょう)・阿(あ)刀(との)造(みやつこ)大(おお)足(たり)・佐(さえ)伯(きの)宿(すく)禰(ね)常(つね)人(ひと)・坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)大(おお)国(くに)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)真(ま)常(つね)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)永(えい)継(けい)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)苗(なえ)麻(ま)呂(ろ)だ。)の後(ご)妻(さい)ともなった姫(ひめ)なのだ。そしてまた、そのもうけた幻(まぼろし)の1人娘(実際は、仮称若(わか)小(こ)玉(だま)女(め)だ。)のむここそが、実際は、正4位下の大(おお)中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)魚(うお)の実像である佐(さえ)伯(きの)直(あたい)田(たの)公(きみ)(実際は、大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)・菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)・土(は)師(じしの)宿(すく)禰(ね)古(ひる)人(ひと)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)頴(ひで)人(ひと)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)俊(しゅん)哲(てつ)・大(おお)伴(ともの)魚(うお)彦(ひこ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)野(の)足(たり)だ。)なのだ。そしてまた、この2人の間に、そのもうけた子(娘むこ含む。)としては、6人の子、①女子(夫は、菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)道(みち)長(なが)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)聰(そう)哲(てつ)・坂(さかの)上(うえの)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)種(しゅ)々(しゅ)麿(まろ)だ。)や、②女子(夫は、菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)教(きょう)俊(しゅん)・大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)雄(お)黒(くろ)麿(まろ)だ。)や、③菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)岡(おか)(実子で長男の弘法大師(こうぼうだいし)の僧空海(くうかい)だ。)や、④菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)枝(えだ)(実子だ。)や、⑤菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)公(きみ)(実子だ。)や、⑥菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)人(ひと)(実子だ。)たちのうちで、③菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)岡(おか)(実際は長男だ。)としては、弘(こう)法(ぼう)大(だい)師(し)の僧空(くう)海(かい)である、ということなのだ。
そしてまた、②菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)(実際は、娘むこだ。)としては、伴(ともの)朝(あそ)臣(み)国(くに)道(みち)(娘むこの大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)雄(お)黒(くろ)麿(まろ)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)高(たか)継(つぐ)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)雄(お)継(つぐ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)教(きょう)俊(しゅん)だ。)なのだ。そしてまた、その実子(実際は長男だ。)としては、伴(ともの)大納言善(よし)男(お)(百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)豊(ほう)俊(しゅん)だ。)なのだ。また、⑤菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)公(きみ)の孫としては、『北(きた)野(の)天(てん)神(じん)』の右大臣菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)道(みち)真(ざね)なのだ。つまり長男(実際は娘むこだ。)である菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)道(みち)長(なが)(伴(ともの)朝(あそ)臣(み)山(やま)道(みち)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)種(しゅ)々(しゅ)麿(まろ)だ。)としては、長女のむこの坂(さかの)上(うえの)大(おお)忌(いみ)寸(き)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ)なのだ。そしてまた、次男の菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)貞(さだ)(伴(ともの)朝(あそ)臣(み)国(くに)道(みち)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)雄(お)黒(くろ)麿(まろ)だ。)の実像としては、次女のむこの大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)(百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)教(きょう)俊(しゅん)だ。)なのだ。そしてまた、その実子(長男だ。)としては、伴(ともの)大納言善男(よしお)(百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)豊(ぶん)俊(しゅん)だ。)である、ということなのだ。
さて、再度検証すれば、中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)(実際は、蘇(そ)我(がの)赤(あか)兄(えの)大(おお)臣(おみ)・山(やま)背(しろの)大兄(おおえの)皇子(みこ)・蜂(はち)子(のこの)皇(み)子(こ)だ。)の娘の音(おと)名(な)(車(くるま)持(もちの)君(きみ)国(くに)子(こ)の娘の与(よ)志(し)古娘(このいらつめ)・春(つき)米(しねの)女王(ひめみこ)の生んだ次女だ。)と、多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)である高(たけ)市(ちの)大(たい)卿(きょう)の大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)(実際は、佐保(さほ)大納言(だいなごん)卿(きょう)の大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)伊(い)呂(ろ)具(ぐ)・蘇(そ)我(がの)日(ひゅ)向(うがの)臣(おみ)だ。)との2人の間に、そのもうけた実子としては、①石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、小(お)建(たての)黒(くろ)彦(ひこ)命(のみこと)・百(く)済(だら)王(こにき)氏(し)良(りょう)虞(ぐ)だ。)の後(ご)妻(さい)である長女や、また、②中納言中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)(秦(はたの)忌(いみ)寸(き)板(いた)持(もち)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)都(つ)寸(す)理(り)・大納言大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)だ。)の後妻(ごさい)(先妻(せんさい)は、中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)の娘の斗(と)売(ねの)娘(いらつめ)だ。)である次女の多(た)治(じ)比(ひの)郎(いら)女(つめ)(阿(あ)岐(き)良(ら)姫(ひめ)だ。)や、また、③中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)(鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)五(い)百(お)依(より)だ。)の正(せい)妻(さい)の3女や、また、④4女としては、坂(さかの)上(うえの)郎(いら)女(つめ)(実際は、穂(ほ)積(ずみの)皇(み)子(こ)室(しつ)・のちの異母弟の大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)の後(ご)妻(さい)だ。)たちの4人の女子がいた、ということなのだ。
さてそれでは、阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)である鴨(かもの)縣(あがた)主(ぬし)久(く)治(じ)良(らの)臣(おみ)(実際は、紀(きの)大(おお)口(くちの)臣(おみ)・蘇(そ)我(がの)連(むらじ)子(この)大(おお)臣(おみ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)遠寶(えんぽう)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)利(とし)金(かね)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)紫(し)壇(だん)・巨(こ)勢(せの)黒(くろ)麻(ま)呂(ろ)だ。)としては、中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)(実際は、蘇(そ)我(がの)赤(あか)兄(えの)大(おお)臣(おみ)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)文(ふん)屋(や)だ。)である鴨(かもの)縣(あがた)主(ぬし)山(やま)基(き)主(ぬし)命(のみこと)(実際は、百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)昌(しょう)成(じょう)・余(よ)豊(ほう)璋(しょう)王(おう)だ。)の娘で、長女の浄(きよ)刀(と)自(じ)女(め)(春(つき)米(しねの)女王(ひめみこ)の生んだ長女だ。)との2人の間に、そのもうけた娘の3人のうちで、長女こそが、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、小(お)建(たての)黒(くろ)彦(ひこの)命(みこと)・百(く)済(だら)王(こにき)氏(し)良(りょう)虞(ぐ)だ。)の先(せん)妻(さい)ともなったのだ。そしてまた、この2人の間に、そのもうけた実子としては、長男の石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)勝(かつ)男(お)(大(だい)僧(そう)正(じょう)の行(ぎょう)基(き)上(しょう)人(にん)・百(く)済(だら)王(こにき)氏(し)全福(ぜんふく)だ。)や、次男の石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)(百(く)済(だら)王(こにき)氏(し)敬(きょう)福(ふく)だ。)たち2人の実兄弟や、長女で第3子の百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)孝(こう)忠(ちゅう)(実際は、多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)足(たり)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)宇(う)美(み)だ。)の妻たち2男1女がいた、ということなのだ。
そしてまた、阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)(実際は、鴨(かもの)縣(あがた)主(ぬし)久(く)治(じ)良(らの)臣(おみ)・田(た)辺(なべの)首(おびと)(史(ふひと))小(お)隅(すみ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)遠寶(えんぽう)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)利(とし)金(かね)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)紫(し)壇(だん)・巨(こ)勢(せの)黒(くろ)麻(ま)呂(ろ)だ。)の次女である巨(こ)勢(せの)郎(いら)女(つめ)とは、多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)(実際は、高(たけ)市(ちの)大(たい)卿(きょう)の大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)・佐保(さほ)大納言卿の大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)南典(なんてん)だ。)である鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)伊(い)呂(ろ)具(ぐ)の後(ご)妻(さい)に入って2人の間に、そのもうけた実子としては、大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)である多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)や、大(おお)伴(ともの)稲(いな)公(きみ)である多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)足(たり)(百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)孝(こう)忠(ちゅう)だ。)たち2人がいた、ということなのだ。つまり中納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)(大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)堺(さかい)麻(ま)呂(ろ)だ。)や、その実弟の中納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)足(なり)(大(おお)伴(ともの)稲(いな)公(きみ)だ。)たち2人としては、実際は、後妻(ごさい)に入った阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)の次女の巨(こ)勢(せの)郎(いら)女(つめ)の生んだ実子なのだ。そしてまた、阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)(実際は、鴨(かもの)縣(あがた)主(ぬし)久(く)治(じ)良(らの)臣(おみ)・田(た)辺(なべの)首(おびと)(史(ふひと))小(お)隅(すみ)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)利(とし)金(かね)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)紫(し)壇(だん)・巨(こ)勢(せの)黒(くろ)麻(ま)呂(ろ)だ。)の実像の蘇(そ)我(がの)連(むらじ)子(この)大(おお)臣(おみ)の娘の3女としては、娼(しょう)子(この)娘(いらつめ)(大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)豊(と)島(しま)売(め)だ。)なのだ。また、藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)(実際は、草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)・高(たけ)市(ちの)皇(み)子(こ)・穂(ほ)積(づみの)皇(み)子(こ)だ。)の先(せん)妻(さい)ともなったのだ。そしてまた、2人の間に、そのもうけた実子としては、長男の藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)武(む)智(ち)麻(ま)呂(ろ)や、次男の藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)房(ふさ)前(さき)や、3男の藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)宇(うま)合(かい)たち3兄弟である、ということなのだ。
さてそれでは、中納言中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)としては、紀(きの)臣(おみ)古(こ)麻呂(まろ)がその実像なのだ。そしてまた、大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)の実像としては、天平2年(730年)に、治(ち)部(ぶ)少(しょう)丞(じょう)という官位の人物と伝えているから、初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)なのだ。また、この初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)とは、天平5年(733年)の多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)の遣(けん)唐(とう)大(たい)使(し)のときに『遣(けん)唐(とう)留(りゅう)学(がく)生(せい)として渡(と)唐(とう)した。』と伝える初代大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)なのだ。つまりこの人物の実像としては、阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)なのだ。また、その実子の阿(あ)倍(べの)満(まん)月(がつ)丸(まる)としては、2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)なのだが、その実際の出生の年は、天平4年(732年)の出生なのだ。また、大納言紀(きの)朝(あそ)臣(み)船(ふな)守(もり)(延暦11年・792年に没。)や、和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)(延暦18年・799年に没。)として生きて、その最後として、2代目国(こく)学(がくの)頭(かしら)の博士の文(あや)部(べの)良(よし)道(みち)(弘仁5年・814年3月21日・78歳で没。)や、大(だい)学(がくの)頭(かみ)の菅(すが)野(のの)真(ま)道(みち)(弘仁5年・814年・6月29日・74歳で没。)として、実際としては、その歳、82歳で814年に没した、ということなのだ。
さてそれでは、かれら中央貴族こそが、上野(こうずけの)国(くに)に、その大きな基盤を持っていた、ということなのだが、実際として、私が古代史に興味を持つ理由の1つとしては、東国最大の古墳である天(てん)神(じん)山(やま)古(こ)墳(ふん)(群馬県太田市(おおたし)だ。)の被(ひ)葬(そう)者(しゃ)を特定する仕事からであった。そこで、地元の伝承によれば、大(おお)蔵(くら)親(しん)王(のう)という人物なのだ。この人物の実像としては、調べてみれば、『神(かみ)代(よの)古(こ)記(き)』を撰録した平(へ)群(ぐりの)真(ま)鳥(どりの)大(おおまえつ)臣(きみ)(実際は、初代物(もの)部(のべの)目(めの)大(おお)連(むらじ)・大(おお)伴(ともの)室(むろ)屋(やの)大(おお)連(むらじ)だ。)である、ということなのだ。そしてまた、23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)(実際は、中(なか)臣(とみの)藍(あけの)大(おお)連(むらじ)だ。)なのだ。また、市(いち)辺(のべの)押(おし)歯(は)別(わけの)皇(み)子(こ)や、下(しも)毛(けの)野(の)君(きみ)の祖の奈(な)良(ら)別(わけ)命(のみこと)や、多(おお)他(た)神(じん)社(じゃ)(大阪府茨(いばら)木(き)市(し)だ。)の祭神である多(おお)他(た)毘(ひ)古(こ)命(のみこと)(2代目の多(おお)他(た)別(わけ)の田(た)道(みちの)君(きみ)だ。)たちが同一人物なのだ。また、この奈(な)良(ら)別(わけ)命(のみこと)(初代物(もの)部(のべの)目(めの)大(おお)連(むらじ)だ。)の実父としては、初代の田(た)道(みちの)君(きみ)(多(おお)他(た)別(わけ)命(のみこと)だ。)なのだ。つまり18・19代履中(りちゅう)・反正(はんぜい)天皇(てんのう)である、ということなのだ。
そしてまた、この人物は、『先(せん)代(だい)旧(く)事(じ)本(ほん)紀(き)』巻第5の『天(あまつ)孫(みまきの)本(もとつふ)紀(み)』で見れば、『物(ものの)部(べの)伊(い)呂(ろ)弗(ふつの)連(むらじの)公(ぎみ) 此(この)連(むらじの)公(きみ)は、稚(わか)櫻(さくら)・柴垣(しばがき)二宮(ふたつのみや)(18・19履(り)中(ちゅう)・反(はん)正(ぜい)天(てん)皇(のう)だ。)に、御(あめのした)宇(しらす)天(すめら)皇(みかど)の御世(みよ)に、大連(おおむらじ)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。』とも伝えるからして、物(ものの)部(べの)伊(い)呂(ろ)弗(ふつの)大(おお)連(むらじ)こそが、18・19代履(り)中(ちゅう)・反(はん)正(ぜい)天(てん)皇(のう)の実像なのだ。そしてまた、『多(た)治(じ)比(ひ)氏(し)の祖』の多(た)遅(じ)比(ひの)押(おし)歯(は)別(わけの)皇(み)子(こ)や、『中(なか)臣(とみ)氏(し)の祖』の中臣(なかとみの)磐(いわ)麿(まろ)卿(きょう)や、中臣(なかとみの)阿(あ)麻(ま)孫(び)舎(しゃ)卿(きょう)や、初代多(おお)他(た)別(わけ)命(のみこと)(初代田(た)道(みちの)君(きみ)だ。)たちが同一人物である、ということなのだ。
さてそれでは、12代景(けい)行(こう)天皇(てんのう)の実像としては、『毛(け)野(のの)君(きみ)の始祖』である豊(とよ)城(き)入(いり)彦(ひこの)命(みこと)(実際は、物(もの)部(のべの)大(おお)新(にい)河(かわの)命(みこと)だ。)なのだ。そこで、これから『各古代有力氏族の系譜』について検証して見たいと思うのだ。まず、●『但(たじ)馬(ま)物(もの)部(のべ)氏(し)の系譜』で見てみれば、①物部(もののべの)大新(おおにい)河(かわの)命(みこと)(12代景(けい)行(こう)天(てん)皇(のう)だ。)~②物部(もののべの)武(たけ)諸隅(もろずみの)連(むらじ)(倭(やまと)武(たける)尊(のみこと)だ。)~③物(もの)部(のべの)多(た)遅(じ)麻(まの)連(むらじ)(14代仲(ちゅう)哀(あい)天(てん)皇(のう)だ。)~④物(もの)部(のべの)印(いな)葉(ばの)連(むらじ)(16代応(おう)神(じん)天(てん)皇(のう))という順なのだが、この場合、物(もの)部(のべの)武(たけ)諸(もろ)隅(ずみの)連(むらじ)としては、12代景(けい)行(こう)天皇(てんのう)の実子の倭(やまと)武(たける)尊(のみこと)なのだ。そしてまた、次の物(ものの)部多遅(べのたじ)麻連(まのむらじ)の実像としては、14代仲(ちゅう)哀(あい)天(てん)皇(のう)の御(み)諸(もろ)別(わけ)命(のみこと)なのだ。また、次の物(もの)部(のべの)印(いな)葉(ばの)連(むらじ)の実像としては、御(み)諸(もろ)別(わけ)命(のみこと)の娘むこで、異母弟の16代応(おう)神(じん)天(てん)皇(のう)(若(わか)建(たけの)王(みこ)・異母弟だ。)である、ということなのだ。
さてそれでは、次に、●『阿(あ)蘇(そ)国(こく)造(ぞう)家(け)の系譜』を見てみれば、①武(たけ)借(かし)馬(まの)命(みこと)(12代景(けい)行(こう)天皇(てんのう)だ。)~②武(たけ)水(みず)別(わけの)命(みこと)(娘むこの水(みず)先(さき)主(ぬしの)命(みこと)・彦(ひこ)狭(さ)嶋(しま)命(のみこと)・13代成(せい)務(む)天(てん)皇(のう)だ。)、次に、②武(たけ)沼(ぬま)田(たの)命(みこと)(倭(やまと)武(たける)尊(のみこと)だ。)~③那(な)珂(か)乃(の)上(うえの)命(みこと)(御(み)諸(もろ)別(わけ)命(のみこと)・14代仲(ちゅう)哀(あい)天(てん)皇(のう)だ。)ともなっているのだ。
さてそれでは、次に、●「毛(け)野(のの)君(きみ)の祖の系譜」を見れば、①豊(とよ)城(き)入(いり)彦(ひこの)命(みこと)(実際は、12代景(けい)行(こう)天皇(てんのう)・物部(もののべの)大新(おおにい)河(かわの)大(おお)連(むらじ)だ。)~②彦(ひこ)八(や)綱(つな)田(だの)王(みこ)(倭(やまと)武(たける)尊(のみこと)だ。)~③彦(ひこ)狭(さ)嶋(しまの)王(みこ)(娘むこの13代成(せい)務(む)天(てん)皇(のう)・物(ものの)部伊咋宿禰(べのいくひのすくね)だ。)~④御(み)諸(もろ)別(わけの)王(みこ)(娘むこの14代仲(ちゅう)哀(あい)天(てん)皇(のう)だ。)~⑤荒(あら)田(た)別(わけの)王(みこ)(娘むこの17代仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)・物(ものの)部五十琴宿禰(べのいがことのすくね)・物部(もののべの)大別連(おおわけのむらじ)だ。)ともなっているのだ。そこで、『先(せん)代(だい)旧(く)事(じ)本(ほん)紀(き)』の巻第5の『天(あまつ)孫(みまきの)本(もとつふ)紀(み)』で見れば、『物(もの)部(のべの)五(い)十(が)琴(ことの)宿(すく)禰(ね)(17代仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)だ。)此連(このむらじの)公(きみ)は、磐余稚(いわれのわか)櫻(さくらの)宮(みや)(15代神(じん)功(ぐう)皇后(こうごう)だ。)に、御(あめのした)宇(しらす)神(じん)功(ぐう)皇后(こうごう)摂政(まつりごとふさね)たまふ御世(みよ)、元(はじめ)大連(おおむらじ)と為(な)り、次(つぎ)て宿禰(すくね)と為(な)る。神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。また、物部(もののべの)大別連(おおわけのむらじ)公(ぎみ) 此連(このむらじの)公(きみ)は難波(なにわの)高津宮(たかつのみや)(17代仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)だ。)に、御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみかど)の御世(みよ)に詔(みことのり)て侍(まえつ)臣(ぎみ)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋奉(いつきまつ)らしむ。』とも伝えるから、17代仁徳天皇(にんとくてんのう)なのだ。そしてまた、その子(娘むこ含む。)としては、~①竹(たけ)葉(は)瀬(せの)君(きみ)(20代允(いん)恭(ぎょう)天(てん)皇(のう)・物(ものの)部麦入宿禰(べのむぎいりのすくねの)大連(おおむらじ)だ。)や、②初代田(た)道(みちの)君(きみ)(娘むこの18・19代履(り)中(ちゅう)・反(はん)正(ぜい)天(てん)皇(のう)・物(ものの)部伊(べのい)呂(ろ)弗大連(ふつおおむらじ)だ。)がいたのだ。また、『天(あまつ)孫(みまきの)本(もとつふ)紀(み)』を見れば、『物(ものの)部麦入宿禰(べのむぎいりのすくねの)連(むらじ)公(ぎみ) 此連(このむらじの)公(きみ)は、遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)(20代允(いん)恭(ぎょう)天(てん)皇(のう)だ。)に、御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみかど)の御世(みよ)に、元(はじめ)て大連(おおむらじ)と為(な)る。次(つぎ)に宿禰(すくね)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。』とも伝えているから、この大(おお)連(むらじ)こそが、実子の20代允(いん)恭(ぎょう)天(てん)皇(のう)である、ということなのだ。
さてそれでは、次に、「毛(け)野(のの)君(きみ)の祖の系譜」で見れば、②田(た)道(みちの)君(きみ)の子としては、①奈(な)良(ら)別(わけの)王(みこ)(23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)だ。)や、②真(ま)若(わかの)君(きみ)(22代雄(ゆう)略(りゃく)天(てん)皇(のう)・物(もの)部(のべの)布(ふ)都(つ)久(く)留(るの)大(おお)連(むらじ)だ。)なのだ。そこで、巻第5の『天(あまつ)孫(みまきの)本(もとつふ)紀(み)』を見れば、『物部(もののべの)布(ふ)都(つ)久留連(くるのむらじ)公(ぎみ) 此(この)連(むらじの)公(きみ)は、大長谷(おおはっせの)朝(みかど)(22代雄(ゆう)略(りゃく)天(てん)皇(のう)だ。)の御世(みよ)に、大連(おおむらじ)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。』とも伝えるから、この人物こそが、22代雄(ゆう)略(りゃく)天(てん)皇(のう)なのだ。つまり毛(け)野(のの)君(きみ)こそが、古代天皇家の直系である、ということなのだ。
さてそれでは、『日(に)本(ほん)書(しょ)紀(き)』で見てみれば、12代景(けい)行(こう)天皇(てんのう)の子の倭(やまと)武(たける)尊(のみこと)の実子は、14代仲(ちゅう)哀(あい)天(てん)皇(のう)(御(み)諸(もろ)別(わけ)命(のみこと)・毛(け)野(のの)君(きみ)の遠(とお)祖(そ)だ。)や、その異母弟の16代応(おう)神(じん)天(てん)皇(のう)(若(わか)建(たけの)王(みこ)だ。)の2人がいたのだ。また、16代応(おう)神(じん)天(てん)皇(のう)(若(わか)建(たけの)王(みこ)だ。)の娘の矢(や)田(たの)皇(ひめ)女(みこ)(日(ひ)向(むかの)髪(かみ)長(なが)姫(ひめ)だ。)を娶った人物は、若(わか)野(の)毛(け)二(ふた)俣(またの)王(みこ)である毛(け)野(のの)君(きみ)の祖の荒(あら)田(た)別(わけ)命(のみこと)なのだ。また、17代仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)なのだ。そしてまた、この人物は、彦(ひこ)狭(さ)嶋(しま)命(のみこと)(息(おき)長(なが)宿(すく)禰(ねの)王(みこ)・13代成(せい)務(む)天(てん)皇(のう)だ。)の実子の弟(おと)彦(ひこの)王(みこ)(息(おき)長(なが)弟(おとうと)彦(ひこの)王(みこ)だ。)こそが、その実像なのだ。そしてまた、その妃(きさき)の1人としては、日(ひ)向(むかの)髪(かみ)長(なが)姫(ひめ)がいたのだが、16代応(おう)神(じん)天(てん)皇(のう)の娘なのだ。また、この日(ひ)向(むかの)髪(かみ)長(なが)姫(ひめ)(実際は、矢(や)田(たの)皇(ひめ)女(みこ)だ。)の実弟としては、初代田(た)道(みち)君(のきみ)である18・19代履(り)仲(ちゅう)・反(はん)正(ぜい)天(てん)皇(のう)である、ということなのだ。
さてそれでは、20代允(いん)恭(ぎょう)天(てん)皇(のう)の実像である竹(たけ)葉(は)瀬(せ)君(のきみ)(実際は、荒(あら)田(た)別(わけ)命(のみこと)・17代仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)の実子だ。)の実母としては、実際は、若(わか)野毛(のけ)二俣(ふたまたの)王(みこ)である17代仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)の先妃(せんぴ)なのだが、その実像としては、御(み)諸(もろ)別(わけ)命(のみこと)である14代仲(ちゅう)哀(あい)天(てん)皇(のう)(実際は千(ち)熊(くま)長比(ながひ)古(こ)命(のみこと)・竹(たけ)野(の)彦(ひこ)命(のみこと)・葛城(かつらぎの)長江襲津彦(ながえのそつひこ)命(のみこと)だ。)の娘の宇(う)田(だ)姫(ひめ)(磐(いわ)之(の)姫(ひめ)だ。)なのだ。また、その別名称としては、母(も)々(も)思(し)己(き)麻(ま)波(わ)加(か)中(なか)比(ひ)売(め)なのだ。そしてまた、上(こう)野(ずけ)公(のきみ)という竹(たけ)葉(は)瀬(せ)君(のきみ)である20代允(いん)恭(ぎょう)天(てん)皇(のう)(実際は、王(わ)仁(に)博士(はかせ)だ。)や、その実姉の黒(くろ)姫(ひめ)(実際は、入(いり)杆(き)尼(ね)姫(ひめ)だ。)である布(ふ)遅(じ)波(わ)良(らの)己(こと)斯(ふしの)郎(いら)女(つめ)たち2人(1男1女だ。)をもうけた、ということなのだ。
さてそれでは、『毛(け)野(のの)君(きみ)の祖の系譜』で見てみれば、16代応(おう)神(じん)天(てん)皇(のう)である若(わか)建(たけの)王(みこ)(実際は、物(もの)部(のべの)印(いな)葉(ばの)大(おお)連(むらじ)だ。)が隠蔽されるのだ。つまり16代応(おう)神(じん)天(てん)皇(のう)(実際は、若(わか)建(たけの)王(みこ)・物(もの)部(のべの)印(いな)葉(ばの)大(おお)連(むらじ)だ。)の実子こそが、実際は初代田(た)道(みち)君(のきみ)(18・19代履(り)中(ちゅう)・反(はん)正(ぜい)天(てん)皇(のう)だ。)なのだが、『記紀(きき)』で見れば、毛(け)野(のの)君(きみ)の祖の荒(あら)田(た)別(わけ)命(のみこと)(17代仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)だ。)の子ともなっているのだ。しかしながら、実際は、初代田(た)道(みち)君(のきみ)(18・19代履(り)中(ちゅう)・反(はん)正(ぜい)天(てん)だ。)とは、若(わか)建(たけの)王(みこ)である16代応(おう)神(じん)天(てん)皇(のう)の実子の1人なのだ。
さてそれでは、『先(せん)代(だい)旧(く)事(じ)本(ほん)紀(き)』の巻第5の『天(あまつ)孫(みまきの)本(もとつふ)紀(み)』を見てみれば、『物部印(もののべのいな)葉連(ばのむらじ)公(ぎみ) 此(この)連(むらじの)公(きみ)は、輕(かる)嶋(しまの)豊(とよ)明(あかりの)宮(みや)(16代応(おう)神(じん)天皇(てんのう)だ。)に、御(あめのした)宇(しらす)天(すめら)皇(みかど)の御(み)世(よ)拜(めし)て大連(おおむらじ)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る 。』とも伝えるから、この物部印(もののべのいな)葉連(ばのむらじ)こそが、16代応(おう)神(じん)天(てん)皇(のう)の実像なのだ。また、17代仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)(荒(あら)田(た)別(わけ)命(のみこと)だ。)の後(ご)妃(ひ)である日(ひ)向(むかの)髪(かみ)長(なが)姫(ひめ)の実像としては、16代応(おう)神(じん)天(てん)皇(のう)の娘の矢(や)田(たの)皇(ひめ)女(みこ)なのだ。また、17代仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)(毛(け)野(のの)君(きみ)の祖、荒(あら)田(た)別(わけ)命(のみこと)だ。)との2人の間に、そのもけた実子としては、忍(おし)坂(さかの)大(おお)中(なか)姫(ひめ)(20代允(いん)恭(ぎょう)天(てん)皇(のう)の妃(きさき)だ。)や、橘(たちばな)姫(ひめの)皇(ひめ)女(みこ)や、若(わか)草(くさ)香(か)部(べ)姫(ひめ)たち3人の姫がいたという。また、この忍(おし)坂(さかの)大(おお)中(なか)姫(ひめ)こそが、その異母兄の20代允(いん)恭(ぎょう)天(てん)皇(のう)(竹(たけ)葉(は)瀬(せ)君(のきみ)だ。)との2人の間に、そのもうけた実子としては、21代安(あん)康(こう)天皇(てんのう)や、24代顕(けん)宗(そう)天皇(てんのう)たち2人がいた、というのだ。しかしながら、21・24代安(あん)康(こう)・顕(けん)宗(そう)天(てん)皇(のう)の実像としては、実際は、物(ものの)部(べの)大(おお)前(くま)小(を)前(さきの)宿(すく)禰(ねの)大(おお)連(むらじ)という1人の人物なのだ。また、その証(しょう)拠(こ)としては、『先(せん)代(だい)旧(く)事(じ)本(ほん)紀(き)』の巻第5の『天(あまつ)孫(みまきの)本(もとつふ)紀(み)』で見てみれば、『物部(もののべの)大前宿禰(おおくまのすくねの)連(むらじ)公(ぎみ) 此連(このむらじの)公(きみ)は、石上(いそのかみ)穴(あな)穂宮(ほのみや)(21代安康(あんこう)天皇(てんのう)だ。)に、御(あめのした)宇(しらす)天(すめら)皇(みかど)の御世(みよ)に元(はじめ)て大連(おおむらじ)と為(なり)て、次(つぎ)に宿禰(すくね)と為(なっ)て、神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。』というのだ。また『物(もの)部(のべの)小(を)前(さきの)宿(すく)禰(ねの)連(むらじ)公(ぎみ) 此(この)連(むらじの)公(きみ)は、近飛鳥八(ちかつあすかや)釣宮(つりのみや)(24代顕宗(けんそう)天皇(てんのう)だ。)に、御(あめのした)宇(しらす)天(すめら)皇(みかど)の御世(みよ)に、元(はじめ)て大連(おおむらじ)と為(な)る。次(つぎ)に大(おお)宿(すく)禰(ね)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。』とも伝えるから、実際は、この物(もの)部(のべの)大(おお)前(くま)や小(を)前(さきの)宿(すく)禰(ね)である1人の人物こそが、21・24代安康(あんこう)・顕宗(けんそう)天皇(てんのう)の実像なのだ。また、その実子としては、27代継(けい)体(たい)天(てん)皇(のう)や、その実弟である28代安(あん)閑(かん)天(てん)皇(のう)(25代仁(にん)賢(けん)天(てん)皇(のう)の娘むこだ。)たち2人の人物(天皇)がいた、というのが真相である、ということなのだ。
さてそれでは、16代応(おう)神(じん)天(てん)皇(のう)(若(わか)建(たけの)王(みこ)だ。)の3人の妃(きさき)なのだが、つまり品(ほむ)陀(だの)真(ま)若(わかの)王(きみ)(実際は、御(み)諸(もろ)別(わけ)命(のみこと)だ。)である14代仲(ちゅう)哀(あい)天(てん)皇(のう)こそ、15代神(じん)功(ぐう)皇(こう)后(ごう)である金(かね)田(た)屋(や)野(の)姫(ひめ)との2人の間に、そのもうけた娘としては、長女である高(たか)木(ぎの)入(いり)姫(ひめ)(実際は飯(いい)野(のの)真(ま)黒(ぐろ)姫(ひめ)・竹(たけ)野(の)姫(ひめ)・宮(みや)主(ぬし)宅(やか)姫(ひめ)だ。)や、次女の仲(なか)姫(ひめ)(実際は仲(なか)津(つ)姫(ひめ)・息(おき)長(なが)真(ま)若中(わかなか)姫(ひめ)だ。)や、3女の弟(おと)姫(ひめ)(実際は宇(う)田(だ)姫(ひめ)・磐(いわ)之(の)姫(ひめ)・母(も)々(も)思(し)己(き)麻(ま)波(わ)加(か)中(なか)比(ひ)売(め)・百(もも)師(し)木(き)伊(い)呂(ろ)弁(ど)だ。)たち3人の娘がいたのだ。また、長女の高(たか)木(ぎの)入(いり)姫(ひめ)(実際は飯(いい)野(のの)真(ま)黒(ぐろ)姫(ひめ)・竹(たけ)野(の)姫(ひめ)だ。)とは、16代応(おう)神(じん)天(てん)皇(のう)(若(わか)建(たけの)王(みこ)だ。)との2人の間に、そのもうけた実子としては、実際は毛(け)野(のの)君(きみ)の祖の初代田(た)道(みち)君(のきみ)(実際は多(た)遅(じ)比(ひの)瑞(みず)歯(は)別(わけの)皇(み)子(こ)・大(おお)山(やま)守(もりの)命(みこと)・18・19代履(り)中(ちゅう)・反(はん)正(ぜい)天(てん)皇(のう)だ。)や、矢(や)田(たの)皇(ひめ)女(みこ)(日(ひ)向(むかの)髪(かみ)長(なが)姫(ひめ)・17代仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)の妃(きさき)だ。)たち2人がいた、ということなのだ。そしてまた、次女の仲(なか)津(つ)姫(ひめ)(実際は息(おき)長(なが)真(ま)若中(わかなか)姫(ひめ)だ。)とは、16代応(おう)神(じん)天(てん)皇(のう)との2人の間に、そのもうけた子としては、実際は、養女ともなった矢(や)田(たの)皇(ひめ)女(みこ)(日(ひ)向(むかの)髪(かみ)長(なが)姫(ひめ)・17代仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)の妃(きさき)だ。)や、倭(やまとの)国(くにの)造(みやつこ)の祖の日(ひ)香(か)賀(がの)君(きみ)(実際は、川(かわ)上(かみの)真(ま)若(わかの)王(みこ)・16代応(おう)神(じん)天(てん)皇(のう)だ。)の娘という実子で次女の玉(たま)彦(ひこ)姫(ひめ)(実際は大(おお)山(やま)姫(ひめ)だ。その異母兄の18・19代履中(りちゅう)・反正(はんぜい)天皇(てんのう)の妃(きさき)だ。)たち2人がいた、ということなのだ。つまり次女の仲(なか)津(つ)姫(ひめ)(息(おき)長(なが)真(ま)若中(わかなか)姫(ひめ)だ。)こそが、そのもうけた1人娘の玉(たま)彦(ひこ)姫(ひめ)(実際は大(おお)山(やま)姫(ひめ)・津(つ)野(の)姫(ひめ)・弟(おと)姫(ひめ)だ。)としては、その異母兄である初代田(た)道(みち)君(のきみ)の妃(きさき)ともなって、真(ま)若(わかの) 君(きみ)である22代雄(ゆう)略(りゃく)天(てん)皇(のう)や、その実妹の角(つの)姫(ひめ)(ハエ姫(ひめ)・振姫(ふりひめ)・綾(あや)姫(ひめ)だ。異母兄の奈(な)良(ら)別(わけ)命(のみこと)の妃(きさき)だ。)たち2人をもうけたのだ。しかしながら、この辺も隠蔽されている、ということなのだ。
掲載写真●⑤内裏(ないり)塚(つか)古墳(こふん)(千葉県君津市(きみつし)だ。)
さてそれでは、18・19代履(り)中(ちゅう)・反(はん)正(ぜい)天(てん)皇(のう)である毛(け)野(のの)君(きみ)の祖の初代田(た)道(みち)君(のきみ)の別名称なのだが、蟻(ありの)臣(おみ)が同一人物なのだ。また、毛(け)野(のの)君(きみ)の祖という荒(あら)田(た)別(わけ)命(のみこと)(実際は、玉(たま)田(だの)宿(すく)禰(ね)・葦(あし)田(だの)宿(すく)禰(ね)・17代仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)・若(わか)野毛(のけ)二俣(ふたまた)王(のみこ)だ。)の娘の黒(くろ)姫(ひめ)(入(いり)杵(き)尼(ね)姫(ひめ)・布(ふ)遅(じ)波(わ)良(らの)己(こと)斯(ふしの)郎(いら)女(つめ)だ。)こそが、この初代田(た)道(みち)君(のきみ)(実際は、18・19代履(り)中(ちゅう)・反(はん)正(ぜい)天(てん)皇(のう)だ。)の先(せん)妃(ぴ)ともなっていて、この2人の間に、そのもうけた実子としては、長女の舟(に)生(う)姫(ひめ)(実際は、若(わか)山(やま)姫(ひめ)・20代允(いん)恭(ぎょう)天(てん)皇(のう)の妃(きさき)だ。和歌山県と関わる姫(ひめ)だ。)や、また、次女の太(た)姫(ひめ)(実際は、中(なか)蒂(し)姫(ひめ)・22代雄(ゆう)略(りゃく)天(てん)皇(のう)の妃(きさき)だ。)や、また、市(いちの)辺(べの)押(おし)歯(はの)皇(み)子(こ)(実際は、奈(な)良(ら)別(わけ)命(のみこと)だ。)である23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)(御(み)馬(まの)皇(み)子(こ)だ。)たち3人の1男2女をもうけた、ということなのだ。
さてそれでは、『日(に)本(ほん)書(しょ)紀(き)』で見れば、この市(いちの)辺(べの)皇(み)子(こ)や、御(み)馬(まの)皇(み)子(こ)や、飯(いい)豊(とよの)皇(ひめ)女(みこ)(その妃(きさき)の飯(いい)豊(とよの)青(おう)海(みの)皇(ひめ)女(みこ)・角(つの)姫(ひめ)だ。)たち3人をもうけた、とも伝えるが、しかしながら、市(いちの)辺(べの)皇(み)子(こ)や、御(み)馬(まの)皇(み)子(こ)たちは同一人物なのだ。また、その実像としては、下(しも)毛(け)野(のの)君(きみ)の祖の奈(な)良(ら)別(わけの)命(みこと)なのだ。また、23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)や、平(へ)群(ぐりの)真(ま)鳥(どりの)大(おお)臣(まえつきみ)や、大(おお)伴(ともの)室(むろ)屋(やの)大(おお)連(むらじ)や、初代物(もの)部(のべの)目(めの)大(おお)連(むらじ)たちも同一人物なのだ。ところで、『先(せん)代(だい)旧(く)事(じ)本(ほん)紀(き)』の巻第5の『天(あまつ)孫(みまきの)本(もとつふ)紀(み)』で見れば、『物(ものの)部(べの)目(めの)大(おお)連(むらじ)公(ぎみ) 此(この)連(むらじの)公(きみ)は、磐余(いわれ)甕(みか)栗宮(ぐりのみや)(23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)だ。)に、御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみかど)の御(み)世(よ)に、大連(おおむらじ)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。』とも伝えているからして、初代物(もの)部(のべの)目(めの)大(おお)連(むらじ)である奈(な)良(ら)別(わけの)命(みこと)こそが、23代清(せい)寧(ねい)天皇(てんのう)の実像である、ということなのだ。
さてそれでは、『本(ほん)朝(ちょう)皇(こう)胤(いん)紹(しょう)運(うん)録(ろく)』で見れば、飯(いい)豊(とよの)皇(ひめ)女(みこ)(実際は青(おう)海(みの)皇(ひめ)女(みこ)・角(つの)姫(ひめ)だ。)が、青(おう)海(みの)皇(み)子(こ)(実際は、奈(な)良(ら)別(わけの)命(みこと)だ。)ともなっているのだ。また、18代履(り)中(ちゅう)天(てん)皇(のう)の皇(み)子(こ)としては、市(いちの)辺(べの)皇(み)子(こ)や、御(み)馬(まの)皇(み)子(こ)、青(おう)海(みの)皇(み)子(こ)たち3人がいた、というのだ。しかしながら、この市(いちの)辺(べの)皇(み)子(こ)や、御(み)馬(まの)皇(み)子(こ)や、青(おう)海(みの)皇(み)子(こ)たち3人の実像としては、23代清(せい)寧(ねい)天皇(てんのう)なのだ。また、平(へ)群(ぐりの)真(ま)鳥(どりの)大(おお)臣(まえつきみ)や、大(おお)伴(ともの)室(むろ)屋(やの)大(おお)連(むらじ)や、初代物(もの)部(のべの)目(めの)大(おお)連(むらじ)や、奈(な)良(ら)別(わけ)命(のみこと)や、2代目太田(おおた)別(わけの)の田(た)道(みち)君(のきみ)たちも、その実像なのだ。つまり初代田(た)道(みち)君(のきみ)(18代履(り)中(ちゅう)天(てん)皇(のう)だ。)の子たちを、19代反(はん)正(ぜい)天(てん)皇(のう)(実際は、18代履(り)中(ちゅう)天(てん)皇(のう)とも同一人物だ。)の子としたために、別名称の同一人物が複数存在しているのだ。また、同一人物を複数の人物にする隠蔽手法こそが、これからも随所に施されている、ということなのだ。
そこで、『日(に)本(ほん)書(しょ)紀(き)』でいう市(いちの)辺(べの)皇(み)子(こ)(実際は、市(いちの)辺(べの)押(おし)歯(はの)皇(み)子(こ)・奈(な)良(ら)別(わけ)命(のみこと)・23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)・御(み)馬(まの)皇(み)子(こ)・青(おう)海(みの)皇(み)子(こ)だ。)の妹(実際は、異母妹だ。)の飯(いい)豊(とよの)皇(ひめ)女(みこ)(実際は、青(おう)海(みの)皇(ひめ)女(みこ)・角(つの)姫(ひめ)だ。)の実像としては、22代雄(ゆう)略(りゃく)天(てん)皇(のう)の実妹の角(つの)姫(ひめ)(実際は、ハエ姫(ひめ)・振姫(ふりひめ)・綾(あや)姫(ひめ)・奈(な)良(ら)別(わけ)命(のみこと)の先(せん)妃(ぴ)だ。)なのだ。つまり飯(いい)豊(とよの)皇(ひめ)女(みこ)(忍(おし)海(うみの)飯豊(いいとよ)青(あお)尊(のみこと)・青(おう)海(みの)皇(ひめ)女(みこ)だ。異母妹だ。)と、飯(いい)豊(とよの)青(あおの)皇(ひめ)女(みこ)(娘だ。)とでは別人である、ということなのだ。そしてまた、その証(しょう)拠(こ)なのだが、『日(に)本(ほん)書(しょ)紀(き)』の24代顕(けん)宗(そう)天(てん)皇(のう)の条で見てみれば、白(しら)髪(が)天(てん)皇(のう)(23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)だ。)5年正月の出来事だが、『この月、皇太子オケ王(のちの25代仁(にん)賢(けん)天皇(てんのう)だ。)と天皇(てんのう)(のちの24代顕宗(けんそう)天皇(てんのう)・ヲケ王だ。)とが、(天皇)位を譲った。久しく空位であった。そこで天皇(実際は白髪(しらが)天皇(てんのう)・23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)だ。)の姉(実際は異母妹だ。)、飯(いい)豊(とよの)皇(ひめ)女(みこ)(実際は22代雄(ゆう)略(りゃく)天(てん)皇(のう)の実妹の角(つの)姫(ひめ)だ。)が、忍(おし)海(うみの)(奈良県北葛飾郡新庄町忍海だ。)角(つの)刺(さの)の宮(みや)で天下の政治を執った。忍(おし)海(うみの)飯豊(いいとよ)青(あお)尊(のみこと)と自称した。(以下省略) 』とも伝え ているからなのだ。つまり忍(おし)海(うみの)角(つの)刺(さの)宮(みや)で即位したという飯(いい)豊(とよの)皇(ひめ)女(みこ)とは、自らを忍(おし)海(うみの)飯豊(いいとよ)青(あお)尊(のみこと)とも言っているからだ。また、天皇(てんのう)(実際は白髪(しらが)天皇(てんのう)・23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)だ。)の姉とも言うが、その実像としては、22代雄(ゆう)略(りゃく)天(てん)皇(のう)の実妹の角(つの)姫(ひめ)である、ということなのだ。そしてまた、後の24代顕宗(けんそう)天皇(てんのう)であるヲケ王の皇(こう)后(ごう)という難波(なにわ)の小(お)野(のの)王(ひめみこ)(実際は、丘(おかの)稚(わく)子(この)王(みこ)・奈(な)良(ら)別(わけ)命(のみこと)の娘だ。)こそが、この飯(いい)豊(とよの)青(あおの)皇(ひめ)女(みこ)の23代清(せい)寧(ねい)天皇(てんのう)(市(いちの)辺(べの)押(おし)歯(はの)皇(み)子(こ)・奈良(なら)別命(わけのみこと)・青(おう)海(みの)皇(み)子(こ)だ。)の娘なのだ。つまりその別名称としては、豊(とよ)姫(ひめ)や、高姫(たかひめ)や、毛(け)野(の)姫(ひめ)などだ。
掲載写真●⑥女体山(にょたいさん)古墳(こふん)(群馬県太田市(おおたし)だ。)
また、市(いちの)辺(べの)皇(み)子(こ)(実際は市(いちの)辺(べの)押(おし)歯(はの)皇(み)子(こ)・奈(な)良(ら)別(わけ)命(のみこと)・23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)・御(み)馬(まの)皇(み)子(こ)・青(おう)海(みの)皇(み)子(こ)だ。)の妃(きさき)である飯(いい)豊(とよの)皇(ひめ)女(みこ)(実際は青(おう)海(みの)皇(ひめ)女(みこ)・忍(おし)海(うみの)飯豊(いいとよ)青(あお)尊(のみこと)だ。)としては、1代遡って、22代雄(ゆう)略(りゃく)天(てん)皇(のう)の実妹の角(つの)姫(ひめ)なのだ。また、その別名称としては、はえ姫や、振姫(ふりひめ)や、綾(あや)姫(ひめ)などなのだ。さてそれでは、この人物は、群馬県太(おお)田(た)市(し)の女(にょ)体(たい)山(さん)古(こ)墳(ふん)(帆(ほ)立(たて)貝(がい)式(しき)大(だい)円(えん)墳(ぷん)・墳丘102㍍だ。)の被(ひ)葬(そう)者(しゃ)とも推測されるのだが、『日(に)本(ほん)書(しょ)紀(き)』の23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)の条で見れば、『3年秋7月の条にいう、飯(いい)豊(とよの)皇(ひめ)女(みこ)(青(おう)海(みの)皇(ひめ)女(みこ)だ。)が角(つの)刺(さの)宮(みや)で夫とはじめて交わった。人に話して、「ほんのすこし女の道を知った。どこにも異ったことはないようだ。もはや男と交わろうとは願わない。」といった。』というのだ。つまり角(つの)刺(さの)宮(みや)とは、角(つの)姫(ひめ)(実際は、はえ姫・振姫(ふりひめ)・綾(あや)姫(ひめ)だ。)である、ということなのだ。しかしながら、この逸話もフィクションなのだ。
さてそれでは、『本(ほん)朝(ちょう)皇(こう)胤(いん)紹(しょう)運(うん)録(ろく)』で見れば、青(おう)海(みの)皇(み)子(こ)(実際は、平(へ)群(ぐりの)真(ま)鳥(どりの)大(おお)臣(まえつきみ)・大(おお)伴(ともの)室(むろ)屋(やの)大(おお)連(むらじ)・初代物(もの)部(のべの)目(めの)大(おお)連(むらじ)・奈(な)良(ら)別(わけ)命(のみこと)・丘(おかの)稚(わか)子(この)王(みこ)だ。)である23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)としては、この異母妹の角(つの)姫(ひめ)(実際は、ハエ姫・振姫(ふりひめ)・綾(あや)姫(ひめ)だ。)である飯(いい)豊(とよの)皇(ひめ)女(みこ)(青(おう)海(みの)皇(ひめ)女(みこ)・忍(おし)海(うみの)飯豊(いいとよ)青(あお)尊(のみこと)だ。)との2人の間に、そのもうけた実子としては、25代仁(にん)賢(けん)天(てん)皇(のう)(実際は、物(ものの)部(べの)木(き)蓮(た)子(ひの)大(おお)連(むらじ)・紀(きの)大(おお)磐(いわの)宿(すく)禰(ね)だ。)や、その実妹の飯(いい)豊(とよの)青(あおの)皇(ひめ)女(みこ)(実際は、毛(け)野(の)姫(ひめ)・高姫(たかひめ)・豊(とよ)姫(ひめ)・難波(なにわ)の小野(おの)姫(ひめ)だ。)たち1男1女がいた、ということなのだ。
さてそれでは、『先(せん)代(だい)旧(く)事(じ)本(ほん)紀(き)』の巻第5の『天(あまつ)孫(みまきの)本(もとつふ)紀(み)』で見れば、『物部(もののべの)木蓮子連(きたひのむらじ)公(ぎみ) 此(この)連(むらじの)公(きみ)は、石上(いそのかみ)廣(ひろ)高宮(たかのみや)(25代仁(にん)賢(けん)天皇(てんのう)だ。)に、御(あめのした)宇(しらす)天(すめら)皇(みかど)の御(み)世(よ)に、大連(おおむらじ)と為(なり)て神(かみつ)宮(みや)を齋(いつき)奉(まつ)る。』とも伝えるから、25代仁(にん)賢(けん)天(てん)皇(のう)(オケ(おけの)王(みこ))の実像こそが、この物(ものの)部(べの)木(き)蓮(た)子(ひの)大(おお)連(むらじ)なのだ。そしてまた、その実姉の飯(いい)豊(とよの)青(あおの)皇(ひめ)女(みこ)(実際は、毛(け)野(の)姫(ひめ)・高(たか)姫(ひめ)・豊(とよ)姫(ひめ)・難波(なにわ)の小野(おの)姫(ひめ)だ。)の実像としては、24代顕(けん)宗(そう)天(てん)皇(のう)(ヲケ(をけの)王(みこ))の皇后なのだ。つまり24代顕(けん)宗(そう)天(てん)皇(のう)(ヲケ(をけの)王(みこ))の舅(しゅうと)としては、この初代物(もの)部(のべの)目(めの)大(おお)連(むらじ)である奈(な)良(ら)別(わけの)命(みこと)(23代清(せい)寧(ねい)天皇(てんのう)だ。)なのだ。しかしながら、この事実も隠蔽されているのだ。そしてまた、24代顕(けん)宗(そう)天(てん)皇(のう)(ヲケ(をけの)王(みこ))こそが、その妃(きさき)の飯(いい)豊(とよの)青(あおの)皇(ひめ)女(みこ)(実際は、難波(なにわ)の小(お)野(の)姫(ひめ)・毛(け)野(の)姫(ひめ)・高(たか)姫(ひめ)・豊(とよ)姫(ひめ)だ。)との2人の間に、そのもうけた実子としては、27代継体(けいたい)天皇(てんのう)(実際は、2代目物(もの)部(のべの)目(めの)連(むらじ)だ。)や、その実弟の28代安(あん)閑(かん)天(てん)皇(のう)(実際は、物(ものの)部(べの)麁(あら)鹿(か)火(ひの)大連(おおむらじ)だ。)たち2人の人物もいたのだ。しかしながら、この事実も隠蔽されている、ということなのだ。
さてそれでは、27代継体(けいたい)天皇(てんのう)の出自としては、『古(こ)事(じ)記(き)』を見てみれば、『応(おう)神(じん)天(てん)皇(のう)の5世孫』としてその出自を隠しているのだ。また、『日(に)本(ほん)書(しょ)紀(き)』を見れば、『応(おう)神(じん)天皇(てんのう)の5世孫で、彦(ひこ)主(う)人(しの)王(みこ)の子(実際は娘むこだ。)である。』とも伝えるのだ。つまり皇族(こうぞく)ではあるが彦(ひこ)主(う)人(しの)王(みこ)(実際は奈(な)良(ら)別(わけの)命(みこと)の23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)だ。)の子としているのだ。また、天皇の子とはいっていない、ということなのだ。さてそれでは、『上宮記(うえつみやのき)の逸(いつ)文(ぶん)』や、『日(に)本(ほん)書(しょ)紀(き)』で見てみれば、『応(おう)神(じん)天(てん)皇(のう)の4世孫で、父は乎(お)非(びの)王(きみ)(実際は22代雄(ゆう)略(りゃく)天(てん)皇(のう)・真若君(まわかのきみ)だ。)で、母(実際は姑(しゅうとめ)だ。)は、牟(む)義(ぎ)都(つ)国(くにの)造(みやつこ)の伊(い)自(じ)牟(む)良(らの)君(きみ)(実際は20代允(いん)恭(ぎょう)天(てん)皇(のう)・竹(たけ)葉(は)瀬(せの)君(きみ)・王(わ)仁(に)博士(はかせ)・物(もの)部(のべの)麦(むぎ)入(りの)宿(すく)禰(ねの)連(むらじ)だ。)の女(むすめ)の久(く)留(る)比(ひ)売(めの)命(みこと)(実際は韓(から)姫(ひめ)・甲(か)斐(いの)郎(いら)女(つめ)・狭(さ)山(やま)姫(ひめ)だ。)、亦(また)は、垂(すい)仁(にん)天(てん)皇(のう)の7世孫の振媛(ふりひめ)(布(ふ)利(り)比(ひ)売(め)・角(つの)姫(ひめ)だ。)の子(実際は孫だ。)が、27代継(けい)体(たい)天(てん)皇(のう)である。』というのだ。そしてまた、『先(せん)代(だい)旧(く)事(じ)本(ほん)紀(き)』の巻第5の『天(あまつ)孫(みまきの)本(もとつふ)紀(み)』で見てみれば、物(もの)部(のべの)木(き)蓮(た)子(ひの)連(むらじ)公(ぎみ) (実際は25代仁(にん)賢(けん)天皇(てんのう)だ。)の子(実際は娘むこだ。)たちの中では、①(2代目)物(もの)部(のべの)目(めの)連(むらじ)公(のきみ)こそが、27代継(けい)体(たい)天(てん)皇(のう)なのだ。また、その兄弟では、②物(もの)部(のべの)長(なが)目(めの)連(むらじ)公(のきみ)(実際は27代継(けい)体(たい)天(てん)皇(のう)だ。)や、③物(もの)部(のべの)金(かねの)連(むらじの)公(きみ)(実際は、27代継(けい)体(たい)天(てん)皇(のう)だ。)や、④物(もの)部(のべの)呉(くれ)足(た)尼(ちの)連(むらじの)公(きみ)(実際は、29代宣(せん)化(か)天(てん)皇(のう)・蘇(そ)我(がの)稲(いな)目(の)大(おお)臣(おみ)だ。)や、⑤物(もの)部(のべの)建(たて)彦(ひこの)連(むらじ)公(のきみ)(実際は、29代宣(せん)化(か)天(てん)皇(のう)・蘇(そ)我(がの)稲(いな)目(の)大(おお)臣(おみ)だ。)たち5人の兄弟がいた、というのだ。しかしながら、実際は24代顕(けん)宗(そう)天(てん)皇(のう)(ヲケ(をけの)王(みこ))の実子の1人こそが、27代継(けい)体(たい)天(てん)皇(のう)なのだ。そしてまた、その実母の24代顕(けん)宗(そう)天(てん)皇(のう)(ヲケ(をけの)王(みこ))の皇(こう)后(ごう)(先(せん)妃(ぴ))である飯(いい)豊(とよの)青(あおの)皇(ひめ)女(みこ)(実際は、難波(なにわ)の小野(おの)姫(ひめ)・毛(け)野(の)姫(ひめ)・高(たか)姫(ひめ)・豊(とよ)姫(ひめ)だ。)の実母としては、23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)(奈(な)良(ら)別(わけの)命(みこと)だ。)の皇(こう)后(ごう)(先(せん)妃(ぴ))である飯(いい)豊(とよの)皇(ひめ)女(みこ)(実際は、青(おう)海(みの)皇(ひめ)女(みこ)・忍(おし)海(うみの)飯豊(いいとよ)青(あお)尊(のみこと)・振媛(ふりひめ)・角(つの)姫(ひめ)だ。)である、ということなのだ。
そしてまた、この(2代目)物(もの)部(のべの)目(めの)連(むらじ)公(のきみ)(実際は27代継体(けいたい)天皇(てんのう)だ。)としては、『大(おお)伴(とも)氏(し)の系譜』で見てみれば、大(おお)伴(ともの)室(むろ)屋(やの)大(おお)連(むらじ)(23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)・奈(な)良(ら)別(わけの)命(みこと)だ。)の子(娘むこ含む。)としては、①大(おお)伴(ともの)語(かたるの)連(むらじ)(実際は娘むこの21・24代安(あん)康(こう)・顕(けん)宗(そう)天(てん)皇(のう)である物(もの)部(のべの)大(おお)前(くま)小(を)前(さきの)宿(すく)禰(ね)公(のきみ)・紀(きの)韓(から)子(この)宿(すく)禰(ね)・中(なか)臣(とみの)鎌(かまの)大(おお)夫(まえつきみ)だ。)や、また、②大(おお)伴(とも)御(お)物(ものの)連(むらじ)(実際は25代仁(にん)賢(けん)天(てん)皇(のう)・物(もの)部(のべの)木(き)蓮(た)子(ひの)連(むらじ)公(ぎみ)・紀(きの)大(おお)磐(いわの)宿(すく)禰(ね)・中(なか)臣(とみの)塩(しお)屋(やの)宿(すく)禰(ね)だ。)たち2人の人物がいた、というのだ。そしてまた、この大(おお)伴(ともの)語(かたるの)連(むらじ)(実際は娘むこの21・24代安(あん)康(こう)・顕(けん)宗(そう)天(てん)皇(のう)だ。)の子としては、大(おお)伴(ともの)金(かな)村(むらの)大(おお)連(むらじ)(実際は27代継(けい)体(たい)天(てん)皇(のう)・物(もの)部(のべの)長(なが)目(めの)連(むらじ)公(のきみ)・物(もの)部(のべの)金(かねの)連(むらじの)公(きみ)だ。)や、また、その弟の大(おお)伴(ともの)歌(うたの)大連(おおむらじ)(実際は28代安(あん)閑(かん)天(てん)皇(のう)だ。)たち2人がいた、ということなのだ。
さてそれでは、『先(せん)代(だい)旧(く)事(じ)本(ほん)紀(き)』の巻第5の『天(あまつ)孫(みまきの)本(もとつふ)紀(み)』で見れば、この(2代目)物(もの)部(のべの)目(めの)連(むらじ)とは、『物(もの)部(のべの)目(めの)連(むらじ)此連(このむらじの)公(きみ)は、継体(けいたい)天皇(てんのう)に御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみかど)の御世(みよ)に、大(おお)連(むらじ)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。』とも伝えるから、やっぱり27代継体(けいたい)天皇(てんのう)なのだ。また、この人物の真実の名称としては、近(おう)江(みの)毛(け)野(の)臣(のおみ)や、物(もの)部(のべの)金(かな)村(むらの)大(おお)連(むらじ)なのだ。そしてまた、その実弟こそが、28代安(あん)閑(かん)天(てん)皇(のう)なのだ。それでは、巻第5の『天(あまつ)孫(みまきの)本(もとつふ)紀(み)』で見れば、『物(ものの)部麁(べのあら)鹿(か)火連(ひのむらじ)公(ぎみ) 此連(このむらじの)公(きみ)は、勾(まがりの)金(かな)橋宮(はしのみや)(安閑(あんかん)天皇(てんのう)だ。)に、御(あめのした)宇(しらし)天(すめら)皇(みかど)の御(み)世(よ)に、大(おお)連(むらじ)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。』と伝えているから、この物(ものの)部(べの)麁(あら)鹿(か)火(ひの)大連(おおむらじ)こそが、28代安(あん)閑(かん)天(てん)皇(のう)ということなのだ。つまり初代物(もの)部(のべの)目(めの)大連(おおむらじ)である23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)や、2代目物(もの)部(のべの)目(めの)連(むらじ)の27代継体(けいたい)天皇(てんのう)たちの1字違いの『大(おお)』が、入るか入らないかの隠蔽工作によって、彼らの出自を隠蔽している、ということなのだ。
さてそれでは、18代履(り)中(ちゅう)天(てん)皇(のう)(去(い)来(ざ)穂(ほ)別(わけの)皇(み)子(こ)だ。)や、その弟の住(すみ)之(の)江(えの)仲(なかの)皇(み)子(こ)や、その弟の19代反(はん)正(ぜい)天(てん)皇(のう)(瑞(みず)歯(は)別(わけの)皇(み)子(こ)だ。)たち3人の実像としては、実際は、毛(け)野(のの)君(きみ)の祖の初代田(た)道(みち)君(のきみ)(実際は中(なか)臣(とみの)磐(いわ)麿(まろ)卿(きょう)・阿(あ)麻(ま)孫(び)舎(しゃ)卿(きょう)・多(た)遅(じ)比(ひの)押(おし)歯(は)別(わけの)皇(み)子(こ)・多(た)遅(じ)比(ひ)氏(し)の祖だ。)という1人の人物なのだ。そしてまた、この初代田(た)道(みち)君(のきみ)(18・19代履(り)仲(ちゅう)・反(はん)正(ぜい)天(てん)皇(のう)だ。)としては、実際は、荒(あら)田(た)別(わけ)命(のみこと)(初代