霧の中の建国秘話

 

の大人(おおうし)様(さま)なのだ。また、その親のアメノヨロズ尊(のみこと)とは、3代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)なのだ。また、その親のアメノカガミ尊(のみこと)とは、2代奈賀(なが)の大(おお)人(うし)様(さま)なのだ。また、その1代前は、初代奈(な)賀(が)の大人(おおうし)様(さま)こそが入るべきだが、この系譜ではオロチ系の高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)神(かみ)ともなっているのだ。つまり2代アメノカガミ尊(のみこと)の親は、その舅(しゅうと)である高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)ともなっている、ということなのだ。そしてまた、海神(わたつみ)系(けい)の初代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)こそが消されているのだ。また、初代奄賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)の実像としては、九州阿蘇山(あそさん)の多婆(たば)羅(ら)国(こく)王(おう)や、伊(い)都(と)国(こく)王(おう)の『金印』で有名な倭奴(わのな)国(こく)王(おう)なのだ。そしてまた、新(しら)羅(ぎ)の発祥の国の斯(さ)蘆(ろ)国(こく)の1・2代国王(朴(ぱく)赫(ひょっ)居(こ)世(せ)・南(み)解(め)次(ちゃ)次(ちゃ)雄(うん)だ。)の実像である高(こう)句(く)麗(り)の朱(ちゅ)蒙(もん)の盟友の1人陜(ひょっ)父(ぽ)と、2人目の妃(きさき)の太(ふと)玉(だま)日(ひゅう)向(が)姫(ひめ)尊(のみこと)(日(ひゅう)向(が)族(ぞく)の族長の娘だ。)との間に、そのもうけた皇子である4代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)・昔(そく)脱(た)解(れ)(AD57~80年)である、ということなのだ。そしてまた、熊(くま)本(もと)城(じょう)の付近を拠点とする猿(さる)田(た)族(ぞく)なのだが、当時の本拠地としては、すでに、福岡県粕(かす)屋(や)郡(ぐん)の流宮(りゅうぐう)(竜(りゅう)宮(ぐう)だ。)や、分国の新(しら)羅(ぎ)の発祥の国の斯(さ)蘆(ろ)国(こく)の2か所である、ということなのだ。 

そしてまた、3代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の儒(ゆ)理(り)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD24~57年)と61代目姫(ひめ)天(すめら)皇(みこと)(豊(とよ)足(たり)日(ひ)明(あかり)姫(ひめの)天(すめら)皇(みこと)・女性天(すめら)皇(みこと)である阿(あ)孝(ひょ)夫人(ふじん)(阿(あ)尼(ま)夫(ふ)人(じん)だ。)の娘との間に、そのもうけた皇子である62代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の天(あめの)豊(とよ)足(たる)別(わけ)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)だ。)こそが、海部(あまべの)大神(おおかみ)・2代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)・アメノカガミ尊(のみこと)(5代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の婆(ぱ)娑(さ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)AD80~112年だ。)なのだ。つまり海部(あまべの)大神(おおかみ)・初代奈(な)賀(が)の大人(おおうし)様(さま)(実際は、4代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)・昔(そく)脱(た)解(れ)AD57~80年だ。)との間には、実際としては、60代目姫(ひめ)天(すめら)皇(みこと)・天(あま)照(てる)櫛(くし)豊(とよ)姫(ひめの)天(すめら)皇(みこと)・女性天(すめら)皇(みこと)・閼(あ)英(りょん)夫(ふ)人(じん)・福岡の糸(いと)島(しま)半(はん)島(とう)と関わるのだ。)や、61代目姫(ひめ)天(すめら)皇(みこと)(豊(とよ)足(たり)日(ひ)明(あかり)姫(ひめの)天(すめら)皇(みこと)・女性天(すめら)皇(みこと)・阿(あ)老(ろ)・3人目の妃の成(なる)瀬(せ)クラムチ姫(ひめ)尊(のみこと)だ。)である2人の女性天(すめら)皇(みこと)こそが、ウガヤフキアエズ王朝によれば、挿入されている、ということなのだ。そしてまた、この2人の女性天(すめら)皇(みこと)の在位の時代としては、3代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の儒(ゆ)理(り)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD24~57年だ。)とも同時代である、ということなのだ。 

そしてまた、海部(あまべの)大神(おおかみ)・3代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)・アメノヨロズ尊(6代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の祇(ち)摩(ま)尼(い)師(さ)今(ぐむ)AD112~134年だ。)や、また、海部(あまべの)大神(おおかみ)・4代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)・アワナギ尊(のみこと)(7代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の逸(いる)聖(そん)尼(い)師(さ)今(ぐむ)AD134~154年だ。)や、また、海部(あまべの)大神(おおかみ)・5代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)・イザナギ尊(のみこと)(8代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の阿(あ)達(だる)羅(ら)尼(い)師(さ)今(ぐむ)AD154~184年だ。)や、また、海部(あまべの)大神(おおかみ)・6代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)・スサノオ尊(のみこと)(9代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の伐(ぼ)休(りゅ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)AD184~196年だ。)へ続く ということなのだ。 

さてそれでは、『秀(ほつ)真(ま)伝(つたえ)』によれば、高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)の一族の子孫としては、2系統の神々がいるのだが、『2の系譜』や、『3の系譜』の2系統があるというのだ。そこで、『2の系譜』は、次のとおりなのだ。 

●天(あまの)御(み)中(なか)主(ぬし)尊(のみこと)(初代) 

●ハコクニノ尊(みこと)(実際は、初代高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)だ。また、このハコクニノ尊(みこと)とは、『日(に)本(ほん)書(しょ)紀(き)』によれば、豊国(とよくん)主(ぬ)尊(のみこと)の別名称とも一書にある。また、初代天(あまの)御(み)中(なか)主(ぬし)尊(のみこと)との間には、およそ、1600以上の時代が経過しているのだ。そしてまた、初代高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)というハコクニノ尊(みこと)・豊国(とよくん)主(ぬ)尊(のみこと)だ。)の実像としては、東(ひがし)扶(ふ)余(よ)王朝である15代依(い)羅(ら)王(おう)(新羅(しらぎ)の金(きむ)氏(し)の始祖、金(きむ)閼(ある)智(ち)だ。)である、ということなのだ。 

●2代高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)(東(ひがし)扶(ふ)余(よ)王朝の16代玄(げん)王(おう)・新羅(しらぎ)の金(きむ)氏(し)の2代勢(せ)漢(はん)である。) 

●3代高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)(東(ひがし)扶(ふ)余(よ)王朝の17代蔚(やす)王(おう)・新羅(しらぎ)の金(きむ)氏(し)の3代阿(あ)道(ど)である。) 

●4代高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)(新羅(しらぎ)の金(きむ)氏(し)の4代首(す)留(りゅ)である。) 

●5代高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)(新羅(しらぎ)の金(きむ)氏(し)の5代郁(うく)甫(ぽ)である。)という系譜である。 

さてそれでは、『3の系譜』としては、次のとおりなのだ。 

●初代クニトコタチ尊(みこと)(初代国(くに)常(とこ)立(たつ)尊(のみこと)・農(のう)立(たつ)日子(ひこ)である。) 

●2代トノクニサチ尊(みこと)(2代目国(くに)佐(さ)槌(つち)尊(のみこと)・農佐之(のうさの)男尊(おのみこと)である。) 

(初代や2代と、3代との間には、およそ、1600年以上の時代が経過しているのだ。) 

●3代豊国(とよくん)主(ぬ)尊(のみこと)(実際は、キノトコタチノ尊(みこと)・ハコクニノ尊(みこと)・初代高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)・東(ひがし)扶(ふ)余(よ)王朝の15代依(い)羅(ら)王(おう)・金(きむ)閼(ある)智(ち)である。) 

●4代ウイチニノ尊(みこと)(モモヒナキ尊(のみこと)・2代高(たか)皇(み)産(むす)霊(び)尊(のみこと)・玄(げん)王(おう)・勢(せ)漢(はん)である。その妃(きさき)は、スビチニノ尊(みこと)・モモヒナミ姫だ。) 

●5代オオトノチノ尊(みこと)(ツヌクキ尊(のみこと)・3代高皇産(たかみむす)霊尊(びのみこと)・蔚(やす)王(おう)・阿(あ)道(ど)である。その妃(きさき)は、オオトマエノ尊(みこと)、イククイ姫だ。) 

●6代オモタルノ尊(みこと)(4代高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)尊(みこと)・首(す)留(りゅ)である。その弟は、カシコネノ尊(みこと)だ。) 

●7代カシコネノ尊(みこと)(郁(うく)甫(ぽ)である。)という系譜である。 

さてそれでは、『秀(ほつ)真(ま)伝(つたえ)が明かす超古代の秘密』の著者である鳥居礼氏によれば、『初代クニトコタチ尊の孫という、キノトコタチノ尊の別名としては、タカミムスビ(初代高(たかみ)皇(む)産(す)霊(びの)神(かみ)だ。)という名があり、それ以後、タカミムスビ(高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)だ。)が5代つづく。』」ともいうのだ。また、この高皇産(たかみ)霊神(むすびのかみ)の豪族としては、越(こし)の国(北(ほく)陸(りく)道(どう)だ。)を中心とした豪族なのだ。なぜならば、『昔、越(こし)の国(北(ほく)陸(りく)道(どう)だ。)のヒナル岳(白山(はくさん)だ。)の宮(みや)に、木の実を持って生まれた御子がいた。その実を宮の庭に植えると、3年目の3月3日に実が百個もなった(途中略。)神男(かみお)をモモヒナキ、女神(めがみ)をモモヒナミとした。(途中略。)ある年の3月3日、近江(おうみ)のスクナミ神が竹(ささ)から作った酒(神酒)を献上してきた。(以下省略。)』とも伝えるからだ。 

そしてまた、『2の系譜』の中の天(あまの)御(み)中(なか)主(ぬし)尊(のみこと)の子というハコクニノ尊の別名称とは、3代豊国(とよくん)主(ぬ)尊(のみこと)なのだ。また『3の系譜』の中で、この豊国(とよくん)主(ぬ)尊(のみこと)(ハコクニノ尊(みこと)だ。)とは、初代クニトコタチ尊(みこと)の孫のキノトコタチノ尊(みこと)なのだ。また、その別名称とは、初代高(たかみ)皇(む)産(す)霊(びの)神(かみ)なのだ。つまり3代ハコクニノ尊の豊国(とよくん)主(ぬ)尊(のみこと)(キノトコタチノ尊(みこと)だ。)としては、『1の系譜』の天(あまの)御(み)中(なか)主(ぬし)尊(のみこと)や『2の系譜』の中の、初代クニトコタチ尊(みこと)や、2代トノクニサチ尊たち3人との間には、およそ、1600年以上の時代が経過しているのだ。なぜならば、『2の系譜』の天(あまの)御(み)中(なか)主(ぬし)尊(のみこと)や、『3の系譜』の初代クニトコタチ尊や、2代トノクニサチ尊たち3人と実像としては、『富士宮下(ふじのみやした)文書(もんじょ)』でいう殷(いん)《紀BC1600~1100年まで。》によって亡ぼされた神農(しんのう)氏(し)の最後の後継者、炎(えん)帝(てい)や黄(こう)帝(てい)の兄弟のうちで、黄(こう)帝(てい)に敗れた炎(えん)帝(てい)の子の5男の農(のう)立(たつ)日子(ひこ)(国(くに)常(とこ)立(たつ)尊(のみこと)だ。)こそが、この『2の系譜』の天(あまの)御(み)中(なか)主(ぬし)尊(のみこと)や、『3の系譜』の初代クニトコタチ尊の実像とも推測されるからなのだ。また、7男という農佐之(のうさの)男尊(おのみこと)(国(くに)佐(さ)槌(つち)尊(のみこと)だ。)こそが、『3の系譜』の2代トノクニサッチ尊とも推測されるのだ。また、『日(に)本(ほん)書(しょ)紀(き)』」によれば、『3の系譜』の3代豊国(とよくん)主(ぬ)尊(のみこと)とは、『2の系譜』の2代ハコクニノ尊(みこと)の別名称であると一書にいうからだ。つまりこれらの2つの系統の系譜とは、明らかに同一系譜なのだ。つまり黄(こう)帝(てい)に敗れた炎(えん)帝(てい)の子の5男の農(のう)立(たつ)日子(ひこ)(国(くに)常(とこ)立(たつ)尊(のみこと)だ。)や、7男の農佐之(のうさの)男尊(おのみこと)(国(くに)佐(さ)槌(つち)尊(のみこと)だ。)たちが、1600年以上前の時代に、倭(わ)国(こく)へ逃れてきた、ということなのだ。 

さてそれでは、初代高皇産(たかみむす)霊尊(びのみこと)であるハコクニノ尊(みこと)(豊国(とよくん)主(ぬ)尊(のみこと)・キノトコタチノ尊(みこと)だ。)の兄弟とは、4代ウイチニノ尊(みこと)(モモヒナキ尊(みこと)だ。)である。また、その妃(きさき)とは、スビチニノ尊(みこと)であるモモヒナミ姫なのだ。つまり『3の系譜』の中の、4代ウイチニノ尊(モモヒナキ尊(みこと)だ。)とは、2代高(たかみ)皇(む)産(す)霊(び)尊(のみこと)なのだ。また、オロチ族の主要な一派である近江のスクナミ神の一族の姫(ひめ)君(きみ)であるスビチニノ尊(みこと)(モモヒナミ姫だ。)を娶った、ということなのだ。そしてまた、5代オオトノチノ尊(みこと)(ツヌクキ尊(みこと)だ。)とは、『2の系譜』の中の、3代高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)尊(みこと)である。また、近江(おうみ)のスクナミ神の同族の姫(ひめ)君(きみ)であるオオトマエノ尊(みこと)(イククイ姫だ。)を娶った人物なのだ。また、その子としては、『2の系譜』の中の、4代高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)尊(みこと)(『実際は『3の系譜』の6代オモタルノ尊(みこと)だ。)をもうけた、ということなのだ。 

さてそれでは、4代高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)尊(みこと)(オモタルノ尊(みこと)だ。)の娘を娶って、その皇位を継承された人物は、4代高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)尊(みこと)(オモタルノ尊(みこと)だ。)の実弟で、『2の系譜』の中の、5代高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)尊(みこと)(玉(たま)気(き)根(ね)尊(のみこと)(初代豊受(とようけの)大神(おおかみ)だ。)なのだ。また『3の系譜』では、7代カシコネノ尊なのだ。 

さてそれでは、大(おお)海(わた)祇(つみの)大(おお)神(かみ)である天孫族(てんそんぞく)の系譜の『1の系譜』を見れば、初代高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)(初代キノトコタチノ尊・豊(とよ)国(くん)主(ぬ)尊(のみこと)・ハコクニノ尊(みこと)だ。)ともなっている。しかしながら、これは隠蔽工作なのだ。つまりこの人物の実像は、2代奈賀(なか)の大(おお)人(うし)であるアメノカガミ尊の舅(しゅうと)である。実際は、大(おお)海(わた)祇(つみの)大(おお)神(かみ)である天(てん)孫(そん)族(ぞく)の始祖で、初代奈賀(なか)の大(おお)人(うし)様(さま)(実際は、新(しら)羅(ぎ)の発祥の斯(さ)蘆(ろ)国(こく)の1・2代国王の朴(ぱく)赫(ひょっ)居(こ)世(せ)・南(み)解(め)次(ちゃ)次(ちゃ)雄(うん)・高(こう)句(く)麗(り)の朱(ちゅ)蒙(もん)の盟友の1人陜(ひょっ)父(ぽ)だ。)の皇子である4代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)・昔(そく)脱(た)解(れ)を消しているのだ。そしてまた、初代奈賀(なか)の大(おお)人(うし)様(さま)(4代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)・昔(そく)脱(た)解(れ)だ。)としては、その実父の時代に、婚姻関係によって吸収された伊都(いと)国王(こくおう)の娘(60代女性天(すめら)皇(みこと)だ。)こそが、そのもうけた長男なのだ。また『金印』で有名な倭奴(わのなの)国(こく)王(おう)なのだ。そしてまた、オロチ族である初代高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)・ハコクニノ尊(のみこと)だ。)の娘を、その妃(きさき)(次(じ)妃(ひ)だ。)とした、という事実が推測される、ということなのだ。そしてまた、越(こし)の国(北(ほく)陸(りく)道(どう)だ。)のヒナル岳(白(はく)山(さん)だ。)の宮(みや)で在位した、というオロチ族の高皇産(たかみむす)霊尊(びのみこと)の一族こそが、大(おお)海(わた)祇(つみの)大(おお)神(かみ)(天(てん)孫(そん)族(ぞく)・宗(むな)像(かた)海(かい)人(じん)族(ぞく)・物(もの)部族(のべぞく)だ。)の懐柔政策を図った 、とも推測される、ということなのだ。 

さてそれでは、2代高(たか)皇(み)産(むす)霊(び)尊(のみこと)である4代ウイチニノ尊(みこと)(モモヒナキ尊(のみこと)だ。)の実妹の初代白山(しらやま)姫(ひめ)だが、天(てん)孫(そん)族(ぞく)であるアワナギ尊(のみこと)(4代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)だ。)に嫁いだ、とも推測されるのだ。そしてまた、越(こし)の国(北(ほく)陸(りく)道(どう)だ。)のヒナル岳(白(はく)山(さん)だ。)の宮(みや)を中心拠点するオロチ族の高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)尊(みこと)の一族から、海部(あまべの)大神(おおかみ)の2代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)であるアメノカガミ尊(のみこと)や、その孫の4代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)であるアワナギ尊(のみこと)たち2人の人物に、高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)尊(みこと)の一族の姫(ひめ)君(ぎみ)が、2度も嫁いだ、ということなのだ。これは、越(こし)の国(北陸(ほくりく)道(どう)だ。)の高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)尊(みこと)の一族としては、大(わた)海(つみの)大(おお)神(かみ)の一族の連携や、懐柔や、統合を画策したからなのだ。 

 

掲載写真●③多賀(たが)大社(たいしゃ)(滋賀県彦根市(ひこねし)だ。) 

 

また、衰え始めた5代高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)尊(みこと)の玉(たま)気(き)根(ね)尊(のみこと)(初代豊(とよ)受(うけの)大(おお)神(かみ)・カシコネノ尊だ。)の時世になると、その姫(ひめ)君(きみ)である2代白山(しらやま)姫(ひめ)(イザナミ姫だ。)のむことして、天(てん)孫(そん)族(ぞく)の海部(あまべの)大神(おおかみ)(大海(わたつみの)大神(おおかみ)・アワナギ尊・4代奈(な)賀(が)の大(おお)人(うし)様(さま)だ。)の皇子、イザナギ尊(5代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)だ。)こそが、今度は婿入りしたのだ。また、初代豊(とよ)受(うけの)大(おお)神(かみ)・カシコネノ尊だ。)の名称としては、豊(とよの)国(くに)からむこを迎えたという事の名称なのだ。そしてまた、越(こし)の国(北(ほく)陸(りく)道(どう)だ。)のヒナル岳(白(はく)山(さん)だ。)の宮(みや)を拠点としたオロチ族の高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)尊(みこと)の一族は、この頃から朝鮮の新(しら)羅(ぎ)国(こく)へその拠点を移動している、とも推測されるのだ。つまりこの政略結婚の結果として婿入りしたイザナギ尊(のみこと)(5代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)だ。)としては、6代目高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)尊(みこと)(八十(やそ)気(き)根(ね)尊(のみこと)だ。)として、いっときは、その後継者ともなったのだ。そしてまた、天(てん)孫(そん)族(ぞく)と越(こし)のオロチ族(高(たかみ)皇(む)産(す)霊(び)神(のかみ)の一族(いちぞく)だ。)との統合がなされて2人の間に、そのもうけた子である7代目高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)尊(みこと)(スサノオ尊(のみこと)・高(たか)城(ぎの)尊(みこと)・7代高気(たけき)根(ね)尊(のみこと)・6代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)だ。)が誕生したのだが、そしてまた、天(てん)孫(そん)族(ぞく)(実際は、大海(わたつみの)大神(おおかみ)・宗(むな)像(かた)海(かい)人(じん)族(ぞく)だ。)の東征(とうせい)としては、6代、およそ、100年以上も経過した後に、やっと、6代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)であるスサノオ尊(のみこと)(実際は、高(たか)城(ぎの)尊(みこと)・7代高気(たけき)根(ね)尊(のみこと)だ。)の時代になって実現した、ということなのだ。そしてまた、スサノオ尊(のみこと)の先妃(せんぴ)こそが、菊(くく)理(り)姫(ひめ)なのだ。そしてまた、その実像としては、2代目天(あま)照(てらすの)大神(おおみかみ)(邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の女王2代目の卑(ひ)弥(み)呼(こ)だ。)なのだ。また、小(しょう)白山(しらやま)姫(ひめ)の実像としては、大(おお)国(くに)主(ぬしの)命(みこと)の娘の御井(みい)姫(ひめ)なのだ。 

さてそれでは、65・66代の不(ふき)合(あえず)天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)(豊(とよ)柏(かしわ)木(ぎ)幸(さ)手(て)男(お)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)(イザナギ尊(のみこと)だ。)には、その妃(きさき)が9名もいたというが、その実像としては、天(あまの)浮(うき)船(ふな)乗(のり)知(の)尊(みこと)のイザナギ尊(のみこと)なのだ。また、その先妃(せんぴ)とは、天孫族(てんそんぞく)の娘の平(ひら)原(ばる)姫(ひめ)(福岡県糸島市(いとしまし)に所在する平(ひら)原(はら)王(おう)古(こ)墳(ふん)1号墳の被(ひ)葬(そう)者(しゃ)、初代卑(ひ)弥(み)呼(こ)だ。)がいたのだ。また、そのもうけた娘こそが2代目の天(あま)照(てらすの)大神(おおみかみ)の菊(くく)理(り)姫(ひめ)で、邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の女王、2代目卑(ひ)弥(み)呼(こ)なのだ。つまりスサノオ尊(火(ひ)産(むす)霊(びの)神(かみ)だ。)の異母姉なのだ。そこで、この2代目の天(あま) 照(てらすの)大神(おおみかみ)(菊(くく)理(り)姫(ひめ)・邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の女王2代目卑(ひ)弥(み)呼(こ)だ。)とは、ウガヤフキアエズ王朝の67代不(ふき)合(あえず)天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)の春(はる)建(たけ)日(ひる)姫(ひめの)天皇(すめらみこと)(神(かみ)皇(む)産(す)霊(び)尊(のみこと)・火之戸(ほのと)幡(ばた)姫(ひめ)・南(なん)海(かい)津(つ)姫(ひめ)・金(かな)山姫(やまひめ)・初代の埴(はに)安(やす)姫(ひめ)だ。)である、ということなのだ。 

また、その次の68代天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)こそが、天津(あまつ)日(ひ)高(たか)日(ひ)子(こ)宗(むな)像(かた)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)不(ふき)合(あえず)(高(たか)天(まが)原(はら)建(たけ)彦(ひこの)尊(みこと)・世(よ)幸男(ゆきお)・金(かな)山彦(やまひこ)尊(のみこと)・埴(はに)安彦(やすひこ)尊(のみこと)だ。)であるスサノオ尊(のみこと)の6代奈(な)賀(か)の大(おお)人(うし)様(さま)なのだ。 

 

掲載写真●④吉野(よしの)ガ里(がり)遺跡(いせき)(佐賀県佐賀市(さがし)だ。) 

 

また、初代奈(な)賀(か)の大(おお)人(うし)様(さま)(実際は、新(しら)羅(ぎ)の発祥の斯(さ)蘆(ろ)国(こく)の1・2代国王の朴(ぱく)赫(ひょっ)居(こ)世(せ)・南(み)解(め)次(ちゃ)次(ちゃ)雄(うん)・高(こう)句(く)麗(り)の朱(ちゅ)蒙(もん)の盟友の1人陜(ひょっ)父(ぽ)の皇子である4代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)・昔(そく)脱(た)解(れ)だ。)こそが、福岡県粕(かす)屋(や)郡(ぐん)の竜(りゅう)宮(ぐう)城(じょう)の大(わた)海(つみ)祇(の)神(かみ)(初代奄賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)だ。)ともなってから、その子孫である6代奈(な)賀(か)の大(おお)人(うし)様(さま)こそが、スサノオ尊(のみこと)(火(ひ)産(むす)霊(び)尊(のみこと)だ。)である、ということなのだ。そしてまた、その異母姉である天(あま)照(てらすの)大神(おおみかみ)(2代目卑(ひ)弥(み)呼(こ)・オオヒルメムチ尊・神(かみ)産(むす)霊(び)尊(のみこと)・菊(くく)理(り)姫(ひめ)だ。)を、その先妃(せんぴ)として娶って、この2人の間に、そのもうけた実子としては、天(あま)照(てる)瑞(みず)姫(ひめ)(実際は、宗(むな)像(かた)の3女(じょ)神(しん)・宗女(そうじょ)の台(と)与(よ)姫(ひめ)・ミチヌシムチ尊・稚(わか)産(むす)霊(び)尊(のみこと)・スセリ姫・大(おお)国(くに)主(ぬし)命(のみこと)の正妃(せいひ)だ。)や、ウガ御(のみ)魂(たま)命(のみこと)たちの2人がいたのだ。また、『天(あまの)岩戸(いわと)伝説(でんせつ)』の中の、天(あめの)手(て)力(じから)雄(お)命(のみこと)こそが、その実像とは、スサノオ尊(火(ひ)産(むす)霊(び)尊(のみこと)だ。)なのだ。また、八(や)意(い)思(おもい)兼(がね)命(のみこと)の実像こそが、その息子の大(おお)国(くに)主(ぬし)命(のみこと)なのだ。また、この八(や)意(い)思(おもい)兼(がね)命(のみこと)の子(実際は娘むこだ。)である天(あまの)表(うわ)春(はる)命(のみこと)(天下(あめのした)春(はる)命(のみこと)だ。)の実像こそが、天(あまの)香(かご)山(やま)命(のみこと)なのだ。そしてまた、スサノオ尊とは、その後(ご)妃(ひ)(次(じ)妃(ひ)だ。)として娶った出雲(いずも)王朝の姫(ひめ)君(きみ)であるクシナダ姫(神(かみ)大(おお)市(いち)姫(ひめ)・ワカヒルメムチ尊だ。)との2人の間に、そのもうけた実子としては、大(おお)国(くに)主(ぬし)命(のみこと)(大(おお)年(とし)命(のみこと)・オオナムチ尊・五(い)十(た)猛(ける)命(のみこと)・富(とみ)毘(ひ)古(こ)命(のみこと)だ。)や、その実妹の神(かみ)水(みず)姫(ひめ)(豊(とよ)秋(あき)津(つ)姫(ひめ)・ウガ御(のみ)魂(たま)命(のみこと)の妃(きさき)だ。)たち2人がいたのだ。そしてまた、イザナギ尊とは、5代目高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)である玉(たま)気(き)根(ねの)尊(みこと)の継承者として、いっとき、6代目高(たか)皇(み)産(むす)霊(び)神(のかみ)(八十(やそ)気(き)根(ね)尊(のみこと)だ。)ともなったのだが、しかしながら、その後、その次(じ)妃(ひ)のイザナミ尊の死によって、その状況が一転(いってん)して、その実子であるスサノオ尊(のみこと)(7代目高気(たけき)根(ね)尊(のみこと)・高(たか)城(ぎの)尊(みこと)だ。)と共に、実家の九州の福岡県粕(かす)屋(や)郡(ぐん)の竜(りゅう)宮(ぐう)城(じょう)の大(わた)海(つ)祇(みの)神(かみ)の本拠地へ帰ったのだ。というのは、その身の危険を知らされて帰ったものとも推測されるだ。さてそれでは、スサノオ尊(のみこと)が居住した九州地方の地だが、佐賀県の吉(よし)野(の)ケ(が)里(り)遺(い)跡(せき)の近くの佐賀県佐賀市(さがし)や、福岡県久留米市(くるめし)の一帯とも推測されるのだ。なぜならば、福岡県久留米(くるめ)市に所在する高良(こうら)大社(たいしゃ)だが、じつは、高(こう)良(ら)玉(たま)垂(たれ)命(のみこと)(実際は、17代仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)・荒(あら)田(た)別(わけ)命(のみこと)だ。)が鎮座される前までは、その主祭神としては、高(たか)城(ぎの)尊(みこと)を祭神とする高(たか)城(ぎの)神(じん)社(じゃ)であった、とも伝わるのだ。また、この高(たか)城(ぎの)神(かみ)とは、この地方一帯で厚く信仰されている神ともいうが、その実像としては、スサノオ尊(のみこと)なのだ。また、天(てん)孫(そん)族(ぞく)(海(あま)部族(べぞく)だ。)の皇子(みこ)(6代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)だ。)としては、2代目の天(あま)照(てらすの)大(おおみ)神(かみ)(邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の女王、2代目卑(ひ)弥(み)呼(こ)・菊(くく)理(り)姫(ひめ)だ。)と共に、6代目高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)(イザナギ尊だ。)の正統な皇位(こうい)の継(けい)承(しょう)者(しゃ)であることを主張して、衰えつつある越(こしの)の国の高(たかみ)皇(む)産(す)霊(びの)神(かみ)の一族を撃破すべく、弥生(やよい)時代(じだい)からの王朝である出雲(いずも)王朝の姫(ひめ)君(きみ)(クシナダ姫だ。)との婚姻(こんいん)関係(かんけい)を結んで、出(いず)雲(も)神(しん)族(ぞく)の援軍を得て、東(とう)征(せい)を進めたのだ。そしてまた、この頃には、その異母姉で先(せん)妃(ぴ)である2代目天(あま)照(てらすの)大(おおみ)神(かみ)(邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の女王、2代目卑弥呼(ひみこ)・金山(かなやま)姫(ひめ)・初代埴安(はにやす)姫(ひめ)・火(ほ)之(の)戸(と)幡(ばた)姫(ひめ)・南(なん)海(かい)津(つ)姫(ひめ)・神皇(かみ)産(むす)霊(びの)尊(みこと)・菊(くく)理(り)姫(ひめ)だ。)としては、すでに、日(ひゆ)向(うが)族(ぞく)との統合を終わっていて、福岡県の宗像(むなかた)地方から宇佐(うさ)地方にかけ、その本拠地を移動していたのだ。やがて、広島県の厳(いつく)島(しま)神社(じんじゃ)(広島県甘(はつ)日(か)市市(いちし)宮島町(みやじままち)だ。)や、吉(き)備(び)地方へ、およそ、10年の歳月を経て東(とう)征(せい)を進めたのだ。そしてまた、出(いず)雲(も)神(しん)族(ぞく)の援軍と共に、安(あ)芸(き)や、吉(き)備(び)から、播(はり)磨(ま)や、河内(かわち)、紀(き)伊(い)や、熊野(くまの)や、大(やま)和(と)地方へ、東(とう)征(せい)を果たした、ということなのだ。また、その後、その子孫たちによって、やっと、国内の統一を成し遂げた、ということなのだ。 

さてそれでは、朝(ちょう)鮮(せん)の馬(ば)韓(かん)地方を治めたという熊(くま)伯(はか)多(た)の宗(そう)孫(そん)王(おう)(筑(ちく)紫(し)王(おう)だ。)の子孫としては、高(こう)句(く)麗(り)王(おう)の始祖の朱蒙(ちゅもん)王(おう)なのだ。そしてまた、養(よう)子(し)の百(く)済(だら)王(おう)の初代温祢(おんじゅ)王(おう)は、AD6年に亡くなっているが、およそ、50年後には、『後(ご)漢書(かんしょ)』の建武中元2年(AD57年だ。)の条によれば、『倭(わの)奴(なの)国(くに)、貢(みつぎ)を奉じて朝(ちょう)賀(か)す。使人(つかいびと)自ら大夫(だゆう)と称す。倭(わの)国(くに)の極(きょく)南界(なんかい)なり。光武(こうぶ)賜うに印綬(いんじゅ)を以という。』とも伝えているから、この頃の倭(わの)国(くに)の倭(わの)奴(なの)国(くに)とは、志(し)賀(かの)島(しま)の付近なのだ。そしてまた、志(し)賀(かの)島(しま)から発見された『漢委(かんのい)奴(のなの)国王(こくおう)』の『金印(きんいん)』の持ち主についてだが、この奴(なの)国(くに)の本拠地としては、伊都(いと)国(こく)(福岡県糸(いと)島(しま)市(し)の地域だ。)なのだ。そしてまた、AD57年に、『漢委(かんのい)奴(のなの)国王(こくおう)』という『金印(きんいん)』を賜った、という倭(わの)奴(なの)国王(こくおう)の実像なのだが、海部(あまべの)大神(おおかみ)・初代奈賀(なが)の大(おお)人(うし)様(さま)(実際は、4代新(しら)羅(ぎ)国(こく)王(おう)の脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)・昔(そく)脱(た)解(れ)AD57~80年だ。)である、ということなのだ。そしてまた、この人物の子(実際は、娘むこだ。)こそが、出(いず)雲(も)神(しん)族(ぞく)の援軍要請にこたえて、協力された、という人物なのだ。つまり62代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の天(あめの)豊(とよ)足(たる)別(わけ)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)である海部(あまべの)大神(おおかみ)・2代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)・アメノカガミ尊(のみこと)(5代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の婆(ぱ)娑(さ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)AD80~112年だ。)なのだ。その後は、『後(ご)漢書(かんしょ)』の『光武(こうぶ)帝(てい)紀(き)』の安帝(あんてい)の永初元年(AD107年だ。)の条によれば、『倭(わ)王師(おうし)升(しょう)等、生口160人を献じ、請見を願う。』とも伝えるが、このとき倭(わ)王(おう)という師(し)升(しょう)の請見の時期は、AD57年から更に50年後(AD107年だ。)となるから、この倭(わ)王(おう)の師(し)升(しょう)の本拠地としては、すでに、福岡県粕(かす)屋(や)郡(ぐん)の竜(りゅう)宮(ぐう)城(じょう)(大(わた)海(つみ)祇(みの)神(かみ)の本拠地だ。)の辺りであった、とも推測されるのだ。また、海部(あまべの)大神(おおかみ)・2代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)・アメノカガミ尊(のみこと)(5代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の婆(ぱ)娑(さ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)AD80~112年だ。)である、ということなのだ。そしてまた、大(わた)海(つ)祇(みの)神(かみ)である奈賀(なか)の大(おお)人(うし)様(さま)の子孫のたちのうちでは、海(あま)部(べの)大(おお)神(かみ)・3代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)(アメノヨロズ尊(のみこと)・63代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)・事(こと)代(しろ)国(くに)守(もり)高(たか)彦(ひこ)尊(のみこと)天(すめら)皇(みこと)・6代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の祇(ち)摩(ま)尼(い)師(さ)今(ぐむ)AD112~134年だ。)や、そしてまた、その1代後の海(あま)部(べの)大(おお)神(かみ)・4代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)(アワナギ尊(のみこと)64代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の豊(とよ)日(ひ)豊(とよ)足(たり)彦(ひこ)天(すめら)・65代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)・7代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の逸(いる)聖(そん)尼(い)師(さ)今(ぐむ)AD134~154年だ。)たちである、ということなのだ。 

そしてまた、このアワナギ尊(のみこと)(4代海部(あまべの)大神(おおかみ)・4代奈(な)賀(が)の大人(おおうし)様(さま)だ。)や、次のイザナギ尊(のみこと)(5代海部(あまべの)大神(おおかみ)・5代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)・66代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の豊(とよ)柏(かしわ)木(ぎ)幸(さ)手(て)男(お)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)・8代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の阿(あ)達(だる)羅(ら)尼(い)師(さ)今(ぐむ)AD154~184年だ。)たちとしては、越(こし)の国のオロチ族(竜(りゅう)蛇族(じゃぞく)だ。)の族長の娘を娶っているが、この頃、越(こし)の国のオロチ族(竜(りゅう)蛇族(じゃぞく)だ。)の5代目高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)(玉(たま)気(き)根(ね)命(のみこと)・初代豊(とよ)受(うけの)大(おお)神(かみ)だ。)としては、天(てん)孫(そん)族(ぞく)の懐(かい)柔(じゅう)政(せい)策(さく)のために、その皇子のイザナギ尊(のみこと)を、その後継者(6代目高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)神(かみ)・八(や)十(そ)気(き)根(ね)尊(のみこと)だ。)として受け入れ、姫(ひめ)君(ぎみ)のイザナミ姫のむことして、6代目高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)神(かみ)(八(や)十(そ)気(き)根(ね)尊(のみこと)だ。)としたのだ。そしてまた、この2人の間に、そのもうけた実子(イザナミ姫の実子だ。)としては、スサノオ尊(のみこと)(実際は、7代目高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)・高気(たかき)根(ね)尊(のみこと)・高(たか)城(ぎの)神(かみ)・7代海部(あまべの)大神(おおかみ)・7代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)だ。)がいた、ということなのだ。それでは、この7代目高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)である高気(たかき)根(ね)尊(のみこと)(高(たか)城(ぎの)神(かみ)・スサノオ尊(のみこと)だ。)の後(ご)妃(ひ)としては、出雲(いずも)王朝の姫(ひめ)君(ぎみ)の刺(さし)国(くに)若(わか)姫(ひめ)(クシナダ姫・豊(とよ)建(たけ)日(ひる)若(わか)姫(ひめ)・ワカヒルメムチ尊だ。)がいた、ということなのだ。 

さてそれでは、2世紀中葉の頃には、このウガヤフキアエズ王朝の67代不(ふき)合(あえず)天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)・春(はる)建(たけ)日(ひる)姫(ひめの)天(すめら)皇(みこと)である2代目の天(あま)照(てらすの)大神(おおみかみ)(オオヒルメムチ尊だ。)としては、吉野(よしの)ケ里(がり)遺跡(いせき)のある筑紫(つくし)国(こく)の巫(み)女(こ)として、また、邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の女王の2代目卑(ひ)弥(み)呼(こ)(大地(だいち)の神・土(つち)神(がみ)の初代埴安(はにやす)姫(ひめ)・火(ほ)之(の)戸(と)幡(ばた)姫(ひめ)・南(なん)海(かい)津(つ)姫(ひめ)・神(かみ)皇(む)産(す)霊(び)尊(のみこと)・菊(くく)理(り)姫(ひめ)だ。)として、10歳前後で祭祀の継承者ともなっていたのだ。その後の2世紀後半(AD180年頃だ。)の頃には、邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)連合(れんごう)(31ケ国の連合国だ。)の本拠地としては、佐賀県の吉(よし)野(の)ケ(が)里(り)遺(い)跡(せき)(猿田族(さるたぞく)・物(もの)部(のべ)族(ぞく)・海(あま)部(べ)族(ぞく)・宗(むな)像(かた)海(かい)人(じん)族(ぞく)・秦(はた)一(いち)族(ぞく)の本拠地だ。)の久(く)留(る)米(め)市(し)の付近から、福岡県粕屋郡(かすやぐん)や、宗像郡(むなかたぐん)や宇佐(うさ)嶋(じま)(大分県宇(う)佐(さ)市(し)だ。)の辺りを、その本拠地としていたのだ。つまり古代(こだい)史家(しか)の古田武彦氏が指摘される博多(はかた)湾岸(わんがん)の『邪(や)馬(ま)壹(いち)国(こく)』としては、この頃の時代である、ということなのだ。そしてまた、その後の3世紀初頭(AD200年初頭だ。)には、この2代目の天(あま)照(てらすの)大神(おおみかみ)(2代目卑弥呼(ひみこ)・オオヒルメムチ尊・埴(はに)安(やす)姫(ひめ)・火(ほ)之(の)戸(と)幡(ばた)姫(ひめ)・南(なん)海(かい)津(つ)姫(ひめ)・神皇(かみむ)産(す)霊(びの)尊(みこと)・菊(くく)理(り)姫(ひめ)だ。)としては、その夫である海部(あまべの)大神(おおかみ)・6代奈賀(なが)の大(おお)人(うし)様(さま)(スサノオ尊(のみこと)だ。)たち天(てん)孫(そん)族(ぞく)(宗(むな)像(かた)海(かい)人(じん)族(ぞく)だ。)の一族と共に、安(あ)芸(き)国(こく)の厳(いつく)島(しま)神(じん)社(じゃ)(実際は、広島県甘(はつ)日(か)市市(いちし)宮島町(みやじままち)の地域だ。)の周辺から、およそ、10年の歳月を経て、畿内(きない)の大和(やまと)地方へ移動していったのだ。そしてまた、海部(あまべの)大神(おおかみ)・6代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)であるスサノオ尊(のみこと)としては、東征(とうせい)するための条件として、当時の出(いず)雲(も)王朝の姫(ひめ)君(ぎみ)であるクシナダ姫(ひめ)(実際は、ワカヒルメムチ尊・神(かむ)衣(さ)織女(おりめ)命(のみこと)だ。)を、その後(ご)妃(ひ)(次(じ)妃(ひ)だ。)として娶ったのだ。そしてまた、出(いず)雲(も)神(しん)族(ぞく)の協力を得て、いよいよ、日本(にほん)海側(かいがわ)の隠岐(おき)の島から出(いず)雲(も)地方へ進出したのだが、当時の出雲(いずも)国(こく)を支配していたオロチ族(実際は、竜(りゅう)蛇(じゃ)族(ぞく)・高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)の一族(いちぞく)だ。)を制圧した、ということなのだ。 

さてそれでは、その後、天(あま)照(てらすの)大神(おおみかみ)(2代目卑弥呼(ひみこ)・オオヒルメムチ尊だ。)や、次(じ)妃(ひ)のクシナダ姫(ひめ)(ワカヒルメムチ尊・神(かむ)衣(さ)織(おり)女(め)命(のみこと)だ。)たち2人の妃(きさき)と共に、この海部(あまべの)大神(おおかみ)・6代奈賀(なが)大人(おおうし)様(さま)(スサノオ尊(のみこと)だ。)たちは、その支配地域を拡大し、同族の3部族を統一するために、吉備(きび)・備(び)前(ぜん)市(し)地方から阿波(あわ)・播磨(はりま)や、河内(かわち)・紀伊(きい)・奈良(なら)・京(きょう)都(と)へ東征(とうせい)して、やがて、越(こし)や、近江(おうみ)のオロチ族(その主力勢力は、すでに、弥生時代(やよいじだい)からの出雲(いずも)王朝を滅亡させた、スクナミ神の一派だ。)との最後の決戦を試みた、ということなのだ。そしてまた、この・越(こし)・近江(おうみ)のスクナミ神(オロチ族だ。)の一派の勢力を撃破後は、畿(き)内(ない)の大(やま)和(との)国(くに)の十(と)市(いち)郡(ぐん)の香(かぐ)山村(やまむら)を、その本拠地としたのだ。そしてまた、3世紀(AD200年。)の初頭の頃には、近江(おうみ)のスクナミ神の竜(りゅう)蛇(じゃ)神(しん)を祀るオロチ族の連(れん)合(ごう)国(こっ)家(か)(宗主国の竜(りゅう)王国(おうこく)や、28ケ国の連合(れんごう)国家(こっか)だ。)との最後の決戦が行われた、ということなのだ。そしてまた、滋賀県の守山市(もりやまし)・野洲町(やすちょう)・竜(りゅう)王(おう)町(ちょう)・中主町(なかぬしちょう)・近(おう)江(み)八(はち)幡(まん)市(し)の近辺で、この勢力と激突したのだが、滋賀県の野洲町(やすまち)の天(あま)の安河(やすかわ)を挟んで、対峙したものとも推測されるのだ。ところで、この天の安河(野洲(やす)川(かわ)だ。)の対峙こそが、畿内(きない)地方に東(とう)征(せい)を果たした海(あま)部(べの)大(のおお)神(かみ)一(いち)族(ぞく)(大海(わたつみの)大神(おおかみ)・物(もの)部一族(のべいちぞく)・海(あま)部(べ)族(ぞく)・宗(むな)像(かた)海(かい)人(じん)族(ぞく)・筑紫(ちくし)王(おう)の子孫だ。)や、これを迎え撃つ、オロチ族の主力部隊(近江(おうみ)のスクナミ神の一族だ。)による壮大な歴史ドラマが読み取れるのだが、しかしながら『記紀(きき)』の中では、すべてまったく抹殺されているのだ。つまり2代目天(あま)照(てらすの)大神(おおみかみ)(オオヒルメムチ尊だ。)や、スサノオ尊(のみこと)たちの『うけい』の逸話ともなっているからなのだ。しかしながら、オロチ族(近江(おうみ)のスクナミ神の一族だ。)の連合(れんごう)国家(こっか)こそが、弥生(やよい)時代からの出(いず)雲(も)王朝を滅ぼした部族なのだ。そしてまた、強大な越(こし)・近江(おうみ)のオロチ族(竜(りゅう)蛇(じゃ)族(ぞく)・スクナミ大(おお)神(かみ)を祀る一族だ。)の連合国家である、ということなのだ。そしてまた、越前(えちぜん)・越中(えっちゅう)・越後(えちご)から丹波(たんば)・但馬(たじま)・丹後(たんご)や、近江(おうみ)・美濃(みの)・尾張(おわり)・三(み)河(かわ)までその支配地域とする『少数の高性能な鉄製(てつせい)の剣(つるぎ)を持つ騎(き)馬(ば)集(しゅう)団(だん)』なのだ。そしてまた、鉄の優れた鋳造技術を持つ新(しら)羅(ぎ)国(こく)の『金(きむ)閼(ある)智(ち) 始(し)祖(そ)伝(でん)説(せつ)』の金(きむ)閼(ある)智(ち)(実際は、東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)王朝の15代依(い)羅(ら)王(おう)だ。)たちの高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)の一族こそが、越(こし)・近(おう)江(み)のオロチ族(弁(べん)辰(しん)の神人(しんじん)の人々だ。)の連合国家なのだ。また、狗(く)邪(や)韓国(からくに)の伽(か)耶(や)の地域の『金(きむ)首(す)露(ろ)王(おう)伝(でん)説(せつ)』は、この『金(きむ)閼(ある)智(ち) 始(し)祖(そ)伝(でん)説(せつ)』から創作されたものなのだ。そしてまた、邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の連合国家に対抗した、という狗(く)奴(な)国(こく)(新羅(しらぎ)系(けい)の白(はく)蛇族(じゃぞく)だ。)であるとも推測されるのだ。ところで、当時の拠点地域の1つは、滋賀県守(もり)山(やま)市(し)の野(や)洲(す)町(まち)や、竜(りゅう)王(おう)町(まち)や、中主町(なかぬしまち)や、近(おう)江(み)八(はち)幡(まん)市(し)などの地域なのだ。 

さてそれでは、2016年10月18日付の『上(じょう)毛(もう)新聞(しんぶん)』の記事を見れば、『古墳時代前期の最大級の建物後発見』という見出しで滋賀県彦根市(ひこねし)の稲部(いなべ)遺跡(いせき)について記述しているのだ。そしてまた、その内容としては、『滋賀県彦(ひこ)根(ね)市(し)の稲(いな)部(べ)遺(い)跡(せき)で、古墳時代前期(3世紀中ごろ)の大型建物跡(面積188平方㍍)が見つかり、17日、市教育委員会が発表した。弥生時代末~古墳時代前期では、邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の有力候補地とされる纏(まき)向(むく)遺(い)跡(せき)(奈良県桜(さくら)井(い)市(し))の大型建物跡(238平方㍍)に次ぐ規模たった。また当時では国内最大規模の鍛(か)冶(じ)工(こう)房(ぼう)とみられる遺構も見つかった。遺跡は東日本と西日本をつなぐ交通の要衝に位置。邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の頃にあった30国の1つとする見方もあり、邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)から大和政権成立期に鉄と交易で栄えた一大勢力があったこを示す遺跡として注目されそうだ。建物跡は縦16・2㍍。横11・6㍍。柱穴の大きさは1・5㍍と巨大で、柱の直径は0・3~0・4㍍。そばには柵とみられる柱穴の列もあり、豪族居館などだった可能性がある。同じ場所で、柱が多い総柱建物(145平方㍍)に建て替えられており、総柱建物は物流に関わる巨大倉庫と見られている。弥生末~古墳前期の竪穴建物23棟からは鉄片など約6㌔分が出土。集落からの出土としては全国的にも屈指の量という。ハンマーとして使った石や、鉄の矢尻も出土したことから、市教委は、鉄(てつ)器(き)生(せい)産(さん)を専業とする工房で、鉄(てつ)製(せい)武(ぶ)器(き)などを作っていたとみており、「地域の鉄(てつ)器(き)生(せい)産(さん)センターではないか」と話している。遺跡からは福井、岐阜、静岡、奈良、鳥取など各地の土器も出土、3世紀の物流の中心的な遺跡と見られるという。稲部(いなべ)遺跡(いせき)は、大規模集落の伊(い)勢(せ)遺(い)跡(せき)(滋賀県守山市(もりやまし))と入れ替わるように登場。弥生後期から古墳時代中期まで400年にわたり存続し、建物の配置などから6時期に分けることが出きるという。市教委は「大和政権との結び付きによって大型建物が出現したと考えられ、倭(わ)国(こく)形成期の変遷を捉えることができる遺跡だ」と評価している。』とも伝えているのだ。 

さてそこで、私見によれば、滋賀県守山市(もりやまし)の弥生時代(やよいじだい)の大規模集落という伊(い)勢(せ)遺(い)跡(せき)こそが、滋賀県守(もり)山(やま)市(し)や、野(や)洲(す)町(まち)や、竜(りゅう)王(おう)町(まち)や、中主町(なかぬしまち)や、近(おう)江(み)八(はち)幡(まん)市(し)などを中心拠点とした出雲(いずも)王朝(クナトノ大(おお)神(かみ)を祀る一族だ。)の最後の一大拠点地域なのだ。そしてまた、この王朝を滅亡させて入れ替わった王朝こそが、高性能な鉄(てつ)器(き)武(ぶ)器(き)を持つ騎(き)馬(ば)軍(ぐん)団(だん)の、越(こし)・近江(おうみ)のオロチ族(竜(りゅう)蛇(じゃ)族(ぞく)・スクナミ大(のおお)神(かみ)を祀る一族だ。)なのだ。そしてまた、滋賀県彦(ひこ)根(ね)市(し)の稲部(いなべ)遺跡(いせき)とは、近江(おうみ)のオロチ族のスクナミの一族の中心拠点とも推測されるのだ。また、このオロチ族(竜(りゅう)蛇(じゃ)族(ぞく)・スクナミ大(おお)神(かみ)を祀る一族だ。)とは、韓(かん)半島の新(し)羅(らぎ)の辰(しん)韓(かん)や、弁(べん)韓(かん)の狗(く)邪(や)韓国(からくに)(弁(べん)辰(しん)狗(く)邪(や)国(こく)人(じん)だ。)の一部さえ、この白(はく)蛇族(じゃぞく)(弁(べん)辰(しん)の神人(しんじん)・竜(りゅう)蛇(じゃ)族(ぞく)だ。)である高性能な鉄製の剣(つるぎ)や、鎧(よろい)を持つ騎(き)馬(ば)集団(しゅうだん)が支配した地域なのだ。そしてまた、オロチ族(実際は、弁(べん)辰(しん)の神人(しんじん)・高性能な鉄製(てつせい)の剣(つるぎ)を持つ騎馬(きば)集団(しゅうだん)の人々だ。)とは、畿内の琵琶(びわ)湖(こ)を拠点として弥生(やよい)時代からの『稲(いな)作(さく)・銅鐸(どうたく)文化圏(ぶんかけん)』を形成していた、という出雲(いずも)神族(しんぞく)の出雲(いずも)王朝を滅亡させた勢力なのだ。なぜならば、滋賀県の野洲市(やすし)の大岩山(おおいわやま)から出土した20数個の日本一大きい銅鐸(どうたく)こそが、弥(やよ)生(い)時代からの出雲(いずも)神族(しんぞく)の『稲(いな)作(さく)・銅鐸(どうたく)文化圏(ぶんかけん)』の象徴ということだからなのだ。そしてまた、この『稲(いな)作(さく)・銅鐸(どうたく)文化圏(ぶんかけん)』の勢力を滅ぼした越(こし)・近江(おうみ)のオロチ族(竜(りゅう)蛇(じゃ)族(ぞく)だ。)こそが、この地方を支配したのだが、そのことが、滋賀県彦根市(ひこねし)の稲部(いなべ)遺跡(いせき)から推測されるのだ。つまり出雲(いずも)神族(しんぞく)としては、弥生(やよい)時代には、島根(しまね)や、鳥取(とっとり)から、丹後(たんご)や、但馬(たじま)や、近江(おうみ)や、伊勢(いせ)や、志(し)摩(ま)や、尾張(おわり)や、美濃(みの)にかけ、畿内の6ケ国を支配していた証(あかし)としては、加茂(かも)岩倉(いわくら)(島根県雲南市(うんなんし)・銅(どう)鐸(たく)39個出土だ。)や、大(おお)岩(いわ)山(やま)(滋賀県野洲市(やすし)・銅鐸(どうたく)24個出土だ。)や、桜ヶ丘(さくらがおか)(兵庫県神(こう)戸(べ)市(し)・14個出土だ。)や、淡路(あわじ)島(しま)(南あわじ市・21個出土だ。)など、当時の全国から、530個もの銅鐸(どうたく)が発見されているからなのだ。 

そしてまた、弥生(やよい)時代(じだい)には、この出(いず)雲(も)王朝こそが、山陰(さんいん)から山陽(さんよう)や、北陸(ほくりく)や畿(き)内(ない)地(ち)方(ほう)一(いっ)帯(たい)を支配していたのだ。そしてまた、因州(いんしゅう)(山陰(さんいん)の宇津(うつ)奴族(ぬぞく)・出雲(いずも)神族(しんぞく)だ。)こそが、出雲(いずもの)国(くに)の鞍(くら)山(やま)津(つ)大(のおお)神(かみ)の一族なのだ。そしてまた、その子という沖津久斯山祢(おきつくしやまづみの)神(かみ)(大(おお)山(やま)祇(づみの)神(かみ)だ。)や、その子という宇(う)都(つ)斯(し)山(やま)祢(つみの)神(かみ)としては、芸州(げいしゅう)(山陽(さんよう))の亜羅(あら)三毛族(みけぞく)や、大和(やまと)の宇止(うと)三毛族(みけぞく)や、紀州(きしゅう)の奈(な)津(つ)三(み)毛(け)族(ぞく)や、越州(えっしゅう)(北(ほく)陸(りく))の奈津(なつ)三毛族(みけぞく)たちなのだ。そしてまた、20数個の日本一大きい銅鐸(どうたく)(祭祀のための道具や権力の証(あかし)だ。)を制作するほどの、銅の精(せい)錬(れん)技(ぎ)術(じゅつ)を、当時、すでに持っていた、ということなのだ。そしてまた、天平(てんぴょう)の時代に、世界一大きいという、東大寺(とうだいじ)の大仏(だいぶつ)建立(こんりゅう)の基盤ともなった、ということなのだ。 

さてそれでは、そもそも、倭(わ)国(こく)には、1万年の昔から、文字のない縄(じょう)文(もん)時(じ)代(だい)(縄(じょう)文(もん)文(ぶん)化(か)圏(けん)だ。)があったのだ。また、紀元前1800~1600年頃には、中国系の神(しん)農(のう)氏(し)(ミャオ族系だ。)が文字を持って亡命してきたのだ。その後は、秦(しん)帝国(ていこく)の始(し)皇帝(こうてい)の命(めい)で紀元前200年頃には、秦(しんの)徐(じょ)福(ふく)が、稲(いな)作(さく)文(ぶん)化(か)や、銅(どう)の精(せい)錬(れん)技(ぎ)術(じゅつ)を持って入ってきたのだ。これが、出(いず)雲(も)王(おう)朝(ちょう)(主に、島根や、畿内(きない)の地域だ。)の銅(どう)鐸(たく)文(ぶん)化(か)圏(けん)なのだ。その後、筑紫(ちくし)王(おう)(始(し)皇帝(こうてい)のひ孫だ。)の一族が、九州の伊都(いと)国(こく)を建国し、そこへ高句(こうく)麗(り)の朱(ちゅ)蒙(もん)の盟(めい)友(ゆう)の1人の陜(ひょっ)父(ぽ)だ。)が、福岡県粕(かす)屋(や)郡(ぐん)の竜(りゅう)宮(ぐう)城(じょう)の大(わた)海(つみ)祇(の)神(かみ)(初代奄賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)・ウガヤ王朝だ。)の一族にむこ入りしてきたのだ。その後は、金(きむ)閼(ある)智(ち)(実際は、東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)王朝の15代依(い)羅(ら)王(おう)だ。)たちの高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)の一族こそが、越(こし)・近江(おうみ)のオロチ族(弁(べん)辰(しん)の神人(しんじん)の人々だ。)の連合国家として、鉄器文化と、優れた鉄の鋳造技術を持って入ってきたのだ。その後、天(てん)孫(そん)族(ぞく)でオロチ族の血を引く大(あま)海(べの)大(おお)神(かみ)・6代奈(な)賀(か)の大(おお)人(うし)様(さま)であるスサノオ尊(のみこと)(火(ひ)産(むす)霊(び)尊(のみこと)だ。)によって、この3大部族が統合された、ということなのだ。 

さてそれでは、邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の女王(じょうおう)2代目卑弥呼(ひみこ)(天(あま)照(てらすの)大神(おおみかみ)・オオヒルメムチ尊・菊(くく)理(り)姫(ひめ)だ。)と、6代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)のスサノオ尊(のみこと)(7代目高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)神(かみ)・高気(たかき)根(ね)尊(のみこと)・高(たか)城(ぎの)神(かみ)だ。)との2人の間に、そのもうけた姫としては、天(あま)照(てる)瑞(みず)姫(ひめ)である宗(そう)女(じょ)の台(と)与(よ)姫(ひめ)(スセリ姫・宗(むな)像(かた)の3女(じょ)神(しん)だ。)がいたのだ。そしてまた、その別名称とは、イシコリドメ命や、稚産(わかむす)霊神(びのかみ)や、五十(いそ)姉(ね)姫(ひめ)などだ。また、その実兄のウガ御(のみ)魂(ため)命(のみこと)も誕生していたが、その別名称とは、天(あまの)穂(ほ)日(ひ)命(のみこと)や、少(すくな)彦(ひこ)名(な)命(のみこと)や、久延彦(くえびこ)命(のみこと)などだ。また、沖(おき)津(つ)久(く)斯(し)山(やま)祢(づみ)神(のかみ)(大(おお)山(やま)祇(づみの)神(かみ)だ。)の子孫という出雲(いずもの)大神(おおかみ)(テナヅチ・アシナヅチだ。)の娘のクシナダ姫(ひめ)とは、スサノオ尊(のみこと)(7代目高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)・高気(たかき)根(ね)尊(のみこと)・高(たか)城(ぎの)神(かみ)だ。)の後(ご)妃(ひ)(次(じ)妃(ひ)だ。)ともなったのだが、このクシナダ姫との2人の間に、大(おお)国(くに)主(ぬし)命(のみこと)や、神(かみ)水(みず)姫(ひめ)(栲(たく)幡(はた)千(ち)々(ち)姫(ひめ)だ。)たち2人の実子をもうけていたのだ。そしてまた、2代目天(あま)照(てらすの)大神(おおみかみ)(2代目卑弥呼(ひみこ)・オオヒルメムチ尊(のみこと)・神皇(かみむ)産(すび)霊(の)尊(みこと)・67代不(ふき)合(あえず)天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)・春(はる)建(たけ)日(ひる)姫(ひめの)天皇(すめらみこと)だ。)と共に、スサノオ尊(のみこと)(実際は、7代目高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)・高気(たかき)根(ね)尊(のみこと)・天(あま)津(つ)日(ひ)高(たか)日(ひ)子(こ)宗(むな)像(かた)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)不(ふき)合(あえず)68代天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)・高(たか)天(まが)原(はら)建(たけ)彦(ひこの)尊(みこと)・世(よ)幸男(ゆきお)だ。)とは、ウガヤフキアエズ王朝(実際は、福岡の宗(むな)像(かた)大(たい)社(しゃ)・志賀(しか)島(じま)の海(わた)神(つみ)神(じん)社(じゃ)の祭神の海(あま)部(べの)大(おお)神(かみ)だ。)や、出(いず)雲(もの)王朝や、オロチ王朝(高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)・スクナミ大(おお)神(かみ)だ。)など3大王朝の継承者ともなった、ということなのだ。 

さてそれでは、多(た)賀(が)大(たい)社(しゃ)の祭神は、イザナギ尊や、イザナミ姫なのだが、本当の祭神とは、オロチ族の姫君であるイザナミ姫を祀る神社なのだ。そしてまた、出(いず)雲(も)大(たい)社(しゃ)(鞍(くら)山(やま)津(つ)大(のおお)神(かみ)・クナトノ大(おお)神(かみ)だ。)の祭神とは、大(おお)國(くに)主(ぬし)命(のみこと)だが、本当の祭神とは、出(いず)雲(も)神(しん)族(ぞく)のクシナダ姫を祀るのだ。そしてまた、滋賀県彦(ひこ)根(ね)市(し)の多(た)賀(が)大(たい)社(しゃ)の一帯とは、近江(おうみ)のスクナミ神のオロチ族の本拠地なのだ。また、中世に起こった一向一揆としては、この越(こし)・近江(おうみ)のオロチ族の子孫らによる連携なのだ。また、巴(ともえ)の「いかづち」の紋(もん)章(しょう)とは、越(こし)・近(おう)江(み)のオロチ族のシンボルなのだ。そしてまた、菊の紋(もん)章(しょう)とは、天(てん)孫(そん)族(ぞく)のシンボルなのだ。そしてまた、初代天(あま)照(てらすの)大神(おおみかみ)(阿(あ)老(ろ)だ。)や、2代目天(あま)照(てらすの)大神(おおみかみ)(2代目卑弥呼(ひみこ)・オオヒルメムチ尊(のみこと)・神皇(かみ)産(む)霊(すび)尊(のみこと)・菊(くく)理(り)姫(ひめ)だ。)とも関わるのだ。さてところで、2代目天(あま)照(てらすの)大(おおみ)神(かみ)(2代目卑(ひ)弥(み)呼(こ)・オオヒルメムチ尊(のみこと)・神(かみ)皇(む)産(す)霊(び)尊(のみこと)・菊(くく)理(り)姫(ひめ)だ。)や、スサノオ尊(のみこと)(7代目高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)神(かみ)・高気(たかき)根(ね)尊(のみこと)だ。)や、クシナダ姫(ひめ)たちは、その子たちのウガ御魂(のみたま)尊(のみこと)や、大(おお)国(くに)主(ぬし)命(のみこと)(アマツヒコネ命・初代宇(う)佐(さ)津(つ)彦(ひこ)命(のみこと)だ。)や、その娘や、孫の天火(あまのほ)明(あかり)命(のみこと)(ヒコホホデミ尊(のみこと)・ヒノハヤヒ命・宇(う)治(じの)土(つちの)公(きみ)の祖(そ)神(しん)・サルタヒコ大神・イクツヒコネ命・ウガ御魂(のみたま)命(のみこと)の実子だ。)たちを引き連れて、越(こし)・近江(おうみ)のオロチ族(実際は、竜(りゅう)蛇(じゃ)神(しん)を祀るスクナミ大(のおお)神(かみ)の一族・高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)神(かみ)の一族だ。)を撃破すべく、2世紀の末頃(190年頃だ。)には、但馬(たじま)・丹波(たんば)・丹後(たんご)の宮(みや)津(つ)地(ち)方(ほう)へ進出されたものと推測されるのだ。また、但馬(たじま)・丹波(たんば)・丹後(たんご)の宮津(みやつ)(元(もと)伊(い)勢(せ)地(ち)方(ほう)だ。)の越(こし)(北(ほく)陸(りく)道(どう)だ。)のオロチ族(実際は、高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)神(かみ)一(いち)族(ぞく)だ。)を制圧した後は、スサノオ尊(のみこと)や、その実子の大(おお)国(くに)主(ぬし)命(のみこと)(実際は、思兼(おもひかね)神(のかみ)・海(かい)神(じん)・大(おお)屋(や)彦(ひこ)命(のみこと)・五(い)十(た)猛(ける)命(のみこと)・初代大(おお)物(もの)主(ぬし)命(のみこと)・三(み)輪(わ)山(さん)の祭神だ。)たち2人は、越(こし)の新潟県糸(いと)魚(い)川(がわ)市(し)のオロチ族を近くの牛山(うしやま)に陣取って対じ、その勢力を撃破し、やがてスサノオ尊(のみこと)は、その実子の五(い)十(た)猛(ける)命(のみこと)(実際は、大国主(おおくにぬし)命(のみこと)・大(おお)屋(や)彦(ひこ)命(のみこと)・大(おお)年(とし)命(のみこと)・天(あまの)御(み)食(け)持(もちの)命(みこと)だ。)と共に、韓(かん)半島の狗(く)邪(や)韓国(からくに)に渡っているのだ。実際は、ヤク国とは、韓(かん)半島のクヤ韓国(からくに)の逆とも推測されるのだ。そしてまた、越(こし)のオロチ族(実際は、竜(りゅう)蛇(じゃ)族(ぞく)・狗(く)奴(な)国(こく)だ。)とは、衰えてはいるが、伊勢(いせ)・志摩(しま)や、尾張(おわり)・三(み)河(かわ)地方には、3世紀の後半頃(270年の頃だ。)までは、その残存勢力が存在していたのだ。そしてまた、大(おお)国(くに)主(ぬし)命(のみこと)の子(実際は、娘の光明(くぁんみょん)夫人(おおとじ)の夫だ。)である天(あまの)香山(かごやま)命(のみこと)(ト部(とべ)・中臣(なかとみ)氏(し)の祖、天児(あまのこ)屋根(やね)命(のみこと)だ。)によって、最後に、制圧(実際としては、オロチ族の皇子の長男こそが娘むこに入ったのだ。)されたのだ。そしてまた、初代神武(じんむ)天皇(てんのう)の東征(とうせい)としては、その後の時代なのだ。そしてまた、天火(あまのほ)明(あかり)命(のみこと)(ヒコホホデミ尊(のみこと)・ヒノハヤヒ命・宇治土(うじのつちの)公(きみ)の祖(そ)神(しん)・サルタヒコ大神だ。)の実子としては、宇(う)摩(ま)志(し)痲(ま)治(じ)命(のみこと)だが、この人物の分身こそが、初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)なのだ。そしてまた、この宇(う)摩(ま)志(し)痲(ま)治(じ)命(のみこと)(忌(いん)部(べ)氏の祖、天(あまの)太(ふと)玉(だま)命(のみこと)だ。)こそが、物部(もののべの)石上(いそのかみの)大神(おおかみ)を、その殿内に斎(いわい)い祀(まつ)られ、改めて橿(かし)原(はら)の宮(みや)で即位されたのだ。つまり『先代(せんだい)旧事本(くじほん)紀(き)(全10巻)』の冒頭の部分の記述を見れば、ト部(とべ)(中(なか)臣(とみ)氏(し)だ。)並びに、忌(いん)部(べ)氏の両家に伝わる先祖伝来の『神代(かみよの)古記(こき)』を両家から取り出させ、これを元にして、『先代(せんだい)旧事本(くじほん)紀(き)(全10巻本)』が編纂された、というのだが、この先代(せんだい)旧事本(くじほん)紀(き)』を、基にして、『古(こ)事(じ)記(き)』や、『日本(にほん)書紀(しょき)』が編纂された、とも予測されるのだ。そしてまた、この『先(せん)代(だい)旧(く)事(じ)本(ほん)紀(き)」の巻5の『天(あまつ)孫(みまごの)本(もとつ)紀(ふみ)』の中にこそ、実在の古代天皇の実像が隠されるのだ。それでは、これから、この『先(せん)代(だい)旧(く)事(じ)本(ほん)紀(き)』巻第5の、『天(あまつ)孫(みまごの)本(もとつ)紀(ふみ)』についても検証して見たいと思うのだ。 

そこで『天(あまつ)孫(みまごの)本(もとつ)紀(ふみ)』の中の、天(あまつ)孫(みまご)盤(いわ)余(れ)彦(ひこ)尊(のみこと)の条を見てみれば、宇摩(うま)志(し)麻(ま)治(ち)命(のみこと)について、冒頭の部分だが、『橿(かし)原(はらの)宮(みや)に都(みやこ)をつくる。初(はじめ)て即皇位(あまつひつぎしろしめ)す。號(なづ)けて元年(はじめのとし)と曰(い)ふ。皇(み)妃(め)、姫(ひめ)蹈(たた)鞴(ら)五(い)十(す)鈴(ず)姫(ひめ)命(のみこと)を尊(とほとび)て立(たて)て皇后(きさき)と為(な)す。即(すなわ)ち、大三輪(おおみわ)神女(のかみのむすめ)なり。宇摩(うま)志(し)麻(ま)治(ち)命(のみこと)、先(ま)づ、天(あまつ)瑞(みつの)寶(たから)(海(あ)部(ま)族(ぞく)の長(おさ)である証(あかし)だ。)を獻(たてまつ)る。亦 神(かん)楯(たて)を竪(たて)て以(もっ)て齊(ものいみ)します。五十(いそ)櫛(くし)と謂(い)ふ。亦は今木(いまき)を布(ふ)都(つ)主(ぬしの)劔(つるぎ)に刺めぐらし、大(おお)神(かみ)を殿(みあらかの)内(うち)に齊奏(いわいまつ)る。即(すなわ)ち天璽(あまつしるしの)瑞(みづの)寶(たから)を蔵(おさめ)て以(もっ)て天皇(すめらみこと)の為に鎮(しづめ)祭(まつ)る。時に天(すめら)皇(みこと)寵(みうつ)異(くし)特(みことに)甚(はなはだし)く詔(みことのり)て曰(のたま)く「近(ちか)く殿内(みあらのうち)に宿(さぶらへ)よ」とたまふ。』とも記されるのだ。そこで、物部(もののべの)の石上(いそのかみの)大神(おおかみ)を、その神宮(かみつみや)の殿内(でんない)に齊(いわい)奉(たてま)られ、天璽(あまのしるし)瑞(みつの)寶(たから)を蔵(おさめ)て、以(もっ)て天(すめら)皇(みこと)のために、鎮(しづめ)祭(まつ)るということは、人(ひと)皇(すべらぎ)ともなった自分に対し、『ときの大嘗祭(だいじょうさい)』を執り行われた、ということなのだ。これこそが、古代天皇の分身という証(あかし)である、ということなのだ。 

そしてまた、巻第5の、『天(あまつ)孫(みまごの)本(もとつ)紀(ふみ)』に登場する物(もの)部(のべ)氏(し)の数ある武将(ぶしょう)の中で、『ときの天皇(すめらみこと)の宮(みや)に、物部(もののべの)の石(いその)上(かみの)大(おお)神(かみ)を、物(もの)部(のべ)氏(し)の氏上(うじのかみ)(物部(もののべ)氏(し)の部族(ぶぞく)長(ちょう))として、大連(おおむらじ)や、大(おお)臣(まえつきみ)や、大(おお)宿(すく)禰(ね)として、その神(かみつ)宮(みや)を、殿内(でんない)に奉齊(いわいまつ)られた。』という人物たちこそが、ときの古代天皇の分身なのだという事実を伝えているのだ。さてこの記述は、古代天皇の実像を探るために、大変重要な証(あかし)なのだ。そしてまた、未だに、闇の中に眠る古代天皇の実像を解くことが出来る唯一の一文とも言えるものなのだ。それでは、物部(もののべ)氏(し)の多くの武(ぶ)将(しょう)の中で、物(もの)部(のべ)氏(し)の氏(うじの)上(かみ)(古代(こだい)天皇(てんのう)だ。)ともなったと推測される『大神(おおかみ)を齋(いつき)奉(まつ)る。』とも書かれる一部の人物たちについては、次のとおりなのである。 

●一代目だ。 物部(もののべの)宇摩(うま)志(し)麻(ま)治(ちの)命(みこと)公(ぎみ) 橿原宮(かしはらのみや)(初代神武(じんむ)天皇(てんのう)だ。)に、御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみかど)の御世元(みよにはじめ)に足(すく)尼(ね)と為(な)り、次(つぎ)に食國(みけしくにの)政(まつりごと)を申(もう)す大夫(まえつぎみ)と為(な)り、大神(おおかみ)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

●二代目だ。 物部(もののべの)彦(ひこ)湯支(ゆきの)命(みこと)公(ぎみ) 葛城(かつらぎの)高丘宮(たかおかのみや)(2代綏(すい)靖(ぜい)天皇(てんのう)だ。)に、御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみかど)の御世(みよ)に元足(はじめすく)尼(ね)と為(な)り、次(つぎ)に寵(みいつくしみ)て食國(おすくにの)政(まつりごと)を申(もう)す大夫(まえつぎみ)と為(なっ)て大神(おおかみ)を齋(いわい)奉(まつ)る。 

●三代目だ。 物部(もののべの)大禰(おおねの)命(みこと)公(ぎみ) 片鹽(かたしおの)浮(うき)穴宮(あなのみや)(3代安寧(あんねい)天皇(てんのう)だ。)に、御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみかど)の御世(みよ)に侍(まえつ)臣(ぎみ)と為(なり)て大神(おおかみ)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

●四代目だ。 物部(もののべの)出雲醜(いずものしこの)大臣(おおおみの)命(みこと)公(ぎみ) 輕地(かるのところ)の曲峡宮(まがりをのみや)(4代懿(い)徳(とく)天皇(てんのう)だ。)に、御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみかど)の御(み)世(よ)に食國(おすくにの)政(まつりごと)を申(もう)す大夫(まえつぎみ)と為(なり)て次(つぎ)に大臣(おおおみ)と為(な)り、大神(おおかみ)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

●五代目だ。 物部(もののべの)出石(いずし)心(ごころの)大臣(おおおみの)命(みこと)公(ぎみ) 掖上(わきかみの)池(いけ)心宮(ごころのみや)(5代孝(こう)昭(しょう)天皇(てんのう)だ。)に、御(あめのした)宇(しらす)天(すめら)皇(みかど)の御(み)世(よ)に大(おおまえつ)臣(ぎみ)と為(なり)て大神(おおかみ)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

●六代目だ。 物部(もののべの)三(みつ)見宿禰(みのすくねの)命(みこと)公(ぎみ) 秋(あき)津嶋宮(つしまのみや)(6代孝安(こうあん)天皇(てんのう)だ。)に、御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみかど)の御世(みよ)に並(なら)び近(ちかく)宿(とのい)するに縁(より)て元(はじめ)は足(すく)尼(ね)と為(なり)て、次(つぎ)に宿禰(すくね)と為(な)り、大神(おおかみ)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

●七代目だ。 物部(もののべの)大矢口宿禰(おおやぐちのすくねの)命(みこと)公(ぎみ) 廬(いわ)戸宮(どのみや)(7代孝(こう)霊(れい)天皇(てんのう)だ。)に、御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみかど)の御世(みよ)に並(ならび)て宿禰(すくね)と為(なり)て大神(おおかみ)を齋(いわい)奉(まつ)る。 

●八代目だ。 物部(もののべの)内色(うつしこ)雄(おの)命(みこと)公(ぎみ) 輕境(かるのさかい)原宮(ばらのみや)(8代孝元(こうげん)天皇(てんのう)だ。)に、御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみかど)の御世(みよ)に拜(めし)て大臣(おおまえつぎみ)と為(な)し、大神(おおかみ)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

●九代目だ。 物部(もののべの)大綜(おおへそ)杵(きの)命(みこと)公(ぎみ) 輕境(かるのさかい)原宮(ばらのみや)(8代孝元(こうげん)天皇(てんのう)だ。)に、御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみかど)の御世(みよ)に大禰(おおね)と為(な)り、春日率(かすがのいさ)川宮(かわのみや)(9代開化(かいか)天皇(てんのう)だ。)に、御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみかど)の御世(みよ)大臣(おおまえつぎみ)と為(な)る。則(すなわ)ち皇后(きさき)大臣(おおまえつぎみ)大神(おおかみ)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

(これは、物部(もののべの)大綜(おおへそ)杵(きの)命(みこと)公(ぎみ)については、8代孝元(こうげん)天皇(てんのう)の実弟の大(おお)彦(びこ)命(のみこと)がその実像なのだ。また『春日率(かすがのいさ)川宮(かわのみや)(9代開化(かいか)天皇(てんのう)だ。)に、大臣(おおまえつぎみ)と為(な)る。』というが、ときの天皇とも同格なのだ。また、皇后(こうごう)大臣(おおまえつきみ)とは、これは、9代開化(かいか)天皇(てんのう)の皇后の物部(もののべの)伊香(いか)色(しき)謎(こめ)姫(ひめ)(2代目埴安(はにやす)姫(ひめ)・大(おお)彦(びこ)命(のみこと)の娘だ。)こそが、その夫の9代開(かい)化(か)天(てん)皇(のう)の身代わりとして、一時大(だい)嘗(じょう)祭(さい)を執り行われた人物という意味なのだ。もしかしたなら、伊香(いか)色(しき)謎(こめ)姫(ひめ)の実弟の物(もの)部(のべの)伊(い)香(か)色(しこ)男(お)命(のみこと)(10代崇(す)神(じん)天皇(てんのう)・大(おお)彦(びこ)命(のみこと)の実子だ。)の彦(ひこ)坐(いますの)王(みこ)とは、『次の天(てん)皇(のう)位(い)』の争奪戦を起し、2代目埴安(はにやす)姫(ひめ)(物部(もののべの)伊香(いか)色(しき)謎(こめ)姫(ひめ)だ。)は、その実弟のために敗れたのだ。つまり彦坐(ひこいますの)王側(みこがわ)(10代崇(す)神(じん)天皇(てんのう)だ。)が勝者となったが『三種(さんしゅの)神器(じんぎ)』は、どちら側にあったのかも分らない状況なのだ。) 

●十代目だ。 物部(もののべの)伊(い)色香(かしこ)雄(おの)命(みこと)公(ぎみ) 春日(かすがの)宮(みや)に、御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみかど)(9代開化(かいか)天皇(てんのう)だ。)の御世(みよ)に大禰(おおね)以(もっ)て大臣(おおまえつぎみ)と為(な)る。磯(し)城(き)瑞(みず)籬(がきの)宮(みや)に、御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみかど)(10代崇(す)神(じん)天皇(てんのう)だ。)御世(みよ)に大(おお)臣(まえつきみ)に詔(みことのり)して、神物(かみにぎて)を班(あかた)為(し)め、天(あまつ)社(やしろ)國(くにつ)社(やしろ)を定(さだ)め物部(もののべの)八十手(やそで)の作所(つくれる)神(かみ)祭(まつり)の物(もの)を以(もっ)て八(や)十(そ)萬(よろずの)群(もろ)神(がみ)を祭(まつ)る。時(とき)に布(ふ)都(つの)大(おお)神(がみの)社(やしろ)(大(おお)国(くに)主(ぬし)命(のみこと)だ。)を大(や)倭(まとの)國(くに)山(やま)邊(べの)郡(こおり)石上邑(いそのかみむら)(石(いその)上(かみ)神(じん)宮(ぐう)だ。)に遷(うつし)建(たて)る。則(すなわ)ち天祖饒速(あまつみおやにぎはや)日(ひの)尊(みこと)(天(あまの)火(ほ)明(あかり)命(のみこと)だ。)に授(さず)けたまい、天(あめ)より受來(うけこ)し天(あまの)璽(しるし)瑞(みつの)寶(たから)(三(さん)種(しゅの)神(じん)器(ぎ)だ。)も同(おなじ)く共(とも)に藏齋(おさめいわい)て石上(いそのかみの)大神(おおかみ)と曰(もう)す。以(もっ)て國(あめの)家(した)の為(ため)に、亦(また)氏神(うじがみ)と為(な)し、崇(あがめ)祠(まつり)て、鎭(しずめ)祭(まつり)と為(な)す。則(すなわ)ち皇后(きさき)(9代開化(かいか)天皇(てんのう)の皇后である2代目の埴(はに)安(やす)姫(ひめ)だ。)の弟(いろと)大神(おおみわの)臣(まえつきみ)(10代崇(す)神(じん)天皇(てんのう)だ。)神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

(これは、9代開化(かいか)天皇(てんのう)の先妃(せんぴ)の物部(もののべの)伊香(いか)色(しき)謎(こめ)姫(ひめ)(2代埴安(はにやす)姫(ひめ)・大(おお)彦(びこ)命(のみこと)の娘だ。)の実弟であった物部(もののべの)伊香(いか)色男(しきお)命(のみこと)こそが、その神宮(かみつみや)(磯(し)城(きの)瑞(みず)籬(がきの)宮(みや)だ。)に、物部(もののべ)の石上(いそのかみの)大神(おおかみ)の臣(おみ)(大連(おおむらじ))として、改めて神宮(かみつみや)に齋(いわい)奉(まつ)られ、ときの天皇(大王(おおきみ))となられた、ということなのだ。) 

●物部(もののべの)大新(おおにい)河(かわの)命(みこと)公(ぎみ) 纏(まき)向(むく)珠(たま)城(きの)宮(みや)に、御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみかど)(11代垂(すい)仁(にん)天皇(てんのう)だ。)の御世(みよ)に元(はじめ)て大臣(おおまえつぎみ)と為(な)る。次(つぎ)に物部連(もののべのむらじの)公(きみ)の姓(かばね)を賜(たまわ)る。則(すなわち)、改(あらた)めて大連(おおむらじ)と為(なり)て神宮(かみつみや)に齋(いつき)奉(まつ)る。(ここに改めて、とは、12代景(けい)行(こう)天皇(てんのう)として後日(ごじつ)即位(そくい)された、ことを意味するのだ。) 

●十一代目だ。 物部(もののべの)十市(といち)根(ねの)命(みこと)公(ぎみ) 纏(まき)向(むくの)珠(たま)城(きの)宮(みや)(11代垂(すい)仁(にん)天皇(てんのう)だ。)に、御(あめのした)宇(しらす)天(すめら)皇(みかど)の御世(みよ)に物(ものの)部(べの)連(むらじの)公(きみ)の姓(かばね)を賜(たま)ふ。元(はじめ)て五(いつとりの)大夫(まえつぎみ)の一(ひとり)と為(な)る。次(つぎ)は大連(おおむらじ)と為(なり)て神宮(かみつみや)に齋(いつき)奉(まつ)る。(途(と)中略(ちゅうりゃく)。) 然(しか)るに遂(つい)に大中(おおなかつ)姫(ひめの)命(みこと)(息(おき)長水依姫(ながみずよりひめ)・10代崇(す)神(じん)天皇(てんのう)の皇后の1人だ。)、物部(もののべの)十市(といち)根(ねの)大連(おおむらじ)(11代垂(すい)仁(にん)天皇(てんのう)だ。)に授(さづ)けて石上神寳(いそのかみのかみたから)(石(いその)上(かみ)神(じん)宮(ぐう)だ。)を治(おさめ)令(し)む。 

●物部(もののべの)武(たけ)諸隅(もろずみの)命(みこと)公(ぎみ) 磯城水籬(しきのみずがきの)宮(みや)(10代崇(す)神(じん)天皇(てんのう)だ。)に、御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみかど)即位六十年、群臣(まえつぎみ)に詔(みことのり)て曰(のたま)はく「武(たけ)日照(ひなどりの)命(みこと)(ウガ御(のみ)魂(たま)命(のみこと)・天(あまの)穂(ほ)日(ひ)命(のみこと)だ。)天(あめ)より従(したが)いて將來(もちきた)る神寳(かみたから)は出雲(いずもの)大神宮(おおかみのみや)に藏(おさ)む。是(これ)を見欲(みまほっ)し」とのたまふ。則(すなわ)ち矢(や)田(た)部(べの)造(みやつこ)の遠祖(とおそ)武(たけ)諸隅(もろずみの)命(みこと)を遣(つかわ)して分明儉(あからかにかんがえん)定使(さだめし)め獻(かえりみ)奏(こと)復命(たてまつ)る。時(とき)に乃(すなわ)ち大連(おおむらじ)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

(これは、10代崇(す)神(じん)天皇(てんのう)の即位のときの一部分なのだ。この部分に挿入されたために、ここに入るべき、12代景(けい)行(こう)天皇(てんのう)の即位についての一文は、次の次へ、飛ばされているのだ。) 

●十三代目だ。 物(ものの)部伊咋宿禰(べのいくひのすくね)公(ぎみ) 十市(といち)根(ねの)大連(おおむらじ)の子(こ)なり。此宿禰(このすくね)は志賀(しが)高穴(たかあな)穂宮(ほのみや)(13代成(せい)務(む)天皇(てんのう)だ。)に、御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみかど)の御世(みよ)に元(はじめ)て大臣(おおまえつぎみ)と為(な)り神宮(かみのみや)に齋(いわい)奉(まつ)る。 

●十二代目だ。 物(ものの)部多遅(べのたじ)麻連(まのむらじ)公(ぎみ) 武(たけ)諸隅(もろずみの)大連(おおむらじ)の子(こ)なり。此連(このむらじの)公(きみ)は纏(まき)向(むくの)日(ひ)代(しろの)宮(みや)(12代景(けい)行(こう)天皇(てんのう)だ。)の御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみこと)の御世(みよ)に、拜(めし)て大連(おおむらじ)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

(この部分は、順から言えば、志賀(しが)高穴(たかあな)穂宮(ほのみや)の13代成(せい)務(む)天皇(てんのう)の即位前の文であるべきだ。改めて即位した12代景(けい)行(こう)天皇(てんのう)の名称を変えて記載したのだ。つまり物(ものの)部(べの)多(た)遅(じ)麻(ま)連(のむらじ)公(ぎみ)とは、物(もの)部(のべの)大(おお)新(にい)河(かわの)命(みことの)公(ぎみ)とすべきだ。また、宇(う)佐(さ)家(け)の伝承によれば、12代景(けい)行(こう)天(てん)皇(のう)の次は、16代応(おう)神(じん)天(てん)皇(のう)とも伝えるから、事実としては、①12代景(けい)行(こう)天(てん)皇(のう)~②13代成(せい)務(む)天(てん)皇(のう)~③14代仲哀(ちゅうあい)天皇(てんのう)~④15代神(じん)功(ぐう)皇后(こうごう)のうちで、13代成(せい)務(む)天(てん)皇(のう)は、12代景(けい)行(こう)天(てん)皇(のう)とも一時同時在位なのだ。そしてまた、14代仲哀(ちゅうあい)天皇(てんのう)~15代神(じん)功(ぐう)皇后(こうごう)の2人は、追(つい)号(ごう)ということなのだ。) 

●十五代目だ。物(ものの)部五十琴宿禰(べのいがことのすくね) 此連(このむらじの)公(きみ)は磐余稚(いわれのわか)櫻(さくらの)宮(みや)(15代神(じん)功(ぐう)皇后(こうごう)だ。)に、御(あめのした)宇(しらす)神(じん)功(ぐう)皇后(こうごう)摂政(まつりごとふさね)たまふ御世(みよ)、元(はじめ)大連(おおむらじ)と為(な)り、次(つぎ)て宿禰(すくね)と為(な)る。神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

(これは、物部五十琴宿禰(もののべのいがことのすくね)の実像としては、荒田(あらた)別命(わけのみこと)の17代仁徳天皇(にんとくてんのう)である。また、15代神(じん)功(ぐう)皇后(こうごう)の後見役で大嘗祭(だいじょうさい)を執り行なわれたのだ。また、14代仲哀(ちゅうあい)天皇(てんのう)や、15代神(じん)功(ぐう)皇后(こうごう)とは、正式な即位ではないのだ。実際は、誰が、本物の天皇なのか明確でない混乱の時代とも推測されるからだ。なお、12代景(けい)行(こう)天皇(てんのう)こそが長命(ちょうめい)のために、崩御後の跡目が混乱していた時代だったのだ。) 

●十六代目だ。物部印(もののべのいな)葉連(ばのむらじ)公(ぎみ) 此連公輕(このむらじきみかる)嶋(しまの)豊明宮(とよあかりのみや)(16代応(おう)神(じん)天皇(てんのう)だ。)に、御(あめのした)宇(しらす)天(すめら)皇(みかど)の御(み)世(よ)拜(めし)て大連(おおむらじ)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

●十七代目だ。 物部(もののべの)大別連(おおわけのむらじ)公(ぎみ) 此連(このむらじの)公(きみ)は難波(なにわの)高津宮(たかつのみや)(17代仁徳天皇(にんとくてんのう)だ。)に、御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみかど)の御世(みよ)に詔(みことのり)て侍(まえつ)臣(ぎみ)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋奉(いつきまつ)らしむ。 

●十八代目・十九代目だ 。 物(ものの)部伊(べのい)呂(ろ)弗連(ふつのむらじ)公(ぎみ) 此連(このむらじの)公(きみ)は稚(わか)櫻(さくら)・柴垣(しばがき)二宮(ふたつのみや)(18・19代 

履(り)中(ちゅう)・反(はん)正(ぜい)天(てん)皇(のう)だ。)に、御(あめのした)宇(しらす)天(すめら)皇(みかど)の御世(みよ)に大連(おおむらじ)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

(これは、18・19代履中(りちゅう)・反正(はんぜい)天皇(てんのう)が同一人物とも認められる部分の一文なのだ。) 

●二十代目だ 。 物(ものの)部麦入宿禰(べのむぎいりのすくねの)連(むらじ)公(ぎみ) 此連(このむらじの)公(きみ)は遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)(20代允(いん)恭(ぎょう)天皇(てんのう)だ。)に御(あめのした) 

宇(しらす)天(すめら)皇(みかど)の御世(みよ)に元(はじめ)て大連(おおむらじ)と為(な)る。次(つぎ)に宿禰(すくね)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

●二二代目だ 。 物部(もののべの)布(ふ)都(つ)久留連(くるのむらじ)公(ぎみ) 此連(このむらじの)公(きみ)は大長谷(おおはっせの)朝(みかど)(22代雄(ゆう)略(りゃく)天(てん)皇(のう)だ。)の御世(みよ)に、 

大連(おおむらじ)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

●二三代目だ。 物部目(もののべのめの)大連(おおむらじ)公(ぎみ) 此連(このむらじの)公(きみ)は磐余(いわれ)甕(みか)栗宮(ぐりのみや)(23代清(せい)寧(ねい)天皇(てんのう)だ。)に、御宇(あめのしたしらす) 

天皇(すめらみかど)の御(み)世(よ)に大連(おおむらじ)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

(この人物は、初代物部目(もののべのめの)大連(おおむらじ)や、平(へ)群(ぐりの)真(ま)鳥(どりの)大(おお)臣(おみ)や、大(おお)伴(ともの)室(むろ)屋(やの)大(おお)連(むらじ)だ。) 

●二一代目だ。 物部(もののべの)大前宿禰(おおくまのすくねの)連(むらじ)公(ぎみ) 此連(このむらじの)公(きみ)は石上(いそのかみ)穴(あな)穂宮(ほのみや)(21代安康(あんこう)天皇(てんのう)だ。)に、御(あめのした)宇(しらす)天(すめら)皇(みかど)の御世(みよ)に元(はじめ)て大連(おおむらじ)と為(なり)て、次(つぎ)に宿禰(すくね)と為(なっ)て、神(かみつ)宮(みや)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

(これは、本来は遠飛鳥(とおきあすかの)宮(みや)の20代允(いん)恭(ぎょう)天皇(てんのう)の後に、即位されたという石上(いそのかみ)穴(あな)穂宮(ほのみや)の21代安(あん)康(こう)天(てん)皇(のう)の順序が違って、ここに記述されるのは、次に即位された近(ちか)飛(あす)鳥(か)八(や)釣(つりの)宮(みや)の24代顕宗(けんそう)天皇(てんのう)とも同一人物だからなのだ。) 

●二四代目だ。 物部(もののべの)小前宿禰(をさきのすくねの)連(むらじ)公(ぎみ) 此連(このむらじの)公(きみ)は近飛鳥八(ちかつあすかや)釣宮(つりのみや)(24代顕宗(けんそう)天皇(てんのう)だ。)に、御宇(あめのしたしらす)天(すめら)皇(みかど)の御世(みよ)に元(はじめ)て大連(おおむらじ)と為(な)る。次(つぎ)に大宿禰(おおすくね)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

●二五代目だ。 物部(もののべの)木蓮子連(きたひのむらじ)公(ぎみ) 此連(このむらじの)公(きみ)は石上(いそのかみ)廣(ひろ)高宮(たかのみや)(25代仁(にん)賢(けん)天皇(てんのう)だ。)に、御(あめのした)宇(しらす)天(すめら)皇(みかど)の御(み)世(よ)に大連(おおむらじ)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

●二六代目だ 。 物部(もののべの)麻(ま)佐(さ)良連(らのむらじ)公(ぎみ) 此連(このむらじの)公(きみ)は泊(はっ)瀬列(せのなみ)城宮(きのみや)(26代武烈(ぶれつ)天皇(てんのう)だ。)に、御(あめのした)宇(しらす)天(すめら)皇(みかど)の御(み)世(よ)に大連(おおむらじ)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

●二七代目だ。 物部(もののべの)目連(めのむらじ)公(ぎみ) 此連(このむらじの)公(きみ)は継体(けいたい)天皇(てんのう)に、御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみかど)の御世(みよ)に大連(おおむらじ)と為(なり)て 

神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。(これは、2代目物部(もののべの)目連(めのむらじ)公(ぎみ)(後に大連(おおむらじ)だ。)とは、27代継体(けいたい)天皇(てんのう)なのだ。 

しかしながら、継体(けいたい)天皇(てんのう)の本来の名称とは、物部(もののべの)金村(かねむらの)大連(おおむらじ)が入るべきだが消されているのだ。) 

●二八代目だ。  物(ものの)部麁(べのあら)鹿(か)火連(ひのむらじ)公(ぎみ) 此連(このむらじの)公(きみ)は勾(まがりの)金(かな)橋宮(はしのみや)(28代安閑(あんかん)天皇(てんのう)だ。)に、御(あめのした) 

宇(しらし)天(すめら)皇(みかど)の御(み)世(よ)に大連(おおむらじ)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

●二九代目だ。 物(ものの)部押(べのおし)甲連(かふのむらじ)公(ぎみ) 此連(このむらじの)公(きみ)は檜前廬入宮(ひのくまのいほいりのみや)(29代宣(せん)化(か)天(てん)皇(のう)だ。)に、御(あめのした) 

宇(しらす)天(すめら)皇(みかと)の御(み)世(よ)に大連(おおむらじ)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

●二九代目だ。 物部(もののべの)荒山連(あらやまのむらじ)公(ぎみ) 此連(このむらじの)公(きみ)は檜前盧入宮(ひのくまのいほいりのみや)(29代宣(せん)化(か)天(てん)皇(のう)だ。)に、御(あめのした) 

宇(しらす)天(すめら)皇(みかど)の御(み)世(よ)に大連(おおむらじ)と為(なっ)て神宮(かみつみや)を齋(いわい)奉(まつ)る。 

(これは、物部(もののべの)荒山連(あらやまのむらじ)公(ぎみ)は、檜前盧入宮(ひのくまのいほいりのみや)(29代宣(せん)化(か)天(てん)皇(のう)だ。)に、大連(おおむらじ)と為(なっ)て神宮(かみつみや)を 

齋(いわい)奉(まつ)る。というから、物(ものの)部押(べのおし)甲連(かふのむらじ)公(ぎみ)とも同一人物なのだ。つまり同じ事実を分身として伝えてい 

るのだ。) 

●三十代目だ 。 物部(もののべの)尾(お)輿連(こしのむらじ)公(ぎみ) 此連(このむらじの)公(きみ)は磯(し)城嶋(きしまの)金(かね)刺宮(さしのみや)(30代欽(きん)明天皇(めいてんのう)だ。)に、 

御(あめのした)宇(しらす)天(すめら)皇(みかど)の御(み)世(よ)に大連(おおむらじ)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

●三一代目だ 。 物部(もののべの)大市(おおいちの)御狩連(みかりのむらじ)公(ぎみ) 此連(このむらじの)公(きみ)は、訳語(おさ)田宮(だのみや)(31代敏(び)達(だつ)天皇(てんのう)だ。)に、 

御(あめのした)宇(しらす)天(すめら)皇(みかど)の御世(みよ)に大連(おおむらじ)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

●三二代目だ 。 物部守屋(もののべのもりやの)大連(おおむらじ)(弓削(ゆげの)大連(おおむらじ))公(ぎみ) 此連(このむらじの)公(きみ)は池邊双槻(いけべのなみつきの)宮(みや)(32代用(よう)明天皇(めいてんのう)だ 

。)に、御(あめのした)宇(しらす)天(すめら)皇(みかど)の御世(みよ)に大連(おおむらじ)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

●三三代目だ 。物部連(もののべのむらじ)布(ふ)都(つ)姫(ひめの)夫人(おおとじ)公(ぎみ) 字(あざな)は御(み)井(いの)夫人(おおとじ)。亦(また)は石上(いそのかみの)夫人(おおとじ)と云(い)ふ。倉(くら)梯宮(はしのみや)( 

33代崇(す)峻(しゅん)天皇(てんのう)だ。)に、御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみかど)の御世(みよ)立(たて)て夫人(おおとじ)と為(な)る。亦(また)朝(みかどの)政(まつりごと)に参(まうち)て、神宮(かみつみや)を 

齋(いつき)奉(まつ)る。 

(これは何らかの事情がって、33代崇(す)峻(しゅん)天皇(てんのう)である蘇我馬子(そがのうまこ)大臣(のおおおみ)が不在となっために、代わって 

皇后の御井(みいの)夫人(おおとじ)(石上(いそのかみの)夫人(おおとじ)だ。)が、ときの大嘗祭(だいじょうさい)を執り行われたのだ。) 

●三三代目だ。 物部(もののべの)石上贄(いそのかみにえ)古連(このむらじ)公(ぎみ) 此連(このむらじの)公(きみ)は異母(ことはらの)妹(いもうと)御井(みいの)夫人(おおとじ)を妻(つま)と為(なし)て四児(よたりのみこ)を生(う) 

む。豊浦宮(とようらのみや)(34代推古(すいこ)天皇(てんのう)だ。)に、御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみかど)の御世(みよ)に大連(おおむらじ)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

(これは物部(もののべの)石上贄(いそのかみにえ)古(この)大連(おおむらじ)の33代崇(す)峻(しゅん)天皇(てんのう)(蘇我馬子(そがのうまこ)大臣(のおおおみ)だ。)だが、34代推古(すいこ)天(てん)皇(のう)の御 

世に唐(とう)・韓国(からくに)から帰国後、正式に大嘗祭(だいじょうさい)を執り行なったのだ。34代推(すい)古(こ)天(てん)皇(のう)とは、すでに、 

身体的(しんたいてき)疾患(しっかん)で寝たきりの状態なのか?) 

●三四代目だ 。 物部(もののべの)鎌(かま)姫(ひめ)大刀(おおと)自連(じのむらじ)公(ぎみ) 此連(このむらじの)公(きみ)は小治田(おはりたの)豊浦宮(とようらのみや)(34代推古(すいこ)天皇(てんのう)だ。)に 

、御(あめのした)宇(しらす)天(すめら)皇(みかど)の御世(みよ)に参政(まつりごとあずかり)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

(これは物部(もののべの)石上贄(いそのかみにえ)古(この)大連(おおむらじ)の33代崇(す)峻(しゅん)天皇(てんのう)(蘇我馬子(そがのうまこ)大臣(のおおおみ)だ。)と、物(もの)部(のべの)連(むらじ)布(ふ)都(つ)姫(ひめの)夫(おお)人(とじ)(石上(いそのかみの)夫人(おおとじ))の御井(みいの)夫人(おおとじ)との2人の間に、そのもうけた子の1人、物部(もののべの)鎌(かま)姫(ひめの)大刀(おおと)自連(じのむらじ)(久米皇子の妃(きさき)だ。)こそが、続けて34代推古(すいこ)天皇(てんのう)の(身体的(しんたいてき)疾患(しっかん)の寝たきりの状態か、または、すでに没されていたかで身代わりとなられたのだ。) 

●三四代目だ。 物部(もののべの)惠(え)佐古連(さこのむらじ)公(ぎみ) 此連(このむらじの)公(きみ)は小治田(おはりたの)豊浦宮(とようらのみや)(34代推古(すいこ)天皇(てんのう)だ。)に、 

御(あめのした)宇(しらす)天(すめら)皇(みかど)の御世(みよ)に大連(おおむらじ)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

(これは物部(もののべの)惠(え)佐古(さこの)大連(おおむらじ)とは、蘇我馬子(そがのうまこの)大臣(おおおみ)や石上贄(いそのかみにえ)古(この)大連(おおむらじ)である。同じ事実を繰り返し伝えているのだ。) 

●三五代目だ 。 (舒(じょ)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。) 

●三六代目だ。 (皇(こう)極(ぎょく)天皇(てんのう)だ。) 

●三七代目だ。 物部(もののべの)馬(うま)古連(このむらじ)公(ぎみ) 此連(このむらじの)公(きみ)は難波(なにわの)朝(みかど)(37代孝(こう)徳(とく)天皇(てんのう)・蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)だ。) 

の御世(みよ)に、大(だい)華(か)上(じょう)氏(うじの)印(しるし)の太刀(たち)を授(さづかり)て、食封千烟(しょくほうちえん)を賜(たまわ)り大連(おおむらじ)と為(なり)て神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

●三八代目だ。 (斉(せい)明(めい)天皇(てんのう)だ。) 

 (ここへは、35代舒(じょ)明天皇(めいてんのう)や、36代皇(こう)極(ぎょく)天皇(てんのう)(38代斉(さい)明天皇(めいてんのう)だ。)の御世に、物(もの)部(のべ)の石(いその)上(かみの)大(おお)神(かみ)を、時の大連(おおむらじ)となって、その神宮(かみつみや)に齋(いわい)奉(まつ)られた2人の人物が故意に消されているのだ。つまり消された天皇である35代舒(じょ)明天皇(めいてんのう)(百済(くだら)王(おう)の武(む)王(おう)だ。)こそが、物部(もののべ)氏(し)の氏(うじの)上(かみ)として、正式(せいしき)名称(めいしょう)が入っていたのだ。しかしながら、この天皇の名称が入ったままでは、すぐに身元がバレるから、敢えて、この一文を削除したのだ。なぜならば、物部(もののべの)耳(みみの)大連(おおむらじ)(35代舒(じょ)明天皇(めいてんのう)だ。)や、物(もの)部(のべの)佐(さ)富(ふの)大(おお)連(むらじ)(36・38代皇(こう)極(ぎょく)・斉(さい)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。)たちの2人の御夫婦が、物(もの)部(のべの)石(いその)上(かみの)大(おお)神(かみ)の臣(しん)となって大(おお)連(むらじ)や大臣(おおおみ)ともなって、その神宮(かみつみや)に斎(いわい)祀(まつ)られた。というのでは、物部(もののべの)耳(みみの)大連(おおむらじ)こそが、聖(しょう)徳(とく)太(たい)子(し)(百済(くだら)王(おう)の30代武(む)王(おう)だ。)であることや、その正(せい)妃(ひ)こそが、36代皇(こう)極(ぎょく)天皇(てんのう)(38代斉(さい)明(めい)天(てん)皇(のう)・百済(くだら)王(おう)の宝(たから)王(おう)だ。)であることなどがバレるからなのだ。つまり「耳(みみ)」は聖徳太子(しょうとくたいし)が豊(とよ)聦(と)耳(みみ)の太子なのだ。また、35代舒(じょ)明天皇(めいてんのう)が物部(もののべの)耳(みみの)大連(おおむらじ)では、その正妃(せいひ)こそが36代皇(こう)極(ぎょく)天皇(てんのう)(38代斉(さい)明(めい)天(てん)皇(のう)・百済(くだら)王(おう)の宝(たから)王(おう)だ。)である物(ものの)部(べの)佐(さ)富(ふの)大(おお)連(むらじ)では、聖(しょう)徳(とく)太(たい)子(し)の実像こそが、百済(くだら)王(おう)の30代武(む)王(おう)である35代舒(じょ)明天皇(めいてんのう)とも、バレるからなのだ。このために、この一文が消されたのだ。そしてまた、これは後世に改(かい)竄(ざん)された証(あかし)である、ということなのだ。) 

●四十代目だ。 物部(もののべの)雄(お)君連(きみのむらじ)公(ぎみ)  此連(このむらじの)公(きみ)は飛鳥(あすかの)浄(きよ)御原宮(みはらのみや)(40代天武天皇(てんむてんのう)だ。)に、 

御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみかど) の御世(みよ)に氏(うじの)上(かみ)内(うち)の大紫(だいし)冠(かんむり)の位(くらい)を賜(たまわ)り神宮(かみつみや)を齋(いつき)奉(まつ)る。 

さてそれでは、大和(やまと)王権(おうけん)の政務を預かる大豪族の中で、物部(もののべ)氏(し)のみが、『物部(もののべ)氏(し)の氏上(うじのかみ)』として、『石(いその)上(かみの)神(かみつ)宮(みや)』を大連(おおむらじ)や、大臣(おおおみ)や、大宿禰(おおすくね)ともなって、『その神(かみつ)宮(みや)に齋(いわい)奉(まつ)る。』ということは、ときの古代天皇の分身である、ということなのだ。そしてまた、『毛(け)野(のの)君(きみ)』や、『中臣(なかとみ)氏(し)』や、『葛城(かつらぎ)氏(し)』や、『大伴(おおとも)氏(し)』や、『紀(きの)臣(おみ)氏(し)』や、『巨(こ)勢(せ)氏(し)』や、『物(ものの)部(べの)韓(から)国(くにの)連(むらじ)氏(し)』や、『津(つ)守(もりの)連(むらじ)氏(し)』や、『蘇(そ)我(が)氏(し)』や、『息(おき)長(なが)氏(し)』や、『海部(あまべ)尾張(おわり)氏(し)』や、『和邇部(わにべ)氏(し)』や、『平群(へぐり)氏(し)』や、『多(た)治(じ)比(ひ)氏(し)』や、『阿倍(あべ)氏(し)』や、『大(おお)三(み)輪(わ)氏(し)』や、『秦氏(はたし)一族(いちぞく)』や、『宗(むな)像(かた)海(かい)人(じん)族(ぞく)』などなのだ。また、その主力は、『サマリヤの失われた流浪の10部族』の中のゼブルン族系のウガヤフキアエズ王朝の末胤なのだ。そしてまた、その部族長としては、新羅(しらぎ)国(こく)の始祖(しそ)の赫(ひょっ)居(きょっ)世(こせ)居(こ)西(ん)干(がん)(朴(ぱく)赫(ひょっ)居(きょっ)世(こせ)・BC57~AD4年、2代新(し)羅(らぎ)国(こく)王(おう)の南(な)解(め)次(ちゃ)次(ちゃ)雄(うん)AD4~24年だ。)なのだ。また、『AD3年に、2代目瑠(ゆ)璃(り)明(みょん)王(おう)(BC19~AD18年だ。)を諫めて不仲になって、高句(こうく)麗(り)を出(しゅつ)奔(ほん)して南韓(なんかん)に至り、更に、狗(く)邪(や)韓国(からくに)(辰(しん)韓(かん)の期(さ)蘆(ろ)国(こく)だ。)に移った。』という高(こう)句(く)麗(り)国(こく)の最高官職の大(て)輔(ぽ)の陝(ひょっ)父(ぽ)なのだ。また、この陝(ひょっ)父(ぽ)の実子の1人こそが、初代海(あま)部(べの)大(おお)神(かみ)の初代奈賀(なか)の大(おお)人(うし)様(さま)である4代新(しら)羅(ぎ)国(こく)王(おう)の脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)・昔(そく)脱(た)解(れ)AD57~80年だ。)なのだ。そしてまた、その子孫こそが、代々の海(あま)部(べの)大(おお)神(かみ)ということなのだ。ところで、古代有力豪族とは、この物部(もののべ)氏(し)(海(あま)部族(べぞく)だ。)とも同一氏族なのだ。そしてまた、久米皇子以降、つまり40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)の命(めい)によって、13の有力(ゆうりょく)支族(しぞく)として、各々の各氏族の先祖が創作され、各古代氏族が分散して記録された、ということなのだ。このために、同一人物こそが、幾つもの名称を持つ、ということなのだ。そしてまた、この隠蔽手法としては、壮大な国家建設計画に基ずく隠蔽工作なのだ。そしてまた、『記紀(きき)』の中だけに仕組まれている、ということなのだ。そしてまた、40代天武天皇(てんむてんのう)の命(めい)により、その在位の13年(684年)に、『天(あめの)下(したの)萬(ほむたから)の姓(かばね)を八色(はしな)の姓(かばね)に改定(あらためてさだ)む。』として、『八色(はしな)の姓(かばね)の制定』によって、各氏族の先祖の姓(かばね)を創作して、真実の古代天皇家の系譜の隠蔽を図られた。』ということなのだ。 

さてその証(しょう)拠(こ)なのだが、『都賀使(つがのお)主(み)』や、『都賀(つがの)直(あたい)』や、『東漢(やまとあやの)直(あたい)』や、また、『坂上(さかのうえ)系図(けいず)』の中に登場する人物さえ、当然ながら、古代天皇家の人々が、その実像なのだ。なぜならば、『日本(にほん)書紀(しょき)』を見れば、『中臣(なかとみの)黒田(くろだの)大連(おおむらじ)(実際は、忍見宿禰(おしみのすくね)・27代継体(けいたい)天皇(てんのう)・吉(よし)見(みの)宿(すく)禰(ね)だ。)に2子あり、その長子は、中(なか)臣(とみの)常(とき)盤(わの)大(おお)連(むらじ)(実際は、伊勢(いせの)国造(くにのみやつこ)の大鹿連(おおがのむらじ)小熊(おぐま)・29代宣(せん)化(か)天(てん)皇(のう)だ。)なり、次子は、中(なか)臣(とみの)伊(い)礼(れ)波(はの)連(むらじ)(実際は、30代欽(きん)明(めい)天(てん)皇(のう)・中(なか)臣(とみの)阿(あ)被(ひ)布(ふ)子(この)大(おお)連(むらじ)・大(おお)鹿(がの)首(おびと)小熊(おぐま)・大(おお)鹿(がの)直(あたい)小熊(おぐま)だ。また、大(おお)鹿(がの)連(むらじ)小熊(おぐま)は別人の29代宣(せん)化(か)天(てん)皇(のう)だ。)なり。』とも伝えているからだ。 

そしてまた、『先(せん)代(だい)旧(く)事(じ)本(ほん)紀(き)』巻第5の『天(あまつ)孫(みまごの)本(もとつ)紀(ふみ)』を見れば、『物部(もののべの)目連(めのむらじ)公(のきみ) 此(この)連(むらじの)公(きみ)は、継体(けいたい)天皇(てんのう)に、御宇(あめのしたしらす)天皇(すめらみかど)の御世(みよ)に、大連(おおむらじ)と為て神宮(かみつみや)を齋(いわい)奉(まつ)る。』とも伝えるからだ。つまり2代目物(もの)部(のべの)目(めの)連(むらじ)(後に大(おお)連(むらじ)だ。)こそが、27代継体(けいたい)天皇(てんのう)なのだ。その実像としては、中(なか)臣(とみの)黒(くろ)田(だの)大(おお)連(むらじ)(近江(おうみの)毛(け)野(の)臣(のおみ)だ。)なのだ。また、その長子としては、中臣(なかとみの)伊礼波(いれはの)大連(おおむらじ)である物(もの)部(のべの)尾(お)輿(こしの)大(おお)連(むらじ)(実際は、30代欽(きん)明天皇(めいてんのう)だ。)がいた、ということなのだ。そしてまた、その異母弟で次子の中臣(なかとみの)常盤(ときわの)大連(おおむらじ)こそが、29代宣(せん)化(か)天(てん)皇(のう)である蘇(そ)我(がの)稲目(いなめの)大連(おおむらじ)の実像である、ということなのだ。そしてまた、28代安(あん)閑(かん)天(てん)皇(のう)とは、27代継(けい)体(たい)天(てん)皇(のう)の同母弟なのだ。つまり29代宣(せん)化(か)天(てん)皇(のう)の同母姉のむここそが、この『28代安閑(あんかん)天皇(てんのう)(勾(まがりの)金(かな)橋宮(はしのみや))の御世(みよ)に、大連(おおむらじ)となって、その神(かみつ)宮(みや)を齋(いわい)奉(まつ)る。』という物部麁(もののべのあら)鹿(か)火(ひの)大連(おおむらじ)である28代安閑(あんかん)天皇(てんのう)の分身である、ということなのだ。 

さてそれでは、『但馬(たじま)物部(もののべ)氏(し)の系譜』で見れば、物(もの)部(のべの)麁(あら)鹿(か)火(ひの)大(おお)連(むらじ)の(義)弟としては、物部押(もののべのお)甲(がふの)大連(おおむらじ)がいるのだが、この人物は、『29代宣(せん)化(か)天(てん)皇(のう)(檜(ひの)前(くまの)廬(いほ)入(りの)宮(みや)だ。)の御(み)世(よ)に、大連(おおむらじ)となって、『その神(かみつ)宮(みや)を齋(いわい)奉(まつ)る。』ともいうから、29代宣(せん)化(か)天(てん)皇(のう)の分身である、ということなのだ。そしてまた、この人物は、『中臣(なかとみ)氏(し)の系譜』で見れば、中(なか)臣(とみの)黒(くろ)田(だの)大(おお)連(むらじ)(27代継(けい)体(たい)天(てん)皇(のう)だ。)の実子である中(なか)臣(とみの)常(とき)磐(わの)大(おお)連(むらじ)なのだ。そしてまた、『29代宣化(せんか)天皇(てんのう)の御世に、大連(おおむらじ)となって、その神宮(かみつみや)を齋(いわい)奉(まつ)る。』という人物としては、実際は、もう1人いるのだ。つまり物部(もののべの)荒山(あらやまの)大連(おおむらじ)なのだが、この人物も、やっぱり同一人物ということなのだ。また、同じ天皇の御世に、複数の人物が、『その神(かみつ)宮(みや)を齋(いわい)奉(まつ)る。』とも伝える人物としては、このほかに、10代崇(す)神(じん)天(てん)皇(のう)の即位のとき、物部伊(もののべの)色香(いか)雄(しこお)命(のみこと)や、物(もの)部(のべの)武(たけ)諸(もろ)隅(ずみ)命(のみこと)なのだ。また、11代垂(すい)仁(にん)天皇(てんのう)の即位のときの、物(もの)部(のべの)十(と)市(いち)根(ねの)大(おお)連(むらじ)(11代垂(すい)仁(にん)天皇(てんのう)だ。)や、物部(もののべの)大新(おおにい)河(かわ)命(のみこと)(実際は、12代景(けい)行(こう)天皇(てんのう)だ。)なのだ。そしてまた、物(もの)部(のべの)伊(い)色香(かしこ)雄(おの)命(みこと)や、武(たけ)諸隅(もろずみ)命(のみこと)としては、『天(あまつ)孫(みまごの)本(もとつふ)紀(み)』を見れば、10代崇(す)神(じん)天皇(てんのう)とも同一人物なのだ。そしてまた、物部(もののべの)大新(おおにい)河(かわ)命(のみこと)(12代景(けい)行(こう)天皇(てんのう)だ。)とは、物部(もののべの)十市(といち)根(ねの)大連(おおむらじ)(11代垂(すい)仁(にん)天皇(てんのう)だ。)の跡目を継いだ12代景(けい)行(こう)天皇(てんのう)である、ということなのだ。 

そしてまた、『12代景(けい)行(こう)天皇(てんのう)(纏(まき)向日代宮(むくのひしろのみや)だ。)の御世(みよ)に、物部(もののべの)の石上(いそのかみの)大神(おおかみ)を大連(おおむらじ)となって、その神(かみつ)宮(みや)に齋(いわい)奉(まつ)る。』という物(もの)部(のべの)多(た)遅(じ)麻(まの)連(むらじ)とも、同一人物なのだ。つまり実際は、物部多遅(もののべのたじ)麻連(まのむらじ)ではなく、物(もの)部(のべの)大(おお)新(にい)河(かわの)命(みこと)ともすべきなのだが、そこで、後世(こうせい)の改竄(かいざん)の痕跡(こんせき)こそが、やっぱり見受けられる、ということなのだ。 

さてそれでは、物(もの)部(のべの)荒(あら)山(やまの)大(おお)連(むらじ)とは、物部押(もののべのお)甲(がふの)大連(おおむらじ)である29代宣化(せんか)天皇(てんのう)とも、同一人物なのだ。そしてまた、その子(娘むこだ。)としては、『天孫本(あまつみまごのもとつふ)紀(み)』を見れば、物部(もののべの)尾(お)輿(こしの)大連(おおむらじ)がいたのだが、この大(おお)連(むらじ)は、『30代欽(きん)明天皇(めいてんおう)(磯(し)城嶋(きしまの)金(かね)刺宮(さきのみや)だ。)の御世(みよ)に、大連(おおむらじ)となって、その神宮(かみつみや)を齋(いわい)奉(まつ)る。』」というから、実際は、30代欽(きん)明天皇(めいてんのう)の分身なのだ。そしてまた、中臣(なかとみ)氏(し)では、中(なか)臣(とみの)伊(い)礼(れ)波(はの)大(おお)連(むらじ)こそが、30代欽(きん)明天皇(めいてんのう)の分身なのだ。そしてまた、その舅(しゅうと)としては、29代宣化(せんか)天皇(てんのう)である蘇(そ)我(が)稲目(いなめの)大臣(おおおみ)(実際は、中臣(なかとみの)常盤(ときわの)大連(おおむらじ)・物(もの)部(のべの)押(おし)甲(かふの)大(おお)連(むらじ)・物(もの)部(のべの)荒(あら)山(やまの)大(おお)連(むらじ)だ。)である、ということなのだ。 

さてそれでは、この29代宣化(せんか)天皇(てんのう)としては、30代欽(きん)明天皇(めいてんのう)の異母弟だが、この2人の異母兄弟の実父こそが、実際は、2代目物部(もののべの)目連(めのむらじ)(後に大連(おおむらじ)だ。)である27代継体(けいたい)天皇(てんのう)(実際は、中臣(なかとみの)黒田(くろだの)大連(おおむらじ)だ。)なのだ。そしてまた、物部(もののべの)尾(お)輿(こしの)大連(おおむらじ)である30代欽(きん)明天皇(めいてんのう)の子としては、物(ものの)部(べの)大(おお)市(いちの)御(み)狩(かりの)大(おお)連(むらじ)(実際は、31代敏(び)達(たつ)天(てん)皇(のう)だ。)や、娘むこの物部(もののべの)贄(にえ)古(この)大(おお)連(むらじ)(実際は、33代崇(す)峻(しゅん)天皇(てんのう)・蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)だ。)や、物(もの)部(のべの)守(もり)屋(やの)大(おお)連(むらじ)(実際は、32代用(よう)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。)や、物部(もののべの)今木(いまき)金(かな)弓(ゆみの)若(わか)子(この)連(むらじ)(実際は、33代崇(す)峻(しゅん)天皇(てんのう)・蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)だ。)や、物部(もののべの)布(ふ)都(つ)姫(ひめの)夫人(おおとじ)(実際は、石(いその)上(かみの)夫(おお)人(とじ)だ。)や、物(もの)部(のべの)麻(ま)伊(い)古(この)連(むらじ)(実際は、33代崇(す)峻(しゅん)天皇(てんのう)・蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)だ。)や、物部(もののべの)多(た)和(わ)髪(かみの)連(むらじ)(実際は、35代推(すい)古(こ)天(てん)皇(のう)だ。)など、7人の子をもうけた、とも伝えているが、しかしながら、これは隠蔽のための常套手段で、つまり多数の人物を増やし、混乱させるという隠蔽テクニックなのだ。 

そしてまた、30代欽(きん)明(めい)天(てん)皇(のう)の長子という31代敏(び)達(だつ)天皇(てんのう)としては、物部(もののべの)大市(おおいちの)御狩(みかりの)大連(おおむらじ)こそが、『敏(び)達(だつ)天皇(てんのう)(訳語(おさ)田宮(だのみや))の御世(みよ)に、大連(おおむらじ)となって神宮(かみつみや)を齋(いわい)奉(まつ)る。』とも伝えるから、31代敏(び)達(だつ)天皇(てんのう)の実像なのだ。そしてまた、次子の32代用(よう)明天皇(めいてんのう)としては、物部守屋(もののべのもりやの)大連(おおむらじ)こそが、『用(よう)明天皇(めいてんのう)(池(いけ)邊(べの)双(なみ)槻(つきの)宮(みや))の御(み)世(よ)に、大連(おおむらじ)となって神宮(かみつみや)を齋(いわい)奉(まつ)る。』と伝えるから、32代用(よう)明天皇(めいてんのう)の実像である、ということなのだ。そしてまた、物部贄(もののべのにえ)古(この)大連(おおむらじ)とは、蘇我馬子(そがのうまこの)大臣(おおおみ)(実際は娘むこの33代崇(す)峻(しゅん)天皇(てんのう)だ。)である、ということなのだ。つまり我々が教科書で学ぶ日本の歴史とは、実際は別の歴史が浮かぶ、ということなのだが、しかしながら、これこそが、古代天皇の真実の実像なのだ。それでは、更に、より具体的に、ご証明してみたいと思うのだ。 

さてそれでは、『古(こ)事(じ)記(き)』の編集者としては、太(おおの)臣(おみ)安(やす)万(ま)侶(ろ)とも伝わるのだが、この人物の実像としては、中(なか)臣連(とみのむらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)ということなのだ。そしてまた、実際の『古(こ)事(じ)記(き)』の主筆者としては、その実弟である中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)(太(おおの)臣(おみ)道(みち)万(ま)侶(ろ)だ。)なのだ。また、この2人の実兄弟は、実際は、阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)の実子の2人なのだ。それでは『日本(にほん)書紀(しょき)』を見れば、太(おおの)臣(おみ)安(やす)万(ま)侶(ろ)は、養老7年(723年)7月3日に没しているが、しかしながら、これは、『古(こ)事(じ)記(き)』の編集者の太(おおの)臣(おみ)安(やす)万(ま)侶(ろ)としての没年月日なのだ。つまりその実像である中(なか)臣連(とみのむらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)の実際の没年月日ではないのだ。なぜならば、必要に応じて複数の別人物として没しているからなのだ。そこで、この2人の実兄弟の没年月日なのだが、つまり複数の別人物に変身する中で、最後の別人物としては、天平勝宝元年(749年)5月29日に没した中納言・正3位の大(おお)伴(ともの)宿(すく)禰(ね)牛(うま)養(かい)(巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)牛(うま)養(かい)だ。)こそが、この中(なか)臣連(とみのむらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)の実際の没年月日ということなのだ。そしてまた、その実弟の中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)(実際は、太(おおの)臣(おみ)道(みち)万(ま)侶(ろ)だ。)としては、天平勝宝5年(753年)3月30日に没した大納言・従2位・神(しん)祇(ぎ)伯(はく)・造(ぞう)営(えい)卿(きょう)の巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)奈(な)氐(て)麻(ま)呂(ろ)こそが、この中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)の実際の没年月日である、ということなのだ。 

さてそれでは、その実父である阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)(高(はか)梯(はしの)王(みこ)だ。)としては、『壬申(じんしん)の乱』で活躍した大(おお)伴(ともの)連(むらじ)男(お)吹(ふ)負(けい)こそが、この阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)(高(はか)梯(はしの)王(みこ)だ。)の実像なのだ。また「巨(こ)勢(せの)氏(し)の系譜」で言えば、巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)黒(くろ)麻(ま)呂(ろ)や、巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)紫(し)壇(だん)なのだ。また、「鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)の系譜」で言えば、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)久(く)治(じ)良(らの)臣(おみ)なのだ。また、「小野(おの)氏(し)の系譜」で言えば、小(お)野(のの)毛(えみ)人(し)なのだ。また、「蘇(そ)我(が)氏(し)」で言えば、蘇(そ)我(がの)連子(むらじこの)大臣(おおおみ)なのだ。また、「中(なか)臣(とみ)氏(し)」で言えば、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)国(くに)足(たり)や、近江朝(おうみちょう)の右大臣大中(おおなか)臣(とみの)金(こがねの)連(むらじ)なのだ。また、「大(おお)三(み)輪(わ)氏(し)」で言えば、大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)利(とし)金(かね)や、竹(たけ)葉(は)古(この)臣(おみ)なのだ。また、「上(かみ)毛(け)野(のの)君(きみ)」で言えば、上(かみ)毛(け)野(のの)君(きみ)稚(わく)子(こ)や、田(た)辺(なべの)史(ふひと)小(お)隅(すみ)なのだ。また、「大(おお)伴(とも)氏(し)の系譜」で言えば、大(おお)伴(ともの)男(お)吹(ふ)負(けい)や、大(おお)伴(ともの)兄(え)麻(ま)呂(ろ)や、大(おお)伴(ともの)馬(ま)来(き)田(た)や、大(おお)伴(ともの)東(とう)安(あん)たちは、すべて同一人物なのだ。 

さてそれでは、その実子で長男の中(なか)臣連(とみのむらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)や、その実弟の中(なか)臣連(とみのむらじ)大(おお)嶋(しま)たち2人の実兄弟だが兄の方こそが、天平勝宝元年5月29日(749年)に没した中納言大(おお)伴(ともの)宿(すく)禰(ね)牛(うま)養(かい)なのだ。また「巨(こ)勢(せ)氏(し)」で言えば、、巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)牛(うま)養(かい)や、巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)多(た)益(や)須(す)なのだ。また「多(おおの)臣(おみ)氏(し)」で言えば、太(おおの)臣(おみ)安(やす)万(ま)侶(ろ)なのだ。また「吉(き)備(び)氏(し)」で言えば、下(しもつ)道(みちの)圀(くに)勝(かつ)なのだ。また「小野(おの)氏(し)」で言えば、小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)毛(け)野(の)なのだ。また「鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)」で言えば、秦(はたの)忌(いみ)寸(き)板(いた)持(もち)や、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)都(つ)寸(す)理(り)なのだ。また「大(おお)伴(とも)氏(し)」で言えば、大納言大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)なのだ。また「多(た)治(じ)比(ひ)氏(し)」で言えば、大納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)池(いけ)守(もり)や、中納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)三(み)宅(やけ)麻(ま)呂(ろ)なのだ。 

そしてまた、その実弟の方こそが、天平勝宝5年(753年)3月30日に没した大納言の従2位神(しん)祇(ぎ)伯(はく)・造(ぞう)営(えい)卿(きょう)の巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)奈(な)氐(て)麻(ま)呂(ろ)なのだ。また「大(おお)伴(とも)氏(し)」で言えば、大(おお)伴(ともの)道(みち)足(たり)や、大(おお)伴(ともの)宿(すく)禰(ね)祖(お)父(じ)麻(ま)呂(ろ)や、大(おお)伴(ともの)田(た)主(ぬし)なのだ。また「巨(こ)勢(せ)氏(し)」で言えば、巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)祖(お)父(じ)なのだ。また「粟(あわ)田(た)氏(し)」で言えば、粟(あわ)田(たの)朝(あそ)臣(み)真(ま)人(ひと)なのだ。また「大(おお)野(の)氏(し)」で言えば、大(おお)野(のの)朝(あそ)臣(み)果(はた)安(やす)や、大(おお)野(のの)朝(あそ)臣(み)東(あずま)人(びと)なのだ。また「多(おおの)臣(おみ)氏(し)」で言えば、太(おおの)臣(おみ)道(みち)万(ま)侶(ろ)なのだ。また「鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)」で言えば、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)五(い)百(お)依(より)なのだ。 

さてそれでは、今度は『巨(こ)勢(せの)氏(し)の系譜』で見てみれば、巨(こ)勢(せの)男(お)人(ひとの)宿(すく)禰(ね)の実像としては、30代継(けい)体(たい)天(てん)皇(のう)である蘇(そ)我(がの)高(こう)麗(らい)なのだ。また、その子の巨(こ)勢(せの)稲(いな)持(もちの)宿(すく)禰(ね)の実像とは、29代宣(せん)化(か)天(てん)皇(のう)の蘇(そ)我(がの)稲(いな)目(めの)大(おお)臣(おみ)なのだ。また、巨(こ)勢(せの)胡(こ)孫(まごの)(猿(さる))宿(すく)禰(ね)の父とは、不明である、とするのだが、実際は、巨(こ)勢(せの)稲(いな)持(もちの)宿(すく)禰(ね)である29代宣(せん)化(か)天(てん)皇(のう)(蘇(そ)我(がの)稲(いな)目(めの)大(おお)臣(おみ)だ。)~巨(こ)勢(せの)胡(こ)孫(まごの)(猿(さる))宿(すく)禰(ね)である蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)(33・37代崇(す)峻(しゅん)・孝(こう)徳(とく)天(てん)皇(のう)だ。)ということなのだ。そしてまた、その子の巨(こ)勢(せの)徳(とこ)陀(だ)古(こ)や、巨(こ)勢(せの)大(おお)海(み)の実像としては、その娘むこの久米皇子(実際は、田(た)目(めの)皇(み)子(こ)・蘇(そ)我(がの)蝦(えみ)夷(しの)大(おお)臣(おみ)・穂(ほ)積(ずみの)臣(おみ)咋(くい)・阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)比(ひ)羅(ら)夫(ふ)・阿(あ)倍(べの)倉(くら)梯(はし)麻(ま)呂(ろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)君(きみ)形(かた)名(な)・多(た)治(じ)比(ひの)王(みこ)・春(かす)日(がの)皇(み)子(こ)だ。)こそがその実像である、ということなのだ。 

そしてまた、この巨(こ)勢(せの)徳(とこ)陀(だ)古(こ)(実際は、田(た)目(めの)皇(み)子(こ)・蘇(そ)我(がの)蝦(えみ)夷(しの)大(おお)臣(おみ)・穂(ほ)積(ずみの)臣(おみ)咋(くい)・阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)比(ひ)羅(ら)夫(ふ)・阿(あ)倍(べの)倉(くら)梯(はし)麻(ま)呂(ろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)君(きみ)形(かた)名(な)・多(た)治(じ)比(ひの)王(みこ)・春(かす)日(がの)皇(み)子(こ)・久米皇子だ。)の実子である巨(こ)勢(せの)黒(くろ)麻(ま)呂(ろ)(実際は、阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)・高(たか)梯(はし)王(のみこ)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)久(く)治(じ)良(ら)臣(おみ)・当(たい)麻(まの)公(きみ)豊(とよ)浜(はま)だ。)や、また、巨(こ)勢(せの)大(おお)海(み)(久米皇子だ。)の実子である巨(こ)勢(せの)人(ひと)(比(ひ)等(と))や、巨(こ)勢(せの)紫(し)檀(だん)の実像としては、阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)ということなのだ。 

そしてまた、この巨(こ)勢(せの)人(ひと)(比(ひ)等(と))や、巨(こ)勢(せの)紫(し)檀(だん)や、巨(こ)勢(せの)黒(くろ)麻(ま)呂(ろ)である阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)(高(たか)梯(はし)王(のみこ)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)久(く)治(じ)良(らの)臣(おみ)・上(かみ)毛(け)野(のの)君(きみ)稚(わく)子(こ)だ。)の子としては、その娘むこの巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)多比(たひ)等(と)である多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)(「鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)」で言えば、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)の伊(い)呂(ろ)具(ぐ)だ。また「当(たい)麻(ま)氏(し)」で言えば、当(たい)麻(まの)真(ま)人(ひと)国(くに)見(み)や、当(たい)麻(まの)公(きみ)広(ひろ)嶋(しま)だ。)がいた、ということなのだ。 

さてそれでは、この巨(こ)勢(せの)黒(くろ)麻(ま)呂(ろ)(阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)だ。)の子(娘むこだ。)という巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)品(ほむ)治(ち)や、小品(こほむ)治(ち)の実像としては、娘むこの多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)(巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)多比(たひ)等(と)・男(おのこ)王(のみこ)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)伊(い)呂(ろ)具(ぐ)だ。)こそがその実像なのだ。そしてまた、巨(こ)勢(せの)紫(し)檀(だん)(巨(こ)勢(せの)黒(くろ)麻(ま)呂(ろ)・阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)久(く)治(じ)良(らの)臣(おみ)だ。)の子という巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)多(た)益(ま)須(す)や、その弟という巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)の実像としては、これは、実子で長男の中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)(鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)板(いた)持(もち)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)都(つ)寸(す)理(り)だ。)なのだ。また、大(おお)伴(ともの)宿(すく)禰(ね)祖(お)父(じ)麻(ま)呂(ろ)(巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)祖(お)父(じ)だ。)や、巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)奈弖(なて)麻呂(まろ)としては、これも実子で次男の中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)(鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)五(い)百(お)依(より)だ。)こそがその実像である、ということなのだ。 

そしてまた、巨勢朝臣人(こせのあそみひと)(比(ひ)等(と))や、巨(こ)勢(せの)紫(し)檀(だん)の阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)の子としては、大納言巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)奈弖(なて)麻呂(まろ)(天平勝宝5年3月30日・753年没。)がいたというが、その別名称こそが、実子で次男の中(なか)臣連(とみのむらじ)大(おお)嶋(しま)(実際は、巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)祖(お)父(じ)・大(おお)伴(ともの)祖(お)父(じ)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)伴(ともの)道(みち)足(たり)・大(おお)伴(ともの)田(た)主(ぬし)・阿(あ)倍(べの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)・下(しもつ)道(みちの)圀(くに)依(より)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)五(い)百(お)依(より)・上(かみ)毛(け)野(のの)君(きみ)三(み)千(ちち)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)難(なに)波(わ)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)野(のの)朝(あそ)臣(み)東(あずま)人(びと)・大(おお)野(のの)朝(あそ)臣(み)果(はた)安(やす)だ。)である、ということなのだ。 

さてそれでは、この巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)奈弖(なて)麻呂(まろ)(実際は、巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)祖(お)父(じ)・中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)だ。)の実姉としては、巨(こ)勢(せの)郎(いら)女(つめ)(実際は、巨(こ)勢(せの)紫(し)檀(だん)や、巨(こ)勢(せの)黒(くろ)麻(ま)呂(ろ)の阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)の娘だ。)がいた、とも伝えるのだ。また、大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)の妻ともなった、とも伝えているが、この大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)の実像としては、巨(こ)勢(せの)紫(し)檀(だん)(巨(こ)勢(せの)人(ひと)・巨(こ)勢(せの)黒(くろ)麻(ま)呂(ろ)だ。)である阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)(実際は、高(たか)梯(はし)王(のみこ)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)久(く)治(じ)良(らの)臣(おみ)・蘇(そ)我(がの)連(むらじ)子(この)大(おお)臣(おみ)・大(おお)中(なか)臣(とみの)金(こがねの)連(むらじ)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)利(とし)金(かね)・上(かみ)毛(け)野(のの)君(きみ)稚(わく)子(こ)・田(た)辺(なべの)首(ふひと)小(お)隅(すみ)・当(たい)麻(まの)公(きみ)豊(とよ)浜(はま)だ。)の娘むこの1人である、ということなのだ。つまり巨(こ)勢(せの)郎(いら)女(つめ)の夫の大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)こそが、その実像は、大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)や、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)伊(い)呂(ろ)具(ぐ)とも同一人物である多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)(実際は、巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)多比(たひ)等(と)・男(おのこ)王(のみこ)・蘇(そ)我(がの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・蘇(そ)我(がの)臣(おみ)果(はた)安(やす)・韓(から)国(くにの)連(むらじ)久(く)々(く)比(ひ)命(のみこと)・当(たい)麻(まの)真(ま)人(ひと)国(くに)見(み)・当(たい)麻(まの)公(きみ)広(ひろ)嶋(しま)だ。)である、ということなのだ。 

そしてまた、大納言巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)奈弖(なて)麻呂(まろ)(中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)だ。)の父(実父や、舅(しゅうと)だ。)としては、実父としては、巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)人(ひと)(阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)だ。)なのだ。また、舅(しゅうと)としては、巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)多比(たひ)等(と)(巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)品(ほむ)治(ち)・小品(こほむ)治(ち)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)だ。)なのだ。また、この舅(しゅうと)の方は、「多(た)治(じ)比(ひ)氏(し)」で言えば、左大臣多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)なのだ。また「韓(から)国(くにの)連(むらじ)氏(し)」で言えば、韓(から)国(くにの)連(むらじ)久(く)々(く)比(ひ)命(のみこと)なのだ。また「中(なか)臣(とみ)氏(し)」で言えば、近(おう)江(み)朝(ちょう)の大納言蘇(そ)我臣(がのおみ)果(はた)安(やす)や、蘇(そ)我(がの)日(ひゅう)向(がの)臣(おみ)なのだ。また「大三輪(おおみわ)氏(し)」で言えば、大三輪(おおみわ)大(のう)人(しの)臣(おみ)なのだ。また「仏界(ぶつかい)」で言えば、僧義(ぎ)淵(えん)なのだ。また「鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)」で言えば、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)伊(い)呂(ろ)具(ぐ)なのだ。また「津(つ)守(もり)連(のむらじ)氏(し)」で言えば、津(つ)守(もりの)連(むらじ)白(はく)鳥(ちょう)である、ということなのだ。 

さてそこで、この巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)多比(たひ)等(と)(多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)だ。)の長女のむことしては、津(つ)守(もり)連(のむらじ)生(いく)羽(は)(「石(いその)上(かみ)氏(し)」で言えば、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)なのだ。また「大(おお)三(み)輪(わ)氏(し)」で言えば、三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麻(ま)呂(ろ)や、大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)高(たけ)市(ち)麿(まろ)なのだ。また「鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)」で言えば、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)小(こ)建(たての)黒(くろ)彦(ひこ)なのだ。また有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)や、猿(さる)丸(まる)大(だ)夫(ゆう)なのだ。)がいた、ということなのだ。 

そしてまた、次女のむことしては、津(つ)守(もり)連(のむらじ)広(ひろ)麿(まろ)(「中(なか)臣(とみの)氏(し)」で言えば、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)なのだ。また「大(おお)伴(とも)氏(し)」で言えば、大納言大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)や、中納言大(おお)伴(ともの)牛(うま)養(かい)なのだ。また「多(た)治(じ)比(ひ)氏(し)」で言えば、大納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)池(いけ)守(もり)や、中納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)三(み)宅(やけ)麻(ま)呂(ろ)なのだ。また「下(しも)毛(け)野(の)氏(し)」で言えば、下(しも)毛(けの)野(の)君(きみ)古(こ)麻(ま)呂(ろ)なのだ。また「紀(きの)直(あたい)氏(し)」で言えば、紀(きの)直(あたい)古(こ)麻呂(まろ)なのだ。また「糸(いと)井(い)氏(し)」で言えば、糸(いと)井(いの)連(むらじ)厳(いつ)床(とこ)や、五(い)百(お)井(いの)造(みやつこ)豊(とよ)国(くに)なのだ。また「吉(き)備(び)氏(し)」で言えば、下(しもつ)道(みちの)圀(くに)勝(かつ)なのだ。また「多(おお)臣(のおみ)氏(し)」で言えば、太(おおの)臣(おみ)安(やす)万(ま)侶(ろ)なのだ。また「鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)」で言えば、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)板(いた)持(もち)や、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)都(つ)寸(す)理(り)なのだ。)がいた、ということなのだ。 

そしてまた、3女のむことしては、津(つ)守(もり)連(のむらじ)大(ひろ)海(み)(「中(なか)臣(とみの)氏(し)」で言えば、中(なか)臣連(とみのむらじ)大(おお)嶋(しま)なのだ。また「巨(こ)勢(せ)氏(し)」で言えば、巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)奈弖(なて)麻呂(まろ)や、巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)祖(お)父(じ)なのだ。また「吉(き)備(び)氏(し)」で言えば、下(しもつ)道(みちの)圀(くに)依(より)なのだ。また「鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)」で言えば、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)五(い)百(お)依(より)なのだ。また「大(おお)野(の)氏(し)」で言えば、大(おお)野(のの)朝(あそ)臣(み)東(あずま)人(びと)や、大(おお)野(のの)朝(あそ)臣(み)果(はた)安(やす)なのだ。また「大(おお)伴(とも)氏(し)」で言えば、大(おお)伴(ともの)祖(お)父(じ)麻(ま)呂(ろ)や、大(おお)伴(ともの)道(みち)足(たり)や、大(おお)伴(ともの)田(た)主(ぬし)なのだ。また「上(かみ)毛(け)野(のの)君(きみ)」で言えば、上(かみ)毛(け)野(のの)君(きみ)三(み)千(ちち)や、上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)難(なに)波(わ)麻(ま)呂(ろ)なのだ。また「田(た)辺(なべの)首(おびと)氏(し)」で言えば、田(た)辺(なべの)首(おびと)難(なに)波(わ)麻(ま)呂(ろ)なのだ。)がいた、ということなのだ。そしてまた、これらの3人の古代貴族こそが、その娘むこである、ということなのだ。 

さてそれでは、今度は、この津(つ)守(もり)連(のむらじ)生(いく)羽(は)である石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、紀(きの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)・三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)高(たけ)市(ち)麿(まろ)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)黒(くろ)彦(ひこ)命(のみこと)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)博(はか)床(とこ)・有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)・柿(かきの)本(もとの)猿(さる)・猿(さる)丸(まる)大(だ)夫(ゆう)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)良(りょう)虞(ぐ)だ。)としては、この津(つ)守(もりの)連(むらじ)白(はく)鳥(ちょう)である多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)の娘(多(た)治(じ)比(ひの)郎(いら)女(つめ)の実姉だ。)を娶る前にも、その先(せん)妃(ぴ)としては、巨(こ)勢(せの)紫(し)檀(だん)である阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)(鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)久(く)治(じ)良(らの)臣(おみ)だ。)の長女(巨(こ)勢(せの)郎(いら)女(つめ)の実姉だ。)を娶っていた、ということなのだ。そしてまた、この2人の間に、そのもうけた子としては、長男である石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)勝(かつ)男(お)(実際は、紀(きの)朝(あそ)臣(み)宿(すく)奈(な)麿(まろ)だ。また「仏界(ぶつかい)」では、大僧正の僧行(ぎょう)基(き)上(しょう)人(にん)だ。)や、次男である石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)(実際は、石(いその)上(かみの)乙(おと)麻(ま)呂(ろ)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)吉(き)備(び)麻(ま)呂(ろ)・百済(くだら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)・初代国(こく)学(がくの)頭(かしら)の文(あや)部(べの)息(おく)道(みち)・紀(き)朝(あそ)臣(み)男(お)人(ひと)だ。)や、第3子(長女だ。)である多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)足(たり)(実際は、百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)孝(こう)忠(ちゅう)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)宇(う)美(み)だ。)の妻たちの3人がいた、ということなのだ。そしてまた、後(ご)妃(ひ)(実際は、巨(こ)勢(せの)郎(いら)女(つめ)の実姉だ。)との間には、そのもうけた子としては、次女である紀(きの)朝(あそ)臣(み)刀(とう)子(この)娘(いらつめ)(42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)の妃(きさき)だ。)や、3女である中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)卿(きょう)(実際は、大(おお)伴(とも)家(やか)持(もち)・紀(きの)朝(あそ)臣(み)猿(さ)取(ぬし)だ。)の先(せん)妃(ぴ)らがいた、ということなのだ。 

さてそれでは、この津(つ)守(もり)連(のむらじ)広(ひろ)麿(まろ)である紀(きの)直(あたい)古(こ)麻呂(まろ)(「中(なか)臣(とみ)氏(し)」で言えば、中納言中(なか)臣連(とみのむらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)や、中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)名(な)代(しろ)だ。また「大(おお)伴(ともの)氏(し)」で言えば、大納言大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)や、中納言大(おお)伴(ともの)牛(うま)養(かい)だ。また「下毛(しもけの)野(の)君(きみ)」で言えば、下毛(しもけの)野(の)君(きみ)古(こ)麻呂(まろ)や、下(しも)毛(けの)野(の)朝臣(あそみ)石(いわ)代(しろ)だ。また「吉(き)備(び)氏(し)」で言えば、下(しもつ)道(みちの)圀(くに)勝(かつ)だ。また「大(おお)三(み)輪(わ)氏(し)」で言えば、大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)諸(もろ)上(かみ)だ。また「多(た)治(じ)比(ひ)氏(し)」で言えば、大納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)池(いけ)守(もり)や、中納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)三(み)宅(やけ)麻(ま)呂(ろ)だ。また「小(お)野(の)氏(し)」で言えば、小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)毛(け)野(の)だ。また「糸(いと)井(いの)連(むらじ)氏(し)」で言えば、五(い)百(お)井(いの)造(みやつこ)や、糸(いと)井(いの)連(むらじ)豊(とよ)国(くに)や、糸(いと)井(いの)連(むらじ)厳(いつ)床(とこ)だ。また「三宅(みやけ)氏(し)」で言えば、三宅(みやけの)吉士(きちし)厳(いつ)床(とこ)だ。また「鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)」で言えば、秦(はたの)忌(いみ)寸(き)板(いた)持(もち)や、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)都(つ)寸(す)理(り)だ。)と、その先(せん)妃(ぴ)である中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)の娘の斗(と)売(ねの)娘(いらつめ)との間に、そのもうけた長女(実際は、大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)妹(いも)だ。)のむことしては、①林(はやしの)直(あたい)解(かい)任(とう)(実際は、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)諸(もろ)男(お)・石(いその)上(かみの)乙(おと)麻(ま)呂(ろ)・大(やま)和(との)宿(すく)禰(ね)乙(おと)継(つぐ)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)吉(き)備(び)麻(ま)呂(ろ)・荒(あら)嶋(しまの)磯(いそ)継(つぐ)・荒(あら)嶋(しまの)乙(おと)主(ぬし)・大(おお)三(み)輪(わの)臣(おみ)調(つき)足(たり)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)忍(おし)人(ひと)・百済(くだら)王(こに)氏(きし)敬(きょう)福(ふく)・初代国(こく)学(がくの)頭(かしら)の文(あや)部(べの)息(おく)道(みち)だ。)がいた、ということなのだ。そしてまた、次女のむことしては、②紀(きの)直(あたい)千(ち)嶋(しま)(実際は、阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)島(しま)足(たり)・丹(たん)波(ばの)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)・右大臣吉(き)備(びの)真(ま)備(きび)・大(おお)伴(ともの)宿(すく)禰(ね)古(こ)慈(し)悲(び)・大(おお)伴(ともの)書(ふみ)持(もち)だ。)がいたのだ。そしてまた、3女のむことしては、③紀(きの)直(あたい)広嶋(ひろしま)(実際は、阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)・阿(あ)倍(べの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・楊(や)侯(この)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)・初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)・大(おお)伴(ともの)駿(する)河(が)麻(ま)呂(ろ)だ。)がいた、ということなのだ。 

そしてまた、この紀(きの)直(あたい)広嶋(ひろしま)である阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)とは、中(なか)臣連(とみのむらじ)大(おお)嶋(しま)(実際は、阿(あ)倍(べの)朝(あそ)臣(み)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)・津(つ)守(もり)連(のむらじ)大(ひろ)海(み)・大納言巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)奈弖(なて)麻呂(まろ)・大(おお)伴(ともの)祖(お)父(じ)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)伴(ともの)道(みち)足(たり)・大(おお)伴(ともの)田(た)主(ぬし)・下(しもつ)道(みちの)圀(くに)依(より)・鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)五(い)百(お)依(より)・大(おお)野(のの)朝(あそ)臣(み)東(あずま)人(びと)・大(おお)野(のの)朝(あそ)臣(み)果(はた)安(やす)・上(かみ)毛(け)野(のの)君(きみ)三(み)千(ちち)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)難(なに)波(わ)麻(ま)呂(ろ)・田(た)辺(なべの)首(おびと)難(なに)波(わ)麻(ま)呂(ろ)だ。)の実子で次男の阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)広(ひろ)目(め)(実際は、伊豆(いず)丸(まる)・楊(や)侯(この)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)・中(なか)臣(とみの)泰(やす)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)三(み)原(はら)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)伴(ともの)高(たか)多(た)麻(ま)呂(ろ)・初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)瀬(せ)・大(おお)伴(ともの)駿(する)河(が)麻(ま)呂(ろ)だ。)こそがその実像なのだ。 

そしてまた、紀(きの)直(あたい)古(こ)麻呂(まろ)である中(なか)臣連(とみのむらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)(大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)だ。)と、その後(ご)妃(ひ)の多(た)治(じ)比(ひの)郎(いら)女(つめ)(多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)の次女の阿(あ)岐(き)良(ら)姫(ひめ)だ。)との間に、そのもうけた実子としては、④紀(きの)直(あたい)建(たけ)嶋(しま)である右大臣中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(実際は、坂(さかの)上(うえの)忌(いみ)寸(き)大(おお)国(くに)・大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・大三輪(おおみわの)臣(おみ)美(み)岐(き)麿(まろ)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)宅(やか)麿(まろ)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)興(おこ)志(し)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)家主(やかぬし)だ。)や、その実妹である留(る)女(め)之(の)郎(いら)女(つめ)(実際は、藤(ふじ)原(わらの)朝(あそ)臣(み)継(つぐ)縄(なお)室(しつ)だ。)の、1男1女がいた、ということなのだ。 

つまりこれらの『各古(こ)代(だい)氏(し)族(ぞく)の系譜』の推定人物の繋がりや、その流れを検証して見れば、実際としては、阿(あ)部(べの)御(み)主(う)人(し)(実際は、高(たか)梯(はしの)王(みこ)だ。)の実子である中納言中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、多(おおの)臣(おみ)安(やす)万(ま)侶(ろ)・大納言大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)だ。)や、また、その実弟である中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)(実際は、多(おおの)臣(おみ)道(みち)万(ま)侶(ろ)・大納言阿(あ)倍(べの)朝(あそ)臣(み)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)だ。)や、また、阿(あ)部(べの)御(み)主(う)人(し)(「大(おお)伴(とも)氏(し)の系譜」では、大(おお)伴(ともの)連(むらじ)長(なが)徳(とこ)と、その兄弟たちだ。)の異母弟である左大臣多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)(実際は、男(おのこの)王(みこ)・『大(おお)伴(とも)氏(し)の系譜』で言えば、大(おお)伴(ともの)御(み)行(ゆき)や、その弟の大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)だ。)や、また、有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)である左大臣石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麻(ま)呂(ろ)だ。)たちの一流貴族や、その子や、孫たちこそが、我が国の古代史を創作された張本人たち、ということなのだ。さてそれでは、これらの古代有力氏族について、更に詳しく検証して見れば、中(なか)臣連(とみのむらじ)大(おお)嶋(しま)の次男である阿倍(あべの)引田(ひけたの)広(ひろ)目(め)(実際は、紀(きの)直(あたい)広嶋(ひろしま)・阿倍(あべの)伊豆(いず)丸(まる)・阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)・阿(あ)倍(べの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・楊(や)候(この)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)・中(なか)臣(とみの)泰(やす)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)三(み)原(はら)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)伴(ともの)高(たか)多(た)麻(ま)呂(ろ)・初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)瀬(せ)だ。)の実子としては、①阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)(実際は、紀(きの)直(あたい)國(くに)栖(ます)・2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・石(いその)上(かみの)宅(やか)嗣(つぐ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)成(なり)・中(なか)臣(とみの)習(つ)冝(げの)阿(あ)曽(そ)麻(ま)呂(ろ)・小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)石(いわ)根(ね)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)射(み)・楊(や)候(この)史(ふひと)真(まさ)身(み)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)長(なが)野(の)だ。)や、その実姉である和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)虫(むし)たち1男1女がいた、ということなのだ。 

そしてまた、右大臣中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)卿(きょう)(実際は、紀(きの)直(あたい)建(たけ)嶋(しま)・坂(さかの)上(うえの)忌(いみ)寸(き)大(おお)国(くに)・大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)家主(やかぬし)・大(おお)神(みあの)朝(あそ)臣(み)美(み)岐(き)麿(まろ)・阿(あ)刀(との)造(みやつこ)大(おお)足(たり)・津(つ)守(もりの)宿(すく)禰(ね)男(お)足(たり)だ。)と、その先(せん)妃(ぴ)(実際は、石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)の娘・紀(きの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)の娘の刀(とう)子(この)娘(いらつめ)の実妹だ。)との2人の間に、そのもうけた実子としては、大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)女(め)(実際は、阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)・和(わ)気(けの)坂(さか)本(もとの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麿(まろ)・上(かみ)毛(けの)野(の)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)の後(ご)妻(さい)・賀(か)陽(やの)臣(おみ)小(こ)玉(だま)女(め)だ。)や、坂(さかの)上(うえの)忌(いみ)寸(き)犬(いぬ)養(かい)(実際は、大(おお)和(やまとの)忌(いみ)寸(き)長(なが)岡(おか)・大(おお)倭(やまとの)忌(いみ)寸(き)小(こ)東(あずま)人(びと)だ。)たち1男1女がいた、ということなのだ。そしてまた、阿倍(あべの)引田(ひけたの)島(しま)足(たり)(実際は、紀(きの)直(あたい)千(ち)嶋(しま)・吉(き)備(びの)真(ま)備(きび)・丹(たん)波(ばの)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)伴(ともの)書(ふみ)持(もち)・大(おお)伴(ともの)古(こ)慈悲(しび)だ。)の実子としては、中納言大(おお)伴(ともの)宿(すく)禰(ね)弟(おと)麻(ま)呂(ろ)や、その異母弟である大(おお)伴(ともの)宿(すく)禰(ね)益(ます)立(たて)(実際は、大(おお)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)立(たて)だ。)たちがいた、ということなのだ。 

さてそれでは、『神代(かみよの)古記(こき)』を原本として、『古事記(こじき)』や、『日本(にほん)書紀(しょき)』や、『但(たじ)馬(ま)故(こ)事(じ)記(き)』や、『続(しょく)日(に)本(ほん)紀(ぎ)』などの国史や、史書が編纂された、ということなのだが、『古事記(こじき)』の実際の主筆者である中(なか)臣連(とみのむらじ)大(おお)嶋(しま)(実際は、大納言巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)奈弖(なて)麻呂(まろ)・大納言阿(あ)倍(べの)朝(あそ)臣(み)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)・粟(あわ)田(たの)朝(あそ)臣(み)真(ま)人(ひと)・仏(ぶつ)界(かい)では、僧道(どう)観(かん)や、僧満誓(まんぜい)・坂(さかの)上(うえの)直(あたい)熊(くま)毛(け)・大(おお)野(のの)朝(あそ)臣(み)果(はた)安(やす)・大(おお)野(のの)朝(あそ)臣(み)東(あずま)人(びと)・佐(さ)味(みの)朝(あそ)臣(み)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)・笠(かさの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)君(きみ)三(み)千(ちち)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)難(なに)波(わ)麻(ま)呂(ろ)・田(た)辺(なべの)首(おびと)難(なに)波(わ)麻(ま)呂(ろ)だ。)や、その子や、娘むこや、孫などの、その時代の子孫たちによって、じつは、『続(しょく)日(に)本(ほん)紀(ぎ)』も編纂されたものとも推測されるのだ。そしてまた、彼たちの先祖である中(なか)臣連(とみのむらじ)大(おお)嶋(しま)が、活用した手法である複数の人物(各有力豪族だ。)を創作するという、この隠蔽テク二ックこそが、その後の国史編纂作業の土台ともなっている、ということなのだ。そしてまた、『神代(かみよの)古記(こき)』という幻の書物に近い内容としては、『但(たじ)馬(ま)故(こ)事(じ)記(き)』こそが、最も近いのだ。なぜならば、下(しも)毛(け)野(のの)君(きみ)の祖の奈(な)良(ら)別(わけ)命(のみこと)としては、『大(おお)伴(とも)氏(し)の系譜』で言えば、大(おお)伴(ともの)室(もろ)屋(やの)大(おお)連(むらじ)なのだ。また、『物(もの)部(のべ)氏(し)の系譜』で言えば、初代物(もの)部(のべの)目(めの)大連(おおむらじ)なのだ。また、『平群(へぐり)氏(し)の系譜』で言えば、平(へ)群(ぐりの)真(ま)鳥(どりの)大(おおまえつ)臣(きみ)なのだ。つまりこの3人の連名によって仮名(かな)と漢字(かんじ)を混ぜ用いて書かれた、とも伝わる『竹内(たけうち)文書(もんしょ)』(西暦471年3月15日付)こそが、まさに幻の『神(かみ)代(よの)古(こ)記(き)』を、その基とした書物とも推測されるからなのだ。そしてまた、この延長上にある書物こそが『但(たじ)馬(ま)故(こ)事(じ)記(き)』ということなのだ。つまり順とすれば、「世に出る」のが遅かっただけなのだ。さてそれでは、『竹内(たけうち)文書(もんしょ)』を「世に出した」という正統(せいとう)竹内家(たけうちけ)の先祖である竹(たけ)内(うちの)子(こ)首(びと)の実像としては、実際は、阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)の実子で次男である中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)である、ということなのだ。つまり平(へ)群(ぐりの)連(むらじ)子(こ)首(びと)である中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)こそが、この竹(たけ)内(うちの)子(こ)首(びと)の別名称である、ということなのだ。 

さてそれでは、『日(に)本(ほん)書(しょ)紀(き)』の天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)の10年(681年)3月17日条を見れば、『大極殿に(出)御して、川(かわ)嶋(しまの)皇(み)子(こ)、忍(おさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)、広(ひろ)瀬(せの)王(みこ)、竹(たけ)田(だの)王(みこ)、桑(くわ)田(たの)王(みこ)、三(み)野(のの)王(みこ)、大(だい)錦(きん)下(げ)(従4位下相当)の上(かみつ)毛(け)野(のの)君(きみ)三(み)千(ちち)、小(しょう)錦(きん)中(ちゅう)(従5位上~正5位下相当)の忌(いん)部(べの)連(むらじ)首(おびと)(忌(いん)部(べの)首(おびと)子(こ)首(くび)だ。)、小(しょう)錦(きん)下(げ)(従5位下相当)の阿(あ)曇(ずみの)連(むらじ)稲(いな)敷(しき)、難(なに)波(わの)連(むらじ)大(おお)形(がた)、大(だい)山(さん)上(じょう)(正6位上相当)中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)、大(だい)山(さん)下(げ)(従6位下相当)平(へ)群(ぐりの)臣(おみ)子(こ)首(びと)(ら)に詔して、帝紀および上古の諸事を、記(録)し(校)定した。大嶋(おおしま)と子首(こびと)とが、みずから筆をとって(記)録した。』とも記されるのだが、そもそも、川(かわ)嶋(しまの)皇(み)子(こ)や、忍(おさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)の実像としては、42代文武(もんむ)天(てん)皇(のう)こそがその実像なのだ。そしてまた、広瀬(ひろせの)王(みこ)や、竹(たけ)田(だの)王(みこ)や、桑(くわ)田(たの)王(みこ)や、三野(みのの)王(みこ)(美(み)努(のの)王(みこ)だ。)たちの実像については、やっぱり42代文武(もんむ)天皇(てんのう)こそがその実像とも推測されるのだ。そこで、ほかの人物である大(だい)錦(きん)下(げ)(従4位下上(かみつ)毛(け)野(のの)君(きみ)三(み)千(ちち)や、小(しょう)錦(きん)中(ちゅう)従5位下の忌(いん)部(べの)連(むらじ)首(おびと)(忌(いん)部(べの)首(おびと)子(こ)首(くび)だ。)や、小(しょう)錦(きん)下(げ)従5位下阿(あ)曇(ずみの)連(むらじ)稲(いな)敷(しき)や、難(なに)波(わの)連(むらじ)大(おお)形(がた)たちの実像としては、実際は、大(だい)山(さん)上(じょう)正6位上という中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)の平(へ)群(ぐりの)臣(おみ)子(こ)首(びと)こそが、その実像である、ということなのだ。 

さてそれでは、従4位下の笠(かさの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(僧満誓(まんぜい)だ。)や、正3位の阿(あ)倍(べの)朝(あそ)臣(み)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)(大納言・養老3年没。)や、正4位下の路(みちの)真(ま)人(ひと)大(お)人(びと)(養老3年没。)や、正3位の粟(あわ)田(たの)朝(あそ)臣(み)真(ま)人(ひと)(僧(そう)道(どう)観(かん)だ・養老3年没。)や、坂(さかの)上(うえの)忌(いみ)寸(き)首(おびと)名(なの)直(あたい)や、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)五(い)百(お)依(より)や、忌(いん)部(べの)宿(すく)禰(ね)鳥(とり)麻(ま)呂(ろ)や、田(た)辺(なべの)史(ふひと)首(おびと)名(なの)連(むらじ)や、田(た)辺(なべの)首(おびと)難(なに)波(わ)麻(ま)呂(ろ)や、熊毛(くまけ)や、佐(さ)味(みの)君(きみ)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)や、上(かみつ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)難(なに)波(わ)麻(ま)呂(ろ)や、田(た)口(ぐちの)朝(あそ)臣(み)益(ます)人(ひと)や、大(おお)野(のの)朝(あそ)臣(み)東(あずま)人(びと)や、太(おおの)臣(おみ)道(みち)万侶(まろ)などの人物としては、実際は、この中(なか)臣連(とみのむらじ)大(おお)嶋(しま)(巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)奈弖(なて)麻呂(まろ)・753年没だ。)こそが、その実像なのだ。そしてまた、大極殿に(出)御した、という人物の川(かわ)嶋(しまの)皇(み)子(こ)や、忍(おさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)や、広(ひろ)瀬(せの)王(みこ)や、竹(たけ)田(だの)王(みこ)や、桑(くわ)田(たの)王(みこ)や、三(み)野(のの)王(みこ)(美(み)努(の)王(のみこ)だ。)たちは、42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)こそが、その実像なのだ。そしてまた、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)(平(へ)群(ぐりの)臣(おみ)子(こ)首(びと)だ。)なのだが、自ら筆をとって記録したという『帝紀および上古の諸事」としては、実際は、『古(こ)事(じ)記(き)』そのものではないか、とも推測されるのだ。なぜならば、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)(平(へ)群(ぐりの)臣(おみ)子(こ)首(びと)だ。)自身が「多数の別名称の別人物」ともなっているからなのだ。つまり多数の別名称の別人物に変身する隠蔽手法こそが、『古事記(こじき)』や、『日(に)本(ほん)書(しょ)紀(き)』や、『続日本(しょくにほん)紀(ぎ)』などに多く見られるからなのだ。つまり1人の人物が没すると、次にその人物が、格(かく)下(した)の位(くらい)を持つ人物として、ふたたび登場してくるという、この隠蔽テクニックこそが、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)の特意とする隠蔽手法である、ということなのだ。そしてまた、この典型的な例を、2つ挙げて見れば、蘇(そ)我(がの)蝦(えみ)夷(しの)大(おお)臣(おみ)が滅ぶとき、燃え盛る炎の中から、『古(こ)記(き)』を拾い出した、という大(おお)分(いたの)君(きみ)恵(え)尺(さか)とは、蘇(そ)我(がの)蝦(えみ)夷(しの)大(おお)臣(おみ)自身の久米皇子である、ということなのだ。そしてまた、蘇(そ)我(がの)入(いる)鹿(かの)臣(おみ)が殺されるとき、震えながら勅語(ちょくご)を読み上げた、という蘇(そ)我(がの)倉(くら)山(やま)田(だの)石(いし)川(かわ)麻(ま)呂(ろ)としては、実際は、聖(しょう)徳(とく)太(たい)子(し)である35代舒(じょ)明天皇(めいてんのう)(百済(くだら)王(おう)の武(む)王(おう)だ。)自身である、ということなのだ。つまりこれらは『記紀(きき)』の中の隠蔽手法なのだ。 

それでは、『壬(じん)申(しん)の乱(らん)』なのだが、実際は、39代天(てん)智(じ)天(てん)皇(のう)と、40代天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)との直接対決であったのだ。そしてまた、32代用(よう)明(めい)天(てん)皇(のう)である物(もの)部(のべの)守(もり)屋(やの)大(おお)連(むらじ)や、33代崇(す)峻(しゅん)天(てん)皇(のう)や、37代孝(こう)徳(とく)天(てん)皇(のう)の実像である蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)との確執などは、「実際にあった。」ということだが、しかしながら、その身を滅ぼすほどの確執ではなかった、ということなのだ。そしてまた、この時代とは、皇(み)子(こ)や皇(ひめ)女(みこ)の謀(む)反(ほん)などは、ほとんどあり得ない時代なのだ。なぜならば、有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)や、大(おお)友(ともの)皇(み)子(こ)や、大(おお)津(つの)皇(み)子(こ)や、長(なが)屋(やの)王(みこ)や、橘(たちばなの)諸(もろ)兄(え)や、吉(き)備(び)内(ない)親(しん)王(のう)など、皇(み)子(こ)や皇(ひめ)女(みこ)の謀(む)反(ほん)事件(じけん)などは、悪者にして消してしまう、という隠蔽テクニックなのだ。そしてまた、大(おお)友(ともの)皇(み)子(こ)や、大(おお)津(つの)皇(み)子(こ)たち2人については、『運悪く』失脚しただけなのだ。というのは、この時代、すでに大(やま)和(と)王(おう)権(けん)の実力者たちは、皇族から臣(しん)下(か)へ降っていた中央貴族こそがその権力の中心人物たちとなっていたからだ。つまり臣下に降った右大臣阿(あ)倍(べの)御(み)主(う)人(し)(実際は高(たけ)梯(はしの)王(みこ)だ。また「大(おお)伴(とも)氏(し)の系譜」で言えば、大(おお)伴(ともの)連(むらじ)長(なが)徳(とこ)や、大(おお)伴(ともの)連(むらじ)兄(え)麻(ま)呂(ろ)や、大(おお)伴(ともの)連(むらじ)東(とう)安(あん)や、大(おお)伴(ともの)連(むらじ)馬(ま)来(き)田(た)や、大(おお)伴(ともの)連(むらじ)男(お)吹(ふ)負(けい)だ。また「津(つ)守(もり)氏(し)の系譜」で言えば、津(つ)守(もりの)連(むらじ)夜(や)平(へい)だ。また「三(み)宅(やけ)氏(し)の系譜」で言えば、三(み)宅(やけの)吉(き)士(し)神(かみ)床(とこ)だ。また「紀(き)氏(し)の系譜」で言えば、紀(きの)大口(おおくち)臣(のおみ)だ。また「上(かみ)毛(け)野(の)氏(し)の系譜」で言えば、上(かみ)毛(け)野(のの)君(きみ)稚(わく)子(こ)だ。)や、そしてまた、その異母弟である左大臣多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)嶋(しま)(実際は男(おのこの)王(みこ)だ。また「大(おお)伴(とも)氏(し)の系譜」で言えば、大(おお)伴(ともの)宿(すく)禰(ね)御(み)行(ゆき)や、大(おお)伴(ともの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)だ。また「廣(ひろ)井(い)氏(し)の系譜」で言えば、廣(ひろ)井(いの)造(みやつこ)鯨(くじら)だ。また「鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)の系譜」で言えば、、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)伊(い)呂(ろ)具(ぐ)臣(のおみ)だ。また「蘇(そ)我(が)氏(し)の系譜」で言えば、大納言蘇(そ)我(がの)臣(おみ)果(はた)安(やす)や、蘇(そ)我(がの)日(ひゅう)向(がの)臣(おみ)だ。また「紀(き)氏(し)の系譜」で言えば、紀(きの)大(う)人(し)臣(のおみ)だ。また「津(つ)守(もり)氏(し)の系譜」で言えば、津(つ)守(もりの)連(むらじ)白(はく)鳥(ちょう)だ。また「中(なか)臣(とみ)氏(し)の系譜」で言えば、大(おお)中(なか)臣(とみの)渠(こ)海(めの)連(むらじ)だ。また「韓(から)国(くにの)連(むらじ)氏(し)の系譜」で言えば、韓(から)国(くにの)連(むらじ)久(く)々(く)比(ひ)命(のみこと)だ。また「海(あま)部(べの)氏(し)の系譜」で言えば、海(あま)部(べの)直(あたい)伍(い)佰(お)道(みち)だ。)たち2人や、そしてまた、左大臣石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)・猿丸(さるまる)大夫(だゆう)だ。また「大(おお)三(み)輪(わ)氏(し)の系譜」で言えば、三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麻(ま)呂(ろ)や、大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)高(たけ)市(ち)麿(まろ)だ。また「紀(き)氏(し)の系譜」で言えば、紀(きの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)だ。)を含めた、3人の一流貴族や、その子や、孫や、そしてまた、42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)の実像である長(なが)屋(や)親(しん)王(のう)や、その子孫や、そしてまた、草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)や、高(たけ)市(ちの)皇(み)子(こ)や、穂(ほ)積(ずみ)親(しん)王(のう)の実像である藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)の子孫たちこそが、当時は中納言以上の一流貴族である、ということなのだ。 

さてそれでは、一気に話を戻して言えば、天(あま)照(てらすの)大神(おおみかみ)(女王2代目卑弥呼(ひみこ)だ。)の引退後としては、2世紀末の頃には、その頃には、成人していた異母4兄妹のウガ御魂(のみたま)命(のみこと)と、天(あま)照(てる)瑞(みず)姫(ひめ)(スセリ姫・大(おお)宮(みや)賣(のめ)命(のみこと)・大(おお)国(くに)主(ぬしの)命(みこと)の妃(きさき)だ。)や、大(おお)国(くに)主(ぬしの)命(みこと)と、神(かむ)水(みず)姫(ひめ)(ウガ御魂(のみたま)命(のみこと)の妃(きさき)だ。)としては、いずれも実兄妹なのだが、彼たちこそが、この頃、すでに互いに、御夫婦になっていたのだ。そしてまた、スサノオ尊としては、その実子の大(おお)国(くに)主(ぬし)命(のみこと)(実際は、五(い)十(そ)猛(たける)命(のみこと)・大(おお)屋(や)彦(ひこ)命(のみこと)・大年(おおとし)命(のみこと)だ。)と共に、オロチ族の残存(ざんぞん)勢力(せいりょく)の制圧に乗り出され、彼たちの4人の異母兄弟や、その孫たちと共に、近江(おうみ)地方のオロチ族(スクナミ神の一族だ。)を制圧し、7代目高(たか)皇(み)産(むす)霊(び)尊(のみこと)(実際は、高気(たかき)根(ね)尊(のみこと)・高(たか)城(ぎの)神(かみ)だ。)として、また、68代天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)(大海(わたつみの)大神(おおかみ)だ。)として、その皇位(こうい)を継承された、ということなのだ。そしてまた、『天(あま)の磐(いわ)戸(と)伝説(でんせつ)』の逸話(いつわ)なのだが、スサノオ尊の死後(AD200年頃だ。)には、ふたたび、2代目天(あま)照(てらすの)大神(おおみかみ)こそが、その皇位(こうい)を継承された、ということなのだ。このときの出来事の伝説なのだ。そしてまた、天(あまの)手刀(たじから)雄(お)命(のみこと)(実際は、すでに没したスサノオ尊だ。)や、天(あまのう)細(づ)女(め)命(のみこと)(実際は、豊(とよ)玉(たま)姫(ひめ)・御(み)炊(かしき)屋(や)姫(ひめ)・活玉依姫(いくたまよりひめ)・天(あまの)道(みち)日(ひ)女(め)命(のみこと)・豊受姫(とようけひめ)・豊(とよ)受(うけ)姫(ひめの)大(おお)神(かみ)だ。)の裸(はだか)踊(おど)りなどは、フィクションなのだ。つまり天(あまのう)細(づ)女(め)命(のみこと)(実際は、豊玉(とよたま)姫(ひめ)・天道(あまのみち)日女(ひめ)命(のみこと)・豊受姫(とようけひめ)・豊(とよ)受(うけ)姫(ひめの)大(おお)神(かみ)だ。)としては、この頃は生れたばかりの赤ん坊とも推測されるからなのだ。また、赤ん坊の誕生時の出来事なのだ。そしてまた、2代目天(あま)照(てらすの)大神(おおみかみ)(邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の2代目卑弥呼(ひみこ)だ。)の晩年の『皆(かい)既(き)日(にっ)食(しょく)』(AD244~245年の頃だ。)とは、この伝説の中に、重ねたものなのだ。 

さてそれでは、イザナギ尊だが、海(あま)部(べの)大(おお)神(かみ)・5代奈賀(なか)の大人(おおうし)様(さま)なのだ。また、八(や)十(そ)気(き)根(ねの)尊(みこと)の6代高(たか)皇(み)産(むす)霊(び)尊(のみこと)なのだ。また、4代奈賀(なか)の大人(おおうし)様(さま)(4代海(あま)部(べの)大(おお)神(かみ)だ。)とは、アワナギ尊なのだ。また、3代奈(な)賀(か)の大(おお)人(うし)様(さま)(3代海(あま)部(べの)大(おお)神(かみ)だ。)とは、アメノヨロズ尊なのだ。また、2代奈賀(なか)の大人(おおうし)様(さま)(2代海(あま)部(べの)大(おお)神(かみ)だ。)とは、アメノカガミ尊なのだ。また、初代奈賀(なか)の大人(おおうし)様(さま)(初代海(あま)部(べの)大(おお)神(かみ)だ。)とは、新(しら)羅(ぎ)の発祥の国の斯(さ)蘆(ろ)国(こく)の1・2代国王(朴(ぱく)赫(ひょっ)居(こ)世(せ)・南(み)解(め)次(ちゃ)次(ちゃ)雄(うん)・高(こう)句(く)麗(り)の朱(ちゅ)蒙(もん)の盟友の1人陜(ひょっ)父(ぽ)だ。)の実子の1人の、4代新(しら)羅(ぎ)国(こく)王(おう)の脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)・昔(そく)脱(た)解(れ)AD57~80年だ。)なのだ。また、朱(ちゅ)蒙(もん)の盟友(めいゆう)の1人で、高(こう)句(く)麗(り)の最高官職の大(て)輔(ぽ)であったという陝(ひょつ)父(ぽ)こそが、倭(わ)国(こく)の多婆(たば)羅(ら)国(こく)(熊本県だ。)の始祖ともなったのだ。そしてまた、この多婆(たば)羅(ら)国(こく)とは、安羅(あら)国(こく)(安羅(あら)韓(かん)国(こく)も存在した。)と隣り合っていた、というが、はじめは熊襲(くまそ)城(じょう)を保っていたというから、当時は、分(ぶん)国(こく)である斯(さ)蘆(ろ)国(こく)こそが、その本拠地なのだ。そしてまた、ウガヤフキアエズ王朝の59代天(あめ)地(つち)明(あかる)玉(たま)主(ぬし)照(てるの)天(すめら)皇(みこと)である1・2代新(し)羅(らぎ)国(こく)王(おう)の南(な)解(め)次(ちゃ)次(ちゃ)雄(うん)AD4~24年だ。)の正妃(せいひ)としては、実際は、56代彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)という天(あま)津(つ)成(なる)瀬(せ)男(おの)天(すめら)皇(みこと)の実像である九州の筑紫(つくし)の糸(い)都(と)国(こく)王(おう)の娘の天(あま)津(つ)綿(め)糸(いと)姫(ひめの)尊(みことの)皇(ひめ)女(みこ)(糸(いと)島(しま)半島と関わるのだ。)なのだ。そしてまた、その別(べつ)妃(ぴ)としては、日(ひゅう)向(が)族(ぞく)の部族長の娘である太(ふと)玉(だま)日(ひゅう)向(が)姫(ひめ)尊(のみこと)を娶ったことが推測されるのだが、その実子こそが、4代新(しら)羅(ぎ)国(こく)王(おう)の脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)・昔(そく)脱(た)解(れ)AD57~80年だ。)で、初代奈賀(なか)の大人(おおうし)様(さま)(初代海(あま)部(べの)大(おお)神(かみ)だ。)なのだ。ところで、高句(こうく)麗(り)国(こく)の始祖の朱(ちゅ)蒙(もん)王(おう)の旗頭(はたがしら)は、『三足(さんそく)カラス』なのだ。つまりヤタカラスや、ヤタノカガミなどの原型とも推測される、ということなのだ。 

さてそれでは、最近の韓流(ハンリュウ)ブームなのだが、その根底には、古代の英雄の倭(やまと)武(たけるの)尊(みこと)(実際は、13代百済(くだら)王(おう)の速(そっ)古(こ)大(だい)王(おう)だ。)や、毛(け)野(のの)君(きみ)の祖の荒(あら)田(た)別(わけの)命(みこと)(実際は、17代仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)・16代百済(くだら)王(おう)の辰(ちん)斯(さ)王(おう)だ。)や、初代田(た)道(みち)君(のきみ)(実際は、18・19代履中(りちゅう)・反正(はんぜい)天皇(てんのう)・17・18代百済(くだら)王(おう)の阿(あ)莘(しん)王(おう)・腆(ちょん)支(じ)王(おう)だ。)や、中(なか)臣(とみの)塩(しお)屋(やの)宿(すく)禰(ね)(実際は、25代仁(にん)賢(けん)天(てん)皇(のう)・紀(きの)大(おお)磐(いわの)宿(すく)禰(ね)・23代百済(くだら)王(おう)の三(さん)斤(きん)王(おう)だ。)や、聖(しょう)徳(とく)太(たい)子(し)(実際は、35代舒(じょ)明(めい)天(てん)皇(のう)・30代百済(くだら)王(おう)の武(む)王(おう)だ。)や、蘇我馬子(そがのうまこの)大臣(おおおみ)(33・37代崇(す)峻(しゅん)・孝(こう)徳(とく)天皇(てんのう)・28・31百(くだ)済(ら)王(おう)の恵(へ)王(おう)・義(うぃ)慈(じゃ)王(おう)だ。)など、いわゆる古代(こだい)大王(おおきみ)のロマンや、海(かい)洋(よう)系(けい)騎(き)馬(ば)民(みん)族(ぞく)として、また、扶(ふ)餘(よ)族(ぞく)(秦氏一族(はたしいちぞく)・猿(さる)田(た)族(ぞく)だ。)としての血が流れているからだ、とも考えられるのだ。 

さてそれでは、いよいよ、この書の内容なのだが、まず『古代天皇の実像 上』としては、、第1章として、『霧の中の建国秘話』として『先(せん)代(だい)旧(く)事(じ)本(ほん)紀(き)』の『天(あまつ)孫(みまきの)本(もとつ)紀(ふみ)』の中の、『物(もの)部(のべ)氏(し)の系譜』の物(もの)部(のべの)石(いその)上(かみの)大(おお)神(かみ)を、その神(かみつ)宮(みや)に斎(いつき)奉(まつ)られた、という人物たちこそが、改まって大(だい)嘗(じょう)祭(さい)を執り行なわれた、ときの大(おお)王(きみ)(古代天皇だ。)の分身である、という仮説を立てて、その推論を語る内容ともなっているのだ。そしてまた、第2章としては、『ウガヤ王の神武(じんむ)天皇(てんのう)と欠史8代の天皇の謎を解く』として、ウガヤフキアエズ王朝(おうちょう)の末(まつ)胤(いん)である初代神武(じんむ)天皇(てんのう)の実像や、欠史8代の古代天皇の実像を推察する内容ともなっているのだ。また、天ヒボコ命の実像である4・5・6代懿(い)徳(とく)・孝(こう)昭(しょう)・孝(こう)安(あん)天(てん)皇(のう)や、10代崇(す)神(じん)天皇(てんのう)(物(もの)部(のべの)伊(い)香(か)色(しこ)男(お)命(のみこと)・彦坐(ひこいますの)王(みこ)だ。)や、11代垂(すい)仁(にん)天皇(てんのう)(物部(もののべの)十(と)市(いち)根(ねの)命(みこと)だ。)や、12代景(けい)行(こう)天皇(てんのう)(物部(もののべの)大(おお)新(にい)河(かわの)命(みこと)だ。)や、その実子の倭(やまと)武(たける)尊(のみこと)(毛(け)野(のの)君(きみ)の祖の彦(ひこ)八(や)綱(つな)田(だの)王(みこ)・13代百済(くだら)王(おう)の速(そっ)古(こ)大王(だいおう)だ。)たちについても、その実像を検証する内容ともなっているのだ。 

さてところで、『古代天皇の実像 下』としては、その第1章としては、『毛(け)野(のの)君(きみ)こそ天皇だ。崇(す)神(じん)・垂(すい)仁(にん)・景(けい)行(こう)・成(せい)務(む)天皇(てんのう)・倭(やまと)武(たける)尊(のみこと)・仲哀(ちゅうあい)・応(おう)神(じん)・仁徳(にんとく)・履中(りちゅう)・反正(はんぜい)・允(いん)恭(ぎょう)天皇(てんのう)と、百済(くだら)王家(おうけ)の謎を解く』として、毛(け)野(のの)君(きみ)とも深く関わっている但馬(たじま)国(のくに)や、上野(こうずけ)国(のくに)や、下野(しもつけ)国(のくに)の伝承を中心として、13代成(せい)務(む)天皇(てんのう)(実際は、彦(ひこ)狭(さ)嶋(しまの)王(みこ)・息(おき)長(なが)宿(すく)禰(ねの)王(みこ)・水(みず)先(さき)主(ぬし)命(のみこと)だ。)や、14代仲(ちゅう)哀(あい)天(てん)皇(のう)(実際は、御(み)諸(もろ)別(わけの)王(みこ)・中臣(なかとみの)雷(いかづちの)大臣(おおおみ)だ。)や、15代神(じん)功(ぐう)皇(こう)后(ごう)や、16代応(おう)神(じん)天皇(てんのう)(川(かわ)上(かみ)真(のま)若(わか)王(のみこ)だ。)や、17代仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)(実際は、荒田(あらた)別(わけの)王(みこ)・阿智使(あちのお)主(み)だ。)や、18・19代履中(りちゅう)・反正(はんぜい)天(てん)皇(のう)(実際は、毛(け)野(のの)君(きみ)の祖、初代田(た)道(みちの)君(きみ)だ。)や、20代允(いん)恭(ぎょう)天(てん)皇(のう)(実際は、竹葉(たけは)瀬(せの)君(きみ)・王(わ)仁(に)博士(はかせ)・都(つ)賀(がの)使(お)主(み)だ。)たちの実像についてや、また、『倭(わ)の五(ご)王(おう)』の実像なども検証する内容ともなっているのだ。そしてまた、第2章としては、『倭(わ)の五(ご)王(おう)と、安康(あんこう)・雄(ゆう)略(りゃく)・清(せい)寧(ねい)・顕宗(けんそう)・仁(にん)賢(けん)・継体(けいたい)天皇(てんのう)の謎を解く』として、『先(せん)代(だい)旧(く)事(じ)本(ほん)紀(き)』の巻第5の、『天(あまつ)孫(みまきの)本(もとつふ)紀(み)』を根拠にして、21・24代安(あん)康(こう)・顕(けん)宗(そう)天(てん)皇(のう)(実際は、中(なか)臣(とみの)鎌(かの)大(おお)夫(まえつきみ)だ。)や、22代雄(ゆう)略(りゃく)天(てん)皇(のう)(真(ま)若君(わかのきみ)・太秦(うずまさの)公(きみ)だ。)や、23代清(せい)寧(ねい)天皇(てんのう)(奈良(なら)別(わけの)王(みこ)・平(へ)群(ぐりの)真(ま)鳥(どりの)大(おお)臣(まえつぎみ)だ。)や、25代仁(にん)賢(けん)天(てん)皇(のう)(紀(きの)大(おお)磐(いわの)宿(すく)禰(ね)だ。)や、27代継体(けいたい)天皇(てんのう)(中(なか)臣(とみの)黒(くろ)田(だの)大(おお)連(むらじ)・百済(くだら)王(おう)の25代武(む)寧(りょん)王(おう)だ。)や、その実子の30代欽(きん)明(めい)天(てん)皇(のう)(百済(くだら)王(おう)の26代聖(そん)明(みょん)王(おう)だ。)などの古代天皇の実像を検証する内容ともなっているのだ。そしてまた、第3章としては、『消された古代天皇は、蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(こ)だ。聖(しょう)徳(とく)太(たい)子(し)の実像は、舒(じょ)明(めい)天(てん)皇(のう)の蘇(そ)我(がの)入(いる)鹿(か)や、蘇(そ)我(がの)倉(くら)山(やま)田(だの)石(いし)川(かわ)麻(ま)呂(ろ)で百済(くだら)王(おう)の30代武(む)王(おう)である』として、『先(せん)代(だい)旧(く)事(じ)本(ほん)紀(き)』の巻第5の、『天(あまつ)孫(みまきの)本(もとつ)紀(ふみ)』の中の謎の古代天皇の実像を解き明かし、33代崇(す)峻(しゅん)天皇(てんのう)(百済(くだら)王(おう)の28代恵(へ)王(おう)だ。)や、37代孝(こう)徳(とく)天(てん)皇(のう)(百済(くだら)王(おう)の31代義(うぃ)慈(じゃ)王(おう)だ。)たちの実像こそが、蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(のおお)臣(おみ)であることや、35代舒(じょ)明(めい)天(てん)皇(のう)(百済(くだら)王(おう)の30代武(む)王(おう)・聖(しょう)徳(とく)太(たい)子(し)だ。)の実像などを検証する内容ともなっているのだ。 

そしてまた、最後の第4章としては、『藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)とは、草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)や、高市(たけち)皇子(のみこ)や、穂(ほ)積(ずみ)親(しん)王(のう)や、柿(かきの)本(もとの)人(ひと)麻(まろ)呂こそがその実像である』として、謎の人物である猿丸(さるまる)大夫(だゆう)とは、石(いその)上(かみの)朝(あ)臣(そみ)麻(ま)呂(ろ)(実際は、有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)・三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麻(ま)呂(ろ)だ。)の実像であることや、柿(かきの)本(もとの)人(ひと)麻(まろ)呂こそが、草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)や、高市(たけち)皇子(のみこ)や、穂(ほ)積(ずみ)親(しん)王(のう)である藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)の実像であることや、そしてまた、42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)とは、川(かわ)嶋(しまの)皇(み)子(こ)や、美(み)努(のの)王(みこ)や、磯(し)城(きの)皇(み)子(こ)(施(せ)基(きの)皇(み)子(こ)だ。)や、舎(と)人(ねり)親(しん)王(のう)や、刑(おさ)部(かべの)皇(み)子(こ)(忍(おさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)だ。)や、長(なが)屋(やの)王(みこ)(長(なが)屋(や)親(しん)王(のう)だ。)や、長(ながの)皇(み)子(こ)や、弓(ゆ)削(げの)皇(み)子(こ)や、新(にい)田(た)部(べの)皇(み)子(こ)たちの実像であること、などを検証する内容ともなっているのだ。そしてまた、久(く)米(の)皇(み)子(こ)の子孫こそが、大(やま)和(と)王(おう)権(けん)内部で中心的な働きをしたこと、などを語る内容ともなっているのだ。そしてまた、この数百年にも及ぶ、歴史サスペンスの締め括り、ともさせていただいている、ということなのだ。 

さてそれでは、646年の『大化(たいかの)改新(かいしん)』なのだが、37代孝(こう)徳(とく)天(てん)皇(のう)のとき、律令(りつりょう)制度(せいど)が確立(649年)され、国(くにの)造(みやつこ)から国司(こくし)へと移された、とも歴史は伝えるのだ。しかしながら、37代孝(こう)徳(とく)天皇(てんのう)のときの『大化(たいかの)改新(かいしん)』とは、フィクションなのだ。なぜならば、37代孝(こう)徳(とく)天皇(てんのう)の崩御後の和銅6年(713年)5月の出来事として、埼玉県東松山市(ひがしまつやまし)に所在した『吉(よし)見(み)神(じん)社(じゃ)』の社伝を見れば、外(げ)従(じゅう)6位(ろくい)(外(げ)従(じゅう)3位(さんみ)と書かれた部分もある。)、牟(む)刺(さしの)國(くにの)造(みやつこ)の笠(かさ)原(はらの)豊(とよ)庭(にわ)(実際は、従4位下石上(いそのかみの)朝(あそ)臣(み)豊庭(とよにわ)だ。)という人物がいた、というのだ。さてこの人物の実像としては、左大臣石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)・柿(かきの)本(もとの)猿(さる)・猿(さる)丸(まる)太(だ)夫(ゆう)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)生(いく)羽(は)・三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麻(ま)呂(ろ)・大神(おおみわの)朝(あそ)臣(み)高市(たけち)麿(まろ)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)博(はか)徳(とこ)・越(こし)(高志)君(のきみ)才(さい)智(ち)・書(しょの)直(あたい)智(ち)徳(とこ)だ。)なのだ。そしてまた、最後の牟(む)刺(さしの)國(くにの)造(みやつこ)なのだ。 

つまりその2年後の霊(れい)亀(き)元年(715年)には、牟(む)刺(さしの)守(かみ)正4位下の多(た)治(じ)比(ひの)眞(ま)人(ひと)懸(あがた)守(もり)という人物の記録が残っているが、この人物の実像としては、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)(実際は、三(み)輪(わの)君(きみ)狛(こま)麿(まろ)・三(み)宅(やけの)吉(き)士(し)博(はか)徳(とこ)だ。)なのだ。つまり牟(む)刺(さしの)守(かみ)正4位下の多(た)治(じ)比(ひの)眞(ま)人(ひと)縣(あがた)守(もり)とは、実際としては、牟(む)刺(さしの)國(くに)の初代(しょだい)国(こく)司(し)とも見受けられるからだ。また、『続(しょく)日(に)本(ほん)紀(ぎ)』の養老3年(719年)の条を見れば、『武蔵(むさしの)国(くにの)守(かみ)の正5位下の多(た)治(じ)比(ひの)眞(ま)人(ひと)懸(あがた)守(もり)に、相(さが)模(み)、上(こう)野(ずけ)、下(しも)野(つけ)の3国を管轄させる。』というのだが、この牟(む)刺(さしの)守(かみ)正5位下の多(た)治(じ)比(ひの)眞(ま)人(ひと)縣(あがた)守(もり)(実際は、阿(あ)倍(べの)氏(し)の系譜では、大納言阿(あ)部(べの)朝(あそ)臣(み)宿(すく)奈(な)麿(まろ)だ。)とは、実際は、遣(けん)唐(とう)押(おう)使(し)として、吉(き)備(びの)真(まき)備(び)(実際は、阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)島(しま)足(たり)・大(おお)伴(ともの)古(こ)慈(し)斐(び)・大(おお)伴(ともの)書(ふみ)持(もち)・紀(きの)直(あたい)千(ち)嶋(しま)だ。)たちの留学生たちと共に、中国へ渡ったのだ。そしてまた、この正5位下の多(た)治(じ)比(ひの)眞(ま)人(ひと)縣(あがた)守(もり)の実像こそが、阿(あ)部(べの)御(み)主(う)人(し)(中(なか)臣(とみの)連(むらじ)国(くに)足(たり)だ。)の実子で次男である中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)大(おお)嶋(しま)の大納言阿(あ)部(べの)朝(あそ)臣(み)宿(すく)奈(な)麿(まろ)なのだ。そしてまた、その実子の長男は、右大臣吉(き)備(びの)真(まき)備(び)である阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)島(しま)足(たり)がいたのだ。そしてまた、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)である大納言大(おお)伴(とも)旅(たび)人(と)の娘のむこの大(おお)伴(ともの)書(ふみ)持(もち)の実像なのだ。つまり藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)(実際は、高(たけ)市(ちの)皇(み)子(こ)・草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)・柿(かきの)本(もとの)人(ひと)麻(ま)呂(ろ)・穂(ほ)積(ずみ)親(しん)王(のう)だ。)から、『養老(ようろう)律令(りつりょう)を奏上された。』という養老元年(717年)頃にこそ、初めて国造(くにのみやつこ)から国(こく)司(し)へ実質的な移行された時代である、と見られるのだ。 

さてそれでは、この中臣連(なかとみのむらじ)大嶋(おおしま)(実際は、大納言巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)奈弖(なて)麻呂(まろ)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)祖(おお)父(じ)・大納言阿(あ)倍(べの)朝(あそ)臣(み)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)・三(み)輪(わの)君(きみ)子(こ)首(びと)・平(へ)群(ぐりの)連(むらじ)子(こ)首(びと)・多(た)冶(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)懸(あがた)守(もり)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)大(ひろ)海(み)・上(かみ)毛(け)野(のの)君(きみ)三(み)千(ちち)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)難(なに)波(わ)麻(ま)呂(ろ)・田(た)辺(なべの)首(おびと)難(なに)波(わ)麻(ま)呂(ろ)・多(おおの)臣(おみ)道(みち)万(ま)侶(ろ)・下(しもつ)道(みちの)圀(くに)依(より)・大(おお)野(のの)朝(あそ)臣(み)果(はた)安(やす)・大(おお)野(のの)朝(あそ)臣(み)東(あずま)人(びと)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)人(ひと)だ。)や、そしてまた、その実兄である中(なか)臣(とみの)連(むらじ)安(あん)達(だつ)(実際は、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)名(な)代(しろ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)人(ひと)足(たり)・小野(おのの)朝(あそ)臣(み)毛(け)野(の)・多(た)冶(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)三宅(みやけ)麻呂(まろ)・大納言多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)池(いけ)守(もり)・下(しも)毛(けの)野(の)朝臣(あそみ)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・下(しも)毛(けの)野(の)朝臣(あそみ)石(いわ)代(しろ)・紀(きの)臣(おみ)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)広(ひろ)麿(まろ)・多(おおの)臣(おみ)安(やす)万(ま)侶(ろ)・大納言大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)や、中納言大(おお)伴(ともの)牛(うま)養(かい)・下道圀(しもつみちのくに)勝(かつ)・中納言巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)牛(うま)養(かい)・巨(こ)勢(せの)朝(あそ)臣(み)多(た)益(ま)須(す)だ。)たち2人の実兄弟や、そしてまた、左大臣石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)・柿(かきの)本(もとの)猿(さる)・猿(さる)丸(まる)太(だ)夫(ゆう)・大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)高(たけ)市(ち)麿(まろ)・三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麻(ま)呂(ろ)だ。)や、藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)(実際は、高(たけ)市(ちの)皇(み)子(こ)・草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)・穂(ほ)積(ずみ)親(しん)王(のう)だ。)や、42代文(もん)武(む)天(てん)皇(のう)(実際は、舎(と)人(ねり)親(しん)王(のう)・川(かわ)嶋(しまの)皇(み)子(こ)・刑(おさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)、長(ながの)皇(み)子(こ)・弓(ゆ)削(げの)皇(み)子(こ)・長(なが)屋(や)親(しん)王(のう)・三(み)野(の)王(のみこ)だ。)などの人物が、古代史の隠蔽工作を主導した張本人なのだ。また、藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)(実際は、高市(たけちの)皇子(みこ)・草(くさ)壁(かべの)皇(み)子(こ)・穂(ほ)積(ずみ)親(しん)王(のう)だ。)とは、天(てん)衣(い)無(む)縫(ほう)の性格の持ち主なのだ。そうでもなければ、これほどの歴史の改(かい)竄(ざん)はできないからだ。しかしながら、ただ一つ貫かれたものがある。それは古代氏族は、別名称を持ってはいるが、裏を返せば、古代天皇家という、たった一つの系譜、その事績を綴っているだけである、ということなのだ。 

さてそれでは、先祖伝来の『神代(かみよの)古記(こき)』を撰録された人物とは、『竹(たけ)内(うち)文(もん)書(じょ)』で見れば、平(へ)群(ぐりの)真(ま)鳥(どりの)大(おお)臣(おみ)や、物(もの)部(のべの)目(めの)大(おお)連(むらじ)や、大(おお)伴(ともの)室(むろ)屋(やの)大(おお)連(むらじ)たち3人の人物なのだ。しかしながら、23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)(実際は、下(しも)毛(け)野(のの)君(きみ)の祖の奈(な)良(ら)別(わけ)命(のみこと)だ。)こそが、この3人の実像なのだ。そしてまた、『古(こ)事(じ)記(き)』の撰録者としては、多(おお)臣(おみ)安(やす)万(ま)侶(ろ)だが、『日(に)本(ほん)書(しょ)紀(き)』の主(しゅ)筆者(ぴっつしゃ)としては、平(へ)群(ぐりの)子(こ)首(びと)ともいうのだ。つまり多(おお)臣(おみ)安(やす)万(ま)侶(ろ)の実像とは、兄の中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)なのだ。また、『日(に)本(ほん)書(しょ)紀(き)』の主(しゅ)筆(ぴっつ)者(しゃ)という平(へ)群(ぐりの)子(こ)首(びと)の実像とは、その実弟の中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)である多(おお)臣(おみ)道(みち)万(ま)侶(ろ)なのだ。そしてまた、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)である鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)五(い)百(お)依(より)の長女の麻(ま)都比女(つひめ)(妹子(いもこ)だ。)のむことしては、①多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)(実際は、津(つ)守(もりの)連(むらじ)池(いけ)吉(きち)・海(あま)部(べの)直(あたい)柗(しょう)都(つ)・大(おお)伴(ともの)山(やま)守(もり)・巨(こ)勢(せの)堺(さかい)麻(ま)呂(ろ)だ。)がいた、ということなのだ。そしてまた、長男の②阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)島(しま)足(たり)(実際は、吉(き)備(びの)真(まき)備(び)・大(おお)伴(ともの)古(こ)慈悲(しび)・大(おお)伴(ともの)書(ふみ)持(もち)・丹(たん)波(ばの)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)直(あたい)千(ち)嶋(しま)だ。)や、次男の③阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)広(ひろ)目(め)(実際は、阿倍(あべの)伊豆(いず)丸(まる)・大(おお)伴(ともの)駿(する)河(が)麻(ま)呂(ろ)・阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)や、阿(あ)倍(べの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)泰(やす)麿(まろ)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)三(み)原(はら)麿(まろ)・楊(や)候(この)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)・大(おお)伴(ともの)高(たか)多(た)麻(ま)呂(ろ)・初代大(おお)伴(ともの)胡(こ)麿(まろ)・紀(きの)直(あたい)広(ひろ)嶋(しま)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)瀬(せ)だ。)たち3人の人物がいた、ということなのだ。 

さてそれでは、弟の阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)広(ひろ)目(め)の長男としては、①阿(あ)倍(べの)満(まん)月(げつ)丸(まる)(実際は、2代目大(おお)伴(ともの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)直(あたい)国(くに)栖(ます)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)理(り)伯(はく)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)大(おお)川(かわ)・石(いし)川(かわの)朝(あそ)臣(み)年(とし)足(たり)・津(つ)守(もりの)宿(しく)禰(ね)秋(あき)主(ぬし)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)長(なが)野(の)だ。)がいたのだ。また、その子(先(せん)妻(さい)の大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)杜(もり)女(め)のもうけた子や娘むこだ。)としては、長男の①菅(すが)原(わらの)朝(あそ)臣(み)古(ふる)人(ひと)(実際は、大(おお)伴(ともの)継(つぐ)人(ひと)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)長(なが)・和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)世(よ)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)俊(しゅん)哲(てつ)・上(かみ)毛(けの)野(の)朝(あそ)臣(み)穎(ひで)人(ひと)・大(おお)石(いしの)宿(すく)禰(ね)正(まさ)名(な)・巨(こ)勢(せの)野(の)足(たり)だ。)や、娘むこで次男の②秋(あき)篠(しの)朝(あそ)臣(み)安(やす)人(ひと)(実際は、坂(さかの)上(うえの)大(おお)宿(すく)禰(ね)苅(かり)田(た)麻(ま)呂(ろ)だ。また、中(なか)臣(とみ)氏(し)で言えば、中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)庭(にわ)だ。また「紀(き)氏(し)」で言えば、紀(きの)朝(あそ)臣(み)豊(とよ)成(なり)だ。また「和(わ)気(けの)坂(さか)本(もと)氏(し)で言えば、和(わ)気(けの)朝(あそ)臣(み)達(たつ)男(お)だ。)がいた、ということなのだ。 

そしてまた、後(ご)妻(さい)の大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)宅(やか)女(め)(賀(か)陽(やの)臣(おみ)小(こ)玉(だま)女(め)だ。)のもうけた子や娘むことしては、実子で3男である①大(おお)枝(えの)朝(あそ)臣(み)真(ま)仲(なか)(実際は、紀(きの)朝(あそ)臣(み)高(たか)継(つぐ)・和(わ)気(けの)磐(いわ)梨(なしの)為(ため)綱(つな)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)教(きょう)俊(しゅん)・紀(きの)直(あたい)高(たか)継(つぐ)・秋(あき)篠(しのの)朝(あそ)臣(み)高(たか)継(つぐ)・伊(い)岐(きの)連(むらじ)氏(うじ)成(なり)だ。)や、その実妹である②女子(藤(ふじ)原(わらの)継(つぐ)縄(なお)室(しつ)・4男という紀(きの)朝(あそ)臣(み)弘(ひろ)淵(ふち)の妻だ。)である百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)明(めい)信(しん)女(め)(東(とう)信(しん)女(め)も同一人物だ。)がいた、ということなのだ。そしてまた、その実弟である5男の③和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)真(ま)綱(つな)や、その実弟である6男の④和(わ)氣(けの)朝(あそ)臣(み)仲(なか)世(よ)(実際は、小(お)野(のの)朝(あそ)臣(み)篁(たかむら)・滋(しげ)野(のの)朝(あそ)臣(み)貞(さだ)主(ぬし)・百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)河(かわ)成(なり)だ。)や、その実妹である百(く)済(だら)王(こに)氏(きし)明(めい)本(ほん)女(め)(実際は、藤(ふじ)原(わらの)葛(くず)野(の)麿(まろ)室(しつ)・後に桓(かん)武(む)朝(ちょう)入(にゅう)宮(ぐう)で女(にょう)御(ご)だ。)などの人物がいた、ということなのだ。 

さてそれでは、兄の阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)島(しま)足(たり)(実際は、吉備真備(きびのまきび)・大(おお)伴(ともの)古(こ)慈悲(しび)・大(おお)伴(ともの)書(ふみ)持(もち)・丹(たん)波(ばの)史(ふひと)麻(ま)呂(ろ)・紀(きの)直(あたい)千(ち)嶋(しま)だ。)の子としては、長男である①大(おお)伴(ともの)弟(おと)麻(ま)呂(ろ)(大(おお)神(みわの)朝(あそ)臣(み)弟(おと)麻(ま)呂(ろ)だ。)や、次男である②大(おお)伴(ともの)宿(すく)禰(ね)益(ます)立(たて)(大(おお)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)立(たて)だ。)たちがいたのだ。つまり彼らこそが、その後の『続(しょく)日(に)本(ほん)紀(ぎ)』や、『但(たじ)馬(ま)故(こ)事(じ)記(き)』を「世に出すこと」や、『文(もん)徳(とく)天皇(てんのう)三代(さんだい)実録(じつろく)』などの編纂にも、深く関わっている人物たちである、ということなのだ。 

さてそれでは、再度詳しく検証して見れば、中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)である大納言阿(あ)倍(べの)宿(すく)奈(な)麻(ま)呂(ろ)の実子としては、長男の阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)島(しま)足(たり)(実際は、吉備真備(きびのまきび)・紀(きの)直(あたい)千(ち)嶋(しま)だ。)や、次男の阿(あ)倍(べの)引(ひけ)田(たの)広(ひろ)目(め)(実際は、阿(あ)倍(べの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)・阿(あ)倍(べの)安(やす)麻(ま)呂(ろ)・中(なか)臣(とみの)朝(あそ)臣(み)泰(やす)麿(まろ)・上(かみ)毛(け)野(のの)朝(あそ)臣(み)広(ひろ)瀬(せ)・紀(きの)直(あたい)広(ひろ)嶋(しま)・大(おお)伴(ともの)駿(する)河(が)麻(ま)呂(ろ)だ。)や、鴨(かもの)県(あがた)主(ぬし)五(い)百(お)依(より)である中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)の娘の麻(ま)都(つ)比(ひ)女(め)(妹(いも)子(こ)だ。)のむことしては、中納言多(た)治(じ)比(ひ)真(ま)人(ひと)広(ひろ)成(なり)(大(おお)伴(ともの)宿(すく)奈(な)麿(まろ)・巨(こ)勢(せの)堺(さかい)麻(ま)呂(ろ)・津(つ)守(もりの)連(むらじ)池(いけ)吉(きち)・多(おおの)臣(おみ)宅(やか)成(なり)だ。)がいたのだが、また、実兄で中納言中(なか)臣(とみの)連(むらじ)意(お)美(み)麻(ま)呂(ろ)である紀(きの)直(あたい)古(こ)麻呂(まろ)(実際は、紀(きの)臣(おみ)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・下(しも)毛(け)野(のの)君(きみ)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・大納言大(おお)伴(ともの)旅(たび)人(と)・多(た)治(じ)比(ひの)真(ま)人(ひと)池(いけ)守(もり)だ。)の長女のむことしては、左大臣石(いその)上(かみの)朝(あそ)臣(み)麻(ま)呂(ろ)(実際は、三(み)輪(わの)君(きみ)根(ね)麿(まろ)・有(あり)馬(まの)皇(み)子(こ)・猿(さる)丸(まる)大(だ)