霧の中の建国秘話  

 

さてそれでは、『日(に)本(ほん)書(しょ)紀(き)』を見てみれば、『辛酉の年(38代斉(さい)明(めい)天(てん)皇(のう)7年・661年)の8月1日、皇太子(39代天智(てんじ)天皇(てんのう)だ。)は、天皇(38代斉(さい)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。)の喪(ひつぎ)を徒(うつ)し奉って、磐(いわ)瀬(せ)(九州福岡市(ふくおかし)三宅(みやけ))の宮(みや)にもどりついた。又、この夕、朝(あさ)倉(くら)山(やま)の上に、鬼(おに)があり、大笠(おおかさ)を着て、喪(そう)儀(ぎ)を臨(のぞみ)み見ていた。衆(人)は皆ああと声をあげてあやしんだ。また、冬10月7日、天皇(38代斉(さい)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。)の喪(ひつぎ)は、海(うみ)を帰り行った。このとき、皇太子(39代天智(てんじ)天皇(てんのう)だ。)は、ある所に(停)泊して、天皇(38代斉(さい)明天皇(めいてんのう)だ。)を哀しみ慕い、口号(くつうた)して、「君の目が 恋しいばかりに、停泊して居て このように恋うのも、君の目を一目見たいからです。」(以下略。)』といったという。また、『23日、天皇(38代斉(さい)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。)の喪(ひつぎ)は、もどって難波に泊まった』、という。また、『11月7日、天皇(38代斉(さい)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。)の喪(ひつぎ)を飛鳥の河原で殯(もがり)した。これから哀(みね)れを発すること9日(もで3日間。)におよんだ』とも伝えているのだ。さてそこで、この『朝(あさ)倉(くら)山(やま)の上に、鬼(おに)(実際は、百(く)済(だら)王(おう)の31代義(うぃ)慈(じゃ)王(おう)・蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(こ)大臣(おおおみ)・37代孝(こう)徳(とく)天(てん)皇(のう)だ。)があり、大笠(おおかさ)を着て、喪(そう)儀(ぎ)を臨(のぞみ)み見ていた。衆(人)は皆ああと声をあげてあやしんだ。』ということだが、この鼻の長い天(てん)狗(ぐ)のような異様なギョロ眼の老人の絵馬(えま)とも共通しているのだ。つまり蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大臣(おおおみ)(実際は、百(く)済(だら)王(おう)の31代義(うぃ)慈(じゃ)王(おう)・37代孝(こう)徳(とく)天(てん)皇(のう)・百済(くだら)王(おう)の28代恵(へ)王(おう)だ。)の晩年の姿である、ということなのだ。 

さてそれでは、埼玉県行(ぎょう)田(だ)市(し)の稲(いな)荷(り)山(やま)古(こ)墳(ふん)から出土した『鉄(てつ)剣(けん)』について検証して見れば、この⑤半(は)弖(て)比(ひ)(実際は、阿(あ)良(ら)都(と)別命(わけのみこと)・荒(あら)田(た)別(わけ)命(のみこと)・17代仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)だ。)の実父という④多(た)加(か)披(ひ)次(じ)獲(わ)居(け)こそが、2代目彦(ひこ)狭(さ)島(しま)命(のみこと)である13代成(せい)務(む)天(てん)皇(のう)(実際は、物(もの)部(のべの)伊(い)咋(くいの)宿(すく)禰(ね)・息(おき)長(なが)宿(すく)禰(ねの)王(みこ)だ。)なのだ。また、高(たか)橋(はしの)朝(あそ)臣(み)の祖や膳(かしわべの)臣(おみ)の祖なのだ。ところで『但(た)馬(じま)故(こ)事(じ)記(き)』の中の12代景(けい)行(こう)天(てん)皇(のう)による『東(とう)国(ごく)巡(じゅん)狩(かり)伝(でん)承(しょう)の伝説』を見てみれば、『白(はま)蛤(ぐり)を進上された』という磐(いわ)鹿(か)六(むつ)獦(かり)命(のみこと)なのだ。そしてまた、その父(実際は、舅(しゅうと)だ。)という③弖(て)巳(よ)加利(かり)獲(わ)居(け)なのだが、この2代目彦(ひこ)狭(さ)島(しま)命(のみこと)(物(もの)部(のべの)伊(い)咋(くいの)宿(すく)禰(ね)・息(おき)長(なが)宿(すく)禰(ねの)王(みこ)・13代成(せい)務(む)天(てん)皇(のう)だ。)の舅(しゅうと)の1人、つまり12代景(けい)行(こう)天(てん)皇(のう)である豊(とよ)城(き)入(いり)彦(ひこ)命(のみこと)(物(もの)部(のべの)大(おお)売(うる)布(ふ)命(のみこと)だ。)なのだ。また、その父という②多加(たか)利(りの)足(すく)尼(ね)なのだが、その実像としては、物(もの)部(のべの)伊(い)香(か)色(しこ)男(お)命(のみこと)(実際は、10代崇(す)神(じん)天(てん)皇(のう)・彦(ひこ)坐(いますの)王(みこ)・ウマシ宿禰(のすくね)だ。)ということなのだ。また、その父という①意(お)富(お)比(ひ)跪(ひ)とは、当然ながら、大(おお)彦(びこ)命(のみこと)(実際は、物(もの)部(のべの)大(おお)綜(へそ)杵(きの)命(みこと)・物(もの)部(のべの)大(おお)ヘマキ命・中(なか)臣(とみの)大(おお)伊(い)賀(が)津(つ)彦(ひこ)命(のみこと)だ。)なのだ。また、この①意(お)富(お)比(ひ)跪(ひ)の先祖としては、欠史8代の古代天皇に遡(さかのぼ)るのだ。また、その先祖は、神話の時代へ入るのだ。 

さてそれでは、スサノオ尊と、天(あま)照(てらすの)大(おおみ)神(かみ)(実際は、邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の女王2代目卑(ひ)弥(み)呼(こ)だ。)なのだが、この2人は異母兄弟の御夫婦なのだ。そしてまた、スサノオ尊と、天(あま)照(てらすの)大(おおみ)神(かみ)(実際は、邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の女王、2代目卑弥呼(ひみこ)だ。)との2人の間に、そのもうけた実子としては、ウガ御魂(のみたま)命(のみこと)や、天(あま)照(てる)瑞(みず)姫(ひめ)(実際は、宗像(むなかた)の3女神(じょしん)・邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の宗女(そうじょ)の台(と)与(よ)姫(ひめ)だ。)たち2人がいたのだ。そしてまた、スサノオ尊こそが次(じ)妃(ひ)として娶った出(いず)雲(も)王(おう)朝(ちょう)の最後の姫君のクシナダ姫との2人の間に、そのもうけた実子としては、大(おお)国(くに)主(ぬし)命(のみこと)や、その実妹の神(かみ)水(みず)姫(ひめ)(天(あまの)八(や)千(ち)々(よ)姫(ひめ)だ。 )たち2人がいたのだ。また、これらの2組の異母兄弟の御夫婦こそが、そのもうけた実子としては、ウガ御魂(のみたま)命(のみこと)(実際は稲(いな)葉(ばの)八(や)上(かみ)彦(ひこ)命(のみこと)・スクナヒコナ尊だ。)と神(かみ)水(みず)姫(ひめ)との間には、①稲(いな)葉(ばの)八(や)上(かみ)姫(ひめ)(実際は大(おお)国(くに)主(ぬし)命(のみこと)の後(ご)妃(ひ)だ。)や、②天(あまの)火(ほ)明(あかり)命(のみこと)(実際は猿(さる)田(た)彦(ひこの)命(みこと)・宇(う)道(じ)彦(ひこの)命(みこと)だ。)たち2人がいた、ということなのだ。そしてまた、大(おお)国(くに)主(ぬし)命(のみこと)と天(あま)照(てる)瑞(みず)姫(ひめ)(宗像(むなかた)の3女神(じょしん)・邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の宗女(そうじょ)、台(と)与(よ)姫(ひめ)だ。)との間には、御(み)炊(かしき)屋(や)姫(ひめ)(実際は、豊(とよ)受(うけ)姫(ひめ)・玉(たま)依(より)姫(ひめ)・天鈿女(あまのうずめ)姫(ひめ)・天(あまの)道(みち)日(ひ)姫(ひめ)だ。)こそが1人いたのだ。そしてまた、大(おお)国(くに)主(ぬし)命(のみこと)がその次(じ)妃(ひ)(後(ご)妃(ひ)だ。)として娶った稲(いな)葉(ばの)八(や)上(かみ)姫(ひめ)(実際は神(かみ)水(みず)姫(ひめ)と、ウガ御魂(のみたま)命(のみこと)の娘だ。)との2人間に、そのもうけた実子としては、天(あまの)香山(かごやま)命(のみこと)(実際は、姉の光(くぁん)明(みょん)夫(と)人(じ)のむこだ。)や、その実妹の御井(みい)姫(ひめ)たち2人がいたのだ。また、ウガ御魂(のみたま)命(のみこと)の実子の天(あまの)火(ほ)明(あかり)命(のみこと)(実際は猿(さる)田(た)彦(ひこの)命(みこと)・宇(う)道(じ)彦(ひこの)命(みこと)だ。)が御(み)炊(かしき)屋(や)姫(ひめ)(豊(とよ)受(うけ)姫(ひめ)・玉(たま)依(より)姫(ひめ)・天(あまの)鈿(うず)女(め)姫(ひめ)・天(あまの)道(みち)日(ひ)姫(ひめ)だ。)と御夫婦になって、2人の間に、そのもうけた実子としては、①宇(う)摩(ま)志(し)痲(ま)治(じ)命(のみこと)(初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)だ。)や、その妹の②実山(じつやま)姫(ひめ)(八(や)倉(くら)姫(ひめ)・天(あまの)香(かご)山(やま)姫(ひめ)だ。)や、その妹の③照(てる)妙(たえ)姫(ひめ)(実際は2代綏(すい)靖(ぜい)天(てん)皇(のう)の後(ご)妃(ひ)だ。)たち3人(1男2女だ。)がいた、ということなのだ。 

そしてまた、長女の実山(じつやま)姫(ひめ)(実際は八(や)倉(くら)姫(ひめ)・天(あまの)香(かご)山(やま)姫(ひめ)だ。)こそが天(あまの)香山(かごやま)命(のみこと)との間に、そのもうけた実子としては、①五十鈴(いすず)姫(ひめ)や、その弟の②天(あまの)村雲(むらくも)命(のみこと)(実際は2代綏(すい)靖(ぜい)天(てん)皇(のう)だ。)たち2人がいた、ということなのだ。そしてまた、この2代綏(すい)靖(ぜい)天(てん)皇(のう)である天(あまの)村雲(むらくも)命(のみこと)(実際は手(た)研(ぎし)耳(みみ)命(のみこと)だ。)の実子や、孫こそが、実際としては、欠史8代の古代天皇である、ということなのだ。 

さてそれでは、天(あまの)火(ほ)明(あかり)命(のみこと)(実際は猿(さる)田(た)彦(ひこの)命(みこと)・宇(う)道(じ)彦(ひこの)命(みこと)だ。)なのだが、御(み)炊(かしき)屋(や)姫(ひめ)(実際は豊(とよ)受(うけ)姫(ひめ)・玉(たま)依(より)姫(ひめ)・天(あまの)鈿(うず)女(め)姫(ひめ)・天(あまの)道(みち)日(ひ)姫(ひめ)だ。)との間に、そのもうけた実子としては、長男の宇(う)摩(ま)志(し)痲(ま)治(じ)命(のみこと)(実際は初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)だ。)なのだ。また、この宇(う)摩(ま)志(し)痲(ま)治(じ)命(のみこと)(初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)だ。)こそが、天(あまの)香山(かごやま)命(のみこと)の妹の御井(みい)姫(ひめ)を、その先(せん)妃(ぴ)として2人の間に、そのもうけた実子としては、1人娘の福(ふく)井(い)姫(ひめ)(美(み)井津(いつ)姫(ひめ)・乙(おと)姫(ひめ)大(だい)明(みょう)神(じん)だ。)がいた、ということなのだ。 

そしてまた、宇(う)摩(ま)志(し)痲(ま)治(じ)命(のみこと)(初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)だ。)こそが、その次(じ)妃(ひ)(後(ご)妃(ひ)だ。)として娶った事(こと)代(しろ)主(ぬしの)命(みこと)(実際は、天(あまの)香(かご)山(やまの)命(みこと)だ。)の娘の五(い)十(す)鈴(ず)姫(ひめ)との2人の間に、実際は、その実子はいなかったのだ。つまり天(あまの)村雲(むらくも)命(のみこと)(手(た)研(ぎし)耳(みみ)命(のみこと)だ。)こそが、2代綏(すい)靖(ぜい)天(てん)皇(のう)の実像なのだ。また、宇(う)摩(ま)志(し)痲(ま)治(じ)命(のみこと)(初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)だ。)の1人娘の福(ふく)井(い)姫(ひめ)(実際は、美(み)井津(いつ)姫(ひめ)・乙(おと)姫(ひめ)大(だい)明(みょう)神(じん)だ。)を、その先妃(せんぴ)として娶って2代綏(すい)靖(ぜい)天(てん)皇(のう)ともなって、『次の天(てん)皇(のう)位(い)』の継承権を得て、第2代の古代天皇として、その皇位を継承された、ということなのだ。そしてまた、この2代綏(すい)靖(ぜい)天(てん)皇(のう)(手(た)研(ぎし)耳(みみ)命(のみこと)だ。)である天(あまの)村雲(むらくも)命(のみこと)とは、その先(せん)妃(ぴ)としては、天(あまの)火(ほ)明(あかり)命(のみこと)の次(じ)女(じょ)である照(てる)妙(たえ)姫(ひめ)も娶って2人の間に、そのもうけた娘としては、1人娘の葛城(かつらぎ)出石(のいずし)姫(ひめ)(淳(ぬ)名(な)底(そこ)仲(なか)姫(ひめ)だ。)がいたのだ。また、この天(あまの)村雲(むらくも)命(のみこと)(2代綏(すい)靖(ぜい)天(てん)皇(のう)・手(た)研(ぎし)耳(みみ)命(のみこと)だ。)こそが、その正妃(せいひ)として娶った後(ご)妃(ひ)の福(ふく)井(い)姫(ひめ)(実際は、美(み)井津(いつ)姫(ひめ)だ、)との2人の間に、そのもうけた実子としては、実際は、3人の男子がいた、ということなのだ。つまり『尾張(おわり)海(あま)部(べ)氏(し)の祖』で見れば、長子という天(あまの)忍(おし)人(ひと)命(のみこと)(実際は、3代安(あん)寧(ねい)天(てん)皇(のう)だ。)や、次子という天(あまの)忍(おし)男(お)命(のみこと)(実際は、由(ゆ)布(ふ)津(つ)主(ぬし)命(のみこと)だ。)や、3子である天(あまの)照(てる)日(ひ)命(のみこと)(実際は、天(あまの)日(ひ)鉾(ぼこ)命(のみこと)・4・5・6代懿(い)徳(とく)・孝(こう)照(しょう)・孝(こう)安(あん)天(てん)皇(のう)だ。)たち3人の男子の兄弟がいた、ということなのだ。そこで、『尾張(おわり)海(あま)部(べ)氏(し)の祖』こそが、事実上は、歴代の古代天皇なのだ。しかしながら、これらの事実を隠すために『記(き)紀(き)』では、五(い)十(す)鈴(ず)姫(ひめ)(初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)の後(ご)妃(ひ)だ。)の妹として架空の五(い)十(す)鈴(ず)依(より)姫(ひめ)(2代綏(すい)靖(ぜい)天(てん)皇(のう)の妃だ。)を、『記(き)紀(き)』に挿入して、また、手(た)研(ぎし)耳(みみ)命(のみこと)(天(あまの)村雲(むらくも)命(のみこと)だ。)と、2代綏(すい)靖(ぜい)天(てん)皇(のう)とを別人とした、ということなのだ。つまり『自分自身の分身を殺す』という最初の隠蔽工作を画策したのだ。しかしながら、実際は、手(た)研(ぎし)耳(みみ)命(のみこと)である天(あまの)村雲(むらくも)命(のみこと)(実際は、天(あまの)日(ひ)鷲(わし)命(のみこと)・天(あまの)忍(おし)日(ひの)命(みこと)だ。)の実像としては、2代綏(すい)靖(ぜい)天(てん)皇(のう)なのだ。そしてまた、その長子で第1子という『尾張(おわり)海(あま)部(べ)氏(し)の祖』の天(あまの)忍(おし)人(ひと)命(のみこと)(天(あめの)富(とみ)命(のみこと)だ。)としては、3代安(あん)寧(ねい)天(てん)皇(のう)なのだ。また、この天(あまの)忍(おし)人(ひと)命(のみこと)(天(あめの)富(とみ)命(のみこと)だ。)である3代安(あん)寧(ねい)天(てん)皇(のう)が、その異母姉の葛城(かつらぎの)出石(いずし)姫(ひめ)(実際は、淳(ぬ)名(な)底(そこ)仲(なか)姫(ひめ)だ。)を娶った、ということなのだ。 

そしてまた、誕生したのが2人の娘なのだ。つまり長女の佐(さ)依(より)姫(ひめ)(実際は、佐(さ)久(く)良(ら)姫(ひめ)・葛木(かつらぎ)の土(つち)神(かみ)、劔(つるぎ)根(ね)命(のみこと)の娘の賀(か)奈(な)良(ら)知(ち)姫(ひめ)だ。)のむことしては、『尾張(おわり)海(あま)部(べ)氏(し)の系譜』で見れば、次子で第2子である天(あまの)忍男(おしお)命(のみこと)(由(ゆ)布(ふ)津(つ)主(ぬし)命(のみこと)だ。)なのだ。また、2人の間に、そのもうけた実子としては、奥(おく)津(つ)世(よ)襲(そ)命(のみこと)や、その実妹の世(よ)襲(そ)足(たらし)姫(ひめ)(実際は、但馬(たじま)真(ま)多鳥(たお)姫(ひめ)だ。)の2人がいたのだ。 

そしてまた、次女である大(おお)照(てる)姫(ひめ)(忍(おし)日(ひ)女(め)命(のみこと)だ。)のむことしては、4代懿(い)徳(とく)天(てん)皇(のう)である磯(し)城(き)津(つ)彦(ひこ)命(のみこと)(実際は、天(あまの)照(てる)日(ひ)命(のみこと)だ。)がいた、ということなのだ。また、この人物は、第3子の天(あまの)日(ひ)鉾(ぼこ)命(のみこと)(実際は、天(あま)斗(と)目(め)命(のみこと)・磯(し)城(き)津(つ)彦(ひこ)命(のみこと)だ。)である4・5・6代懿(い)徳(とく)・孝(こう)照(しょう)・孝(こう)安(あん)天(てん)皇(のう)の3代にわたる古代天皇なのだ。しかしながら『尾張(おわり)海(あま)部(べ)氏(し)の系譜』で見れば、この天(あま)斗(と)目(め)命(のみこと)(実際は、天(あまの)日(ひ)鉾(ぼこ)命(のみこと)・天(あまの)照(てる)日(ひ)命(のみこと)・磯(し)城(き)津(つ)彦(ひこ)命(のみこと)・4・5・6代懿(い)徳(とく)・孝(こう)照(しょう)・孝(こう)安(あん)天皇(てんのう)だ。)と、忍(おし)日(ひ)女(め)命(のみこと)(実際は、次女の大(おお)照(てる)姫(ひめ)だ。)の2人が、入れ替わっているのだ。しかしながら、これは攪乱のための隠蔽工作なのだ。実際は、天(あまの)日(ひ)鉾(ぼこ)命(のみこと)(実際は、磯(し)城(き)津(つ)彦(ひこ)命(のみこと)4・5・6代懿(い)徳(とく)・孝(こう)照(しょう)・孝(こう)安(あん)天皇(てんのう)だ。)である天(あま)斗(と)目(め)命(のみこと)こそが忍(おし)日(ひ)女(め)命(のみこと)(実際は次女の大(おお)照(てる)姫(ひめ)だ。)を娶って2人の間に、そのもうけた実子としては、1人娘の佐(さ)伎(ぎ)津(つ)姫(ひめ)がいた、ということなのだ。また、この佐(さ)伎(ぎ)津(つ)姫(ひめ)とは、奥(おく)津(つ)世(よ)襲(そ)命(のみこと)に嫁いで2人の間に、そのもうけた実子としては、①蠅(はえ)伊(い)呂(ろ)根(ね)姫(ひめ)や、②蠅(はえ)伊(い)呂(ろ)泥(ど)姫(ひめ)たち2人の姉妹がいた、ということなのだ。 

そしてまた、この天(あまの)日(ひ)鉾(ぼこ)命(のみこと)(実際は、天(あま)斗(と)目(め)命(のみこと)・磯(し)城(き)津(つ)彦(ひこ)命(のみこと)だ。)である4・5・6代懿(い)徳(とく)・孝(こう)照(しょう)・孝(こう)安(あん)天皇(てんのう)(3代にわたる古代天皇は、同一人物だ。)こそが、その後(ご)妃(ひ)として娶った世(よ)襲(そ)足(たらし)姫(ひめ)(但馬(たじま)真(ま)多鳥(たお)姫(ひめ)だ。)との2人の間に、そのもうけた実子としては、1人息子の7代孝(こう)霊(れい)天皇(てんのう)がいた、ということなのだ。また、この7代孝(こう)霊(れい)天皇(てんのう)こそが、奥(おく)津(つ)世(よ)襲(そ)命(のみこと)(天(あまの)忍(おし)男(お)命(のみこと)の実子だ。)の娘の姉の方(蠅(はえ)伊(い)呂(ろ)根(ね)姫(ひめ)だ。)や、その妹の方(蠅(はえ)伊(い)呂(ろ)泥(ど)姫(ひめ)だ。)の2人の姫を娶ったのだ。また、姉の方(蠅(はえ)伊(い)呂(ろ)根(ね)姫(ひめ)だ。)との2人の間に、そのもうけた実子としては、実際は、①8代孝(こう)元(げん)天(てん)皇(のう)や、実弟の②大(おお)彦(びこ)命(のみこと)たち2人の男子をもうけたのだ。そしてまた、妹の方(蠅(はえ)伊(い)呂(ろ)泥(ど)姫(ひめ)だ。)との間に、そのもうけた実子としては、①姉の倭(やまと)迹(と)迹(と)日(ひ)百襲(ももそ)姫(ひめ)や、②妹の倭(やまと)迹(と)迹(と)若屋(わかや)姫(ひめ)たち2人の女子がいた、ということなのだ。そしてまた、この4人の異母兄妹同士が、いずれも御夫婦ともなった、ということなのだ。つまり姉の方の倭(やまと)迹(と)迹(と)日(ひ)百襲(ももそ)姫(ひめ)とは、箸(はし)墓(はか)古(こ)墳(ふん)の被(ひ)葬(そう)者(しゃ)ともいうのだが、しかしながら、その築造年代から見れば、箸(はし)墓(はか)古(こ)墳(ふん)の被(ひ)葬(そう)者(しゃ)としては、天(あま)照(てる)瑞(みず)姫(ひめ)である邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の宗女(そうじょ)の台(と)与(よ)姫(ひめ)(実際は、宗(むな)像(かた)の3女神(じょしん)だ。)とも推測されるのだ。 

そしてまた、8代孝(こう)元(げん)天(てん)皇(のう)(実際は、内(うつ)色(し)許(こ)男(お)命(のみこと)だ。)とは、その異母妹である姉の方の倭(やまと)迹(と)迹(と)日(ひ)百襲(ももそ)姫(ひめ)を、その先妃(せんぴ)として娶って2人の間に、そのもうけた実子としては、①9代開(かい)化(か)天(てん)皇(のう)(実際は、櫛(くし)磐(いわ)竜(たつ)命(のみこと)だ。)や、その実妹の②倭(やまと)迹(と)迹(と)姫(ひめ)(実際は、櫛(くし)磐(いわ)姫(ひめ)・春日(かすが)の建(たけ)国(くに)勝(かつ)戸(と)売(め)姫(ひめ)・紀伊(きい)の荒(あら)河戸(かわと)畔(べ)姫(ひめ)・大(おお)海(あま)部(べ)姫(ひめ)だ。)たち2人の実子がいたのだ。そしてまた、この倭(やまと)迹(と)迹(と)姫(ひめ)(実際は、櫛(くし)磐(いわ)姫(ひめ)・春日(かすが)の建(たけ)国(くに)勝(かつ)戸(と)売(め)姫(ひめ)・紀伊(きい)の荒(あら)河戸(かわと)畔(べ)姫(ひめ)・大(おお)海(あま)部(べ)姫(ひめ)だ。)としては、その叔父に当たる大(おお)彦(びこ)命(のみこと)(実際は葛城(かつらぎ)の垂(たる)見(みの)宿(すく)禰(ね)・河内(かわち)の青(あお)玉(たま)命(のみこと)・丹波(たんば)の大(おお)県(あがた)主(ぬし)、由(ゆ)碁(ご)理(り)命(のみこと)・少名(すくな)日子(ひこ)建(たけ)猪(い)心命(こころのみこと)・天(あま)之(の)御(み)影(かげの)命(のみこと)・大(おお)海(あまの)宿(すく)禰(ね)・山代(やましろ)の県(あがた)主(ぬし)の祖、長溝(ながみぞ)命(のみこと)だ。)の次(じ)妃(ひ)(後(ご)妃(ひ)だ。)ともなった、ということなのだ。 

つまり大(おお)彦(びこ)命(のみこと)(実際は、葛城(かつらぎ)の垂(たる)見(みの)宿(すく)禰(ね)・河内(かわち)の青(あお)玉(たま)命(のみこと)・丹波(たんば)の大(おお)県(あがた)主(ぬし)、由(ゆ)碁(ご)理(り)命(のみこと)・少(すく)名(な)日(ひ)子(こ)建(たけ)猪(い)心(こころの)命(みこと)・天(あま)之(の)御(み)影(かげの)命(のみこと)・大(おお)海(あまの)宿(すく)禰(ね)・山代(やましろ)の県(あがた)主(ぬし)の祖長溝(ながみぞ)命(のみこと)だ。)こそが、その異母妹である妹の方(実際は、倭(やまと)迹(と)迹(と)若屋(わかや)姫(ひめ)だ。)を、その先妃(せんぴ)として娶って2人の間に、そのもうけた実子としては、①10代崇(す)神(じん)天(てん)皇(のう)(実際は、物(もの)部(のべの)伊(い)香(か)色(しこ)男(お)命(のみこと)・彦(ひこ)坐(いますの)王(みこ)・丸(わ)邇(にの)臣(おみ)の祖の日(ひ)子(こ)国(くに)意(お)祁(け)都(つ)命(のみこと)・建(たけ)豊(とよ)波(は)豆(づ)羅(ら)和(わ)気(け)命(のみこと)・和(わ)珥(にの)臣(おみ)の遠祖の姥津(ははつ)命(のみこと)・比(ひ)古(こ)由(ゆ)牟(む)須(す)美(び)命(のみこと)・淡(おう)海(み)の御上(みかみ)の祝(はうり)だ。)や、実姉である②伊(い)香(か)色(し)謎(こめ)姫(ひめ)(実際は、建(たけ)埴(はに)安(やす)姫(ひめ)・鸇(わし)姫(ひめ)だ。)たち2人がいた、ということなのだ。 

そしてまた、次(じ)妃(ひ)(後(ご)妃(ひ)だ。)の倭(やまと)迹(と)迹(と)姫(ひめ)(実際は、櫛(くし)磐(いわ)姫(ひめ)・春日(かすが)の建(たけ)国(くに)勝(かつ)戸(と)売(め)姫(ひめ)・紀伊(きい)の荒(あら)河戸(かわと)畔(べ)姫(ひめ)・大(おお)海(あま)部(べ)姫(ひめ)・9代開(かい)化(か)天(てん)皇(のう)の妹だ。)との2人の間に、そのもうけた実子としては、姉の息(おき)長(なが)水(みず)依(より)姫(ひめ)(実際は、荒(あら)姫(ひめ)・真(ま)鳥(とり)姫(ひめ)だ。)や、その実妹の瀛(おく)津(つ)姫(ひめ)(実際は、オケツ姫・安(あ)芸(き)刀(と)女(め)姫(ひめ)・大(おお)海(あま)姫(ひめ)・玉(たま)手(て)姫(ひめ)・真(ま)木(き)姫(ひめ)・御(み)間(ま)城(き)姫(ひめ)だ。)たち2人の娘をもうけていた、ということなのだ。 

さてそれでは、この大(おお)彦(びこ)命(のみこと)(実際は、葛城(かつらぎ)の垂(たる)見(みの)宿(すく)禰(ね)・河内(かわち)の青(あお)玉(たま)命(のみこと)・丹波(たんば)の大(おお)県(あがた)主(ぬし)、由(ゆ)碁(ご)理(り)命(のみこと)・少(すく)名(な)日(ひ)子(こ)建(たけ)猪(い)心(こころの)命(みこと)・天(あま)之(の)御(み)影(かげ)命(のみこと)・大(おお)海(あまの)宿(すく)禰(ね)・山代(やましろ)の県(あがた)主(ぬし)の祖、長溝(ながみぞ)命(のみこと)だ。)の実兄の8代孝(こう)元(げん)天(てん)皇(のう)(建(たけ)いない命(のみこと)だ。)なのだが、その次(じ)妃(ひ)(後(ご)妃(ひ)だ。)として、姪(めい)の伊(い)香(か)色(し)謎(こめ)姫(ひめ)(伊(い)迦(か)賀(が)色(し)許(こ)売(め)姫(ひめ)・建(たけ)埴(はに)安(やす)姫(ひめ)・鸇(わし)姫(ひめ)・弟の大(おお)彦(びこ)命(のみこと)の娘だ。)を娶っていたのだ。また、2人の間に、そのもうけた実子としては、実際は、建(たけ)埴(はに)安(やす)彦(ひこ)命(のみこと)が1人いたのだ。しかしながら、8代孝(こう)元(げん)天(てん)皇(のう)(建(たけ)いない命(のみこと)だ。)の次(じ)妃(ひ)ともなった伊(い)香(か)色(し)謎(こめ)姫(ひめ)(実際は、伊(い)迦(か)賀(が)色(し)許(こ)売(め)姫(ひめ)・建(たけ)埴(はに)安(やす)姫(ひめ)・鸇(わし)姫(ひめ)だ。)とは、この8代孝(こう)元(げん)天(てん)皇(のう)(建(たけ)いない命(のみこと)だ。)の亡き後は、その先妃(せんぴ)である倭(やまと)迹(と)迹(と)日(ひ)百襲(ももそ)姫(ひめ)が、そのもうけた実子の9代開(かい)化(か)天(てん)皇(のう)の正妃(せいひ)ともなったのだ。また、2人の間に、その実子は生まれなかった、とも伝えるのだが、また、『但(た)馬(じま)故(こ)事(じ)記(き)』を見てみれば『人皇9代開(かい)化(か)天(てん)皇(のう)56年秋7月、美(み)香(か)帯(たらし)彦(ひこ)命(のみこと)(実際は、8代孝(こう)元(げん)天(てん)皇(のう)だ。)の子、美(み)津(つ)玉(たま)彦(ひこ)命(のみこと)(実際は、9代開(かい)化(か)天(てん)皇(のう)だ。)を以て屋(や)岡(おかの)県(あがた)主(ぬし)と為す。美(み)津(つ)玉(たま)彦(ひこ)命(のみこと)(9代開化(かいか)天皇(てんのう)だ。)は、伊佐(いさ)布県(ふのあがた)主(ぬし)の黒(くろ)田(だの)大(おお)彦(びこ)命(のみこと)(大(おお)彦(びこ)命(のみこと)だ。)の女(むすめ)、浅(あさ)茅(じ)比(ひ)咩(め)(伊(い)香(か)色(し)謎(こめ)姫(ひめ)だ。)を娶るも、御子無し。』とも伝えているのだ。しかしながら、実際としては、9代開(かい)化(か)天(てん)皇(のう)の娘と伝えられる御(み)真(ま)津(つ)姫(ひめ)を生んでいた、ということなのだ。つまり隠される御(み)真(ま)津(つ)姫(ひめ)の実像としては、息(おき)長(なが)水(みず)依(より)姫(ひめ)(実際は、荒(あら)姫(ひめ)・真(ま)鳥(とり)姫(ひめ)だ。)の実妹の瀛(おく)津(つ)姫(ひめ)(実際は、オケツ姫・安(あ)芸(き)刀(と)女(め)姫(ひめ)・大(おお)海(あま)姫(ひめ)・玉(たま)手(て)姫(ひめ)・真(ま)木(き)姫(ひめ)だ。)である御(み)間(ま)城(き)姫(ひめ)とは別人なのだ。なぜならば、隠される御(み)真(ま)津(つ)姫(ひめ)の実像としては、その異父兄の建(たけ)埴(はに)安(やす)彦(ひこ)命(のみこと)の正(せい)妃(ひ)ともなった吾(あ)田(た)姫(ひめ)だからなのだ。 

そしてまた、『建(たけ)埴(はに)安(やす)彦(ひこ)命(のみこと)の反(はん)逆(ぎゃく)』と伝える建(たけ)埴(はに)安(やす)彦(ひこ)命(のみこと)の亡き後、大(おお)彦(びこ)命(のみこと)(実際は、葛城(かつらぎ)の垂(たる)見(みの)宿(すく)禰(ね)・河内(かわち)の青(あお)玉(たま)命(のみこと)・丹波(たんば)の大(おお)県(あがた)主(ぬし)、由(ゆ)碁(ご)理(り)命(のみこと)・少名(すくな)日子(ひこ)建(たけ)猪(い)心命(こころのみこと)・天(あま)之(の)御(み)影(かげ)命(のみこと)・大(おお)海(あまの)宿(すく)禰(ね)・山代(やましろ)の県(あがた)主(ぬし)の祖、長溝(ながみぞ)命(のみこと)・墨(すみ)坂(さかの)六(むつ)兄(えの)命(みこと)・小(お)江(えの)命(みこと)・紀伊(きい)の荒(あら)河(かわ)戸(と)辺(べ)・比(ひ)古(こ)布(ふ)都(つ)押之(おしの)信(まこと)命(のみこと)だ。)の養(よう)女(じょ)ともなった中(なか)日(ひ)女(め)姫(ひめ)(実際は、針(はり)間(ま)の伊(い)那(な)毘(ひ)能(の)大(おお)郎(いら)女(つめ)・12代景(けい)行(こう)天(てん)皇(のう)の先(せん)妃(ぴ)だ。)こそが、その実像ということなのだ。つまりこの姫(ひめ)は、実際は、大(おお)彦(びこ)命(のみこと)の孫娘なのだが、また、元は、反(はん)逆(ぎゃく)した建(たけ)埴(はに)安(やす)彦(ひこ)命(のみこと)の正(せい)妃(ひ)の吾(あ)田(た)姫(ひめ)なのだ。つまり隠蔽されている、ということなのだ。 

さてそれでは、大(おお)彦(びこ)命(のみこと)の実子である10代崇(す)神(じん)天(てん)皇(のう)(物(もの)部(のべの)伊(い)香(か)色(しこ)男(お)命(のみこと)・彦(ひこ)坐(いますの)王(みこ)・丸(わ)邇(にの)臣(おみ)の祖の日(ひ)子(こ)国(くに)意(お)祁(け)都(つ)命(のみこと)・建(たけ)豊(とよ)波(は)豆(づ)羅(ら)和(わ)気(け)命(のみこと)・和(わ)珥(にの)臣(おみ)の遠祖の姥津(ははつ)命(のみこと)・比(ひ)古(こ)由(ゆ)牟(む)須(す)美(び)命(のみこと)・淡(おう)海(み)の御上(みかみ)の祝(はうり)だ。)としては、その実父の大(おお)彦(びこ)命(のみこと)(実際は葛城(かつらぎ)の垂(たる)見(みの)宿(すく)禰(ね)・河内(かわち)の青(あお)玉(たま)命(のみこと)・丹波(たんば)の大(おお)県(あがた)主(ぬし)、由(ゆ)碁(ご)理(り)命(のみこと)・少(すく)名(な)日(ひ)子(こ)建(たけ)猪(い)心(こころ)命(のみこと)・天(あま)之(の)御(み)影(かげ)命(のみこと)・大(おお)海(あまの)宿(すく)禰(ね)・山代(やましろ)の県(あがた)主(ぬし)の祖、長溝(ながみぞ)命(のみこと)だ。)の後(ご)妃(ひ)ともなった姪(めい)の倭(やまと)迹(と)迹(と)姫(ひめ)(実際は9代開(かい)化(か)天(てん)皇(のう)の妹の櫛(くし)磐(いわ)姫(ひめ)・春日(かすが)の建(たけ)国(くに)勝(かつ)戸(と)売(め)姫(ひめ)・紀伊(きい)の荒(あら)河戸(かわと)畔(べ)姫(ひめ)・大(おお)海(あま)部(べ)姫(ひめ)だ。)が生んだ2人の異母姉妹を娶っていたのだ。つまり姉の方の息(おき)長(なが)水(みず)依(より)姫(ひめ)(実際は荒(あら)姫(ひめ)・真(ま)鳥(とり)姫(ひめ)だ。)としては、その実子の①丹(たん)波(ば)道(みち)主(ぬし)命(のみこと)(実際は、沙(さ)本(ほ)毘(ひ)古(この)命(みこと)・室(むろ)毘(ひ)古(この)命(みこと)・初代倭(やまと)彦(ひこ)命(のみこと)・来(くる)日(ひの)宿(すく)禰(ね)だ。)や、実妹の②沙(さ)本(ほ)毘(ひ)売(め)(実際は、淳(ぬ)名(な)城(き)入(いり)姫(ひめ)・十(と)市(いち)贄(に)入(いり)姫(ひめ)・御(み)井(い)津(つ)姫(ひめ)・11代垂(すい)仁(にん)天皇(てんのう)の先妃(せんぴ)だ。)の1男1女の2人をもうけでいるのだ。また、妹の方の瀛(おく)津(つ)姫(ひめ)(実際は、オケツ姫・安(あ)芸(き)刀(と)女(め)姫(ひめ)・大(おお)海(あま)姫(ひめ)・玉(たま)手(て)姫(ひめ)・真(ま)木(き)姫(ひめ)・御(み)間(ま)城(き)姫(ひめ)だ。)としては、長子の③山(やま)代(しろの)大(おお)筒(つつ)城(きの)真(ま)若(わかの)王(みこ)(実際は、12代景(けい)行(こう)天(てん)皇(のう)・豊(とよ)城(き)入(いり)彦(ひこ)命(のみこと)・建(たけ)沼(ぬな)河(かわ)別(わけ)命(のみこと)だ。)や、次子の④伊(い)理(り)泥(どの)王(みこ)(実際は、11代垂(すい)仁(にん)天(てん)皇(のう)・八(や)坂(さか)入(いり)彦(ひこ)命(のみこと)だ。)や、その実妹の⑤豊(とよ)鋤(す)入(いり)姫(ひめ)(実際は、水(みず)穂(ほの)五(い)百(お)依(より)比(ひ)売(め)・丹(たん)波(ば)道(みち)主(ぬしの)命(みこと)の元(もと)妃(ひ)だ。また、後年は、天(あま)照(てらすの)大(おおみ)神(かみ)を祀る『伊(い)勢(せ)神(じん)宮(ぐう)』の初代斎(さい)王(おう)の倭(やまと)姫(ひめ)だ。)たち2男1女の3人(合計5人だ。)をもうけた、ということなのだ。 

そしてまた、このうちで、長子の山(やま)代(しろの)大(おお)筒(つつ)城(きの)真(ま)若(わかの)王(みこ)(実際は、12代景(けい)行(こう)天(てん)皇(のう)・豊(とよ)城(き)入(いり)彦(ひこ)命(のみこと)だ。)こそが、その先(せん)妃(ぴ)として大(おお)彦(びこ)命(のみこと)の養(よう)女(じょ)となった中(なか)日(ひ)女(め)姫(ひめ)(実際は、針(はり)間(ま)の伊(い)那(な)毘(ひ)能(の)大(おお)郎(いら)女(つめ)・御(み)真(ま)津(つ)姫(ひめ)・吾(あ)田(た)姫(ひめ)だ。)を娶ったのだ。また、そのもうけた実子としては、倭(やまと)武(たける)尊(のみこと)である彦(ひこ)八(や)綱(つな)田(だ)命(のみこと)がいた、ということなのだ。つまり大(おお)筒(つつ)木(きの)真(ま)若(わかの)王(みこ)(建(たけ)沼(ぬな)河(かわ)別(わけ)命(のみこと)・12代景(けい)行(こう)天(てん)皇(のう)・豊(とよ)城(き)入(いり)彦(ひこの)命(みこと)・当(と)芸(き)利(とし)彦(ひこの)命(みこと)・水(みず)之(の)穂(ほの)眞(ま)若(わかの)王(みこ)・初代武(たけの)内(うちの)宿(すく)禰(ね)だ。)の先(せん)妃(ぴ)ともなった中(なか)日(ひ)女(め)姫(ひめ)(実際は、針(はり)間(ま)の伊(い)那(な)毘(ひ)能(の)大(おお)郎(いらつめ)女・御(み)真(ま)津(つ)姫(ひめ)・吾(あ)田(た)姫(ひめ)だ。)こそが、そのもうけた実子としては、倭(やまと)武(たける)尊(のみこと)(実際は、彦(ひこ)八(や)綱(つな)田(だ)命(のみこと)・稲(いな)瀬(せ)入(いり)彦(ひこ)命(のみこと)だ。)がいた、ということなのだ。 

さてそれでは、詳しく検証すれば、御(み)間(ま)城(き)姫(ひめ)(大(おお)海(あま)姫(ひめ)だ。)の実像としては、大(おお)彦(びこ)命(のみこと)(実際は葛(かつら)城(ぎ)の垂(たる)見(みの)宿(すく)禰(ね)・河内(かわち)の青(あお)玉(たま)命(のみこと)・丹波(たんば)の大(おお)県(あがた)主(ぬし)の由(ゆ)碁(ご)理(り)命(のみこと)・少名(すくな)日子(ひこ)建(たけ)猪(い)心命(こころのみこと)・天(あま)之(の)御(み)影(かげの)命(みこと)・大(おお)海(あまの)宿(すく)禰(ね)・山代(やましろ)の県(あがた)主(ぬし)の祖、長溝(ながみぞ)命(のみこと)・墨(すみ)坂(さかの)六(むつ)兄(えの)命(みこと)・小(お)江(えの)命(みこと)だ。)こそが、その次(じ)妃(ひ)として娶った姪(めい)の9代開(かい)化(か)天(てん)皇(のう)(櫛(くし)磐(いわ)竜(たつ)命(のみこと)だ。)の実妹の倭(やまと)迹(と)迹(と)姫(ひめ)(実際は、櫛(くし)磐(いわ)姫(ひめ)・春日(かすが)の建(たけ)国(くに)勝(かつ)戸(と)売(め)姫(ひめ)・紀伊(きい)の荒(あら)河戸(かわと)畔(べ)姫(ひめ)・大(おお)海(あま)部(べ)姫(ひめ)だ。)との2人の間に、そのもうけた娘は2人で、姉の息(おき)長(なが)水(みず)依(より)姫(ひめ)(実際は、沙(さ)本(ほ)の大(おお)闇(やみ)見(み)戸(と)売(め)・荒(あら)姫(ひめ)・眞(ま)鳥(とり)姫(ひめ)だ。)や、実妹の袁(お)祁(け)都(つ)姫(ひめ)(実際は、玉(たま)手(て)姫(ひめ)・朝(ちょう)愛(あい)姫(ひめ)・大(おお)海(あま)姫(ひめ)・澳(おく)津(つ)姫(ひめ)・眞(ま)木(き)姫(ひめ)・御(み)間(ま)城(き)姫(ひめ)・安(あ)芸(き)刀(と)女(め)姫(ひめ)だ。)たち2人の姉妹がいたのだが、妹の方の袁(お)祁(け)都(つ)姫(ひめ)(御(み)間(ま)城(き)姫(ひめ)・大(おお)海(あま)姫(ひめ)だ。)なのだ。そしてまた、2人の姫(ひめ)たちが、その異母兄の10代崇(す)神(じん)天(てん)皇(のう)(実際は、物(もの)部(のべの)伊(い)香(か)色(しこ)男(お)命(のみこと)・彦(ひこ)坐(います)命(のみこと)だ。)の妃(きさき)ともなった、ということなのだ。また、姉の方の息(おき)長(なが)水(みず)依(より)姫(ひめ)(沙(さ)本(ほ)の大(おお)闇(やみ)見(み)戸(と)売(め)・荒(あら)姫(ひめ)・眞(ま)鳥(とり)姫(ひめ)だ。)としては、①丹(たん)波(ば)道(みち)主(ぬしの)命(みこと)(実際は沙(さ)本(ほ)毘(ひ)古(この)命(みこと)・室(むろ)毘(ひ)古(この)命(みこと)・初代倭(やまと)彦(ひこ)命(のみこと)・来(くる)日(ひの)宿(すく)禰(ね)だ。)や、その実妹の②沙(さ)本(ほ)毘(ひ)売(め)(実際は淳(ぬ)名(な)城(き)入(いり)姫(ひめ)・十(と)市(いち)贄(に)入(いり)姫(ひめ)・御(み)井(い)津(つ)姫(ひめ)・11代垂(すい)仁(にん)天皇(てんのう)の先妃(せんぴ)だ。)たち1男1女の2人をもうけたのだ。また、妹の方の袁(お)祁(け)都(つ)姫(ひめ)(実際は玉(たま)手(て)姫(ひめ)・朝(ちょう)愛(あい)姫(ひめ)・大(おお)海(あま)姫(ひめ)・澳(おく)津(つ)姫(ひめ)・眞(ま)木(き)姫(ひめ)・御(み)間(ま)城(き)姫(ひめ)・安(あ)芸(き)刀(と)女(め)姫(ひめ)だ。)としては、③大(おお)筒(つつ)木(きの)真(ま)若(わかの)王(みこ)(実際は12代景(けい)行(こう)天(てん)皇(のう)・豊(とよ)城(き)入(いり)彦(ひこの)命(みこと)・建(たけ)沼(ぬな)河(かわ)別(わけ)命(のみこと)・当(と)芸(き)利(とし)彦(ひこの)命(みこと)・水(みず)之(の)穂(ほの)眞(ま)若(わかの)王(みこ)・初代武(たけの)内(うちの)宿(すく)禰(ね)だ。)や、その実弟の④伊理(いり)泥(どの)王(みこ)(実際は11代垂(すい)仁(にん)天皇(てんのう)・神(かみ)大(おお)根(ねの)王(みこ)・比(ひ)古(こ)意(お)須(すの)王(みこ)・八(や)坂(さか)入(いり)彦(ひこ)命(のみこと)・八(や)瓜(つりの)入(いり)彦(ひこ)命(のみこと)だ。)や、その実妹の⑤豊(とよ)鋤(す)入(いり)姫(ひめ)(実際は水(みず)穂(ほの)五(い)百(お)依(より)比(ひ)売(め)・丹(たん)波(ば)道(みち)主(ぬしの)命(みこと)の元(もと)妃(ひ)だ。また後年は、天(あま)照(てらすの)大(おおみ)神(かみ)を祀る『伊(い)勢(せ)神(じん)宮(ぐう)』の初代の斎(さい)王(おう)の倭(やまと)姫(ひめ)だ。)たち2男1女の3人をもうけた、ということなのだ。 

そしてまた、10代崇(す)神(じん)天(てん)皇(のう)(物(もの)部(のべの)伊(い)香(か)色(しこ)男(お)命(のみこと)・彦(ひこ)坐(います)命(のみこと)だ。)の皇(こう)后(ごう)の御(み)間(ま)城(き)姫(ひめ)の実像こそが、妹の方の袁(お)祁(け)都(つ)姫(ひめ)(玉(たま)手(て)姫(ひめ)・朝(ちょう)愛(あい)姫(ひめ)・大(おお)海(あま)姫(ひめ)・山(やま)代(しろ)の荏(え)名津(なつ)姫(ひめ)・苅(かり)幡(はた)戸(と)辨(べ)・澳(おく)津(つ)姫(ひめ)・遠津(とおつ)年(あ)魚眼(ゆまく)妙(わし)姫(ひめ)・八(や)坂(さか)振(ふる)天(あま)某(いろ)辺姫(べひめ)・眞(ま)木(き)姫(ひめ)・御(み)間(ま)城(き)姫(ひめ)だ。)なのだ。また、御(み)間(ま)城(き)入(いり)彦(ひこの)命(みこと)である10代崇(す)神(じん)天(てん)皇(のう)(実際は物(もの)部(のべの)伊(い)香(か)色(しこ)男(お)命(のみこと)・彦(ひこ)坐(いますの)王(みこ)・丸(わ)邇(にの)臣(おみ)の祖、日(ひ)子(こ)国(くに)意(お)祁(け)都(つ)命(のみこと)・建(たけ)豊(とよ)波(は)豆(づ)羅(ら)和(わ)気(けの)和(わ)命(みこと)・和(わ)珥(にの)臣(おみ)の遠祖の姥津(ははつ)命(のみこと)・比(ひ)古(こ)由(ゆ)牟(む)須(す)美(び)命(のみこと)・淡(おう)海(み)の御上(みかみ)の祝(はうり)だ。)や、その皇(こう)后(ごう)である御(み)間(ま)城(つ)姫(ひめ)(袁(お)祁(け)都(つ)姫(ひめ)だ。)の御夫婦としては、実際は、9代開(かい)化(か)天(てん)皇(のう)(櫛(くし)磐(いわ)竜(たつ)命(のみこと)だ。)の夫婦養子である、ということなのだ。 

さてそれでは、その証(しょう)拠(こ)なのだが『先代(せんだい)旧事本(くじほん)紀(き)』卷第5の『天(あまつ)孫(みまの)本(もとつ)紀(ふみ)』を見てみれば、物(もの)部(のべの)伊香(いか)色(しき)雄(お)命(のみこと)(10代崇(す)神(じん)天(てん)皇(のう)だ。)が、『山(やま)代(しろの)縣(あがた)主(ぬし)の祖、長溝(ながみぞ)が女(むすめ)、荒(あら)姫(ひめ)と娣(いもうと)玉手(たまて)姫(ひめ)を並(ならび)て、妾(をみなめ)と為し、各(おのおの)二男(ふたりのひこ)(実際は豊(とよ)城(き)入(いり)彦(ひこ)命(のみこと)や、八(や)坂(さか)入(いり)彦(ひこ)命(のみこと)だ。)を生む。』。また『倭(やまと)の志(し)紀(き)彦(ひこ)(10代崇(す)神(じん)天(てん)皇(のう)だ。)が女(むすめ)、眞(ま)鳥(とり)姫(ひめ)(実際は、姉の荒(あら)姫(ひめ)だ。)を妾(をみなめ)と為し、一男(ひとりのひこ)(実際は丹(たん)波(ば)道(みち)主(ぬし)命(のみこと)・初代倭(やまと)彦(ひこ)命(のみこと)だ。)を生む。』とも伝えるからなのだ。 

そしてまた、丹(たん)波(ば)道(みち)主(ぬし)命(のみこと)が娶った、という川上(かわかみ)の摩須郎女(ますのいらつめ)こそが、その異母妹の豊(とよ)鋤(すき)入(いり)姫(ひめ)(実際は水(みず)穂(ほの)五(い)百(お)依(より)比(ひ)売(め)・倭(やまと)姫(ひめ)だ。)なのだ。また、丹(たん)波(ば)道(みち)主(ぬし)命(のみこと)の死後、天(あま)照(てらすの)大(おおみ)神(かみ)を祀る『伊(い)勢(せ)神(じん)宮(ぐう)』の初代斎(さい)宮(ぐう)(斎(さい)王(おう)だ。)ともなったのだ。また、12代景(けい)行(こう)天皇(てんのう)である豊(とよ)城(き)入(いり)彦(ひこ)命(のみこと)(実際は水(みず)之(の)穂(ほの)眞(ま)若(わかの)王(みこ)・山(やま)代(しろ)の大(おお)筒(つつ)木(きの)真(ま)若(わかの)命(みこと)・当(と)芸(き)利(とし)彦(ひこ)命(のみこと)・建(たけ)沼(ぬな)河(かわ)別(わけ)命(のみこと)だ。)こそが、若(わか)建(たけ)吉(き)備(び)津(つ)彦(ひこ)命(のみこと)である大(おお)彦(びこ)命(のみこと)(実際は、山代(やましろ)の県(あがた)主(ぬし)の祖、長溝(ながみぞ)命(のみこと)だ。)の養(よう)女(じょ)ともなった中(なか)日(ひ)女(め)姫(ひめ)(実際は御(み)真(ま)津(つ)姫(ひめ)・吾(あ)田(た)姫(ひめ)だ。)である針(はり)間(ま)の伊那毘(いなひ)能大郎女(のおおいらつめ)を娶った、ということなのだ。また、建(たけ)沼(ぬ)奈(な)川(かわ)別(わけの)命(みこと)の実像である、ということなのだ。 

さてそれでは、美(み)津(つ)玉(たま)彦(ひこ)命(のみこと)とは、櫛(くし)磐(いわ)竜(たつ)命(のみこと)の9代開化(かいか)天皇(てんのう)なのだ。この人物こそが、伊(い)佐(さ)布(ふの)県(あがた)主(ぬし)である黒(くろ)田(だの)大(おお)彦(びこ)命(のみこと)(大(おお)彦(びこ)命(のみこと)だ。)の娘の浅(あさ)茅(じ)比(ひ)咩(め)(伊(い)香(か)色(し)謎(こめ)姫(ひめ)だ。)との2人の間に、そのもうけた1人娘は、隠される御(み)真(ま)津(つ)姫(ひめ)(実際は建(たけ)埴(はに)安(やす)彦(ひこ)命(のみこと)・陸(くが)耳(みみの)御(み)笠(かさ)の正(せい)妃(ひ)の吾(あ)田(た)姫(ひめ)だ。)なのだ。また、夫の建(たけ)埴(はに)安(やす)彦(ひこ)命(のみこと)の亡き後は、伊佐(いさ)布県(ふのあがた)主(ぬし)の黒(くろ)田(だの)大(おお)彦(びこ)命(のみこと)(実際は若(わか)建(たけ)吉(き)備(び)津(つ)彦(ひこ)命(のみこと)・大(おお)伊(い)賀(が)津(つ)彦(ひこ)命(のみこと)だ。)の大(おお)彦(びこ)命(のみこと)の養(よう)女(じょ)ともなった孫娘なのだ。また、その別名称は、紀(き)伊(い)の荒(あら)河(かわ)戸(と)辨(べ)(大(おお)彦(びこ)命(のみこと)だ。)の娘(実際は養(よう)女(じょ)の孫娘だ。)である中(なか)日(ひ)女(め)姫(ひめ)(実際は針(はり)間(ま)の伊那毘(いなひ)能大郎女(のおおいらつめ)・御(み)真(ま)津(つ)姫(ひめ)・吾(あ)田(た)姫(ひめ)だ。)である、ということなのだ 

さてそれでは、『古(こ)事(じ)記(き)』の7代孝(こう)元(げん)天(てん)皇(のう)の条を見れば、『この天皇、穂(ほ)積(ずみの)臣(おみ)等(ら)の祖、内(うつ)色(し)許(こ)男(お)命(のみこと)(8代孝(こう)元(げん)天(てん)皇(のう)自身だ。)の妹(異母妹だ。)、内(うつ)色(し)許(こ)売(め)命(のみこと)(倭(やまと)迹(と)迹(と)日(ひ)百襲(ももそ)姫(ひめ)だ。)を娶して、生みませる御子(娘むこだ。)、大(おお)毘(び)古(こ)命(のみこと)(倭(やまと)迹(と)迹(と)姫(ひめ)・櫛(くし)磐(いわ)姫(ひめ)・春日(かすが)の建(たけ)国(くに)勝(かつ)戸(と)売(め)姫(ひめ)・大(おお)海(あま)部(べ)姫(ひめ)のむこだ。)。次に少(すく)名(な)日(ひ)子(こ)建(たけ)猪(い)心(こころ)命(のみこと)(娘むこの大(おお)彦(びこ)命(のみこと)だ。)、次に若(わか)倭(やまと)根(ね)子(こ)日(ひ)子(こ)大(おお)毘(び)毘(び)命(のみこと)(9代開(かい)化(か)天(てん)皇(のう)だ。)。三柱 また、(9代開(かい)化(か)天(てん)皇(のう)が、)内(うつ)色(し)許(こ)男(お)命(のみこと)(8代孝(こう)元(げん)天(てん)皇(のう)だ。)の女(むすめ)(天皇の亡き後、その実子の9代開(かい)化(か)天(てん)皇(のう)の正(せい)妃(ひ)ともなったために息子の嫁扱いだ。)、名は伊(い)迦(か)賀(が)色(し)許(こ)売(め)命(のみこと)(伊(い)香(か)色(し)謎(こめ)姫(ひめ)・建(たけ)埴(はに)安(やす)姫(ひめ)・鸇(わし)姫(ひめ)だ。)を娶して、生みませる御子、比(ひ)古(こ)布(ふ)都(つ)押(おし)之(の)信(まこと)命(のみこと)(大(おお)彦(びこ)命(のみこと)だ。この場合は、9代開(かい)化(か)天(てん)皇(のう)の娘むこのため、実娘が形式上の姑(しゅうとめ)だ。)。また、河内(かわち)の青(あお)玉(たま)(大(おお)彦(びこ)命(のみこと)だ。)の女(むすめ)、名は波(は)邇(に)夜(や)須(す)毘(ひ)売(め)命(のみこと)(実際は伊(い)香(か)色(し)謎(こめ)姫(ひめ)だ。)を娶して、生みませ御子、建(たけ)波(は)邇(に)夜(や)須(す)毘(ひ)古(こ)命(のみこと)(実子の建(たけ)埴(はに)安(やす)彦(ひこ)命(みこと)だ。)。一柱 この天皇の御子等、,併せて五柱なり。故、若(わか)倭(やまと)根(ね)子(こ)日(ひ)子(こ)大(おお)毘(び)毘(び)命(のみこと)(実際は9代開(かい)化(か)天(てん)皇(のう)だ。)は、天の下治らしめしき。その兄(義兄だ。)大(おお)毘(び)古(こ)命(のみこと)の子、建(たけ)沼(ぬな)河(かわ)別(わけ)命(のみこと)(実際は12代景(けい)行(こう)天(てん)皇(のう)だ。つまり養女の中(なか)日(ひ)女(め)姫(ひめ)・針(はり)間(ま)の伊(い)那(な)毘(ひ)能(の)大(おお)郎(いら)女(つめ)・御(み)真(ま)津(つ)姫(ひめ)・吾(あ)田(た)姫(ひめ)のむこだ。)は、阿(あ)部(べの)臣(おみ)等(ら)の祖、次に比(ひ)古(こ)伊(い)那(な)許(こ)士(じ)別(わけ)命(のみこと)(実際は12代景(けい)行(こう)天(てん)皇(のう)だ。だ。)。こは膳(かしわべ)臣(のおみ)の祖なり。比(ひ)古(こ)布(ふ)都(つ)押(おし)之(の)信(まこと)命(のみこと)(大(おお)彦(びこ)命(のみこと)だ。)、尾(お)張(わりの)連(むらじ)等(ら)の祖、意(お)富(ほ)那(な)毘(び)(9代開(かい)化(か)天(てん)皇(のう)だ。)の妹、葛(かつら)城(ぎ)の高(たか)千(ち)那(な)毘(ひ)売(め)(実際は大(おお)比(ひ)遅(じ)姫(ひめ)・大(おお)海(あま)部(べ)姫(ひめ)・倭(やまとの)千(ち)々(ち)速(はや)姫(ひめ)・鴨(かも)部(べの)美(み)良(ら)姫(ひめ)・櫛(くし)磐(いわ)姫(ひめ)だ。)を娶して、生める子、味(うま)師(し)内(うちの)宿(すく)禰(ね)(この場合、養(よう)女(じょ)の中(なか)日(ひ)女(め)姫(ひめ)・針(はり)間(ま)の伊(い)那(な)毘(ひ)能(の)大(おお)郎(いら)女(つめ)・御(み)真(ま)津(つ)姫(ひめ)・吾(あ)田(た)姫(ひめ)のむこの初代武(たけの)内(うちの)宿(すく)禰(ね)・12代景(けい)行(こう)天(てん)皇(のう)だ。)。これ山(やま)代(しろ)の内(うちの)臣(おみ)の祖なり。 また木(きの)國(くにの)造(みやつこ)の祖、宇(う)豆(づ)比(ひ)古(こ)(実際は10代崇(す)神(じん)天(てん)皇(のう)だ。)の妹、山(やま)下(した)影(かげ)日(ひ)売(め)(実際は義妹の大(おお)比(ひ)遅(じ)姫(ひめ)・大(おお)海(あま)部(べ)姫(ひめ)・倭(やまとの)千(ち)々(ち)速(はや)姫(ひめ)・鴨(かも)部(べの)美(み)良(ら)姫(ひめ)・葛(かつら)城(ぎの)高(たか)千(ち)那(な)姫(ひめ)・櫛(くし)磐(いわ)姫(ひめ)だ。)を娶して、生める子、建(たけ)内(うちの)宿(すく)禰(ね)(この場合、大(おお)彦(びこ)命(のみこと)との2人の養(よう)女(じょ)の中(なか)日(ひ)女(め)姫(ひめ)・針(はり)間(ま)の伊(い)那(な)毘(ひ)能(の)大(おお)郎(いら)女(つめ)・御(み)真(ま)津(つ)姫(ひめ)・吾(あ)田(た)姫(ひめ)のむことしての初代武(たけの)内(うちの)宿(すく)禰(ね)・12代景(けい)行(こう)天(てん)皇(のう)だ。)。この建(たけ)内(うちの)宿(すく)禰(ね)(12代景(けい)行(こう)天(てん)皇(のう)だ。)の子、併せて九(ここの)たり。』とも伝えているからなのだ。 

つまり木(きの)国造(くにのみやつこ)の祖という宇(う)豆比(ずひ)古(こ)命(のみこと)(実際は10代崇(す)神(じん)天(てん)皇(のう)だ。)の妹(義妹だ。)という山下(やました)影(かげ)姫(ひめ)の実像としては、9代開(かい)化(か)天(てん)皇(のう)(櫛(くし)磐(いわ)竜(たつ)命(のみこと)だ。)の実妹である櫛(くし)磐(いわ)姫(ひめ)(大(おお)比(ひ)遅(じ)姫(ひめ)・大(おお)海(あま)部(べ)姫(ひめ)・倭(やまとの)千(ち)々(ち)速(はや)姫(ひめ)・鴨(かも)部(べの)美(み)良(ら)姫(ひめ)・葛(かつら)城(ぎの)高(たか)千(ち)那(な)姫(ひめ)・櫛(くし)磐(いわ)姫(ひめ)だ。)なのだ。また、紀伊(きい)の荒(あら)河(かわ)戸(と)辨(べ)の娘という中(なか)日(ひ)女(め)姫(ひめ)とは、初代建(たけの)内(うちの)宿(すく)禰(ね)(賀(か)茂(もの)県(あがた)主(ぬし)の祖、大(おお)伊(い)乃(の)岐(き)命(のみこと)・建(たけ)沼(ぬな)河(かわ)別命(わけのみこと)・12代景(けい)行(こう)天(てん)皇(のう)・豊(とよ)城(き)入(いり)彦(ひこ)命(のみこと)・水(みず)之(の)穂(ほの)眞(ま)若(わかの)王(みこ)・山代(やましろ)の大(おお)筒(つつ)木(きの)真(ま)若(わかの)王(みこ)だ。)の先妃(せんぴ)ともなった針(はり)間(ま)の伊那毘(いなひ)能大郎女(のおおいらつめ)(実際は御(み)真(ま)津(つ)姫(ひめ)・吾(あ)田(た)姫(ひめ)だ。)なのだ。また、この2人の間に、そのもうけた実子としては、倭(やまと)武(たけるの)尊(みこと)(実際は彦(ひこ)八(や)綱(つな)田(だ)命(のみこと)・稲(いな)瀬(せ)入(いり)彦(ひこ)命(のみこと)だ。)がいた、ということなのだ。 

さてそれでは、『古(こ)事(じ)記(き)』の中の『建(たけ)埴(はに)安(やす)彦(ひこ)命(のみこと)の反(はん)逆(ぎゃく)』の条を見てみれば、『大(おお)彦(びこ)命(のみこと)が越(こし)国(のくに)へいったとき』、また、『日本(にほん)書紀(しょき)』で見てみれば、『山(やま)背(しろ)(奈良市の北、木津(きづ)川辺(がわあたり)だ。)の平坂(ひらさか)についたが、そのとき、道わきに少女がいて歌った。』という。この少女こそが、大(おお)彦(びこ)命(のみこと)(実際は山代(やましろ)の県(あがた)主(ぬし)の祖、長溝(ながみぞ)命(のみこと)だ。)の養(よう)女(じょ)ともなった針(はり)間(ま)の伊(い)那(な)毘(ひ)能(の)大(おお)郎(いら)女(つめ)(実際は紀伊(きい)の荒(あら)河(かわ)戸(と)辨(べ)の娘の中(なか)日(ひ)女(め)姫(ひめ)・御(み)真(ま)津(つ)姫(ひめ)・吾(あ)田(た)姫(ひめ)だ。)である、ということなのだ。 

そしてまた、『但(たじ)馬(ま)故(こ)事(じ)記(き)』の中の『朝来郡(あきぐん)神社(じんじゃ)系譜伝(けいふでん)』を見てみれば、粟(あわ)鹿(が)郷(ごう)にある『粟(あわ)鹿(が)神(じん)社(じゃ)』の祭神としては、①彦(ひこ)坐(います)命(のみこと)、②息(おき)長(なが)水(みず)依(より)姫(ひめ)(姉の眞(ま)鳥(とり)姫(ひめ)・荒(あら)姫(ひめ)だ。)、③遠(お)祁(け)都(つ)毘(ひ)売(め)命(のみこと)(亦の名、瀛(おく)津(つ)姫(ひめ)命(のみこと)・妹の玉(たま)手(て)姫(ひめ)・朝(ちょう)愛(あい)姫(ひめ)・大(おお)海(あま)姫(ひめ)・山(やま)代(しろ)の荏(え)名津(なつ)姫(ひめ)・苅(かり)幡(はた)戸(と)辨(べ)・澳(おく)津(つ)姫(ひめ)・遠津(とおつ)年(あ)魚眼(ゆまく)妙(わし)姫(ひめ)・八(や)坂(さか)振(ふる)天(あま)某(いろ)辺姫(べひめ)・眞(ま)木(き)姫(ひめ)だ。)たち3柱であるというのだ。また、その社伝を見てみれば、 

『人皇13代成(せい)務(む)天(てん)皇(のう)の5年秋9月、船(ふな)穂(ほの)宿(すく)祢(ね)命(のみこと)(実際は12代景(けい)行(こう)天(てん)皇(のう)だ。)の子、当(まさ)勝(かつの)宿(すく)祢(ね)命(のみこと)(実際は13代成(せい)務(む)天(てん)皇(のう)だ。)は朝(あ)来(きの)県(あがた)主(ぬし)となる。当(まさ)勝(かつの)宿(すく)祢(ね)命(のみこと)(13代成(せい)務(む)天(てん)皇(のう)だ。)は、息(おき)長(なが)水(みず)依(より)姫(ひめ)・瀛(おく)津(つ)姫(ひめ)命(のみこと)(実際は大(おお)海(あま)姫(ひめ)だ。)を粟(あわ)鹿(がの)宮(ぐう)に配祀す。』、また『人皇9代開(かい)化(か)天(てん)皇(のう)は、丸(わ)邇(にの)臣(おみ)の祖彦(ひこ)国(くに)意(お)祁(け)都(つ)命(実際は10代崇(す)神(じん)天(てん)皇(のう)・物(もの)部(のべの)伊(い)香(か)色(しき)男(お)命(のみこと)だ。)の妹、意(お)祁(け)都(つ)比売(ひめの)命(みこと)(実際は2世埴(はに)安(やす)姫(ひめ)・伊香(いか)色(しき)謎(こめ)姫(ひめ)だ。)を娶り、彦(ひこ)坐(います)命(のみこと)(実際は10代崇(す)神(じん)天(てん)皇(のう)・物(もの)部(のべの)伊(い)香(か)色(しき)男(お)命(のみこと)だ。)を生(夫婦養子だ。)む。彦(ひこ)坐(います)命(のみこと)(実際は10代崇(す)神(じん)天(てん)皇(のう)・物(もの)部(のべの)伊(い)香(か)色(しき)男(お)命(のみこと)だ。)は、天(あまの)御(み)影(かげ)命(のみこと)(実際は大(おお)彦(びこ)命(のみこと)だ。)の女(むすめ)、①息(おき)長(なが)水(みず)依(より)姫(ひめ)(姉の方の荒(あら)姫(ひめ)・真(ま)鳥(とり)姫(ひめ)だ。)を娶り、丹(たん)波(ば)道(みち)主(ぬし)命(のみこと)を生む。また妹、②瀛(おく)津(つ)姫(ひめ)命(のみこと)(大(おお)海(あま)姫(ひめ)・玉(たま)手(て)姫(ひめ)・真(ま)木(き)姫(ひめ)・御(み)間(ま)城(き)姫(ひめ)だ。)を娶り、山(やま)代(しろの)大(おお)筒(つつ)城(きの)真(ま)若(わかの)王(みこ)(12代景(けい)行(こう)天(てん)皇(のう)・豊(とよ)城(き)入(いり)彦(ひこ)命(のみこと)だ。)・伊(い)理(り)泥(どの)王(みこ)(11代垂(すい)仁(にん)天(てん)皇(のう)・八(や)坂(さか)入(いり)彦(ひこ)命(のみこと)だ。)を生む。』とも伝えるからなのだ。 

つまり彦(ひこ)坐(います)命(のみこと)こそが、その異母妹の姉の方の息(おき)長(なが)水(みず)依(より)姫(ひめ)(荒(あら)姫(ひめ)・真(ま)鳥(とり)姫(ひめ)だ。)との2人の間に、そのもうけた男子としては、丹(たん)波(ば)道(みち)主(ぬし)命(のみこと)がいたのだ。また、妹の方の瀛(おく)津(つ)姫(ひめ)命(のみこと)(実際は大(おお)海(あま)姫(ひめ)・玉(たま)手(て)姫(ひめ)・真(ま)木(き)姫(ひめ)・御(み)間(ま)城(き)姫(ひめ)だ。)との2人の間に、そのもうけた男子としては、長子の山(やま)代(しろの)大(おお)筒(つつ)城(きの)真(ま)若(わかの)王(みこ)(12代景(けい)行(こう)天(てん)皇(のう)・豊(とよ)城(き)入(いり)彦(ひこ)命(のみこと)だ。)や、次子の伊(い)理(り)泥(どの)王(みこ)(11代垂(すい)仁(にん)天(てん)皇(のう)・八(や)坂(さか)入(いり)彦(ひこ)命(のみこと)だ。)たち2人がいたのだ。この事実こそが、『但(たじ)馬(ま)故(こ)事(じ)記(き)』の中の『朝(あ)来(き)郡(ぐん)神(じん)社(じゃ)系(けい)譜(ふ)伝(でん)』の中の、『粟(あわ)鹿(が)神(じん)社(じゃ)の社伝』によって検証される、ということなのだ。 

それでは、これから、いよいよ、神(しん)代(だい)についても、より詳しく検証して見たいと思う。さてそれでは、古(こ)代(だい)文(もん)書(じょ)という『竹内(たけうち)文書(もんじょ)』(『神代(かみよの)古記(こき)』の原本?)によれば、タケウガヤフキアエズ王朝(おうちょう)とは73代続くのだ。また、73代目の彦(ひこ)天皇(すめらみこと)としては、狭(さぬ)野(の)尊(みこと)不(ふき)合(あえず)天(あまの)日嗣(ひつぎの)天皇(すめらみこと)がいた、というのだ。その実像としては、狭(さぬ)野(の)尊(みこと)のカムヤマトイワレヒコ尊である初代神武(じんむ)天皇(てんのう)なのだ。そこで、より確実な方法として、この最後の73代目から、逆に遡(さかのぼ)って見てみれば、その一代前の父(実際は舅(しゅうと)だ。)としては、72代目の彦(ひこの)天皇(すめらみこと)という彦五(ひこい)瀬(っせの)尊(みこと)不(ふき)合(あえず)天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)(オオワダツイセヒコ尊だ。)である。そしてまた、その実像としては、彦五(ひこい)瀬(っせの)尊(みこと)である天(あまの)香山(かごやま)命(のみこと)なのだ。そしてまた、その一代前の父(実際は舅(しゅうと)だ。)としては、71代目の彦(ひこ)天皇(すめらみこと)である天(あま)照(てる)国(くに)照(てる)日(ひ)子(こ)百(もも)日(ひ)臼(うす)某(ぼ)杵(きね)尊(のみこと)なのだ。また、その実像としては、天(あま)照(てる)国(くに)照(てる)日(ひ)子(こ)尊(のみこと)である天(あまの)火(ほ)明(あかり)命(のみこと)なのだ。そしてまた、その一代前の父(実際は舅(しゅうと)だ。)としては、70代目の彦(ひこ)天皇(すめらみこと)の神(かむ)心(ころ)伝(ふて)物(もの)部(のべの)建(たての)天(すめら)皇(みこと)不(ふき)合(あえず)天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)なのだ。また、その実像としては、神(かむ)物(もの)部(のべの)建(たての)天(すめら)皇(みこと)というが大(おお)国(くに)主(ぬし)命(のみこと)なのだ。また、ニニギ尊こそが、その実像なのだ。そしてまた、その妃(きさき)(後(ご)妃(ひ)だ。)としては、矢野(やの)姫(ひめ)皇后宮(こうごうのみや)(実際は香用(かよう)姫(ひめ)・稲(いな)葉(ばの)八(や)上(かみ)姫(ひめ)だ。)がいたというのだ。そしてまた、その一代前の父(実際は舅(しゅうと)だ。)としては、69代目の彦(ひこ)天皇(すめらみこと)の神(かむ)足(たる)別(わけ)豊(とよ)鋤(すきの)天(すめら)皇(みこと)不(ふき)合(あえず)天(あまの)日(ひ)嗣(っぎの)天(すめら)皇(みこと)がいた、というのだ。また、その実像としては、豊(とよ)鋤(すきの)天(すめら)皇(みこと)というが、つまり大(おお)国(くに)主(ぬし)命(のみこと)の舅(しゅうと)のウガ御魂(のみたま)尊(のみこと)(稲(いな)葉(ばの)八(や)上(かみ)彦(ひこ)命(のみこと)だ。)なのだ。また、その妃(きさき)としては、足(たる)形(がた)姫(ひめの)皇(こう)后(ごうの)宮(みや)(神(かみ)水(みず)姫(ひめ)だ。)がいたというのだ。 

そしてまた、その一代前の父としては、68代目の彦(ひこ)天皇(すめらみこと)の天(あま)津(つ)日(ひ)高(たか)日(ひ)子(こ)宗(むな)像(かた)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)不(ふき)合(あえず)天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)がいたというのだ。また、その実像としては、宗像(むなかた)や、余(よ)(余は扶(ふ)余(よ)だ。)などの名称から、海(かい)神(じん)の大海(わたつみの)大神(おおがみ)(宗(むな)像(かた)海(かい)人(じん)族(ぞく)・物(もの)部(のべ)族(ぞく)・天(てん)孫(そん)族(ぞく)だ。)の皇子、天(てん)孫(そん)族(ぞく)である宗(むな)像(かた)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)としてふさわしい人物なのだ。そこで、世(よ)幸男(ゆきお)(金(かな)山彦(やまひこ)尊(のみこと)・埴(はに)安彦(やすひこ)尊(のみこと)・火(ひ)皇(む)産(す)霊(び)尊(のみこと)だ。)であるスサノオ尊なのだ。そしてまた、天(てん)孫(そん)族(ぞく)(猿(さる)田(た)族(ぞく)だ。)の6代奈賀(なか)の大人(おおうし)様(さま)や、7代目高(たか)皇(み)産(むす)霊神(びのかみ)(竜(りゅう)蛇(じゃ)族(ぞく)だ。)なのだ。また、その妃(きさき)としては、豊(とよ)建(たけ)日(ひる)若(わか)姫(ひめ)皇后宮(こうごうのみや)というが、この姫の実像としては、ワカヒルメムチ尊である、ということなのだ。つまり出雲(いずも)神族(しんぞく)の族長の大(おお)山(やま)祇(づみ)命(のみこと)(テナヅチだ。)の娘のクシナダ姫(実際は稚(わか)日孁貴(ひるめむち)命(のみこと)・神(かむ)衣(い)織女(おりめ)命(のみこと)・神(かみ)大(おお)市(いち)姫(ひめ)命(のみこと)・丹(に)生(ゅう)都(つ)比(ひ)売(め)尊(のみこと)・刺(さし)国(くに)若(わか)姫(ひめ)・豊(とよ)受(うけ)姫(ひめの)大(おお)神(かみ)だ。)である、ということなのだ。 

そしてまた、その一代前の67代目の姫(ひめの)天(すめら)皇(みこと)としては、春(はる)建(たけ)日(ひる)姫(ひめの)天皇(すめらみこと)不(ふき)合(あえずの)天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)がいた、というのだ。また、その実像としては、女性天(すめら)皇(みこと)の天(あま)照(てらすの)大神(おおみかみ)(実際は大(おお)日孁貴(ひるめむち)尊(のみこと)・金(かな)山姫(やまひめ)・埴(はに)安(やす)姫(ひめ)・神(かみ)皇(む)産(す)霊(び)尊(のみこと)だ。)なのだ。つまり邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の女王、2代目卑弥呼(ひみこ)(実際は土(つちの)神(かみ)・大(だい)地(ち)の神(かみ)・初代埴(はに)安(やす)姫(ひめ)・火之戸(ほのと)幡(ばた)姫(ひめ)・南(なん)海(かい)津(つ)姫(ひめ)だ。)なのだ。さてところで、その夫としては、高(たか)天(まが)原(はら)建(たけ)彦(ひこ)尊(のみこと)世(よ)幸(ゆき)男(お)というが、その実像こそが、スサノオ尊なのだ。また、世(よ)幸(ゆき)男(お)とは世襲名称なのだ。また、天(あま)照(てらすの)大(おおみ)神(かみ)(初代埴(はに)安(やす)姫(ひめ)だ。)である67代目の姫(ひめ)天(すめら)皇(みこと)こそが、世(よ)幸(ゆき)男(お)のスサノオ尊(実際は、金(かな)山彦(やまひこ)尊(のみこと)・埴(はに)安彦(やすひこ)尊(のみこと)だ。)の先妃(せんぴ)である、ということなのだ。そしてまた、彼らは、異母姉弟同士で御夫婦ともなったのだ。そしてまた、彼らの父としては、その一代前の66代目の彦(ひこ)天皇(すめらみこと)の豊(とよ)柏(かしわ)木(ぎ)幸(さ)手(て)男(お)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)天(あまの)日(ひつぎの)嗣(すめら)天(み)皇(こと)なのだ。そしてまた、その妃(きさき)としては(足(あし)形(がた)姫(ひめの)尊(みこと)外8名を妃(きさき)とす。)とも伝えるのだが、その実像としては、イザナギ尊なのだ。つまりイザナギ尊とは、5代奈賀(なか)の大人(おおうし)様(さま)なのだ。そしてまた、その一代前の65代目の彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)とは、勝(かつ)勝(かち)之(の)男(おの)天(すめら)皇(みこと)不合(ふきあえずの)天(あまの)日嗣(ひつぎの)天皇(すめらみこと)というが、この天(すめら)皇(みこと)は『皇(こう)后(ごう)を召さず。』とも伝えるから、64代目彦(ひこ)天皇(すめらみこと)の豊(とよ)日(ひる)豊(とよ)足(たり)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)不(ふき)合(あえずの)天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)(その妃(きさき)は、奇(き)豊(とよ)日(ひ)姫(ひめ)尊(のみこと)、平(ひら)佐(さ)保(ほ)姫(ひめ)尊(のみこと)外8名妃(きさき)に立つという。アワナギ尊だ。)の分身である、とも推測されるのだ。そしてまた、この64代目彦(ひこ)天皇(すめらみこと)(アワナギ尊だ。)の皇子としては、天(あまの)浮(うき)船乗(ふなの)知(りの)尊(みこと)(イザナギ尊だ。)がいたというからして、この64代目彦(ひこ)天皇(すめらみこと)(アワナギ尊だ。)や、その分身の65代目勝(かつ)勝(かち)之(の)男(おの)天(すめら)皇(みこと)(天(すめら)皇(みこと)皇(こう)后(ごう)を召さず。)の皇子こそが、実際としては、66代目豊(とよ)柏(かしわ)木(ぎ)幸(さ)手(て)男(お)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)(足(あし)形(がた)姫(ひめの)尊(みこと)外8名を妃(きさき)とす。)の実像である天(あまの)浮(うき)船乗(ふなの)知(りの)尊(みこと)(イザナギ尊だ。)である、ということなのだ。 

そしてまた、この66代豊(とよ)柏(かしわ)木(ぎ)幸(さ)手(て)男(お)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)であるイザナギ尊には、その先(せん)妃(ぴ)である姫(ひめ)がいたのだ。つまり『足(あし)形(がた)姫(ひめの)尊(みこと)外8名を妃とす。』としては、隠蔽手段なのだ。実際は、足(あし)形(がた)姫(ひめの)尊(みこと)(実際はオロチ族の姫(ひめ)君(ぎみ)のイザナミ尊だ。)のほかに、平原(ひらはら)王(おう)1号墳の被(ひ)葬(そう)者(しゃ)とおぼしき姫(ひめ)で、隠された平原(ひらばる)姫(ひめ)がいた、とも推測されるからなのだ。つまり平原(ひらばる)姫(ひめ)とおぼしき隠された姫(ひめ)(実際は、平(ひら)佐(さ)保(ほ)姫(ひめ)尊(のみこと)の娘だ。)こそが、邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の初代女王の卑(ひ)弥(み)呼(こ)である、ということなのだ。そしてまた、その実娘こそが、これも、邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の女王、2代目卑(ひ)弥(み)呼(こ)なのだ。そしてまた、この2代目卑(ひ)弥(み)呼(こ)こそが、2代目天(あま)照(てらすの)大(おおみ)神(かみ)なのだ。そしてまた、この隠蔽された平原(ひらばる)姫(ひめ)とおぼしき隠された姫(ひめ)(実際は平(ひら)佐(さ)保(ほ)姫(ひめ)尊(のみこと)の娘・邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の初代女王卑(ひ)弥(み)呼(こ)だ。)としては、66代目豊(とよ)柏(かしわ)木(ぎ)幸(さ)手(て)男(お)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)である天(あまの)浮(うき)船乗(ふなの)知(りの)尊(みこと)であるイザナギ尊との2人の間に、そのもうけた実子としては、女性天(すめら)皇(みこと)である67代目姫(ひめの)天(すめら)皇(みこと)の春(はる)建(たけ)日(ひる)姫(ひめの)天皇(すめらみこと)(実際は、2代目天(あま)照(てらすの)大神(おおみかみ)・大(おお)日孁貴(ひるめむち)尊(のみこと)・金(かな)山姫(やまひめ)・神(かみ)皇(む)産(す)霊(びの)尊(みこと)・邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の2代目女王、卑(ひ)弥(み)呼(こ)・土神(つちのかみ)・大地(だいち)の神(かみ)・初代埴(はに)安(やす)姫(ひめ)・火之戸(ほのと)幡(ばた)姫(ひめ)・南(なん)海(かい)津(つ)姫(ひめ)だ。)がいた、ということなのだ。そしてまた、天(あまの)浮(うき)船乗(ふなの)知(りの)尊(みこと)とは、朝(ちょう)鮮(せん)半島から来たことを推測させるが、その後(ご)妃(ひ)のイザナミ尊(奇(き)豊(とよ)日(ひ)姫(ひめ)尊(のみこと)だ。)なのだが、実際は、高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)神(かみ)(実際はオロチ族・竜(りゅう)蛇(じゃ)族(ぞく)・鬼(き)族(ぞく)だ。)の族長の姫(ひめ)君(ぎみ)(足(あし)形(がた)姫(ひめの)尊(みこと)だ。)である、ということなのだ。 

さてそれでは、64代目彦(ひこ)天皇(すめらみこと)の豊(とよ)日(ひる)豊(とよ)足(たり)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)不(ふき)合(あえずの)天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)(その妃(きさき)は、奇(き)豊(とよ)日(ひ)姫(ひめ)尊(のみこと)、平(ひら)佐(さ)保(ほ)姫(ひめ)尊(のみこと)外8名妃(きさき)に立つという。)の実像としては、イザナギ尊の実父のアワナギ尊とも推測されるのだが、その正妃(せいひ)としては、柏(かしわ)木(ぎ)足(たらし)中(なか)姫(ひめの)皇(こう)后(ごう)宮(のみや)(61代目天(すめら)皇(みこと)の皇(ひめ)女(みこ)の奇(き)豊(とよ)日(ひ)別(わけの)姫(ひめ)尊(のみこと)の皇(ひめ)女(みこ)という。)とも伝えているのだ。しかしながら、このアワナギ尊であるとも推測される64代豊(とよ)日豊足彦(ひるとよたりひこの)天皇(すめらみこと)としては、その正妃(せいひ)は、奇(き)豊(とよ)日(ひ)姫(ひめ)尊(のみこと)(実際は、オロチ族・鬼(き)族(ぞく)の姫君の初代の白(しら)山(やま)姫(ひめ)だ。)や、平(ひら)佐(さ)保(ほ)姫(ひめ)尊(のみこと)(アワナミ尊だ。)外8名妃(きさき)に立つとして、複数の妃(きさき)がいた、としているのだ。そこで、このアワナギ尊(4代奈賀(なか)の大(おお)人(うし)様(さま)・64代目の彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の豊(とよ)日(ひと)豊(とよ)足(たり)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)・65代目勝(かつ)勝(かち)之(の)男(おの)天(すめら)皇(みこと)だ。)とも推測される人物の一代前、つまりその実父としては、63代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)である事(こと)代(しろ)国(くに)守(むる)高(たか)彦(ひこ)尊(のみこと)天(すめら)皇(みこと)がいた、というのだが、その実像としては、アメノヨロズ尊(実際は、海部(あまべの)大神(おおかみ)・3代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)だ。)とも推測されるのだ。そしてまた、その妃(きさき)としては、天(あま)津(つ)明(あかる)玉(たま)姫(ひめの)皇(こう)后(ごう)宮(のみや)というのだ。そしてまた、その一代前の父としては、62代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)である天(あめの)豊(とよ)足(たる)別(わけ)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)とも伝えるのだが、その実像としては、アメノカガミ尊(実際は、海部(あまべの)大神(おおかみ)・2代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)だ。)とも推測されるのだ。そしてまた、その妃(きさき)としては、豊(とよ)若(わか)依(より)姫(ひめの)皇(こう)后(ごうの)宮(みや)(60代目姫(ひめ)天(すめら)皇(みこと)の皇(ひめ)女(みこ)だ。)というのだが、この豊(とよ)若(わか)依(より)姫(ひめの)皇(こう)后(ごうの)宮(みや)の実像としては、4代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(昔(そく)脱(た)解(れ))と、その隠された妃(きさき)の阿(あ)孝(ひょ)(阿(あ)尼(ま))夫(ふ)人(じん)(実際は、61代目姫(ひめ)天(すめら)皇(みこと)の豊(とよ)足(たり)日(ひ)明(あかり)姫(ひめの)天(すめら)皇(みこと)だ。その夫は、国(くに)押(おし)勝(かつ)之(の)男(お)尊(のみこと)世(よ)幸(ゆき)男(お)だ。)との間に、そのもうけた娘である、とも推測される、ということなのだ。 

そしてまた、その一代前だが、女性天(すめら)皇(みこと)の61代目姫(ひめ)天(すめら)皇(みこと)である豊(とよ)足(たり)日(ひ)明(あかり)姫(ひめの)天(すめら)皇(みこと)なのだが、その夫は、国(くに)押(おし)勝(かつ)之(の)男(お)尊(のみこと)世(よ)幸(ゆき)男(お)がいた、とも伝えるのだ。そしてまた、58代天(すめら)皇(みこと)の皇子ともいうのだが、これも隠(いん)蔽(ぺい)工(こう)作(さく)なのだ。実際としては、この国(くに)押(おし)勝(かつ)之(の)男(お)尊(のみこと)世(よ)幸(ゆき)男(お)の実像としては、4代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(昔(そく)脱(た)解(れ))である、ということなのだ。そしてまた、海部(あまべの)大神(おおかみ)・初代の奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)とも推測されるのだ。そしてまた、62代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の天(あめの)豊(とよ)足(たる)別(わけ)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)の実像であるアメノカガミ尊(海部(あまべの)大神(おおかみ)・2代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)だ。)としては、実際は、3代新(しら)羅(ぎ)王(おう)である儒(ゆ)理(り)尼(い)師(さ)今(ぐむ)の実子の5代新羅(しらぎ)王(おう)の婆(ぱ)娑(さ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)である、とも推測される、ということなのだ。 

そしてまた、61代目姫(ひめ)天(すめら)皇(みこと)(阿(あ)孝(ひょ)・阿(あ)尼(ま)夫(ふ)人(じん)だ。)の一代前、60代目天(すめら)皇(みこと)なのだが、やっぱり、女性天(すめら)皇(みこと)の姫(ひめ)天(すめら)皇(みこと)である天(あま)照(てる)櫛(くし)豊(とよ)姫(ひめの)天(すめら)皇(みこと)(実際は、初代の天(あま)照(てらすの)大(おおみ)神(かみ)・阿(あ)老(ろ)(女)だ。)である、ということなのだ。そしてまた、その夫としては、瀬(せ)谷(や)幸(さち)玉(たま)尊(のみこと)世(よ)幸(ゆき)男(お)がいた、というのだが、その父としては、56代彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の皇(み)子(こ)である瀬(せ)谷(や)甲(か)斐(い)富(とみ)男(お)尊(のみこと)の皇子とも伝えるのだ。しかしながら、これも隠(いん)蔽(ぺい)工(こう)作(さく)なのだ。つまり60代目姫(ひめ)天(すめら)皇(みこと)(阿(あ)老(ろ)(女)・初代の天(あま)照(てらすの)大(おおみ)神(かみ)だ。)や、61代目姫(ひめ)天(すめら)皇(みこと)(阿(あ)孝(ひょ)・尼(あま)夫人(ふじん)だ。)たち2人の女性天(すめら)皇(みこと)の夫としては、58代天(すめら)皇(みこと)の皇子(61代目姫(ひめ)天(すめら)皇(みこと)の夫だ。)や、56代彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の孫(60代目姫(ひめ)天(すめら)皇(みこと)の夫だ。)というのだが、実際としては、58代彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)(実際は、御(み)中(なか)主(ぬし)幸(さき)玉(たまの)天(すめら)皇(みこと)だ。)~59代目の彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)(実際は、天(あめ)地(つち)明(あかる)玉(たま)主(ぬし)照(てるの)天(すめら)皇(みこと)・斯(さ)蘆(ろ)国(こく)の初代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の朴(ぱく)赫(ひょっ)居(こ)世(せ)・2代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の南(み)解(め)次(ちゃ)次(ちゃ)雄(うん)・高(こう)句(く)麗(り)の朱(ちゅ)蒙(もん)の盟友の1人陜(ひょっ)父(ぽ)だ。)との間には、およそ、1600年以上の開きがあるからなのだ。 

さてそれでは、60代目姫(ひめ)天(すめら)皇(みこと)の天(あま)照(てる)櫛(くし)豊(とよ)姫(ひめの)天(すめら)皇(みこと)(初代の天(あま)照(てらすの)大(おおみ)神(かみ)・阿(あ)老(ろ)(女)だ。)の夫という瀬(せ)谷(や)幸(さち)玉(たま)尊(のみこと)世(よ)幸(ゆき)男(お)なのだが、その実像としては、59代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)(天(あめ)地(つち)明(あかる)玉(たま)主(ぬし)照(てるの)天(すめら)皇(みこと)・斯(さ)蘆(ろ)国(こく)の初代朴(ぱく)赫(ひょっ)居(こ)世(せ)・2代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の南(み)解(め)次(ちゃ)次(ちゃ)雄(うん)・朱(ちゅ)蒙(もん)の盟友の1人陜(ひょっ)父(ぽ)だ。)である、とも推測されるのだ。つまり瀬(せ)谷(や)甲(か)斐(い)富(とみ)男(お)尊(のみこと)(56代彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の皇(み)子(こ)・これは隠(いん)蔽(ぺい)工(こう)作(さく)なのだ。)の孫という瀬(せ)谷(や)幸(さち)玉(たま)尊(のみこと)世(よ)幸(ゆき)男(お)という人物の実像である、ということなのだ。そしてまた、この天(あめ)地(つち)明(あかる)玉(たま)主(ぬし)照(てるの)天(すめら)皇(みこと)である59代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)(朱(ちゅ)蒙(もん)の盟友の1人陜(ひょっ)父(ぽ)だ。)としては、その妃(きさき)としては、糸(いと)玉(たま)姫(ひめの)皇(こう)后(ごうの)宮(みや)(実際は、福岡県の糸(いと)島(しま)半島と関わる糸(い)都(と)国(こく)王(おう)の娘だ。)がいた、というのだが、56代彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)(これは隠(いん)蔽(ぺい)工(こう)作(さく)なのだ。)の娘としては、天(あま)津(つ)綿(め)糸(いと)姫(ひめの)尊(みことの)皇(ひめ)女(みこ)とも伝えるのだ。つまりこの姫こそが、糸(いと)玉(たま)姫(ひめの)皇(こう)后(ごうの)宮(みや)(閼(あ)英(りょん)夫(ふ)人(じん)・倭(わ)の糸(い)都(と)国王(こくおう)の娘だ。)である、とも推測されるのだ。そしてまた、56代彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)(これは隠(いん)蔽(ぺい)工(こう)作(さく)なのだ。)の娘である天(あま)津(つ)綿(め)糸(いと)姫(ひめの)尊(みことの)皇(ひめ)女(みこ)とも同一人物である、ということなのだ。 

つまり結論としては、始祖的人物である59代目天(あめ)地(つち)明(あかる)玉(たま)主(ぬし)照(てるの)天(すめら)皇(みこと)の実像としては、初代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の朴(ぱく)赫(ひょっ)居(こ)世(せ)(実際は朱(ちゅ)蒙(もん)の盟友の1人陜(ひょっ)父(ぽ)だ。)なのだ。そしてまた、その1人目の妃(きさき)としては、糸(いと)玉(たま)姫(ひめの)皇(こう)后(ごうの)宮(みや)であるから、福岡県の糸島(いとしま)半島(はんとう)とも関わる代々の海部(あまべの)大神(おおかみ)一族(その始祖は、筑(ちく)紫(し)王(おう)だ。)の子孫の王の娘で、第1夫人の閼(あ)英(りょん)夫(ふ)人(じん)(初代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の朴(ぱく)赫(ひょっ)居(こ)世(せ)・朱(ちゅ)蒙(もん)の盟友の1人陜(ひょっ)父(ぽ)の妃(きさき)の1人で、倭(わ)の糸(い)都(と)国王(こくおう)の娘だ。)である、ということなのだ。そしてまた、一代前の58代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)とは、御(み)中(なか)主(ぬしの)幸(さき)玉(たまの)天(すめら)皇(みこと)とも伝えるのだが、その妃(きさき)としては、久(く)米(め)照(てる)姫(ひめの)皇(こう)后(ごうの)宮(みや)のほか、村(むら)主(ぬし)幸(さき)玉(たま)姫(ひめ)命(のみこと)や、長(ながの)道(じの)猿(さる)屋(や)姫(ひめ)命(のみこと)(猿(さる)田(た)族(ぞく)だ。)たち13名の妃(きさき)がいた、というのだ。しかしながら、58代目の御(み)中(なか)主(ぬしの)幸(さき)玉(たまの)天(すめら)皇(みこと)とは、『支那(しな)の伏(ふ)義(ぎ)氏(し)や、神(しん)農(のう)氏(し)との交流をしていた。』とも伝えているから、伏(ふ)義(ぎ)氏(し)や、神(しん)農(のう)氏(し)の時代としては、BC1600年以前の時代の人々なのだ。つまり58代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)という御(み)中(なか)主(ぬしの)幸(さき)玉(たまの)天(すめら)皇(みこと)と、次の59代彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)(天(あめ)地(つち)明(あかる)玉(たま)主(ぬし)照(てるの)天(すめら)皇(みこと)だ。)との2人の間には、およそ、1600年以上の断絶がある、ということなのだ。そしてまた、58代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の御(み)中(なか)主(ぬしの)幸(さき)玉(たまの)天(すめら)皇(みこと)の名称としては『記紀(きき)』の最初に登場する天(あまの)御(み)中(なか)主(ぬしの)尊(みこと)とも同じ名称なのだ。そこで、次の59代目天(あめ)地(つち)明(あかる)玉(たま)主(ぬし)照(てるの)天(すめら)皇(みこと)の実像こそが、やっぱり実際は、始祖的な隠蔽された人物で、初代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の朴(ぱく)赫(ひょっ)居(こ)世(せ)(実際は朱(ちゅ)蒙(もん)の盟友の1人陜(ひょっ)父(ぽ)だ。)であるとも推測される、ということなのだ。つまりウガヤフキアエズ王朝(大(わた)海(つ)祇(みの)大(おお)神(かみ)一(いち)族(ぞく)・天(てん)孫(そん)族(ぞく)・猿(さる)田(た)族(ぞく)・筑紫(ちくし)王(おう)の子孫だ。)に、むこ入りした始祖的な人物こそが、この59代目天(あめ)地(つち)明(あかる)玉(たま)主(ぬし)照(てるの)天(すめら)皇(みこと)である、ということなのだ。そしてまた、この人物は、新(しら)羅(ぎ)の発祥の国である斯(さ)蘆(ろ)国(こく)の1・2代国王(実際は、朴(ぱく)赫(ひょっ)居(こ)世(せ)・南(み)解(め)次(ちゃ)次(ちゃ)雄(うん)・高(こう)句(く)麗(り)の朱(ちゅ)蒙(もん)の盟友の1人陜(ひょっ)父(ぽ)だ。)なのだ。そしてまた、この59代天(あめ)地(つち)明(あかる)玉(たま)主(ぬし)照(てるの)天(すめら)皇(みこと)(初代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の朴(ぱく)赫(ひょっ)居(こ)世(せ)・朱(ちゅ)蒙(もん)の盟友の1人陜(ひょっ)父(ぽ)だ。)の第1夫人の妃(きさき)としては、糸(いと)玉(たま)姫(ひめの)皇(こう)后(ごうの)宮(みや)(実際は、福岡県の糸島(いとしま)半島(はんとう)と関わる閼(あ)英(りょん)夫(ふ)人(じん)・初代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の朴(ぱく)赫(ひょっ)居(こ)世(せ)の妃(きさき)の1人・倭(わ)の糸(い)都(と)国王(こくおう)の娘だ。)なのだ。また、この1人目の妃(きさき)の糸(いと)玉(たま)姫(ひめの)皇(こう)后(ごうの)宮(みや)(福岡県の糸島(いとしま)半島と関わる閼(あ)英(りょん)夫(ふ)人(じん)・倭(わ)の糸(い)都(と)国王(こくおう)の娘だ。)がもうけた子こそが、3代新羅(しらぎ)王(おう)である儒(ゆ)理(り)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD24~57年だ。)である、ということなのだ。そしてまた、このほかにも、『太(ふと)玉(だま)日(ひゅう)向(が)姫(ひめ)尊(のみこと)や、成(なる)瀬(せ)クラムチ姫(ひめ)尊(のみこと)など、12名を妃(きさき)とす。』ともいうから、その実像である初代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の朴(ぱく)赫(ひょっ)居(こ)世(せ)(朱(ちゅ)蒙(もん)の盟友の1人陜(ひょっ)父(ぽ)だ。)の時世(じせい)のときに、第1夫人の妃(きさき)の糸(いと)玉(たま)姫(ひめの)皇(こう)后(ごうの)宮(みや)(福岡県の糸島(いとしま)半島と関わる閼(あ)英(りょん)夫(ふ)人(じん)・倭(わ)の糸(い)都(と)国王(こくおう)の娘だ。)のほかに、別(べつ)妃(ぴ)の第2夫人の妃(きさき)の太(ふと)玉(だま)日(ひゅう)向(が)姫(ひめ)尊(のみこと)(実際は、南九州(みなみきゅうしゅう)地方の日(ひゅう)向(が)族(ぞく)の族長の娘だ。)や、第3夫人の妃(きさき)である成(なる)瀬(せ)クラムチ姫(ひめ)尊(のみこと)(実際は、60代天(あま)照(てる)櫛(くし)豊(とよ)姫(ひめの)天(すめら)皇(みこと)・女性天(すめら)皇(みこと)・隠された阿(あ)老(ろ)(女)・初代の天(あま)照(たらすの)大(おおみ)神(かみ)だ。)たち3人の妃(きさき)を娶った、ということなのだ。そしてまた、第2夫人の妃(きさき)の太(ふと)玉(だま)日(ひゅう)向(が)姫(ひめ)尊(のみこと)(実際は、南(みなみ)九(きゅう)州(しゅう)地方の日(ひゅう)向(が)族(ぞく)の族長の娘・女(じょ)国(こく)の娘だ。)との婚姻関係こそが、この頃まで優勢であった南(みなみ)九(きゅう)州(しゅう)地方の日(ひゅう)向(が)族(ぞく)については、北(きた)九(きゅう)州(しゅう)地方の猿(さる)田(た)族(ぞく)(実際は、宗(むな)像(かた)海(かい)人(じん)族(ぞく)・福岡県の博(はか)多(た)湾(わん)の竜(りゅう)宮(ぐう)城(じょう)を拠点する加(か)須(す)屋(や)の奈賀(なが)の大(おお)人(うし)様(さま)の一族・筑紫(ちくし)王(おう)の子孫たちだ。)に支配された、という『逆転の事実』があった、ということなのだ。また、第2夫人の妃(きさき)で、別(べつ)妃(ぴ)の太(ふと)玉(だま)日(ひゅう)向(が)姫(ひめ)尊(のみこと)(南(みなみ)九(きゅう)州(しゅう)地方の日(ひゅう)向(が)族(ぞく)の族長の娘・女(じょ)国(こく)の娘だ。)と、朱(ちゅ)蒙(もん)の盟友の1人、陜(ひょっ)父(ぽ)(斯(さ)蘆(ろ)国(こく)の1・2代国王の朴(ぱく)赫(ひょっ)居(こ)世(せ)・南(み)解(め)次(ちゃ)次(ちゃ)雄(うん)・59代目の彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の天(あめ)地(つち)明(あかる)玉(たま)主(ぬし)照(てるの)天(すめら)皇(みこと)だ。)との2人の間に、そのもうけた実子としては、4代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD57~80年・海部(あまべの)大神(おおかみ)・初代奈(な)賀(が)の大(おお)人(うし)様(さま)だ。)がいた、ということなのだ。 

そしてまた、第3夫人の妃(きさき)の成(なる)瀬(せ)クラムチ姫(ひめ)尊(のみこと)(実際は、60代天(あま)照(てる)櫛(くし)豊(とよ)姫(ひめの)天(すめら)皇(みこと)・女性天(すめら)皇(みこと)・初代の天(あま)照(てらすの)大(おおみ)神(かみ)・隠された阿(あ)老(ろ)(女)だ。)との間には、61代目姫(ひめ)天(すめら)皇(みこと)である豊(とよ)足(たり)日(ひ)明(あかり)姫(ひめの)天(すめら)皇(みこと)・女性天(すめら)皇(みこと)の阿(あ)孝(ひょ)夫(ふ)人(じん)(阿(あ)尼(ま)夫(ふ)人(じん))をもうけたのだ。そしてまた、この阿(あ)孝(ひょ)夫(ふ)人(じん)(阿(あ)尼(ま)夫(ふ)人(じん))と4代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(昔(そく)脱(た)解(れ))・AD57~80年・海部(あまべの)大神(おおかみ)・初代奈(な)賀(が)の大(おお)人(うし)様(さま)だ。)との間に、そのもうけた娘を、3代新羅(しらぎ)王(おう)である儒(ゆ)理(り)尼(い)師(さ)今(ぐむ)こそが娶っていた、ということなのだ。そしてまた、そのもうけた実子である62代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の天(あめの)豊(とよ)足(たる)別(わけ)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)こそがアメノカガミ尊の国(くに)押(おし)勝(かつ)之(の)男(お)尊(のみこと)世(よ)幸(ゆき)男(お)(海部(あまべの)大神(おおかみ)・2代奈(な)賀(が)の大人(おおうし)様(さま)だ。)である、ということなのだ。また、5代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の婆(ぱ)娑(さ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)なのだ。そしてまた、その妃(きさき)としては、皇(こう)后(ごう)の豊(とよ)若(わか)依(より)姫(ひめの)皇(こう)后(ごう)のほかに、つまり津(つ)倉(くら)雄(お)姫(ひめの)命(みこと)・建(たけ)依(より)玉(たま)姫(ひめの)命(みこと)ほか12名もの妃(きさき)がいた、ともいうが、実際は、オロチ族の始祖、初代高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)神(かみ)(ハコク二ノ尊・豊(とよ)国(くん)主(ぬの)命(みこと)・新羅(しらぎ)の金(きむ)氏(し)の始祖、金(きむ)閼(ある)智(ち)・東(ひがし)扶(ふ)余(よ)王(おう)朝(ちょう)の15代依(い)羅(ら)王(おう)だ。)の娘の建(たけ)依(より)玉(たま)姫(ひめの)命(みこと)を娶っていた、ということなのだ。つまり初代神武(じんむ)天皇(てんのう)の以前のウガヤフキアエズ王朝(実際とは、大(わた)海(つ)祇(みの)大(おお)神(かみ)一(いち)族(ぞく)・天(てん)孫(そん)族(ぞく)・猿(さる)田(た)族(ぞく)・筑(ちく)紫(し)王(おう)の子孫だ。)の『次の天(てん)皇(のう)位(い)』の継承(けいしょう)者(しゃ)なのだが、59代~73代までの人物としては、次の通りである、と推測されるということなのだ。 

●59代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の不(ふき)合(あえず)天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)(実際は天(あめ)地(つち)明(あかる)玉(たま)主(ぬし)照(てるの)天(すめら)皇(みこと)・斯(さ)蘆(ろ)国(こく)の初代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の朴(ぱく)赫(ひょっ)居(こ)世(せ)・2代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の南(み)解(め)次(ちゃ)次(ちゃ)雄(うん)・高(こう)句(く)麗(り)の朱(ちゅ)蒙(もん)の盟友の1人、陜(ひょっ)父(ぽ)だ。)~ 

●60代目姫(ひめ)天(すめら)皇(みこと)(実際は天(あま)照(てる)櫛(くし)豊(とよ)姫(ひめの)天(すめら)皇(みこと)・女性天(すめら)皇(みこと)・阿(あ)老(ろ)(女)・初代の天(あま)照(てらすの)大(おおみ)神(かみ)だ。)~ 

●61代目姫(ひめ)天(すめら)皇(みこと)(実際は豊(とよ)足(たり)日(ひ)明(あかり)姫(ひめの)天(すめら)皇(みこと)・女性天(すめら)皇(みこと)・阿(あ)孝(ひょ)・阿(あ)尼(ま)夫人(ふじん)・4代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(昔(そく)脱(た)解(れ))・海部(あまべの)大神(おおかみ)・初代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)の妃(きさき)だ。)~ 

●62代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の不(ふき)合(あえず)天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)(実際は天(あめの)豊(とよ)足(たる)別(わけ)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)・アメノカガミ尊・海部(あまべの)大神(おおかみ)・2代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)・5代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の婆(ぱ)娑(さ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)・3代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の儒(ゆ)理(り)尼(い)師(さ)今(ぐむ)の実子だ。また、阿(あ)孝(ひょ)・阿(あ)尼(ま)夫人(ふじん)の娘むこだ。)~ 

●63代目不(ふき)合(あえず)天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)(実際は事(こと)代(しろ)国(くに)守(もり)高(たか)彦(ひこ)尊(のみこと)天(すめら)皇(みこと)・アメノヨロズ尊・海部(あまべの)大神(おおかみ)・3代奈(な)賀(が)の大人(おおうし)様(さま)・6代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の祇(ち)摩(ま)尼(い)師(さぐ)今(む)だ。)~ 

●64代目不(ふき)合(あえず)天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)(実際は豊(とよ)日豊足彦(ひるとよたりひこの)天(すめら)皇(みこと)・アワナギ尊・海部(あまべの)大神(おおかみ)・4代奈賀(なか)の大人(おおうし)様(さま)・7代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の逸(いる)聖(そん)尼(い)師(さ)今(ぐむ)だ。)~ 

●65代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の不(ふき)合(あえず)天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)(実際は勝(かつ)勝(かち)之(の)男(おの)天(すめら)皇(みこと)・アワナギ尊の分身・海(あま)部(べの)大(おお)神(かみ)・4代奈(な)賀(か)の大人(おおうし)様(さま)・7代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の逸(いる)聖(そん)尼(い)師(さ)今(ぐむ)だ。)~ 

●66代目不(ふき)合(あえず)天(あまの)日嗣(ひつぎの)天皇(すめらみこと)(実際は豊(とよ)柏(かしわ)木(ぎ)幸(さ)手(て)男(お)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)・イザナギ尊・海部(あまべの)大神(おおかみ)・5代奈(な)賀(か)の大人(おおうし)様(さま)・8代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の阿(あ)達(だる)羅(ら)尼(い)師(さ)今(ぐむ)だ。)~ 

●67代目不(ふき)合(あえず)天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)(実際は春(はる)建(たけ)日(ひる)姫(ひめの)天皇(すめらみこと)・女性天(すめら)皇(みこと)・天(あま)照(てらすの)大神(おおみかみ)・オオヒルメムチ尊・アマサカルムカツヒメ尊・邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の女王・2代目卑(ひ)弥(み)呼(こ)・神(かみ)皇(む)産(す)霊(び)尊(のみこと)・火之戸(ほのと)幡(ばた)姫(ひめ)・南(なん)海(かい)津(つ)姫(ひめ)・金(かな)山姫(やまひめ)・初代埴(はに)安(やす)姫(ひめ)・2代目天(あま)照(てらすの)大(おおみ)神(かみ)だ。)~ 

●68代目不(ふき)合(あえず)天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)(実際は天津(あまつ)日(ひ)高(たか)日(ひ)子(こ)宗(むな)像(かた)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)・高(たか)天(まが)原(はら)建(たけ)彦(ひこの)尊(みこと)・世(よ)幸男(ゆきお)・スサノオ尊・金(かな)山彦(やまひこ)尊(のみこと)・埴(はに)安彦(やすひこ)尊(のみこと)・神(かむ)賀(か)茂(もの)建(たけ)角(つの)身(み)命(のみこと)・大陶祇(おおみかつち)命(のみこと)・火(ひ)皇(む)産(す)霊(び)尊(のみこと)・海部(あまべの)大神(おおかみ)・6代奈賀(なか)の大人(おおうし)様(さま)・新(しら)羅(ぎ)王(おう)の9代伐(ぼ)休(りゅ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)だ。)~ 

●69代目不(ふき)合(あえず)天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)(実際は神(かむ)足(たる)別(わけ)豊(とよ)鋤(すきの)天(すめら)皇(みこと)・ウガ御魂(のみたま)尊(のみこと)・久(く)延(え)彦(びこ)命(のみこと)・少(すくな)彦(ひこ)名(な)命(のみこと)・海部(あまべの)大神(おおかみ)・7代奈賀(なか)の大人(おおうし)様(さま)・新(しら)羅(ぎ)王(おう)の10代奈(ね)解(へ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)だ。)~ 

●70代目不(ふき)合(あえず)天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)(実際は神(かむ)心(ころ)伝(ふて)物(もの)部(のべの)建(たけの)尊(みこと)・海神(かいじん)の波(なみ)提(さげ)祇(きの)彦(みこと)・早(さ)草(くさ)綿(わた)守(もりの)尊(みこと)・大(おお)国(くに)主(ぬし)命(のみこと)・天津(あまつ)彦根(ひこね)命(のみこと)・初代宇(う)佐(さ)津(つ)彦(ひこ)命(のみこと)・大(おお)屋(や)彦(ひこ)命(のみこと)・五(い)十(そ)猛(たける)命(のみこと)・大(おお)年(とし)命(のみこと)・初代大(おお)物(もの)主(ぬし)神(かむ)饒(にぎ)速(はや)日(ひ)命(のみこと)・思(おもひ)兼(かね)神(のかみ)・海神(かいじん)豊(とよ)玉(たま)彦(ひこ)命(のみこと)・大(おお)御(み)食(け)持(もち)命(のみこと)・ニニギ尊・葛飾(かつらぎの)一言(ひとこと)主命(ぬしのみこと)・三(み)島(しまの)溝(みぞ)咋(くい)耳(みみ)命(のみこと)・賀(か)茂(もの)建(たけ)角(つの)身(み)命(のみこと)・賀(か)茂(もの)御(み)祖(おやの)神(かみ)・大(おお)物(もの)主(ぬし)櫛(くし)甕(みか)玉(たま)命(のみこと)・大(おお)国(くに)魂(みたま)命(のみこと)・海部(あまべの)大神(おおかみ)・8代奈賀(なか)の大人(おおうし)様(さま)・新(しら)羅(ぎ)王(おう)の11代助(ちょ)賁(ぶん)尼(い)師(さ)今(ぐむ)だ。)~ 

●71代目不(ふき)合(あえず)天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)(実際は天(あま)照(てる)国(くに)照(てる)日(ひ)子(こ)百(もも)日(ひ)臼(うす)杵(きね)尊(のみこと)天(すめら)皇(みこと)・天火(あまのほ)明(あかり)命(のみこと)・ヒコホホデミ尊・ヒノハヤヒ命・火(ひの)雷(いかづち)命(のみこと)・大(おお)山(やま)咋(ぐい)命(のみこと)・宇治土(うじのつちの)公(きみ)の祖(そ)神(しん)・猿田彦(さるたひこの)大神(おおかみ)・活(いく)津(つ)彦(ひこ)根(ね)命(のみこと)・2代大(おお)物(もの)主(ぬし)饒(にぎ)速(はや)日(ひ)命(のみこと)・高賀茂(たかかも)大明神(だいみょうじん)・土佐(とさ)の高賀茂(たかかも)大社(たいしゃ)の祭神(さいじん)・海部(あまべの)大神(おおかみ)・9代奈賀(なか)の大人(おおうし)様(さま)・新(しら)羅(ぎ)王(おう)の12代沾(ちょ)解(め)尼(い)師(さ)今(ぐむ)だ。)~ 

●72代目不(ふき)合(あえず)天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)(実際は彦五(ひこい)瀬(っせの)尊(みこと)天皇(すめらみこと)・オオワダツイセヒコ尊・天(あまの)香山(かごやま)命(のみこと)・ウガヤフキアエズ尊・ト部(とべ)・中臣(なかとみ)氏(し)の祖(そ)、天児(あまのこ)屋根(やね)命(のみこと)・熊野(くまの)忍(おし)隅(ほみ)命(のみこと)・御(み)出(いず)石(し)櫛(くし)甕(みか)玉(たま)命(のみこと)・賀(か)茂(もの)別(わけ)雷(いかづちの)神(かみ)・大(おお)雷(いかづち)命(のみこと)・御年(みとし)命(のみこと)・若(わか)山(やま)咋(ぐい)命(のみこと)・海部(あまべの)大神(おおかみ)・10代奈賀(なか)の大人(おおうし)様(さま)・新(しら)羅(ぎ)王(おう)の13代味(み)鄒(ちゅ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)だ。)~ 

●73代目不(ふき)合(あえず)天(あまの)日嗣(ひつぎの)天皇(すめらみこと)(実際は狭(さぬ)野(の)尊(みこと)・ヒタカサヌシ尊・カムヤマトイワレヒコ尊・初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)・宇(う)摩(ま)志(し)痲(ま)治(じ)命(のみこと)・忌部(いんべ)氏(し)の祖(そ)、天(あまの)太(ふと)玉(だま)命(のみこと)・天目一箇(あまのめひとつ)命(のみこと)・新(しら)羅(ぎ)王(おう)の14代儒(ゆ)礼(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)だ。)~とも系譜は続く、ということなのだ。 

さてそれでは、59代目天(あめ)地(つち)明(あかる)玉(たま)主(ぬし)照(てるの)天(すめら)皇(みこと)の正(せい)妃(ひ)という糸(いと)玉(たま)姫(ひめの)皇(こう)后(ごうの)宮(みや)(閼(あ)英(りょん)夫(ふ)人(じん)だ。)としては、56代彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の天(あま)津(つ)成(なる)瀬(せ)男(おの)天(すめら)皇(みこと)の娘の天(あま)津(つ)綿(め)糸(いと)姫(ひめの)尊(みことの)皇(ひめ)女(みこ)(これは隠(いん)蔽(ぺい)工(こう)作(さく)なのだ。)ともいうのだが、また、この56代彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の天(あま)津(つ)成(なる)瀬(せ)男(おの)天(すめら)皇(みこと)だが、『天(すめら)皇(みことの)羽(は)衣(ごろも)に、日(ひ)章(しょう)16菊(きく)形(がた)紋(もん)付(つき)で巡(じゅん)幸(こう)す。』とも伝えるのだ。また、次の57代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)だが、天(あま)津(つ)照(てる)雄(お)之(の)男(お)天(すめら)皇(みこと)不(ふき)合(あえず)天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)とも伝えるのだ。そしてまた、その妃(きさき)としては、田(た)村(むら)主(ぬし)照(てる)姫(ひめの)皇(こう)后(ごうの)宮(みや)(53代彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の皇子(みこ)の田(た)村(むら)主(ぬし)戸(と)門(かどの)尊(みこと)の皇(ひめ)女(みこ)だ。)ともいうのだ。また、次の、58代目御(み)中(なか)主(ぬしの)幸(さき)玉(たまの)天(すめら)皇(みこと)とは、『古(こ)事(じ)記(き)』や、『日(に)本(ほん)書(しょ)紀(き)』の『神(しん)代(だい)記(き)』の時代に最初に登場してくる天(あめの)御(み)中(なか)主(ぬしの)尊(みこと)とも同一名称の人物なのだ。そしてまた、『支那(しな)の伏(ふ)義(ぎ)氏(し)や、神(しん)農(のう)氏(し)との交流をしていた。』というからしても、紀元前1600年以前の時代の人物なのだ。つまり59代目天(あめ)地(つち)明(あかる)玉(たま)主(ぬし)照(てるの)天(すめら)皇(みこと)とは、やっぱり始祖的な人物なのだ。また、隠される海(あま)部(べの)大(おお)神(かみ)の一族(筑(ちく)紫(し)王(おう)の子孫だ。)の娘を、1人目の妃(きさき)とした新(しら)羅(ぎ)の発祥の国の斯(さ)蘆(ろ)国(こく)の1・2代国王(朴(ぱく)赫(ひょっ)居(こ)世(せ)・南(み)解(め)次(ちゃ)次(ちゃ)雄(うん)・朱(ちゅ)蒙(もん)の盟友の1人陜(ひょっ)父(ぽ)だ。)である、とも推測される、ということなのだ。 

なぜならば、『太白(たいはく)逸史(いつし)』の中の渤(ぼっ)海国(かいこく)の『大(たい)震(しん)国(こく)本(ほん)紀(き)』を見れば、高句(こうく)麗(り)国(こく)の2代瑠(ゆ)璃(り)明(めい)王(おう)(BC19~AD18年だ。)の時代に、最高官職の大(て)輔(ぽ)となった陝(ひょっ)父(ぽ)(実際は、朱(ちゅ)蒙(もん)の3人の盟友の1人だ。)は『AD3年に、高(こう)句(く)麗(り)の2代瑠(ゆ)璃(り)明(みょん)王(おう)を諫めて不仲になり、南韓へと去った。』というからだ。そしてまた、『高句(こうく)麗(り)を出奔(しゅつほん)して南韓(なんかん)に至り、更に狗(く)邪(や)韓国(からくに)(実際は辰(しん)韓(かん)の期(さ)蘆(ろ)国(こく)だ。)に移った。次いで、日本の九州の阿(あ)蘇(そ)山(さん)に移住して多婆(たば)羅(ら)国(こく)(熊本県だ。)を建て、その始祖となった。』ともいうからなのだ。そしてまた、この『太白(たいはく)逸史(いつし)』によれば、『東扶(ふ)餘(よ)王朝の15代依(い)羅(ら)王(おう)が、鮮(せん)卑(ぴ)族(ぞく)らに国を追われ、その部下、数千人を率いて、海を渡り、倭人(わじん)を平定(へいてい)して、その王(倭(わ)王(おう)だ。)となった。』とも伝ているのだ。そこで、東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)王朝(おうちょう)なのだが、7代金(くむ)蛙(あ)王(おう)(無胥(むて)だ。)~8代帯素(てそ)王(おう)~9代曷思(かるさ)王(おう)~10代都頭(とず)王(おう)~11代尉(い)仇(きゅう)台(だい)王(おう)~12代簡位(かんい)居(い)王(おう)~13代麻余(まよ)王(おう)~14代依(い)慮(りょ)王(おう)~15代依(い)羅(ら)王(おう)~16代玄(げん)王(おう)~17代蔚(やす)王(おう)とも系譜は続くのだ。つまり15代依(い)羅(ら)王(おう)としては、8代帯素(てそ)王(おう)の弟の9代曷思(かるさ)王(おう)から、6代目の王である、ということなのだ 

さてそこで、朝(ちょう)鮮(せん)の歴史書『桓(かん)檀(だん)古記(こき)』の中の、『太白(たいはく)逸史(いつし)』の『壇(だん)君(くん)世紀(よき)』によれば、『壇(だん)君(くん)の王国という太(て)白(ぺく)山(ざん)(白(べく)頭(とう)山(ざん)だ。)のふもとの朝(ちょう)鮮(せん)族(ぞく)の住む自治区の境界線付近を中心とした慕(ぼ)韓(かん)・真(しん)韓(かん)・番(ばん)韓(かん)の3国からなる伝説の国家があった。』というのだ。そしてまた、壇(だん)君(くん)王(おお)倹(けん)(実際は倍(ばい)達(たつ)桓(かん)雄(ゆう)・有(ゆう)帳(ちょう)・熊族(ゆうぞく)の長(ちょう)・3代孝(こう)武(ぶ)皇(こう)帝(てい)だ。)なのだが、『黎(れいの)元興(げんこう)(元(げん)興(こう)寺(じ)と関わるのだ。)の子の竺(ち)区(く)宋孫(そうそん)王(おう)(実際は、竺(じく)達(たつ)王(おう)・竹(ちく)支(し)王(おう)・筑紫(ちくし)王(おう)だ。)というものに命じて、馬(は)韓(やん)(朝鮮の南部地域だ。)の地を治めさせた。』というのだ。しかしながら、『この元興(げんこう)が都としたのは、大同(だいどう)江(こう)の畔(ほとり)で、今の平壌(ぴょんやん)近傍(きんぼう)のかつての楽浪(らくろう)郡(ぐん)の地であった。』ともいうのだ。また、『その後、弓(きゅう)忽(こつ)という王が立って、陝(せん)野(の)侯(こう)という諸侯(しょこう)に命じ、船(ふね)500隻(せき)を以って、海(かい)島(とう)の倭人(わじん)を平定(へいてい)させた。』というのだ。 

つまり陝(せん)野(の)侯(こう)=陝(ひょっ)父(ぽ)なのだ。なぜならば、高(こう)句(く)麗(り)の始祖の朱(ちゅ)蒙(もん)(東(とん)明(みょん)聖(そん)王(おう)だ。)の実子の2代瑠(ゆ)璃(り)明(みょん)王(おう)が、AD9年に黄(こう)龍(りゅう)国(こく)(実際は中国の四(し)川(せん)省(しょう)のチべット族の国だ。)から贈られた弓を折った太子の解(へ)明(みょん)を自決させた、というからなのだ。そしてまた、弓(きゅう)忽(こつ)という王の忽(こつ)とは、ものごとをかえりみない意味なのだ。そこで、朱(ちゅ)蒙(もん)の3人の盟友の1人陝(ひょっ)父(ぽ)とは、朱(ちゅ)蒙(もん)の死後、最高官職の大(て)輔(ぽ)になった人物なのだが、AD3年には、2代瑠(ゆ)璃(り)明(みょん)王(おう)を諫めて不仲になり、南韓へ去ったという。つまり中国の後(ご)韓(かん)帝(てい)国(こく)に対する政策の不一致なのだ。なぜならば、AD14年には、朱(ちゅ)蒙(もん)の3人の盟友の残りの2人、鳥(お)伊(い)、摩(ま)離(り)たちは、この2代瑠(ゆ)璃(り)明(みょん)王(おう)の命(めい)で、中国の遼(りょう)東(とう)郡(ぐん)の梁(やん)貊(めく)国(こく)を討伐しているからなのだ。つまり最高官職の大(て)輔(ぽ)は、都合よく追い出されたのだ。そこで、『太(たい)白(はく)逸(いつ)史(し)』によれば、『高句(こうく)麗(り)国(こく)の始祖の朱(ちゅ)蒙(もん)(BC37~BC19年・40歳で死去。)が東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)から逃亡した時、3人の盟友(めいゆう)がこれに従った、そしてまた、『その1人に陝(ひょっ)父(ぽ)がいた。後に陝(ひょっ)父(ぽ)は、AD3年に、2代瑠(ゆ)璃(り)明(みょん)王(おう)(BC19~AD18年だ。)を諫めて不仲になって、高句(こうく)麗(り)を出奔(しゅつほん)して南韓(なんかん)に至り、更に狗(く)邪(や)韓国(からくに)(実際は辰(しん)韓(かん)の盟(めい)主(しゅ)国(こく)の期(さ)蘆(ろ)国(こく)だ。)に移った。次いで、日本の九州の阿(あ)蘇(そ)山(さん)に移住して多婆(たば)羅(ら)国(こく)(熊本県だ。)を建て、その始祖となった。多婆(たば)羅(ら)は別の名を多羅(たら)と言った。多婆(たば)羅(ら)(これは、分国の韓(かん)半島の多婆(たば)羅(ら)国(こく)だ。)は、後に、任那(みまな)・連(れん)政(せい)(任那(みまな)は、10国に分かれ、その統一国名を連(れん)政(せい)といった、という。)と合併して、多婆(たば)羅(ら)が、これを支配した。この連(れん)合(ごう)国(こっ)家(か)は、海に臨むものが3国、内陸部のものが7国だった。』というのだ。また、『はじめは、弁(べん)辰(しん)(弁(べん)韓(かん)・辰(しん)韓(かん)だ。)の狗(く)邪(や)国(こく)人(じん)が先住しており、これが狗(く)邪(や)韓国(からくに)(実際は、南韓(なんかん)の国の辰(しん)韓(かん)の盟(めい)主(しゅ)国(こく)である期(さ)蘆(ろ)国(こく)だ。)である。』ともいうのだ。そしてまた、『多婆(たば)羅(ら)国(こく)は、早くから高句(こうく)麗(り)と和親していたが、次第に高句(こうく)麗(り)に服属する形となった。多婆(たば)羅(ら)国(こく)(主に、熊本県の分国だ。)は、安羅(あら)国(こく)(主に、佐賀県の吉野(よしの)ケ里(がり)遺跡(いせき)だ。)と隣り合っていたが、はじめ熊襲(くまそ)城(じょう)を保っていた。これは、今、九州の熊本(くまもと)城(じょう)である。』ともいうのだ。つまり朱(ちゅ)蒙(もん)の盟友(めいゆう)の1人陝(ひょっ)父(ぽ)こそが、倭(わ)国(こく)の北九州地方の阿(あ)蘇(そ)山(さん)周辺に移住して、多婆(たば)羅(ら)国(こく)(主に、熊本県の分国だ。)を建てた始祖なのだ。また、多婆(たば)羅(ら)国(こく)(韓(かん)半島の多婆(たば)羅(ら)国(こく)で分国だ。)が支配した任那(みまな)(実際は韓(かん)半島の連(れん)政(せい)だ。)の連合(れんごう)国家(こっか)とは、『弁(べん)辰(しん)(弁(べん)韓(かん)・辰(しん)韓(かん)だ。)の狗(く)邪(や)国(こく)人(じん)が先住しており、これが、狗(く)邪(や)韓国(からくに)(実際は弁(べん)韓(かん)・辰(しん)韓(かん)の任那(みまな)の地域だ。)なのだ。そしてまた、『多婆(たば)羅(ら)は別の名を多羅(たら)と言った。多(た)婆(ば)羅(ら)は、後に、任那(みまな)・連(れん)政(せい)10国に分かれるが、その統一国名を連(れん)政(せい)といった、というと合併して、多(た)婆(ば)羅(ら)(韓(かん)半島の分国の多婆(たば)羅(ら)国(こく)だ。)が、これを支配した。この連合(れんごう)国家(こっか)は、海に臨むものが3国、内陸部のものが7国だった。』というのだ。また、『九州の熊襲(くまそ)城(じょう)を拠点する多婆(たば)羅(ら)国(こく)の分(ぶん)国(こく)(実際は分(ぶん)国(こく)とは属(ぞっ)国(こく)ではないから、もう一方の多婆(たば)羅(ら)国(こく)(熊本県の分国だ。)である。』というのだ。つまり韓(かん)半島の弁(べん)辰(しん)の狗(く)邪(や)韓国(からくに)の地域には、もう一方の多婆(たば)羅(ら)国(こく)が実在した、とも伝えている、ということなのだ。そしてまた、新(しら)羅(ぎ)国(こく)の建国なのだが、この辰(しん)韓(かん)の一小国家として、BC57年に、斯(さ)蘆(ろ)国(こく)が誕生した、というのだが、また、狗(く)邪(や)韓国(からくに)(弁(べん)韓(かん)・辰(しん)韓(かん)の地域だ。)としては、実際は九州の熊襲(くまそ)城(じょう)を拠点とする多婆(たば)羅(ら)国(こく)の分国(分(ぶん)国(こく)は属(ぞっ)国(こく)ではないから、もう一方の多婆(たば)羅(ら)国(こく)・斯(さ)蘆(ろ)国(こく)を主とする連合国家あった。)ということなのだ。そしてまた、初代多婆(たば)羅(ら)国(こく)王(おう)という高(こう)句(く)麗(り)の大(て)輔(ぽ)の陝(ひょっ)父(ぽ)こそが、やっぱり狗(く)邪(や)韓国(からくに)(南韓(なんかん)の国の辰(しん)韓(かん)の盟(めい)主(しゅ)国(こく)の期(さ)蘆(ろ)国(こく)・弁(べん)辰(しん)の狗(く)邪(や)韓国(からくに)だ。)の新羅(しらぎ)王(おう)朝(ちょう)の始祖の赫(ひょっ)居(きょっ)世(こせ)居(こ)西(ん)干(がん)(初代新羅(しらぎ)王(おう)の朴(ぱく)赫(ひょっ)居(きょっ)世(こせ)・BC57~AD4年・実際は2代南(な)解(め)次(ちゃ)次(ちゃ)雄(うん)は分身だ。)である、ということなのだ。そしてまた、新(しら)羅(ぎ)王(おう)朝(ちょう)としては、~●2代新羅(しらぎ)王(おう)の南(な)解(め)次(ちゃ)次(ちゃ)雄(うん)(AD4~24年・初代・2代の多婆(たば)羅(ら)国(こく)王(おう)の陝(ひょっ)父(ぽ)・59代目の彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の天(あめ)地(つち)明(あかる)玉(たま)主(ぬし)照(てるの)天(すめら)皇(みこと)の分身だ。)~●3代新羅(しらぎ)王(おう)の儒(ゆ)理(り)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD24~57年だ。)~●4代新羅(しらぎ)王(おう)の脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(昔(そく)脱(た)解(れ)・AD57~80年・海部(あまべの)大神(おおかみ)・初代奈(な)賀(が)の大(おお)人(うし)様(さま)だ。)~●5代新羅(しらぎ)王(おう)の婆(ぱ)娑(さ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD80~112年・アメノカガミ尊・62代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の天(あめの)豊(とよ)足(たる)別(わけ)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)・海(あま)部(べの)大(おお)神(かみ)・2代奈(な)賀(が)の大(おお)人(うし)様(さま)だ。)~●6代新羅(しらぎ)王(おう)の祇(ち)摩(ま)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD112~134年・アメノヨロズ尊・63代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の事(こと)代(しろ)国(くに)守(もり)高(たか)彦(ひこ)尊(のみこと)天(すめら)皇(みこと)・海部(あまべの)大神(おおかみ)・3代奈(な)賀(が)の大(おお)人(うし)様(さま)だ。)~●7代新羅(しらぎ)王(おう)の逸(いる)聖(そん)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD134年~154年・アワナギ尊・64代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の豊(とよ)日(ひ)豊(とよ)足(たり)彦(ひこ)尊(のみこと)天(すめら)皇(みこと)・65代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の勝(かつ)勝(かち)之(の)男(おの)天(すめら)皇(みこと)・アワナギ尊の分身・海(あま)部(べの)大(おお)神(かみ)・4代奈(な)賀(が)の大(おお)人(うし)様(さま)だ。)~●8代新羅(しらぎ)王(おう)の阿(あ)達(だる)羅(ら)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD154~184年・イザナギ尊・豊(とよ)柏(かしわ)木(ぎ)幸(さ)手(て)男(お)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)・海(あま)部(べの)大(おお)神(かみ)・5代奈(な)賀(が)の大(おお)人(うし)様(さま)だ。『三(さん)国(ごく)史(し)記(き)』では倭(わ)国(こく)の女王の(初代)卑(ひ)弥(み)呼(こ)が使者を送ったというが、実際に卑(ひ)弥(み)呼(こ)が大陸と交流したのは60年以上後という。)~●9代新羅(しらぎ)王(おう)の伐(ぼ)休(りゅ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD184~196年・スサノオ尊・天津(あまつ)日(ひ)高(たか)日(ひ)子(こ)宗(むな)像(かた)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)・高(たか)天(まが)原(はら)建(たけ)彦(ひこの)尊(みこと)・世(よ)幸男(ゆきお)・海(あま)部(べの)大(おお)神(かみ)・6代奈(な)賀(が)の大(おお)人(うし)様(さま)だ。)とも続く、ということなのだ。 

そしてまた、4代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の『昔(そく)脱(た)解(れ)の始祖(しそ)伝説(でんせつ)』によれば、『倭(わ)の多婆(たば)羅(ら)国(こく)王(おう)に嫁いだ女(じょ)国(こく)(日本の南方か、或は西チベットの地域だが、実際は、日(ひ)向(ゆぅが)国(こく)の王女の太(ふと)玉(だま)日(ひゅう)向(が)姫(ひめ)尊(のみこと)だ。)の王女が卵を産み、不吉だとした王は卵を箱に入れて海に捨てさせた。はじめ箱は金官伽耶(きんかんかや)(実際は、任(みま)那(な)国(こく)だ。)の海岸に流れ着いたが伽耶(かや)の人々は怪しんで拾ず、辰(しん)韓(かん)の海岸でその海辺に住むに阿(あ)珍(じん)義(うぃ)先(そん)(実際は、阿(あ)老(ろ)・初代の天(あま)照(てらすの)大(おおみ)神(かみ)だ。)に拾われた。彼女が箱を開ける少年がいたので、その子を引き取って育てた。』というのだ。また、この少年が、4代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD57~80年だ。)なのだ。つまり阿(あ)珍(じん)義(うぃ)先(そん)である阿(あ)老(ろ)(初代の天(あま)照(てらすの)大(おおみ)神(かみ)だ。)の実娘の阿(あ)孝(ひょ)夫(ふ)人(じん)(阿(あ)尼(ま)夫(ふ)人(じん)だ。)こそが、その異母兄の4代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(初代奈(な)賀(が)の大(おお)人(うし)様(さま)だ。 )の妃(きさき)ともなった、ということなのだ。 

さてそれでは、辰(しん)韓(かん)の一小国家として、BC57年に誕生したという斯(さ)蘆(ろ)国(こく)の始祖の赫(ひょっ)居(きょっ)世(こせ)居(こ)西(ん)干(がん)(朴(ぱく)赫(ひょっ)居(きょっ)世(こせ)・BC57~AD4年だ。)だが、『朴(ぱく)赫(ひょっ)居(きょっ)世(こせ)の始祖伝説』で見れば、『蘿(な)井(じょん)のそばの林の中に白馬がいた。六村の長たちが近づいてみると、白馬は消え、大きな瓢(ひさご)のような卵があった。卵を割ってみると中から男の子が出てきた。その子が13歳になった時、六村の長は彼を王に擁立した。』というのだ。つまり、この『朴(ぱく)赫(ひょっ)居(きょっ)世(こせ)の始祖伝説』としては、高(こう)句(く)麗(り)の始祖の朱(ちゅ)蒙(もん)(BC37~BC19年だ。)や、また、百(くだ)済(ら)の始祖の温(おん)祚(す)王(おう)(BC18~AD28年だ。)たちの伝説から見れば、その始祖伝説は、曖(あい)昧(まい)なものなのだ。そこで、AD3年に、『高(こう)句(く)麗(り)、2代瑠(ゆ)璃(り)明(みょん)王(おう)を諫めて不仲になり、南韓へ去った。』という最高官職の大(て)輔(ぽ)であった初代多婆(たば)羅(ら)国(こく)王(おう)の陝(ひょっ)父(ぽ)こそが、新羅(しらぎ)王(おう)朝(ちょう)の始祖である赫(ひょっ)居(きょっ)世(こせ)居(こ)西(ん)干(がん)(朴(ぱく)赫(ひょっ)居(きょっ)世(こせ)・BC57~AD4年・実際は2代南(な)解(め)次(ちゃ)次(ちゃ)雄(うん)の分身だ。)とも見られる、ということなのだ。 

さてそれでは、古代天皇家が新羅(しらぎ)王家(おうけ)と同一である証(しょう)拠(こ)としては、まず新羅(しらぎ)と、スサノオ尊との関係なのだが、スサノオ尊は、新(しら)羅(ぎ)明(みょう)神(じん)(牛(ご)頭(ず)天(てん)王(おう)だ。)で朝(ちょう)鮮(せん)を治めた、というからだ。また、斯(さ)蘆(ろ)国(こく)の始祖の赫(ひょっ)居(きょっ)世(こせ)居(こ)西(ん)干(がん)(朴(ぱく)赫(ひょっ)居(きょっ)世(こせ)・BC57~AD4年だ。)とは、稲(いな)氷(いの)命(みこと)(初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)の兄だが同一人物だ。)とする説があるというからだ。また、天(あまの)日(ひ)槍(ぼこの)命(みこと)とは、新(しら)羅(ぎ)王(おう)の稲(いな)飯(いの)命(みこと)の子孫であるというからだ。つまりこれらの伝説で推測すれば、赫(ひょっ)居(きょっ)世(こせ)居(こ)西(ん)干(がん)(朴(ぱく)赫(ひょっ)居(きょっ)世(こせ)・BC57~AD4年だ。)や、2代新(し)羅(らぎ)国(こく)王(おう)の南(な)解(め)次(ちゃ)次(ちゃ)雄(うん)(AD4~24年だ。)の実像としては、AD3年に瑠(ゆ)璃(り)明(みょん)王(おう)(BC19~AD18年だ。)を諫めて不仲になって、高(こう)句(く)麗(り)を出奔(しゅつほん)して南韓(なんかん)に至り、更に狗(く)邪(や)韓国(からくに)(辰(しん)韓(かん)の期(さ)蘆(ろ)国(こく)だ。)に移った、という最高官職の大(て)輔(ぽ)の陝(ひょっ)父(ぽ)ということなのだ。また、この陝(ひょっ)父(ぽ)の1人目の妃(きさき)である糸(いと)玉(たま)姫(ひめの)皇(こう)后(ごうの)宮(みや)(実際は、福岡県の糸島(いとしま)半島と関わる閼(あ)英(りょん)夫(ふ)人(じん)・倭(わ)の糸(い)都(と)国(こく)王(おう)の娘だ。)との2人の間に、そのもうけた実子こそが、3代新羅(しらぎ)王(おう)の儒(ゆ)理(り)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD24~57年だ。)なのだ。つまりその叔(お)母(ば)(実際は姑(しゅうとめ)だ。)の王女の阿(あ)老(ろ)こそが、実際は2代新(し)羅(らぎ)国(こく)王(おう)の南(な)解(め)次(ちゃ)次(ちゃ)雄(うん)(AD4~24年・朴(ぱく)赫(ひょっ)居(きょっ)世(こせ)・最高官職の大(て)輔(ぽ)の陝(ひょっ)父(ぽ)だ。)の3人目の妃(きさき)で、60代目姫(ひめ)天(すめら)皇(みこと)(天(あま)照(てる)櫛(くし)豊(とよ)姫(ひめの)天(すめら)皇(みこと)・女性天(すめら)皇(みこと)・阿(あ)老(ろ)(女)・初代の天(あま)照(てらすの)大(おおみ)神(かみ)だ。)の成(なる)瀬(せ)クラムチ姫(ひめ)尊(のみこと)(阿(あ)珍(じん)義(うぃ)先(そん)だ。)なのだ。そしてまた、新羅(しらぎ)国(こく)王(おう)の4代脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD57~80年だ。)の妃(きさき)である姪(めい)(実際は、実娘だ。)の61代目姫(ひめ)天(すめら)皇(みこと)(豊(とよ)足(たり)日(ひ)明(あかり)姫(ひめの)天(すめら)皇(みこと)だ。)の阿(あ)孝(ひょ)夫(ふ)人(じん)(阿(あ)尼(ま)夫(ふ)人(じん)だ。)をもうけた、ということなのだ。そしてまた、新羅(しらぎ)国(こく)王(おう)の4代脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD57~80年・初代奈(な)賀(が)の大(おお)人(うし)様(さま)だ。)の実母としては、2人目の妃(きさき)で、別(べつ)妃(ぴ)の太(ふと)玉(だま)日(ひゅう)向(が)姫(ひめ)尊(のみこと)(南九州地方の日(ひゅう)向(が)族(ぞく)の族長の娘だ。)なのだ。また、『昔(そく)脱(た)解(れ)の始祖(しそ)伝説(でんせつ)』の昔(そく)脱(た)解(れ)(海(うみ)部(べの)大(おお)神(かみ)・初代(しょだい)奈(な)賀(が)の大(おお)人(うし)様(さま)だ。)なのだ。つまり『倭(わ)の多婆(たば)羅(ら)国(こく)王(おう)に嫁いだ女(じょ)国(こく)(日(ひ)向(ゆぅが)国(こく)だ。)の王女である太(ふと)玉(だま)日(ひゅう)向(が)姫(ひめ)尊(のみこと)のもうけた実子である、ということなのだ。 

そしてまた、新羅(しらぎ)国(こく)(辰(しん)韓(かん)の期(さ)蘆(ろ)国(こく)に、その源を発す。)の始祖である朴(ぱく)赫(ひょっ)居(こ)世(せ)(BC57~AD4年だ。)の在位期間の60年なのだが、これは、少し長すぎるのだ。また、辰(しん)韓(かん)の期蘆(さろ)国(こく)とは、狗(く)邪(や)韓(から)国(くに)の盟主国なのだ。また、この新(しら)羅(ぎ)には、『金(きむ)閼(ある)智(ち) 始(し)祖(そ)伝(でん)説(せつ)』というものも残っているが、伝説の内容は、『金(くむ)城(そん)の西の林の中で鶏(とり)の鳴き声が聞こえた。そこを調べると金色(きんいろ)の箱があり、その箱を開けると中から男の子が出てきた。4代目の脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD57~80年だ。)は、彼を跡継ぎとして育(後継者に指命したのだ。)てたが、彼自身(金(きむ)閼(ある)智(ち)だ。)は、王位には就かず、彼の6代孫にあたる味(み)鄒(ちゅ)が、初めて王位に就いた。』とも伝えているのだ。さてそれでは、2代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の南(な)解(め)次(ちゃ)次(ちゃ)雄(うん)(AD4~24年だ。)の在位期間は20年である。また、3代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の儒(ゆ)理(り)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD24~57年だ。)の在位期間は33年である。そこで、朱(ちゅ)蒙(もん)の盟友(めいゆう)の1人陝(ひょつ)父(ぽ)が、倭(わ)国(こく)の多婆(たば)羅(ら)国(こく)(熊本県だ。)の始祖ともなった時期だが、多婆(たば)羅(ら)国(こく)は、安羅(あら)国(こく)(安(あ)羅(ら)韓(かん)国(こく)も存在する。)と隣り合っていた、はじめは熊襲(くまそ)城(じょう)を保っていた、というが、この●59代目天(あめ)地(つち)明(あかる)玉(たま)主(ぬし)照(てるの)天(すめら)皇(みこと)(高(こう)句(く)麗(り)の最高官職の大(て)輔(ぽ)の陝(ひょっ)父(ぽ)・2代新(し)羅(らぎ)王(おう)の南(な)解(め)次(ちゃ)次(ちゃ)雄(うん)(AD4~24年だ。)の正妃(せいひ)としては、天(あま)津(つ)綿(め)糸(いと)姫(ひめの)尊(みことの)皇(ひめ)女(みこ)(閼(あ)英(りょん)夫(ふ)人(じん)・福岡の糸(いと)島(しま)半島と関わる糸(いと)都(と)国(こく)王(おう)の娘だ。)なのだ。また、その別(べつ)妃(ぴ)は、太(ふと)玉(だま)日(ひゅう)向(が)姫(ひめ)尊(のみこと)(日(ひゅう)向(が)族(ぞく)の族長の娘だ。)や、●60代目姫(ひめ)天(すめら)皇(みこと)・天(あま)照(てる)櫛(くし)豊(とよ)姫(ひめの)天(すめら)皇(みこと)・女性天(すめら)皇(みこと)・阿(あ)老(ろ)(初代の天(あま)照(てらすの)大(おおみ)神(かみ)・3人目の妃(きさき)の成(なる)瀬(せ)クラムチ姫(ひめ)尊(のみこと)だ。)たち3人の妃(きさき)いた、ということなのだ。 

そしてまた、3代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の儒(ゆ)理(り)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD24~57年だ。)の在位期間とは33年だが、また、4代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(海部(あまべの)大神(おおかみ)・初代奈(な)賀(が)の大(おお)人(うし)様(さま)・AD57~80年だ。)とは、その在位期間は23年なのだ。また、この間(AD24~80年だ。)については、倭(わ)の女王の年代から見れば、●60代目姫(ひめ)天(すめら)皇(みこと)・天(あま)照(てる)櫛(くし)豊(とよ)姫(ひめの)天(すめら)皇(みこと)(女性天(すめら)皇(みこと)・初代の天(あま)照(てらすの)大(おおみ)神(かみ)・阿(あ)老(ろ)(始(し)祖(そ)廟(びょう)を創(そう)立(りつ)し、司(し)際(さい)者(しゃ)になったという人物だ。)である3人目の妃(きさき)の成(なる)瀬(せ)クラムチ姫(ひめ)尊(のみこと)だ。)や、●61代目姫(ひめ)天(すめら)皇(みこと)・豊(とよ)足(たり)日(ひ)明(あかり)姫(ひめの)天(すめら)皇(みこと)(女性天(すめら)皇(みこと)・阿(あ)孝(ひょ)夫(ふ)人(じん)・阿(あ)尼(ま)夫(ふ)人(じん)・4代新羅(しらぎ)王(おう)の脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)の妃(きさき)だ。)たち2人の女性天(すめら)皇(みこと)たちが入る時代である、ということなのだ。そしてまた、その実子としては、●62代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の天(あめの)豊(とよ)足(たる)別(わけ)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)(アメノカガミ尊・海部(あまべの)大神(おおかみ)・2代奈(な)賀(が)の大(おお)人(うし)様(さま)だ。)である5代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の婆(ぱ)娑(さ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD80~112年だ。)や、~●63代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の事(こと)代(しろ)国(くに)守(むる)高(たか)彦(ひこ)尊(のみこと)天(すめら)皇(みこと)(アメノヨロズ尊・海部(あまべの)大神(おおかみ)・3代奈(な)賀(が)の大(おお)人(うし)様(さま)だ。)である6代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の祇(ち)摩(ま)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD112~134年だ。)や、~●64代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の豊(とよ)日豊足彦(ひるとよたりひこの)天(すめら)皇(みこと)(アワナギ尊・海部(あまべの)大神(おおかみ)・4代奈賀(なか)の大人(おおうし)様(さま)だ。)である7代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の逸(いる)聖(そん)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD134~154年だ。)や、●65代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の勝(かつ)勝(かち)之(の)男(おの)天(すめら)皇(みこと)(アワナギ尊の分身・海部(あまべの)大神(おおかみ)・4代奈賀(なか)の大人(おおうし)様(さま)だ。)や、~●66代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の実際は、豊(とよ)柏(かしわ)木(ぎ)幸(さ)手(て)男(お)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)(イザナギ尊・5代奈賀(なか)の大人(おおうし)様(さま)だ。)である8代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の阿(あ)達(だる)羅(ら)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD154~184年・『三(さん)国(ごく)史(し)記(き)』によれば、倭(わ)国(こく)の女王の(初代)卑(ひ)弥(み)呼(こ)(平(ひら)原(ばる)姫(ひめ)だ。)が使者を送ったという。)や、~●67代目女性天(すめら)皇(みこと)の天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)・春(はる)建(たけ)日(ひる)姫(ひめの)天皇(すめらみこと)・2代目天(あま)照(てらすの)大神(おおみかみ)・オオヒルメムチ尊・アマサカルムカツヒメ尊・邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の女王の2代目卑(ひ)弥(み)呼(こ)だ。)や、~●68代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の天津(あまつ)日(ひ)高(たか)日(ひ)子(こ)宗(むな)像(かた)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)・朝(ちょう)鮮(せん)を治めたというスサノオ尊・海部(あまべの)大神(おおかみ)・6代奈(な)賀(が)の大(おお)人(うし)様(さま)・新(しら)羅(ぎ)明(みょう)神(じん)・牛(ご)頭(ず)天(てん)王(おう)だ。)である9代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の伐(ぼ)休(りゅ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD184~196年だ。)や、~●69代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の神(かむ)足(たる)別(わけ)豊(とよ)鋤(すきの)天(すめら)皇(みこと)・ウガ御(のみ)魂(たまの)尊(みこと)・海部(あまべの)大神(おおかみ)・7代奈(な)賀(が)の大(おお)人(うし)様(さま)だ。)である10代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の奈(ね)解(へ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD196~230年だ。)や、~●70代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の神(かむ)心(ころ)伝(ふて)物(もの)部(のべの)建(たけの)尊(みこと)・大(おお)国(くに)主(ぬしの)尊(みこと)・海部(あまべの)大神(おおかみ)・8代奈(な)賀(が)の大(おお)人(うし)様(さま)だ。)である11代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の助(ちょ)賁(ぶん)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD230~247年だ。)や、~●71代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の天(あま)照(てる)国(くに)照(てる)日(ひ)子(こ)百(もも)日(ひ)臼(うす)杵(きね)尊(のみこと)天(すめら)皇(みこと)・天(あまの)火(ほ)明(あかりの)尊(みこと)・海部(あまべの)大神(おおかみ)・9代奈(な)賀(が)の大(おお)人(うし)様(さま)だ。)である12代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の沾(ちょ)解(め)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD247~261年だ。)や、~●72代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の彦五(ひこい)瀬(っせの)尊(みこと)天皇(すめらみこと)・天(あまの)香(かご)山(やまの)尊(みこと)だ。)である13代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の味(み)鄒(ちゅ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD262~284年だ。)や、~●73代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の狭(さぬ)野(の)尊(みこと)・初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)・新(しら)羅(ぎ)王(おう)という稲(いな)氷(いの)命(みこと)・初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)の兄で同一人物だ。)である14代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の儒(ゆ)礼(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD284~298年だ。)や、~●2代綏(すい)靖(ぜい)天(てん)皇(のう)の天(あまの)村(むら)雲(くも)命(のみこと)(天(あまの)日(ひ)鷲(わしの)命(みこと)・タギシミミ命だ゙)である15代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の基(き)臨(りむ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD298~310年だ。)たちがいた、ということなのだ。 

さてそれでは、次の、16代新(しら)羅(ぎ)王(おう)のフ(ふ)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD310~356年・天ヒコボコ命だ。)なのだが、『学研』『韓国時代劇・歴史大事典』で見れば、その父、于(ゆ)老(ろ)は、11代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の助(ちょ)賁(ぶん)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD230~247年の大(おお)国(くに)主(ぬしの)尊(みこと)だ。)の時代に、将軍として活躍したのだが、12代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の沾(ちょ)解(め)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD247~261年の天(あまの)火(ほ)明(あかりの)尊(みこと)だ。)の時代に、『失言がもとで倭国と交戦状態となり、倭人に焼き殺された。』後に、『于(ゆ)老(ろ)の妻が、倭の使者を焼き殺して報復した。』というのだ。そしてまた、同様の記述が、『日(に)本(ほん)書(しょ)紀(き)』の『神(じん)功(ぐう)皇(こう)后(ごう)紀(き)』にもあるというのだ。しかしながら、倭(やまと)武(たけるの)尊(みこと)の渡(と)韓(かん)としては、AD346年頃なのだ。また、15代神(じん)功(ぐう)皇(こう)后(ごう)の『三(さん)韓(かん)征(せい)伐(ばつ)』とは、AD380年代の前半期の頃の出来事なのだ。そこで、12代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の沾(ちょ)解(め)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD247~261年だ。天(あまの)火(ほ)明(あかりの)尊(みこと)だ。)の時代とは、邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の女王の2代目卑(ひ)弥(み)呼(こ)の晩年(AD248年だ。)から、それ以後の時代なのだ。また、狗(く)邪(な)国(こく)(狗(く)邪(な)韓(かん)国(こく)の分国だ。)との交戦状態の時代である、ということなのだ。さてそれでは、次の、17代目奈(ね)勿(むる)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD356~402年だ。)の時代としては、「金(きむ)閼(ある)智(ち) 始(し)祖(そ)伝(でん)説(せつ)」の金(きむ)閼(ある)智(ち)の7代目の子孫である、ということなのだ。 

そしてまた、新羅(しらぎ)国(こく)には、『金(きむ)閼(ある)智(ち) 始(し)祖(そ)伝(でん)説(せつ)』が残るのだが、その伝説の内容は、『今城の西の林の中で鶏(とり)の鳴き声が聞こえた。そこを調べると金色(きんいろ)の箱があり、その箱を開けると中から男子が出てきて。4代目の脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD57~80年だ。)は、彼を跡継ぎとして育てたが、彼自身(金(きむ)閼(ある)智(ち)だ。)は、王位に就かず、彼の6代孫にあたる味(み)鄒(ちゅ)(13代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の味(み)鄒(ちゅ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)だ。)が、初めて王位に就いた。』とも伝えるのだ。つまりこの金(きむ)閼(ある)智(ち)の6代孫にあたる味(み)鄒(ちゅ)である13代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の味(み)鄒(ちゅ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD262~284年だ。)こそが、実際は、11代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の助(ちょ)賁(ぶん)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD230~247年だ。)である大(おお)国(くに)主(ぬしの)尊(みこと)の娘むこの天(あまの)香(かご)山(やまの)尊(みこと)(光(くぁん)明(みょん)夫(ふ)人(じん)のむこだ。)の●72代目不(ふき)合(あえず)天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)(彦五(ひこい)瀬(っせの)尊(みこと)天皇(すめらみこと)だ。)である、ということなのだ。 

そしてまた、この13代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の味(み)鄒(ちゅ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(天(あまの)香(かご)山(やまの)尊(みこと)だ。)としては、実際は『金(きむ)閼(ある)智(ち) 始(し)祖(そ)伝(でん)説(せつ)』の金(きむ)閼(ある)智(ち)の7代後の子孫である、ということなのだ。そしてまた、11代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の助(ちょ)賁(ぶん)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD230~247年だ。実際は、大(おお)国(くに)主(ぬしの)尊(みこと)だ。)の娘である光(くぁん)明(みょん)夫(おお)人(とじ)を娶っているから、また、金(きむ)閼(ある)智(ち)(15代依(い)羅(ら)王(おう)だ。)の直系の6代目高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)(6代仇(く)道(ど)だ。)の長男で6世孫なのだ。そしてまた、金(きむ)閼(ある)智(ち)の誕生は、AD65年ともいうが、東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)王(おう)朝(ちょう)の8代帯素(てそ)王(おう)の弟という9代曷(かる)思(さ)王(おう)の即位はAD22年というから、15代依(い)羅(ら)王(おう)までは7代後なのだ。その後の1代を長くて20年として、また、新羅(しらぎ)国(こく)王(おう)である4代脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD57~80年だ。)の在位期間の23年から見ても、東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)王朝(おうちょう)の15代依(い)羅(ら)王(おう)の時代とは、AD100年(金(きむ)閼(ある)智(ち)はAD65年の誕生だ。)以前の頃なのだ。さて私見によれば、この金(きむ)閼(ある)智(ち)の実像としては、東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)王朝(おうちょう)の15代依(い)羅(ら)王(おう)ということなのだ。そしてまた、越(こし)のオロチ族である初代高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)ではないか、ということだ。なぜならば、朝(ちょう)鮮(せん)の歴史書『桓(かん)檀(だん)古記(こき)』の中の、『太白(たいはく)逸史(いつし)』を見れば、東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)王朝(おうちょう)の15代依(い)羅(ら)王(おう)のとき、『扶(ふ)餘(よ)族(ぞく)の王の依(い)羅(ら)は、鮮(せん)卑(ぴ)族(ぞく)らに国を追われ、その部下、数千人を率いて、海を渡り、倭人(わじん)を平定(へいてい)して、その王(倭(わ)王(おう))となった。』とも伝えているからなのだ。そしてまた、この金(きむ)閼(ある)智(ち)の子孫としては、2代勢(せ)漢(はん)~3代阿(あ)道(ど)~4代首(す)留(りゅ)~5代郁(うく)甫(ぽ)~6代仇(く)道(ど)なのだ。また、この6代仇(く)道(ど)の子(長男だ。)こそが、13代目の新(し)羅(らぎ)国(こく)王(おう)の味(み)鄒(ちゅ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(味(み)鄒(ちゅ)・AD262~284年だ。)である天(あまの)香(かご)山(やまの)尊(みこと)の●72代目不(ふき)合(あえず)天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)(彦五(ひこい)瀬(っせの)尊(みこと)天皇(すめらみこと)だ。)である、ということなのだ。そしてまた、その弟の末(ま)仇(るぐ)や、その弟の大(て)西(そ)知(じ)たちの、実際は3人の実兄弟がいた、とも系譜では、伝えているのだ。さてそれでは、この始祖の金(きむ)閼(ある)智(ち)は、『昔(そく)脱(た)解(れ)』である『脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD57~80年だ。)の跡継ぎ(実際は、後継者だ。)として育てたが、彼自身は王位には就かず、彼の6代孫にあたる味(み)鄒(ちゅ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(味(み)鄒(ちゅ)だ。)こそが、新(し)羅(らぎ)国(こく)王(おう)の13代目(AD262~284年だ。)として王位に就いた。』というから、この金(きむ)閼(ある)智(ち)の実像とは、やっぱり越(こし)のオロチ族の初代高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)と見れば、2代目高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)神(かみ)こそが、2代勢(せ)漢(はん)なのだ。また、3代目高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)こそが、3代阿(あ)道(ど)なのだ。また、4代目高(たかみ)皇(む)産(す)霊(びの)神(かみ)こそが、4代首(す)留(りゅ)なのだ。また、5代目高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)こそが、5代郁(うく)甫(ぽ)なのだ。そしてまた、5代目高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)(5代郁(うく)甫(ぽ)・玉(たま)気(き)根(ね)尊(のみこと)・初代豊(とよ)受(うけの)大(おお)神(かみ)だ。)や、また、6代目高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)(6代仇(く)道(ど)だ。)のとき、天(てん)孫(そん)族(ぞく)である大(おお)海(わた)祇(つみの)大(おお)神(かみ)の一族との『覇権争い』が本格化して、その本拠地を、当時の分国の新羅(しらぎ)国(こく)(辰(しん)韓(かん)の盟(めい)主(しゅ)国(こく)の期(さ)蘆(ろ)国(こく)だ。)の方へ移動したのではないか、ということなのだ。なぜならば、始祖の金(きむ)閼(ある)智(ち)の7代後の子孫こそが、13代新(し)羅(らぎ)国(こく)王(おう)として、AD262年に即位(AD262~284年だ。実際は、天(あまの)香(かご)山(やまの)尊(みこと)だ。)しているからなのだ。また、この後は、14代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の儒(ゆ)礼(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD284~298年だ。初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)だ。)の在位の時代なのだ。つまり新(しら)羅(ぎ)王(おう)という稲(いな)氷(いの)命(みこと)(初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)の兄だが、実際は同一人物だ。)こそが、『出(いず)雲(もの)大(たい)戦(せん)(当時の出雲(いずも)とは、畿内(きない)5カ国だ。)』後は、天(あまの)香(かご)山(やまの)命(みこと)の13代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の味(み)鄒(ちゅ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)・AD262~284年だ。)から、『ウガヤフキアエズ王朝の天(すめら)皇(みこと)位(い)』や、『新羅(しらぎ)王(おう)位(い)』を、初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)として、また、14代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の儒(ゆ)礼(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD284~298年だ。)として継承したのだ。また、その後は、早めに、『次の天(てん)皇(のう)位(い)』や『新羅(しらぎ)王(おう)位(い)』を、2代綏(すい)靖(ぜい)天(てん)皇(のう)に譲って帰朝した、ということなのだ。つまりこの時代である、ということなのだ。さてそれでは、『学研・韓国時代劇・歴史大事典』で見れば、16代目のフ(ふ)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD310~356年だ。天ヒボコ命だ。)の父、于(ゆ)老(ろ)(実際は、実父の2代綏(すい)靖(ぜい)天(てん)皇(のう)の天(あまの)村(むら)雲(くも)命(のみこと)・天(あまの)日(ひ)鷲(わしの)命(みこと)・タギシミミ命と同一人物だ。また、倭(わ)国(こく)と交(こう)戦(せん)状(じょう)態(たい)とは、事実は出(いず)雲(も)の大(たい)戦(せん)なのだ。)こそが、11代新(し)羅(らぎ)国(こく)王(おう)の助(ちょ)賁(ぶん)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD230~247年・大(おお)国(くに)主(ぬしの)尊(みこと)だ。)の時代に、将軍として活躍したが、12代新(し)羅(らぎ)国(こく)王(おう)の沾(ちょ)解(め)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD247~261年・天(あまの)火(ほ)明(あかりの)尊(みこと)だ。)の時代に、『失言がもとで倭国と交戦状態となり、倭人に焼き殺された。』、また、『後に、于(ゆ)老(ろ)(実際は天(あまの)村(むら)雲(くも)命(のみこと)・タギシミミ命だ。)の妻が倭の使者を焼き殺して報復した。』というのだ。 

さてところで、東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)王朝(おうちょう)の15代依(い)羅(ら)王(おう)の実像を金(きむ)閼(ある)智(ち)と見てみれば、4代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の『そくたれ』である脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(紀元後57~80年だ。)の次の時代である。また、その後の時代とは、5代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の婆(ぱ)娑(さ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD80~112年・アメノカガミ尊だ。)や、また、6代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の祇(ち)摩(ま)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD112~134年・アメノヨロズ尊だ。)や、また、7代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の逸(いる)聖(そん)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD134~154年・アワナギ尊だ。)や、また、8代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の阿(あ)達(だる)羅(ら)尼(い)師(さ)今(ぐむ)AD154~184年・イザナギ尊・その妃(きさき)は、平(ひら)原(ばる)王(おう)の女王、初代卑(ひ)弥(み)呼(こ)だ。)や、また、9代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の伐(ぼ)休(りゅ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD184~196年・新(しら)羅(ぎ)明(みょう)神(じん)・牛(ご)頭(ず)天(てん)王(おう)・スサノオ尊だ。)や、また、10代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の奈(ね)解(へ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD196~AD230年・ウガ御(のみ)魂(たまの)尊(みこと)だ。)や、また、11代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の助(ちょ)賁(ぶん)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD230~247年・大(おお)国(くに)主(ぬしの)尊(みこと)だ。)や、また、12代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の沾(ちょ)解(め)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD247~261年天(あまの)火(ほ)明(あかりの)尊(みこと)だ。)や、また、13代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の味(み)鄒(ちゅ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD262~284年・天(あまの)香(かご)山(やまの)尊(みこと)だ。)や、また、14代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の儒(ゆ)礼(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD284~298年・稲(いな)氷(いの)命(みこと)・初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)だ。)や、また、15代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の基(き)臨(りむ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD298~AD310年・天(あまの)村(むら)雲(くも)命(のみこと)・2代綏(すい)靖(ぜい)天(てん)皇(のう)だ。)や、また、16代新(しら)羅(ぎ)王(おう)のフ(ふ)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD310~356年・天ヒボコ命だ。)たちのうちで、このフ(ふ)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD310~356年・天ヒボコ命だ。)の父(実際は実父だ。)の于(ゆ)老(ろ)こそが、『11代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の助(ちょ)賁(ぶん)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD230~247年・大(おお)国(くに)主(ぬしの)尊(みこと)だ。)の時代に、将軍として活躍したが、12代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の沾(ちょ)解(め)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD247~261年・天(あまの)火(ほ)明(あかりの)尊(みこと)だ。)の時代に、失言がもとで倭国と交戦状態となり、倭人に焼き殺された。後に于(ゆ)老(ろ)の妻が倭の使者を焼き殺して報復した。』というが、これはフィクションで、この于(ゆ)老(ろ)の実像としては、2代綏(すい)靖(ぜい)天(てん)皇(のう)の天(あまの)村(むら)雲(くも)命(のみこと)(天(あまの)日(ひ)鷲(わしの)命(みこと)・タギシミミ命だ゙)なのだ。 

そしてまた、金(きむ)閼(ある)智(ち)(初代高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)神(かみ)・越(こし)・近江(おうみ)のオロチ族・東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)王朝(おうちょう)の15代依(い)羅(ら)王(おう)だ。)の子孫としては、2代勢(せ)漢(はん)(2代目高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)神(かみ)だ。)~3代阿(あ)道(ど)(3代目高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)神(かみ)だ。)~4代首(す)留(りゅ)(4代目高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)神(かみ)だ。)~5代郁(うく)甫(ぽ)(5代目高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)神(かみ)だ。)~6代仇(く)道(ど)という系統なのだが、この6代仇(く)道(ど)の子(長男だ。)としては、天(てん)孫(そん)族(ぞく)の皇子(実際は、娘むこだ。)である13代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の味(み)鄒(ちゅ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD262~284年・天(あまの)香(かご)山(やまの)尊(みこと)・富(とみの)ナガスネ彦(ひこの)命(みこと)だ。)や、その弟としては、末(ま)仇(るぐ)や、大(て)西(そ)知(じ)たち3人がいた、というから、この末(ま)仇(るぐ)(兄(え)宇(う)迦(か)斯(し)だ。)や、大(て)西(そ)知(じ)(弟(おと)宇(う)迦(か)斯(し)だ。)たち2人の人物こそが、越(こし)・近江(おうみ)のオロチ族の首長であれば、この時代(在位期間)としては、14代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の儒(ゆ)礼(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD284~298年・稲(いな)氷(いの)命(みこと)・初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)だ。)の時代の頃なのだ。そしてまた、この間の『古(こ)事(じ)記(き)』や、『日本(にほん)書紀(しょき)』を見てみれば、天(あまの)火(ほ)明(あかりの)命(みこと)の実子の初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)(ウマシマジ命だ。)の東(とう)征(せい)の時代である、ということなのだ。 

そこで、『古事記(こじき)』の初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)の東(とう)征(せい)の条を見てみれば、『其地より踏み穿(うか)ち越えて、宇(う)陀(だ)(菟(う)田(だ)・奈良県宇陀郡(うだぐん)だ。)に幸(い)でましき。故(かれ)、宇(う)陀(だ)の穿(うかち)と曰ふ。故(かれ)ここに宇(う)陀(だ)に兄(え)宇(う)迦(か)斯(し)(末(ま)仇(るぐ)だ。)、弟(おと)宇(う)迦(か)斯(し)(大(て)西(そ)知(じ)だ。)の2人ありき、故、まづ八咫(やた)烏(がらす)を遣わして、2人に問ひて曰くひして、「今、天つ神の御子幸(い)でましつ。汝等仕へ奉らむや」といひき。ここに兄(え)宇(う)迦(か)斯(し)(末(ま)仇(るぐ)だ。)、鳴(なり)鏑(かぶら)をもちてその使を待ち射返しき。故、その鳴(なり)鏑(かぶら)の落ちし地(ところ)を、訶(か)夫(ぶ)羅(ら)前(ざき)と謂ふ。待ち撃たむと云ひて軍(いくさ)を聚(あつ)めき。然れども軍を得(え)聚(あつ)めざりしかば、仕へ奉らむと欺(いつ)陽(は)りて、大(おほ)殿(との)を作り、その殿の内に押(お)機(し)を作りて待ちし時に、弟(おと)宇(う)迦(か)斯(し)(大(て)西(そ)知(じ)だ。)、まづ参(まい)向(むか)へて、拜(をろが)みて曰(まを)しけらく、「僕(あ)が兄、兄(え)宇(う)迦(か)斯(し)(末(ま)仇(るぐ)だ。)、天つ神の御子の使を射返し、待ち攻めむとして軍を聚(あつ)むれども、得(え)聚(あつ)めざりしかば、殿を作り、その内に押(お)機(し)を張りて待ち取らむとす。故、参(まい)向(むか)へて顕(あら)はし曰ちつ」とまをしき。ここに大(おお)伴(ともの)連(むらじ)等(ら)の祖(おや)、道(みちの)臣(おみの)命(みこと)(この場合は、天(あまの)道(みち)根(ねの)命(みこと)・3代安(あん)寧(ねい)天(てん)皇(のう)だ。)、久(く)米(めの)直(あたい)等(ら)の祖、大(おお)久(く)米(めの)命(みこと)(実際は3代安(あん)寧(ねい)天(てん)皇(のう)だ。)の2人、兄(え)宇(う)迦(か)斯(し)(末(ま)仇(るぐ)だ。)を召(よ)びて、罵詈りて云ひけらく、「汝が作り仕へ奉れる大殿の内には、おれまづ入りて、その仕へ奉らむする状を明し曰せ」といひて、すなはち横(た)刀(ち)の手(た)上(がみ)を握(とりしば)り、矛(ほこ)ゆけ矢(や)刺(ざ)して、追ひ入るる時、すなはち己が作りし押に打たえて死にき。ここにすなはち控(ひ)き出(いだ)して斬り散(はふ)りき。故、其地(そこ)を宇陀(うだ)の血(ち)原(はら)と謂ふ。然してその弟(おと)宇(う)迦(か)斯(し)(大(て)西(そ)知(じ)だ。)が獻(たてまつ)りし大(おほ)饗(みあへ)をば、悉に御軍に賜ひき。』という。 

そしてまた『日(に)本(ほん)書(しょ)紀(き)』を見てみれば、『皇軍は、中洲(なかす)(内陸の土地)に向おうとした。ところが山中はけわしくとだえ、行ける路もなかった。進退きわまり、ふみこえていくところを知らなかった。その夜(天皇は)アマテラス大神が、天皇に教えて、「朕がいま頭(や)八咫(た)烏(がらす)を遣わすから、道案内としなさい」という、夢をみた。その言葉のとおりヤタノカラスがいて、空から飛びおりてきた。天皇は、「この烏が来たのは、おのずと吉夢に叶っている。りっぱだなあ。明らかだなあ。わが祖アマテラス大神が、大業を助成しようと欲したのか」といった。このとき、大(おお)伴(とも)氏(し)の遠祖である日(ひの)臣(おみの)命(みこと)(この場合は、天(あまの)日(ひ)咋(くいの)命(みこと)・3代安(あん)寧(ねい)天(てん)皇(のう)だ。)が、大(おお)久(く)目(め)(実際は3代安(あん)寧(ねい)天(てん)皇(のう)だ。)をひきい,大軍を監督する将となって、山路をふみわけて行ったが、ということは烏の向うあとをつけて、仰ぎ見ては追っていった」という。また『ついに菟(う)田(だ)(奈良県宇陀郡)の下(しも)県(あがた)に到達した。その到達したところを名づけて、菟(う)田(だ)の穿(うかち)邑(むら)という。このとき天皇はヒノオミ命(実際は3代安(あん)寧(ねい)天(てん)皇(のう)だ。)をほめて、『お前は忠誠で勇気もある。それによく先導した功もある。そこでお前の名を改めて道(みち)臣(のおみ)(実際は3代安(あん)寧(ねい)天(てん)皇(のう)だ。)とせよ」と命じた。』という。 

また、『秋8月2日、天皇は兄(えう)猾(かし)(末(ま)仇(るぐ)だ。)と弟(おとう)猾(かし)(大(て)西(そ)知(じ)だ。)を召させた。この2人は、菟(う)田(だ)の県(あがた)の首(しゅ)長(ちょう)である。ェウカシは来なかった。オトウカシはやってきた。それで軍門を拝して、告げて言った、「臣の兄ェウカシ(末(ま)仇(るぐ)だ。)がはむかう状(況)は、天孫がやってくると聞き、すぐに挙兵して襲(撃)しようとした。ところが皇軍の威(勢)を望見して、とても敵しないとおそれて、ひそかにその兵を伏せ、仮に新宮をつくって、殿の内に機(しかけ)を施(ほどこ)し、宴会にまねいて死なせようとしている。どうかこのだましを知って、よく対処してください」といった。天皇はすぐさま道(みちの)臣(おみの)命(みこと)(実際は3代安(あん)寧(ねい)天(てん)皇(のう)だ。)を派遣して、そのさからう様子を偵察させた。道(みちの)臣(おみの)命(みこと)(実際は3代安(あん)寧(ねい)天(てん)皇(のう)だ。)は、くわしく殺害の意があることを見てとり、大いに怒り問い責めて、「この野郎、お前のつくった家屋に、お前自身入っていよ」といい、剣の柄に手をかけ、弓をひきしぼって、むりやりせきたてて入らせた。ェウカシ(末(ま)仇(るぐ)だ。)は(殺す仕掛けをかくして安全な家だとだます)罪を天(皇)に対しておかしていて、(家に入る)事をことわることができない。そこで自分で機(しかけ)を踏んで圧死した。 その死体を(地に)おいて、斬った。流血が踝(くるぶし)をひたした。で、その地を名づけて、菟(う)田(だ)の血(ち)原(はら)という。オトウカシ(大(て)西(そ)知(じ)だ。)は盛大に牛(肉)と酒とを用意して、皇軍をねぎらう宴会をもった。天皇は酒肉を軍兵に分配した。』という。 

また、『オトウカシ(大(て)西(そ)知(じ)だ。)は、倭(やまとの)国(くに)の磯城(しき)(桜井市(さくらいし)辺(へん))邑に、磯城(しき)の八(や)十(そ)梟(たけ)師(る)がいる。また高(はか)尾(お)張(わり)(御(ご)所(せ)市(し)西(せい)南(なん)部(ぶ))邑(或いはいう。葛(かつら)城(ぎ)邑(むら))には、赤銅(あかがね)の八(や)十(そ)梟(たけ)師(る)がいる。この連中はみな天皇をこばみ、戦おうとおもっている。私めはひそかに天皇のために心配している。いま天(あま)の香(かご)山(やま)の埴(はに)(黄色の粘土)を取り、天の平皿をつくって、天の社・国の社の神を祭るがいい。その後に賊を撃てば、除くやすいでしょう」と、奏した」という。また、「(天皇は)道(みちの)臣(おみの)命(みこと)(実際は3代安(あん)寧(ねい)天(てん)皇(のう)だ。)に命じて、「今、高(たかみ)皇(む)産(す)霊(びの)尊(みこと)をば、朕みずから顕して斎き祭ることにしよう。お前を斎(祭り)主にして、厳(いつ)媛(ひめ)の名を授けよう。その置いた埴(はに)の瓶は厳(いつ)瓮(へ)と名づける(以下省略)」という。また、『冬10月1日、天皇はその厳(いつ)瓮(へ)の粮(たべもの)を嘗(あじわ)い、兵を統御して出(陣)した。まず八(や)十(そ)梟(たけ)師(る)を国見(くにみ)丘(のおか)に撃破し、斬った。』というのだ。 

さてそれでは、このオロチ族の族長(代々の高(たかみ)皇(む)産(す)霊(びの)尊(みこと)の子孫だ。)とも推測される菟(う)田(だ)の県(あがた)の首(しゅ)長(ちょう)という兄(え)宇(う)迦(か)斯(し)(兄(えう)猾(かし)だ。)や、弟(おとう)宇(う)迦(か)斯(し)(弟(おとう)猾(かし)だ。)との実像としては、越(こし)・近江(おうみ)のオロチ族の族長であれば、東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)王朝(おうちょう)の後継者の8代帯素(てそ)王(おう)の弟で9代曷(かる)思(さ)王(おう)や、10代都頭(とず)王(おう)~11代尉(い)仇(きゅう)台(だい)王(おう)~12代簡位(かんい)居(い)王(おう)~13代麻余(まよ)王(おう)~14代依(い)慮(りょ)王(おう)~15代依(い)羅(ら)王(おう)(金(きむ)閼(ある)智(ち)だ。)~16代玄(げん)王(おう)~17代蔚(やす)王(おう)とも系譜は続くのだが、つまり8代帯素(てそ)王(おう)の弟の9代曷(かる)思(さ)王(おう)から、6代目の王である15代依(い)羅(ら)王(おう)(金(きむ)閼(ある)智(ち)・初代高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)神(かみ)・越(こし)・近江(おうみ)のオロチ族の族長だ。)の子孫なのだ。そしてまた、13代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の味(み)鄒(ちゅ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD262~284年・天(あまの)香(か)山(ごやま)尊(のみこと)だ。)や、末(ま)仇(るぐ)や、その弟の大(て)西(そ)知(じ)たち3人の男子の実兄弟である、ということなのだ。そしてまた、末(ま)仇(るぐ)こそが、兄(え)宇(う)迦(か)斯(し)(兄(えう)猾(かし)だ。)で、大(て)西(そ)知(じ)こそが、弟(おと)宇(う)迦(か)斯(し)(弟(おとう)猾(かし)だ。)とも推測されるのだ。なぜならば、曷(かる)思(さ)王(おう)=兄(え)宇(う)迦(か)斯(し)王(のみこ)や、弟宇(う)迦(か)斯(し)王(のみこ)で、9代曷(かる)思(さ)王(おう)(ガシ王だ。)を暗示させるからなのだ。そしてまた、天(あまの)香(かご)山(やま)の埴を厳(いつ)瓮(へ)と名づけ、オロチ族の族長である代々の高(たかみ)皇(む)産(す)霊(びの)尊(みこと)、天皇みずから顕して斎き祭る、ということからしても、天(てん)孫(そん)族(ぞく)(実際は、初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)と、その娘むこや、孫たちだ。)との交戦状態(『出(いず)雲(もの)の大(たい)戦(せん)』だ。)から、その支配者の長子である族長の天(あまの)香(かご)山(やまの)命(みこと)の富(とみの)ナガスネ彦(ひこの)命(みこと)としては、その後、敗北して越(こし)・近江(おうみ)のオロチ族の勢力を打ち破って、その娘むこともなった天(てん)孫(そん)族(ぞく)の皇子の初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)(物部(もののべの)宇摩(うま)志(し)麻(ま)治(ちの)命(みこと)だ。)に、倭(やまとの)国(くに)を譲って、辰(しん)韓(かん)の盟(めい)主(しゅ)国(こく)の期蘆(さろ)国(こく)(新(し)羅(らぎ)国(こく)の元(もと)になる国だ。)の狗(く)邪(や)韓国(からくに)などへ、その支配地域を交換し、また、『ウガヤ王朝の天(すめら)皇(みこと)位(い)』や、『新羅(しらぎ)王(おう)位(い)』も、初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)に譲っで、入れ替わった、ものとも推測されるのだ。また、この13代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の味(み)鄒(ちゅ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD262~284年・天(あまの)香(かご)山(やまの)尊(みこと)だ。)や、また、14代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の儒(ゆ)礼(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD284~298年・稲(いな)氷(いの)命(みこと)・初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)だ。)たちや、15代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の基(き)臨(りむ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD298~AD310年・天(あまの)村(むら)雲(くも)命(のみこと)・2代綏(すい)靖(ぜい)天(てん)皇(のう)だ。)とも継承してから、その実子で長男の道(みちの)臣(おみの)命(みこと)(天(あまの)道(みち)根(ねの)命(みこと)だ。)である3代安(あん)寧(ねい)天(てん)皇(のう)(AD310~AD315年)の後としては、『次の天(てん)皇(のう)位(い)』を継承すべく、実際は3男の16代新(しら)羅(ぎ)王(おう)のフ(ふ)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD310~356年・天ヒボコ命だ。)の時代に一時帰朝(きちょう)して、4・5・6代懿(い)德(とく)・孝(こう)昭(しょう)・孝(こう)安(あん)天(てん)皇(のう)(AD315~AD330年・天ヒボコ命だ。)ともなって『次の天(てん)皇(のう)位(い)』を継承してから、また、ふたたび、天ヒボコ命として、16代新(しら)羅(ぎ)王(おう)のフ(ふ)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD310年~356年・天ヒボコ命だ。)として帰韓(きかん)した、ということなのだ。そしてまた、その在位の晩年には、ッヌガアラシトとして、11代垂(すい)仁(にん)天(てん)皇(のう)(AD355年~360年・八(や)坂(さか)入(いり)彦(ひこの)命(みこと)だ。)の即位された頃には、ふたたび、帰朝(きちょう)した人物こそが、この天ヒボコ命である、ということなのだ。 

さてそれでは、話を戻し、タケウガヤフキアエズ王朝を一気に、初代へ遡れば、武(たけ)鵜(う)草(が)葦(や)不(ふき)合(あえず)身(み)光(ひかりの)天(あま)津(つ)日(ひ)嗣(つぎの)天(あめの)日(ひの)天(すめら)皇(みこと)なのだ。また、その妃(きさき)としては、玉(たま)依(より)姫(ひめの)皇(こう)后(ごうの)宮(みや)なのだ。つまり大(おお)綿(わた)津(つ)見(みの)命(みこと)(海神(かいじん)だ。)の孫娘(まごむすめ)ということなのだ。そしてまた、その父としては、和多都見豊彦(わたつみとよひこ)命(のみこと)がいた、とも伝えるから、つまりタマヨリヒメや、トヨタマヒメなどは、襲名名称なのだ。しかしながら、、これは繰り返しの隠蔽方法とも推測されるのだ。つまりタケウガヤフキアエズ王朝(大(わた)海(つ)祇(みの)大(おお)神(かみ)一(いち)族(ぞく)・天(てん)孫(そん)族(ぞく)・猿(さる)田(た)族(ぞく)・筑紫(ちくし)王(おう)の子孫だ。)の歴代の古代天(すめら)皇(みこと)を見てみれば、44代目の大(おお)炊(かし)気(き)吹(いふきの)天(すめら)皇(みこと)不(ふき)合(あえず)天(あめの)日(ひ)身(み)光(ひかりの)天(すめら)皇(みこと)までは、すべての古代天(すめら)皇(みこと)は、天(あめの)日(ひ)身(み)光(ひかりの)天(すめら)皇(みこと)とも伝えるのだ。しかしながら、その後、45代~73代までの天皇は、天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)なのだ。つまり44代~45代にかけて、断絶があったのだ。また、この2代の天皇の時世だけが、なぜか、万(ばん)国(こく)巡(じゅん)幸(こう)の記録もないのだ。しかしながら、これは繰り返しの隠蔽手法なのだ。実際は、中国の楚(そ)国(こく)(実際は熊(ゆう)族(ぞく)だ。)の滅亡とも関わる、ということなのだ。さてそれでは、その在位年数について検証して見れば、およそ、BC8200~29000年までの期間としているが、また、初代神武(じんむ)天皇(てんのう)の即位の時期は、BC667年というのだが、しかしながら、このタケウガヤフキアエズ王朝の歴代の古代天皇の在位期間は、明らかに創作されたものなのだ。そのために、ムー大陸(BC12000年頃。)の陥没や、世界各地の地殻変動期(地震活動期だ。)などの記述を挿入する必要が生じたのだ。とはいえ、ムー大陸の陥没や、世界各地の地殻変動期(地震活動期だ。)などは、解読者の阿(あ)郷(ごう)清(きよ)彦(ひこ)氏によれば、『竹内』が、古代の世界的大地震を伝えていることは特筆されるべき記録の一つだ。と言われるのだ。また、地球大変動期(地震活動期だ。)の記録としては、次の概要を列記されるのだ。 

●地球(ちきゅう)、数百度(すうひゃくど)土(ドロ)の海(うみ)となり、岩石の角丸くなる。高山の大岩、又石の中にあるのが土(どろ)の海となりたる印なり(天神第6代のとき) 

●天皇(すめらみこと)の御代(みよ)に、天下(あめのした)とこよ国(のくに)全(ぜん)部土(どろ)の海(うみ)となる事八十四度(カイラク(陥没・陥落。)し云々。(皇統2代のとき) 

●天地分(あめのつちわけ)主(ぬしの)大神(おおかみ)の御代(みよ)より、地球(ちきゅう)全部(ぜんぶ)数百度(すうひゃくど)土(ドロ)の海(うみ)(なり云々。(皇統3代のとき) 

●皇統第4・第7・第9・第11代のとき、『地球(ちきゅう)大変動(だいへんどう)』(以下省略。) 

●地球万国(ばんこく)土(どろ)の海(うみ)(とかえらくす(陥没・陥落。)。木(き)に餅(もち)がなる。万国人(ばんこくじん)(五色人(ごしょくじん)のこと)全部死す。(皇統第14代のとき) 

●皇統第17・第18・第21・第22代のとき、『地球(ちきゅう)大変動(だいへんどう)』(以下省略。)とも伝えるのだ。 

さてそれでは、阿郷氏は、超古代の世界的大変動(地震活動期だ。)を伝えるのは『竹(たけ)内(うち)文(もん)書(じょ)』以外には絶無(ぜつむ)であろうというのだ。そしてまた、『木(き)に餅(もち)がなる』の意味としては、『落葉樹(らくようじゅ)に生じるホヤのことであろう。ホヤとは一名「寄(ヤドリ)り木」のことである。このホヤに大豆大(だいずだい)の実がなる。この実は粘力があり、割って引けば餅のように糸を引く。そこで之を古代は餅と称えたのであろう。冬期は野鳥の餌となっている。而してホヤは豊年には少なく、凶年に多量に成るのである。この点は研究すべきである。(中略。)越(えつ)中(ちゅう)立(たて)山(やま)々(さん)脈(みやく)の大山(おおやま)村有(むらゆう)峰(ほう)に古代民族がいる。(中略。)この有(ゆう)峰(ほう)民族(みんぞく)は、古代からホヤを食料として鄭重に取りあつかった。(中略。)国土に一(いち)大地変(だいちへん)の起る前後には、地熱の変化、または気候(きこう)等(とう)の変化を生じ、それが原因で寄(ヤドリ)り木のホヤが落葉樹などに多量に発生した。それを古代(人)は「木(き)に餅(もち)がなる」と称へたものであろう、と推せられる』とも解されるのだ。 

さてそれでは、大地震なのだが、今は大変な時期なので、更に詳しく言えば、『東日本大震災』の起こる数か月前、東日本の沿岸一帯で大量のホヤ(海(かい)鞘(しょう)。目に属する原索動物の総称。単独で、または群体をなして、球形に近い厚い皮に包まれて海底や岩に付着している。食用になるものがある。岩波国語辞典より)が発生した、とテレビニュースで放送されたのだ。そしてまた、その数か月後に起きたのが、『東日本大震災』(2011年3月11日)なのだ。また、この三陸(さんりく)沖(おき)・福(ふく)島(しま)県(けん)沖(おき)・茨(いばら)城(ぎ)県(けん)沖(おき)の3地域連続型の巨大地震は、マグニチュード9.0なのだ。およそ、10分間の地震の直後に、500㌖にも及ぶ、20㍍以上の巨大津波が、20分後~2時間後にかけ、3度も、東太平洋側の沿岸地帯で引き起こしたのだ。また、気象庁の観測史上で最大の地震が起こった、ということなのだ。そしてまた、世界で最大級の地盤沈下を伴う大地震が起こった、ということなのだ。つまり北米プレートや、太平洋プレートや、ユーラシアプレートや、フィリピン海プレートなど、4つのプレートのぶつかりあう日本とは、世界的な地殻変動期(地球大変動期・地震活動期だ。)が、いち早く起こる地域なのだ。また、『木(き)に餅(もち)がなる』の意味としては、『海に大量に、天然にホヤが発生する。』の意味なのだ。そしてまた、海底が徐々に地割れを起し、徐々に黒い泥の海となると、海底断層の亀裂から、栄養源の吸収に絡み、やがてホヤが大量に発生するのだ。また、プレートのぶつかりから起こる海底断層の急激な盛り上がりによって、大きい亀裂が生じると、やがて、大地震が起きて、一気に黒い泥の海となって、巨大な津波が何度も押し寄せるのだ。 

さてそれでは、『東日本大震災』の直後に、日本の有人潜水調査船『しんかい6500』が、三陸(さんりく)沖(おき)の海底3か所を調査すると、海底5351㍍には、幅・深さ1㍍の段差や、長さ80㍍以上の亀裂が新らたに確認された、というのだ。また、水深3218㍍の海底で幅20㌢の段差や、長さ数十㍍の亀裂が確認された、というのだ。また、大繁殖したバクテリアの塊や、硫化水素を吸収するメタンガスなどが湧き出していて、ナギナタシロウリガイの群生も見られた、というのだ、これこそが、栄養源ともなって、海のホヤの大量発生ともなったのだ。さてそれでは、この地殻変動を起こす海溝・境界型の大地震の、過去の歴史を見てみれば、貞(じょう)観(かん)の大地震(869年)は、マグニチュード8以上(宮(みや)城(ぎ)県(けん)沖(おき))で起こっているのだ。また、北海道大学の平川一臣氏によれば、この『貞(じょう)観(かん)津波(つなみ)は、マグニチュード8.4と推定されるが、三(さん)陸(りく)沖(おき)まで津波が及んでいることからすれば、M9級だった可能性がある。』というのだ。また、『三陸(さんりく)の地層から見て、6000年間に、推定6回の巨大津波が約1000年に一度ぐらいで、三(さん)陸(りく)海(かい)岸(がん)に継続して襲った可能性を示す。』というのだ。さらに、砂や石の堆積物を見つけた、というのだが、さてこのほかに、629年後には、『明応(めいおう)東海(とうかい)大地震(だいじしん)』が起こっているのだ。そしてまた、東京大学地震研究所の都司嘉宣准教授によれば、『静岡県沼津市で津波伝承が残る地区の標高を調べたところ、「ヒラメがあがった」という伝承のある平目(ひらめ)平(たいら)という場所の標高とは36㍍であった。』というのだ。また、『宝(ほう)永(えい)や安政(あんせい)の大地震よりも高いことが確実になった。』というのだ。また、『安政(あんせい)大地震の津波の高さは5㍍程度と推定されていたが、明応(めいおう)大地震はその3倍以上の高さの可能性がある。』ともいうのだ。また、『浜(はま)岡(おか)原(げん)発(ぱつ)のある海岸には、最大20㍍の巨大な津波が押し寄せた可能性がある。』というのだ。さて、現在すでに513年も経過しているのだ。そこで、東海大地震の大津波がいつ起こっても、不思議ではない状況であるのだ。そしてまた、1498年の慶長(けいちょう)の大地震だが、『南(なん)部(ぶ)藩(はん)の記録によれば、22㍍以上の大津波が三(さん)陸(りく)沖(おき)に押し寄せた。』というのだ。また、『宝(ほう)永(えい)の大地震(1707年)は、マグニチュード8.6の東海・東南海・南海の三連動型地震だった、というのだ。また、安政(あんせい)の大地震(1854年)だが、マグニチュード8.4の東海・南海の2連続型地震である。』という。また、『明治(めいじ)三(さん)陸(りく)の大地震(1896年)だが、マグニチュード8・0以上で最大38.2㍍の巨大津波が三(さん)陸(りく)沖(おき)に起こった可能性がある。』というのだ。また、『これらの大地震は、500年~1000年の間において断続的に起こっている。』というのだ。ところで、東京大学地震研究所のチームによれば、『巨大地震を繰り返す長い周期(スーパーサイクル)がある。』という。『宮(みや)城(ぎ)県(けん)沖(おき)部分で解放されたエネルギーなどを分析すると、438年の間隔で、巨大地震が起きている。』というのだ。そしてまた、このほか、直下型(ちょくかがた)地震では、『関東大震災』や、『阪神・淡路大震災』や、、南米ペルーや、中国でも大地震が起こっているのだ。今後も、世界各地で、大地震がひんぱんに起こる可能性がある、ということなのだ。 

さてそれでは、『竹内(たけうち)文書(もんじょ)』でいう地球規模の地殻大変動期(大地震活動期だ。)なのだが、500年間隔で起きるならば、今後も、世界各地でひんぱんに大地震が起こるはずなのだ。そこで、天然ガス・太陽熱パネル・地中熱・メタンハイドレードなどその普及を早急に図ることや、過去の歴史から学ぶ、必要があるのだ。また、原(げん)発(ぱつ)は一旦災害が起これば、広範囲に甚大な被害を被る。数十兆円の被害や、復興費も必要なのだ。環境破壊の被害も被るのだ。『東日本大震災』では、何万人もの人々が死亡したが、この未曾有の大災害を教訓としで、迅速な対応が求められるのだ。行政は素早い対応が必要なのだ。政治家は未曾有の災害時は、平時と違う柔軟で積極的な姿勢が期待されるのだ。ところで、今は、米朝(べいちょう)の核戦争が懸念される時期なので一言言えば、自由と民主主義を守るためとはいえ、今の時代はいったん戦争が勃発すれば、限定的攻撃ではすまないのだ。瞬時に核戦争なのだ。この核戦争こそ愚の骨頂だ。広島市や長崎市の原爆投下や、福島県の原発のメルトダウンを見れば、経済活動が破壊され、数百万人の人々があっというまに消えてしまうのだ。核ミサイルは恐ろしい。日本にとどいて米国にはとどかないから今のうちに攻撃する。これは従属の関係だ。アメリカが騒がなければ日本を核攻撃するとは言っていないのだ。相手の戦力も十分認識して、『現実を直視』すべきなのだ。核ミサイルが、日本やハワイや、アメリカ本土にとどく状況であることを、アメリカ国民も認識すべきだ。ベトナムや、イラクや、アフガニスタンや、シリアのようなわけにはいかないのだ。国家の軍事力に格段の違いがあるからだ。また一方的に、核兵器を放棄する国は、どこにもないのだ。敵対国関係である以上、一方的な核兵器の放棄は、夢物語なのだ。直ちに休戦状態を解消して敵対国でないことを認識させるべきだ。また、国際社会が一致団結して圧力をかけることは、世界の意思を見せるために大事だが、中国とロシアが対話を求めている以上、現体制の崩壊を見るのは難しいのだ。最後に残る道は、偶発的な戦争からの東アジア地域の核戦争だ。そこで、同じ扶(ふ)餘(よ)族(ぞく)であるから過去の侵略の時代を教訓とし、平和のための対話や努力、友愛の精神を基本とすべきだ。日本はそのために努力すべき国だ。また巡航ミサイルや、核爆弾を大量生産する国に軍事攻撃は、おかしいのだ。甘く見てはいけないのだ。ルールを守らせるべきだ。核戦争の危機は確実に迫っているのだ。核戦争が起これば、日本や韓国や北朝鮮の3カ国は、瞬時に自滅の道しかないのだ。再起不能だ。日本人はアメリカ人とも対等な人間だ。核戦争後に、インド・太平洋地域で残るのは、アメリカや中国やロシアの3大国なのだ。また、第3次世界大戦にならず一部地域の核戦争で終わって良かったと世界で簡単に言われはしまいか?そこで、同盟国のアメリカ国内に向け、限定的な先制攻撃は瞬時に核戦争を起こすことや、日本や韓国の国民の不安や核戦争の回避を、持てる力て使ってマスコミ等を利用しPRすべきだ。今は国難の時代なのだ。政治家の派閥争いの時期ではないのだ。国民の生命を粗末にできないからだ。国際社会の結束を名目に圧力のみでは大変危険だ。2千5百万人の北朝鮮の国民からも恨まれる。暴発が起こって破滅へと行き着く。また、この問題を面白可笑しく笑っている場合ではないのだ。マスコミは危険なことを認識し発言すべきだ。北朝鮮の巡航ミサイルの能力からしてソウルが危なく東京が安全だということはない、自分自身が危ないのだ。この際影響力のあるロシアと平和条約を結ぶべきだ。北方領土や竹島は現在は日本の領土ではないのだ。過去を見れば、台湾や樺太の半分は日本の領土だったのだ。北朝鮮のウソも含め過去にとらわれるべきでない。なぜならば、決着することはないからだ。北方領土の問題は共同経済開発や墓参り程度で終わると予測される。また、尖閣諸島は幸い無人島だ。周辺海域も含めて中国・台湾との共同活用の方法も可能なのだ。また、韓国の元慰安婦問題は、韓国政府との交渉では政権が交代すれば蒸し返しだ。当事者はすでに高齢だ。日本に招待して慰労や保証を約束すべきだ。また近隣のロシア・中国・韓国・北朝鮮・台湾は仲良くすべき国なのだ。特に北朝鮮の現体制は過去の経緯から今があるのだ。朝鮮戦争から今も休戦状態なのだ。敵対国では何も解決しない。アメリカはロシアや、中国と国交を樹立し、北朝鮮だけ孤立させたからだ。懐疑的では進歩がないのだ。一歩踏み出さなければ未来はないのだ。朝鮮半島の南北統一や、拉致問題の解決には、経済・文化の交流と信頼の形成が出発点なのだ。また、過去にとらわれないで、自国の自衛力の強化や沖縄の米軍基地の削減など推進すべき時代だ。また、対話や平和の諸策を検討すべき時代なのだ。また、過去にとらわれないで現状を打破すべきときだ。最近朝鮮半島で南北首脳同士の会談が行われたのは喜ばしいのだ。将来、朝鮮半島での非核化が実現できれば、核戦争の危険性は少なくなるのだが、しかしながら、様々な問題を解決しなければならないのだ。現実を見れば、核戦争と裏腹なのだ。また、北海道は自衛隊だけで本当に守れるのか、大変心配なのだ。 

さてそれでは、初代神武(じんむ)天皇(てんのう)の崩御の時期としては、およそ、AD300年の頃なのだ。また、奈良県天(てん)理(り)市(し)の西(にし)殿(どの)塚(つか)古(こ)墳(ふん)の被(ひ)葬(そう)者(しゃ)とも推測されるのだ。また、タケウガヤフキアエズ王朝の天(あまの)日(ひつ)嗣(ぎの)天(すめら)皇(みこと)の平均在位年数を14年間と見れば、14年×73代で、1022年以前なのだ。また、紀元後の300年を差し引けば、紀元前722年頃まで遡るではないか。ところで、『竹内(たけうち)文書(もんじょ)』でいう世界規模の歴史の記述から、当時のユダヤ人が、世界各地へ分散して新たな文明が生まれた、ということなのだ。また、初代タケウガヤフキアエズノスメラミコト(ミカド)の天(てん)孫(そん)降(こう)臨(りん)の地としては、『竹内(たけうち)文書(もんじょ)』(原本は、神代(かみよの)古記(こき)だ。)によれば、天(あま)越(こ)根(ね)(越(えつ)中(ちゅう))の皇祖(こうそ)皇(こう)太(たい)神宮(じんぐう)(富山県婦(ね)負(い)郡(ぐん)神(じん)通(つう)川(がわ)流(りゅう)域(いき)の御(み)皇(こ)城(しろ)山(やま)近(きん)辺(ぺん)だ。)の天(あまの)神(しん)人(じんの)祖(そ)一(いちの)神(じん)宮(ぐう)から能登(のと)の宝(ほう)達(だつ)山(さん)大宮(おおみや)に遷都し、その後は出雲(いずも)松江(まつえ)・穴門(あなと)長門(ながと)・愛媛(えひめ)千里山(ちさとやま)の大宮(おおみや)に遷都して、その後は世界各地をまわって、鵜(う)戸(どの)大(おお)宮(みや)(宮崎県日(にち)南(なん)市(し)・日向(ひゅうが)国(こく)だ。)で譲位され、崩御後は飫(よ)肥(び)上陵(かみりょう)に葬られた、というのだ。その後は、タケウガヤフキアエズ王朝の歴代天皇たちは、天(あまの)空(くう)中(ちゅう)浮(うき)船(ぶね)(船の意味だ。)に乗って世界各地を巡幸され、国内の〇〇山で崩御された、というのだ。また、その間の世界各地の天変地変などが記録されるのだが、しかしながら、これは歴代の古代天皇の在位を延長させるための作為的な記述なのだ。また最後は、南九州の日向(ひゅうが)国(こく)の鵜(う)戸(どの)大(おお)宮(みや)で譲位されたというのだ。つまり逆から見れば、南九州の日(ひゅう)向(が)国(こく)の服属から、北九州の猿(さる)田(た)族(ぞく)(天(てん)孫(そん)族(ぞく)だ・筑(ちく)紫(し)王(おう)の子孫だ。)が逆転して、その主導権を制した、という意味なのだ。また、『神代(かみよの)古記(こき)』以後に、聖書や、ギリシャ神話などの一部から創作されたのだ。また、『竹(たけ)内(うち)宿祢家(すくねけ)の系譜』から推測すれば、竹(たけ)内(うちの)子(お)首(びと)(平(へ)群(ぐりの)宿(すく)禰(ね)子(お)首(びと)だ。)の実像である中(なか)臣(とみの)連(むらじ)大(おお)嶋(しま)の時代から、その子孫によって『古(こ)事(じ)記(き)』や、『日(に)本(ほん)書(しょ)紀(き)』や、『但(たじ)馬(ま)故(こ)事(じ)記(き)』などが、ほぼ同時に創作された、とも見られるのだ。また、タケウガヤフキアエズ王朝の先祖は、イスラエルからアッシリア帝国へ、その後はペルシャからシルクロード(絹(きぬ)の道)を通ってきて中央アジアのヤマトウから、中国の敦煌(とんこう)・開封(かんふ)へやってきた、ということなのだ。また、中国のチアン族の伝承によれば、『3年3か月を経てやってきた。』という伝承があるのだ。その後、秦(しんの)始(し)皇(こう)帝(てい)の時代から、韓国(かんこく)の秦(しん)韓(かん)や、弁(べん)韓(かん)へ当時の神人(しんじん)(神(かみ)の民(たみ)・秦人(しんじん)・真(しん)人(じん)だ。)としてやってきたのだ。その間は、およそ、500年の歳月を経ているのだ。そこで、当時の世界各地をユダヤ系の大商団(だいしょうだん)として巡(じゅん)幸(こう)された、という意味とも推測されるが、天(あまの)磐(いわ)浮(うき)船(ぶね)(天(あまの)空中(くうちゅう)浮(うき)船(ぶね)・船の意味だ。)に乗って、倭(やまとの)国(くに)の各地方に散らばって、最後に日向(ひゅうが)の鵜(う)戸(どの)大宮(おおみや)(九州宮崎県日(にち)南(なん)市(し)の宮浦(みやうら)の鵜(う)戸(ど)神宮(じんぐう)だ。)へたどり着いたということなのだ。しかしながら、これは、南九州の日向(ひゅうが)族(ぞく)が、北九州の猿(さる)田(た)族(ぞく)(天(てん)孫(そん)族(ぞく))によってその主導権を制された、とも推測されるのだ。そこで特記すべきことは、明らかに、天火(あまのほ)明(あかり)命(のみこと)(ヒノハヤヒ命だ。)と見られる71代不(ふき)合(あえず)天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)(天(あま)照(てる)国(くに)照(てる)日(ひ)子(こ)百(もも)日臼(ひうす)杵(きね)尊(のみこと)天皇(すめらみこと)・ヒコホホデミ尊・猿(さる)田(た)彦(ひこ)命(のみこと)だ。)の次の、72代不(ふき)合(あえず)天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)こそが、彦(ひこ)五(いっ)瀬(せの)尊(みこと)天皇(すめらみこと)のオオワダツイセヒコ尊(天(あまの)香山(かごやま)命(のみこと)・ウガヤフキアエズ尊・彦五(ひこいっ)瀬(せ)尊(のみこと)だ。)とも記すことなのだ。そしてまた、73代カムマトイワレヒコ尊(初代神武(じんむ)天皇(てんのう)・宇(う)摩(ま)志(し)痲(ま)治(じ)尊(のみこと)・狭(さ)野(ぬ)尊(のみこと)だ。)の妃(きさき)としては、『多(た)々(た)良(ら)五(い)十(す)鈴(ず)姫(ひめ)がいた。』とも記すが、これは、『竹内(たけうち)文書(もんじょ)(原本は神代(かみよの)古記(こき)だ。)』こそが『古事記(こじき)』以前の『タケウガヤフキアエズウガヤ王朝(おうちょう)の系譜』について把握していることを意味するのだ。なぜならば、72代彦(ひこ)天皇(すめらみこと)(彦五(ひこい)瀬(っせの)尊(みこと)天皇(すめらみこと)・オオワダツイセヒコ尊だ。)という人物の実像としては、実際は初代神武(じんむ)天皇(てんのう)(73代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)・狭(さぬ)野(の)尊(みこと)不(ふき)合(あえず)73代の天(あまの)日嗣(ひつぎの)天皇(すめらみこと)・カムヤマトイワレヒコ尊だ。)の形式的な父(実際は舅(しゅうと)だ。)なのだ。つまり『古事記(こじき)』では長兄というが、紀(き)伊(い)・河内(かわち)において、トミノナガスネヒコ命の反抗に合い戦傷死した、というが、実際は、この彦五(ひこい)瀬(っせの)尊(みこと)こそが、トミノナガスネヒコ命(72代タケウガヤフキアエズノスメラミコト・彦五(ひこいっ)瀬(せ)尊(のみこと)・オオワダツイセヒコ尊・天(あまの)香(かご)山(やま)命(のみこと)だ。)とも推測されるからなのだ。そしてまた、71代不(ふき)合(あえず)天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)(天(あま)照(てる)国(くに)照(てる)日(ひ)子(こ)百(もも)日臼(ひうす)杵(きね)尊(のみこと)天皇(すめらみこと)・ヒコホホデミ尊・天(あまの)火(ほ)明(あかり)命(のみこと)・ヒノハヤヒ命・イクツヒコネ命だ。)から、この亡くなっている彦(ひこ)五(い)瀬(っせの)尊(みこと)に譲位された、というが、実際は亡くなっていないのだ。つまり天(あまの)香(かご)山(やま)命(のみこと)へ変身されたのだ。また、この彦(ひこ)五(いっ)瀬(せの)尊(みこと)こそが72代不(ふき)合(あえず)天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)として即位(実際は贈位だ。)され、同時に王(おうの)弟(おとうと)に変身されたのだ。また、この人物はタカミカグヤマ命(天(あまの)香山(かごやま)命(のみこと)・ト部(とべ)・中臣(なかとみ)氏(し)の祖・天児(あまのこ)屋根(やね)命(のみこと)だ。)である、ということなのだ。そしてまた、初代神武(じんむ)天皇(てんのう)の摂政に親任した、と伝えるから、この人物は、天火(あまのほ)明(あかり)命(のみこと)の娘の実(じつ)山(やま)姫(ひめ)のむこである天(あまの)香山(かごやま)命(のみこと)(富(とみの)長(なが)髄(すね)彦(ひこ)命(のみこと)・彦五(ひこいっ)瀬(せ)尊(のみこと)だ。)なのだ。また、宇陀(うだ)の兄(え)うかし(弟(おと)倉(くら)下(じの)命(みこと)・末(まる)仇(ぐ)だ。)や、弟(おと)うかし(大西(てそ)知(じ)だ。)たちの実像としては、この天(あまの)香(かご)山(やま)命(のみこと)(高(たか)倉(くら)下(じ)命(のみこと)だ。)の一族(オロチ族だ。)なのだ。そしてまた、『先代(せんだい)旧事本(くじほん)紀(き)』によれば、73代彦(ひこ)天皇(すめらみこと)の狭(さぬ)野(の)尊(みこと)不(ふき)合(あえず)天(あまの)日(ひ)嗣(つぎの)天(すめら)皇(みこと)(カムヤマトイワレヒコ尊・宇(う)摩(ま)志(し)痲(ま)治(じ)尊(のみこと)・初代神武(じんむ)天皇(てんのう)だ。)こそが『悪神退く気を吐き人物みないたむ。天(あまつ)孫(みまご)之に患が出計を知ず。』という戦況に陥ってしまうが、このとき、武(たけ)甕(みか)槌(づちの)神(かみ)(実際は、天(あまの)火(ほ)明(あかり)命(のみこと)・ヒノハヤヒ命だ。)から、『吾國平し彼時の剱を下ば則自ら平将む。』といって、その子の高(たか)倉(くら)下(げ)命(のみこと)(実際は、天(あまの)香(かご)山(やま)命(のみこと)・72代彦(ひこ)天皇(すめらみこと)・彦(ひこ)五(い)瀬(っせの)尊(みこと)天(すめら)皇(みこと)・オオワダツイセヒコ尊・ト(と)部(べ)・中臣(なかとみ)氏(し)の祖・天児(あまのこ)屋根(やね)命(のみこと)だ。)へ賜られた神剱(かみのつるぎ)(フツノミタマの剱(けん)刀(とう)・スサノオ尊の剱(けん)刀(とう)だ。)は、この高倉(たかくら)下命(げのみこと)(天(あまの)香(かご)山(やま)命(のみこと)・彦五(ひこいっ)瀬(せ)尊(のみこと)だ。)から、天(てん)孫(そん)(宇(う)摩(ま)志(し)痲(ま)治(じ)尊(のみこと)だ。)へ奉られた後、更に、高倉(たかくら)下命(じのみこと)(天(あまの)香(かご)山(やま)命(のみこと)だ。)の弟という宇(う)摩(ま)志(し)痲(ま)治(じ)尊(のみこと)(実際は天孫(てんそん)の分身である磐(いわ)余(れ)彦(ひこ)尊(のみこと)・忌部(いんべ)氏の祖の天(あまの)太(ふと)玉(だま)命(のみこと)だ。)へ降された、とも伝えているが、これは、宇(う)摩(ま)志(し)麻(ま)治(じ)尊(のみこと)こそが、天孫(てんそん)の磐(いわ)余(れ)彦(ひこ)尊(のみこと)へ変身された、ということなのだ。そしてまた、この儀式とは、『フツノミタマの神(かみの)剱(つるぎ)に、今木(いまき)を刺めぐらして石上(いそのかみの)大神(おおかみ)の殿内に奉齊(いわいま)った。』という儀式(実際は剣(けん)璽(じ)の御(ご)承(しょう)継(けい)の儀式だ。)なのだが、つまり『皇位(こうい)継(けい)承(しょう)権(けん)』こそが、武(たけ)甕(みか)槌(づちの)神(かみ)(実際は天火(あまのほ)明(あかり)命(のみこと)・猿(さる)田(た)彦(ひこ)命(のみこと)だ。)から、その子(実際は、娘むこだ。)の高(たか)倉(くら)下(じ)命(のみこと)(実際は、天(あまの)香(かご)山(やま)命(のみこと)・長脛彦(ながすねひこ)命(のみこと)・ト部(とべ)・中臣(なかとみ)氏(し)の祖、天(あまの)児(こ)屋(や)根(ね)命(のみこと)だ。)へ渡って、その後、天火(あまのほ)明(あかり)命(のみこと)(猿(さる)田(た)彦(ひこ)命(のみこと)だ。)の実子の磐(いわ)余(れ)彦(ひこ)尊(のみこと)(宇(う)摩(ま)志(し)痲(ま)治(じ)尊(のみこと)・忌部(いんべ)氏の祖の天(あまの)太(ふと)玉(だま)命(のみこと)だ。)に奉られ、この磐(いわ)余(れ)彦(ひこ)尊(のみこと)(実際は宇(う)摩(ま)志(し)痲(ま)治(じ)尊(のみこと)だ。)こそが『今木を刺めぐらし、物(もの)部(のべの)石(いその)上(かみの)大(おお)神(かみ)の殿内(でんない)に齊(いわい)奉っられ、改まって初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)へ変身された。』ということなのだ。そしてまた、この宇(う)摩(ま)志(し)痲(ま)治(じ)尊(のみこと)こそが、天孫(てんそん)の磐(いわ)余(れ)彦(ひこ)尊(のみこと)の実像なのだ。そしてまた、この儀式こそが、古代史に隠された同一人物が、ときの天皇(すめらみこと)として変身する秘密の儀式なのだ。また、この変身の儀式こそが、皇(こう)孫(そん)となった人物たちが、今だに、代々継承(実際は剣(けん)璽(じ)の御(ご)承(しょう)継(けい)の儀式だ。)されている、という事実を見ていかない限りは、古代天皇の謎は解けないのだ。そこで、この儀式は、物(もの)部(のべ)氏(し)の氏上(うじのかみ)(部族長)の儀式として見事に『先(せん)代(だい)旧(く)事(じ)本(ほん)紀(き)』巻5の『天(あまつ)孫(みまごの)本(もとつ)紀(み)』の中で伝えられている、ということなのだ。 

さてそれでは、タケウガヤフキアエズ王朝(おうちょう)とは、九州の志(し)賀(かの)島(しま)を拠点とする海(かい)神(じん)の宗(むな)像(かた)海(かい)人(じん)族(ぞく)(猿(さる)田(た)族(ぞく)・物(もの)部族(のべぞく)・天(てん)孫(そん)族(ぞく)・筑紫(ちくし)王(おう)の子孫だ。)なのだが、また、朝鮮(ちょうせん)半島(はんとう)からきた辰(しん)韓(かん)の秦人(しんじん)(神人(しんじん)・神(かみ)の民(たみ)・真(しん)人(じん)だ。)なのだ。そこで、飛鳥(あすか)昭(あき)雄(お)さん・三神(みかみ)たけるさんの著書『秦(はた)氏(し)の謎(なぞ)』の記述を引用して見れば、この秦(しん)人(じん)(真人(しんじん)だ。)は、『魏(ぎ)志(し)倭人伝(わじんでん)』の中の『東(とう)夷(い)伝(でん)』の1つ、『韓伝(かんでん)』によれば、『秦(しん)の役(えき)』とは、新(しら)羅(ぎ)の老人の話によると、『朝鮮半島には、はじめ馬(ば)韓(かん)があった。あるとき大陸から