霧の中の建国秘話
秦(しん)の役を避けて多くの人が朝鮮(ちょうせん)半島に移住してきた。彼らは秦人(しんじん)と呼ばれ、馬(ば)韓(かん)の人間とは風俗・習慣・言語が全く異なっていた。馬(ば)韓人(かんじん)は秦人(しんじん)の人数が増えたことから、忌み嫌って土地を西の方へ分けて与えた。その後、秦(しん)韓(かん)・弁(べん)韓(かん)(弁(べん)辰(たつ)・狗(く)邪(や)韓国(からくに)だ。)が建国されて、その秦(しん)韓(かん)(辰(しん)韓(かん)だ。)とは、6カ国に、後に、12カ国に分れた。また、弁(べん)韓(かん)(弁(べん)辰(たつ)・狗(く)邪(や)韓国(からくに)だ。)は、12カ国に分かれて、合計22カ国にも分かれた。』という。また、『ここにいう、「秦(しん)の役(えき)」とは、秦(しん)帝国(ていこく)末期の戦(せん)乱(らん)を指している。また、「役(えき)」を「使(し)役(えき)」とも考えて、秦(しんの)始皇帝(しこうてい)が行った巨大な公共事業とする説もある。そしてまた、秦人(しんじん)(真人(しんじん)だ。)の意味としては、「柵外(さくがい)の人(ひと)」や、「流浪(るろう)の民(たみ)」という意味という、また、中国人(漢(かん)民族(みんぞく)。)に対しては、秦(しん)人(じん)(真人(しんじん)だ。)という言葉は使わない。』ともいうのだ。
さてそれでは、『秦(しん)の役(えき)』後に、秦(しん)帝(てい)国(こく)の知識レベルの高い住民(秦人(しんじん)だ。)が、朝鮮(ちょうせん)半島に逃げてきたのは明らかだ。また、その時期とは、紀元前207年に、秦(しん)帝国(ていこく)が滅亡しているから、秦(しん)帝(てい)国(こく)の末期の乱としては、紀元前の210年の頃とも見られるのだ。つまり紀元前200年初頭の頃には、倭国へ秦人(しんじん)が多数入ったとも推測されるが、この少し前(紀元前の217年だ。)の頃に、秦(しん)の徐(じょ)福(ふく)も来日したのだ。そしてまた、この頃の時期に、来倭(らいわ)した秦(しん)人(じん)(真人(しんじん)だ。)たちが、出雲(いずも)神族(しんぞく)や、天(てん)孫(そん)族(ぞく)(海(かい)神(じん)族(ぞく)・宗(むな)像(かた)海(かい)人(じん)族(ぞく)・筑紫(ちくし)王(おう)の子孫だ。)である、ということなのだ。なぜならば、太(うず)秦(まさの)公(きみ)(八幡(やはた)だ。)の実像こそが、22代雄略(ゆうりゃく)天皇(てんのう)だからだ。また、へブル語は、古代イスラエル人とユダヤ人をヘブル民族というのだが、紀元前1000年頃~紀元前600年中葉に至るまで話されたという。また、アラム語もヘブル語の兄弟言語で、同じ紀元前1000年頃からシリア地方ではじまり、アッシリヤ帝国の時代になると、中東地域の国際語になっていたという。さてそこで、ウズマサとは八幡(やはた)という意味なのだ。そこで、紀元前722年に、アッシリヤ帝国によって征服(せいふく)された北王国イスラエルの『失われた流(る)浪(ろう)の十(じゅう)部(ぶ)族(ぞく)』だが、『日本・ユダヤ封印(ふういん)の古代史』(著者ラビ・マーヴィン・トケイヤーおよび久保有政さん『訳』の著書)から引用して見れば、『紀元前1900年頃、イスラエルの父祖のヤコブには、12人の息子がいた。ルベン・シメオン・レビ・ユダ・ゼブルン・イッサカル・ダン・ガド・アシェル・ナフタリ・ヨセフ・ベンジャミンらであったという。また、その子孫は、イスラエルの12部族を形成したが、その後、ヨセフ族は、エフライム族とマナセ族に分れ、カナン(イスラエルの古名。)の地は12に分割されたという。また、レビ族は、祭祀部族のため、領地はないという。さてその後、イスラエル民族は、紀元前1000年頃に、ソロモン王の元に反映と絶頂期を迎えるが、ソロモン王の死後は、イスラエルの統一王国としては、北王国イスラエルや南王国ユダの2國にに分裂してしまい、北王国はサマリヤと呼ばれていたという。また、南王国はユダヤと呼ばれていたという。さて、イスラエル人とユダヤ人を同義に使う場合もあるというが、北王国のサマリヤには、ルベン・ガド・エフライム・イッサカル・ゼブルン・ナフタリ・アシェル・ダン・マナセ・ベンジャミンの一部など10部族がいたという。一方、南王国のユダには、ユダ族を中心にして残りのレビ・シメオン・ベンジャミンの一部などがいたという。その後、10部族のいた北王国イスラエルは、紀元前800年頃には東の強国のアッシリヤ帝国の王、サルゴン2世の軍隊に征服されてその捕囚とされ、アッシリヤに強制的に移住させられたという。また、彼らがイスラエルの失われた10部族となった。』というのだ。さてところで、AD900年頃の旅行家で『ユダヤ商人』というハダンによれば、『東アフリカ地域には、アシェル・ガド・ナフタリ・ダンの4部族の出身者が多くいたという。また、黒海とカスピ海の間にあった当時のカサール王国には、ルベン・ガド・マナセ族の3部族がいた。』という。また、AD1200年頃のスペインの旅行家のベンジャミンによれば、『ペルシャのニシャプールの町々には、ダン・アシェル・ゼブルン・ナフタリの4部族がいた。』という。また、『東方のどこかに、10部族が生きているとも聞いた』という。また、『AD1622年の頃に、南米エクアドルの深い山中で、ポルトガル人の宣教師モンテジノスが、4人のインデアンに遭遇したとき、このインデアンたちは、イスラエルの伝統的な儀式を行っていて、イスラエルのルベン族、及びレビ族の出身であるとヘブル語で語った』ともいう。また、イエズス会の宣教師ニコラス・デルツによれば、『ペルーのインカ遺跡で「盗むなかれ」「偽証するなかれ」「殺すなかれ」という戒めの石板が発見されたが、これは、モーセの十戒の一部であってスペイン人がこの地に来る何百年も前に存在していたものだ。』という。また、『同じ場所でメノラ(イスラエル神殿にあった七枝の燭台。)の形の刻まれた石板が発見され、その周囲には、アラム語で過(すぎ)越(こし)(パスカ)とも記されていた。』ともいう。また、『このアラム語は古代イスラエル人が使った古代語(ヘブル語の兄弟言語。)だからそれが書かれること自体、非常に古いものであることを意味する。』ともいう。また、『それから数㍍の所に、舟の絵(イスラエルの10部族の1つ、ゼブルン族の紋章は舟だ。)が刻まれた石板も見つかった。』という。また、『その舟には、「チッポラ」という言葉(モーセの妻の名と同じでイスラエル人の名。)が記されていた。』ともいう。また、『これは彼らが南米に船でやって来たことを味する。』ともいう。また、『学者らは、これを約3000年前のもの、とも考えている。』というのだ。さてそれでは、ゼブルン族こそが、我が国へ移住してウガヤフキアエズ王朝を造った、ということにもなるのだが、ヘブル語と日本語(カタカナ・ひらがな)の意味の類似性・生活様式・神(しん)事(じ)の共通性などからして、十分そのことは推測されるのだ。また、ウガヤフキアエズノスメラミコトとは、『ウガヤ』は、『ユダヤ』へ、『フキアエズノミコト』は、『ユキアエズノミコト』へ、つまり『ユダヤの流浪(るろう)の王(おう)』という意味こそ、まさに、ふさわしいではないか。
さてそれでは、三種(さんしゅ)神器(のじんぎ)(八咫(やたの)鏡(かがみ)・八(や)尺(さかの)勾(まが)玉(たま)・草(くさ)薙(なぎの)剣(けん)だ。)の1つ、八咫(やたの)鏡(かがみ)(『伊(い)勢(せ)神(じん)宮(ぐう)所(しょ)蔵(ぞう)』だ。としては、その証(あかし)なのか?また、古代のヘブル文字で記録されている、とも伝わるようだが、北王国イスラエルのサマリヤの囚われの身となった最後の王ホセア王の後を継承している人物こそが、タケウガヤフキアエズ王朝(おうちょう)の73代目の天(すめら)皇(みこと)カムヤマトイワレヒコ尊(実際は、初代神武(じんむ)天皇(てんのう)・宇(う)摩(ま)志(し)痲(ま)治(じ)尊(のみこと)・忌(いん)部(べ)氏(し)の祖、天(あまの)太(ふと)玉(だま)命(のみこと)だ。)なのだ。そしてまた、この73代目にこそ、その秘密を解くカギが隠されるのだ。なぜならば、カムヤマト(神(かみ)の民(たみ)・神(しん)人(じん))イワレヒコノ(高尚(こうしょう)な創(そう)設(せつ)者(しゃ))スメラ(北王国の都(みやこ)サマリヤ)ミコト(王(おう)。)というからなのだ。また、このヘブル文字の解釈こそが、それを暗示させるからなのだ。更に、『イスラエルの失われた十(じゅう)部族(ぶぞく)』の1つ、ゼブルン族の紋章(もんしょう)は船である。また、我が国の古代王朝は、『日本(にほん)書紀(しょき)』のカムヤマトイワレヒコ天皇の条によれば、『東に美しい地がある。青い山が四周して、その中にまた天(あまの)磐(いわ)船(ぶね)に乗って飛び降りる者がいる。』という、『余が思うに、その地は、かならず大業を広め、天下に〔天子の徳を〕およぼすのに十分な地である。およそ六合の中心であろう。そのとび降りる者とは、ニギハヤヒ(実際は、饒(にぎ)速(はや)日(ひの)命(みこと)・猿(さる)田(た)彦(ひこ)命(のみこと)・天(あまの)火(ほ)明(あかり)命(のみこと)だ。神(かみ)饒(にぎ)速(はや)日(ひの)命(みこと)とはスサノオ尊だ。)というが、なんとしても〔そこへ〕行き都としなければならぬ。』とも伝えているのだ。そしてまた、『籠(この)名(みょう)神(じん)宮(ぐう)祝(はふり)部(べ)丹(たん)波(ばの)國(くにの)造(みやつこ)海(あま)部(べの)直(あたい)等(とう)氏(うじ)之(の)本(もとつ)記(ふみ)』を見れば、『彦(ひこ)火(ほ)明(あかり)命(のみこと)の又の名にニギハヤヒ、又の名は神ニギハヤヒ命、又の名は天(あま)照(てる)国(くに)照彦(てるひこ)天火(あまのほ)明櫛(あかりくし)玉(たま)ニギハヤヒ、又の名はイキシニギホ命(のみこと)にして八州(はっしゅう)を統め給へり。すでにしてハヤヒ命即ち天(あまの)磐(いわ)船(ぶね)に乗り、虚空に登りて凡(おお)河(かわ)内国(ちのくに)に降り坐す。』ともいうのだ。そこで、天(あまの)磐(いわ)船(ふね)も『竹内(たけうち)文書(もんじょ)』にいう天(あまの)空(くう)中(ちゅう)浮(うき)船(ふね)もいずれも船なのだ。そしてまた、我が国の貴船(きふね)神社(じんじゃ)や、岩船(いわふね)神社(じんじゃ)(祭神は、天火(あまのほ)明(あかり)命(のみこと)・ヒノハヤヒ命・宇(う)治(じの)土(つちの)公(きみ)の祖(そ)神(しん)だ。)などからはじまって、古墳の棺(ひつぎ)に至るまで、『船(ふな)形(がた)』とも深く関わることは明らかなのだ。つまり大和(やまと)民族(みんぞく)の先祖である扶(ふ)餘(よ)族(ぞく)のルーツとしては、ユダヤの北王国イスラエル(サマリヤ)のゼブルン王(おう)家(け)の海(かい)洋(よう)系(けい)騎(き)馬(ば)民(みん)族(ぞく)である、ということなのだ。そしてまた、われわれの先祖としては、およそ、500年の歳月をかけて、ペルシャから中央アジアのシルクロード(絹(きぬ)の道)を経てユダヤ系の古朝鮮族(こちょうせんぞく)系(けい)の卒(ちょる)本(ぼん)扶(ふ)余(よ)の大商団として、中国から朝鮮半島を経て我が国へやって来たのだ。そしてまた、その後も、数世紀にも及び、秦(はた)氏(し)一(いち)族(ぞく)の後続隊たちは、韓(かん)半島から、その優れた養蚕技術や、航海技術や、土木や、建築技術や、治水技術や、馬(うま)・牛(うし)・羊(ひつじ)の調(ちょう)教(きょう)技(ぎ)術(じゅつ)や、機織(はたおり)の技術などの高い知識をもって続々とやって来たのだ。そしてまた、平安(へいあん)京(きょう)千年(せんねん)の礎(いしずえ)を見事に築いた、ということなのだ。
さてその後、『記紀(きき)』の逸話としては、その大半は、旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)(トーラー・モーセ五書だ。)から創作されたフィクションなのだ。そしてまた、ギリシヤ神話などの逸話の共通性からしても、十分理解される、ということなのだ。さてそれでは、紀元前1900年頃に、12人の息子の父祖というイスラエルのヤコブの実像としては、謎の民族のシユメール人なのか?ところで、へブル文字(アラム語と兄弟文字だ。)とは、シユメール語と関わるのか?また、古代メソポタミア文明の末(まつ)胤(いん)なのか?
さてそこで、もう一つ付け加えれば、古代(こだい)史書(ししょ)『富士(ふじ)文献(ぶんけん)』を見れば、紀元前の217年の頃の古(こ)代(だい)秦(しん)帝(てい)国(こく)の時代に、秦(しんの)徐(じょ)福(ふく)が秦(しん)の始(し)皇(こう)帝(てい)の命を受け、不老(ふろう)長生(ちょうせい)の薬草(やくそう)を求めて、富士山麓の家(か)基(そ)都(と)(都)へ渡って来たという。この徐(じょ)福(ふく)が作ったとも伝わる『徐(じょ)福(ふく)十二史談(じゅうにしだん)』(『神代(しんだい)古記(こき)』の原形か?)の末尾には、秦(しんの)徐(じょ)福(ふく)佐利(さり)七代之嫡(ちゃく)流(りゅう)の秦(しんの)福寿(ふくじゅ)謹書(きんしょ) 建(けん)久(きゅう)寅3年3月(1192年)、宮(ぐう)司(じ)尾(お)宇(う)津(つ)須(す)ともあるという。また、この人物は、富士(ふじ)浅間(せんげん)神社(じんじゃ)の宮司(ぐうじ)の宮下源(みやしたげん)太夫(たゆう)義(よし)仁(ひと)であるという。そこで、特筆されるのは、この『徐(じょ)福(ふく)の福寿(ふくじゅ)謹書(きんしょ)』と、『秦(しん)徐(のじょ)福(ふく)』という、この『秦(しん)』の名称なのだ。つまり徐(じょ)福(ふく)とは、秦(しん)人(じん)(真人(しんじん)だ。)なのだ。そしてまた、『富士宮下(ふじのみやした)文書(もんじょ)』を見れば、我が国の文字のはじまりとしては、紀元前1800年以前だ。また、この頃の古代中国としては、『三(さん)皇(こう)五(ご)帝(てい)』(三(さん)皇(こう)は、伏(ふく)義(ぎ)・女(じょ)媧(か)・神農(しんのう)だ。天皇(てんのう)・地(ち)皇(のう)・人(じん)皇(のう)説もある。)の時代だが、この伏(ふく)義(ぎ)や、女(じょ)媧(か)とは、苗族(みゃおぞく)とも見られるという。また、神農(しんのう)とは、蛇(へび)の体を互いに巻きつけ合い、手にはコンパスと定規を持っていた、というから、海(かい)洋(よう)系(けい)竜(りゅう)蛇(じゃ)族(ぞく)(苗族(みゃおぞく)だ。)なのだ。そしてまた、神農(しんのう)氏(し)とは、530年間、およそ、8代も王朝が続いたという。最後は神農(しんのう)氏(し)の最後の皇帝の炎(えん)帝(てい)と、その兄弟の黄帝(こうてい)との争いに、この黄(こう)帝(てい)が勝利して、五(ご)帝(てい)の始祖(しそ)になった、というのだ。そしてまた、この五(ご)帝(てい)とは、『①こうてい・②ていせんぎょく・③ていごく・④ぎょう・⑤しゅん』があげられ、その後中国の伝説の王朝という『夏(か)王(おう)朝(ちょう)』が、BC2070年~1600年まで17代も続いた、というのだ。しかしながら、その後は、『殷(いん)王(おう)朝(ちょう)』によって亡ぼされたという。そしてまた、この『殷(いん)王(おう)朝(ちょう)』としては、BC1600年か~1100年まで続いた、とも伝えているが、そこで、神農(しんのう)氏(し)(実際は、海(かい)洋(よう)系(けい)の竜(りゅう)蛇(じゃ)族(ぞく)・苗(みゃお)族(ぞく)だ。)の最後の皇帝である炎(えん)帝(てい)の5男の農(のう)立(たつ)日子(ひこ)(書くことのできる集団が、淡路(あわじ)島(しま)にとどまったという。)や、7男の農(のう)佐(さ)之(の)男(おの)尊(みこと)(書くことのできる集団が、富(ふ)士(じ)北(ほく)麓(ろく)にとどまったという。)の渡来(とらい)を伝えるのだ。そしてまた、「国(くに)」と「農(のう)の」違いだが、国(くに)常(とこ)立(たつ)尊(のみこと)(農(のう)立(たつ)日子(ひこ)だ。)や、国(くに)佐(さ)槌(つち)尊(のみこと)(農(のう)佐(さ)之(の)男(おの)尊(みこと)だ。)の実像である、ということなのだ。そしてまた、神(しん)農(のう)氏(し)としては、農業の神で、薬草や商業を行った、とも伝えるからして、この神農(しんのう)氏(し)の実像としては、海(かい)洋(よう)系(けい)の竜(りゅう)蛇(じゃ)族(ぞく)(苗族(みゃおぞく)だ。)の末(まつ)胤(いん)である、ということなのだ。
さてそれでは、古代史評論家の佐治芳彦氏の著書『謎の東日流外(つがるそと)三郡誌(さんぐんし)』を見てみれば、後(こう)期(き)縄(じょう)文(もん)時(じ)代(だい)の東(つ)日(が)流(る)(津軽(つがる)だ。)地方には、阿蘇(あそ)部族(べぞく)(山岳族)や、津(つ)保化族(ぼけぞく)(海辺族(うみべぞく)。)らの2部族がいたという。また、伏(ふく)義(ぎ)の時代の漂着民(苗(みゃお)族(ぞく)か。)が居住していたという。また、『最(さい)古(こ)代(だい)東(つ)日(が)流(る)外(そと)三(さん)郡(ぐん)暦(れき)』を見れば、『互(たが)いに一族は混じて智者なる津(つ)保(ぼ)化(け)一(いち)族(ぞく)の中に混じたり。』とも伝えるのだ。また、神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)以前の日本の勢力分布図については、この『東(つ)日(が)流(る)三(さん)郡(ぐん)誌(し)』で見れば、『日本列島には、①奥州(おうしゅう)(東北(とうほく))に津(つ)保化族(ぼけぞく)が、②武州(ぶしゅう)(関東(かんとう))に宇津味族(うつみぞく)が、③越州(えっしゅう)(北陸(ほくりく))に奈津(なつ)三毛族(みけぞく)が、⑤濃州(のうしゅう)(東海(とうかい))に津(つ)称(と)奈(な)族(ぞく)が、⑥大(やま)和(と)(近畿(きんき))に宇止(つと)三毛族(みけぞく)が、⑦紀州(きしゅう)(紀伊(きい)半島)に奈津(なつ)三毛族(みけぞく)が、四国に大(おお)賀(み)味(か)族(ぞく)が、⑧因州(いんしゅう)(山陰(さんいん))に宇津(うつ)奴族(みぞく)が、⑨芸州(げいしゅう)(三陽(さんよう))に亜羅(あら)三毛族(みけぞく)が、⑩九(きゅう)州(しゅう)に猿田族(さるたぞく)(北九州)と日向族(ひゅうがぞく)(南九州)とが、それぞれ割拠していた。』というのだ。そしてまた、『互(たが)いに日本征討し、君主の鎮座を虎視眈々として武備をなして幾多の闘争をなして、その勢を張拡に志(こころざし)したり。』という状況にたちいたる、ともいうのだが、さてそこで、『津軽のみは、殺伐の侵略う好まず、己(おの)が一族の国造りに営みをなし、他心是なく山里海にその群居をなして豊かな暮しに満足(みちたり)たり。』(『最(さい)古(こ)代(だい)東(つ)日(が)流(る)外(そと)三(さん)郡(ぐん)暦(れき)』)とも伝えるのだ。そしてまた、佐治芳彦氏によれば、縄(じょう)文(もん)末期から弥生(やよい)初期にかけ、いわゆる『群(ぐん)雄(ゆう)割(かっ)拠(きょ)』していたが、この日本列島を最初に統一したのは、当時の五畿(ごき)王(おう)(畿内(きない)5カ国の王(おう)だ。)と言われた長(なが)彦(ひこ)大(おお)曾(そ)止(と)奴(みの)命(みこと)(実際は、大(おお)国(くに)主(ぬし)命(のみこと)だ。)の一族で、安(やす)日(び)彦(こ)(実際は、天(あまの)火(ほ)明(あかり)命(のみこと)だ。)や、長(なが)髄(すね)彦(ひこ)(実際は、天(あまの)香(かご)山(やま)命(のみこと)だ。)の(義)兄弟だった、ともいうのだ。そこで、畿内(きない)の5カ国の王(おう)という長(なが)彦(ひこ)大(おお)曾(そ)止(との)奴(みの)命(みこと)の実像としては、大(おお)国(くに)主(ぬし)命(のみこと)なのだ。また、この一族の安(やす)日(び)彦(この)命(みこと)こそが、その娘むこの天火(あまのほ)明(あかり)命(のみこと)(猿(さる)田(た)彦(ひこ)命(のみこと)だ。)なのだ。そしてまた、長髄彦(ながすねひこ)命(のみこと)の正体としては、天(あまの)香山(かごやま)命(のみこと)なのだ。また、オロチ王朝(竜(りゅう)蛇族(じゃぞく)だ。)や、出雲(いずも)王朝(おうちょう)(出(いず)雲(も)神(しん)族(ぞく)・宇津(うつ)奴族(みぞく)だ。)側から見れば、長(なが)髄(すね)彦(ひこ)命(のみこと)(天(あまの)香山(かごやま)命(のみこと)だ。)の側近の一部が、荒(あら)吐(ばき)族(ぞく)(出雲(いずも)神族(しんぞく)の宇(う)津(つ)奴(み)族(ぞく)か?)として、津(つ)軽(がる)地方へやってきた可能性が高い、とも推測されるのだ。
さてそれでは、『東(つ)日(が)流(る)外(そと)三(さん)郡(ぐん)誌(し)』を見れば、荒(あら)吐(ばき)族(ぞく)(出雲(いずも)神族(しんぞく)・宇津(うつ)奴族(みぞく)か。)とは、『日向族(ひゆうがぞく)に国を奪われた安(やす)日(び)彦(こ)(天火(あまのほ)明(あかり)命(のみこと)だ。)や、長髄彦(ながすねひこ)(天(あまの)香山(かごやま)命(のみこと)だ。)らの邪(や)馬(ま)台(たい)一族(いちぞく)(日向族(ひゆうがぞく)を征服して東征(とうせい)して来た猿田族(さるたぞく)の首長の側近の一部だ。)が、東日流(つるが)の地に、集団亡命して、その地の原住民となっていた津(つ)保(ぼ)化(け)族(ぞく)を、山地に追い、その頃に、同地に定着していた漂着(ひょうちゃく)民(みん)の集団(しゅうだん)とも混血して、荒吐(あらばき)一族(いちぞく)ともなった(東(つ)日(が)流(る)開(かい)闢(びゃく)よれば)という。これは九州へ派遣された初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)(実際は、宇(う)摩(ま)志(し)痲(ま)治(じ)尊(のみこと)・天(あまの)太(ふと)玉(だま)命(のみこと)だ。)や、彦(ひこ)五(いつ)瀬(せ)尊(のみこと)(実際は、天(あまの)香山(かごやま)命(のみこと)・長髄彦(ながすねひこ)命(のみこと)だ。)たちの2人が、日向族(ひゆうがぞく)を従えて東征して来た、ということなのだ。
さてそれでは、『荒(あら)吐(ばき)族(ぞく)戦(せん)乱(らん)録(ろく)』によれば、『荒吐(あらばき)一族(いちぞく)の手(た)研(ぎし)耳(みみ)命(のみこと)(実際は、天(あまの)村雲(むらくも)命(のみこと)・2代綏(すい)靖(ぜい)天皇(てんのう)だ。)敗れたるに依りて奥(おう)州(しゅう)に退く。』として、『五王同志にては観松彦(みまつひこ)命(のみこと)(実際は、5代孝(こう)昭(しょう)天皇(てんのう)・天(あまの)日(ひ)鉾(ぼこ)命(のみこと)だ。)のみを残して奥(おう)州(しゅう)に引帰り。』ともいうのだ。しかしながら、これは、2代綏(すい)靖(ぜい)天皇(てんのう)(天(あまの)村雲(むらくも)命(のみこと)・手(た)研(ぎし)耳(みみ)命(のみこと)だ。)こそが、その実子たちとの権力争いを起し、長男の3代安(あん)寧(ねい)天(てん)皇(のう)(実際は、天(あまの)忍(おし)人(ひと)命(のみこと)・天(あめの)富(とみ)命(のみこと)だ。)や、その実弟の天(あまの)忍(おし)男(お)命(のみこと)(実際は、由(ゆ)布(ふ)津(つ)主(ぬし)命(のみこと)・天(あまの)太(ふと)耳(みみ)命(のみこと)だ。)や、天(あまの)照(てる)日(ひ)命(のみこと)(実際は、天(あまの)日(ひ)鉾(ぼこ)命(のみこと)・4・5・6代懿(い)徳(とく)・孝(こう)昭(しょう)・孝(こう)安(あん)天(てん)皇(のう)だ。)たちに対し、この手(た)研(ぎし)耳(みみ)命(のみこと)(実際は、2代綏(すい)靖(ぜい)天皇(てんのう)・天(あまの)村雲(むらくも)命(のみこと)だ。)としては、この権力闘争に負け、この骨肉の争いを最終的に勝利した人物としては、長男の3代安(あん)寧(ねい)天(てん)皇(のう)(実際は天(あまの)忍(おし)人(ひと)命(のみこと)・天(あめの)富(とみ)命(のみこと)だ。)や、その娘むこで次男の天(あまの)忍(おし)男(お)命(のみこと)(実際は由(ゆ)布(ふ)津(つ)主(ぬし)命(のみこと)・天(あまの)太(ふと)耳(みみ)命(のみこと)だ。)や、同じ娘むこで3男の天(あまの)照(てる)日(ひ)命(のみこと)(実際は天(あまの)日(ひ)鉾(ぼこ)命(のみこと)・4・5・6代懿(い)徳(とく)・孝(こう)昭(しょう)・孝安(こうあん)天皇(てんのう)・観松彦(みまつひこ)命(のみこと)だ。)たち3人である、ということなのだ。しかしながら、実際としては、早めに、『次の天(てん)皇(のう)位(い)』を、長男である道(みちの)臣(おみの)命(みこと)(実際は天(あまの)道(みち)根(ねの)命(みこと)の3代安(あん)寧(ねい)天(てん)皇(のう)だ。)に譲って、3男の天(あまの)照(てる)日(ひ)命(のみこと)(天(あまの)日(ひ)鉾(ぼこ)命(のみこと)だ。)とも共に、当時の分国の新羅(しらぎ)国(こく)(辰(しん)韓(かん)の盟(めい)主(しゅ)国(こく)の期(さ)蘆(ろ)国(こく)だ。)の方へ来(き)韓(かん)した、ということなのだ。それでは、その後の3代安(あん)寧(ねい)天(てん)皇(のう)の崩御後としては、この3男の天(あまの)照(てる)日(ひ)命(のみこと)(天(あまの)日(ひ)鉾(ぼこ)命(のみこと)だ。)こそが、4・5・6代懿(い)徳(とく)・孝(こう)昭(しょう)・孝安(こうあん)天皇(てんのう)(観松彦(みまつひこ)命(のみこと)だ。)として、『次の天(てん)皇(のう)位(い)』を継承された、ということなのだ。
さてそれでは、この手(た)研(ぎし)耳(みみ)命(のみこと)(天(あまの)村雲(むらくも)命(のみこと)・2代綏(すい)靖(ぜい)天皇(てんのう)だ。)とは、荒吐(あらばき)一族(いちぞく)(出雲(いずも)神族(しんぞく)・宇(う)津(つ)奴(み)族(ぞく)だ。)というのだが、これは、荒(あら)吐(ばき)一(いち)族(ぞく)こそが、男系(だんけい)のオロチ王朝や、出雲(いずも)王朝(おうちょう)系の子孫である長彦大曾止(ながひこおおそと)奴(みの)命(みこと)(実際は大(おお)国(くに)主(ぬし)命(のみこと)だ。)や、その子(実際は、娘むこだ。)である長髄彦(ながすねひこ)命(のみこと)(実際は天(あまの)香山(かごやま)命(のみこと)だ。)や、また、長(なが)彦(ひこ)大(おお)曾(そ)止(と)奴(みの)命(みこと)(大(おお)国(くに)主(ぬし)命(のみこと)だ。)の娘むこの安(やす)日(び)彦(この)命(みこと)(天火(あまのほ)明(あかり)命(のみこと)・猿(さる)田(た)彦(ひこ)命(のみこと)・天(てん)孫(そん)族(ぞく)だ。)たちの一族である、ということなのだ。
さてそれでは、『伊(い)末(み)自(じ)由来記(ゆらいき)』という隠岐(おき)の島(しま)を語る古文書(こもんじょ)(『スサノオの来た道』朴 炳植著)を見てみれば、『隠岐(おき)の島(しま)に始めて住みついたの人間は木(こ)の葉比(はひ)というのであった。後の世の伝説に木(こ)の葉爺(はじい)、木(こ)の葉(は)婆(ばば)(木(こ)の葉(は)和紙(わし)とも関わるのだ。)とも呼ばれるのも此族であった。衣服は下に獣皮の衣を着て上に木の葉を塩水に浸して乾かした物を、川柳等の木皮で綴ったものを纏っていた。(途中略。)長い年月を経過してから、顔から全身に入墨をした物凄い風体の人間が来朝した。木(こ)の葉比(はひ)等(とう)は大いに驚き恐れ、各邑の住民が集合し一団となって物凄い新来者に立ち向かったところ、此新来者は阿(あ)麻(ま)と称し、至って穏やかで漁業に長じ、漁獲物を大量にくれるので、遂に、同和雑婚するようになり、此阿(あ)麻人(まじん)は年月と共に、相次いで来住、後には其数が木(こ)の葉比(はひ)等よりも多くなり、風俗や言語も木(こ)の葉比(はひ)等は、阿(あ)麻(ま)人化(じんか)してしまった。』というのだ。つまり木(こ)の葉比(はひ)とは、阿蘇(あそ)部族(べぞく)なのだ。そしてまた、阿(あ)麻人(まじん)こそが、津(つ)保(ぼ)化(け)族(ぞく)なのだ。さてそれでは、古代東(つ)日(る)流(が)人(じん)(阿(あ)蘇(そ)部(べ)族(ぞく)・津(つ)保化族(ぼけぞく)だ。)としては、熊をトーテムとする部族(楚(そ)国(こく)系(けい)の苗(みゃお)族(ぞく)だ。)である、ということなのだ。
さてそれでは、朝鮮の『三(さん)聖記(せいき)』によれば、『昔、桓(かん)国(こく)(実際は古(こ)朝(ちょう)鮮(せん)国(こく)だ。)があり、始祖の桓(かん)仁(にん)(実際は、秦(しん)の始(し)皇帝(こうてい)の長子(庶子)の扶蘇(ふそ)だ。)が居た。桓(かん)仁(にん)の国は、子・赫胥(あきてい)(実際は、支嬰(しえい)・3代孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)だ。)から、7代智(ち)為(な)利(り)(実際は金(くむ)蛙(あ)王(おう)だ。)まで続いた。』と伝えるのだ。また、『かつて、天上に安巴(あんと)堅(けん)(実際は、秦(しん)の始(し)皇帝(こうてい)だ。)という者がいて地上を見渡し、誰を地上に下して治めさせたらよいか、臣下(しんか)の神と相談した。桓(かん)雄(ゆう)(実際は、桓(かん)仁(にん)・扶蘇(ふそ)だ。)が一番ふさわしいということになり、桓(かん)雄(ゆう)(実際は、秦(しん)の始(し)皇帝(こうてい)の長子で庶子の扶蘇(ふそ)だ。)は、3000人の衆(しゅう)徒(と)を引きつれて、太(て)白(べく)山(ざん)の頂の壇樹(だんじゅ)の下に降り、都を開いて神(しん)市(し)と呼んだ。(途中略。)熊(くま)はこれを全うして、人間の女になった。桓(かん)雄(ゆう)(実際は、桓(かん)仁(にん)・扶蘇(ふそ)だ。)と交わって、子・有帳(ゆうちょう)(実際は、3代孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)・支嬰(しえい)だ。また、有帳(ゆうちょう)とは、熊族(ゆうぞく)の長(ちょう)だ。また、孫は右(う)渠(ご)王(おう)という。)を生んだ。これを壇(だん)君(くん)王(おう)倹(けん)(実際は、3代孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)・支嬰(しえい)だ。)と言った。』というのだ。そしてまた、王倹(おうけん)とは「別(べつ)伝(でん)」によれば、倍達桓(ばいたつかん)雄(ゆう)(実際は、3代孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)・子(し)嬰(えい)・有帳(ゆうちょう)だ。)と呼ばれた。はじめて天下を定めた者の称号である。この後、子の居(い)仏(ぶつ)理(り)(実際は、筑(ち)区宗孫(くそうそん)王(おう)・百済(くだら)国主(こくしゅ)の意(い)里(り)都(つ)解(かい)・竺(じく)達(たつ)王(おう)・筑紫(ちくし)王(おう)だ。)から、18代、居(い)弗(ふつ)(実際は朱蒙(ちゅもん)の実父の沃沮(よくそ)国(こく)の王という弗離支(ふつりし)だ。)に至った。』ともいうのだ。
さてそこで、天上に安巴(あんと)堅(けん)(実際は、秦(しん)の始(し)皇帝(こうてい)だ。)という者がいた、という、この安巴(あんと)堅(けん)の実像としては、秦(しん)の始(し)皇(こう)帝(てい)なのだ。また、北夷(ほくい)の国名という桓(かん)国(こく)とは、神(しん)市(し)(神の国だ。)の古(こ)朝(ちょう)鮮(せん)国(こく)なのだ。また、その始祖という桓(かん)仁(にん)(桓因(かんゆう)・桓(かん)雄(ゆう)だ。)の実像としては、秦(しん)の始(し)皇帝(こうてい)の長子(庶子だ。)の扶蘇(ふそ)なのだ。また、秦(しん)に征服された楚(そ)国(こく)の王女(おうじょ)(熊族(ゆうぞく)の王女(おうじょ)だ。)を娶ったのだ。その子としては、有(ゆう)帳(ちょう)(実際は、壇(だん)君(くん)王(おう)倹(けん)・赫胥(せきてい)・子(し)嬰(えい)である3代孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)の倍達桓(ばいたつかん)雄(ゆう)なのだ。)がいた、という。更に、孫としては、竺(ち)区(く)宋孫(そうそん)王(おう)がいたという。そこで、秦(しん)帝国(ていこく)の始(し)皇(こう)帝(てい)の『政(せい)』とは、紀元前の210年に亡くなっているのだ。また、次の、2代皇帝の胡(こ)亥(がい)皇帝(こうてい)とは、その6年後の紀元前の207年には、自殺に追い込まれるのだ。そしてまた、その後の3代皇帝の子(し)嬰(えい)(3代孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)・扶蘇(ふそ)の子だ。)とは、即位してから1カ月後に、前(ぜん)漢(かん)王朝の始祖という劉邦(りゅうほう)によって滅ぼされるが、このとき、『子(し)嬰(えい)は、白い馬、白い馬車、白装束という葬式される死人の装飾を身にまとい、さらに首に縄を掛けた上で玉璽(ぎょくじ)を持参して降伏。その一族ともども身の安全を保証された。(ウィキペディアから)』とも伝えるのだ。そしてまた、『劉邦(りゅうほう)は許したが、その直後に入城してきた項(こう)羽(う)によって、一族ともども処刑された。』とも伝えている、ということなのだ。
さてそれでは、『異端(いたん)日本(にほん)古代(こだい)史書(ししょ)の謎』著者の田中勝也氏によれば、『(前略)下篇では、上古、桓(かん)仁(にん)の国の領域を具体的地名で挙げている。また、その中にあらわれる「卑離(ひり)・養(よう)雲(くも)・寇莫(あば)汗(かん)(以下略。)」等については、中国晋代(しんだい)の北夷(ほくい)の国名とされる。』というのだ。そしてまた、朝鮮(ちょうせん)の『桓壇(かんだん)古記(こき)』では、神(しん)代(だい)、桓因(かんいん)という神がいた、という。その後、古(こ)朝(ちょう)鮮(せん)国(こく)の建国の始祖という壇(だん)君(くん)桓(かん)雄(おう)が、地上の桓(かん)国(こく)(実際は、古(こ)朝(ちょう)鮮(せん)国(こく)・大(おお)扶(ふ)余(よ)国(こく)だ。)に下った、というのだ。さてそれでは、『高(こう)句(く)麗(り)国(こく)本(ほん)紀(き)』によれば、桓(かん)国(こく)(実際は、古(こ)朝(ちょう)鮮(せん)国(こく)だ。)に、桓因(かんいん)(実際は、桓(かん)仁(にん)・桓(かん)雄(おう)・始(し)皇帝(こうてい)の長子の扶蘇(ふそ)だ。)が下ったのは、秦(しん)の始(し)皇帝(こうてい)の即位8年(BC239年だ。)というのだ。その後を受け、桓因(かんいん)(実際は、桓(かん)仁(にん)・桓(かん)雄(おう)・始(し)皇帝(こうてい)の長子の扶蘇(ふそ)だ。)の子の壇(だん)君(くん)王(おう)倹(けん)(実際は、壇(だん)君(くん)桓(かん)雄(おう)・子の支嬰(しえい)・3代孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)・有帳(ゆうちょう)だ。)が、『国号を古(こ)朝鮮(ちょうせん)国(こく)から大(おお)扶(ふ)餘(よ)国(こく)と改めた。』というのだ。
さてそれでは、『北(きた)扶(ふ)餘(よ)紀(き)』によれば、その始祖という壇(だん)君(くん)王(おう)検(けん)(実際は、扶蘇(ふそ)の子の3代孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)・支嬰(しえい)・有帳(ゆうちょう)だ。)から、47代目までの2096年間も王朝が続いた。』というのだが、しかしながら、これは創作された王朝なのだ。また、『47世の古列(これつ)加(か)の世の末に、解慕漱(へもす)(かいぼそう)が現れ、この王権(おうけん)を奪って北扶餘(きたふよ)国(こく)を建てた。』とも伝えるのだ。そしてまた、この解(へ)慕(も)漱(す)(かいぼそう)の後は、5代続いたが、『6代目の無胥(むて)(金(くむ)蛙(あ)王(おう)だ。)の世に、朱(ちゅ)蒙(もん)に、王権を奪われた。』ともいうのだ。そこで、これが、高(こう)句(く)麗(り)の建国(けんこく)である、ともいうのだ。つまりこの『北(きた)扶(ふ)餘(よ)紀(き)』によれば、初代解(へ)慕(も)漱(す)(かいぼそう)は、47世の古列(これつ)加(か)の世の末に現れ、『その王権(おうけん)を奪って北(きた)扶(ふ)餘(よ)国(こく)を建てた。』という人物なのだ。そしてまた、時代が降って、北扶餘(きたふよ)国(こく)の5代目の解(かい)夫(ふ)婁(ろう)(かいふろう)のとき、『迦葉(かしよ)原(はら)の地に遷都して国名を東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)国(こく)とした。』ともいうのだが、『その後、天(てん)帝(てい)の子を名乗る解慕漱(へもす)が現れた。』ともいうのだ。
さてそこで、順から整理すれば、2096年間も続いた創作された王朝(高(こう)句(く)麗(り)国(こく)本(ほん)紀(き)』では、桓因(かんいん)が下ったのは、秦(しん)の始(し)皇帝(こうてい)の即位8年・BC239年という。)の桓(かん)仁(にん)の国(桓(かん)国(こく)だ。また、実際は古(こ)朝(ちょう)鮮(せん)国(こく)だ。)は、その子の壇(だん)君(くん)王(おう)倹(けん)(実際は、壇(だん)君(くん)桓(かん)雄(おう)・子の支嬰(しえい)・3代孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)・有帳(ゆうちょう)だ。)が、『国号を古(こ)朝鮮(ちょうせん)国(こく)から大(おお)扶(ふ)餘(よ)国(こく)と改めた。』というのだ。そしてまた、『北(きた)扶(ふ)餘(よ)紀(き)』によれば、その始祖の壇(だん)君(くん)王(おう)検(けん)(実際は、扶蘇(ふそ)の子の3代孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)・支嬰(しえい)・有帳(ゆうちょう)だ。)から、『47代世の古列(これつ)加(か)の世の末に、解慕漱(へもす)(かいぼそう)が現れ、この王権(おうけん)を奪って北扶餘(きたふよ)国(こく)を建てた。』ということなのだが、しかしながら、この創作された『壇(だん)君(くん)の王国』の滅ぼされた、という最後の47世の古列(これつ)加(か)のモデルとしては、実際の年代から見れば、桓因(かんいん)(実際は、桓(かん)仁(にん)・桓(かん)雄(おう)・始(し)皇帝(こうてい)の長子の扶蘇(ふそ)だ。)の子である壇(だん)君(くん)王(おう)倹(けん)(実際は、3代孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)・支嬰(しえい)・有帳(ゆうちょう)の倍達桓(ばいたつかん)雄(ゆう)だ。)なのだ。そしてまた、『47代世の古列(これつ)加(か)の世の末に、解慕漱(へもす)(かいぼそう)が現れ、この王権(おうけん)を奪って北扶餘(きたふよ)国(こく)を建てた。』という人物こそが、その子の居(い)仏(ぶつ)理(り)(実際は、筑(ち)区宗孫(くそうそん)王(おう)・百済(くだら)国主(こくしゅ)、意(い)里(り)都(つ)解(かい)・竺(じく)達(たつ)王(おう)だ。)である、ということなのだ。そしてまた、『18代、居(い)弗(ふつ)(実際は、朱蒙(ちゅもん)の実父の沃沮(よくそ)国(こく)の王という弗離支(ふつりし)だ。)に至った。』ということなのだ。
さてそれでは、この王朝(実際は秦(しん)帝(てい)国(こく)だ。)の最後の47世の古列(これつ)加(か)のモデルである壇(だん)君(くん)王(おう)倹(けん)(実際は、3代孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)・支嬰(しえい)・有帳(ゆうちょう)の倍達桓(ばいたつかん)雄(ゆう)だ。)の実母としては、熊族(ゆうぞく)(実際は、楚(そ)国(こく)の王(おう)女(じょ)だ。)の王(おう)女(じょ)なのだ。なぜならば、楚(そ)国(こく)の始祖から、46代目の楚(そ)王(おう)の姓とは、熊(ゆう)だからだ。そしてまた、我が国に漂着した熊襲(くまそ)族(ぞく)や、木(こ)の葉比(はひ)(阿(あ)蘇(そ)部(べ)族(ぞく)だ。)や、阿(あ)麻(ま)人(じん)(津(つ)保化族(ぼけぞく)だ。)たちは、苗(みゃお)族(ぞく)系(けい)なのだ。そしてまた、熊族(ゆうぞく)としては、ユダヤのユを意味するのだ。そしてまた、この王朝こそが、実際は、ウガヤフキアエズ王朝(44~45代頃断絶あるからだ。)なのだ。なぜならば、壇(だん)君(くん)王(おう)検(けん)(実際は3代孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)・支嬰(しえい)・有帳(ゆうちょう)だ。)から、2096年間も続いた王朝の最後の47代目が、古(こ)列(れつ)加(か)(実際は3代孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)・支嬰(しえい)・有帳(ゆうちょう)だ。)で、解慕漱(へもす)(かいぼそう)が現れ、この王権(おうけん)を奪って、北扶餘(きたふよ)国(こく)(実際は実子の筑(ち)区宗孫(くそうそん)王(おう)・百済(くだら)国主(こくしゅ)、意(い)里(り)都(つ)解(かい)・竺(じく)達(たつ)王(おう)・筑紫(ちくし)王(おう)だ。)を建てた。』というからなのだ。そしてまた、熊族(ゆうぞく)(実際は楚(そ)国(こく)の王(おう)女(じょ)だ。)の娘を娶った、という桓因(かんいん)(実際は、桓(かん)仁(にん)・桓(かん)雄(おう)・始(し)皇帝(こうてい)の長子の扶蘇(ふそ)だ。)こそが、秦(しん)の始(し)皇帝(こうてい)の長子(庶子だ。)の扶(ふ)蘇(そ)であれば、その扶蘇(ふそ)の実母(始(し)皇帝(こうてい)の妃(きさき)だ。)としては、燕(えん)国(こく)の燕人(えんじん)の血が流れていた、ということなのだ。なぜならば、始(し)皇(こう)帝(てい)が、天下統一をするBC221年の頃には、燕(えん)国(こく)としては、秦(しん)帝国(ていこく)によって滅ぼされたからなのだ。つまり始(し)皇帝(こうてい)の長子(庶子だ。)の扶蘇(ふそ)の実母としては、燕国(えんこく)の王(おう)女(じょ)の可能性が高い、ということなのだ。そしてまた、、その少し前には、春(しゅん)秋(じゅう)戦(せん)国(ごく)時(じ)代(だい)の強国(きょうこく)である楚(そ)国(こく)が、魯(ろ)国(こく)を吸収しているのだ。そしてまた、楚(そ)国(こく)の建国には苗(みゃお)族(ぞく)が大いに関わっているというのだ。そしてまた、魯(ろ)国(こく)を吸収したという楚(そ)国(こく)(実際は楚(そ)王(おう)の姓は、熊(ゆう)だ。)の王(おう)には、この魯(ろ)国(こく)の王室(おうしつ)の血が入った可能性が高いのだ。そしてまた、楚(そ)国(こく)としてはBC223年に、秦(しん)帝国(ていこく)によって鎮圧された國なのだが、この楚(そ)国(こく)から独立した元(もと)楚(そ)国(こく)の将軍の項(こう)羽(う)によって、前(ぜん)漢(かん)王朝の始祖の劉邦(りゅうほう)が許した、という秦(しん)の3代皇帝(こうてい)の支嬰(しえい)や、その一族たちは、皆殺しされた、とも伝えるのだ。さてそこで、秦(しん)帝国(ていこく)は3代で滅びたのだが、『壇(だん)君(くん)世紀(よき)』」によれば、『壇(だん)君(くん)の王国』とは、太(て)白(ぺく)山(ざん)(白(べく)頭(とう)山(ざん))のふもとの朝(ちょう)鮮(せん)族(ぞく)の住む自治区の境界線付近を中心とした慕(ぼ)韓(かん)・真(しん)韓(かん)・番(ばん)韓(かん)の3国からなる伝説の国家である、という。また、35世の壇(だん)君(くん)沙(さ)伐(ばつ)のとき、『海上に熊襲(くまそ)を討った』という記述がある、という。つまりこれは、倭(わ)国(こく)の熊襲(くまそ)なのだ。(熊本(くまもと)や、熊野(くまの)など熊(ゆう)と関わることを暗示しているのだ。)
さてそこで、『北(きた)扶(ふ)餘(よ)紀(き)』によれば、『また、時代が降って、北扶餘(きたふよ)国(こく)の5代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)(かいふろう)のとき、迦葉(かしよ)原(はら)の地に遷都して国名を東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)国(こく)とした。』ともいうのだ。また、『その後、天(てん)帝(てい)の子を名乗る解慕漱(へもす)が現れた。』ともいうのだ。そしてまた、『三(さん)国(ごく)史(し)記(き)東(とん)明(みょん)聖(そん)王(おう)紀(き)(朱蒙(ちゅもん)王(おう)紀(き)だ。)』によれば、5代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)(かいふろう)のとき、宰相(さいそう)の阿(あ)蘭(らん)弗(ふつ)の進言によって、5代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)は『迦葉(かしよ)原(はら)の地に遷都され、国名を東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)国(こく)とした』ともいうのだ。その後、『天(てん)帝(てい)の子を名乗る解慕漱(へもす)が現れた。』ともいうのだ。
さてそれでは、最後の47世の古列(これつ)加(か)と見られる壇(だん)君(くん)王(おう)倹(けん)(実際は、3代孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)・支嬰(しえい)・有帳(ゆうちょう)の倍(ばい)達(たつ)桓(かん)雄(ゆう)だ。)の子の居(い)仏(ぶつ)理(り)(実際は、筑(ち)区宗孫(くそうそん)王(おう)・百済(くだら)国主(こくしゅ)、意(い)里(り)都(つ)解(かい)・竺(じく)達(たつ)王(おう)・然(ぜん)能(のう)解(かい)・筑紫(ちくし)王(おう)だ。)としては、実際は、初代解(へ)慕(も)漱(す)(かいぼそう)として、北(きた)扶餘(ふよ)国(こく)の始祖となった、ということなのだが、また、その子としては法(ほう)成(せい)王(おう)がいた、ということなのだ。つまり2代解(へ)慕(も)漱(す)(かいぼそう)なのだ。そしてまた、この後、18代の居(い)弗(ふつ)(実際は、朱蒙(ちゅもん)の実父の沃沮(よくそ)国(こく)の王という弗離支(ふつりし)だ。)に至った。』ということなのだ。
さてそれでは、渤(ぼっ)海(かい)国(こく)の『太(たい)白(はく)逸(いつ)史(し)』によれば、壇(だん)君(くん)の王国が、前漢(ぜんかん)の劉邦(りゅうほう)によって亡ぼされた後に、鴨(おう)緑(りょっ)江(こう)の畔(ほとり)の勢力の高(こう)豆(ず)莫(ば)汗(かん)倡(と)儀(ぎ)という人物が、ふたたび『壇(だん)君(くん)を名乗った』とも伝えているのだ。また、第2子には、高辰(こうしん)というものがいて、『稾離(わらり)国(こく)の王となった。』というのだ。また、この高辰(こうしん)の孫には、弗(ふつ)離(り)支(し)がいて、『沃沮(よくそ)国(こく)の王となった。』ともいうのだ。また、この弗離支(ふつりし)とは、『あるとき、鴨(おう)緑(りょっ)江(こう)の畔(ほとり)で、河(かわ)伯(はく)(河(かわ)神(かみ)だ。)の女(むすめ)の柳(りゅう)花(か)に出逢い、2人は結婚して、朱蒙(ちゅもん)が生れた。父の弗(ふつ)離(り)支(し)が死んだとき、朱蒙(ちゅもん)は、母の柳(りゅう)花(か)とともに父の国を離れ、迦(かし)葉(よ)原(はら)扶(ふ)餘(よ)、即ち東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)におもむき、その王(おう)家(け)に仕えて牧馬にたずさわった。やがて王(おう)家(け)の人々の忌みうとんじられて、卒(ちょる)本(ぼん)扶(ふ)餘(よ)に逃げて国を建てた。これが、高句(こうく)麗(り)の興りである。』とも伝えるのだ。
そしてまた、『三(さん)国(ごく)史(し)記(き)東(とん)明(みょん)聖(そん)王(おう)紀(き)(朱蒙(ちゅもん)王(おう)紀(き)だ。)』によれば、『北(きた)扶(ふ)餘(よ)国(こく)の5代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)(かいふろう)の後は、6代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)が現れ、その後は、6世孫の無胥(むて)(金(くむ)蛙(あ)王(おう)だ。)の世に、朱蒙(ちゅもん)が高句(こうく)麗(り)を建国した。』というのだ。そしてまた、『三国遺事(さんごくいじ)』によれば、『解(へ)慕(も)漱(す)は、北(きた)扶餘(ふよく)国(こく)を、1代治めただけで朱蒙(ちゅもん)のために、その国を追われた。』というのだ。そしてまた、『北(きた)扶餘(ふよ)紀(き)』によれば、4代解(かい)于(こ)婁(ろう)が、世を去ったとき、その弟という5代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)が継いで即位するが、『東(とん)明(みょん)王(おう)(朱蒙(ちゅもん))のために追われた。』というのだ。また、『4代解夫婁(かいふろう)とは、解(へ)慕(も)漱(す)(かいぼそう)の子ともなっている。』というのだ。
そしてまた、『北(きた)扶(ふ)餘(よ)紀(き)』の附属部分の『迦(かし)葉(よ)原(はら)扶(ふ)餘(よ)紀(き)』によれば、『3代目は、帯(て)素(そ)王(おう)だ。』という、その後は、高句(こうく)麗(り)國(こく)との戦争など、『三(さん)国(ごく)史(し)記(き)』の記事と合う部分がある、というのだ。
さてそれでは、朱蒙(ちゅもん)の実父とは、弗離支(ふつりし)なのだが、つまり『居(い)仏(ぶつ)理(り)(竺(ち)区(く)宋孫(そうそん)王(おう)・竺(じく)達(たつ)王(おう)・百済(くだら)国主(こくしゅ)の意里(いり)都(つ)解(かい)・然(ぜん)能(のう)解(かい)・筑紫(ちくし)王(おう)だ。)から、18代、居(い)弗(ふつ)(弗離支(ふつりし)だ。)に至った。」とも、『三(さん)聖記(せいき)』で伝える弗(ふつ)離(り)支(し)である、ということなのだ。また、その先祖という高(こう)豆(ず)莫(ば)汗(かん)倡(と)儀(ぎ)という人物こそが、法(ほう)成(せい)王(おう)とも推測されるのだ。
さてそれでは、この時代としては、歴史上で言えば、箕子(きし)朝鮮(ちょうせん)王朝の最後の王の準王(じゅんおう)の時代なのだ。そしてまた、この箕(き)子(し)朝(ちょう)鮮(せん)王朝の始祖という箕子(きし)とは、中国古代の殷(いん)王朝の28代文(ぶん)丁(ちょう)王(おう)の子なのだ。また、その甥(おい)が、殷(いん)の紂(ちゅう)王(おう)なのだ。また、この箕子(きし)という人物は、その甥(おい)の紂(ちゅう)王(おう)の暴政(ぼうせい)を諌(いさ)めた賢人(けんじん)ということだが、殷(いん)の滅亡後、周(しゅう)王朝の始祖という武(ぶ)王(おう)が、この箕子(きし)王(おう)を朝(ちょう)鮮(せん)に封じた、とも伝えているのだ。そしてまた、その41代目の王とは、箕(き)子(し)朝(ちょう)鮮(せん)王朝の最後の準(じゅん)王(おう)なのだ。しかしながら、実際としては、殷(いん)王朝の28代文(ぶん)丁(ちょう)王(おう)の子ならば、殷(いん)王朝とは、紀元前1600年から1100年まで続いた、と伝えているから、この箕子(きし)王(おう)が朝(ちょう)鮮(せん)に封じられた時代とは、紀元前1100年以上も以前の出来事なのだ。そしてまた、最後の準(じゅん)王(おう)は、紀元前194年(実際は、BC239年頃だ。)に燕人(えんじん)(猿田族(さるたぞく)の先祖だ。)の衛(えい)満(まん)によって、その居城の王(わん)倹(ごん)城(じょう)(平(ぴょん)壌城(やんじょう)だ。)を攻落されているが、その間は、900年以上もの開きがあるのだ。つまりこの衛(えい)満(まん)とは、衛(えい)氏(し)朝(ちょう)鮮(せん)(実際は、古(こ)朝(ちょう)鮮(せん)国(こく)だ。)を興(おこ)す、というが、このとき、準(じゅん)王(おう)は、数千人の残党を連れて海に入り、馬(ば)韓(かん)(朝鮮の南部地域だ。)をせめ、これを撃ち破って韓(かん)王(おう)として自立したという。しかしながら、一代で終わり、再び韓人(かんじん)(桓(かん)人(じん)だ。)が復位(ふくい)した、とも伝えるのだ。そしてまた『箕子(きし)朝鮮(ちょうせん)王朝』とは創作された王朝と伝わるから、この壇(だん)君(くん)の王国や、箕(き)子(し)朝(ちょう)鮮(せん)王朝など、1000年ものロングな王朝が果たして朝鮮(ちょうせん)に存在したのだろうか?つまり箕子(きし)朝鮮(ちょうせん)王朝が創作された王朝であれば、それでは、この王朝を滅ぼした、という衛(えい)氏(し)朝(ちょう)鮮(せん)の衛(えい)満(まん)とは、いったい誰なのか?ということになるのだ。そこで、燕(えん)国(こく)(北京(ぺきん)の地域だ。)から亡命してきた、というの燕(えん)人(じん)の衛(えい)満(まん)の実像としては、猿田族(さるたぞく)の先祖とも推測されるから、やっぱりその実像としては、秦(しん)帝(てい)国(こく)の始(し)皇(こう)帝(てい)の長子(庶子だ。)の扶蘇(ふそ)なのだ。つまり蘇(そ)我(が)氏(し)なのだ。つまり衛(えい)氏(し)朝(ちょう)鮮(せん)を興こした、という衛(えい)満(まん)=準(じゅん)王(おう)(最後の準(じゅん)王(おう)のモデルとしては、馬(ば)韓(かん)を攻めて韓(かん)王(おう)となった人物というから、その実像としては、扶蘇(ふそ)だ。)なのだ。そしてまた、その孫の右渠(うご)王(おう)のときに、衛(えい)氏(し)朝(ちょう)鮮(せん)は、『前漢(ぜんかん)の始祖の劉邦(りゅうほう)によって滅ぼされた。』と伝えるのだ。つまり秦(しん)帝(てい)国(こく)の3代皇帝の子(し)嬰(えい)(扶蘇(ふそ)の実子だ。)こそが、やっぱり即位してから1カ月後に、『前漢(ぜんかん)の始祖という劉邦(りゅうほう)によって滅ぼされた。』と伝えるのともダブって重なるのだ。そしてまた、この箕子(きし)朝鮮(ちょうせん)王朝の最後の準(じゅん)王(おう)の居城という王(おう)倹(けん)城(じょう)(平(ぴょん)壌城(やんじょう)だ。)を攻落して、衛(えい)氏(し)朝(ちょう)鮮(せん)(古(こ)朝(ちょう)鮮(せん)国(こく)だ。)を興(おこ)した、という衛(えい)満(まん)こそが、実際は、壇(だん)君(くん)の王国の始祖という桓(かん)仁(にん)(桓因(かんゆう)・桓(かん)雄(ゆう)だ。)で、秦(しん)の始(し)皇帝(こうてい)の長子(庶子だ。)である扶蘇(ふそ)である、ということなのだ。なぜならば、孫の右渠(うご)王(おう)のとき、衛(えい)氏(し)朝(ちょう)鮮(せん)は『前漢(ぜんかん)の始祖の劉邦(りゅうほう)によって滅ぼされた。』というからだ。つまり紀元前194年に、燕人(えんじん)(猿田族(さるたぞく)の先祖だ。)の衛(えい)満(まん)によって、その居城の王倹(おうけん)城(じょう)(平(ぴょん)壌城(やんじょう)だ。)を攻落された、というのではおかしいからだ。実際はBC207年頃なのだ。つまり壇(だん)君(くん)王(おお)倹(けん)(実際は、倍(ばい)達(たつ)桓(かん)雄(ゆう)・有帳(ゆうちょう)・熊族(ゆうぞく)の長(ちょう)だ。)である3代孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)の子(し)嬰(えい)である、ということなのだ。また、楚(そ)国(こく)の王(おう)女(じょ)(熊族(ゆうぞく)の王(おう)女(じょ)だ。)と、扶蘇(ふそ)との2人間に、そのもうけた実子である3代孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)(子(し)嬰(えい)だ。)なのだ。そしてまた、その実子としては、竺(ち)区(く)宋孫(そうそん)王(おう)(竺(じく)達(たつ)王(おう)・竹支(ちくし)王(おう)・筑(ちく)紫(し)王(おう)だ。)がいた、ということなのだ。そしてまた、この人物こそが、居(い)仏(ぶつ)理(り)や、百(く)済(だら)国(こく)主(しゅ)の意里(いり)都(つ)解(かい)である、ということなのだ。そしてまた、その実子としては、法(ほう)成(せい)王(おう)がいた、ということなのだ。
つまり実際の『壇(だん)君(くん)の王国』としては、朱(ちゅ)蒙(もん)が、高(こう)句(く)麗(り)を建国するまでの間の、BC239~BC37年までの、200年間なのだ。そしてまた、孫の右(う)渠(ご)王(おう)の実像としては、宋孫(そうそん)王(おう)(実際は、竺(じく)達(たつ)王(おう)・竹(ちく)支(し)王(おう)・筑紫(ちくし)王(おう)だ。)の居仏(いぶつ)理(り)であれば、『新撰(しんせん)姓(しょう)氏録(じろく)』でいう百済(くだら)国主(こくしゅ)の意里(いり)都(つ)解(かい)(然(ぜん)能(の)解(かい)公(こう)だ。)ではないか。そしてまた、7代目の無胥(むて)(金(くむ)蛙(あ)王(おう)だ。)までの時代こそが、200年間なのだ。また、居仏(いぶつ)理(り)や、意里(いり)都(つ)解(かい)とは、然(ぜん)能(のう)解(かい)や、宋(そう)孫(そん)王(おう)や、竺(じく)達(たつ)王(おう)や、竹(ちく)支(し)王(おう)や、筑紫(ちくし)王(おう)や、初代解慕漱(へもす)(かいぼそう)である、ということなのだ。そしてまた、北扶餘(きたふよ)国(こく)を建てた、という人物なのだ。また、その第1子こそが、法(ほう)成(せい)王(おう)なのだ。そしてまた、熊が人間の女になって桓(かん)雄(ゆう)(桓(かん)仁(にん)・扶蘇(ふそ)だ。)と交わって、その子が有帳(ゆうちょう)の壇(だん)君(くん)王(おう)倹(けん)(実際は、熊族(ゆうぞく)の長(ちょう)・赫(せき)胥(てい)・倍(ばい)達(たつ)桓(かん)雄(ゆう)だ。)というが、その実像としては、3代孝(こう)武(ぶ)皇(こう)帝(てい)(扶(ふ)蘇(そ)の子の子(し)嬰(えい)だ。)なのだ。そしてまた、その弟という武(ぶ)王(おう)という人物の実像としては、3代孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)(子(し)嬰(えい)だ。)の分身なのだ。また、その子こそが、竺(ち)区(く)宋孫(そうそん)王(おう)(筑(ちく)紫(し)王(おう)だ。)なのだ。そこで、『新(しん)撰(せん)姓(しょう)氏(じ)録(ろく)』を見てみれば、『秦(しん)の姓(かばね)、秦(しんの)始皇帝(しこうてい)の13世孫、然(ぜん)能(の)解(かい)公(こう)の後なり。』とも伝えているのだ。そしてまた、『秦造(しんのみやつこ)、秦(しんの)始皇帝(しこうてい)の5世孫、融(ゆう)通(ずう)王(おう)(実際は、はるか遠い子孫の14代仲哀(ちゅうあい)天皇(てんのう)・御(み)諸(もろ)別(わけ)命(のみこと)だ。)の後なり。』や、また、『秦(しんの)公(きみ)、秦(しんの)始(し)皇(こう)帝(てい)の孫、孝(こう)徳(とく)王(おう)の後なり。』や、また、『秦忌(しんのいみ)寸(き)、太秦公宿禰(うずまさのすくね)、秦(しんの)始皇帝(しこうてい)の4世孫、功(こう)満(まん)王(おう)(実際は、法(ほう)成(せい)王(おう)だが、はるか遠い子孫である倭(やまと)武(たける)尊(のみこと)の功(こう)満(まん)王(おう)の時代まで一気に飛んでいるのだ。)の後なり。』や、そしてまた『物集連(ものめのむらじ)、始皇帝(しこうてい)の9世孫(4世孫だ。)、竺(じく)達(たつ)王(おう)(竹支(ちくし)王(おう)・竺(ち)区(く)宋孫(そうそん)王(おう)・筑(ちく)紫(し)王(おう)だ。)の後なり。』などとも伝えているから、この物集連(ものめのむらじ)とは、山(やま)城(しろの)国(くに)乙(おと)訓(くに)郡(ぐん)物(もの)集(め)郷(ごう)(京都府向(むこ)日(う)市(し)物(も)集(の)女(め)町(まち)だ。)を地盤とする勢力なのだが、実際は、物(もの)部(のべ)氏(し)の一族なのだ。なぜならば、山(やま)城(しろ)州(しゅう)葛(くず)野(の)郡(ぐん)楓(かえで)野(の)町(まち)大(おお)堰(せき)郷(ごう)の『広(こう)隆(りゅう)寺(じ)由(ゆ)来(らい)記(き)』の『秦(はた)氏(し)系図(けいず)』を見てみれば、①秦(しんの)始皇帝(しこうてい)~②胡(こ)亥(がい)皇帝(こうてい)~③孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)~④竺(ち)区(く)宋孫(そうそん)王(おう)(筑(ちく)紫(し)王(おう)だ。)という系譜が残っているからなのだ。
そしてまた、『新(しん)撰(せん)姓(しょう)氏(じ)録(ろく)』の解説者の佐伯(さえき)有(あり)清氏(きよし)は、『竺(ち)区(く)宋孫(そうそん)王(おう)は、竺(じく)達(たつ)王(おう)(竹支(ちくし)王(おう)・筑紫(ちくし)王(おう)だ。)ではないか。』も指摘されているのだ。ところで、秦(しん)帝(てい)国(こく)3代皇帝の孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)の子(し)嬰(えい)(扶(ふ)蘇(そ)の子だ。)の弟が武(ぶ)王(おう)で、この『武(ぶ)王(おう)の弟が竺(ち)区(く)宋孫(そうそん)王(おう)ではないか。』とも指摘されるのだ。そこで『秦(はた)氏(し)系図(けいず)』から推測すれば、武(ぶ)王(おう)とは、3代孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)(子(し)嬰(えい)だ。)の分身である、ということなのだ。
そしてまた、『坂(さかの)上(うえ)系(けい)図(ず)』の功(こう)満王(まんおう)の実像としては、倭(やまと)武(たける)尊(のみこと)の百済(くだら)王(おう)の速(そく)古(こ)大王(だいおう)とも推測されるから、その子という融通(ゆうずう)王(おう)の実像としては、14代仲哀(ちゅうあい)天皇(てんのう)の御(み)諸(もろ)別(わけ)命(のみこと)とも推測されるのだ。また、太(うず)秦(まさの)公(きみ)の実像とは、22代雄略(ゆうりゃく)天皇(てんのう)とも推測されるのだ。つまりこの時代の何世孫の記述とは、まったく信用できないのだ。そこで『坂上(さかのうえ)系図(けいず)』や『坂上(さかのうえ)系図(けいず)別(べつ)本(ほん)』を見れば、その先祖とは、後(ご)漢(かん)王朝の孝献(こうけん)帝(てい)の子の孝(こう)徳(とく)王(おう)(石(せき)秋(しゅう)王(おう)だ。)とも伝えるのだ。そしてまた、その子や孫とは、山陽(さんよう)公(こう)や、阿(あ)智(ちの)使(お)主(み)(実際は17代仁徳天皇(にんとくてんのう)・荒田(あらた)別命(わけのみこと)だ。)へ続く、ということだが、また、『新撰(しんせん)姓(しょう)氏録(じろく)』を見てみれば、『台(うてなの)忌(いみ)寸(き)、河内忌(かわちのいみ)寸(き)と同じ祖、漢(かん)の孝献(こうけん)帝(てい)の男(こ)、白(はき)竜王(りゅうおう)の後なり。』とも伝えるのだ。また、『山代忌(やましろのいみ)寸(き)、魯(ろ)国(こく)の白(はく)竜王(りゅうおう)より出ず。』とも伝えるのだが、しかしながら、これは、秦(しん)帝国(ていこく)を滅ぼした漢(かん)王朝にあやかることによって、その先祖の隠蔽を図っている、とも推測されるのだ。
つまり後漢(ごかん)王朝の孝献(こうけん)帝(てい)の子という孝(こう)徳(とく)王(おう)の実像としては、実際は、滅ぼされた側の秦(しん)帝国(ていこく)の3代孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)(子(し)嬰(えい)・有帳(ゆうちょう)だ。)なのだ。また、魯(ろ)国(こく)の白(はく)竜王(りゅうおう)の実像としては、これも孝(こう)徳(とく)王(おう)の実像の3代孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)(武(ぶ)王(おう)だ。)なのだ。なぜならば、『広(こう)隆(りゅう)寺(じ)由(ゆ)来(らい)記(き)』に伝える竺(ち)区(く)宋孫(そうそん)王(おう)(竺(じく)達(たつ)王(おう)・竹支(ちくし)王(おう)・筑紫(ちくし)王(おう)だ。)の実像こそが、孝(こう)徳(とく)王(おう)(孝(こう)武(ぶ)王(おう)・3代孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)だ。)の実子というからなのだ。
そしてまた、『広隆寺造寺(こうりゅうじぞうじ)勅使(ちょくし)大(だい)花(か)下(げ)秦(はたの)造(みやつこ)川(かわ)勝(かつの)臣(おみ)(実際は、久米皇子だ。)本(ほん)系(けい)図(ず)』の『聖(しょう)誉(ほまれ)鈔(しょう)』によれば、『秦(しん)帝国(ていこく)が滅ぶ時、子(し)嬰(えい)帝(てい)の皇后が殺されるのを恐れて、帝(みかどの)后(きさき)の一族である宗族(そうぞく)(楚軍(そぐん)だ。)の中で、特に山城(やましろの)国(くに)乙訓郡物集(おとくにぐんものめ)郷(ごう)に土着したという勝部(まさるべ)(宗(そう)族(ぞく)・物(もの)部族(のべぞく)・猿(さる)田(た)族(ぞく)だ。)が、ひそかに(年4才の)稚子(ちご)の王子を酒(さけ)壺(つぼ)の中に入れて逃がして成人させた。』とも伝えているからなのだ。また、この年4才の稚子(ちご)という王子こそが、実際は、宗(そう)孫(そん)王(おう)(筑紫(ちくし)王(おう)だ。)ということなのだ。そしてまた、その子としては、法(ほう)成(せい)王(おう)がいる、とも伝えているのだ。
さてそれでは、このときの一文を記せば、『誅殺子(し)嬰(えい)帝了。従類皆悉(ことごとく)殺害了。子(し)嬰(えい)帝一男有(年4歳。)帝后恐楚軍身著布衣鄙形替言隠帳中育畢。至成人其名酒。自瓶中成人故也』とも伝えるのだ。
そしてまた、『新撰(しんせん)姓(しょう)氏録(じろく)』を見てみれば、『弖(て)良(らの)公(きみ)、百済(くだら)国主(こくしゅ)、意里(いり)都(つ)解(かい)(居仏(いぶつ)理(り)・竺(ち)区(く)宋(そう)孫(そん)王(おう)・竺(じく)達(たつ)王(おう)・筑紫(ちくし)王(おう)だ。)の4世孫、秦(しん)羅(らの)君(きみ)の後なり。』と伝えるから、倍達桓(ばいたつかん)雄(ゆう)(実際は、3代孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)だ。)の子という居(い)仏(ぶつ)理(り)とは、竺(ち)区(く)宋(そう)孫(そん)王(おう)(筑紫(ちくし)王(おう)だ。)なのだ。なぜならば、『理(り)』を『解(かい)』と読むならば、『いぶつかい』や、『いりつかい』の、『ぶ』と、『り』の違いであるからなのだ。そしてまた、百(く)済(だら)国(こく)主(しゅ)という意(い)里(り)都(つ)解(かい)こそが、竺(ち)区(く)宋孫(そうそん)王(おう)の竺(じく)達(たつ)王(おう)(筑紫(ちくし)王(おう)だ。)なのだ。そしてまた、その始祖の桓(かん)仁(にん)(実際は、桓因(かんゆう)・桓(かん)雄(ゆう)・扶蘇(ふそ)だ。)の実像としては、秦(しん)の始(し)皇帝(こうてい)の長子(庶子)の扶蘇(ふそ)なのだ。そしてまた、その子としては、壇(だん)君(くん)王(おう)倹(けん)(実際は、倍達桓(ばいたつかん)雄(ゆう)・有帳(ゆうちょう)・熊族(ゆうぞく)の長(ちょう)・赫胥(せきてい)だ。)である3代孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)の子(し)嬰(えい)がいた、ということなのだ。そしてまた、その子の竺(ち)区(く)宋(そう)孫(そん)王(おう)(竺(じく)達(たつ)王(おう)・筑紫(ちくし)王(おう)だ。だ。)の子としては、法(ほう)成(せい)王(おう)がいた、ということなのだ。つまり居仏(いぶつ)理(り)や、意(い)里(り)都(つ)解(かい)とは、『新撰(しんせん)姓(しょう)氏録(じろく)』にいう『秦(しん)の姓(かばね)・秦(しんの)始皇帝(しこうてい)の13世孫の然(ぜん)能(のう)解(かい)』という人物とも同一人物なのだ。
さてそれでは、山(やま)城(しろの)国(くに)乙(おと)訓(くに)郡(ぐん)物(もの)集(め)郷(ごう)に土着した勝部(まさるべ)(実際は、宗(そう)族(ぞく)・物(もの)部族(のべぞく)だ。)が、ひそかに年4才の稚(ち)子(ご)の王子を酒(さけ)壺(つぼ)の中に入れて、逃がして成人させた、というから、この人物が、衛(えい)氏(し)朝(ちょう)鮮(せん)(実際は、古(こ)朝(ちょう)鮮(せん)国(こく)だ。)を興(おこ)した衛(えい)満(まん)の実像である扶蘇(ふそ)の孫の宗(そう)孫(そん)王(おう)、つまり右(う)渠(きよ)(竺(じく)達(たつ)王(おう)・竹支(ちくし)王(おう)・筑(ちく)紫(し)王(おう)だ。)なのだ。そしてまた、最後は、南鮮(なんせん)の馬(ば)韓(かん)(百済(くだら)方面だ。)へ逃れたということなのだ。また、その実子としては、法(ほう)成(せい)王(おう)なのだ。それでは、少し整理して見たいと思う。
●衛(えい)氏(し)朝(ちょう)鮮(せん)(『古(こ)朝(ちょう)鮮(せん)国(こく)』だ。)を興(おこ)した燕(えん)人(じん)の衛(えい)満(まん)こそが、秦(しん)帝(てい)国(こく)の始(し)皇(こう)帝(てい)の長子(庶子だ。)の扶蘇(ふそ)なのだ。また、『壇(だん)君(くん)の王国』の始祖の桓(かん)仁(にん)(実際は、桓因(かんゆう)・桓(かん)雄(ゆう)だ。)なのだ。また、創作された『箕(き)子(し)朝(ちょう)鮮(せん)王朝』の最後の準(じゅん)王(おう)のモデルなのだ。~
●壇(だん)君(くん)王(おう)倹(けん)とは、秦(しん)帝(てい)国(こく)の3代孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)の子(し)嬰(えい)(扶蘇(ふそ)の実子だ。)なのだ。また、『壇(だん)君(くん)の王国(『大(おお)扶(ふ)餘(よ)国(こく)』だ。)』の始祖で、実際は、初代解(かい)于(い)婁(ろう)(かいいろう)(倍(ばい)達(たつ)桓(かん)雄(ゆう)・有(ゆう)帳(ちょう)だ。)なのだ。~
●燕(えん)人(じん)の衛(えい)満(まん)の孫という右(う)渠(きよ)こそが、実際は、初代解(へ)慕(も)漱(す)(かいぼそう・2代解(かい)于(い)婁(ろう)だ。また、居(い)仏(ぶつ)理(り)・意里(いり)都(つ)解(かい)・然(ぜん)能(の)解(かい)公(こう)・竺(ち)区(く)宋孫(そうそん)王(おう)・竺(じく)達(たつ)王(おう)・筑紫(ちくし)王(おう)・子(し)嬰(えい)の実子だ。)なのだ。また、ひそかに年4才の稚子(ちご)の王子を酒(さけ)壺(つぼ)の中に入れて、逃がして成人させた、という、また、最後は南鮮(なんせん)の馬(ば)韓(かん)(百済(くだら)方面だ。)へ逃れたという。また、『北扶餘(きたふよ)国(こく)』を建てたという人物なのだ。~
●2代目高(こう)豆(ず)莫(ば)汗(かん)倡(と)儀(ぎ)・2代解(へ)慕(も)漱(す)(かいぼそう・3代解(かい)于(い)婁(ろう)だ。)・壇(だん)君(くん)を名乗った人物で、法(ほう)成(せい)王(おう)なのだ。また、ふたたび「北扶餘(きたふよ)国(こく)」を建てた人物なのだ。~
さてそれでは、『太(たい)白(はく)逸(いつ)史(し)』(渤(ぼっ)海(かい)国(こく))によれば、壇(だん)君(くん)の王国が、前漢(ぜんかん)の劉邦(りゅうほう)によって亡ぼされた後に、鴨(おう)緑(りょっ)江(こう)の畔(ほとり)の勢力の高(こう)豆(ず)莫(ば)汗(かん)倡(と)儀(ぎ)という人物が、ふたたび『壇(だん)君(くん)を名乗った』とも伝えているのだ。そしてまた、第2子には、高辰(こうしん)というものがいて、『稾離(わらり)国(こく)の王となった。』というのだ。そしてまた、この『高(こう)辰(しん)(第2子だ。)の孫には、弗(ふつ)離(り)支(し)がいて、朱蒙(ちゅもん)が生れた。父の弗(ふつ)離(り)支(し)が死んだとき、朱蒙(ちゅもん)は、母の柳(りゅう)花(か)とともに父の国を離れ、迦(かし)葉(よ)原(はら)扶(ふ)餘(よ)、即ち東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)におもむき、その王(おう)家(け)に仕えだ。』というのだ。
さてそれでは、この2代目の高(こう)豆(ず)莫(ば)汗(かん)倡(と)儀(ぎ)(法(ほう)成(せい)王(おう)だ。)である2代解(へ)慕(も)漱(す)(かいぼそう・3代解(かい)于(い)婁(ろう)だ。)の子としては、3代解(へ)慕(も)漱(す)(かいぼそう)である4代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)の第2子の高辰(こうしん)がいた、ということなのだ。そしてまた、『三(さん)国(ごく)史(し)記(き)東(とん)明(みょん)聖(そん)王(おう)紀(き)(朱蒙(ちゅもん)王(おう)紀(き)だ。)』によれば、『北(きた)扶(ふ)餘(よ)国(こく)の5代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)の後は、6代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)が現れ、その後は、6世孫の無胥(むて)(金(くむ)蛙(あ)王(おう)だ。)の世に、朱蒙(ちゅもん)が高句(こうく)麗(り)を建国した。』」というのだ。そしてまた、『三国遺事(さんごくいじ)』によれば、『(5代)解(へ)慕(も)漱(す)(6代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)だ。)は、北(きた)扶餘(ふよく)国(こく)を、1代治めただけで朱蒙(ちゅもん)のために、その国を追われた。』というのだ。そしてまた、『北(きた)扶餘(ふよ)紀(き)』によれば、4代解(かい)于(こ)婁(ろう)(3代解(へ)慕(も)漱(す)(かいぼそうの第2子の高辰(こうしん)だ。)が、世を去ったとき、その弟という5代解(かい)于(こ)婁(ろう)が継いで即位するのだが、『東(とん)明(みょん)王(おう)(朱蒙(ちゅもん)・実際は朱蒙(ちゅもん)の実父だ。)のために追われた。』というのだ。
そしてまた、『4代解夫婁(かいふろう)とは、(実際は2代目の。)解(へ)慕(も)漱(す)(かいぼそう・2代目の高(こう)豆(ず)莫(ば)汗(かん)倡(と)儀(ぎ)・法(ほう)成(せい)王(おう)だ。)の子ともなっている。』というのだ。そしてまた、『三(さん)国(ごく)史(し)記(き)東(とん)明(みょん)聖(そん)王(おう)紀(き)(朱蒙(ちゅもん)王(おう)紀(き)だ。)』によれば、『5代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)(かいふろう)のとき、宰相(さいそう)の阿(あ)蘭(らん)弗(ふつ)の進言によって、5代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)は、迦葉(かしよ)原(はら)の地に遷都され、国名を「東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)国(こく)」とした。』というのだ。その後、『天(てん)帝(てい)の子を名乗る解慕漱(へもす)が現れた。』ともいうのだ。そしてまた、この4代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)(3代解(へ)慕(も)漱(す)・第2子の高(こう)辰(しん)だ。)が、世を去ったとき、その弟という5代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)が継いで即位した、というから、娘むこの第1子こそが、この5代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)(4代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)の弟で4代解(へ)慕(も)漱(す)だ。)である、ということなのだ。
そこで実際としては、この5代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)(4代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)の兄弟で4代解(へ)慕(も)漱(す)だ。)とは、その宰相(さいそう)の阿(あ)蘭(らん)弗(ふつ)の進言によって、(北(きた)扶餘(ふよく)国(こく)から、)迦(かし)葉(よ)原(はら)の地に遷都され、その国名を『東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)』としたのだ。また、この宰相(さいそう)の阿(あ)蘭(らん)弗(ふつ)こそが、4代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)(3代解(へ)慕(も)漱(す)(かいぼそう)の第2子の高辰(こうしん)だ。)の実子で長男である、ということなのだ。つまり6代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)(5代解(へ)慕(も)漱(す)だ。)としては、弗(ふつ)離(り)支(し)(沃沮(よくそ)国(こく)の王で朱蒙(ちゅもん)の実父だ。)なのだ。なぜならば、これも、『阿(あ)蘭(らん)弗(ふつ)』と『弗(ふつ)離(り)支(し)』の違いだからなのだ。つまり『阿(あ)蘭(らん)』の代わりに『居(い)』を挿入し、最後の『支(し)』を取るならば、弗(ふつ)離(り)支(し)=居(い)弗(ふつ)であるからなのだ。
さてそれでは、『新(しん)撰(せん)姓(しょう)氏(じ)録(ろく)』を見てみれば、『弖(て)良(らの)公(きみ)、百済(くだら)国主(こくしゅ)、意里(いり)都(つ)解(かいの)公(きみ)(宋(そう)孫(そん)王(おう)・筑(ちく)紫(し)王(おう)だ。)の4世孫、秦(しん)羅(らの)君(きみ)の後なり。』とも伝えるのだが、この秦(しん)羅(らの)君(きみ)(然(ぜん)能(の)解(かい)公(こう)の4世孫だ。)を、6代解(かい)于(い)婁(ろう)(5代解(へ)慕(も)漱(す)だ。)と見れば、朱蒙(ちゅもん)の実父で宰相(さいそう)の阿(あ)蘭(らん)弗(ふつ)なのだ。
さてそこで、燕(えん)国(こく)(北京(ぺきん)の地域だ。)から亡命してきたというの燕(えん)人(じん)の衛(えい)満(まん)は、本当に紀元前194年なのか、実際は、紀元前200年前半期(239年)の頃であれば、衛(えい)氏(し)朝(ちょう)鮮(せん)(実際は古(こ)朝(ちょう)鮮(せん)国(こく)・大(おお)扶(ふ)余(よ)国(こく)だ。)を興(おこ)したという衛(えい)満(まん)の実像としては、壇(だん)君(くん)の王国の始祖の桓(かん)仁(にん)(実際は桓因(かんゆう)・桓(かん)雄(ゆう)だ。)で秦(しん)の始(し)皇帝(こうてい)の長子(庶子)の扶蘇(ふそ)なのだ。そしてまた、その子としては、朝鮮の『三(さん)聖(せい)記(き)』でいう桓(かん)雄(ゆう)(桓(かん)仁(にん)・燕(えん)人(じん)の衛(えい)満(まん)・扶蘇(ふそ)だ。)と熊(くま)が交わって、その子の有帳(ゆうちょう)(実際は熊族(ゆうぞく)の長(ちょう)・3代孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)の子(し)嬰(えい)・初代解(かい)于(い)婁(ろう)・『大(おお)扶(ふ)餘(よ)国(こく)』を建てた人物だ。)である3代孝(こう)武(ぶ)皇(こう)帝(てい)(子(し)嬰(えい)・武(ぶ)王(おう)だ。)ということなのだ。そしてまた、孫としては、燕(えん)人(じん)の衛(えい)満(まん)の孫の右(う)渠(ご)王(おう)(初代解(へ)慕(も)漱(す)・居仏(いぶつ)理(り)・意里(いり)都(つ)解(かい)・然(ぜん)能(の)解(かい)公(こう)・竺(ち)区(く)宋孫(そうそん)王(おう)・竺(じく)達(たつ)王(おう)・筑紫(ちくし)王(おう)・子(し)嬰(えい)の子・2代目解(かい)于(い)婁(ろう)・『北扶餘(きたふよ)国(こく)』を建てた人物だ。)なのだ。そしてまた、その子としては、2代解(へ)慕(も)漱(す)である法(ほう)成(せい)王(おう)(3代解(かい)于(い)婁(ろう)だ。)がいだ、ということなのだ。そしてまた、その実像としては、『壇(だん)君(くん)を名乗った。』という高(こう)豆(ず)莫(ば)汗(かん)倡(と)儀(ぎ)(法(ほう)成(せい)王(おう)だ。)なのだ。そしてまた、その子としては、その第2子という『稾離(わらり)国(こく)の王』となった高辰(こうしん)がいた、というが、実際としては、4代解(かい)于(い)婁(ろう)(3代解(へ)慕(も)漱(す)だ。)である、ということなのだ。
さてそれでは、高辰(こうしん)の子(娘むこ含む。)としては、その弟の第1子で、娘むこの5代解(かい)于(い)婁(ろう)(4代解(へ)慕(も)漱(す)だ。)や、また、第2子で、実子の長男の6代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)(5代解(へ)慕(も)漱(す)・弗(ふつ)離(り)支(し)・『沃沮(よくそ)国(こく)の王』で朱蒙(ちゅもん)の実父だ。)がいた、ということなのだ。つまり東(とん)明(みょん)王(おう)(朱蒙(ちゅもん)王(おう)だ。)の実父である『沃(よく)沮(そ)国(こく)の王』ともなった『北扶餘(きたふよ)国(こく)』の6代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)(5代解(へ)慕(も)漱(す)だ。)こそが、宰相(さいそう)の阿(あ)蘭(らん)弗(ふつ)である弗(ふつ)離(り)支(し)である、ということなのだ。そしてまた、5代解(かい)于(い)婁(ろう)(4代解(へ)慕(も)漱(す)だ。)としては、『北扶餘(きたふよ)国(こく)』から、迦(かし)葉(よ)原(はら)扶(ふ)餘(よ)(『東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)国(こく)』だ。)の地に遷都した後に、6代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)(5代解慕漱(へもす)・弗(ふつ)離(り)支(し)・宰相(さいそう)の阿(あ)蘭(らん)弗(ふつ)だ。)が現れ(天(てん)帝(てい)の子を名乗る5代解(へ)慕(も)漱(す)だ。)、その後は、6世孫の無胥(むて)(金(くむ)蛙(あ)王(おう)・実際は7代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)・6代解慕漱(へもす)・朱蒙(ちゅもん)の実父の実弟なのだ。)の世に、朱蒙(ちゅもん)が高句(こうく)麗(り)を建国した、ということなのだ。つまり6代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)(実際は5代解慕漱(へもす)・弗(ふつ)離(り)支(し)・宰相(さいそう)の阿(あ)蘭(らん)弗(ふつ)なのだ。)が現れ、その後は、6世孫の無胥(むて)(その実弟である金(くむ)蛙(あ)王(おう)だ。)の世に、朱蒙(ちゅもん)が高句(こうく)麗(り)を建国した、ということなのだ。
さてそれでは、燕(えん)人(じん)の衛(えい)満(まん)の孫という右(う)渠(ご)王(おう)(初代解(へ)慕(も)漱(す)・居仏(いぶつ)理(り)・意里(いり)都(つ)解(かい)・然(ぜん)能(の)解(かい)公(こう)・竺(ち)区(く)宋孫(そうそん)王(おう)・竺(じく)達(たつ)王(おう)・筑(ちく)紫(し)王(おう)・子(し)嬰(えい)の子だ。)としては、紀元前109年に、前(ぜん)漢(かん)の7代皇帝の武(ぶ)王(おう)(BC156年生まれだ。)と争い、翌年の紀BC108年に暗殺された、とも伝えているが、東(とん)明(みょん)王(おう)(朱蒙(ちゅもん)王(おう))が高句(こうく)麗(り)国(こく)を建国するまでの、およそ200年間を見れば、この右(う)渠(ご)王(おう)の実像としては、初代解(へ)慕(も)漱(す)(実際は、居仏(いぶつ)理(り)・意里(いり)都(つ)解(かい)・然(ぜん)能(の)解(かい)公(こう)・竺(ち)区(く)宋孫(そうそん)王(おう)・竺(じく)達(たつ)王(おう)・筑紫(ちくし)王(おう)・子(し)嬰(えい)の子・『北扶餘(きたふよ)国(こく)』を建てた人物・ひそかに年4才の稚子(ちご)の王子を酒(さけ)壺(つぼ)の中に入れて逃がして成人させた人物・最後は南鮮(なんせん)の馬(ば)韓(かん)(百済(くだら)方面へ逃れた人物だ。)である、ということなのだ。
さてそれでは、『北(きた)扶(ふ)餘(よ)紀(き)』を見れば、『解(へ)慕(も)漱(す)は、北扶餘(きたふよ)を1代治めただけで、東明(朱蒙(ちゅもん))のために、その国を追われた。』、というのだ。しかしながら、これは代々の6代の解慕漱(へもす)を省略されただけなのだ。つまり武(たけの)内(うちの)宿(すく)禰(ね)の複数の襲名名称とも同じ隠蔽手法なのだ。そこで、7代目の金(くむ)蛙(あ)王(おう)としては、『北扶餘(きたふよ)国(こく)』と、『東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)国(こく)』を一時は同時に治めたという。そしてまた、その後、この金(くむ)蛙(あ)王(おう)の子の7人は、高句(こうく)麗(り)の朱(ちゅ)蒙(もん)が早死にしたために、その子という2代瑠(る)璃(り)明(みょん)王(おう)や、孫という3代大(て)武(む)神(しん)王(おう)たちとの戦争が続き、やがて、大(て)武(む)神(しん)王(おう)(朱(ちゅ)蒙(もん)の孫だ。)によって、8代目の帯素(てそ)王(おう)が殺されたというのだ。このときに、7代目の金(くむ)蛙(あ)王(おう)の末子という曷(かる)思(さ)王(おう)が、その残党を集めて別の場所(扶(ふ)余(よ)地(ち)域(いき)だ。)で即位した、とも伝えているのだ。
さてそれでは、5代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)(4代目解(へ)慕(も)漱(す)だ。)が迦(か)葉(しょ)原(はら)の地に遷都され、解慕漱(へもす)(5代解慕漱(へもす)・弗(ふつ)離(り)支(し)・宰相(さいそう)の阿(あ)蘭(らん)弗(ふつ)だ。)が現れた、という時期こそが、『北(きた)扶(ふ)餘(よ)国(こく)』(『沃沮(ごくちょ)国(こく)』だ。)や、『東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)国(こく)』(迦葉(かしよ)原(はら)だ。)の2つに分かれた時期なのだが、この5代解慕漱(へもす)こそが、弗(ふつ)離(り)支(し)(北(ぷ)沃沮(ごくちょ)国(こく)の王だ。)である宰相(さいそう)の阿(あ)蘭(らん)弗(ふつ)なのだ。また、この人物こそが『北(きた)扶(ふ)餘(よ)の地』を治めたのだ。そしてまた、北(きた)扶(ふ)餘(よ)国(こく)の5代解慕漱(へもす)である弗(ふつ)離(り)支(し)(沃沮(ごくちょ)国(こく)の王だ。)として、つまり4代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)(高辰(こうしん)だ。)の長男として、6代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)の居(い)弗(ふつ)であった朱(ちゅ)蒙(もん)(東(とん)明(みょん)聖(そん)王(おう)だ。)の実父で、5代解(へ)慕(も)漱(す)(6代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)だ。)なのだ。そしてまた、解慕漱(へもす)(5代だ。)が現れた、として、その事実を隠蔽しているのだ。そしてまた、朱(ちゅ)蒙(もん)王(おう)(東(とん)明(みょん)聖(そん)王(おう)だ。)の実父の5代解慕漱(へもす)(6代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)だ。)として、『北(きた)扶(ふ)餘(よ)国(こく)」(沃(ごく)沮(ちょ)国(こく)の王だ。)を治めた人物なのだが、しかしながら、早死したために、6代解慕漱(へもす)(7代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)だ。)として『東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)国(こく)」を治めた弟の無胥(むて)(金(くむ)蛙(あ)王(おう)だ。)こそが、『北(きた)扶(ふ)餘(よ)国(こく)も治めた、ということなのだ。つまり扶(ふ)余(よ)族(ぞく)の風習によれば、兄の亡き後は、その嫁は、弟の嫁になる風習なのだ。そこで、朱蒙(ちゅもん)王(おう)の実母の河(かわ)伯(はく)(河(かわ)神(かみ))の女(むすめ)という柳(りゅう)花(か)を、この弟の金(くむ)蛙(あ)王(おう)(無胥(むて)・智(ち)為(な)利(り)だ。)が、その次(じ)妃(ひ)としたために、7代解(かい)夫(ふ)婁(ろう)の無胥(むて)(金(くむ)蛙(あ)王(おう)だ。)としては、『東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)国(こく)」のほかに、『北(きた)扶(ふ)餘(よ)国(こく)」(『沃(ごく)沮(ちょ)国(こく)』だ。)をも治めた、ということなのだ。
さてそれでは、卒(ちょる)本(ぼん)扶(ふ)余(よ)のヨンダアル(河(かわ)伯(はく)だ。)の族長の娘の召(そ)西(そ)奴(の)だが、優(う)台(て)という同族と結婚して、この優(う)台(て)と召(そ)西(そ)奴(の)との2人の間に、そのもうけた実子しては、沸流(ふる)や、温祚(おんす)(百済(くだら)王(おう)の始祖(しそ)だ。)たち2人がいたのだ。彼らは、召(そ)西(そ)奴(の)の実子なのだ。また、沸流(ふる)や、温祚(おんす)(百済(くだら)王(おう)の始祖(しそ)だ。)の兄弟としては、その実父の優(う)台(て)の死後は、その実母の召(そ)西(そ)奴(の)と共に、高句(こうく)麗(り)国の建国者の朱(ちゅ)蒙(もん)王(おう)(東(とん)明(みょん)聖(そん)王(おう)だ。)の元へ亡命して2人の子たちは連れ子ともなったのだ。そしてまた、召(そ)西(そ)奴(の)の実父は、卒(ちょる)本(ぼん)扶(ふ)余(よ)のユダヤ系の大(だい)商(しょう)団(だん)の長(ちょう)とも推測されるのだ。つまり朱(ちゅ)蒙(もん)王(おう)の高句(こうく)麗(り)国(こく)の建国に大いに協力された人物なのだ。そこで整理して見れば、
●壇(だん)君(くん)王(おう)倹(けん)(実際は倍(ばい)達(たつ)桓(かん)雄(ゆう)・有(ゆう)帳(ちょう)・3代孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)・子(し)嬰(えい)・初代解(かい)于(い)婁(ろう)・武(ぶ)王(おう)だ。)~
●初代解(へ)慕(も)漱(す)(実際は竺(ち)区(く)宋孫(そうそん)王(おう)・竺(じく)達(たつ)王(おう)・筑紫(ちくし)王(おう)・子(し)嬰(えい)の子・2代解(かい)于(い)婁(ろう)だ。)~
●2代解(へ)慕(も)漱(す)(高(こう)豆(ず)莫(ば)汗(かん)倡(と)儀(ぎ)・法(ほう)成(せい)王(おう)・3代解(かい)于(い)婁(ろう)だ。)~
●3代解(へ)慕(も)漱(す)(高辰(こうしん)・4代解(かい)于(い)婁(ろう)だ。)~
●4代解(へ)慕(も)漱(す)(迦葉(かしよ)原(はら)の地に遷(せん)都(と)・「東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)」とした。5代解夫婁(かいふろう)・実弟だ。)~
●5代解(へ)慕(も)漱(す)(弗離支(ふつりし)・然(ぜん)能(の)解(かい)公(こう)の4世孫の秦(しん)羅(らの)君(きみ)・朱蒙(ちゅもん)の実父・6代解夫婁(かいふろう)だ。)~
●6代解(へ)慕(も)漱(す)(無(む)胥(て)・金(くむ)蛙(あ)王(おう)・「北(きた)扶(ふ)餘(よ)国(こく)」と「東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)国(こく)」を治めた。7代解夫婁(かいふろう)・実弟だ。)~
さてそれでは、その後は、高(こう)句(く)麗(り)王朝(北(きた)扶(ふ)餘(よ)国(こく)だ。)や、東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)王朝の2つに分かれ、高(こう)句(く)麗(り)王朝とは、平(ぴょん)壌(やん)(王(わん)倹(ごむ)城(じょう)だ。)を都(みやこ)としたのだ。また、その始祖の朱(ちゅ)蒙(もん)王(おう)(東(とん)明(みょん)聖(そん)王(おう)・BC37~BC19年だ。)の後は、その実子の瑠(ゆ)璃(り)明(みょん)王(おう)(BC19~AD18年だ。)が即位して、他の2人(召(そ)西(そ)奴(の)の連れ子らである2人だ。)は、南韓(なんかん)の百済(くだら)方面(ほうめん)へと行った、とも伝えるのだ。
さてそれでは、東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)王朝だが、7代金(くむ)蛙(あ)王(おう)(無胥(むて)だ。)~8代帯素(てそ)王(おう)~9代曷(かる)思(さ)王(おう)~10代都頭(とず)王(おう)~11代尉(い)仇(きゅう)台(だい)王(おう)~12代簡位(かんい)居(い)王(おう)~13代麻余(まよ)王(おう)~14代依(い)慮(りょ)王(おう)~15代依(い)羅(ら)王(おう)~16代玄(げん)王(おう)~17代蔚(やす)王(おう)~18代居(い)王(おう)(AD410年の頃だ。)とも系譜は続くのだ。ところで、15代依(い)羅(ら)王(おう)のとき、『太白(たいはく)逸史(いつし)』の『大(たい)震(しん)国(こく)本(ほん)紀(き)(渤(ぼっ)海国(かいこく)だ。)』によれば、『扶(ふ)餘(よ)族(ぞく)の王の依(い)羅(ら)は、鮮(せん)卑(ぴ)族(ぞく)らに国を追われ、その部下、数千人を率いて、海を渡り、倭人(わじん)を平定(へいてい)して、その王(倭(わ)王(おう)だ。)となった。』と伝えているのだ。そこで、15代依(い)羅(ら)王(おう)とは、AD286年に即位した、ともいうが、しかしながら、8代帯(て)素(そ)王(おう)から、7代後であれば、百済(くだら)王(おう)の始祖(しそ)の温祚(おんす)王(おう)(BD18~AD28年だ。)から見ても、7~8代後の時代の出来事なのだ。つまり丹波・近江のオロチ族である高(たか)皇(みむ)産(す)霊(びの)神(かみ)の一族か、ないしは、筑(ちく)紫(し)の伊都国(いとこく)の大(わた)海(つみの)大(おお)神(かみ)(海部(あまべの)大神(おおかみ)だ。)の奈(な)賀(が)の大(おお)人(うし)様(さま)の時代である、ということなのだ。
さてそれでは、本当に、AD286年であれば、邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の女王の2代目卑(ひ)弥(み)呼(こ)が亡くなってから、30年後の出来事なのだ。つまり初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)(宇(う)摩(ま)志(し)痲(ま)治(じ)尊(のみこと)だ。)の在位期間は、新羅(しらぎ)王(おう)(稲(いな)氷(いの)命(みこと)だ。)としては、284~298年なのだ。そしてまた、紀元後300年の頃には崩御されたと推測されるから、その実父である天(あまの)火(ほ)明(あかり)命(のみこと)(ニギハヤヒ尊・猿(さる)田(た)彦(ひこ)命(のみこと)だ。)こそが、瑞(みづの)寶(たから)十(と)種(ぐさ)や、32人の武(ぶ)将(しょう)や、25の物部(もののべ)軍団(ぐんだん)(実際は宗(そう)族(ぞく)の勝部(まさるべ)の子孫・猿(さる)田(た)族(ぞく)だ。)を率いて、大(やま)和(との)國(くに)に来られて、トミノナガスネヒコ命の妹を、その妃(きさき)として統治された、という伝承から見れば、スサノオ尊や、大(おお)国(くに)主(ぬしの)尊(みこと)の親子たちが、畿内5か国を統一した、という伝承からもこの時代なのだ。しかしながら、東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)王朝(おうちょう)の8代帯(て)素(そ)王(おう)から7代後の15代依(い)羅(ら)王(おう)が、AD286年に即位したとすれば、最後の王の18代居(い)王(おう)(AD410年の頃だ。)のとき、高句(こうく)麗(り)国(こく)の広(くぁん)開(げ)土(と)太(だい)王(おう)によって吸収されて滅亡した、とも伝えるのだが、しかしながら、8代帯素(てそ)王(おう)から7代後の15代依(い)羅(ら)王(おう)が、紀元後286年に即位したというのでは、大きな疑問が残るのだ。なぜならば、帯素(てそ)王(おう)の実父である7代金(くむ)蛙(あ)王(おう)(7代解夫婁(かいふろう)だ。)としては、BC60年に即位した人物だからなのだ。つまりその長男である8代帯(て)素(そ)王(おう)とは、BC40年頃には出生された人物なのだ。つまりその7代後の15代依(い)羅(ら)王(おう)までの間は、およそ、326年間もの開きがあるからなのだ。つまり1代を、40年と見れば、320年間なのだ。これでは1代が長すぎるからなのだ。そこで、新羅(しらぎ)国(こく)と畿(き)内(ない)のオロチ族では、その地域性からも深い繋がりがあるのだ。そしてまた、新(しら)羅(ぎ)国(こく)は、辰(しん)韓(かん)の期蘆(さろ)国(こく)にその源を発する。という。また、始祖は、朴(ぱく)赫(ひょっ)居(こ)世(せ)(BC57~AD4年だ。)だが、BC57年の建(けん)国(こく)という。また、2代新(しら)羅(ぎ)王(おう)は、その子の南(な)解(め)次(ちゃ)次(ちゃ)雄(うん)(AD4~24年だ。)である。また、その妹は阿(あ)老(ろ)という。また、3代新(しら)羅(ぎ)王(おう)は、2代南(な)解(め)次(ちゃ)次(ちゃ)雄(うん)の子の儒(ゆ)理(り)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD24~57年だ。)である。また、4代新(しら)羅(ぎ)王(おう)は、脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD57~80年だ。)なのだ。また、この人物は『昔(そく)脱(た)解(れ)の始祖(しそ)伝説(でんせつ)』が残っている。その内容は、『倭(わ)の多(た)婆(ば)那(な)国(こく)王(おう)に嫁いだ女(じょ)国(こく)(実際は、日(ひ)向(ゆぅが)国(こく)だ。)の王女(おうじょ)が卵を産み、不吉(ふきつ)だとして王は卵を箱に入れて海に捨てさせた。はじめ箱は、金(きん)官(かん)伽(か)耶(や)(任(みま)那(な)だ。)の海岸に流れ着いたが伽耶(かや)の人々は怪しんで拾わず、辰(しん)韓(かん)の海岸でその海辺に住む阿(あ)珍(じん)義(うぃ)先(そん)に拾われた。彼女が箱を開けると少年がいたので、その子を引き取って育てた。』とも伝えるのだ。つまり倭(わ)の多(た)婆(ば)那(な)国(こく)王(おう)の息子なのだ。そしてまた、倭(わ)の多(た)婆(ば)那(な)国(こく)王(おう)だが、『太白(たいはく)逸史(いつし)』を見れば、『高句(こうく)麗(り)の始祖の朱(ちゅ)蒙(もん)が、東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)から逃亡したとき、3人の盟友(めいゆう)がこれに従った。』という。また、『その1人に陝(ひょ)父(っぽ)がいた。後に陝(ひょ)父(っぽ)は、高句(こうく)麗(り)を出奔(しゅつほん)して南韓(なんかん)に至り、更に狗(く)邪(や)韓国(からくに)(九州の多(た)婆(ば)那(な)国(こく)の分(ぶん)国(こく)の任那(みまな)地域だ。)に移った。次いで日本の九州の阿(あ)蘇(そ)山(さん)に移住して多婆(たば)羅(ら)国(こく)を建て、その始祖となった。多(た)婆(ば)羅(ら)は別の名を多羅(たら)と言った。多婆(たば)羅(ら)は、後に、任那(みまな)・連(れん)政(せい)(任那(みまな)は、10国に分かれ、その統一国名を連(れん)政(せい)といった。)と合併して、多婆(たば)羅(ら)(この多婆(たば)羅(ら)国(こく)とは、韓(かん)半島の狗(く)邪(や)韓国(からくに)で、九州地方の多婆(たば)羅(ら)国(こく)の分国だ。)が、これを支配した。この連合(れんごう)国家(こっか)は、海に臨むものが3国、内陸部のものが7国だった。』という。また『はじめは、弁(べん)辰(しん)の狗(く)邪(や)国(こく)人(じん)が先住しており、これが狗(く)邪(や)韓国(からくに)(この多婆(たば)羅(ら)は、韓(かん)半島の多(た)婆(ば)那(な)国(こく)だ。)である。』とも伝えるのだ。そしてまた、「多婆(たば)羅(ら)国(こく)は、早くから高句(こうく)麗(り)と和親していたが、次第に高句(こうく)麗(り)に服属する形となった。多婆(たば)羅(ら)国(こく)は、安羅(あら)国(こく)(安羅(あら)韓(かん)国(こく)もある。)と隣り合っていたが、はじめ熊襲(くまそ)城(じょう)(これは、九州地方の多婆(たば)羅(ら)国(こく)だ。)を保っていた。これは、今、九州の熊(くま)本(もと)城(じょう)である。』とも伝えているのだ。
さてそれでは、この朱(ちゅ)蒙(もん)の盟友(めいゆう)の1人に陝(ひょ)父(っぽ)がいて、この人物が、高句(こうく)麗(り)を出奔(しゅつほん)して南韓(なんかん)に至り、更に狗(く)邪(や)韓国(からくに)(韓(かん)半島の多婆(たば)羅(ら)国(こく)・任那(みまな)地域だ。)に移って、次に、日本の九州の阿蘇山(あそさん)に移住して、北九州の多婆(たば)羅(ら)国(こく)(多(た)婆(ば)那(な)国(こく)だ。)を建てた始祖なのだ。そしてまた、多婆(たば)羅(ら)国(こく)(韓(かん)半島の多婆(たば)羅(ら)国(こく)だ。)が支配した任那(みまな)(連(れん)政(せい))の連合(れんごう)国家(こっか)としては、はじめは、弁(べん)辰(しん)の狗(く)邪(や)国(こく)人(じん)が先住しており、これが狗(く)邪(や)韓国(からくに)というのだ。また、九州の熊襲(くまそ)城(じょう)を拠点とする多婆(たば)羅(ら)国(こく)の分(ぶん)国(こく)ともいうのだ。そしてまた、『田(た)原(ばる)坂(ざか)』とは、多婆(たば)羅(ら)国(こく)からでていると見られるのだ。
さてそれでは、4代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の『昔(そく)脱(た)解(れ)の始祖(しそ)伝説(でんせつ)』の内容から、多婆(たば)羅(ら)国(こく)王(おう)の陝(ひょ)父(っぽ)の在位年代(AD3年に南(なん)韓(かん)に去る。)から見ても、実際としては、初代新(し)羅(らぎ)国(こく)王(おう)の朴(ぱく)赫(ひょっ)居(こ)世(せ)(BC57~AD4年だ。)や、2代新(し)羅(らぎ)国(こく)王(おう)の南(な)解(め)次(ちゃ)次(ちゃ)雄(うん)(AD4~24年だ。)の実像である、ということなのだ。また、この南(な)解(め)次(ちゃ)次(ちゃ)雄(うん)(陝(ひょ)父(っぽ)だ。)の妹という阿(あ)老(ろ)は、実際としては、3人目の妃(きさき)で、福岡県の糸(いと)島(しま)半島と関わる姫で、南鮮(なんせん)の馬(ば)韓(かん)へ逃れた竺(ち)区(く)宋孫(そうそん)王(おう)・竺(じく)達(たつ)王(おう)・筑紫(ちくし)王(おう)・子(し)嬰(えい)の血を引く娘なのだ。また、その実娘である阿(あ)孝(ひょ)夫人(ふじん)(阿(あ)尼(ま)夫人(ふじん)だ。)こそが、その異母兄である4代新羅(しらぎ)国(こく)王(おう)の脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD57~80年だ。)に嫁いだ、ということなのだ。
さてそれでは、新羅(しらぎ)国(こく)の建(けん)国(こく)だが『辰(しん)韓(かん)の期蘆(さろ)国(こく)に源を発する。』という。また、狗(く)邪(や)韓国(からくに)(弁(べん)韓(かん)・辰(しん)韓(かん)の地域だ。)の任那(みまな)(連(れん)政(せい))の連合(れんごう)国家(こっか)のすぐ隣の接する地域なのだ。また、新(しら)羅(ぎ)国(こく)には、『金(きむ)閼(ある)智(ち) 始(し)祖(そ)伝(でん)説(せつ)』があるが、この伝説の内容は、『金(くむ)城(そん)の西の林の中で鶏(とり)の鳴き声が聞こえた。そこを調べると金色(きんいろ)の箱があり、その箱を開けると中から男の子が出てきた。4代目の脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD57~80年だ。)は、彼を跡継ぎとして育てたが、彼自身(金(きむ)閼(ある)智(ち))は、王位には就かず、彼の6代孫にあたる味(み)鄒(ちゅ)(オロチ族の皇子・13代天(あまの)香(かご)山(やま)命(のみこと)だ。)が初めて王位に就いた。』とも伝えているのだ。そこで、新羅(しらぎ)国(こく)(『辰(しん)韓(かん)の期蘆(さろ)国(こく)に源を発する。』)の始祖の朴(ぱく)赫(ひょっ)居(こ)世(せ)(BC57~AD4年だ。)の在位期間は、60年(BC57~AD4年だ。)だが、これは少し長すぎるのだ。また、次の、2代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の南(な)解(め)次(ちゃ)次(ちゃ)雄(うん)(AD4~24年だ。)の在位期間は、20年ということだが、そしてまた、3代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の儒(ゆ)理(り)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD24~57年だ。)の在位期間は33年なのだ。そこで、東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)王朝の8代帯(て)素(そ)王(おう)(AD22年に殺害される。)と争っていた、という高句(こうく)麗(り)王朝の始祖の朱(ちゅ)蒙(もん)王の盟友(めいゆう)で倭(わ)国(こく)の多婆(たば)羅(ら)国(こく)王(おう)の陝(ひょ)父(っぽ)とは、AD3年に南(なん)韓(かん)に去る。というから、実際は、AD4年には没してはいないのだ。そこで、2代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の南(な)解(め)次(ちゃ)次(ちゃ)雄(うん)(AD4~24年だ。)こそがその実像なのだ。そしてまた、4代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD57~80年だ。)が、後継者として育てたという金(きむ)閼(ある)智(ち)とは、AD65年頃に誕生した人物というから、また、東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)王(おう)朝(ちょう)の8代帯(て)素(そ)王(おう)(AD22年に殺害された。)の実弟の9代曷(かる)思(さ)王(おう)の即位は、AD22年なのだ。また、15代依(い)羅(ら)王(おう)までは、7代後である。その後の1代を新羅(しらぎ)国(こく)王(おう)の4代脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD57~80年だ。)の在位期間の23年から見ても、長くて20年(平均15年だ。)と見れば、9代曷(かる)思(さ)王(おう)の即位はAD22年だから、実際としては、90年後の頃の時代に活躍する人物こそが、東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)王朝の15代依(い)羅(ら)王(おう)の時代である、ということなのだ。そこで、私見によれば、この金(きむ)閼(ある)智(ち)の実像としては、実際は、東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)王朝の15代依(い)羅(ら)王(おう)ではないか、ということなのだ。そしてまた、越(こし)のオロチ族である初代高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)ではないか、ということなのだ。なぜならば、新(しら)羅(ぎ)国(こく)の『金(きむ)閼(ある)智(ち) 始(し)祖(そ)伝(でん)説(せつ)』でいう金(きむ)閼(ある)智(ち)の子孫としては、2代勢(せ)漢(はん)~3代阿(あ)道(ど)~4代首(す)留(りゅ)~5代郁(うく)甫(ぽ)~6代仇(く)道(ど)なのだが、6代仇(く)道(ど)の長男である新羅国王(しらぎこくおう)の13代味(み)鄒(ちゅ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD262~284年・味(み)鄒(ちゅ)(天(あまの)香(かご)山(さん)命(のみこと)だ。)や、その弟の末(ま)仇(るぐ)や、その弟の大(て)西(そ)知(じ)たち3人の人物がいた、とも系譜は伝えているからなのだ。
つまり『金(きむ)閼(ある)智(ち)は脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(紀元後57~80年だ。)の跡継ぎとして育てたが、彼自身は王位には就かず、彼の6代孫の味(み)鄒(ちゅ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(味(み)鄒(ちゅ)だ。天(あまの)香(かご)山(さん)命(のみこと)だ。)が、新羅国王(しらぎこくおう)の13代目(AD262~284年だ。)として、王位に就いた。』というから、この金(きむ)閼(ある)智(ち)の実像としては、越(こし)のオロチ族である初代高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)であれば、2代高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)は、勢(せ)漢(はん)なのだ。また、3代高(たか)皇(み)産(むす)霊(びのかみ)神は阿(あ)道(ど)なのだ。また、4代高(たかみ)皇(む)産(す)霊(びの)神(かみ)は首(す)留(りゅ)なのだ。また、5代高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)は郁(うく)甫(ぽ)(玉(たま)気(き)根(ね)尊(のみこと)・初代豊(とよ)受(うけの)大(おお)神(かみ)だ。)である。そこで、6代高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)である仇(く)道(ど)の在位のとき、天(てん)孫(そん)族(ぞく)(猿(さる)田(た)族(ぞく)だ。)である大(おお)海(わた)祇(つみの)大(おお)神(かみ)の一族との覇(は)権(けん)争(あらそ)いが本格化してきたため、その拠点としては、徐々に天(てん)孫(そん)族(ぞく)(猿(さる)田(た)族(ぞく)だ。)に圧倒され、辰(しん)韓(かん)の期蘆(さろ)国(こく)(新羅(しらぎ)国(こく)の発祥の国だ。)に戻った(実際は交換した。)のではないか、とも推測されるからなのだ。
さてそれでは、朝(ちょう)鮮(せん)の歴史書『桓(かん)檀(だん)古記(こき)』の中の、『太白(たいはく)逸史(いつし)』によれば、東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)王朝の15代依(い)羅(ら)王(おう)のとき、『扶(ふ)餘(よ)族(ぞく)の王の依(い)羅(ら)は、鮮(せん)卑(ぴ)族(ぞく)らに国を追われ、その部下、数千人を率いて、海を渡り、倭人(わじん)を平定(へいてい)して、その王(倭(わ)王(おう)だ。)となった。』とも伝えているのだ。また、AD286年に即位した、とも伝えているが、実際としては、もっとはるか以前(AD100年以前の頃だ。)であった、とも推測されるのだ。そしてまた、6代孫にあたる味(み)鄒(ちゅ)(オロチ族の皇子の天(あまの)香(かご)山(やま)命(のみこと)だ。)こそが、新(し)羅(らぎ)国(こく)王(おう)の13代味(み)鄒(ちゅ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD262~284年・天(あまの)香(かご)山(やま)命(のみこと)だ。)として、初めて王位に就いた、ということなのだ。そしてまた、大(おお)国(くに)主(ぬしの)命(みこと)(新(しら)羅(ぎ)王(おう)の11代助(ちょ)賁(ぶん)尼(い)師(さ)今(ぐむ)だ。)の娘(光(くぁん)明(みょん)夫(と)人(じ)だ。)むこであるこの天(あまの)香(かご)山(やま)命(のみこと)(実際は、オロチ族の皇子の長男の味(み)鄒(ちゅ)だ。)と入れ換わって、同じ大(おお)国(くに)主(ぬしの)命(みこと)の末娘(御(み)井(い)姫(ひめ)だ。)のむこである初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)(宇(う)麻(ま)志(し)痲(ま)治(じの)命(みこと)・天(あまの)太(ふと)玉(だまの)命(みこと)だ。)が、倭(わ)国(こく)の古代天皇や、その後の14代新羅(しらぎ)王(おう)(儒(ゆ)礼(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)だ。)として即位されたのだ。そしてまた、九州の多婆(たば)羅(ら)国(こく)系(けい)と見られる猿田族(さるたぞく)(天(てん)孫(そん)族(ぞく)・宗(そう)族(ぞく)だ。)と、丹波(たんば)(北陸(ほくりく)道(どう)だ。)・近江(おうみ)の地域を拠点とする越(こし)のオロチ族(奈(な)津(つ)三(み)毛(け)族(ぞく)だ。)とは、実際は以前は、同族である、ということになるのだ。また、この東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)王朝(おうちょう)の15代依(い)羅(ら)王(おう)の名称からして、『桃(もも)太郎(たろう)伝説(でんせつ)』に登場する百済(くだら)王(おう)の王子(おうじ)の温(う)羅(ら)の先祖とも見られるのだ。なぜならば、東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)王朝の15代依(い)羅(ら)王(おう)の実像としては、新(しら)羅(ぎ)国(こく)の『金(きむ)閼(ある)智(ち) 始(し)祖(そ)伝(でん)説(せつ)』の金(きむ)閼(ある)智(ち)であれば、越(こし)の丹(たん)波(ば)や、近江(おうみ)の豪族である高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)神(かみ)のオロチ族としては、朝鮮(ちょうせん)の新羅(しらぎ)系(けい)の部族なのだ。そしてまた、初代高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)(15代依(い)羅(ら)王(おう)だ。)の1代前の初代としては、天(あまの)御(み)中(なか)主(ぬし)尊(のみこと)とも伝えているが、この初代天(あまの)御(み)中(なか)主(ぬし)尊(のみこと)と、2代目の初代高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)神(かみ)(実際は、ハコクニノ尊・豊国(とよくん)主(ぬ)尊(のみこと)・キノトコタチノ尊・15代依(い)羅(ら)王(おう)だ。)との2人の間には、およそ、1600年以上の時代の開きがあるからなのだ。そしてまた、3月3日の桃(もも)の節句(せっく)や、5月5日の端午(たんご)の節句(せっく)としては、2代高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)神(かみ)であるモモヒナキ尊(のみこと)(実際は、勢(せ)漢(はん)・ウイチニノ尊(みこと)だ。その妃(きさき)は、スビチニノ尊(みこと)・モモヒナミ姫だ。)から来ているのだ。つまり『桃(もも)太郎(たろう)伝説(でんせつ)』とも関わるのだ。そこで、天(てん)孫(そん)族(ぞく)である大(おお)海(わた)祇(つみの)大(おお)神(かみ)の東(とう)征(せい)としては、高(こう)句(く)麗(り)王朝の子孫である天孫族(てんそんぞく)(猿(さる)田(た)族(ぞく)・筑紫(ちくし)王(おう)の子孫だ。)こそが、同じ、東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)王朝の子孫である畿内のオロチ族(奈津(なつ)三毛族(みけぞく)だ。)との覇(は)者(しゃ)争(あらそ)いである、とも見られるのだ。そしてまた、『桃(もも)太郎(たろう)伝説(でんせつ)』なのだが、『吉(き)備(び)津(つ)神(じん)社(しゃ)記(き)』や、『吉(き)備(び)津(つ)宮(みや)縁(えん)起(ぎ)』の2つが存在するのだが、『吉(き)備(び)津(つ)神(じん)社(しゃ)記(き)』の伝説で見れば、『吉(き)備(び)津(つ)彦(ひこ)命(のみこと)と温(う)羅(ら)の戦い』なのだ。つまり『百済(くだら)王(おう)の王子(おうじ)の温(う)羅(ら)が殺された。』というのだが、現在、百済(くだら)王(おう)の王子(おうじ)の温(う)羅(ら)が祀られていることから、これも、やっぱり古代天皇家の身内同士の権力争いなのだ。そしてまた、大(おお)吉(き)備(び)津(つ)彦(ひこ)命(のみこと)の実像としては、8代孝(こう)元(げん)天(てん)皇(のう)なのだ。また、大(おお)伊(い)賀(が)津(つ)彦(ひこ)命(のみこと)の実像としては、その実弟の若(わか)建(たけ)吉(き)備(び)津(つ)彦(ひこ)命(のみこと)である大(おお)彦(びこ)命(のみこと)なのだ。そしてまた、7代孝(こう)霊(れい)天皇(てんのう)の時代に、四(よん)道(どう)将軍の伝説や、大(おお)阪(さか)や、出雲(いずも)で反乱があったが鎮圧された、とも伝えていることから、この東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)王朝の15代依(い)羅(ら)王(おう)である初代高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)(越(こし)・近江(おうみ)のオロチ族だ。)の一族こそが、天(てん)孫(そん)族(ぞく)によって、国内の主(しゅ)導(どう)権(けん)を奪われた事実について、7代孝(こう)霊(れい)天皇(てんのう)の時代に、『百(く)済(だら)王(おう)の王子(おうじ)の「温(う)羅(ら)」が殺された。』という『桃(もも)太郎(たろう)伝説(でんせつ)』として残されたもの、とも推測されるということなのだ。
さてそれでは、狗(く)邪(や)韓国(からくに)の伽(か)耶(や)の地域には『金(きむ)首(す)露(ろ)王(おう)伝(でん)説(せつ)』というものが残っているが、『三国(さんごく)史記(しき)』や、『三国遺事(さんごくいじ)』などに見える伽耶(かや)の成立としては、金(きむ)首(す)露(ろ)王(おう)の誕生を伝える伝説が残る、ということなのだ。そしてまた、この『金(きむ)首(す)露(ろ)王(おう)伝(でん)説(せつ)』の内容としては、『九(く)干(がん)と呼ばれる9つの村の村長が民を治めたいた。ある時、亀(く)旨(じ)峯(ぽん)で天の声に従って亀(く)旨(じ)歌(うた)を歌いながら踊っていると、天から紫色(むらさきいろ)の紐(ひも)が垂れてきて、6つの黄金(おうごん)の卵を手に入れた。卵からそれぞれ男の子が生まれ、10日あまりで立派に育った。初めに生まれた子が金(きむ)首(す)露(ろ)と名付けられ、金官(きんかん)伽耶(かや)を治める王となった。他の5人の子も、それぞれ王となった。』というのだ。しかしながら、朝鮮(ちょうせん)王朝9代王の成(そん)宗(じょん)(AD1469~1494年だ。)の代に編纂されたという『東(とん)国(ぐく)興(よ)地(じ)勝(すん)覧(なむ)』によれば、新羅(しらぎ)末期(まっき)の学者・崔(ちぇ)致(ち)遠(うぉん)によって執筆されたという『釈(そく)利(い)貞(じょん)伝(じょん)』の記述を引用して、次のように記しているのだ。
『伽耶(かや)山(さん)の山神(やまがみ)である正(ちゅん)見(ぎゅん)母(ぼ)主(ぬし)が、天(てん)神(じん)の夷(い)畔(び)訶(が)之(じ)と通じて悩(ね)窒(じる)朱(ちゅ)日(いる)と悩(ね)窒(じる)青(ちょん)裔(いぇ)という二子をもうけた。兄の悩(ね)窒(じる)朱(ちゅ)日(いる)は大(おお)伽耶(かや)(実際は、百済の月(げつ)支(し)国(こく)の地域だ。)の伊(い)珍(じ)阿(な)鼓(し)王(おう)となり、悩(ね)窒(じる)青(ちょん)裔(いぇ)は金官(きんかん)伽耶(かや)(実際は、任(みま)那(な)の地域だ。)の首(す)露(ろ)王(おう)となった。』とも伝えているのだ。そこで、この首(す)露(ろ)王(おう)(AD42~199年だ。)なのだが、金官(きんかん)伽耶(かや)(任(みま)那(な)の地域だ。)の王となったのは、AD42年としているが、また、48年には、許(ほ)黄(ふぁん)玉(おく)(インドの王(おう)妃(ひ)だ。)という女性をその王妃(おうひ)としていて、この王室(おうしつ)は、2代居(こ)登(どぅん)王(おう)(AD199~253年だ。)~3代麻(ま)品(ぶむ)王(おう)(AD253~291年だ。)~4代居(こ)叱(じる)弥(み)王(おう)(AD291~346年だ。)~5代伊(い)尸(し)品(ぶむ)王(おう)(AD346~407年だ。)~6代坐(ちゃ)知(じ)王(おう)(AD407~421年だ。)~7代吹(ち)希(ひ)王(おう)(AD421~451年だ。)~8代銍(ちる)知(ち)王(おう)(AD451~492年だ。)~9代鉗(きょむ)知(じ)王(おう)(AD492~521年だ。)~10代仇(く)衛(ひょん)王(おう)(AD521~532年だ。)とも系譜は続くのだが、しかしながら、初代金(きん)首(す)露(ろ)王(おう)が、AD42~199年までの即位期間であれば、157年間も、1代で在位したことになって、現実的にはあり得ない話なのだ。そしてまた、AD42~532年までの490年間に、わずか、10代の王だけが即位した、というのでは、1代が、およそ49年間なのだ。これも現実ではないのだ。そこで、私見によれば、任那(みまな)(連(れん)政(せい))の連合(れんごう)国家(こっか)の地域だが、金官(きんかん)伽耶(かや)の地域であるからしても、また、新羅(しらぎ)末期(まっき)の学者・崔(ちぇ)致(ち)遠(うぉん)によって執筆された『釈(そく)利(い)貞(じょん)伝(じょん)』によれば、金(きん)首(す)露(ろ)王(おう)(悩(ね)窒(じる)青(ちょん)裔(いぇ)だ。)の兄という伊(い)珍(じ)阿(な)鼓(し)王(おう)(悩(ね)窒(じる)朱(ちゅ)日(いる)だ。)が支配した大(おお)伽耶(かや)国(こく)としては、馬(ば)韓(はん)の地域や、後の百(く)済(だら)国(こく)の南部地域の目(もく)支(ち)国(こく)(実際は、月支(げつし)国(こく)だ。)の地域である、ということなのだ。そしてまた、この伊(い)珍(じ)阿(な)鼓(し)王(おう)(悩(ね)窒(じる)朱(ちゅ)日(いる)だ。)の実像としては、『三(さん)国(ごく)史(し)記(き)』によれば、『本(ほん)大(おお)伽耶(かや)国(こく)(百済の慰(うぃ)礼(れ)~熊(うん)津(じん)の地域だ。)。自始祖、伊(い)珍(じ)阿(な)鼓(し)王(おう)《一云朱(しゅ)智(ち)》至、道説(どうせつ)王(おう)。凡、16世、520年(以下略。)」というから、この伊(い)珍(じ)阿(な)鼓(し)王(おう)(悩(ね)窒(じる)朱(ちゅ)日(いる)だ。)の実像としては、朱(しゅ)智(ち)神(じん)社(じゃ)(京都府(きょうとふ)京(きょう)田辺市(たなべし)天王(てんおう)高ヶ峰(こうがみね)だ。)の祭神である朱(しゅ)智(ち)天(てん)王(おう)(実際は、加(か)爾(に)米(め)雷(いかづちの)命(みこと)だ。)である倭(やまと)武(たける)尊(のみこと)である、ということなのだ。
そしてまた、その実子としては、大(おお)宮(みや)巌(いわ)鼓(びつの)王(みこ)神(じん)社(じゃ)(群馬県吾(あが)妻(つま)町(まち)だ。)の祭神で大(おお)宮(みや)巌(いわ)鼓(びつの)王(みこ)である御(み)諸(もろ)別(わけの)命(みこと)(実際は、14代仲(ちゅう)哀(あい)天(てん)皇(のう)だ。)がいた、ということなのだ。つまり伊(い)珍(じ)阿(な)鼓(し)王(おう)(悩(ね)窒(じる)朱(ちゅ)日(いる)だ。)の弟(実際は義理だ。また、娘むこだ。)という悩(ね)窒(じる)青(ちょん)裔(いぇ)としては、金(きん)官(かん)伽(か)耶(や)の金(きむ)首(す)露(ろ)王(おう)である彦(ひこ)狭(さ)嶋(しまの)王(みこ)(実際は、13代成(せい)務(む)天(てん)皇(のう)・水(みず)先(さき)主(ぬしの)命(みこと)・息(おき)長(なが)宿(すく)禰(ねの)王(みこ)だ。)である、ということなのだ。そしてまた、伽耶(かや)山(さん)の山神(やまがみ)の正(ちゅん)見(ぎゅん)母(ぼ)主(ぬし)の実像としては、我が国の11代垂(すい)仁(にん)天(てん)皇(のう)の娘である八(や)坂(さか)入(いり)姫(ひめ)とも推測されるのだ。そしてまた、天(てん)神(じん)という夷(い)畔(び)訶(が)之(じ)の実像としては、その夫である12代景(けい)行(こう)天(てん)皇(のう)(実際は、豊(とよ)城(き)入(いり)彦(ひ)命(のみこと)だ。)である、ということなのだ。また、この人物とは、倭(わ)の5王(おう)の中では、倭(わ)王(おう)旨(し)である、ということなのだ。
さてそれでは、この金(きん)首(す)露(ろ)王(おう)の誕生に関わる亀(き)旨(しの)峯(みね)や、亀(き)旨(しの)歌(うた)の内容だが、これは、三重県亀(かめ)山(やま)市(し)を基盤とする穂(ほ)積(ずみの)忍(おし)山(やまの)宿(すく)禰(ね)である12代景(けい)行(こう)天(てん)皇(のう)(倭(わ)王(おう)旨(し)だ。)を暗示するものなのだ。また、金(きむ)首(す)露(ろ)王(おう)(実際は、13代成(せい)務(む)天(てん)皇(のう)・彦(ひこ)狭(さ)嶋(しま)命(のみこと)・息(おき)長(なが)宿(すく)祢(ね)王(のみこ)・水(みず)先(さき)主(ぬしの)命(みこと)だ。)こそが、インドの阿(あ)踰(ゆ)陀(た)国(こく)の出身という許(ほ)黄(ふぁん)玉(おく)という王女(おうじょ)を王妃(おうひ)とした、とも伝えているが、この人物の実像としては、百(くだ)済(ら)国(こく)の速(そく)古(こ)大(だい)王(おう)の実像である倭(やまと)武(たける)尊(のみこと)の娘で、隠された息(おき)長(なが)真(ま)若(わか)姫(ひめ)(尾(お)綱(つな)真(のま)若(わか)姫(ひめ)だ。)なのだ。なぜならば、金官(きんかん)伽耶(かや)王(おう)の実際の在位年代を検証して見れば、初代金(きむ)首(す)露(ろ)王(おう)である彦(ひこ)狭(さ)嶋(しま)命(のみこと)(実際は、息(おき)長(なが)宿(すく)祢(ね)王(のみこ)・水(みず)先(さき)主(ぬしの)命(みこと)だ。)こそが、金官(きんかん)伽耶(かや)王(おう)ともなったのは、AD42年ではなく、実際としては、5代伊(い)尸(し)品(ぶむ)王(おう)の在位期間であるAD346以後の期間とも推測されるからだ。また、その(義)兄である伊(い)珍(じ)阿(な)鼓(し)王(おう)の実像である百済(くだら)国(こく)の速(そく)古(こ)大王(だいおう)の倭(やまと)武(たける)尊(のみこと)とは、AD346年に、百済(くだら)国(こく)の王ともなったのだ。また、AD42~346年までの期間は、実際としては、この速(そく)古(こ)大王(だいおう)(倭(やまと)武(たける)尊(のみこと)だ。)の以前の百済(くだら)の複数の王(おう)がいたのだ。そこで、『三(さん)国(ごく)史(し)記(き)』の記述を見れば、百(く)済(だら)王(おう)の始祖(しそ)の温(おん)祚(す)王(おう)(BD18~28年だ。)としては、AD7年から、南方の馬(ば)韓(はん)征服(せいふく)に乗り出し、AD8年には、円山(うぉんさん)・錦峴(くみょん)の2城を除いた馬(ば)韓(はん)全域を手に入れ、翌AD9年には、馬(ば)韓(はん)を滅亡させた。というのだ。また、中国側の史(し)書(しょ)によれば、百(く)済(だら)が温(おん)祚(す)王(おう)の時代に、馬(ば)韓(はん)全域を征服したわけではなく、まだこの頃は、馬(ば)韓(はん)の一小国家に過ぎなかったとも見られている、と(韓国時代劇・歴史大辞典より)というのだ。しかしながら、この頃には、すでに、百済(くだら)王(おう)が馬(ば)韓(はん)地方を支配していたのだ。つまりAD40年の頃には、新(しら)羅(ぎ)王(おう)の3代儒(ゆ)理(り)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD24~57年だ。)や、その義弟で4代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD57~80年だ。)たちとも対立していたという、この時代の実際の人物としては、『韓流映画(はんりゅうえいが)』の金(きん)首(す)露(ろ)王(おう)ではなく、別の百(く)済(だら)王(おう)、つまり2代多(た)婁(る)王(おう)(AD28~77年だ。)ではないか、ということなのだ。そしてまた、百(くだ)済(ら)国(こく)王(おう)の3代己(き)婁(る)王(おう)(AD77~128年だ。)や、4代蓋(け)婁(る)王(おう)(AD128~166年・その兄弟は質(しつ)王(おう)だ。)や、5代肖(ちょ)古(ご)王(おう)(AD166~214年だ。)や、6代仇(く)首(す)王(おう)(AD214~234年だ。)や、7代沙(さ)伴(ばん)王(おう)(AD234~234年だ。)や、8代古(こ)尓(い)王(おう)(AD234~286年だ。)や、9代責(ちぇ)稽(っけ)王(おう)AD286~298年だ。)や、10代汾(ぶん)西(そ)王(おう)(AD298~304年だ。)や、11代比(ひ)流(りゅ)王(おう)(AD304~344年だ。)や、12代契(け)王(おう)(AD344~346年だ。)たちの時代までが、百済(くだら)王(おう)こそが、この馬(ば)韓(はん)地方を支配していた時代である、ということなのだ。
そしてまた、新羅(しらぎ)末期(まっき)の学者の崔(ちぇ)致(ち)遠(うぉん)によって執筆された、という『釈(そく)利(い)貞(じょん)伝(じょん)』によれば、『伽耶(かや)山(さん)の山神(やまがみ)の正(ちゅん)見(ぎゅん)母(ぼ)主(ぬし)とは、天(てん)神(じん)の夷(い)畔(び)訶(が)之(じ)と通じて、悩(ね)窒(じる)朱(ちゅ)日(いる)と悩(ね)窒(じる)青(ちょん)裔(いぇ)という二子をもうけたが、兄の悩(ね)窒(じる)朱(ちゅ)日(いる)は、大(おお)伽耶(かや)の伊(い)珍(じ)阿(な)鼓(し)王(おう)となり、弟の悩(ね)窒(じる)青(ちょん)裔(いぇ)は、金官(きんかん)伽耶(かや)の首(す)露(ろ)王(おう)となった。』という、この時代(実際の時代として、AD346年以後なのだ。)については、つまり任那(みまな)(連(れん)政(せい))の連(れん)合(ごう)国(こっ)家(か)の地域こそが、この金官(きんかん)伽耶(かや)の地域であるからしても、この金官(きんかん)伽耶(かや)の金(きむ)首(す)露(ろ)王(おう)の実像としては、やっぱり、彦(ひこ)狭(さ)嶋(しま)命(のみこと)(実際は、息(おき)長(なが)宿(すく)祢(ね)王(のみこ)・水(みず)先(さき)主(ぬしの)命(みこと)・13代成(せい)務(む)天(てん)皇(のう)・その実際の在位期間としては、AD346~375年だ。)である、ということなのだ。
そしてまた、次の金官(きんかん)伽(か)耶(や)王(おう)を推測してみれば、2代居(こ)登(どぅん)王(おう)(その実際の在位期間としては、AD375~384年だ。)である。また、その実像としては、百済(くだら)国(こく)の速(そく)古(こ)大王(だいおう)(倭(やまと)武(たける)尊(のみこと)だ。)の実子である百(く)済(だら)王(おう)の貴(き)須(す)王(おう)(実際は、近(きん)仇首(くしゅ)王(おう)・御(み)諸(もろ)別(わけ)命(のみこと)・14代仲(ちゅう)哀(あい)天(てん)皇(のう)だ。)とも推測される、ということなのだ。そしてまた、この人物は、百済(くだら)国(こく)王(おう)(倭(やまと)武(たける)尊(のみこと)だ。)と共に、トムタレに登って、『倭(わ)国(こく)との盟約(めいやく)を誓(ちか)った。』と伝わっている人物である、ということなのだ。そしてまた、次の金官(きんかん)伽(か)耶(や)王(おう)である3代麻(ま)品(ぶむ)王(おう)(その実際の在位期間としては、AD384~385年だ。)の実像としては、百済(くだら)王(おう)の枕(む)流(る)王(おう)(実際は、若(わか)建(たけ)王(のみこ)・16代応(おう)神(じん)天(てん)皇(のう)だ。)とも推測される、ということなのだ。なぜならば、この百済(くだら)王(おう)である15代枕(む)流(る)王(おう)(実際は、若(わか)建(たけ)王(のみこ)・16代応(おう)神(じん)天(てん)皇(のう)だ。)の譲(じょう)位(い)の時期は、385年だからなのだ。そしてまた、その子(娘むこだ。)である次の金官(きんかん)伽(か)耶(や)王(おう)は、4代居(こ)叱(じる)弥(み)王(おう)(その実際の在位期間としては、AD385~392年だ。)の実像としては、百(く)済(だら)王(おう)の辰(ちん)斯(さ)王(おう)(実際は、荒(あら)田(た)別(わけ)命(のみこと)・17代仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)だ。)である、ということなのだ。そしてまた、次の金官(きんかん)伽(か)耶(や)王(おう)である5代伊(い)尸(し)品(ぶむ)王(おう)(その実際の在位期間としては、AD392~405年だ。)とは、百済(くだら)王(おう)の阿(あ)花王(しんおう)(実際は、初代田(た)道(みち)君(のきみ)・18・19代履(り)中(ちゅう)・反(はん)正(ぜい)天(てん)皇(のう)だ。)ということなのだ。そしてまた、次の金官(きんかん)伽(か)耶(や)王(おう)である6代坐(ちゃ)知(じ)王(おう)(その実際の在位期間としては、AD405~420年だ。)なのだが、この人物は、同時在位で前王(ぜんおう)と同一人物の百済(くだら)王(おう)の腆(ちょん)支(じ)王(おう)(実際は、初代田(た)道(みち)君(のきみ)・18・19代履(り)中(ちゅう)・反(はん)正(ぜい)天(てん)皇(のう)だ。)である、ということなのだ。
さてそれでは、次の金官(きんかん)伽(か)耶(や)王(おう)とは、7代吹(ち)希(ひ)王(おう)(その実際の在位期間としては、AD420~444年だ。)である。また、この人物も、同時在位の百濟(くだら)王(おう)の久(く)爾(に)辛(しん)王(おう)(実際は、竹(たけ)葉(は)瀬(せ)君(のきみ)・王(わ)仁(に)博(はか)士(せ)・辰(ちん)孫(そん)王(おう)だ。)である、ということなのだ。また、20代允(いん)恭(ぎょう)天(てん)皇(のう)(454年の即位だ。)である百済(くだら)の辰(ちん)孫(そん)王(おう)である、とも推測されるのだ。また、次の金官(きんかん)伽(か)耶(や)王(おう)である8代銍(ちる)知(ち)王(おう)(その実際の在位期間としては、AD444~492年だ。)の実像としては、百済王(くだらおう)の文(むん)周(じゅ)王(おう)(実際は、紀(きの)韓(から)子(この)宿(すく)禰(ね)・21・24代安(あん)康(こう)・顕(けん)宗(そう)天(てん)皇(のう)だ。)である、とも推測されるのだ。そしてまた、次の金官(きんかん)伽(か)耶(や)王(おう)である9代鉗(きょむ)知(じ)王(おう)(その実際の在位期間としては、AD492~521年だ。)の実像としては、百(く)済(だら)の昆(こん)支(じ)王(おう)(実際は、物(もの)部(のべの)麁(あら)鹿(か)火(ひの)連(むらじ)・28代安(あん)閑(かん)天(てん)皇(のう)・その在位は、AD521~532年だ。)とも推測される、ということなのだ。さてそれでは、次の金官(きんかん)伽(か)耶(や)王(おう)とは、最後の10代仇(く)衛(ひょん)王(おう)(その実際の在位期間としては、AD521~532年だ。)なのだが、同時在位の百済(くだら)王(おう)の武(む)寧(りょん)王(おう)(実際は、金(きん)仇(きゅう)亥(がい)・2代目物(もの)部(のべの)目(めの)連(むらじ)・27代継(けい)体(たい)天(てん)皇(のう)・大(おお)伴(ともの)金(かな)村(むらの)大(おお)連(むらじ)・近江(おうみの)毛(け)野(の)臣(のおみ)だ。)である、ということなのだ。そしてまた、この武(む)寧(りょん)王(おう)とは、その後は、27代継(けい)体(たい)天(てん)皇(のう)として、我が国に帰還されたのだが、その時期としては、523年である、とも推測されるのだ。つまり武(ぶ)寧(ねい)王(おう)が没した、という523年の頃である。また、27代継(けい)体(たい)天(てん)皇(のう)は、531年に崩御しているが、実際としては、近江(おうみの)毛(け)野(の)臣(のおみ)として532年に没した、ということなのだ。さてそれでは、次に、百済(くだら)王家(おうけ)の系譜を見てみたいと思うのだ。
初代温(おん)祚(じょ)王(おう)(BC18~AD28年だ。)~2代多(た)婁(る)王(おう)(AD28~77年だ。)~3代己(き)婁(る)王(おう)(AD77~128年だ。)~4代蓋(け)婁(る)王(おう)(AD128~166年だ。)、その兄弟の質(しつ)王(おう)がいる。~5代肖(ちょ)古(ご)王(おう)(AD166~214年だ。)~6代仇(く)首(す)王(おう)(AD214~234年だ。)~7代沙(さ)伴(ばん)王(おう)(AD234~AD234年だ。)~8代古(こ)尓(い)王(おう)(AD234~AD286年だ。)~9代責(ちぇ)稽(っけ)王(おう)(AD286~298年だ。)~10代汾(ぶん)西(そ)王(おう)(AD298~304年だ。)~11代比(ひ)流(りゅ)王(おう)(AD304~344年だ。)~12代契(け)王(おう)(AD344~346年だ。)~13代近(くん)肖(ちょ)古(ご)王(おう)(速(そく)古(こ)大(だい)王(おう)・AD346~375年・倭(やまと)武(たける)尊(のみこと)だ。)~14代近(きん)仇(ぐ)首(す)王(おう)(貴(き)須(す)王(おう)・AD375~384年・御(み)諸(もろ)別(わけ)命(のみこと)・14代仲(ちゅう)哀(あい)天(てん)皇(のう)だ。)~15代枕(ちむ)流(にゅ)王(おう)(AD384~385年・賀(か)我(が)別(わけ)命(のみこと)・16代応(おう)神(じん)天(てん)皇(のう)だ。)~16代辰(ちん)斯(さ)王(おう)(AD385~392年・荒(あら)田(た)別(わけ)命(のみこと)・17代仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)だ。)~17代阿(あ)莘(しん)王(おう)(AD392~405年・初代田(た)道(みち)君(のきみ)・18・19代履(り)中(ちゅう)・反(はん)正(ぜい)天(てん)皇(のう)だ。)~18代腆(ちょん)支(じ)王(おう)(AD405~420年・初代の田(た)道(みち)君(のきみ)・太阿(うず)良(らの)王(きみ)・(・)太郎子(おおいらつこ)・18・19代履(り)中(ちゅう)・反(はん)正(ぜい)天(てん)皇(のう)だ。)~19代久(く)尓(い)辛(しん)王(おう)(AD420~427年・竹(たけ)葉(は)瀬(せ)君(のきみ)・百済(くだら)の辰(ちん)孫(そん)王(おう)・20代允(いん)恭(ぎょう)天(てん)皇(のう)だ。)~20代蚍(び)有(ゆ)王(おう)(AD427~455年・真(ま)若(わか)君(のきみ)・22代雄(ゆう)略(りゃく)天(てん)皇(のう)だ。)~21代蓋(け)鹵(ろ)王(おう)(AD455~475年・奈(な)良(ら)別(わけ)命(のみこと)・23代清(せい)寧(ねい)天(てん)皇(のう)だ。)~22代文(むん)周(じゅ)王(おう)(AD475~477年・紀(きの)韓(から)子(この)宿(すく)禰(ね)・24代顕(けん)宗(そう)天(てん)皇(のう)だ。)~23代三(さむ)斤(ぐん)王(おう)(AD477~479年・紀(きの)大(お)磐(いわの)宿(すく)禰(ね)・25代仁(にん)賢(けん)天(てん)皇(のう)だ。)~24代東(とん)城(そん)王(おう)(AD479~501年・26代武(ぶ)烈(れつ)天(てん)皇(のう)だ。)~25代武(む)寧(りょん)王(おう)(AD501~523年・大(おお)伴(ともの)金(かな)村(むらの)大(おお)連(むらじ)・27代継(けい)体(たい)天(てん)皇(のう)だ。)~26代聖(そん)王(おう)(AD523~554年・物(もの)部(のべの)尾(お)輿(こしの)大(おお)連(むらじ)・30代欽(きん)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。)~27代威(うぃ)徳(どく)王(おう)(AD554~598年・31代敏(び)達(たつ)天(てん)皇(のう)だ。)~28代恵(へ)王(おう)(AD598~599年・蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)・33代崇(す)峻(しゅん)天(てん)皇(のう)だ。)~29代法(ぽぶ)王(おう)(AD599~600年・物(もの)部(のべの)守(もり)屋(やの)大(おお)連(むらじ)・阿(あ)佐(じゃ)太(たい)子(し)・32代用(よう)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。)~30代武(む)王(おう)(AD600~641年・聖(しょう)徳(とく)太(たい)子(し)・蘇(そ)我(がの)入(いる)鹿(かの)大(おお)臣(おみ)・35代舒(じょ)明(めい)天(てん)皇(のう)だ。)~31代義(うぃ)慈(じや)王(おう)(AD641~660年・蘇(そ)我(がの)馬(うま)子(この)大(おお)臣(おみ)・33・37代崇(す)峻(しゅん)・孝(こう)徳(とく)天(てん)皇(のう)だ。)と系譜は続く、ということなのだ。
さてそれでは、7代沙(さ)伴(ばん)王(おう)(AD234~234年だ。)の兄弟なのだが、11代比(ひ)流(りゅ)王(おう)(AD304~344年だ。)がいたというのだ。しかしながら、7代沙(さ)伴(ばん)王(おう)の譲(じょう)位(い)は、AD234年なのだ。また、11代比(ひ)流(りゅ)王(おう)は、304年の即位であるから70年の隔たりがあるのだ。つまり11代比(ひ)流(りゅ)王(おう)は、実際としては、7代沙(さ)伴(ばん)王(おう)の兄弟ではないのだ。そしてまた、8代古(こ)尓(い)王(おう)(AD234~286年だ。)とは、4代蓋(け)婁(る)王(おう)(AD128~166年だ。)の子とも伝えるのだ。また、5代肖(ちょ)古(ご)王(おう)(AD166~214年だ。)の兄弟ともしているのだが、この8代古(こ)尓(い)王(おう)の即位としては、AD234年なのだ。そこで、166年に譲(じょう)位(い)した、という4代蓋(け)婁(る)王(おう)の子では、これも68年の隔たりがあるのだ。つまりこの8代古(こ)尓(い)王(おう)は、実際は、4代蓋(け)婁(る)王(おう)の子ではあり得ないのだ。つまりこの系譜には矛盾がある、ということなのだ。
さてそれでは、真実を推測すれば、11代比(ひ)流(りゅ)王(おう)(AD304~344年だ。)とは、7代沙(さ)伴(ばん)王(おう)(AD234~234年だ。)の兄弟ではなく、実際としては、12代契(け)王(おう)(AD344~346年だ。)の兄弟とも見られるのだ。そしてまた、8代古(こ)尓(い)王(おう)(AD234~286年だ。)なのだが、実際としては、7代沙(さ)伴(ばん)王(おう)(AD234~234年だ。)の弟とも見られる、ということなのだ。そしてまた、12代契(け)王(おう)(AD344~346年だ。)とは、13代近(くん)肖(ちょ)古(ご)王(おう)(速(そく)古(こ)大(だい)王(おう)・AD346~375年・倭(やまと)武(たける)尊(のみこと)だ。)によって、大(おお)百(くだ)済(ら)国(こく)が建国されたために、高句(こうく)麗(り)国(こく)に亡命したもの、とも推測されるのだ。つまり7代沙(さ)伴(ばん)王(おう)(AD234~234年だ。)~8代古(こ)尓(い)王(おう)(AD234~286年だ。)~9代責(ちぇ)稽(っけ)王(おう)(AD286~298年だ。~10代汾(ぶん)西(そ)王(おう)(AD298~304年だ。)~11代比(ひ)流(りゅ)王(おう)(AD304~344年だ。)~12代契(け)王(おう)(AD344~346年だ。)と続く、代々の百済(くだら)国王(こくおう)の在位年数としては、そのままでよいのではないか、ということなのだ。しかしながら、12代契(け)王(おう)の在位した時代には、すでに、高句(こうく)麗(り)国(こく)に亡命していた、とも推測される、ということなのだ。そしてまた、13代近(くん)肖(ちょ)古(ご)王(おう)(実際は、速(そく)古(こ)大(だい)王(おう)・AD346~375年・倭(やまと)武(たける)尊(のみこと)だ。)の以後の百済(くだら)王家(おうけ)(実際は、本(ほん)大(おお)伽耶(かや)国(こく)・慰(い)礼(れ)城(じょう)・熊(うん)津(じん)城(じょう)地域だ。)や、また、金(きん)官(かん)伽(か)耶(や)王(おう)家(け)(金(きん)官(かん)伽(か)耶(や)国(こく)・任那(みまな)地域だ。)については、大(おお)伽(か)耶(や)国(こく)(百済(くだら)の月(げつ)支(し)国(こく)・馬(ま)韓(はん)の木(もっ)浦(ぽ)地域だ。)の百(く)済(だら)王(おう)(辰(ちん)王(おう)だ。)の代理者であった、ということなのだ。
さてそれでは、話を戻して、『太白(たいはく)逸史(いつし)』(「異端(いたん)日本(にほん)古代(こだい)史書(ししょ)の謎」の著者田中勝也氏)を見れば、王倹(おうけん)(実際は、壇(だん)君(くん)王(おう)倹(けん)・3代孝(こう)武(ぶ)皇帝(こうてい)・有帳(ゆうちょう)だ。)とは、三韓(さんかん)の地のうちで馬(ば)韓(かん)は、族長(熊(ゆう)族(ぞく)の族長)の熊(くま)伯(はか)多(た)(実際は・筑紫(ちくし)王(おう)・筑(ちく)区宗孫(くそうそん)王(おう)だ。)へ、また、蕃(ばん)韓(かん)(弁(べん)韓(かん))は蚩頭男(しずお)(実際は、炎(えん)帝(てい)の出た神(しん)農(のう)氏(し)の末(まつ)胤(いん)だ。自分自身だ。)へ、また辰(しん)韓(かん)は自らが治めた、というのだ。しかしながら、この神農(しんのう)氏(し)とは、我が国へ渡来した炎(えん)帝(てい)の5男・7男の子孫というから、蚩頭男(しずお)とは、その子孫なのだ。つまり彼ら自身なのだ。また、『太白(たいはく)逸史(いつし)』によれば、馬(ば)韓(かん)を治めた熊(くま)伯(はか)多(た)(実際は、居(い)仏(ぶつ)理(り)・黎(れいの)元興(げんこう)・然(ぜん)能(の)解(かいの)公(きみ)・百済(くだら)国主(こくしゅ)の意里(いり)都(つ)解(かい)・初代解慕漱(へもす)・竺(ち)区(く)宋孫(そうそん)王(おう)・竺(じく)達(たつ)王(おう)・竹(ちく)支(し)王(おう)・筑紫(ちくし)王(おう)だ。)の子としては、盧(ろ)徳利(とこり)(実際は、法(ほう)成(せい)王(おう)・2代高(こう)豆(ず)莫(ば)汗(かん)倡(と)儀(ぎ)・2代解慕漱(へもす)だ。)というのだ。また、その子としては、弗(ぶつ)如来(にょらい)(実際は、3代高辰(こうしん)・熊(くま)伯(はか)多(た)の孫・3代解慕漱(へもす)だ。)がいたというのだ。また、『伊都(いと)国(こく)(糸(いと)島(しま)半島と関わる。)とは、筑(ちく)紫(し)(実際は、本拠地は、佐賀県の吉野(よしの)ケ里(がり)遺跡(いせき)の猿田族(さるたぞく)が支配した地域だ。)にあって、日(ひゆう)向(が)国(こく)(実際は薩(さつ)摩(ま)隼(はや)人(と)の国(くに)・日(ひゆう)向(が)族(ぞく)の支配した地域だ。)に服属す。』というのだ。そしてまた、『狗(く)邪(や)韓国(からくに)(朝鮮(ちょうせん)半島(はんとう)南部(なんぶ)の狗(く)奴(な)韓(から)国(くに)だ。)が、最も大きく、もと、本国人が治めていた。』とも伝えるのだ。
さてそれでは、『太白(たいはく)逸史(いつし)』で見れば、『壇(だん)君(くん)王(おお)倹(けん)(実際は倍(ばい)達(たつ)桓(かん)雄(ゆう)・有(ゆう)帳(ちょう)・熊族(ゆうぞく)の長(ちょう)・3代孝(こう)武(ぶ)皇(こう)帝(てい)だ。)が、黎(れいの)元興(げんこう)(元(げん)興(こう)寺(じ)と関わるのだ。また、実際は竺(ち)区(く)宋孫(そうそん)王(おう)・竺(じく)達(たつ)王(おう)・竹(ちく)支(し)王(おう)・筑紫(ちくし)王(おう)だ。)というものに命じて、馬(ば)韓(はん)(朝鮮の南部地域だ。)の地を治めさせた、というのだ。しかしながら、この『「元興(げんこう)が都としたのは、大(だい)同(どう)江(こう)の畔(ほとり)で、今の平壌(ぴょんやん)近傍(きんぼう)のかつての楽浪(らくろう)郡(ぐん)の地であった。』(つまりこれは一時期は、北(きた)扶(ふ)餘(よ)国(こく)を建国したのだが、しかしながら、その後は、百済(くだら)の馬(ば)韓(はん)(朝鮮の南部地域だ。)方面に逃げた、ということなのだ。また、最後としては、糸(いと)島(しま)半島や、北九州の筑紫(つくし)平野(へいや)の伊都(いと)国(こく)を本拠地とした、ということなのである。)というのだ。そしてまた、「その後、弓忽(きゅうこつ)(高(こう)句(く)麗(り)の2代瑠(ゆ)璃(り)明(みょん)王(おう)だ。)という王が立って、陝(せん)野(の)侯(こう)(朱(ちゅ)蒙(もん)の3人の盟(めい)友(ゆう)の1人、陝(ひょっ)父(ぽ)だ。)という諸侯(しょこう)に命じ、船(ふね)500隻(せき)を以って、海(かい)島(とう)の倭人(わじん)を平定(へいてい)させた。」とも伝えているのだ。
さてそれでは、この黎(れいの)元(げん)興(こう)の実像としては、有帳(ゆうちょう)(実際は壇(だん)君(くん)桓(かん)雄(ゆう)・壇君王倹(だんくんおうけん)・赫胥(せきてい)・熊族(ゆうぞく)の長(ちょう)・3代孝(こう)武(ぶ)皇(こう)帝(てい)だ。)の子という居(い)仏(ぶつ)理(り)(実際は然(ぜん)能(の)解(かい)・百済(くだら)国主(こくしゅ)の意里(いり)都(つ)解(かい)・初代の解慕漱(へもす)・宋孫(そうそん)王(おう)・竺(じく)達(たつ)王(おう)・竹(ちく)支(し)王(おう)・筑紫(ちくし)王(おう)・熊(くま)伯(はか)多(た)だ。)であれば、壇(だん)君(くん)王(おう)倹(けん)が治めた三韓(さんかん)の地(馬(ば)韓(かん)・蕃(ばん)韓(かん)(弁(べん)韓(かん))・辰(しん)韓(かん)だ。)のうちで、族長の熊(くま)伯(はか)多(た)に譲ったという馬(ば)韓(かん)は、黎(れいの)元興(げんこう)(宋孫(そうそん)王(おう)・竺(じく)達(たつ)王(おう)・竹(ちく)支(し)王(おう)・筑紫(ちくし)王(おう)だ。)というものに命じ、馬(ば)韓(かん)の地を治めさせた、というから、熊(くま)伯(はか)多(た)こそが、黎(れいの)元興(げんこう)や、宋(そう)孫(そん)王(おう)・竺(じく)達(たつ)王(おう)・竹(ちく)支(し)王(おう)・筑紫(ちくし)王(おう)の実像である、ということなのだ。そしてまた、その子としては、法(ほう)成(せい)王(おう)(実際は高(こう)豆(ず)莫(ば)汗(かん)倡(と)儀(ぎ)・熊(くま)伯(はか)多(た)の子、盧(ろ)徳利(とこり)だ。ふたたび、北(きた)扶(ふ)餘(よ)国(こく)を建国した人物だ。)がいた、ということなのである。そしてまた、その後(何代か後を意味する。)の、弓(きゅう)忽(こつ)という王の実像としては、高(こう)句(く)麗(り)の2代瑠(ゆ)璃(り)明(みょん)王(おう)である、ということなのだ。
さてそれでは、朝(ちょう)鮮(せん)の歴史書『桓(かん)檀(だん)古記(こき)』の中の、『太白(たいはく)逸史(いつし)』によれば、『高句(こうく)麗(り)の始祖の朱(ちゅ)蒙(もん)が、東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)から逃亡したとき、3人の盟(めい)友(ゆう)がこれに従った。』というが、また、『その1人に陝(ひょ)父(っぽ)がいた。後に陝(ひょ)父(っぽ)は、高句(こうく)麗(り)を出奔(しゅつほん)して南韓(なんかん)に至り、更に狗(く)邪(や)韓国(からくに)に移った。次いで日本の九州の阿蘇山(あそさん)に移住して多婆(たば)羅(ら)国(こく)を建て、その始祖となった。多婆(たば)羅(ら)は別の名を多羅(たら)と言った。多婆(たば)羅(ら)(これは韓(かん)半島の分(ぶん)国(こく)だ。)は、後に、任那(みまな)・連(れん)政(せい)(任那(みまな)は、10国に分かれ、その統一国名を連(れん)政(せい)といった。)と合併して、多婆(たば)羅(ら)が、これを支配した。この連合(れんごう)国家(こっか)は、海に臨むものが3国、内陸部のものが7国だった。はじめ弁(べん)辰(しん)狗(く)邪(や)国(こく)人(じん)(狗(く)邪(や)韓(から)国(くに)人(じん)だ。)が先住しており、これが狗(く)邪(や)韓国(からくに)(これは、韓(かん)半島の分(ぶん)国(こく)だ。)である。さて多婆(たば)羅(ら)国(こく)は、早くから高(こう)句(く)麗(り)と和親していたが、次第に高句(こうく)麗(り)に服属する形となった。多婆(たば)羅(ら)国(こく)(北九州の熊本県の分(ぶん)国(こく)だ。)は、安(あ)羅(ら)国(こく)(実際は、韓(かん)半島にも分(ぶん)国(こく)がある。)と隣り合っていたが、はじめ熊襲(くまそ)城(じょう)を保っていた。これは、今、九州の熊本(くまもと)城(じょう)である。』とも伝えているから、この『太白(たいはく)逸史(いつし)』にいう『船(ふね)五百(ごひゃく)隻(せき)を以って海(かい)島(とう)の倭人(わじん)を平定(へいてい)させた。』という諸侯(しょこう)の陝(せん)野(の)侯(こう)の実像としては、朱(ちゅ)蒙(もん)が東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)から逃亡した時の3人の盟友(めいゆう)の1人の陝(ひょ)父(っぽ)こそが、陝(せん)野(の)侯(こう)なのだ。また、弓(きゅう)忽(こつ)こそが、高句(こうく)麗(り)の朱(ちゅ)蒙(もん)王(おう)の実子である2代瑠(ゆ)璃(り)明(みょん)王(おう)なのだ。なぜならば、AD9年に黄龍(こうりゅう)国(こく)から贈られた弓を折った太子の解(へ)明(みょん)を自決させた、というからだ。また、陝(せん)野(の)侯(こう)である陝(ひょ)父(っぽ)が、築いた九州阿蘇山(あそさん)の多婆(たば)羅(ら)国(こく)(多(た)々(た)良(ら)国(こく)だ。)とは、現在の熊本(くまもと)城(じょう)の地域なのだ。また、熊襲(くまそ)とは、天孫族(てんそんぞく)(実際は猿(さる)田(た)族(ぞく)・宗(むな)像(かた)海(かい)人(じん)族(ぞく)・海(あま)部(べ)族(ぞく)・物(もの)部(のべ)族(ぞく)・宗(そう)族(ぞく)。)なのだ。つまりBC200年以前から、我が国へ秦人(しんじん)(真人(しんじん)・流浪(るろう)の民(たみ)・秦(はた)氏(し)だ。)たちが、多数でやって来たのだが事実なのだ。また、秦(しん)の始(し)皇帝(こうてい)の即位8年に、扶(ふ)餘(よ)族(ぞく)の末裔(まつえい)という初代解(へ)慕(も)漱(す)とは、北(きた)扶(ふ)餘(よ)を建国した、というからしても、この初代の解慕漱(へもす)の実像としては、桓(かん)仁(にん)(桓因(かんゆう)・桓(かん)雄(ゆう)だ。)である秦(しん)の始(し)皇帝(こうてい)の長子の扶(ふ)蘇(そ)の実子の倍(ばい)達(たつ)桓(かん)雄(ゆう)(実際は、3代孝(こう)武(ぶ)皇(こう)帝(てい)・孝(こう)武(ぶ)王(おう)・子(し)嬰(えい)・武(ぶ)王(おう)だ。)の子である宋(そう)孫(そん)王(おう)(実際は竺(じく)達(たつ)王(おう)・竹(ちく)支(し)王(おう)・筑(ちく)紫(し)王(おう)・熊(くま)伯(はか)多(た)・黎(れいの)元興(げんこう)だ。)である、ということなのだ。また、天(てん)孫(そん)族(ぞく)の名称としては、宋孫(そうそん)王(おう)の名称にも由(ゆ)来(らい)する、ということなのだ。
さてそれでは、この人物は、『燕(えん)人(じん)の衛(えい)満(まん)(実際は、秦(しん)の始(し)皇帝(こうてい)の長子の扶(ふ)蘇(そ)だ。)の孫の右(う)渠(ご)王(おう)(実際は初代の解(へ)慕(も)漱(す)・然(ぜん)能(の)解(かい)公(こう)・竺(ち)区(く)宋孫(そうそん)王(おう)・子(し)嬰(えい)の子・2代解(かい)于(い)婁(ろう)・「北扶餘(きたふよ)国(こく)」を建てた人物・居(い)仏(ぶつ)理(り)・竺(じく)達(たつ)王(おう)・百済(くだら)国主(こくしゅ)の意里(いり)都(つ)解(かい)だ。)なのだ。そしてまた、始めは、北(きた)扶餘(ふよ)国(こく)の始祖(大(だい)同(どう)江(こう)の畔(ほとり)で今の平(ぴょん)壌(やん)近(きん)傍(ぼう)のかつての楽浪(らくろう)郡(ぐん)の地だ。)で建国して破れ、南鮮(なんせん)の馬(ば)韓(かん)(百済(くだら)方面だ。)へ逃れた人物(馬(ば)韓(かん)は黎(れいの)元興(げんこう)というものに命じ、馬(ば)韓(かん)の地を治めさせた・狗(く)邪(や)韓国(からくに)・朝鮮(ちょうせん)半島(はんとう)南部(なんぶ)の狗(く)奴(な)韓(から)国(くに)が最も大きくもと本国人が治めていた。)ということなのだ。また、陝(せん)野(の)侯(こう)の実像である陝(ひょ)父(っぽ)こそが、九州の阿蘇山(あそさん)の多婆(たば)羅(ら)国(こく)を築く以前、すでにその先祖である宋(そう)孫(そん)王(おう)(実際は竺(じく)達(たつ)王(おう)・竹(ちく)支(し)王(おう)・筑(ちく)紫(し)王(おう)・熊(くま)伯(はか)多(た)・黎(れいの)元興(げんこう)だ。)の一族こそが、狗(く)邪(や)韓国(からくに)(朝鮮(ちょうせん)半島(はんとう)南部(なんぶ)の狗(く)奴(な)韓(かん)国(こく)だ。)や、我が国の北九州地方の筑(つく)紫(し)平(へい)野(や)の糸(い)都(と)国(こく)を建国していて、この地域を支配していた、ということなのだ。そしてまた、猿(さる)田(た)族(ぞく)である物(もの)部(のべ)氏(し)や、秦(はた)氏(し)である物(もの)部(のべ)氏(し)(海(あま)部(べ)氏(し)・宗(むな)像(かた)海(かい)人(じん)族(ぞく)・宗(そう)族(ぞく)・勝部(まさるべ)だ。)の一族である、ということなのだ。
さてそれでは、中国の秦(しん)国(こく)(チベット族・突(とっ)厥(けつ)族(ぞく)系(けい)だ。)の建国なのだが、BC778年なのだ。また、BC722年には、アッシリア帝国によって亡ぼされた北イスラエルのサマリヤの人々が40万人の『失われた流浪(るろう)の民(たみ)』ともなった時代から見れば、50年ほど以前なのだ。それでは、いつの時代からイスラエル系の人々が秦(しん)国(こく)(チベット族・突(とっ)厥(けつ)族(ぞく)系(けい)だ。)に入ってきたのだろうか?(この50年の差は隠蔽工作なのか?)そこで『始(し)皇(こう)帝(てい)伝説』によれば、『秦(しん)帝(てい)国(こく)の始(し)皇(こう)帝(てい)の実父としては、呂(りょ)不(ふ)韋(い)という説がある。』というのだ。つまりこの呂(りょ)不(ふ)韋(い)という人物だが、衛(えい)国(こく)の大商人とも伝えるから、イスラエル系の大商団の部族長なのだ。また、秦(しん)の公(こう)族(ぞく)で秦(しん)帝(てい)国(こく)の始皇帝(しこうてい)の政(せい)の父という荘(そう)襄(しょう)王(おう)を王位につけることに尽力した人物というのだ。また、この呂(りょ)不(ふ)韋(い)とは、3000人の食客(しょくかく)を集め、召使(めしつかい)は10000人を超えていたというのだ。また『呂(ろ)氏(し)春秋(しんしゅう)』という百科事典のような書物を作った人物ともいうのだ。これは「一(いち)字(じ)千(せん)金(きん)」の意味という、『一字でも減ずか増やすか出来る者には千金を与える』という意味の由(ゆ)来(らい)とされる。そこで優れた知識人の呂(りょ)不(ふ)韋(い)としては、当時、世界各国を旅する『流浪(るろう)の民(たみ)』ともなった北イスラエル系の大商団の部族長ではないか?また、40万の北イスラエルの『失われた流浪(るろう)の民(たみ)』の末裔である、ということなのだ。そしてまた、この百年前のBC359年には、衛(えい)国(こく)の出身という商鞅(しょうおう)(ユダヤ系の人物だ。)という人物が、秦(しん)国(こく)の宰相(さいしょう)として『法(ほう)安(あん)思(し)想(そう)」を基に、国政を行った』というのだ。つまりこの衛(えい)国(こく)の商(しょう)鞅(おう)という人物も、やっぱり北イスラエル系の大商人なのだ。さてそこで、当時、すでに、大商団を組織して、百科事典になるほどのあらゆる知識を持って世界各地へ散らばっていったのが各地を回る北イスラエル系の大商団の部族長とも推測されるのだ。なぜならば、『日本・ユダヤ封印(ふういん)の古代史』(著者ラビ・マーヴィン・トケイヤーおよび久保有政さん『訳』の著書)によれば、『イスラエル民族は、紀元前1000年頃に、ソロモン王の元に反映と絶頂期を迎えるが、ソロモン王の死後は、イスラエルの統一王国としては、北王国イスラエルや南王国ユダの2國にに分裂してしまい、北王国はサマリヤと呼ばれていたという。また、南王国はユダヤと呼ばれていた。』というからだ、つまりソロモン王の死後(約3000年前の頃だ。)、すでに、この海洋系騎馬民族のイスラエルの大商団は、世界各地へ散らばっていったのだ。そしてまた、紀元前722年に、アッシリヤ帝国によって征服(せいふく)されたという北王国イスラエルの『失われた40万の流(る)浪(ろう)の十(じゅう)部(ぶ)族(ぞく)』としては、その一部の人々である、ということなのだ。
さてそれでは、卒(ちょる)本(ぼん)扶(ふ)余(よ)のヨンダアル(部族長だ。)についても、やっぱり同族ではないか。また、中国の衛(えい)国(こく)の始祖とは、周(しゅう)王朝の始祖の武(む)王(おう)の弟なのだ。また、殷(いん)王朝の臣下ともなっていた周(しゅう)王朝の始祖の武(ぶ)王(おう)の父としては、文(ぶん)王(おう)の9男の康叔(こうしゅく)なのだ。そこで、朝鮮(ちょうせん)の『三(さん)聖記(せいき)』によれば、創作された王朝ともいう『箕子(きし)朝鮮(ちょうせん)王朝』の始祖の箕子(きし)とは、殷(いん)王朝の28代文丁(ぶんちょう)王(おう)の子というのだ。また、殷(いん)王朝の滅亡後、周(しゅう)王朝の始祖の武(ぶ)王(おう)が、この『箕子(きし)を朝鮮に封じた。』とも伝えているのだ。そしてまた、この衛(えい)国(こく)(楚(そ)国(こく)系(けい)の人々だ。)としては、BC209年に、やっぱり秦(しん)帝(てい)国(こく)によって滅びているから、この創作された箕子(きし)朝鮮(ちょうせん)王朝については、この間の経緯を創作したものなのだ。
さてそれでは、燕(えん)人(じん)という衛(えい)満(まん)(実際は、扶蘇(ふそ)だ。)が、BC194年に、『衛(えい)氏(し)朝(ちょう)鮮(せん)を興した。』というが、春(しゅん)秋(じゅう)戦(せん)国(ごく)時(じ)代(だい)の強国である燕(えん)国(こく)とは、衛(えい)国(こく)とも深い関わりがあるという。つまり彼らの先祖の殷人(いんじん)とは、衛(えい)国(こく)の人々なのだ。また、殷(いん)王朝は、商(しょう)国(こく)とも言われ、『商(あきな)い』を中心とする部族なのだ。つまり春(しゅん)秋(じゅう)戦(せん)国(ごく)時(じ)代(だい)の燕(えん)国(こく)や、衛(えい)国(こく)は、秦(しん)帝(てい)国(こく)によって滅びたのだが、『流浪(るろう)の民(たみ)』である『北イスラエル系の大商団』こそが、当時、燕(えん)国(こく)や、衛(えい)国(こく)に多数入り込んでいたとも推測されるのだ。そしてまた、秦(しん)の始(し)皇帝(こうてい)の政(せい)の実母である大后(たいごう)の舞姫(まいひめ)や、呂(りょ)不(ふ)韋(い)不たちが、北イスラエル系の衛(えい)国人(こくじん)なのだ。そしてまた、秦(しん)帝(てい)国(こく)の始(し)皇(こう)帝(てい)の政(せい)の長子(庶子だ。)という扶蘇(ふそ)の実母なのだが、燕(えん)国(こく)の王女(おうじょ)なのだ。つまり秦(しん)帝(てい)国(こく)の建(けん)国(こく)には、北イスラエル系の『流浪(るろう)の大商人』たちが協力した、ということなのだ。
さてそれでは、『太白(たいはく)逸史(いつし)』でいう『船(ふね)五百(ごひゃく)隻(せき)を以って海(かい)島(とう)の倭人(わじん)を平定(へいてい)させた。』という諸侯(しょこう)の陝(せん)野(の)侯(こう)の実像としては、高句(こうく)麗(り)国(こく)の始祖の朱蒙(ちゅもん)王(おう)が東(ひがし)扶(ふ)餘(よ)から逃亡したときの3人の盟友(めいゆう)の1人、陝(ひょ)父(っぽ)なのである。そしてまた、その子孫たちが我が国の天(てん)孫(そん)族(ぞく)(物(もの)部(のべ)氏(し)・秦(はた)氏(し)・宗(むな)像(かた)海(かい)人(じん)族(ぞく)・海(あま)部(べ)氏(し)・猿(さる)田(た)族(ぞく)だ。)なのだ。しかしながら、これより少し以前、秦(しん)の徐(じょ)福(ふく)(この人物こそが、出(いず)雲(も)王(おう)朝(ちょう)を建国したのだ。)が、我が国へ渡来していたのだ。もちろん、千数百年も以前に渡来していた、という神農(しんのう)氏(し)(楚(そ)国(こく)系(けい)の苗(みゃお)族(ぞく)の子孫だ。)の文字を見ていたとすれば、感極まるのは明らかなのだ。そこで、『富(ふ)士(じ)宮(みや)下(した)文(もん)書(じょ)』によれば、我が国の建(けん)国(こく)のときの記述としては、『秦(しん)の徐(じょ)福(ふく)』と、『神農(しんのう)氏(し)』との繋がりを記している、ということなのだ。
さてそれでは、『伊(い)未自(みじ)由来記(ゆらいき)』という隠岐(おき)の島(しま)を語る古文書(こもんじょ)(「スサノオの来た道」朴 炳植著。)を見てみれば、『於母の島は度重なる(オロチ族の)襲撃に堪え難く流宮(りゅうぐう)(竜宮)加須屋(かすや)(福岡県加(か)須(す)屋(や)郡(ぐん))の援助を受ける策を樹て、使者を流宮(りゅうぐう)(竜宮)へ遣わした(途中略。)各部落に山祇(やまぎ)神(かみ)が祠られた。又流(りゅう)宮(ぐう)の大海祇(おおわたつみの)神(かみ)(実際は、大(おお)綿(わた)津(つ)見(みの)神(かみ)・大(わた)海(つみの)大(おお)神(かみ)・宗(むな)像(かた)海(かい)人(じん)族(ぞく)・海(あま)部(べ)族(ぞく)・物(もの)部(のべ)族(ぞく)・猿(さる)田(た)族(ぞく)・天(てん)孫(そん)族(ぞく)・宗(そう)族(ぞく)だ。)も阿(あ)麻人(まびと)たちにより各地に祠られた。沖津久斯山祇(おきつくしやまぎ)神(かみ)(実際は、出(いず)雲(も)神(しん)族(ぞく)だ。)、其妻神(かみ)比(ひ)奈(な)眞(ま)乳(ち)姫(ひめ)、其子比奈(ひな)眞(ま)岐(き)神(かみ)を三つ子の島比奈(ひな)の地(ち)に祠る。(途中略。)流(りゅう)宮(ぐう)加(か)須(す)屋(やの)大(わた)海(つみ)祇(の)神(かみ)(実際は、3代奄賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)・アメノヨロズ尊だ。)は、小斯凝(こしこ)呂(ろ)島(しま)の宇(う)都(つ)斯(し)山(やま)祇(ぎ)神(かみ)の願いによりて軍兵を遣わす準備を整え、御子、奄賀(なが)の大(おお)人(うし)様(さま)(実際は、4代奄賀(なが)の大(おお)人(うし)様(さま)・アワナギ尊だ。)に、多数の兵船に多くの軍兵を乗せ武器、衣料、農工具、種子、薬品類迄持たせて、流宮城を出発せしめ給えた。於母の島のオロチ(族)を討伐されたが、相次いで渡来するので油断が出来ない上にオロチは強力で、ついに大人(おおうし)様(さま)の子孫が5代(奄賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)は、実際は、10代いたのだ。)に亘る間対峙しつつ、討伐を重ねて松(まつ)野(の)に駐屯を続け(九州の福岡市八(や)幡(はた)区(く)の加須屋(かすや)が本拠地なのだ。)、ついに百年余も年月が流れて行った。(途中略。)
6代目の大人(おおうし)様(さま)(実際は、スサノオ尊だ。)は、出雲(いずも)の国(くに)に於けるオロチの勢力が衰えて来たに随い、三つ子の島のオロチの勢力も衰えて来たことを知り、出雲(いずもの)国(くに)へ渡り大(おお)山(やま)祇(ぎの)神(かみ)(テナヅチ・アシナヅチだ。)の姫君(クシナダ姫だ。)を娶り、神(出雲(いずも)神族(しんぞく)だ。)の援兵を得て於母の島のオロチを完全に討伐し、(途中略。)諾(だく)浦(うら)命(のみこと)(実際は、スサノオ尊だ。)の子孫は、全島海部(あまべの)大神(おおかみ)として栄えた(途中略。)大人(おおうし)様(さま)6代に亘り、住み給へる名称で此地たる松野(まつの)(北潟)に遺る多数の横穴(よこあな)は、此当時のものと伝えた居る。(途中略。)美豆別之(みずわけ)主命(ぬしのみこと)(実際は、8代奈賀(なが)の大人(おうし)様(さま)・大(おお)国(くに)主(ぬし)命(のみこと)だ。)、又の名小斯凝(こしこ)呂(ろ)別命(わけのみこと)、忍(おし)許(こ)呂(ろ)別(わけの)命(みこと)、水(みず)別(わけ)酢(す)命(のみこと)、瑞(みず)別(わけ)主命(ぬしのみこと)、玉(たま)酢(す)命(のみこと)等云う。此天津(あまつ)神(かみ)(実際は、スサノオ尊だ。)の御子にて多数の久(く)米(め)部(べ)、織部(あやべ)、工部(たくみべ)、玉(たま)造(つくりべ)等の民(たみ)を率いて、来島小斯凝(おしこ)呂(ろ)島(じま)を諾(だく)浦(うら)命(のみこと)(スサノオ尊だ。)より譲り受け、其姫(そのひめ)(実際は、天(あま)照(てる)瑞(みず)姫(ひめ)・宗(むな)像(かた)3女(じょ)神(しん)だ。)を娶りて宮(みや)居(い)を諾(だく)の浦(うら)の鼻に建て城を築き手、目の城と称え浦に注ぐ大川に沿える地を開きて農耕を励み此地を新野(にいの)と云う。此大川は八谷(やたに)の尾川(おおかわ)なれば八(や)尾川(おかわ)と云う。(途中略。)美(み)豆(ず)別(わけ)主命(しゅのみこと)(実際は、8代奈賀(なが)の大人(おうし)様(さま)・大(おお)国(くに)主(ぬし)命(のみこと)だ。)は、年三季に亘り全島を巡察し、各部民の業績、施療、道路船舶の改善を・・・に勤められた。斯して、全島平穏に帰しオロチの侵略もなく高志(こし)・丹波(たんば)・竹野(たけの)・出雲(いずも)との航海も開け、(途中略。)韓(かん)との間に於ける往航最後の対機港復航最初の給食給水の穏息港とし栄えた。(途中略。)其後、出雲(いずも)に大(たい)戦(せん)(畿内(きない)地域だ。)が起こり、アジスキタカヒコネ命(実際は天火(あまのほ)明(あかり)命(のみこと)だ。)の御子(娘むこだ。)である奈賀(なが)の命(みこと)(実際は、富(とみの)長(なが)髄(すね)彦(ひこ)命(のみこと)・天(あまの)香山(かごやま)命(のみこと)だ。)が来航して占めの治神となった。』ともいうのだ。
さてそれでは、出雲(いずもの)国(くに)の鞍山津(くらやまつ)大神(のおおかみ)の子という沖津久斯山祢(おきつくしやまづみの)神(かみ)(実際は、大(おお)山(やま)津(つ)見(みの)大(おお)神(かみ)・大(おお)山(やま)祇(づみの)神(かみ)だ。)なのだが、隠(お)岐(き)の島の神となって後、その子という宇都斯山祢(うつしやまづみの)神(かみ)の時代になってからも、オロチ族(実際は、高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)神(かみ)の一(いち)族(ぞく)だ。)との争いから、全島征服されそうになり、福岡県粕(かす)屋(や)郡(ぐん)の豪族で筑(ちく)紫(し)の猿(さる)田(た)族(ぞく)(実際は、天(てん)孫(そん)族(ぞく)だ。)である大(わた)海(つみの)大(おお)神(かみ)の(実際は、3代奄賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)・アメノヨロズ尊だ。)に助けを求め、その子の4代奈(な)賀の(か)大(おお)人(うし)様(さま)(アワナギ尊だ。)こそが、軍兵を率いて協力されたのだ。しかしながら、オロチは強力で、ついに大人(おおうし)様(さま)の子孫が、5代(奄賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)は、10代いたのだ。)に亘る間対峙しつつ、討伐を重ねて松(まつ)野(の)に駐屯を続け、ついに百年余も年月が流れて行った。ということなのだ。しかしながら、6代目の大人(おおうし)様(さま)(実際は、スサノオ尊だ。)こそが、出雲(いずも)の国(くに)に於けるオロチの勢力が衰えて来たに随い、三つ子の島のオロチの勢力も衰えて来たことを知り、出雲(いずもの)国(くに)へ渡り、大(おお)山(やま)祇(ぎの)神(かみ)(実際は、テナヅチ・アシナヅチだ。)の姫(ひめ)君(ぎみ)のクシナダ姫を娶り、出雲(いずも)神族(しんぞく)の援兵を得て於母の島のオロチを完全に討伐した、ということなのだ。
その後、諾(だく)浦(うら)命(のみこと)の天津(あまつ)神(かみ)(実際は、スサノオ尊だ。)の子という美豆別之(みずわけ)主命(ぬしのみこと)(実際は、8代奈(な)賀(が)の大人(おうし)様(さま)・大(おお)国(くに)主(ぬし)命(のみこと)だ。)こそが、諾(だく)浦(うら)命(のみこと)(実際は、スサノオ尊だ。)の娘(異母妹だ。)である宗(むな)像(かた)の3女(じょ)神(しん)(実際は、天(あま)照(てる)瑞(みず)姫(ひめ)だ。)を娶り、全島平穏に帰しオロチの侵略もなく高志(こし)・丹波(たんば)・竹(たけ)野(の)・出雲(いずも)との航海も開けたが、その後、出雲(いずも)に大戦が起こり、アジスキタカヒコネ命(実際は、天火(あまのほ)明(あかり)命(のみこと)だ。)の子(娘むこだ。)の奈賀(なが)の命(みこと)(実際はナガスネヒコ命・10代奈賀(なが)の大人(おうし)様(さま)・天(あまの)香山(かごやま)命(のみこと)だ。)が来航して占(おさ)めの治(うじ)神(かみ)となった、とも伝えているのだ。
さてそこで、『韓(かん)との間に於ける往航最後の対機港復航最初の給食給水の穏息港とし栄えた。』や、また、『其後、出雲(いずも)に大(たい)戦(せん)(畿内(きない)地域だ。)が起こり、アジスキタカヒコネ命(実際は、天火(あまのほ)明(あかり)命(のみこと)だ。)の御子(娘むこだ。)である奈賀(なが)の命(みこと)(10代奈賀(なが)の大人(おうし)様(さま)・天(あまの)香山(かごやま)命(のみこと)だ。)が来航して占めの治神となった。』と伝えることから、この小さな隠岐(おき)の島(しま)に、当時、わざわざ、天(あまの)香山(かごやま)命(のみこと)が『来ることはない。』と推測されるのだ。つまり韓(かん)半島との間に於ける『往航最後の対機港、復航最初の給食給水の穏息港とし栄えた。』」とも伝えることや、そしてまた、『出雲(いずも)に大戦が起こった。(この場合、畿内5カ国の出雲(いずも)王朝の本拠地で、すでに、近江(おうみ)や、越(こし)の丹波(たんば)・丹後(たんご)のオロチ族・高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)の一族が支配した地域だ。)』というからしても、これは、初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)の東(とう)征(せい)の結果によって、この『出雲(いずも)の大(たい)戦(せん)(畿内(きない)地域だ。)』に敗北したアジスキタカヒコネ命(実際は、天火(あまのほ)明(あかり)命(のみこと)だ。)の娘むこである天(あまの)香山(かごやま)命(のみこと)の奈賀(なが)の命(みこと)(10代奈賀(なが)の大人(おうし)様(さま)だ。)としては、韓(かん)半島の分(ぶん)国(こく)である新(しら)羅(ぎ)の発祥の国の斯(さ)蘆(ろ)国(こく)へ、初代神(じん)武(む)天(てん)皇(のう)に、次の『新(しら)羅(ぎ)王(おう)位』や、『ウガヤ皇位』を譲る約束で、入れ代わって渡韓(とかん)した可能性が高い、ということなのだ。
さてそれでは、出雲(いずもの)国(くに)の鞍山津(くらやまつ)大神(のおおかみ)の子という沖(おき)津(つ)久(く)斯(し)山(やま)祢(ね)神(かみ)とは、大山津(おおやまつ)見(みの)大神(おおかみ)の子というが、この頃は、大山津(おおやまつ)見(みの)大神(おおかみ)(大山祇(おおやまづみの)神(かみ)・鞍(くら)山(やま)津(つ)大(のおお)神(かみ)だ。)たちの歴代の出雲(いずも)王朝(おうちょう)の子孫としては、すでに、オロチ族である竜(りゅう)蛇(じゃ)族(ぞく)(高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)の一族(いちぞく)・鬼(き)族(ぞく)だ。)に支配された時代なのだ。そしてまた、出(いず)雲(も)王朝(弥(やよ)生(い)時(じ)代(だい)の王朝だ。)の鞍(くら)山(やま)津(つ)大(のおお)神(かみ)としては、すでに、歴史から抹殺されているのだ。そしてまた、沖(おき)津(つ)久(く)斯(し)山(やま)祢(ね)神(かみ)の妻(つま)神(かみ)という神(かみ)比(ひ)奈(な)真(ま)乳(ち)姫(ひめ)とは、その名称からしても、オロチ族である竜(りゅう)蛇(じゃ)族(ぞく)(高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)、或いは近江(おうみ)のスクナミ神だ。)の一族(いちぞく)の姫(ひめ)君(ぎみ)とも推測されるのだ。また、その子という宇(う)都(つ)斯(し)山(やま)祇(ぎ)神(かみ)の願いによって、九州の大(わた)海(つみの)大(おお)神(かみ)である海部(あまべの)大神(おおかみ)の3代奈(な)賀(が)の大(おお)人(うし)様(さま)、つまり天孫族(てんそんぞく)に助けを求めたために、最終的には、海部(あまべの)大神(おおかみ)である天孫族(てんそんぞく)の勢力に吸収された、ということなのだ。ところで、この天(てん)孫(そん)族(ぞく)の系譜である『1の系譜』が残っているのだが、そこで、『1の系譜』としては、●次のとおりなのだ。(なお、○印の人物は、後から挿入した部分だ。)
●高皇産(たかみむす)霊神(びのかみ)(実際は、ここへは、海神(わたつみ)系の海部(あまべの)大神(おおかみ)である初代奈賀(なが)(那珂)の大人(おおうし)様(さま)が、入るべきなのだ。また、新(しら)羅(ぎ)の発祥の斯(さ)蘆(ろ)国(こく)の1・2代国王の朴(ぱく)赫(ひょっ)居(こ)世(せ)・南(み)解(め)次(ちゃ)次(ちゃ)雄(うん)・高(こう)句(く)麗(り)の朱(ちゅ)蒙(もん)の盟友の1人の陜(ひょっ)父(ぽ)だ。また、59代目天(あめ)地(つち)明(あかる)玉(たま)主(ぬし)照(てるの)天(すめら)皇(みこと)なのだ。)
○60代目姫(ひめ)天(すめら)皇(みこと)(天(あま)照(てる)櫛(くし)豊(とよ)姫(ひめの)天(すめら)皇(みこと)・女性天(すめら)皇(みこと)・阿(あ)老(ろ)である3人目の妃(きさき)の成(なる)瀬(せ)クラムチ姫(ひめ)尊(のみこと)なのだ。また、1人目の閼(あ)英(りょん)夫(ふ)人(じん)の妹(?)の阿(あ)老(ろ)なのだ。また、初代の天(あま)照(てらすの)大(おおみ)神(かみ)・3人目の妃(きさき)である。また、別(べつ)妃(ぴ)には、1人目の閼(あ)英(りょん)夫(ふ)人(じん)・福岡の糸(いと)島(しま)半(はん)島(とう)と関わる糸(い)都(と)国(こく)王(おう)の娘だ。や、2人目の妃(きさき)の太(ふと)玉(だま)日(ひゅう)向(が)姫(ひめ)尊(のみこと)である日(ひゅう)向(が)族(ぞく)の族長の娘がいたのだ。つまり陝(ひょっ)父(ぽ)である1・2代新(し)羅(らぎ)王(おう)の南(な)解(め)次(ちゃ)次(ちゃ)雄(うん)(AD4~24年)こそが、3人の妃(きさき)を娶った、ということなのだ。)
○61代目姫(ひめ)天(すめら)皇(みこと)(豊(とよ)足(たり)日(ひ)明(あかり)姫(ひめの)天(すめら)皇(みこと)・女性天(すめら)皇(みこと)・実際は、阿(あ)老(ろ)の娘だ。阿(あ)孝(ひょ)夫人(ふじん)・阿(あ)尼(ま)夫(ふ)人(じん)だ。4代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の脱(た)解(れ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)・昔(そく)脱(た)解(れ)(AD57~80年)・海部(あまべの)大神(おおかみ)・初代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)の妃(きさき)なのだ。)
●アメノカガミ尊(のみこと)(海部(あまべの)大神(おおかみ)・2代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)・5代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の婆(ぱ)娑(さ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD80~112年)・62代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の天(あめの)豊(とよ)足(たる)別(わけ)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)だ。)
●アメノヨロズ尊(のみこと)(海部(あまべの)大神(おおかみ)・3代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)・6代新(しら)羅(ぎ)王(おう)祇(ち)摩(ま)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD112~134年)・63代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の事(こと)代(しろ)国(くに)守(むる)高(たか)彦(ひこ)尊(のみこと)だ。)
●アワナギ尊(のみこと)(海部(あまべの)大神(おおかみ)・4代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)・7代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の逸(いる)聖(そん)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD134~154年)・64代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の豊(とよ)日(ひ)豊(とよ)足(たり)彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)・65代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)のアワナギ尊(のみこと)の分身だ。)
●イザナギ尊(のみこと)(海部(あまべの)大神(おおかみ)・5代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)・8代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の阿(あ)達(だる)羅(ら)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD154~184年)・66代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の豊(とよ)柏(かしわ)木(ぎ)幸(さ)手(て)男(お)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)だ。また、『三(さん)国(ごく)史(し)記(き)』では、倭(わ)国(こく)の女王の初代卑(ひ)弥(み)呼(こ)(平(ひら)原(ばる)姫(ひめ)だ。)が使者を送ったという。)
○67代目姫(ひめ)天(すめら)皇(みこと)の春(はる)建(たけ)日(ひる)姫(ひめの)天皇(すめらみこと)・2代目天(あま)照(てらすの)大神(おおみかみ)・オオヒルメムチ尊・アマサカルムカツヒメ尊・邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の女王の2代目卑(ひ)弥(み)呼(こ)だ。)
●スサノオ尊(のみこと)(海部(あまべの)大神(おおかみ)・6代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)・9代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の伐(ぼ)休(りゅ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD184~196年)・68代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の天津(あまつ)日(ひ)高(たか)日(ひ)子(こ)宗(むな)像(かた)彦(ひこの)天(すめら)皇(みこと)だ。また、新(しら)羅(ぎ)明(みょう)神(じん)(牛(ご)頭(ず)天(てん)王(おう)だ。)で、朝(ちょう)鮮(せん)を治めたというスサノオ尊だ。)
●ウガ御(のみ)魂(たま)尊(のみこと)(海部(あまべの)大神(おおかみ)・7代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)・10代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の奈(ね)解(へ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD196~230年)・69代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の神(かむ)足(たる)別(わけ)豊(とよ)鋤(すきの)天(すめら)皇(みこと)だ。)
●大(おお)国(くに)主(ぬし)尊(のみこと)(海部(あまべの)大神(おおかみ)・8代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)・11代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の助(ちょ)賁(ぶん)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD230~247年)・70代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の神(かむ)心(ころ)伝(ふて)物(もの)部(のべの)建(たけの)尊(みこと)だ。)
●天(あまの)火(ほ)明(あかり)尊(のみこと)(海部(あまべの)大神(おおかみ)・9代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)・12代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の沾(ちょ)解(め)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD247~261年)・71代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の天(あま)照(てる)国(くに)照(てる)日(ひ)子(こ)百(もも)日(ひ)臼(うす)杵(きね)尊(のみこと)天(すめら)皇(みこと)だ。)
●天(あまの)香(かご)山(やま)尊(のみこと)(海部(あまべの)大神(おおかみ)・10代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)・13代新(しら)羅(ぎ)王(おう)の味(み)鄒(ちゅ)尼(い)師(さ)今(ぐむ)(AD262~284年)・72代目彦(ひこ)天(すめら)皇(みこと)の彦五(ひこい)瀬(っせの)尊(みこと)天皇(すめらみこと)だ。)とも系譜は続いているのだ。
さてそれでは、この系譜を検証するならば、6代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)とは、スサノオ尊(のみこと)である。また、その親というイザナギ尊(のみこと)とは、5代奈賀(なが)の大人(おおうし)様(さま)なのだ。また、その親のアワナギ尊(のみこと)とは、4代奈賀(なが)